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「えっ、移籍?」
「……だってさ」
窓枠に頭をくっつけるようにして、咲夜はそう言って、大きなため息をついた。
「ほんとはさー、お盆明け位に一応、拓海から簡単には聞いてたんだ。でも、詳しいことわかんなくて、昨日やっとマネージャーさん捕まえて訊くことができたんだけど―――どうも、7割がた、移籍の方向で動いてるみたい」
「へーえ…。契約内容でもめたとか?」
自らも事務所やクライアントとの契約の経験を多数持つ奏は、色々なトラブルを想像して、思わず眉をひそめた。
「うん…実は、去年から今年にかけて、拓海が何度かセッションライブをやったベーシストがいるんだ。最近その人と意気投合して、今度、ライブの様子を収録したセッションライブアルバムを出そう、ってことになったんだけど―――その人、拓海とは違うレーベルと契約してるんだ」
「なんか、まずいのか?」
「…拓海が契約してるとこって、すっっっっごい、プライド高いんだよね」
“凄い”に強烈なアクセントをつけた咲夜は、マネージャーから聞いた話を思い出してか、思い切り眉間に皺を寄せた。
「よほど気に入ったアーティストでないと、たとえ大御所でも契約はしないし、他レーベルのアーティストには徹底的に冷たいし、自分とこのアーティストの名前の入ったアルバムは、自分の所からしか出しちゃダメって姿勢なんだ。だから、拓海が、他レーベルのベーシストと共同でアルバムを出したいと思っても、無理なわけよ」
「えー…、そしたら、全部のアルバムが自分とこと契約してるアーティストしか使えない、ってことかよ」
「ううん。ほら、ブックレットにピアノ誰々、サックス誰々、みたいに書いてある、ああいう状態ならOK。ダメなのは、表に名前が出ちゃうやつ。拓海が一緒にやってるベーシスト、知名度もキャリアも拓海と優劣つけられる人じゃないから、両方の名前を出したアルバムにしたい、っていうこだわりがあるんだよね…。でも、レーベルは、契約外のアーティストの名前の入ったアルバムなんて出せるか、だし、うちのアーティストの名前の入ったアルバムをよそから出せるか、だし…」
「…うーん…つまり、やりたいことがやれない訳だ。今のとこじゃ…」
それは―――移籍も、止むを得ないだろう。
奏だって、やりたいことをやらせてくれない契約など、「切る」という選択以外あり得ない。まさに自分が、望まない仕事を強要された、という理由で、ロンドンのモデル事務所を「切った」のだから。奏以上の自由人らしい麻生拓海が、契約内容で縛られる人生に満足できる筈がないだろう。
「お前、反対なの? 麻生さんの移籍」
「…どーだろ」
脱力、という感じで窓枠にぐったり寄りかかっている咲夜は、そう言ってまた大きなため息をついた。
「なーんかねぇ…目標がスパッと目の前で消えちゃった感じなんだよねぇ」
「でも、今のレーベルって、デモテープ通るの、メチャクチャ難しいんだろ? だったら、麻生さんと一緒にやりたい、って思ってるお前からしたら、麻生さんがより入り込みやすいレーベルに移るのって、万々歳なんじゃねーの」
「その筈なんだけど―――やっぱ、無意識のうちに欲張りになってたのかなぁ…」
「欲張り?」
「…今のレーベルってさ、お高くとまってるだけのことはあって、契約アーティストの顔ぶれって、そりゃあ豪華絢爛なんだよね。特に、海外のアーティストが。私があそこを受かりたい、って思った動機は、確かに拓海なんだけど…私が好きなアーティストの大半があそこからCDを出してる、って理由もあったんだ。だから、あそこ以外を狙ってる自分が、まだ想像つかない」
「…なんか、結構、複雑なんだな」
「たとえばさ、」
ぴん、と人差し指を目の前に立てた咲夜は、少し身を乗り出して、隣の窓の奏をジッと見据えた。
「奏は、ファッションショーに一番こだわりがあって、それ以外の仕事なら広告写真しか視野に入れてない。やむを得ず雑誌の仕事も受けることはあるけど、いわゆる動画の仕事は一切受けないポリシーがあるんでしょ?」
「え? あー、うん」
「じゃあ、もし成田さんが、突然方針転換して、明日からコマーシャル・フィルムの映像作家になっちゃったら、どーする?」
「……」
「成田さんと仕事したいから、不本意でもCFの世界に足突っ込んじゃう?」
「…………」
―――そ…っ、それ、は……っ。
「…う……うううーん」
