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― straight slowly ―

 

 「なぁなぁ、いっちゃん」
 「あー? 何?」
 「また今日も予約入ってるねー、例のお・じょ・う・さ・ま」
 「……」
 眼下に、ニヤニヤ笑いを浮かべたテンの顔がある。ついでに言うなら、背後からは氷室や星の視線も感じる。…ここ3週間、1日おきにはこの調子だ。
 1日おき。つまり―――“お客様”の予約が入るたびに。
 「気に入られてるなぁ、奏。盆休みの案内出した時のお嬢様の顔、泣きそうだったじゃないか」
 「そーそー。愛しのいっちゃんに会えなくなるってわかって、涙で目がウルウルしてたわ。今日は久々の再会やから、今度は喜びの涙にむせび泣くかもしれへんよー?」
 「…そういうの、“むせび泣く”って言うのかよ」
 氷室とテンにたて続けにからかわれ、奏は、気まずさを隠すようにテンを睨んだ。
 「叶様は、星さん担当のお客様なんだから、オレには関係ないっての。大体、星さんのヘルプにはテンが着くことになってんのに、なんで叶様だけオレなんだよ。おかしいだろ」
 「あー、ひどーい、いっちゃん。叶様、可哀想ー。ウチでも叶様のせつなーい恋心はわかるのに、当のいっちゃんがそんな冷たいこと言うなんてー」
 「バカ、相手は客だろっ」
 「お客様も女には変わりないやん。ねー?」
 口を尖らせたテンは、身を乗り出すようにして、奏の背後にいる氷室と星に同意を求めた。チラリと振り返ると、2人揃って、うんうん、と頷いている。
 ―――全く…好き勝手言って、からかいやがって…。
 タオルを畳みながら、心の中でぶつぶつ文句を言う。何を口にしても、全部からかわれる要素にしかならないとわかっているから。

 そう、相手は、客だ。
 少なくとも奏は、仕事の関係とプライベートを完全に分けるのが当たり前だと思っている。いくら客に好みのタイプがいたとしても、相手が客である以上、口説いたり個人的に会ったりするのをこちらから持ちかけるのは絶対にタブー。「会ってくれたら、またお店に来てあげてもいいわよ」的な誘いも断固お断りだ。
 客との間に、私情を持ち込みたくない。それが恋愛なのか、打算なのか、向こうもこっちもわからなくなるから。
 なのに―――…。

 「職場での客との恋愛は困るけど、外やったら、立場関係ない1対1の人間同士やもん。お客さん扱いせんと、1度、お茶にでも誘ってあげたってや。あの子、ぜーったい、恋愛経験ない筈やから」
 「うーるーさーいー。はいはいはい、てめーもさっさと開店準備しろって」
 ―――お茶…ねぇ…。
 お茶する位なら、別に、構わないんだけど。
 でも、周りがひやかせばひやかすほど、どうにもピンと来ない自分を自覚するばかりの奏だった。

***

 その客―――叶 明日美が初めて店にやってきたのは、確か7月の終わり頃だったと思う。
 直前の客の要望が、「これからお見合いなので、お嬢様っぽい感じにして欲しい」だったものだから、彼女の「お嬢様っぽくない感じになりたい」という珍しい要望は、よりインパクトが強かった。あまりの偶然に、思わず吹き出してしまったほどに。
 でも、彼女がそう言うのも、無理はない。
 叶 明日美は、見るからに「お嬢様」だった。和風の大人しげな顔に、上品な薄いメイク、身のこなしも喋り方も育ちの良さがそのまま表れているような感じ。預かった手荷物も、今時の女子大生の間で流行しているブランドバッグとは違うラインの、非常に良い革を使った超高級ブランドバッグだった。ブランドロゴを見て満足するブランド族とは違う、本当に良い物を使い慣れている人種であるのが、ありありとわかる。あれだけステレオタイプなお嬢様だと、お嬢様扱いしかされないだろう。そのことに嫌気がさすのも、なんとなくわかる。
 担当となった星は、そのステレオタイプお嬢様を、見事に変身させた。
 やっぱり、星は、凄い。氷室のセンスのいいメイクにもいつも感心させられるが、同じ女性ならではの、嫌味のないナチュラルな星のメイクは、芸能界やモデル界などより、こうした一般人相手のメイクとしては最適だ。一度担当してもらった客が何度も店に来るのも、星のメイクがいかに日常にマッチしているかの表れだろう。
 だから、叶 明日美が、あれから1日おきという頻度で店に来るのも、星の腕があってこそ、だと思う。
 …でも。
 それだけじゃないこと位、周りに言われるまでもなく、奏にもわかっている。


