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―――晴れてて良かった。
空を見上げ、咲夜はホッと息を吐き出した。
滅多に着ることのない、黒のワンピース。こんな格好は、年に一度限りだ。心もとない裾を少し気にしながら、短い石造りの階段を上るが、平日の昼間、しかもお盆明けの真夏―――こんな場所を訪れる人など、咲夜以外、ほとんどいないらしい。
「如月さん」
階段を上りきったところで、ちょうど通りかかった住職に声をかけられた。立ち止まった咲夜は、花束を持ち直し、深々と頭を下げた。
「お久しぶりです」
「はは…、相変わらず礼儀正しくていらっしゃる。子供のころからちっとも変わりませんね、如月さんは」
「母の教えですから」
どんな相手にも、まずは挨拶から―――亡き母がよく言っていたことだ。咲夜は薄く微笑み、額にかかった髪を指ではらった。
「実は気にしていたんですよ。お盆の十三回忌にいらっしゃらなかったので―――やはり今年も、お一人ですか」
「はい……やっぱり、きちんと命日にお参りしたくて」
毎年、お盆明けに訪れる、亡き母の命日。
母の両親である咲夜の祖父母も既に他界し、今は「元夫」である父と母の兄弟が、盆休み中に合同で墓参りに行くのが常となっている。いずれも仕事を持つ身、命日に合わせることより、確実に休める日であることを優先しているのだろう。それを非難する気は、咲夜にもない。
でも咲夜は、あえて命日を選んで墓参りをすることにしている。平日であるなら、仕事を休んででも。それは、自分位は母の命日を意識したい、というだけじゃなく、単に、父と一緒に母に会うことが気まずい、というのもあるのかもしれないが。
住職と更に2,3の言葉を交わし、母のもとへ向かう。
陽射しの強さに、汗が首もとを伝った。ふぅ、と息をつきつつ、ハンカチで汗を拭った咲夜は、そこでふと、母の墓の前に誰かがいるらしいことに気づき、ドキッとして立ち止まった。
「―――…」
緩くパーマのあたった、栗色の短い髪。やはり黒いワンピースに身を包んだその人は―――“母”だった。
―――う、うーん…、今のこのシチュエーションで「お母さん」て呼ぶのは、微妙に複雑だなー…。
困ったように、咲夜が花束を何度か持ち直していると、“母”の方も咲夜に気づき、立ち上がった。
「咲夜ちゃん」
「―――…ドモ」
ひょい、と軽く頭を下げる咲夜に、“母”は困ったような、少し影のある笑みを浮かべた。2人の間に流れる空気は、こんな時、ちょっとぎこちない。ぎこちないながらも―――そのぎこちなさを共有している同士の、変な親近感がある。
「
久々に口にする名前が、違和感を伴って舌の上を転がる。気を悪くするかな、と思ったが、“母”―――“蛍子さん”は、笑顔のままだった。
「咲夜ちゃんのお母様に、ご挨拶したくて」
「ふーん。どしたの、突然」
「節目だから…かな。十三回忌っていう」
「節目、かぁ」
母が亡くなって、丸12年―――咲夜も、この秋には24になる。母がいた時間と、いなくなってからの時間、ちょうど同じ長さになった。そしてこれからは、母がいなくなってからの時間の方が、毎年毎年、長くなっていく。よその人が根拠なく決めた“十三回忌”なんて節目には、全然興味がないけれど、そういう意味でのターニング・ポイントとしての節目は、なんとなく感じる。
「親子水入らずのところ、悪いから、私は先に帰るわね」
やはり少し気まずいのか、“母”はそう言って、地面に置いていた手桶をそそくさと持ち上げた。
「えー、別にいいのに」
「…でも、」
「あ、もうお掃除してくれたんだ。なんか、悪いなぁ。ねえ、私がサボった訳じゃないからね。蛍子さんがフットワーク良すぎただけだからさ」
既に綺麗に掃き清められ、水で洗われた墓石を見て、咲夜は、亡き母に言い訳をするように、冗談めかしてそう言った。
母の墓の前に進み出て、さっさと花を供えたり線香に火をつけたりし始める咲夜を見ると、それを無視して帰る訳にもいかなくなったのだろう。困ったような顔をした“母”は、咲夜から3メートルほど離れた場所に、黙って佇んだ。
一通りのお参りを終えた咲夜は、待っていた“母”と一緒に、墓地を後にした。
「この後、拓海んとこ行くんだ。蛍子さんも来る?」