思わず唸った奏は、窓枠に肘をついて、頭を抱え込んだ。
「だ…駄目だ。オレの低性能な頭じゃ、答えが出ない」
「…ま、今の私も、そーゆー感じよ」
「…お前、よくそんな困った状況で生きてられるな」
「あーあ…、空が青いねぇ…」
奏の呟きには答えず、咲夜は空を見上げてそう言い、大好きな『Blue Skies』の一節をハミングで口ずさんだ。
9月に入り、まだまだ暑い日は続いているものの、空気や光の色が、ほんの少しだけ秋に近づいている。
咲夜の言葉につられたように奏が見上げた空も、1ヶ月前に比べて、ちょっとだけ高くなっている気がする。頬杖をついたまま空を見上げた奏は、咲夜の脱力が伝染したように、はぁ、と小さなため息をついた。
「奏がため息つくような話じゃないじゃん」
空を見上げてたそがれている奏を横目に見て、咲夜がちょっと唇を尖らせる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた奏は、頬杖をやめ、あくびをしながら体を起こした。
「別に咲夜の話聞いてため息ついた訳じゃないよ。なんつーか…中だるみ?」
「らしくないなぁ」
「開店1周年のお祭りも終わったし、ショーも1本こなしたばっかだし」
「でも、いいこともあったじゃん。例の、お嬢様とか」
奏から明日美の話を軽く聞かされていた咲夜は、でしょ? という風に首を傾けてみせた。が…、奏はそれに、素直に頷く気にはなれなかった。
「…だから。彼女は、そんなんじゃないって。オレに興味はあるみたいだけど、中高生の憧れと同レベルだし、オレだってそんな気ないよ」
「でも、可愛いって言ってたじゃない?」
「可愛いは、可愛いけど…」
でも―――そんな風に、考えられない。
そう。本当はわかっている。ここ最近の、青空とは対照的な憂鬱の原因は。
あれ以来、明日美とは、店が終わった後に4回ほど会っている。と言っても、単にカフェでお茶したり、夕飯を食べたりしながら、学校のことや仕事のことを話す―――そんな当たり障りのない付き合いをしているだけで、まだ友達にさえなっていない感じだ。
それでも、わかってしまう。明日美と奏の温度差が。
明日美の態度は、わかりやすすぎるほどに、わかりやすい。奏が好きだと、態度も表情もはっきりと示している。でも…奏の方は、違う。勿論、好ましい女性だとは思うが、どう考えても恋愛感情はゼロだ。その温度差が―――憂鬱の原因。
いいんだろうか、本当に。
この温度差を抱えたまま、顔を合わせ続けても。
「そう難しく考えないでもさ、たまに食事したりするいい相手になりゃ、それでいいじゃん」
奏の難しい顔をチラリと見て、咲夜が、あっけらかんとした口調でそう言った。
「上手くすりゃ恋愛に発展するかもしれないし、このままの関係で終わるかもしれないし。ただ1つだけわかってるのは―――会わない限り、友達になる可能性も、彼女になる可能性もゼロってこと。でしょ? なら、相手の思惑はともかく、会ってて奏が嫌な思いしない分には、会うことを楽しむこと考えた方がいいんじゃない?」
「…ん。オレも、そう思ってる」
そう、思っている。けれど。
一歩踏み出さなくては、失敗の可能性もない代わりに、成功の可能性もない。だったら、思い切って踏み出す方がいい。明らかに奏は、そういう考え方をするタイプだ。けれど。
それでも―――“けれど”の一言がつくのは、どうしてなんだろう? …自分でも、よくわからない。
「…そうだ。今日行くの、咲夜んとこにしようかな」
ふと思い立ち、奏はポツリとそう呟いた。
「は? 私んとこ??」
「“Jonny's Club”。今日も夜、食事する約束してるんだけど、どこ行けばいいか迷っててさ」
「ふーん…」
少し考えた咲夜は、微かに頷くと、奏に向かってニッと笑ってみせた。
「ラジャー。それなら、初心者さん向けな選曲にしてあげる」
「ん、助かる」
「ついでに、ちょっとだけ挨拶させてよね」
―――この笑い方の理由は、それか。
「…変なお節介は、ぜっっったい、焼くなよ」
奏が釘を刺すように睨むと、咲夜は「心得てますとも」と言って自信あり気に笑った。
***
「確かに、想像していたよりは紳士で、外見よりずっと真面目で好青年だと思うけど…」
「けど?」
じっ、と明日美が見つめると、向かい側に座った唯は、レモネードに刺さったストローを動かしながら、歯切れの悪い口調で続けた。
「…明日美には、ちょっと難関かも」
「……」
