←BACKFake! TOPNEXT→




― 第7の住人 ―

 

 『メッセージは1件です』

 『…あ、由香理? お母さんです。この前のお見合いの話、お返事どうするの? 悪い話じゃないと思うんだけどねぇ…次男坊さんだし、なんだかんだ言っても公務員は安定してるし。まあ、写真だけじゃ、判断つかないでしょ。1回会ってみてもいいと思うんだけど…。ああ、それとね、詩織ちゃん、昨日、あっちに戻っちゃったって。由香理に会えなくて随分寂しそうだったわよ? ねえ由』


 『―――メッセージを1件、消去しました』


***


 鍵を閉め、歩き出した由香理は、物置前でうな垂れている優也と、その傍らに立っているマリリンに気づいた。
 「戻ってないわねぇ…」
 「…どこかで事故にでも遭ってなければいいんだけど…」
 「まあ、猫は元々、気まぐれだから。気が向けばひょっこり帰ってくるわよ」
 ―――ふぅん…、あの猫、いなくなったんだ。
 由香理にとっては朗報だが、猫を可愛がっていた優也は、酷く憔悴した顔でうな垂れている。
 まだ子猫だから心配をするのはわからないでもないが、正直なところ、甘やかされた飼い猫が突然いなくなって戻らなくなったのなら、事故などで死んでいる可能性が高いように思う。諦めた方がいいのに―――だからペットなんて飼うもんじゃないんだ、と、由香理は小さくため息をついた。
 「あ、おはようございます」
 由香理に気づき、マリリンがにこやかに挨拶した。それで初めて、優也も顔を上げ、慌てたように由香理にお辞儀をした。
 ―――ご近所の馴れ合いなんて…。1ブロック先の夕飯のメニューまでわかるような田舎じゃあるまいし、やめてよね。
 たかが猫1匹のことに、朝っぱらから引きずり込まれるのは嫌だ。由香理は、2人につけ入る隙を与えないよう、無表情に会釈して、足早にその場を通り過ぎた。

***

 「ふーん…やっぱりお見合い、断るんだ」
 コーヒー缶のプルトップを引きながら、智絵が眉をひそめる。
 一足先にジュースに口をつけていた由香理は、肩を竦め、自販機の横の壁にもたれかかった。
 「当然よ。地方都市の公務員なんて、冗談やめてよね。私は東京から動く気ないもの。それに、写真も見たけど、大したことないし」
 「…はあ…」
 「それに、なんと言っても、今の私には真田さんがいるしね」
 「真田さん、ねぇ…」
 智絵は、複雑な表情でそう呟き、コクン、とコーヒーを一口飲んだ。気のない智絵の反応に、由香理は不満そうな顔をした。
 「なぁに? 何か文句でもあるの。私が真田さんと付き合ってることに」
 「…文句はない、けどねぇ…」
 「じゃー、何よ」
 「…正直に言っていい?」
 「どうぞ?」
 「私の目から見ると、由香理、真田さんの“彼女”じゃなく、ただの“都合のいい女”になってる気する」
 “都合のいい女”―――恋愛において、一番嫌な響きの言葉だ。いくら心配をしてくれている言葉だとわかっているとはいえ、さすがに不愉快さは隠せない。
 「ちょっと。仮にも友達に対して、その言い草は酷くない? 私と真田さんの今の関係は、どう考えたって“彼氏・彼女”じゃないの」
 「…具体的に、どういう関係よ」
 「だから―――7月の半ば位からは、週に1回か2回、食事して、お酒飲んで……ドライブにも1回行ったわよ」
 「で、お盆明けからは、飲んだ後には大抵ホテルへ直行、でも、翌日が休みでも絶対宿泊はナシ、真田さんの自宅にも行ったことナシ、よね」
 「そうよ」
 「……なんだかねぇ」
 まさしく、なんだかなぁ、という顔で、首を振った智絵は、眉をひそめたまま、また缶コーヒーを口に運んだ。
 「大体、好きだとも付き合おうとも言われてないんでしょ? まぁ、由香理がそれでいいんなら、私がとやかく言うこともないけど」
 「……」
 「それに―――あんまりいい噂聞かないよなぁ、真田さん。営業成績はいいけど、そのやり方に問題があるとか、顧客とトラブルになると対応できないとか」
 「…それは…成績悪い営業マンの、やっかみなんじゃない?」
 真田のセリフを借りて、ぼそぼそと反論してみる。真田からは、その類の話を、それはもう山ほど聞いている。人間の嫉妬って醜いよね、と由香理も思う。もっとも―――由香理は、真田の仕事ぶりなど、目に見える営業成績以外、全く知らないのだが。
 それに比べて、智絵は立場上、真田の同僚や上司とも話をする機会がある。その際、真田本人と顔を合わせることもあるだろう。その点が由香理としては心に引っかかるものの、逆に、だからこそ同僚たちの嫉妬からくる言葉も直接聞いてるんじゃないだろうか、とも思う。
 しかし、由香理の反論に、智絵は頷いてはくれなかった。
 「ほら、出向で来た、樋口係長。あの人来るまでは、同僚たちも、成績上げてる以上文句は言えない、って感じで渋々黙ってたみたいだけど―――樋口さんが、とても冷静に真田さんの問題点を指摘してるのを見て、これまで我慢してた声がじわじわと表に出始めてる、って感じよ」
 「その樋口係長だって、子会社の人間の“本家コンプレックス”かもよ?」
 また真田のセリフを借りて反論する由香理に、智絵は暫し口を閉ざし―――大きな大きなため息をついた。
 「とにかく! 私が言いたいのは、そうやって聞こえてくる噂を総合すると、真田さんは相当な“嘘つき”なんじゃないか、ってことよ。調子のいいこと口では言っておいて、中身はまるっきり別のことを画策してる、ってこと。しかも、嘘を指摘されても、それを正当化する上に、本気で“自分が正しい”と思っている“自己中・ナルシスト男”ってことよ」
 「……」
 「由香理に見せてる顔も、自分にとって都合のいい存在としてキープするための“嘘の顔”かもしれない―――その可能性を、一応頭に入れておきなさい、って言いたいの」
 「…ふぅん」