「あら、いないことが多いのに、今日はいるの?」
「一瞬だけね。午前中仕事で、午後一旦家に戻って、夜にはまた外出。そろそろ新しいアルバムの企画にも入らなきゃいけないんで、結構忙しいみたい」
「そう…。でも、やめておくわ。私と拓海は、うちの子供たちと違って、そんなに仲のいいきょうだいじゃないし」
“母”はそう言って、なんでもないことのように苦笑するが―――姉と弟の仲がより疎遠になってしまった理由の大半は、やっぱり父との再婚だろう。
変な男と結婚したばかりに、と、咲夜は“母”の横顔をじっと見つめた。
「……何?」
「…蛍子さん、凄くいい人なのに、なんであんなオヤジと結婚しちゃったのかなぁ、と思って」
「あんなオヤジ、って…」
苦笑した“母”は、小さく息をつき、太陽の眩しさに目を細めながら、青い空を見上げた。
「そうねぇ…ハンサムでもないし、お金持ちでもないし、第一、奥さんも子供もいる人だったのにねぇ。でも―――そういう人だったから、かもしれない」
「そういう人、だったから…?」
「―――…私も、最愛の人に先立たれた立場だから」
そう言って、“母”は、ふいに立ち止まった。
「もしお父さんが、ハンサムで、若くて、お金持ちで、何のしがらみもない独身だったら―――同情はしても、突き放したかもしれない。私が支えなくたって誰かが支えるし、辛ければ、奥様の後を追うのだって、本人の自由だから。でも…あの人には、咲夜ちゃんがいたから。私が、最愛の人を亡くした時、苦しくて辛くていっそ一緒に死にたいと思いながらも、どうしても死ねなかったのは、やっぱり亘がいたから―――親としての責任があるから」
「……」
「…弱音を見せることのできない人なのよ、お父さんは。母子家庭だった私の相談にも親身になって乗ってくれてたけど、自分の苦しみは絶対表に出さなかった―――奥様が病気だってことも、ずっと、周りの誰も知らなかったのよ。勿論、私もね。いよいよ、もう駄目かもしれない、ってなった時になって初めて、憔悴しきった顔で話してくれた。…ああ…この人も、いずれ私と同じ思いをする運命にあるのか―――最愛の人と死に別れて、その孤独と戦いながら、子供を守りながら生きなければならないのか。そう思ったら……これまで相談に乗ってもらってきた分、今は私が支えなくちゃ、って思ったの」
そこまで一気に語った“母”は、大きく息を吐き出し、咲夜の方を見て微かに微笑んだ。
「多分ね。お父さんが私と再婚したのは、愛していたからというより、責任を取るためだったと思うの。それは多分…私も、同じ。私とお父さんを繋いでいるのは、愛よりも、親としての責任感と、愛する人を失った者同士の“連帯感”…かもね」
「…責任と、連帯感…、か」
「私も、お父さんも、愛だけで結婚できるほど、背負っているものが軽くなかったから」
「でも、愛もあるんでしょ? やっぱりさ」
「フフ、そうね。でも―――お互い、死に別れた人を超えるのは無理…かな」
「……」
「今、一番愛しているのはこの人だ、と自信を持って言えても―――思い出は、年々、美しくなるばかりだものね」
思い出は、美しくなっていくもの―――…。
咲夜は、振り返り、母の墓を遠く望んだ。
途切れてしまった命の思い出は、これ以上汚れることはない。遠く、遠くなるほどに、浄化され、朧気になり、より美しくなっていく。
―――お父さんが今も率先して法要を営むのって、罪悪感と責任感以外の理由も、もしかしたらあるのかな…。
12年経って、やっと、咲夜もそんなことを少しだけ考えられるようになっていた。
***
咲夜が部屋に着いて30分ほどしたところで、拓海が帰宅した。
「おかえりー。お疲れ様」
「…ああ…ホント、疲れた…」
言葉通り、疲れた顔をした拓海は、だるそうに部屋に上がりこみ、居間のソファにドサリと腰を下ろした。珍しくスーツ姿なので、午前中の仕事は、きっと拓海が大嫌いなスーツ族との事務的な仕事だったのだろう。
「麦茶あるよ。飲む?」
「ああ、頼む。全く―――お偉方との話し合いなんて、面白くもなんともないよなぁ…」
「なんか、難しい話し合いでもあったの」
「まあね」