難関―――…。
単語の重たさが、明日美の肩にズシリとのしかかる。
つい30分前、いつものように“Studio K.K.”でメイクを済ませた明日美は、店を出る時、「明日美の片想いの相手を是非見てみたい」と言ってきかなかった唯を、勤務中の奏に初めて会わせた。交わした言葉は二言三言で、勤務中ということもあって奏の口調も接客モードだったのだが―――その僅かな対面の結果、唯が口にした感想が、これだ。
人を見る目がある方と、親友である明日美も認めている唯の言葉だけに…他の人に言われるよりずっと、重みがある。
「ど…どういうところが、難関なの?」
「凄く、女性の扱いに慣れてる人だな、って思ったのよね。変な意味じゃなく、わがままな人にも引っ込み思案な人にも、タイプタイプに合わせて上手に振舞えるタイプ、っていうのかな。多分、職業柄だと思うけど」
「…そういう人じゃ、ダメ?」
「ダメじゃないけど…うーん、なんて言えばいいのかな」
いい言葉が出てこないことに苛立ったように、唯は眉間に皺を寄せ、ストローを余計無意味に動かした。
「まあ、営業中だったせいもあるのかもしれないけど―――なんか、明日美に素顔を見せてくれそうにない人だな、って思ったの」
「…素顔…」
「素顔は、ああいう人じゃないんじゃないかなぁ…。あの顔で、あんな紳士的で大人な人だったら、ただ嫌味なだけじゃない? 見た目とギャップのある人だ、って明日美も本人から聞いてるって言ってたでしょ」
「うん…」
『オレも、外見がこうで、中身とは全然違ってるんで、時々この外見が恨めしくなるし。この風貌で、実はさけ茶漬けには梅干が合うなぁとか思ってる、って言ったら、引くでしょ、結構』
初めて会った日、奏自身が言っていた言葉を思い出し、頷く。
そう言われてみると、客と店員の関係を離れた奏も、口調以外は、店にいる時となんら変わらない気がする。それはつまり、奏がまだ接客時の仮面を外していない、ということだ。
モデルの仕事のことや氷室、星、テンといった仲間のことは話すけれど、プライベートなことをどれだけ話してくれているか、と言ったら、大して話していない気がする。明日美が個人的な悩み―――祖父の存在が重いとか―――を話すのに比べると、やはりアンバランスだ。
「…でも、それは、まだ会って間もないからかもしれないし…」
自らを奮い立たせるように、明日美が小声で呟く。それは唯も同じ考えらしく、明日美の言葉に大きく頷いた。
「それはあると思うわ。まだ個人的に会うようになって1ヶ月経ってないものね。まだまだこれからよ」
「そ、そうよね」
「うん、そうよ。頑張るのよ、明日美」
ガッツポーズを取る唯に合わせて、明日美もぐっ、と両手の拳を握り締めた。
その時、喫茶店の窓ガラスがコンコン、と音を立てた。
「……っ」
驚いて明日美が窓の方を見ると、そこに、明日美のすぐ隣の窓ガラスをノックしている奏の姿があった。ニコリ、と微笑まれ、明日美は両手をぐっと握り締めたまま、固まった。
「あら、王子様の到着みたいね」
「…タイミング悪いわ…」
「いいじゃないの。お上品な顔なんて見せても、距離を感じさせるばっかりよ。明日美の方も、どんどん素でぶつかってかないと」
―――で、でも、これはちょっと…あんまり見られたくなかったかも…。
恥ずかしさのあまり、明日美は真っ赤になり、慌てて両手を下ろした。
「ちょっと早く来すぎたかな」
明日美が店を出ると、奏は、まだ店内に残っている唯を気にして、大きな窓ガラスの方を振り返った。
「い、いえ。唯とは、大学でもずっと一緒ですから」
「なんなら、一緒に来てもらっても良かったんだけど」
「…それって、2人きりでも3人でも同じ、って言われてるみたいで、ちょっと寂しいです…」
拗ねたように唇を尖らせる明日美に、奏はちょっと吹き出した。
「冗談冗談。でも今日は、ちょっと特別な所に連れて行こうと思ってたからさ。あの友達も、一緒に来たら多分面白かったと思うんだけど」
「え…っ、特別な所?」
「そ。特別」
キョトンとする明日美を見下ろし、奏は、何かを企むような笑みを返した。
***
奏に連れて行かれたのは、普段、明日美が行く店とはまるで違った佇まいの店だった。
―――わ…あ、なんか、大人のお店って感じ…。
薄暗い、ムーディーな照明。使い込んだ味わいのある木製の丸テーブルと椅子。アンティーク調な壁かけ時計。流れているBGMは、明日美には馴染みのないジャンルだ。ライブ盤なのか、ドラムやピアノやサックスの音に混じって、時折歓声や拍手がスピーカーから流れている。
