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― 闇夜の晩餐 ―

 

 ラジオで、今夜には台風が関東地方を通過する、と伝えていた。
 「ま、のんびり休む分には、外が雨ってのも悪くないと思うけど」
 「そうか? 部屋ん中いる分には、外の天気なんて関係ないんじゃない?」
 「晴れてると、なんか焦んない? こんないい天気なのに家でグダグダしてていいのか、とか。雨だと、どうせ出かけられないじゃん、って諦めつくから、なんか落ち着ける」
 「…ああ、それはわかる気する。けど、いくら雨でも、台風は嫌だよなぁ…」
 と、相変わらず窓越しに話をする奏と咲夜の頭上の空は、まだ台風の気配は微塵もない。8月のギラギラした太陽を、灰色の薄い雲が遮ってくれている程度だ。それでも、何か異変を感じているのか、いつもなら朝から騒々しいアブラゼミの声が、今朝はほとんど聞こえなかった。
 「でも、よかった。拓海、昨日からアメリカなんだ。今夜のフライトだったら、やばかったかも」
 コーヒーの入ったマグカップを口に運びながらそう言う咲夜に、
 「ふーん、またアメリカか。忙しいなぁ」
 こちらは紅茶の入ったカップを口に運びつつ、奏も相槌を打つ。
 「あっちにも仲間多いからね、拓海は。ふらっと1週間ほど行っては帰って来る、なんての、しょっちゅうだよ」
 「日本にいたって、大阪行ったり福岡行ったり、しょっちゅう留守にしてるんだろ? 暇な時間はテキトーな女と遊んでるし……オレなら、片想いのうちに愛想尽かすぜ。よく耐えてんなぁ、お前」
 呆れたような感心したような声を出す奏に、咲夜は、キョトンとした顔をした。
 「そお?」
 「だってあの人、付き合ったり結婚したりしても、恋人や家族より、ピアノと趣味優先っぽいじゃん」
 「うーん…そうだろうねぇ。趣味の“日替わりランチ”は辞めるかもしんないけど、“ピアノが足りない、ヘルプミー”って声がかかっちゃえば、北海道にでも沖縄にでもアメリカにでも飛んでっちゃうからなぁ」
 「…いいのかよ、そんなんで」
 「いいんじゃない? ピアノ弾くのが拓海の仕事だもん。東京に戻ってきてる時は、デートなんかに時間割くより、できるだけ休んで欲しいなぁ…」
 「…お前の麻生さんに対する感覚って、年齢と逆転してない? 放蕩息子の健康心配してる母親みたいだぞ、それ」
 「あ、近いもんがあるかも。ハハハ」
 ―――あんな面倒な奴に惚れちゃった時点で、一種の悟りを開いてんのかもしれないなぁ…こいつ。
 カラカラと笑う咲夜を眺めつつ、頭の片隅でそんなことを思う。
 人並みの独占欲があったら、麻生拓海を想い続けるのは、相当厳しいことだろう。大体、“日替わりランチ”状態を「趣味」と言える時点で、既に奏の考え得る許容範囲を超えている。自分が咲夜だったら、嫉妬に狂っておかしな行動に出るか、愛想を尽かして他の男に走るに違いない。
 「…ま、干からびない程度に、がんばれよ」
 ぽい、とさじを投げるように奏が言うと、咲夜はムッとしたように眉を上げた。
 「そっちこそ、早く彼女作れば。わけわかんないハードロックのライブにも、ニコニコ笑顔でついて行くような子をさ」
 皮肉混じりなその言葉が、先週咲夜を半ば強制的に連れて行ったライブから来るものだと直感でわかり、今度は奏が眉を上げた。
 「おい。嫌々来た癖に、オレより盛り上がって、最後には踊りながら歌ってたような奴が、そーゆーこと言うか?」