ネクタイを緩めた拓海は、大きなため息をついて、面倒そうに髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「事務所が、新しいアルバムを出せ出せってうるさいんだよ。俺だって、そろそろとは思ってるけど―――モチベーションとか、アイディアとか、色々あるだろ、タイミングが」
「あー…、所属事務所との話し合いだったんだ。拓海のアルバムなんだから、拓海の好きな時に出せばいいんじゃないの?」
「だろ。でも、事務所の稼ぎ頭でもあるからな、俺は…。新人が伸び悩んで、事務所の経営も苦しいみたいだから、お偉いさんの言うことも理解できないでもないけどな」
「ふーん…」
―――なんか、奏みたいな立場だなぁ。
モデルとしての奏も、ちょうど、事務所での拓海みたいな立場だ。佐倉の事務所では、ダントツで一番の稼ぎ頭。なにせギャラ単価が全然違うので、1つ仕事を受けるだけで事務所に大きく貢献できる。だから「多少納得いかない仕事でも、事務所が困ってるようなら受けることも時々ある」と奏も言っていた。
ただ、拓海の場合は、「出せ」と言われてすぐ出せるものでもない。アルバムを作るには、凄いエネルギーとたくさんの作業が必要になる。
―――不本意なことやらされたり、無理を通されたりするのが、プロの辛いところだよなぁ…。
セミプロの自分の立場の方が、純粋に音楽を愛し、自分の望むことだけをやっていける、という意味では、幸せなのかもしれない。勿論、生活のために他のこともやる必要があるが、少なくとも“音楽の領域”を守ることだけはできるから。
「はい、どうぞ」
「あ、サンキュ」
コトリ、と置いた麦茶の入ったグラスを、拓海はちょっと嬉しそうに手に取った。よほど喉が渇いていたのだろう。麦茶は、あっという間に残り3分の1になった。
「はー…、生き返った。…で? 行ってきたか、墓参り」
「うん。…なんか、偶然“蛍子さん”が来てて、驚いた」
拓海の隣に腰掛けつつ咲夜が言うと、拓海も驚いたのか、少し目を丸くした。
「姉貴が?」
「前から、お参りしたかったんだってさ。お父さんたちと一緒に十三回忌に出席する訳にもいかないから、命日の今日にしたみたい」
「ふーん…。やっぱり、十三回忌の節目に、けじめをつけたかったのかもな」
「…かもね。それは、別にいいんだ。蛍子さんは、私も好きだし。むしろ…」
同じような立場なのに、“母”には理解を示せて、父には寛容になれない、というのは―――やっぱり、咲夜の個人的感情のせいだろう。音楽をめぐる対立もあるし、血の繋がった親子であるが故に寛容になれない部分もあるし…。とにかく、“母”が墓参りに来たことより、あの父が平然と母の十三回忌を営んでいることの方が、咲夜にとっては腹立たしい。
当時の父の寂しさ、苦しさ、辛さ―――大人になった今なら、なんとなくわかる。それでも、この12年で培われてしまった不信感と嫌悪感は、そう簡単に小さくならない。“母”の言う「親の責任」もわからなくもないが、その言葉より先に「子供の気持ち」を少し位は考えてくれなかったのか、と、どうしてもそこに引っかかりを感じてしまう。
「…私って、結構根に持つタイプなのかなぁ…」
自分の分のグラスを口に運びつつ、咲夜がため息混じりに呟く。その横顔をチラリと見た拓海は、残り3分の1も一気に飲み干し、グラスを置いた。
「俺なんざ、咲夜にあれこれ意見できる立場じゃないな。年食った親父と、さんざん喧嘩繰り返して―――お互い、意地っ張りで頑固だから、どっちが先に折れるかタイミング計ってるうちに、あっさり死んじまった。俺が間違ってるとは思わないけど、最後まで和解できなかったのは、ちょっとばかし後悔してる」
「……」
咲夜も、別に、父を責めた自分が悪かった、とは思わない。
それが、咲夜を養っていかなくてはいけない、という義務感と、妊娠した“母”に対する誠意の表れであっても―――父は、母を失ったショックの真っ只中にいる娘に、一番やってはいけないことをした。あれが1年2年先なら、話は別だっただろう。あの時、父に憤り、どうしても父を受け入れられなかった自分は、間違っていなかった。咲夜にだけは責められても仕方ないことを父はした、と、今でも自信を持って断言できる。
ただ―――このまま父が死んだりしたら、拓海同様、後悔を覚えてしまうだろう。
誰だって、肉親と反目しあいたくなんかない。わかってあげたい、わかって欲しい。
なのに―――何故、それができない?