「来たこと、ある? こういう店」
「いえ…、ない、です。家族とはレストランばかりだし、唯とは、女の子に人気のありそうなカフェばかりで…」
「そっか。じゃあ、ジャズ・バー初体験ってことで」
「ジャズ・バー?」
初耳の名前に目を丸くする明日美を促し、奏は先に、手近な席の椅子を引いた。
「今流れてる曲。これが、ジャズ。ジャズを聴かせるから、ジャズ・バー」
「…ああ…これが、ジャズなんですね…」
ジャズ、という音楽ジャンルは、単語としてだけ知っている。が、どういう音楽をそう呼ぶのかは知らなかった。初めて聴いたジャズは、どう表現したらいいのか―――やっぱり、この店の造り同様、明日美にとっては「大人っぽい曲」だった。
「っつっても、オレも付け焼刃で、あんまり詳しくないんだけど。とりあえず座ろう?」
「あっ、ハイ」
奏に勧められ、席に着く。それを待って、奏も席に着いた。
――― 一宮さんのこういうところ、やっぱり、イギリス人ってことが関係してるのかしら…。
さすがに椅子を引くようなあからさまなレディ・ファーストはないが、奏は毎回、明日美より先に席に着かない。そういうところが好きな訳ではないが、唯の言う通り、本当に紳士だと思う。もっとも、それは奏がイギリス人だから、と言うより、女性との付き合いに慣れているせいかもしれないが。
―――きっと今までに、沢山の女の人とお付き合いしたんだろうな…。
奏ほどの容姿に、これだけのマナーと社交性が伴っていれば、当たり前のことだ。でも…過去に嫉妬してもしょうがない、とわかっていながら、やっぱり胸がざわつく。まだ友達にもなっていないのに、と、明日美は身勝手なやきもちを焼く自分を心の中でたしなめた。
キョロキョロと辺りを見回すと、会社帰りらしい背広姿の男性客、恋人同士らしい男女など、年齢も性別も実に様々な人々がいる。こういう雑多な空気も、明日美にとっては初めての体験だ。
「明日美ちゃん、何にする?」
明日美がキョロキョロしている間に、オーダーを取りに店員が来ていたらしい。ドリンクメニューを広げながら、奏が明日美に訊ねた。
「えっ? あ…、ええと、ワインがあれば、ワインを」
「ワインか…。じゃ、オレもワインにするから、1本頼もうかな。ここのハウスワイン、結構小さめのボトルだし。えー、ハウスワインの白1本と、チーズの盛り合わせ1つと―――あと、何かいる?」
「ええと…あとは、ゆっくりメニューを見てからにします」
「じゃ、とりあえずそんだけで」
奏がメニューを置くと、ウェイターは一礼して去って行った。その背中を見送った明日美は、物珍しさに、またキョロキョロしてしまった。
「…よっぽど珍しいんだなぁ」
そんな明日美を見て、奏がクスクスと笑う。なんだか、世間知らずなのを露呈してばかりいるようで、明日美は赤面してキョロキョロするのをやめた。
「で…でも一宮さん、どうしてここが“特別”なんですか?」
「ん? ああ―――実はさ、ここ、ジャズの生演奏があるんだ。ほら、あそこ」
そう言って奏が指差す方向を見ると、店の片隅に、アップライトのピアノが置いてあった。そこから少し離れた場所には、ウッドベースらしき大きな弦楽器も置かれている。
「その生演奏、オレの友達がやってんだ」
「えっ、一宮さんのお友達?」
奏の仕事仲間の類の話は聞いたことがあるが、プライベートな友達の話は、これが初めてだ。初めて奏の素顔の一端に触れた気がして、明日美はパッと表情を明るくした。
「そ、友達。オレが住んでるアパートの隣の部屋に住んでるんだけどさ。オレもジャズなんて全然知らなかったんだけど―――日本に来て、そいつの隣に引っ越してからは、毎朝のように隣からジャズが聴こえるもんだから、嫌でもジャズに馴染んじゃって」
「フフ、洗脳されちゃったんですね」
「そうそう。洗脳だよなぁ、あれって…。もう慣れたけど、初めて聴いた時には、CDだと思ってた歌声がいきなり咳き込むから、ビックリした」
「あ、歌なんですね、お隣の方」
ジャズの歌、というのは、どういう感じなのだろう―――ちょっと興味が出てきたところで、頼んでいたハウスワインとチーズが運ばれてきて、話が中断してしまった。
それぞれのグラスにワインを注ぎ、チーズをおつまみにして、一口飲む。すると、ふいに、BGMが小さくなっていき―――やがて、完全に消えた。