 「いらっしゃいませ」
 「…こ…こんにち、は」
 午後2時過ぎに現れた明日美は、奏の顔を見るや、色白な頬をバラ色に染めて微笑んだ。ただの「こんにちは」が、緊張のせいで上ずっている。
 ―――…これでも気づけない奴は、相当鈍いだろ。
 面白いほど、わかりやすい反応。あまりにもわかりやすすぎて―――かえって、どう反応していいやら、こちらも困る。
 予約表を確認すると、明日美の予約は、星の指名で入っていた。これも明日美の面白いところなのだが、明らかに奏を目当てに来ているにも関わらず、明日美は決して奏を指名しない。どうやら、そんなことをするのは恥ずかしいこと、と思っているらしい。…まあ、確かに不純な動機ではあるだろう。でも、目当てがミエミエである以上、恥ずかしがる意味があまりない気がするのだが。
 「えー…と、叶様、ですね。お待ちしてました。お荷物をお預かりしますので…」
 「はい」
 ―――いや、だから、バッグ1つ渡すだけで、そこまで恥ずかしそうにされても…。
 全く…調子が狂う。お高くとまったお嬢様の方が、まだ扱いやすい。長く女性の多い世界に身を置いてきた奏だが、こういうタイプはあまり周りにいなかったので、どう扱うべきなのかわからないのだ。
 チラリと店内を確認すると、星は、明日美の前の客にレシピカードを渡して説明しているところだった。ほぼ予定通り行きそうだな、と判断した奏は、明日美を席に案内した。

 初来店の3日後、明日美は再び現れた。
 助言通り、今度は星の名を出して予約をし、また同じようなメイクをしてもらって、帰って行った。また偶然案内係になってしまった奏は、メイクを落とす間と精算の間に、他の客と変わりない、ありきたりな会話を明日美と交わした。
 更に2日後。
 そしてまた2日後。
 気づけば、もう今日の予約が10回目―――2回目の段階で周囲には明日美の思惑はバレていたらしく、毎回毎回奏が接客を担当させられるので、明日美の扱いにも、大分慣れた気がする。
 明日美は、基本的に、自分の方からは何も話さない。そういう客には、むしろ話しかけずにそっとしておくように、というのがこの店のマニュアルだ。美容師が気を遣って世間話などをするのを好まない客もいるから。
 でも、明日美の場合―――話しかけてはこないが、鏡越しに奏をじっと見る目が、毎回、何かを話したいような、訊きたいような色をしている。放っておいて欲しい訳ではないらしい。だから奏は、当たり障りのない話をこちらから振るようにしていた。