「俺と咲夜が似てるように、うちの頑固親父と如月さんも、ちょっと似てるタイプかもな」
そう言って苦笑する拓海に、咲夜も思わず苦笑を漏らした。
「ハハ…なんか、そんな気してきた」
「…さて、と。あんまり時間もないしな。何にしようか」
弾みをつけて、拓海が立ち上がる。咲夜もグラスを置いて立ち上がり、拓海の後を追ってピアノの方へと向かった。
「なんでもいいけど、うーん……今は、聴きたいっていうより、歌いたい方が先に来るかなぁ…」
「じゃあ、“I'm a fool to want you”といきますか」
「は? なんで?」
ポロ―――…ン…。
拓海の人さし指が、鍵盤を叩く。この音は、A―――何の変哲もない部屋が、瞬間、音楽の支配する空間へと変化する。
「中1の時大泣きして以来、咲夜は、歌でしか泣かないだろ」
「……」
「今まで聴いた中では、“I'm a fool to want you”が、一番“泣けてた”歌だから」
「…ハ…、何それ。私を泣かしたいの?」
皮肉を含んだ咲夜の投げやりな笑いを無視して、前奏がスタートした。
力強いタッチのピアノ―――拓海の指が、物悲しい短調を奏でる。そう言えば、拓海のピアノも、この曲ではよく“泣いて”いる―――やっぱり、咲夜と拓海は、どこか根本がとても似ているのかもしれない。
「―――I'm a fool to want you...I'm a fool to want you...To want a love that can't be true...A love that's there for others too...」
目を閉じ、囁くように、歌う。
その声は、確かに、拓海が言うように、いつもの咲夜の声より“泣いて”いた。
恋の切なさを歌い上げる歌でありながら、その“泣いて”いる声は、まるで―――もうここにはいない母と、わかり合えないたった一人の肉親を嘆く声のように、咲夜自身には思えた。
『I'm a fool to want you』を歌い終わり、咲夜が大好きな『Moanin'』を弾いてもらったところで、タイムアップ。
「…ここまで忙しいなら、無理して戻ってこなくても良かったのに…」
慌しく寝室に駆け込み着替えを始める拓海を見送りながら、咲夜はやっぱり、ちょっと申し訳ない気分になった。
「気にするなって。俺が好きでやってんだから」
「…そうは言ってもさぁ…」
拓海は毎年、母の命日には、必ずこうして咲夜にピアノを弾いてくれる。
初めての命日、父と同席するのが耐えられず逃げるようにして拓海のマンションに帰った時も、帰宅後、咲夜から事の顛末を聞いて、「じゃあお母さんを悼んで1曲」と言ってピアノを弾いてくれた。以来、12年―――どんなに忙しくても、ほんの数分でも時間を割いてくれる。
何故、そこまでしてくれるのか―――咲夜には、やっぱりわからない。
まだ母を恋しがって泣いている子供だと思っているからなのか、それとも…他の理由があるのか。疑問に思うけれど、拓海に質問しても、この調子で「こっちが好きでやってることだ」で終わりだ。
「それより咲夜、今夜も“Jonny's Club”で歌うんだろ」
「あ、うん」
「昼間の暑さで、ちょっと参ってる感じだぞ。声の伸びが、絶好調時より2割減だった。しっかり体休めて、調子取り戻しておけよ」
「……」
―――さ…さすが、鋭い。
実は、ちょっと喉に違和感があったのだ。焦りを隠しつつ、咲夜はそっと、いつもバッグの中に忍ばせているのど飴に手を伸ばした。
「と、ところでさ。こんな時間から仕事って、一体、何? ライブじゃないよね」
のど飴を缶から1粒取り出しつつ咲夜が訊ねると、ちょうどそのタイミングで、寝室のドアが開いて、着替えを終えた拓海が出てきた。暑苦しいスーツから、夏仕様の麻のジャケットにGパンという普段の服装に戻っている。
「詳細は、秘密。ちょっと、人と会う約束があるんだよ」
「…ほんとに仕事? また女と待ち合わせなんじゃないの」
「さー? どうでしょう」
ハハハ、と笑いながら、拓海は咲夜の横をすり抜け、鍵を取りにピアノの方へと向かった。
「確かに相手は、女だしなぁ。こっちは仕事の話しに行くつもりでいるけど、相手が何考えてるかはわからないよなぁ」
「…働きすぎなんじゃないか、って、心配して損した」
確かに仕事の待ち合わせなのかもしれないが、その後、女と遊ぶだけの余力がありそうなのだから、同情する必要などなかった気がする。
「ちょっとは断ることも考えなよ…。ほんと、食べ物の好みはうるさいくせに、女に関しては好き嫌いなさすぎだよ」
「いろんなタイプに会ってみないと、自分の好みも確認できないだろ。咲夜は食わず嫌いなタイプだな」
ええ、どうせそうですよ。
思わずムッとして、眉をつり上げる。食わず嫌いも食わず嫌い―――色々なタイプを知るどころか、1人の男に10年も片想いを続けるような諦めの悪さなのだから。
「ああ、言い忘れてたけど、咲夜」
チャリン、と音を立てて鍵を手中に収めた拓海は、実にさりげなく、予想だにしなかったことを口にした。
「俺、レーベル、移籍するかもしれないから」
「―――…」
レーベルを……移籍、する?