 ―――でも。
 もしそうなら、お互い様なんじゃない?
 私が真田さんに見せている顔だって、エリート社員の妻になるために作り上げた、“嘘の顔”だもの。

 「好きな人のこと、悪く言われて、面白くないだろうけど……私は、心配して言ってるんだからね?」
 「うん」
 わかってる、という意味を込めて少し笑った由香理は、それ以上のことは口にせず、ジュースを口に運んだ。

 好きな人―――…。
 …好きな人、か。

 その部分にだけは―――由香理は今もなお、引っかかるものを感じていた。

***

 今日も、真田と待ち合わせがあった。
 ―――見つかっちゃったら、怒られるかな…。
 普段、ほとんど足を踏み入れない、真田の居るフロア。エレベーターを下りながら、由香理はちょっとばかり不安になった。
 真田は、社内での待ち合わせを好まない。由香理とのことは、表立っては誰も言わないものの、真田や由香理の周辺の人間ならば誰もが知っているにもかかわらず、だ。
 前の秘書課の彼女の時もそうだったので、由香理もあまり気にしてはいないが、なんだか隠れて会ってるみたいで嫌だな、という気持ちも少しある。でも…あえて、社内で待ち合わせしようとは思わない。そんな瑣末なことで真田のご機嫌を損ねては、これまでの努力が無駄になる。
 ただ、今日聞いた智絵のセリフに、少しだけ―――ほんの少しだけ、心が動いた。
 これまで見てみたいとは思っていなかった、真田の仕事振り、真田のビジネスマンとしての顔―――そういったものを、1度見ておきたいな、と、なんとなく思ったのだ。