 「本日は、星をご指名ということは、メイクでよろしかったですか」
 今日の話題を頭の中で模索しつつ奏が鏡越しに訊ねると、明日美は相変わらずはにかみつつ、「はい」と言ってコクリと頷いた。
 「イメージは前回と同じで?」
 「はい―――…あ、いえ、」
 一旦、頷いた明日美だったが―――直後、何かを思いついたように、自分が発した言葉を翻した。
 「…あのー…」
 鏡の中の明日美の顔が、一層赤くなる。鏡越しの視線を避けるように、明日美はちょっと俯いた。
 「…その…い…」
 「い?」
 「…一宮、さんの、好みのメイクって、ど…どういうの、なのでしょうか…」
 「……」
 ―――スゲー、直球勝負…。
 今時、「あなた好みの女になりたいんです」なんて女がいるとは…。なんだか、天然記念物のトキに、東京のど真ん中で遭遇した気分だ。
 いや、こういうセリフを言う客が、全くのゼロとは言わない。過去にも「奏ちゃん好みの美女に変身させてよ〜」と冗談ぽく言った客はいた。そういう時は、女性の扱いには慣れた奏だ、「素顔が一番好みですね〜ハハハハ」と言って持ち上げれば、それで終わりだ。向こうだって、ちょっと綺麗な男の子をからかっただけ、という程度だから、それで終わる。
 でも、明日美のこのセリフは、質が悪い。
 本気で奏好みな女性になってみたい、と、ただそれだけを考えてこのセリフを言っている。知りたかったから、なりたかったから、訊いただけ。周りから見ればそれが、稀に見るほどの直球勝負であることなんて、彼女は全然わかっていないだろう。
 困った―――笑って誤魔化すことも、お世辞を言って持ち上げるのも、まずい。さすがの奏も、鏡越しに返す笑顔が引きつった。
 「こ…好み、っすか」
 やばい。言葉遣いが素に戻っている。少々焦りつつ、奏は気合で営業モードに切り替えた。
 「ええと、好みは―――特に、ないと思いますけど…」
 「ない…です、か」
 「…あえて言うなら、その人らしさの出ているメイク、かな」
 「―――…」
 俯けていた顔を上げた明日美は、その言葉に少し眉根を寄せ、本気で悩んでいる顔をした。
 「…わたしらしさの出ているメイク、って、どんなのなんでしょう?」
 「えーと…」
 …ダメだ。わかんねぇ。
 「…じゃあ、星に伝えておきます。叶様らしさの際立つメイクにするように」
 「ハイ」
 ―――困るだろうなぁ、星さん。この子らしさを際立たせれば“お嬢様”になるし、かといって別人路線狙えばこの子らしくなくなるしで。結構ファジーな落としどころだもんな。
 でも、いいのだ。明日美の時だけを狙って奏にばかりヘルプを頼む、その仕返しだ。表面上はにこやかに応対しつつ、密かにほくそえみながら、奏はクレンジング作業に入った。
 「では、メイクを落としますので、目を瞑っておいていただけますか」
 「ハイ」
 返事をした明日美は、またいつものように、ぎゅっと力を入れて目を瞑った。
 ―――だから…そんなにギューギューに瞑らなくていいんだっつーの。
 でも、何度言ってもこの癖は治らないらしいので、もう指摘するのは諦めた。幸い、アイメイクなどほとんどしていない明日美なので、多少瞼に力が入っていても、アイメイクが落ちない、なんて心配は要らないのだから。

 「…あの、一宮さん」
 いつも通り、手際よくメイクを落としていくと、今日は珍しく明日美の方から話しかけてきた。
 「はい?」
 「今日って、3時までで、お仕事は終わりですよね?」
 「え? ああ、そうですよ。今日は早番なんで」
 なんでそんな話を、と思ったが、そう言えば前回、明日美が夕方5時からの予約を取ろうとしたら、テンが横から口を出して「その日は一宮、3時までですよ」なんて余計な進言をしたのだ。それでようやく、テンにはバレていると、察することができたのか、明日美は真っ赤になっていたが―――正直、それでは察するのが遅すぎる。
 「こういう、お仕事の早く終わった後って、いつも、どうされているんですか?」
 「あー…、もう1つの仕事の方をやってることが多いですね」
 「モデルさんのお仕事、ですか?」
 「撮影やショーがなくても、打ち合わせが入ってたり、事務処理があったり―――他にもジムに行ったり、情報収集や営業に行ったり、結構やることはあるんで」
 「…お忙しいんですね」
 少し驚いたように、明日美の眉が歪んだ。
 「好きでやってることですからね」
 「……そう、ですか」
 何故か、酷く意気消沈したような、小さな声でそう相槌を打ち―――それっきり、明日美は、黙ってしまった。
 ―――なんか、まずかったかな。
 今の会話の何が、そんなに明日美をがっかりさせたのか、奏にはさっぱりわからなかった。