突然の話に、咲夜はポカンとしたまま、声も出せなかった。
ずっとずっと、咲夜が目標にしてきた、ジャズ専門のレコード・レーベル。拓海のピアノで歌いたいからこそ、何度突っぱねられても、諦めることなくそのレーベルだけを狙っていた。でもまさか、そこから拓海が抜けるなんて―――そんなこと、一度だって考えたことはない。
目指していた道が、突如、目の前で寸断されたような気分だ。一体、どうして―――大きく目を見開いた咲夜は、涼しい顔で振り返った拓海の顔を、黙って凝視した。
「今日、これから会う人も、その関係者。まだ決めた訳じゃないけど、お前もうちのレーベル、目指してただろ。だから、残るにしろ移籍するにしろ、そういう話があるってことだけは言っておこうと思って」
「……」
「言っとくけど、メジャー・レーベルに比べてケチだからとか、そういう理由じゃないから。いいレーベルだと、俺も思う。だから、迷ってるんだ」
「…じゃあ…どうして…?」
「…まあ、色々あるんだよ」
苦笑した拓海は、ポン、と咲夜の頭の上に手を置いた。
「純粋に音楽に没頭したいけど―――色々、面倒なことが多いんだよな。それが、セミプロとプロの違いなのかもしれないけど」
「…今のレーベルじゃ、拓海は、音楽に没頭できない…ってこと?」
拓海は、答えなかった。でも、その目を見て、なんとなく―――音楽とは全然無関係なことで、拓海が神経をすり減らすようなことが起きているんだな、と直感的にわかった。純粋に音楽に没頭したくても、雑音が多すぎて、精神的に無理なんだな、と。
「そ、っかぁ……だったら、仕方ないのかもなぁ…」
ため息混じりに、咲夜が呟く。
ふっと笑った拓海は、咲夜の頭を軽く撫で、そのまま―――ほんの一瞬、咲夜の唇に軽く触れる程度のキスをした。
「……っ」
勿論、初めてではないけれど。
どこかの国に行っては、帰国する度、帰ってきた挨拶だと言って、昔からしょっちゅうキスをしてきたけれど。
こんな、何の脈絡もなくされるのは、これが初めてで―――咲夜は、驚いたように目を見開いてしまった。
「…咲夜は、純粋に、歌いたい歌だけを歌える世界に行けるといいな」
「……」
「お前なら、できるかもしれない。咲夜は、俺にとっては、“音楽の女神”だから」
―――音楽の…女神?