 開け放たれた営業1課のドアをそっと覗くと、まだ定時を回ったばかりの室内は、慌しく人が行き交っていた。
 腕まくりをした男性が、受話器を片手に何かを怒鳴っている。営業補佐の女性が、書類を抱えて忙しなく歩き回っている。同じ会社なのに、由香理の部署とは、まるで別世界―――いかにも「働いてるなぁ」という実感に溢れた光景だ。
 ―――やっぱり、いいなぁ…営業1課の人って。
 営業の中でも花形部署だけあって、どの男性も輝いて見える。さすがエリート集団。他の営業とは雰囲気が違う。
 その中でも、真田はトップなのだ。
 ―――そうよ、真田さんは売上トップなのよ。営業は成績が全てじゃないの。客にいい顔してさっぱり売上の伸びない営業より、多少強引でもきちんと売上を上げて会社に貢献している人間の方が出世するのは当然よ。
 真田は、間違ってない。
 そして、そんな真田を選ぶ自分も、間違ってない。
 由香理が、改めてそう深く納得した時、視界の端を、真田の姿が掠めた。
 「……!」
 まずい―――由香理を見つけたら、きっといい顔はしないだろう。由香理は慌てて、ここに来た目的のカモフラージュとして用意した別件を、行動に移した。
 キョロキョロと室内を見回し、目的の人物の姿を見つけた由香理は、その人物の方へと歩み寄った。
 「伊藤さん」
 「? はい」
 自分の席に着いていた営業補佐の女性に声をかけると、彼女は、書類を書く手を止め、由香理を振り返った。その席は、真田の様子もばっちり見える、まさにベストポジションだ。
 「総務の友永ですけど―――今月のタイムカードで、2、3、確認したいことがあって…今、いいですか?」
 「あ、はい、いいですよ」
 下を向いていたせいで、僅かにずれてしまった眼鏡を無意識のうちに直しつつ、伊藤はニコリと笑った。その向こうでは、真田が、険しい表情で電話応対をしていた。由香理は、時折真田の様子をチラチラと確認しながら、伊藤にタイムカードの説明を求めた。
 ―――うわー…、やっぱり真田さん、カッコイイ。同じ腕まくりスタイルでも、見た目のいい人がやると、映画のワンシーンみたいよねぇ。
 肩と耳で受話器を挟みつつ、手帳に素早くメモを取っている真田は、見るからに「できる男」だ。背も高いし、脚も長いし、仕事もできて、経歴も文句のつけようがない。やはり、真田以上の独身男性は、この会社にはいない気がする。
 そして、その彼女(と呼んでいいかどうか、由香理自身もちょっと疑問なのだが)の座に一応収まっている自分は、社内では一番幸せな人間だろう―――そう思うと、小さな不安や違和感などどこへやら、不謹慎な笑みが口元に浮かんでしまう。
 「ええと、この日は、樋口係長の営業に同行して直帰したんです」
 「ああ、営業先から直帰なんですね」
 真田を気にしつつも、伊藤の説明を受け、手元のメモ帳に「9月12日は直帰」と書き付けた。
 「営業補佐の人の直帰って珍しいから、思いつかなかったわ」
 由香理が言うと、伊藤も困ったような顔で笑った。
 「でしょう? 補佐の方が全体の数値を細かに把握している、って言って、即決の必要のある商談に同行させてくれたんです。補佐とか営業とか関係なく、その場その場に必要な人材なら連れて行く、っていうスタンスみたいですよ」
 「へーえ…、面白い方なんですね、樋口係長って」
 じゃあ今後は、営業補佐でも直帰のケースが結構あるのかもしれない。把握し難い勤務状況の社員が増えるのは、総務としては少々面倒だな、と由香理は思った。
 「わかりました。お仕事、中断させてごめんなさいね」
 「いえ」
 伊藤とそう言葉を交わし、由香理が屈めていた腰を伸ばした時。
 「真田さん」
 由香理の背後を通りかかった男性が、張りのある声で、真田を呼んだ。
 ―――う、うわ、やめてよっ。
 呼ばれれば、真田がこちらを見るだろう。ギョッとした由香理は、スカートの裾を直すフリをして、伸ばしかけた腰をまた屈めた。そんな由香理を不審とも思わず、男はすたすたと通り過ぎて行った。
 男に呼ばれた真田が、「はい」と答える声がする。どうやら電話は終わっていたらしい。
 「横川の件で、ちょっと来ていただいていいですか」
 「あ…、はい」
 どうやら、真田の方から、今の男の所へと出向くらしい。ということは、真田の上司だろうか―――目を上げた由香理は、今通り過ぎた男の背中の行方をこっそりと追った。
 男は、伊藤と同じ島の、一番端の席らしい。アタッシュケースをデスクの上に置いた彼のもとに、あまり愉快そうではない顔をした真田が近づく。すると男は、アタッシュケースから1枚の封筒を取り出し、顔を上げた。
 そして、ようやくその横顔を確認した由香理は―――あまりの衝撃に、この場も忘れて、大声を上げそうになった。

 真夏でも変わることのなかった、ダークな色合いの、仕立ての良いスーツ。
 一筋の乱れもなく整えられた、短い髪。
 堅物をそのまま絵にしたみたいな、面白みのない、生真面目そうな顔。

 ―――ど…どうして。
 どうして、うちのアパートの住人が、うちの会社にいるのよ―――…っ!!!!!!