 「だって、ギターのなんとかって名前のお兄さん、上手かったんだもん」
 「ロジャーだよっ! ちゃんと名前覚えろ!」
 「そうそう、ロジャーだ。ファンだからって、細かいなぁ…。でも、奏が思わずキャンセルチケットに飛びついたのも、あんだけ上手けりゃわかるよ」
 「だろ? 途中で入ったアコースティック・ギターのソロがまた泣かせるよな」
 「あの人、ソロになった方がいいんじゃないの? ボーカルの男の下手さ加減と、あまりにアンバランスだったじゃん。……あれっ?」
 ふいに、咲夜が言葉を切り、下を覗き込むように身を乗り出した。
 「?」
 奏も気になり、ちょっと身を乗り出す。すると、眼下から、ガラガラガラ、という何かがアスファルトを擦るような音が聞こえた。
 その音とともに、アパートの入り口から姿を現したのは―――スーツケースを手にした、マリリンだった。
 「マリリンさーん!」
 咲夜が呼ぶと、マリリンは足を止め、頭上を見上げた。
 「あらー、2人とも早起きねー、お休みなのに」
 「旅行っすか」
 ご近所仕様ではない持ち物に、奏が訊ねる。マリリンは、チラリと足元のスーツケースに目をやり、晴れやかに笑った。
 「そうよー。ロスに10日ほど」
 「ロス!?」
 「お盆にかかっちゃうと、混むし高いしでいいことないからね。せっかく自由業なんだから、世間とはずらして行動しないと」
 「…あのー、飛行機、大丈夫? 台風来るってニュースで言ってるよ?」
 行き先がロスなら、当然、空路だろう。咲夜が心配して眉を寄せると、当のマリリンは、1ミリも心配していない顔であっけらかんと笑った。
 「だーぁいじょうぶよーぉ。ギリギリ午前中のフライトだから、欠航にもなってないし」
 「でもさぁ…」
 「ま、落ちない時は台風でも落ちないし、落ちる時は晴天でも落ちるのよ。もし墜落したら、台風のせいじゃなく、アタシや他の乗客の寿命でしょう、きっと」
 「……」
 ―――ある意味、真理かもしれない。
 「留守中、泥棒来たら“金目の物は何にもないから諦めろ”って言っといて。じゃーねー」
 「……行ってらっしゃいませ……」
 あまり時間がないらしく、マリリンは、2人の見送りを確認することもなく、そそくさと駅に向かってしまった。ガラガラガラ、というスーツケースのキャスターが立てる音が、どんどん遠くなっていく。
 「ロス、か…。豪勢だなぁ。女の一人旅かな」
 「…“男の”一人旅、だろ」
 咲夜の呟きを、即座に訂正する。一瞬、その事実を忘れていた咲夜は、ハッとしたように奏の方を見て、気まずそうに乾いた笑い声を立てた。
 「ハ、ハハハ、そーでした。…あ、だったら、1人じゃないかも」
 「は? なんで?」
 「マリリンさん、異様に楽しそうだったし―――もしかしたら、彼女さんと2人で旅行かも」
 「彼女!?」
 なんだそりゃ、と、思わず更に身を乗り出す。が、乗り出しすぎてバランスを崩しそうになってしまい、奏は慌てて、空いている左手で窓枠を掴んだ。
 「彼女、って……そういう意味の、彼女、か!?」
 「うん。いるって言ってたよ、マリリンさん。“アタシにはちゃんとお相手がいるからご心配なく”って」
 「…マジか…」
 「あ、でもマリリンさん、いつもの格好だったよね。あの格好で恋人と旅行はないか…」
 「…っつーかさ。今オレ、凄いことに気づいたんだけど―――ロス、ってことは、パスポート要るよな」
 「え? うん」
 「…あの人のパスポート、写真って、どうなってるんだろう…」
 「―――…」