一流のピアニストの拓海から、そんな風に言われるほど、大層なヴォーカリストになった覚えは全然ない。咲夜は、僅かに眉をひそめ、困惑したように拓海を見上げた。
でも、そう言って咲夜を見下ろす拓海は、確かに―――どことなく、憧れのものを見るような目をしていた。
***
「えぇ、一成、もう行っちゃうのか?」
「なんだよぉ。せっかくお前の演奏聴きにきたんだから、もうちょっとサービスしろよ」
早々に席を立とうとする一成に、旧友たちが口々に文句を言う。一成は、済まなそうな顔をしつつも、再び腰を下ろそうとはしなかった。
集まった旧友は、いずれも、一成の音大時代の友人だ。普通のサラリーマンになっている者もいるし、某フィル・ハーモニーの一員になっている者もいて、それぞれの進路はバラバラだ。その彼らが、誘い合って来てくれたのだから、一成だって嬉しい。けれど―――…。
「悪いな、まだミーティングがあるんだ」
「付き合い悪いなぁ、全く…」
「次のコンサート、必ず行くから」
短くそう言った一成は、拝むように手を合わせてみんなに謝り、やっと席を離れた。
店内を横切り、ちょっと急ぎ足で“STAFF ONLY”のドアへと向かう。が――― 一成がそのドアに手をかける前に、新たな障害が現れた。
「あの、すみません!」
斜め後ろから、聞き覚えのない声に呼び止められた。
振り返ると、声の主は、“Jonny's Club”の店員の制服を身につけた、若い女性だった。クルクルとした大きな目を見て、こんなウェイトレスっていただろうか、と一成は眉をひそめた。
見覚えのない店員は、上気したように僅かに頬を染め、笑顔を一成に向けた。
「あたし、今日からバイトで入った、ミサと言います」
「…ああ、どうも」
なるほど、今日から入ったバイトの子だったのか―――どうりで見覚えがない筈だ。一成は、軽く頭を下げておいた。
「あの、さっきの演奏……凄く、素敵でした。あたし、ジャズとかよく知らなかったんですけど、あなたのピアノはその…とってもカッコ良くて、芸術家っぽいけどどこか男っぽくて、演奏の間、ずっと釘付けでした」
「…そりゃ、どうも」
店員が釘付けになっちゃ、まずいんじゃなかろうか、とも思うが、まあさして意味のない社交辞令だろうから、と一成の方も社交辞令レベルの笑みを返しておいた。
「毎晩、弾いてるんですか?」
「いや、1日おきに」
「じゃあ、ええと…火曜、木曜、土曜、ですか」
「ええ」
「あたし、毎晩勤務する予定なんです。じゃあ、週の半分はお会いできるんですね。あの、お名前は…」
「…藤堂、ですけど」
「藤堂さん、ですか。藤って字に、国会議事堂の堂、ですよね。あの、あたしのミサって名前は、」
「あの、」
なんだか終わりの見えないミサの会話を、一成は、なんとか苛立ちを抑えながら遮った。
「ごめん。急いでるんだけど」
「…あ…っ、そ、そうだったんですか。ごめんなさい」
ミサは、慌てたようにそう言うと、1歩後ろに下がった。
「じゃあ、明後日からも、よろしくお願いします。あ、それと! あたし、今日から藤堂さんのファンですから」
「……」
ニッコリと笑いながら放たれた一言に、一成は何故か、素直に「ありがとう」と言う気になれなかった。それは―――彼女が釘付けになったのが、演奏内容ではなく「演奏している姿」だったからかもしれない。
それでも、ファンだ、と言ってくれるのは、ありがたいことだ。一成は笑みを返し、改めて“STAFF ONLY”のドアを開けた。
―――もう、帰ったかな、咲夜は。
友人達が来ていたので、ステージから直接、彼らの席に向かってしまったのだが―――そのことが、少し悔やまれる。一成は、短い廊下を進み、控室のドアを開けた。
「咲夜―――…」
口にした言葉が、名前までで、止まる。
咲夜は、眠っていた。
ステージで着ていた、Gパンにシャツといういつもの服装で。スチール椅子に座り、壁に頭を預けるようにして、一成が来たことにも気づかずに。
「……」
規則正しく上下する肩を見ていたら、到底、起こす気にはなれなかった。一成は、咲夜を起こしてしまわないよう、静かにドアを閉めた。
―――何か、あったんだろうか…。
何気なく咲夜の傍に佇み、その寝顔を眺めつつ、少し眉をひそめる。
今日の咲夜は、なんというか…上手く言えないが、どこか、普段と違っていた。
いつもカジュアルな服装なのに、見慣れない黒のワンピースで現れ、一成だけじゃなくヨッシーをも驚かせた。いつも元気で天真爛漫なイメージの強い咲夜だけに、突然の変身は、一成にはちょっとショックだった。