 メイクを落とし終わると、すぐに星がやって来た。
 「“自分らしさの際立つメイク”をご希望です」
 「……一宮君、何か変なアドバイスをしたんじゃないの?」
 さすがは鋭い星だ。明日美自身が考えて言うとも思えないオーダーに、すぐに気づいたらしい。眉をひそめる星に、奏は軽く肩を竦めるだけの返事をし、「お願いしますねー」とバトンタッチした。


 そして、20分後。
 ―――うーん、お見事。
 会計カウンターにやってきた明日美には、前回までのメイクより、甘く優しい色使いのメイクが施されていた。
 無理に元気に見せず、大人しいお嬢様っぽさを生かしつつ、ちょっとロマンチックさをプラスしているそのメイクは、確かに明日美らしい色使いだ。ちょっとした復讐のつもりで、言われた言葉を噛み砕かずに丸投げしたのに……さすがは、星だ。負けた、と唸るしかない。
 「どうでしょう…?」
 会計をしながら、明日美が、少し心配げに上目遣いに奏の顔色を伺う。
 「叶様らしさが、よく出てますよ。いい意味で」
 苦笑した奏が、レジを叩きながら、そう答える。すると、明日美の表情がみるみるうちにほころび、花が開くみたいな笑顔になった。
 「…良かった…」
 「……」

 …かーわいー…。
 いや、客に使うのはまずい言葉なんだけど。

 ドキドキするとか、心がざわつくとか、そういう感じではないけれど―――単純に、可愛いよなぁ、と思う。実際、可愛い顔立ちだと思うけれど、その行動パターンといい、表情の作り方といい、純粋無垢な子供を「可愛い」と感じるのと同レベルの、微笑ましいような可愛さがある。
 自分のたった一言で、こんなに簡単に、笑顔になるなんて。
 可愛いし…ちょっと、感動モノかもしれない。
 「…えー、200円のお返しです」
 「ハイ」
 ―――いや、だから、いちいち返事しなくていいって。
 可愛いとは思うけれど、このやり取りだけは、どうも慣れない。この妙なズレのせいで、どうしても調子が狂ってしまうのだ。
 「あの――― 一宮さんは、今日もこの後、モデルのお仕事なんでしょうか…」
 メイクを褒められたことで、ちょっと勇気が出たらしい。パチン、と財布を閉じながら、明日美が訊ねた。
 「いや、決まった予定は入っていないんで、まだ決めてませんよ」
 「それって…お仕事になるかもしれないし、そのまま暇になるかもしれないし…ってこと、ですよね?」
 「? そうですけど…」
 「あっ、あの、それでしたら―――…」
 明日美が何か言いかけた時、“Studio K.K.”のガラス張りのドアが開き、新たな客が入ってきた。
 ハッ、と振り返る明日美の背後に、この店の常連客の姿を見つけ、奏は反射的に応対に出向いていた。
 「いらっしゃいませ」
 「2時半予約の、山村ですけど。ちょっと遅くなっちゃったわ」
 「山村様ですね。少々お待ち下さい」
 山村夫人に笑顔で応対した奏は、すぐに、話を中断する羽目になってしまった明日美の方に視線を戻した。
 戸惑ったような顔をしていた明日美は、何か言いたかったのだろうが、そのタイミングを完全に失っていた。僅かに瞳を揺らした後、それでもなんとか笑みを作り、
 「また来ますね」
 とだけ言って、きびすを返した。
 「…ありがとうございましたー…」
 奏の声を振り切るように、明日美の背中が、ガラス扉の向こうに消えた。
 ―――なんか…今日は、色々とタイミング悪そうだな。
 ちょっと元気になった矢先だっただけに―――奏は、少しばかり、明日美が可哀想になった。