 ケースその1。写真が素顔の「海原真理(まさみち)」仕様だった場合。…あの格好、あのメイクでは、出国手続きをパスできるとは思えない。
 ケースその2。写真がいつもの「マリリン」仕様だった場合。…そんなことが許されるのか、疑問だ。第一、あの風貌で性別欄が「男」だったら、一発で怪しまれて別室に連れて行かれる。

 「…マリリンさん帰ってきたら、まずは、さりげなくパスポートを略奪しないとね」
 「さりげなく略奪、って、日本語として間違ってるぞ」
 でも、さりげなくは無理でも、是非是非確認したい。帰国祝いと称してベロベロに酔わせて、こっそり見てみようか―――なんてことを、奏と咲夜はそれぞれに密かに画策した。

***

 マリリンの飛行機は、とりあえず無事飛び立ったらしく、昼過ぎのニュースで悲惨な事故のニュースなどは一切流れなかった。
 午後になると、どんどん雲行きが怪しくなりだし、風も強くなり始めた。本格的に外出不可能になる前に、食料だけは確保しておかなくてはいけない。咲夜が奏に声をかけ、夕食分と朝食分の食料を買出しに行った。
 「奏って、懐中電灯とか持ってんの?」
 「あ、しまった! 何もない」
 「停電したらまずいよ。レンジでチンするタイプのインスタントも、停電したら悲劇だし」
 呆れたように咲夜が見下ろす奏の買い物カゴの中には、まさにレンジでチンするタイプのインスタント食品が入っていた。
 ―――1人で買出しに来なくて正解だったな。
 天災が日本に比べてはるかに少ない国に生まれたせいだろうか。自分は、あまりサバイバルには向いていないのかもしれない―――自分の迂闊さをちょっと恥じつつ、奏は、乾電池や懐中電灯なども購入した。

 帰りにちょっと本屋などで時間を食ってしまい、帰宅した午後5時過ぎには、外は相当の荒れ模様になっていた。
 「ひゃーっ、傘があぁっ」
 「バッカ、折り畳みなんか持ってくるから、そんな風に折れ曲がるんだよ」
 つい先日、長傘を失くしてしまったばかりの咲夜は、弱そうなビニール傘を嫌って折り畳み傘を選択したせいで、傘の骨が風にあおられて反対側に折れてしまい、いわゆる“チューリップ”のような状態になってしまったのだ。
 「だってさぁ、前に、500円のビニール傘で外に出て、ボロボロに壊れたことがあったから…」
 「…タイミング悪く傘失くしたよなぁ、お前…」
 などと話しているうちに、全身ずぶ濡れになる前に、なんとかアパートに到着した。
 集合ポストの前で、あたふたと傘を畳み、荷物や傘についた水滴をふるい落とす。すると、1階の廊下から、ガチャッ、という扉の開く音がした。
 2人して、その音の方に目を向けると、103号室から優也が顔を覗かせた。2人がいるとは知らなかったのだろう。ぼんやり顔で出てきた優也は、2人の姿を見つけると、ちょっと驚いたように目を丸くして立ち止まった。
 「あ…っ、一宮さんに、咲夜さん。お出かけだったんですか?」
 「うん。優也君も出かけんの? 外、凄いよ?」
 「いえ、僕は、ミルクパンの様子を見に…」
 「―――大丈夫か、優也? なんか、具合悪そうだぞ?」
 優也の異状に気づいて、奏が眉をひそめた。
 普段から十代の元気さがいま一つ足りない優也だが、今日はいつもにも増して力のない目をしており、声もどこか気の抜けたような感じだ。気のせいかと思ったが―――心当たりがあるらしく、優也は、奏の指摘に力なく笑った。
 「ちょっと、風邪ひいちゃって…」
 「え、大丈夫?」
 咲夜も心配して訊ねるが、優也はやっぱり力の入らない顔で「大丈夫です」と笑うだけだった。
 ―――全然、大丈夫そうじゃねーじゃん。
 グラリ、と傾く優也を見て、奏と咲夜は、顔を見合わせた。

***

 「あ、トマト1切れ余った」
 奏の一言に、カレーを掻き混ぜていた咲夜と、電子ジャーの中のご飯を皿に盛っていた優也が、ピタリと手を止めた。
 「―――…」
 無言のまま、3人一斉に、ジャンケンをする。結果、咲夜1人がグー、奏と優也がチョキだった。
 「やった、ラッキー!」
 「…病人に譲ってやれよ、お前…大人げないなー」
 「い、いえ、つい釣られてやっちゃったけど、僕、トマトはあんまり好きじゃないんで…」
 「でも、ニンジンはちゃーんと入れさせてもらうからね、優也君」
 「……」
 あまりニンジンも得意ではない優也は、咲夜がニンマリ笑って放った言葉に、ちょっと顔を引きつらせた。