「計算通り、ジャストタイミングだったな」
時計を確認しながら、奏が呟く。どうやら、問題の生演奏の時間らしい。明日美は、チーズに伸ばしかけた手を引っ込め、椅子ごと舞台の方へと向き直った。
客席とほぼ同じ高さの舞台は、まだライトが点いておらず、入ってきた人影の顔の造作までは見えない。が、現れたのは、3人の人物だった。
中肉中背の男性が、ピアノの前に座る。それに続き、恰幅の良い男性がウッドベースを手にした。そして、それに続いて現れた人影に―――明日美の心臓が、ドキン、と跳ねた。
ピアノとウッドベースに挟まれるように、マイクスタンドの前に立った、ヴォーカリスト。
その小柄なシルエットは……どう考えても、女性、だったから。
「……」
―――い…一宮さんのお友達って、歌を歌っている、って言ってたわよ…ね。
考えてもみなかった。奏の言う“友達”が、女性だなんて。明日美の胸は、突然のことにざわつき、鼓動がいつもより速くなった。
ライトの中、浮かび上がったヴォーカリストは、明日美よりちょっと上位に見える、若い女性だった。
ショートカットをそのまま肩の上まで伸ばしたような、艶のある真っ黒な髪。あっさりとした目鼻立ちに、極々ナチュラルな薄化粧。少年ぽいとも思える顔立ちの中、くっきりとした二重瞼だけが、彼女に気だるいようなムードを与えている。その気だるさが、明日美の目には「大人の女」の持つムードのように思えた。
「こんばんは。“Jonny's Club”へようこそ」
一礼した彼女が、にこやかにそう挨拶すると、常連客らしき客から歓声と拍手が起きた。
声援に応えるように小さく手を振った彼女は、一旦マイクから手を離し、ぐるりと店内を見渡した。その目が、明日美と奏のいるテーブルを掠めた刹那―――彼女は、「ああ、いたいた」という顔で、胸の高さ位に軽く手を挙げた。やはり、彼女が奏の友達らしい。その証拠に、奏の方も、舞台の彼女に軽く手を振っている。
―――と…友達、なのかしら、本当に。まさか、彼女とかじゃ…。
明日美の不安をよそに、生演奏はスタートした。
骨太なベースの刻むリズムに乗って、軽やかなピアノが始まる。どこかで聴いたようなフレーズに、明日美は、これって何ていう曲だったかしら、と少し眉を寄せた。
彼女の手が、マイクスタンドにかかる。
マイクに口をつけながら歌うアイドル歌手などとは違い、マイクとの距離を十分に取って、彼女は歌い出した。
「The falling leaves drift by the window.... The autumn leaves of red and gold....」
―――あ…。知ってる。
学校で習ったことがあるわ。『Autumn Leaves』……『枯葉』だ。
知っている曲だけれど、アレンジは、歌唱曲として習った『枯葉』とはまるで違う。でも、さっきまでBGMで流れていた全く知らないジャズに比べると、前もって知っている分、とても聴きやすく、楽しめた。
いや、そんなことより。
凄い―――彼女の声に、明日美は素直にそう感じ、体が震えそうになった。
まるで、世界最高級のバイオリン・ストラディヴァリウスみたいだ。幸運にも1度だけ、その音色をコンサートで聴いたことがあるが、あの時も全身に鳥肌が立った。凄い……同じバイオリンでも、こんなに音が違うのか。そう思って、瞬きをするのも忘れてその音色に酔いしれた。
彼女の声も、まさにそんな感じだった。
透明で、伸びやかで―――高い音、低い音、全ての音域がクリアで自由自在。あんなにマイクまで距離があるし、彼女の体格なんて、下手をすれば明日美よりも痩せている位なのに―――なんて声量だろう。どこにあんな力があるのか、と、不思議に思える位だ。
「But I miss you most of all my darling, when autumn leaves start to fall....」
過ぎ去った恋の歌を切なく歌う、彼女の歌声。
チラリと奏の方を見ると、奏も、彼女の声を楽しんでいるらしく、頬杖をついて舞台を眺めていた。
もう一度、舞台に目を戻すと、そこに居る彼女は、酷く輝いて―――雲の上の存在みたいに、明日美には見えた。極めて平凡な顔なのに、ジーンズにシャツというカジュアルな服装なのに、かえってそのシンプルさが歌い手としての彼女をより輝かせているように思えるほどに……カッコよくて、別世界の人だった。
―――あんな人が…一宮さんの隣に住んでるの…?