***

 3時に仕事を上がった奏は、裏の通用口から店を出た。
 「えーと…社長、っと」
 携帯の電話帳から“社長”を選び出し、発信する。確か今日は事務所にいた筈だと思うが、突発的な仕事の多い人なので、連絡をするなら携帯と決まっている。
 呼び出し音が2度ほど鳴ったところで、電話は繋がった。
 『はい』
 「佐倉さん? 一宮です」
 『はいはい、お疲れ様。ああ、今日は早番なのね』
 そう言う佐倉の声は、歩いているらしく、僅かに息が弾んでいる。背景に微かな音楽や雑踏らしき音も時折混じっていた。
 「今日、なんかあった?」
 『んー、ひとまず、今朝、中森和泉の来年のスプリング・コレクションの打診が来たんだけど』
 「あ、じゃあ、行った方がいいかな」
 『あたしも早く話したいところなんだけど―――ちょっと、これから用事があって』
 「用事? 誰かの打ち合わせ?」
 『そうじゃないけどね。事務所のことで、ちょっと』
 佐倉らしくない曖昧にぼやかした言い回しに、奏の表情が僅かに険しくなった。
 「―――もしかして、また、柳?」
 微かな怒気が、電話でも通じてしまったのだろう。電話の向こうで、苦笑する気配が感じられた。
 『やぁねぇ、そんな声出して。柳はうちの出資者でもあるし、あたしもアドバイザーとして多少は“YANAGI”の仕事と関わってるんだもの。目の敵扱いするのは失礼じゃない?』
 「そりゃ、確かに佐倉さんのビジネスパートナーかもしれないけど―――あんた自身、気づいてるんだろ? あいつ、絶対何かたくらんでるよ」

 “YANAGI”の社長・柳には、奏も何度か会っている。一番最近では、この前あった“YANAGI”のファッションショーの会場で会った。“YANAGI”の高級スーツが似合う、いかにも優秀なビジネスマン、といった風貌の、気障な男だった。
 正直、奏は彼を好きになれない。態度が横柄だ、ということもあるが、それ以上に―――彼の一連の行動には、何か裏があるように、奏には思えてならなかったのだ。
 佐倉のモデル事務所に出資をしてみたり、佐倉を自分の会社のアドバイザーとして迎えてみたり。その一方で、突然「独自でモデルエージェントを立ち上げる計画がある」などと言い出したり、増資するからもっと事務所を拡大してみないか、と言い出したり―――佐倉は、そうした話が出たのが、奏のあのMP3プレーヤーの仕事が表沙汰になった途端なので、「キミの株が高騰することを見込んで、なんとか自分の会社の専属モデルに据えたいんだと思うわよ」と言っていたが、それならターゲットは“事務所”ではなく“一宮 奏”の筈だ。どう考えても、完全なビジネスオンリーで話をしているとは思えない。
 いちモデルにすぎない奏が知る範囲だけでそう感じるのだから、佐倉が一切洩らさない情報の中には、もっと怪しい打診や誘いもあるのではないだろうか。

 『…ま、たくらみはあるんでしょうよ』
 佐倉だって、その辺はある程度読めているらしい。暫し黙った後、ため息混じりに呟いた。
 『でも、一宮君が心配することはないわよ。今のところ、事務所は無事守られているし、向こうも無茶なゴリ押しはしてない。今日の予定も、ただの会議がてらのディナーよ。お偉方5人も集めて、気の詰まる夕飯になりそうだけど、それもあたしの仕事の内でしょ』
 「…ディナー、ねぇ…」
 そう言うのなら、そうなのだろうが…どうしても、嫌なイメージがつきまとう。
 佐倉と柳の何を知る訳でもないが、ただ1つ―――この前のファッションショーの時、事務所の女性モデルにあれこれ指導をしている佐倉を、少し離れた所から見ていた柳の、あの目。あれだけが、どうにも心に引っかかって。
 「…わかった。ディナー会議って、何時に終わんの」
 『え?』
 「会議終わったら、中森先生のショーの話、聞かせてもらう。オレ、明日も朝から店だから」
 『…なんだか、やけに急いでるわね。まだ随分先の話だから、別に今日明日中に何が何でも話さなきゃいけない話でもないわよ?』
 「とにかく、何時だよ、終わるの」
 『8時には終わるわよ。場所は六本木。駅には、そうね…15分には着くかしら』
 「じゃ、8時15分、六本木の駅ってことで」
 『―――ねえ、一宮君?』
 佐倉の声が、少し険しい色合いを帯びる。
 『もしかしてキミ、あたしの力じゃ、うちの事務所を守れないとでも思ってるの?』
 「…んなこと、考えてないって。ただ、柳はなーんか信用ならない奴だから、慎重な佐倉さんでも罠に嵌められるかもしれない、って思ってるだけだろっ」
 『アハハ、心配ご無用。あの男、複雑そうに見えて、案外単純よ。大丈夫よ、何たくらんでようと、うちの事務所はあたしがきっちり守るから』
 ―――そーゆーこと言ってんじゃないんだけどなぁ…。
 奏の眉根に、知らず、皺が寄る。
 『じゃ、また夜に』
 「りょーかい」
 釈然としないまま、電話が切れる。ため息をついた奏は、仕方なく携帯をポケットに突っ込んだ。