 昨日の夜から寝込んでいた、という優也は、案の定、何も食料を買ってきていなかった。これから買いに行こうかと思っていた、と言う優也だったが、改めて外の状態を見て、到底無理であることを理解してうな垂れてしまった。
 で、結局―――元々、奏と咲夜の2人でカレーを作ってシェアしよう、と言っていたので、いっそ3人で、優也の部屋でご飯を食べてしまえ、ということになった。「病人にカレーなんて大丈夫?」と咲夜は言ったが、1日中寝ていて熱の下がった優也は、日頃より食欲がある位だったらしく、カレーというメニューに嬉しそうな顔をした。
 3人分のカレーとサラダと麦茶を、日頃優也しか使わないちいさな丸テーブルに並べると、全ての皿がテーブルの縁からはみ出るような状態になってしまった。…まあ、食べるのに支障はないだろう。
 物置から優也の部屋の玄関に移動させたミルクパンにもキャットフードを与え、3人は、いつもよりちょっと早めの夕食をスタートした。

 「荒れてきたねぇ…。窓、凄いことになってるよ」
 ガタガタ音を立てる窓の方を見遣り、咲夜が眉を寄せる。奏も、チラリとそちらを見て、頷いた。
 「早めに作っといて正解だな。停電とかしそうだし」
 「え…っ、ほ、ほんとですか?」
 停電、の一言に、優也はスプーンを落としそうになった。若干顔色も蒼褪める。
 「? そこまで蒼褪めるようなことか? 停電って」
 「……僕、暗い所、ダメなんです」
 「えっ、じゃあ優也君、夜ってどうやって寝てんの?」
 「電気つけっぱなしで寝てます」
 「へえぇ…。私はむしろ、好きだなぁ。落ち着いて」
 「オレは別になんとも。とりあえず、寝る時は電気切るよな。明るいと寝難いし」
 「……」
 1人だけ暗闇に怯える自分を恥じてか、優也は力なくうな垂れ、憂鬱そうにカレーを口に運んだ。
 ―――そりゃまあ、暗いのが怖い奴って結構いるだろうけど、蒼褪めるほど苦手ってのも珍しいよなぁ…。
 そう言えば、小さい頃、弟の累が暗いのが苦手だった。想像力豊かな累は、暗闇にいると、お化けとか幽霊とかその手のものを想像してしまい、それに怯えて泣いていたのだ。大人になった今では、逆に「暗闇って落ち着くよねー」と、咲夜みたいなことを言っているのだけれど。
 もしかしたら優也も、子供の頃の累みたいに、暗闇=怖いものがいる、といった連想で、暗闇に怯えているのだろうか。そう考えると、なかなか微笑ましい話だが。
 「そう言えば、優也って、もう夏休みだろ? やっぱり帰らないのか、岐阜に」
 両親の過干渉にうんざりしているらしい事情を察して奏が言うと、優也はちょっと笑い、首を振った。
 「いえ、親の問題っていうより…実は、バイトを始めたんで」
 「バイト?」
 「うちの大学受験する予定の高校生に、家庭教師を頼まれちゃったんです」
 少し恥ずかしそうに優也が答えた内容に、奏と咲夜は、おお、とどよめいた。
 「スゲー…。秀才だらけの大学を受けようって輩に、勉強を教える立場なのか、優也は」
 「だって、あの大学受けようってんだから、既に秀才君だよね、その子。うーわー…、私が家庭教師なんてやったら、馬鹿にされそう」
 「素直で大人しい子だから、僕でも家庭教師役が務まってるんですよ。自信家で押しの強い生徒だったら、僕じゃ絶対無理です」
 確かに、そうだろう。優也は、本当は周囲の誰もが認める優秀な人間なのに、何故かやたら自分に自信がなくて、それが顔にも態度にも表れまくっている。要するに「なめられやすいタイプ」なのだ。
 「お前なぁ、もっと自信持てよ。天下の秀才なんだから」
 「…はあ…」
 「ま、いいじゃない。ズバ抜けて頭いい上に自信過剰で鼻持ちならない奴だったら、こうやってカレー作ってやる気も起こらなかったんだろうしさ」
 ―――…ごもっとも。
 もの凄く納得のいく咲夜のフォローに、奏も苦笑して頷いた。
 「じゃあ優也君は、夏休み中、ずっと東京にいるの?」
 「あ…、いえ、お盆には帰ります。1週間位だけど」
 「そっか」
 「咲夜さんは、帰省はしないんですか?」
 当然のように、優也からもその質問が返される。事情を知る奏は、その質問に一瞬ドキリとしたが、当人である咲夜は、顔色ひとつ変えずに、当たり前のように笑った。
 「社会人は忙しいんですー」
 「えっ…お盆休み、ないんですか」
 「あるよ。でも、“Jonny's Club”のライブはずっとあるし、それ以外の日は、日頃やれない事、色々片付けないといけないしね。実家、近いからさ、別に長期休暇にこだわらなくても、いつでも帰れるからいいんだ」
 「へーえ…、そうなんですか」
 近い、と言っても、まさか23区内にあるとは優也も思っていないだろう。ほど良い距離を想像したのか、優也は咲夜の返答に納得してしまった。が、奏は、やはり父親のいる家には戻りたくないんだな、と感じ、それを表に出さないことに慣れてしまっている咲夜に、少し胸が痛んだ。
 「奏は? やっぱイギリスに戻るの?」
 「いや、こっちに残る。今、開店1周年記念の真っ最中で客増えてるし、オレとテンも、晴れて“アシスタント”って名前から卒業できたし」
 入店から1年は、極一部分のメイクしか任せてもらえない“アシスタント”扱いだったのだが、1年間の修行を経て、無事“アシスタント”ではなくなったのだ。と言っても、初来店や2度目の客は、リピーターとなってくれるかどうかが担当者に大きく左右されるので、きちんとメイクレシピが確立されている常連客しか、まだ任せてもらうことはできないのだが。
 「弟は帰って来いってうるさいんだけどなぁ」
 「…奏んとこって、変わってるよね。親じゃなく弟が恋しがってるところが」
 「ブラコン傾向あるからな、累の奴」
 「男兄弟でもブラコンって言うの? なーんか変な感じ…」