 そう。その人物は、咲夜たちが勝手に“ミスター・X”と呼んでいる、あの男―――謎の204号室の住人だったのだ。
 「…? どうかしたんですか、友永さん」
 あんぐりと口を開けたまま、立ち去る様子もなく固まっている由香理に気づき、伊藤が斜め下から不審気に声をかける。我に返った由香理は、慌てて首を振り、伊藤にこっそりと訊ねた。
 「あ…あの、今、真田さんと話してる人って…」
 「え? ああ、あの方が、樋口係長です」
 「……」

 『今月頭から、子会社から出向で、新しく係長がうちの部に来てさ。そいつがまぁ、嫌な奴なんだよ。こっちは成果出してるんだから文句はないだろうに、細かい所に突っ込み入れて、ネチネチグチグチ説教するんだよ。重箱の隅をつつくみたいにさ』
 『俺が思うに、あれは嫉妬だな。子会社の連中には、よくあることさ。本家コンプレックス、とでも言うのかな』
 『俺に限らず、親会社の人間なら誰でも、嫉妬の対象なんだよ、あいつらにとってはさ。自分より年下で、社内評価も高い俺が、そのコンプレックスのターゲットになってるんだろう。全く…迷惑な話だよ』

 ―――あれが、噂の係長か…。
 真田の口からポンポン飛び出す「新しい出向係長」の悪口が、頭の中を駆け巡る。頻繁に食事に行くようになってからも、樋口に関する愚痴は毎回出てくる。具体的に何を言われたかはさっぱりわからないが、とにかく、真田が樋口の自分に対する言動を「嫉妬から来る陰湿なイジメ」だと思ってるのだけは、よく知っていた。
 …だが。
 まさか、その陰湿な上司が、自分と同じ所に住んでいたとは。
 「…最悪…」
 「は?」
 伊藤が不思議そうな顔をする。が、由香理は、誤魔化すのも忘れ、軽くこめかみを押さえた。

***

 その1時間後。由香理は、1階ロビーの片隅に佇んでいた。
 真田との待ち合わせは、いつもここだ。と言っても、待っている由香理に、真田が声をかけるような真似はしない。会社の1階は、ほぼ社内と同じだ。同僚や上司の目がそこら中にある。由香理は、真田がエレベーターから降りてくるのを待ち、その姿が見えたら、1歩先に外に出る―――そのまま駅とは反対方向へ向かい、適当な距離になったところで、後ろから真田が声をかける、という方法を取っているのだ。
 ―――まずいなぁ…。今日、注意力散漫だから、真田さん来ても見落としそう。
 そう思うものの、どうしても頭の中には、1時間前に知った新事実が浮かんでしまう。

 いや。よく考えたら、大したことじゃないのかもしれない。
 樋口の出向から、既に4ヶ月あまり―――これほど長い間、由香理は樋口に気づかなかったのだ。その間にも、これまで同様、通勤途中に謎の住人―――つまり樋口とは、顔を合わせている。多分向こうも、由香理が同じアパートの住人であることは認識しているだろうが、由香理が話しかけないのと同様に、向こうも話しかけてはこなかった。
 自宅に、真田の上司がいると思うと、なんだか嫌な気分ではあるけれど……そういう精神的な気持ち悪さを除けば、実害はゼロだ。あまりの展開に軽くパニックになってしまったが、冷静になってみると、「だから何?」と思わなくもない。
 ―――ただ、なぁ…。自分の頭上にあいつがいると思うと、真田さんを家に連れてく…なんて真似は、ちょっとできそうにないなぁ。
 自宅に招いて、手料理をご馳走して、ちょっとした新婚気分を味わったら、結婚を視野にいれた交際に発展するかも―――なんて甘い計画を時々妄想していた由香理は、それが厳しそうだと悟り、小さくため息をついた。