 本当にわかってないんだろうか、佐倉は。
 それとも…わかっていて、あえてその点に触れないんだろうか。
 柳が佐倉を見る時、時々見せる、あの目。あれは、事務所だとか、優秀な人材だとか、そんなものを狙っている目じゃなかった。奏の勘に狂いがなければ、あれは―――「佐倉みなみ」本人を狙っている目だった。
 佐倉に対する感情を、奏自身、上手く説明はできない。
 確かに体の関係のあった相手ではあるが、お互い、まるっきり恋愛感情がないことだけははっきりわかる。似たような苦しみを持ち、一時、その苦しみを慰めあった相手―――あまり褒められた関係ではないが、それでも、ただ遊びで快楽を共有した過去の女性達とは、やっぱり別格の存在だ。友情とも恋慕とも違うが、大事な女性だとは思う。
 だから、事務所を守るためとはいえ、あんな男に身を任せるような真似は、絶対にやめて欲しい。
 あんな男でも、佐倉が惚れているなら話は別だが―――仕事じゃなかったら絶対会いたくないタイプ、と断言するほど、佐倉が嫌っている男なのだから。

 ―――ちょっと強引だったけど…これで、ディナーの後もしつこく誘うような真似はできないよな、あの柳にも。
 もうちょい警戒するように、今夜にもきつく言っておかないと―――再びため息をついた奏は、髪を掻き上げ、顔を上げた。
 そして、数メートル先に、思いがけない人物が立っているのを見つけ……驚きに、目を丸くした。