 と、その時。
 何の前触れもなく、いきなり、世界が闇に包まれた。

 「!!」
 一瞬、何が起きたかわからなかった。
 が、窓の外で吹き荒れる風の音と窓がガタガタと揺れる音、大粒の雨が窓ガラスを叩く音で、この突然の暗闇の理由がすぐわかった。
 「うわ、ついに停電か!」
 「ちょ、ちょっと待ってよ。奏! さっき買った懐中電灯は!?」
 「えーと…、ちきしょ、見えねーっ。ライターライター」
 真っ暗闇で、慌ててGパンのポケットから100円ライターを引っ張り出す。カチリという音と共に、奏の右手の辺りだけがぼんやりと明るくなった。
 ほとんど何も見えない状態で、辺りを探る。確か、電池もセットして、手の届く範囲に置いておいた筈だが―――…。
 「あ、あった」
 「あーれー? 私の懐中電灯がないー」
 咲夜も部屋から懐中電灯を持ってきた筈なのだが―――奏の懐中電灯が随分向こうに転がってしまっていたように、食事の準備のゴタゴタで、想像とは違う所へと転がってしまったのだろう。ライターの火ではどうにもならないので、奏はライターを消し、手にした懐中電灯をつけた。
 「っ、眩しいよっ!!」
 「咲夜の方向いてるとは思わなかったんだよっ!」
 「あんたの左隣に座ってんだから、私の方向いてるに決まってるでしょうがっ!」
 「文句言う暇あったら探せ!」
 真っ暗闇でいきなり懐中電灯の光をモロに直視してしまった咲夜は、目がチカチカする中、手探りで自分の懐中電灯を探した。するとそれは、テーブルの下という予想外な所で見つかった。
 さっそくスイッチを入れる。咲夜の周りが、唐突な明るさに包まれた。
 「優也君、大丈夫ー?」
 ホッとしたところで、ようやく優也の方に目を向けた咲夜は―――そこで優也の異変に気づき、息を呑んだ。