それは、どんなグラマラスな女性や完璧な美女が登場するより―――明日美にとっては、衝撃的な事実だった。
***
ライブが終わって15分ほどすると、ヴォーカルの彼女は、奏と明日美のテーブルにやってきた。何故か、ピアノの男性も引き連れて。
「やっほー。来てくれたんだー」
「おー。来たぞー。ちゃんと初心者用選曲してくれてサンクス」
奏と彼女は、そう言い合って、パン! と互いの手をぶつけ合った。なんだか体育会系の男同士みたいなノリに、ああ、この2人は本当に友達なんだな、と、明日美はホッとしたような、複雑な気分になった。
彼女の後からやってきたピアノの男性は、あまり表情のない、憮然とした感じの表情をしている。奏が「よ、久しぶり」と挨拶しても、のそりと頭を下げるだけなので、もしかしたら奏をあまり良く思っていないのかもしれない、と明日美は思った。
「この子が、お店によく来てるって人?」
彼女の目が自分に向き、ドキリとする。緊張する明日美の肩をポン、と叩いた奏は、まずは明日美の方を紹介した。
「そ。叶 明日美さん。大学2年生だって」
「は、はじめまして」
しずしずと会釈する明日美に、彼女はにっこりと笑い、同じように頭を下げた。
「如月咲夜です」
「サヤ…、さん」
「そう。今日は“Jonny's Club”のライブにお越しいただいて、ありがとう。こっちのピアノは、藤堂一成。もう1人、ベースのヨッシーがいるんだけど、愛妻家で、ちょっとの間でも電話しに行っちゃってさ。ごめんね」
咲夜に紹介され、一成は、僅かに笑みを見せつつ軽く頭を下げた。精悍な顔立ちをしたピアニストは、女性が苦手なのか、単に無愛想なのか、何も言わなかった。なので明日美も、何も言わずに会釈だけ返しておいた。
明日美に挨拶を終えた一成は、すぐに笑みを消し、何故か奏の方に向き直った。
「一宮」
「ん?」
話しかけられるのが珍しいのか、奏が、少し目を丸くする。そんな奏の腕を引っ張り、一成は、咲夜と明日美に背を向けるようにして、小声で何かを奏と話し始めた。そんな2人を、咲夜も明日美も、少し不思議に思いながら目で追ったが、詮索するのもまずい気がして、咲夜の方から明日美に話を振った。
「一応、ジャズ初心者さんだって奏から聞いてたから、馴染みやすい曲選んだつもりだけど―――大丈夫だったかな」
少し心配そうに咲夜が言うので、明日美は大きく頷いた。
「ハイ。あの、2曲目と4曲目はよくわからなかったんですけれど…1曲目の“枯葉”と、3曲目の“星に願いを”は、よく知っている曲で楽しかったです」
「そっか。よかった。2曲目はさ、あそこにいる一成の選曲だったんだ。私は“微妙だからやめときな”って言ったんだけどね」
「でも、楽しい曲でしたし」
「ん、そう思ってもらえたなら、知らない曲でも成功、かな」
「ええ。4曲目も綺麗な曲でした。ベースの音が、とっても渋くって」
「あははは、渋いでしょー。あれってヨッシーが大好きなフレーズなんだ。明後日また会うから言っとくね。奏のお連れさんが渋いベースを褒めてたよ、って」
―――気さくな人…。
初対面なのに、明日美の方も全く気を遣わずに話すことができる。咲夜に対する警戒心が、僅かではあるが解けつつあるのを、明日美は感じた。
「咲夜。あんまり時間ないから」
早くも話が終わったらしく、奏を捕まえていた一成が、ぼそっと咲夜に囁く。腕時計を確認して、咲夜も「そうだね」と相槌を打った。
「まだこれから食事だよね」
ワインとチーズしかないテーブルをチラッと見て、咲夜が問う。奏も同じようにテーブルを見て、頷いた。
「まあね」
「運が良ければ、次のステージも見れるかもね。…じゃ、ごゆっくり」
どうやら、もう1回ステージがあるらしい。咲夜はそう言って、一成と共にその場を去ろうとした。手を振る咲夜に、明日美も頭を下げて応えたのだが。
「あ、ちょっと、咲夜、」
ふいに、奏が咲夜を呼び止め、咲夜が振り返る。
席から少し離れた場所で、奏は咲夜に何事かを小声で話しかけた。その表情は、明日美からは見えないが、その言葉を聞いて何かを答えた咲夜の方は、どこかからかうような、いたずらっこのような笑みを見せていた。
「……」
何を、話してるんだろう…。
気になる―――けれど、明日美は「ねぇねぇ、何の話?」と割って入れるタイプではない。少し離れた場所から、またざわつき始める胸を両手で押さえながら、奏が戻ってくるのを待っていることしかできない。
話は、二言三言の短いやりとりで終わったらしい。咲夜と一成は、すぐにスタッフ専用のドアの向こうに消えてしまい、奏も頭を掻きながらすぐに戻って来た。