 「……」
 それは、明日美だった。
 30分以上前に帰ってしまったと思っていた明日美が、何故か、従業員用の裏口に回り、裏道の電柱の傍に立っていたのだ。
 奏と目が合って、明日美の目が、また動揺したように揺れた。僅かに顔を赤らめた明日美は、姿勢を正し、ペコリと頭を下げた。それに伴い、彼女のブラウン色した真っ直ぐな長い髪が、ふわりと風になびくように落ちた。
 「ど…う、したんですか? 叶様」
 いや、叶様ってこともないだろ、店の外で。
 とは思うものの、どう呼んでいいのやらわからない。確かに店の外ではあるが、明日美は奏の客なのだから。
 戸惑う奏の前で、明日美は顔を上げ、ちょっと恥ずかしそうに口を開いた。
 「す…すみません。3時でお仕事が終わると聞いていたので――― 一宮さんが出てくるのを、待っていたんです」
 「オレを?」
 「はい。その……少し、お話がしてみたくて」
 「……」
 「…一宮さんと、お話が、してみたかったんです」
 明日美の声が、消え入りそうなほど、小さくなる。俯いた明日美は、体の前で組んだ手を気まずそうに組み直した。
 「それで、待っていたら―――電話を」
 「電話? って、今の?」
 「…はい。…ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったんです…」
 少し震える声でそう言うと、明日美は突如顔を上げ、慌てたように付け足した。
 「あ、あの、いえ、本当に一部分しか聞こえていませんから! そ、それに、わかりました。今日はどなたかとお約束があるんですね。い、一宮さんほどの方なら、そういう女性がいくらでもいて当然なのに、わたし、勝手に―――…」
 「え? あ、いや、ちょっと」
 慌てふためいたように、らしくなく早口になっている明日美を、奏の手が制した。
 どうやら明日美は、終わりの方の一部分だけを聞きかじって、あらぬ方向に想像を働かせてしまったらしい。苦笑した奏は、ちょっと息をつき、きちんと明日美の方に向き直った。
 「8時15分、六本木で、うちの社長と待ち合わせ」
 「……え……っ」
 「モデル事務所の社長が電話相手だから」
 「……」
 キョトン、と目を丸くした明日美は、そのまま、暫し奏の顔を見つめていた。
 そして、どうやら自分が先走った誤解をしていたらしいと気づき―――その顔が、一気に耳まで真っ赤に染まった。
 ―――うわー…、かーわいー。すげーわかりやすい顔。
 奏自身、かなりわかりやすい顔で、周りの人間からは「それだけわかりやすい顔の奴は、どうしても憎むに憎めない部分があるよな」とよく言われるのだが―――明日美を見て、そう言う人々の気持ちがなんとなく理解できる。
 「わ…っ、わたしったら、大変な誤解を…」
 「ハハ、いや、まあ、社長も確かに“女性”ではあるから、誤解されてもしょうがないけど」
 「…あ…の、じゃあ―――…」
 顔を真っ赤にしたままの明日美は、組んだ手をぎゅっと握り締め、ちょっと不安げな上目遣いで、奏の顔を窺った。
 「す…少し、だけ、お時間…いただけます、か」
 「……」
 「…丁寧語じゃない一宮さんと、お話がしてみたいんです」
 そう言う明日美の声は、少し、震えていた。
 「―――ま…まだ、お友達にはなれないかもしれない、けど……“お客様”と“店員”じゃ、嫌なんです、わたし」

 あまりにも、必死で。
 あまりにも、ストレートで。
 内気な彼女にとって、それが、考えられないほどの勇気を振り絞った言葉なのがわかるから。
 だから、奏は―――無視、できなかった。

 「…じゃあ、どっか、カフェにでも行こうか?」
 サラリと奏が言うと、俯く明日美の肩が、小さく跳ねた。
 驚いたように顔を上げた明日美は、信じられない、という目で奏を見上げた。
 「…え…っ?」
 「立ち話も、なんだからさ。紅茶でも飲みながら、のんびり話でもする? この辺、オシャレな店多いし」
 「……い…いいんですか?」
 「うん」
 彼女に答えつつ、自分の胸の内にも頷く。
 「いいんじゃない? 店の外出れば、客じゃないし。お茶飲む位なら別に」
 その答えを聞いて―――明日美は、また頬を桜色に染めながら、心から嬉しそうに、でも恥ずかしそうに笑った。

 ―――うん…、いいんじゃない?
 いいだろ、それ位。
 これだけ真っ直ぐに想いをぶつけてくれる子を、無視なんてできないし。
 結構天然入ってて、面白いところもあるし。顔も割と可愛くて、どちらかというと好ましい方だし。まだ恋愛感情なんて持てそうにないけど―――話したりしてるうちに、気が合って、友達にはなれるかもしれない。

 「どこか、行きたい店ある?」
 奏が訊くと、明日美は小さく首を振った。
 「じゃ、適当に歩いて、どっか入ろうか」
 「…ハイ」
 ふわりと嬉しそうに微笑む明日美を見て、奏は、心が温かくなるような感じを覚える一方―――ほんの少しだけ、胸が、痛んだ。


 …いいよな。別に。
 やましいことなんて、何もない筈だ。

 初めて店に来た時、見た目が、少しだけ蕾夏に似ている、と思ったからって―――それを、後ろめたく思うことは、ないよな。

 一瞬感じた鈍い痛みに、唇を噛む。けれど奏は、すぐに笑顔を作り、明日美と並んで歩き出した。


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