 懐中電灯の灯りから外れた薄暗がりの中。優也は、硬直していた。
 暗くてもわかるほど、血の気を失った顔。眼鏡の奥の目が、いつもの倍近く大きく見開かれている。微かに震えている肩、明らかに速い呼吸―――優也の様子は、間違いなく、怯えている子供のそれだった。

 「ゆ…っ、優也君…」
 「お…おい、優也、どうした?」
 暗いのが苦手、とは聞いていたが、この状態は、その話から想像したレベルをはるかに逸脱した異常さだ。2人は、それぞれに懐中電灯を手にして、優也の両横ににじり寄った。
 「優也君? 大丈夫?」
 咲夜が、硬直している優也の肩に、軽く手を置く。と、優也の肩がびくん、と大きく跳ねた。
 「……っ、ご…ごめん、なさい…っ」
 突如、上ずった声で、優也がそう言った。
 いきなり謝られ、わけがわからず、咲夜も奏も目を丸くするしかない。動くこともできず見守る2人の間で、優也はますます怯えたように、体を丸めた。
 「ごめん、なさいっ」
 「……」
 「ごめんなさい…っ、お、お父さん、ごめんなさい…っ」
 「ゆう、や…」
 「ちゃ、ちゃんと勉強するから……こ、ここから、出して…っ」
 「―――…」
 その言葉に、思わず、顔を見合わせた。

 間違いない。
 これは―――トラウマだ。優也がもっと幼い頃の。
 短い言葉でも、想像はつく。「ここから出して」―――遊びたい盛りの小さな優也が、父親に叱られ、物置や押入れに閉じ込められる場面が目に浮かぶ。元来、怖がりらしい優也にとって、狭くて暗い空間は大きな恐怖だっただろう。それが、父親の叱責と結びついて…知らないうちに、優也の心の中に巣食っているのだ。

 もっとも、暗くなるたびにこれでは、大変だろう。いきなり真っ暗闇になったせいで、パニックを起こしているのかもしれない。
 「優也」
 ぺちぺち、と、奏が軽く優也の頬を叩く。
 「おい、優也。しっかりしろ。大丈夫だ、ただの停電だから」
 「……っ」
 その声が届いているのか否か、優也はまだ怯えたまま、体を小さく丸めて震えていた。
 困ったな、と奏が眉根を寄せると―――懐中電灯を床に置いた咲夜が、おもむろに、優也の体を抱きしめた。
 「…大丈夫だよ、優也君」
 「……」
 「大丈夫―――もう誰も、優也君を閉じ込めたりできないから」
 咲夜の指が、優也の髪を撫でる。
 すると、不思議なことに……優也の体の震えが、次第に収まり始めた。
 「優也君を閉じ込める権利なんて、誰にもない。…優也君、大学に受かったじゃん。お父さんの期待には、もう十分応えたよ。だから、もしお父さんがまたそんなことしようとしたら、突き飛ばして逃げちゃいなよ。黙って閉じ込められることなんてないよ」
 「で…っ、できない、よっ」
 「できるって」
 「でも…叩かれる…っ」
 「……サイっテー」
 思わず吐き捨てるように言い、薄暗がりの中で咲夜の目が険悪に細められる。奏も、憤りに眉を上げた。
 前に聞いた話では、今現在の父親は、自慢の息子を会社でも親戚の家でもニコニコ顔で自慢しまくり、あれは足りてるか、これは欲しくないか、と息子に大盤振る舞いしている「激甘オヤジ」らしいが―――どうやら昔は、成績が落ちたりすると、怒鳴ったり叩いたりする父親だったらしい。
 「叩かれたら、叩き返しちゃいなよ。間違ってるのは、向こうなんだからさ」
 「…暴力は、よく、ないよ…」
 咲夜に抱きしめられて、少し落ち着いたのか、優也の声が普段の声に戻りつつある。パニックを脱したらしい。まともな返事に、咲夜は少しホッとし、表情を緩めた。
 「うん―――暴力は、よくないね」
 「…大学…留年とかしたら、またお父さんに怒鳴られて、嫌われるのかな…」
 「……」
 「僕、走るの遅くて、喋り始めるのも他の子より遅くて…小さい頃は“お父さんの子なのに”って、いっつも……」
 「…もう、いいよ」
 唇を噛んだ咲夜は、優也を抱きしめる手に、より力を込めた。
 「もう、いいよ。優也君」
 「―――…うん…」