「…何か、お話があったんですか?」
参ったな、という顔をしている奏が気になり、明日美がそう訊ねると、席に着いた奏は、苦笑を浮かべて答えた。
「いや、別に。いい曲選んでくれたお礼をしてただけなんだけど―――逆に“可愛い子じゃないか”ってからかわれた」
「……」
同性から言われた言葉とわかっていても―――ちょっと、照れる。明日美は、僅かに頬を染め、テーブルの上に視線を落とした。
***
「…一宮さん? 大丈夫ですか?」
「―――…えっ」
ちょっと考え事をしていた奏は、明日美の声に、ハッと我に返った。
真向かいに座る明日美は、少し不安そうな顔をして、奏の顔をじっと見つめていた。まずい―――慌てて奏は、誤魔化すように笑ってみせた。
「わ、悪い。ちょっと仕事のことで、考え事してた」
「いえ…わたしはその、いいんです。…あの、ほんとに大丈夫ですか?」
「…そんなに変な顔してた? オレ」
「変じゃないですけど…凄く、眉を顰めてたから…」
「ハ、ハハハ、まー、仕事のこと考えてれば、眉間に皺の1本や2本、できるよなー。…っていうか、もう帰らないとまずい時間だよな」
乾いた笑い声を立てつつ時計を確認すると、そろそろ9時だった。咲夜たちの次のライブまでまだ時間はあるが、明日美の門限・10時を考えると、もう出ておいた方が無難だろう。
「えーっと、出ようか」
「ハイ」
奏に促され、明日美も席を立った。
―――まずい、なぁ…。藤堂の奴。
先ほどの一成との会話を思い出し、レジに向かう奏の眉間に、また皺が寄る。
『一宮にこんなこと訊くの、間違ってるかもしれないけど―――もし、知ってるなら、教えて欲しい。その……咲夜と、麻生拓海って、どういう関係なんだ?』
まさか、奏の口から「咲夜が麻生さんに片想いしてんだよ」なんて言える訳もない。どうやら、両親の再婚で叔父と姪の関係になったことは本人から聞いたらしいので「オレもその位しか知らない」とだけ答えておいた。
―――でも、ああいうこと訊くってことは、咲夜の気持に気づいたとか、何かそれを思わせるものを見たとか、何かあったんだよな…。でもって、そういうことが気になるってことは…。
やっぱりあの時直感したことは、事実だったらしい―――奏は、小さくため息をついた。
正直、奏から言わせれば、一成の方がいいと思う。
麻生拓海は、咲夜にとっては特別な存在かもしれないが、客観的に見てお勧めできる組み合わせではない。一成と咲夜なら、バランスもとれてて、いかにもお似合いだ。でも―――咲夜の気持ちを考えると、やっぱり、10年もかけたこの恋を成就して欲しい、と、友達として願わずにはいられない。
咲夜は、一成の気持に気づいているんだろうか。
―――気づいたら気づいたで、あいつ、結構悩みそうだよなぁ…。告白されたとか、そういう類の経験談、ゼロだし。
全然モテないからねー、とカラカラ笑いながら言っていた咲夜だが、案外、密かに咲夜に想いを寄せていた輩もいたのではなかろうか。…本当に、恋愛面で不運の多そうな奴だ。
いや。
そんなことよりも。
『可愛い子じゃん。それに、ちょっと似てない? ほら、蕾夏さんに。奏にはいい相手だと思うよ、私は』
―――…蕾夏に似てる……、か。
「お客様?」
レジを打つ店員の声に、奏はまた我に返った。
「おつりを…」
「あ…、す、すみません」
差し出された小銭を慌てて受け取り、ポケットに突っ込む。先に出ているように言った明日美を、あまり待たせてしまってはまずい。奏は急ぎ、“Jonny's
Club”のドアを開け、店の外へ出た。
「お待たせ」
奏が声をかけると、待っていた明日美は、ふわりと微笑んで頭を下げた。
「ご馳走様でした」
「いや、大したもん、おごってないし」
「それに、楽しかったです。初めてのジャズ」
「ホント? そりゃ良かった。…行こうか」
「ハイ」
駅までの道を、明日美と並んで歩く。
もう何度目かの、このシチュエーション―――いつもなら、明日美の方が、今日食べた料理のことなどを話しかけてくるのだが、今日は何故か大人しかった。
―――具合でも悪いのかな…。
ワインを飲みすぎた形跡もなかったが…と、隣を歩く明日美の横顔を窺う。前を向いている明日美は、どことなく心ここにあらずな表情をしていて、さっきまでの奏同様、何かを考えているようだ。
「…あの…一宮さん」
突如、前を向いたままの明日美が、心あらずの表情のまま、口を開いた。
いきなりのことに、さすがに心臓が跳ねる。ドギマギしつつ、奏は一度、落ち着かせるように唾を飲み込んだ。
「な、何?」
「一宮さんって、付き合っている方、いるんですか?」