 その時、新たなエレベーターが1階に到着して、ゾロゾロと人が吐き出されてきた。
 再び気を引き締め、その面々の中に、真田の顔を探す。ところが―――見つけてしまったのは、真田ではない、もう1人の顔だった。
 「……」
 よりによってそれは、樋口の顔だった。しかも、樋口は、眉ひとつ動かすことなく、何故か由香理の方へとどんどん歩み寄ってくる。
 ―――ちょ…っ、な、なんで!?
 冗談じゃない。あの鉄仮面と話す気などゼロだし、いつ真田が来ないとも限らない。露骨に「こっちに来るな」オーラを放ったが、樋口はそれをものともせず、由香理まで1メートルの距離で、ピタリと足を止めた。
 初めて真正面から向き合う2階の住人は、チラッと見た時の印象と、まるで違わなかった。いい顔でも悪い顔でもない、極々平均的な顔―――多分、10人に彼の印象を聞いたら、10人全員が「真面目そう」と答えるであるほどに、とにかく真面目そうなことだけが特徴のような男だ。
 「真田さんを、待ってるんですか」
 何の感情も含めない声で、樋口が訊ねる。多分、由香理と真田の噂も、誰かから聞かされているのだろう。ムッとしたように眉を上げた由香理は、
 「あなたには関係ないでしょう?」
 と高飛車に言い放った。しかし、樋口は、そんな反応にも表情を変えず、淡々と告げた。
 「ええ、関係はありません。が、お伝えした方がいいかと思いまして」
 「え?」
 「今日は、真田さんは、来ませんよ」
 「……」
 ―――来…ない?
 「な…なんでよ。なんであなたが」
 「真田さんは、緊急の仕事で、まだ当分仕事が終わりません。わたしもこれから、その件で先方に出向くところです。真田さんは社内で事務処理ですが、わたしが戻るまでは帰れませんから、早くても帰るのは10時過ぎでしょう」
 「……」
 1時間前の、樋口と真田のやりとりが思い出される。何の話をしているかは、距離があるため聞き取れなかったが―――双方、表情は険しかったように思う。何か仕事上のトラブルが発生したのかもしれない。
 「あの分では、真田さんがあなたとの約束を思い出して連絡を入れるのは、随分時間が経ってからになりそうだったので、気づいたのも何かの縁と思って、一応お話ししました」
 「…それは……どうも」
 確かに―――過去にも、真田は何度かドタキャンや遅刻をしている。いずれも仕事が原因だが、由香理にその連絡が入るのは、待ち合わせの時間を1時間近く過ぎてからだった。そんな“前科”を身を持って知っている由香理は、樋口の言葉に、気まずそうにぺこりと頭を下げた。
 「じゃあ、わたしはこれで」
 「…っ、ちょ、ちょっと、待って!」
 用事は済んだ、とばかりに立ち去ろうとする樋口を、反射的に呼び止める。呼び止められた樋口は、ほんの少しだけ眉をひそめ、振り返った。
 「あなた―――いつから、気づいてたの? 私がここの社員で、その…真田さんと、定時後に会ってるって」
 「8月頃から、知ってましたよ」
 あっさり樋口はそう答えた。
 「嫌でも噂が耳に入りますしね。でも、わたし“も”住人と親しく付き合う方ではないので、話し掛ける必要もないかと思いまして」
 「…そ、そう。私はまた、あなたが真田さんを苛めてるから、その“彼女”には話しかけにくかったのかと思ったわ」
 2ヶ月近くも、一方的に自分のことを知られていたと思うと、悔しいような癪な気分になる。由香理は、無意識のうちに眉間に皺を寄せ、面白くなさそうな顔で樋口を軽く睨んだ。
 すると、樋口はますます眉をひそめ―――それから、軽くため息をついた。
 「あなたの認識には、2つ間違いがあります」
 「え?」
 「1つ。わたしは真田さんを苛めた覚えはありません。彼がどう話しているかは知りませんが、マナーと善意を持った一般的社会人として行動することを教えているにすぎません。彼が反発するのは、彼がマナーと善意に欠けた人物だからでしょう。…そして、もう1つ」
 ちょっと言葉を切った樋口は、由香理にとって残酷な一言をあっけなく口にした。
 「わたしが知る限り、あなたは真田さんの“彼女”ではありません」
 「……っ」
 「彼が、待っている筈のあなたに“今日は会えない”という電話1本寄こさないのは、仕事が忙しいからではない。あなたが“大切な人”じゃないからです」
 ―――ひ…酷い…。
 あまりの言い様に、唇が震える。何も知らないくせに。一体、何の根拠があって、そんなことを言うのだろう?
 「な…何よっ。真田さんに、他の女の影でもあるって言いたいの!?」
 「そんなことはありません」
 「じゃあ何!」
 「彼の本性を知っているから、想像がつくだけです」
 由香理の苛立ちなどよそに、涼しげな顔でそう言い放った樋口は、チラリと自分の腕時計を確認した。
 「そろそろ行かなくては、先方を待たせてしまいますから、これで失礼します」
 「ちょっと、」
 「友永さん」
 食い下がろうとする由香理を、樋口はもう一度振り返った。
 「狐と狸の化かしあいを、やめろとは言いません。でも―――残念ながら、あなたは、したたかさでは彼より上ですが、悪人度では彼より下です。必ず負けます」
 「……」
 「女性が泣くことになるのがわかっていて黙っているのは、ポリシーに反することなので、余計な助言をしました。それだけです。不愉快に思われたのなら、申し訳ありません」