 それから、どの位、黙ったままそうしていただろう。
 やがて優也は、やっと普段の優也に戻り、顔を真っ赤にしながら何度も咲夜と奏に謝った。パニックになっていたとはいえ、おかしなことを口走り、挙句に女性に抱きしめて慰められたなんて―――と落ち込む優也を、奏は「役得だったな」とからかった。
 「暫く復旧しそうにないな。さっさと食おうぜ」
 それまでの空気を断ち切るように、奏が言う。それでやっと、3人は再び、夕食を口にした。

 懐中電灯に照らされる中、台風が通過する音を聞きながら、黙々と夕食を口に運ぶ。そんな中、奏は時折、左隣に座る咲夜の横顔を盗み見た。
 ―――意外だよなぁ…。
 どちらかと言うと中性的で、女らしさを感じさせないサバサバした咲夜なのに―――こういう時、底知れぬ母性のようなものを感じさせる。
 拓海に対する考え方もそうだし、以前、血の繋がらない弟が訪ねてきた時もそうだった。一匹狼的な生き方をしている咲夜なのに、彼らや今の優也に対する時の言動からは、姉とか母といった「守り癒す存在」がイメージさせられる。

 父を断罪し、鋭く見返す、刃物のような咲夜と。
 一途に拓海を想い、真っ直ぐに孤高のヴォーカリストを目指す、ひたむきな咲夜と。
 心の傷を隠し、楽しげに笑いながら、その実誰にも本心は見せようとしない、孤独な咲夜と。
 血の繋がりを超えて、酷く優しく、おおらかに相手を包もうとする、母親のような咲夜と。
 一体―――どれが、咲夜の本当の素顔なんだろう?

 ―――いや、変に意識するのは、やっぱり、まずいな。
 咲夜は、友達なんだから。女だって意識し始めると、上手くいかない気がする。

 日頃女を意識させない咲夜が、こうして時折見せる女性的な柔らかさに―――癒されつつも、苛立つ。なんだか、咲夜を「女」と思ってしまったら、せっかく手に入れた得難い友情が、ダメになってしまう気がして。

 「……何、」
 あまりに、しげしげと顔を見すぎていたらしい。咲夜が、不審気な目でこちらを見る。
 「いや、別に」
 目を逸らした奏は、麦茶の入ったグラスに手を伸ばした。
 「あ…っ、そ、そうだ! ミルクパン!」
 いきなり叫んだ優也が、自分の食事をほっぽり出して、慌てて玄関に走って行く。そうだ―――優也のパニックですっかり忘れていたが、この部屋にはもう1人、というか、もう1匹、ミルクパンがいたのだった。
 「ミルクパンーっ! 大丈夫か!? いきなり真っ暗になって、怖くなかったか!?」
 と心配そうに叫ぶ優也の手には、懐中電灯は握られていなかった。故に、玄関は真っ暗なままである。
 「…結構抜けてるな、秀才少年」
 ボソリと奏が呟いた言葉に、咲夜も吹き出した。苦笑し合った奏と咲夜は、食事を中断し、懐中電灯を優也の所に持って行ってやった。

 一瞬交し合った苦笑に、咲夜との間の空気が少しも変わっていないことを感じ―――奏は、なんとなく、ホッと安堵した。


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