「―――…」
そういえば―――この質問は、これまでに、なかった。明日美からすれば、当然、一番気になることだろうに―――会う回数を重ねて、やっと訊くことができた、ということだろうか。
嘘をつくのは、まずい。奏は、ありのままを言うことにした。
「…いや、いないよ」
途端、明日美の足が、止まった。
立ち止まった明日美は、少し驚いたような目で、奏を見上げた。その目が意味しているのは、どう考えても「意外」という感想だ。
「ほ…ほんと、ですか?」
「…ほんとだけど?」
「……」
「ていうか、何、オレに彼女がいると思いながら、食事とかお茶とかに誘ってたの? 明日美ちゃんは」
「そ…そういう、訳じゃ…ないんです、けど…」
どことなく呆然、といった表情の明日美の返事は、語尾が次第に消えていった。
そのまま、暫し黙り込んだ明日美は、視線を少し落とし、もう一度口を開いた。
「じゃあ―――好きな人は、いますか?」
好きな、人―――…。
いない、と答えた方が、いいのだろう。
奏が引きずっている恋は、絶対に叶わない恋だ。好きなままでいる方がおかしい、間違っている、そういう恋だ。だから…いない、と答えるべきだ。断ち切るべき想いなのだから。
…でも。
でも、全てに直球勝負でぶつかってくる明日美には、そう答えることすら、誤魔化しのような気がした。
変に誤魔化せば、逆にこの子を傷つけるのかもしれない―――この子は、とても純粋で、正直だ。ならば自分も、正直に心を打ち明けなければいけないのではないだろうか。
「……いる」
長い間をおいて、奏が呟いた一言に、明日美の肩がびくん、と跳ねた。
ゆっくりと上げられた顔は、少しショックを受けたような表情だった。希望を絶たれたような明日美の目を見た奏は、ズキリと胸が痛むのを感じた。
「だ…誰、ですか…?」
「…明日美ちゃんの知らない人」
「…じゃあ…さっきの人でも、ないんですか?」
「さっきの人? ああ、咲夜のことか。…うん、咲夜でもない」
「……」
明日美の瞳が、更にぐらつき始める。見ていられなくて、奏は思わず続けた。
「でもオレ、その人の彼氏には、なれないから」
「―――…えっ?」
バカ。そんな話、この子にしてどうすんだよ。
自分で自分に突っ込みを入れたくなる。本当だ。どうかしている。明日美にこんな話をして、一体どうなる? 明日美は蕾夏を知らない。奏のことだってよく知らない。なのに…。
キョトン、と目を丸くする明日美は、既にその続きを待っている。言ってしまった言葉を少しばかり後悔しつつ、奏は息をつき、仕方なく続けた。
「…もう、振られたんだ。とっくの昔に」
「…い…一宮さんが、振られたんですか…?」
「オレだって、振られることはあるよ」
「……」
「でも―――忘れられない」
…忘れられない。
どうしても、どうしても、どうしても―――こんなにも苦しいのに、どうしても忘れられない。
自ら抉ってしまった傷が、ズキズキと痛む。全然癒えていない傷―――明日美の前で、その傷を晒す羽目になるなんて。奏は、僅かに顔を歪め、気まずさに視線を逸らした。
そんな奏を、明日美は、まだ目を丸くして見上げていた。
明日美からすれば、この奏が振られるなんて、信じられないことだった。何故、どうして―――そういう疑問が先に立って、なかなか考えが前に進まなかった。
最初の混乱が収まり、少し冷静さを取り戻すと、明日美は視線を奏から外し、何かを考えるように、車道を行き交う車を見るともなく見つめた。
そして―――何かを決意したように、一度唇を引き結ぶと、ゆっくりと奏を見上げた。
「一宮、さん」
「?」
明日美らしからぬ、決意を秘めたような、きっぱりとした声。
視線を逸らしていた奏は、少し驚いたように、明日美に目を向けた。
明日美は、緊張しているのか、ショルダーバッグのストラップを握る手に、真っ白になるほど力が入っていた。それでも、奏と目が合っても視線を逸らさず、真っ直ぐに奏を見上げた。
「一宮さんに、付き合っている人がいないなら……そして、今、好きな人と付き合う可能性もない、って言うのなら…」
そこで、一呼吸置き。
明日美は、はっきりと、奏に告げた。
「今度の日曜日、わたしと、デートしてくれませんか?」
「……えっ」
「好きです」
奏の言葉に被るように、明日美は、短い告白をした。
そしてもう一度―――目を丸くする奏を真っ直ぐ見据え、一言、一言を噛み締めるように告げた。
「わたし――― 一宮さんが、好きです」
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