でも、いつもと違っていたのは、服装だけじゃない。元気がない、というか、覇気がない、というか……少しアンニュイな感じで、口数も少なかった。どこか具合が悪いのではないか、とヨッシーは心配していたが、一成は、心配しつつも、いつにない咲夜の様子に、少しばかり心が掻き乱されていた。
最近、自覚したばかりだったから。
このところ、何故、咲夜を取り巻く人間関係に、やたらナーバスになり、イライラしていたのか…その理由を。
『もしかして、好きなのか? 咲夜のことが』
咲夜の友達である彼に、そう言われて―――やっと理解できた。ああ、だからだったのか、と。
勿論一成は、元々、ヴォーカリストとしての咲夜に惚れ込んでいた。
都会の片隅で、偶然出会った、奇跡のような歌声―――聴いた瞬間に、全身に震えが走った。豊かな声量、ジャズに限らず声楽の世界でならどこでもやっていけそうな透明な声、躊躇なくメロウに発せられる高い音……普通の大学に通うただの学生で、専門家のボイストレーニングすら受けたことがない、と聞いて、衝撃を受けた。そして、これだけ澄んだ声が、泥臭いブルースを歌うそのギャップに、この出会いは運命かもしれない―――と、新たな意味で震えた。
2人で組めば、絶対に、上手くいく。出会った瞬間にそう直感した。
そして事実、咲夜ほど一成のピアノに合うヴォーカリストはいないし、一成もまた、自分以上に咲夜の力を引き出せるピアニストはいない、と自負している。
麻生拓海が叔父で、咲夜のジャズの基礎を築いたのも彼だ、と知った時には、さすがにプレッシャーを感じた。麻生拓海は、一成にとっても、憧れのピアニストだから。でも…いずれ、超えてみせる。さしで勝負したら勝てないかもしれないが、こと、咲夜の歌に関してだけは、拓海より自分が上を行ってみせる、と思っている。
…でも。
今は、それだけじゃない。
明るく、伸びやかで、ただひたすら真っ直ぐに自分の理想とする歌声を追求する、その姿が好きだった。
無邪気そうに見えて、その実、酷く飄々としていて、年上の一成やヨッシーをも簡単におちょくってみせる。そして、おおらかそうな笑みを見せながら―――自分の心の内は、決して見せてはくれない。そういう掴みどころのないところにも、苛立ちながらも惹かれていた。
ヴォーカリストとしてだけではない。今、一成は、1人の女性として、咲夜を見てしまっている。
そのことに気づいてしまった以上、その事実から目を背けるのは、もう不可能だった。
―――咲夜は、どう思ってるんだろう…俺のこと。
誰に対してもフレンドリーな態度を取る咲夜だが、恋人がいる、という話は一度も耳にしていない。もし、好きな相手もいないのであれば……自分にも、チャンスはあるだろうか。
「…無防備だなぁ…お前は」
普段、前髪に隠れている額をあらわにして眠る咲夜は、いつも以上にあどけない顔に見える。人の気も知らないで、安心したようにスヤスヤ眠る咲夜を見ていると、なんとも複雑な心境になる。
そんな、抱きしめて添い寝してやりたくなるような顔して、寝るな。
なんだかたまらない気分になって―――思わず一成は、眠っている咲夜の唇に、自らの唇を軽く触れさせた。
…何やってるんだ、俺は。
「……っ!」
キスをした瞬間に、我に返った。
慌てて体を引き、咲夜から距離を取る。危ない―――あんまり近くにい過ぎると、自分でも何をしでかすかわからない。口づけた瞬間より、今の方が数倍、鼓動が速かった。一成は、思わず口元を手で覆い、あたふたと視線をあちこちに彷徨わせた。
「う……ん……」
咲夜が、小さな声をたて、少し体を捻った。
まさか、今のキスに気づいてしまったんだろうか―――冷や汗をかきながら見守ったが、咲夜の目が開くことはなかった。
ただ。
眠ったまま、指先で自らの唇に触れると、やっと聞き取れるほど小さな声で、こう言った。
「―――…たくみ…」
「……」
…たくみ。
…“拓海”―――…?
まさか…麻生拓海のキスと、間違えている?
…どういうことだ? 叔父と、姪なのに。でも―――…。
「―――…」
今まで、咲夜が頑なに見せなかったものを、見つけてしまったのかもしれない。
再び、深い眠りに落ちていく咲夜を見つめたまま、一成は、突然突きつけられた現実に、暫し動くことすらできなかった。
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