 申し訳ありません。
 そう言う割に、樋口の顔は、出勤時に見るのと変わりない、感情の見えない無表情だった。

***

 真田から電話が入ったのは、結局、約束の時間を1時間過ぎてから―――由香理が、適当な店で夕食を半分ほど平らげた頃だった。
 『悪い悪い。また係長がミョーな因縁をつけてきてさ。おかげで残業だよ。悪いけど今日は無理だ』
 「…そう。残念だわ」
 『あ、電話が今頃になって、ごめんよ。一刻も早く電話しなきゃと思ったけど、もう事務処理が山積で、全然手が離せなくてさ』
 「ううん、いいの。仕事に没頭したら約束どころじゃないのは当然だもの」
 『サンキュ。な、明日はどう? 今日の埋め合わせするよ』
 「ええ、是非。お仕事、頑張ってね」
 『おー、頑張るよ。じゃあ、また同じ時間に、1階ロビーで』
 携帯電話から聞こえる真田の声は、本当に済まなそうだし、明日の約束を取り付けて本当に上機嫌そうだし―――とても、演技とは思えなかった。いや、演技だとしても、仕事なんだからしょうがないだろ、と高飛車に出るような男よりは、こうした対応の方がいい、と由香理には思えた。
 店を出て、すぐ近くのショットバーで1杯だけ飲み、帰宅の途についた由香理は、気づけば何度もため息をついていた。

 ―――狐と狸の化かしあい…、か…。
 まあ、そういう部分もあるかもね。男と女の駆け引きって。
 それにしたって、あの言い草はないでしょう!? いくら前から何度か顔を合わせてるって言っても、話すのは今日が初めての、ほぼ初対面の相手よ!?
 やっぱりあの人、真田さんに恨みや妬みがあるんじゃないかしら。
 成績ナンバーワンな上、こんな可愛い彼女までいるなんて認めたくなくて、意地悪言ってるのかも。どう考えてもモテそうにないものね、あの人。自分が彼女ナシの寂しい人生だから、ひがんでるんだわ、きっと。

 むかむかむか。思い出すたびに、頭の中心の辺りがカッと熱くなり、怒りがコントロールできなくなる。あんなのが同じアパートに住んでるなんて、考えただけで憂鬱だ。
 本気で引越し、考えようかしら―――また大きなため息をついた由香理は、あとアパートまで数メートル、というところで、ある人影に気づき、足を止めた。

 「Come on-a my house my house, I'm gonna give you candy, Come on-a my house, my house, I'm gonna give a you apple a plum and apricot too a, Come on-a my house, my house a come on...」

 何故か咲夜が、アパートの入り口に寄りかかって、歌を歌っていた。
 その様子は、誰かが帰ってくるのを待っているかのように、由香理には思えた。軽快なスウィングを歌うその声は、鼻歌程度の小さな歌声だが、夜の静けさの中、少し離れている由香理の耳にもはっきりと届いた。

 「Come on-a my house, my house, I'm gonna give you every......」

 フレーズの途中で、歌が唐突に途切れた。
 ハッとしたように顔を上げた咲夜は、ぐるりと辺りを見回し―――そこに由香理の姿を見つけ、脱力したように肩を落とした。
 「なんだ―――友永さんだったんだ」
 「…なんだ、って、何よ」
 いかにもガッカリしたようなセリフに、ちょっとムッとする。ただでさえ今日はご機嫌斜めなのに、気に食わない奴に会ってしまうなんて―――つくづく、ついてない日かもしれない。
 「誰か、待ってたの」
 ツカツカと歩み寄りながら由香理が訊ねると、咲夜は、うん、と頷き、また辺りをゆっくり見渡した。
 「ミルクパン待ってんの」
 「ミルクパン、って―――あの猫?」
 「そう」
 呆れたような顔をする由香理に、咲夜はニッ、と笑った。
 「あの子、日中はマリリンさんとこばっかりご厄介になってて、一番面倒見てんのは優也君だったりするけど―――最初に拾ったのは私だから、実は私と一番縁があるんじゃないかと思ってさ。こーやって歌ってたら、また、そこら辺の側溝にでも遊びに来るかと思って」
 「…バカみたい。前にも言ったけど、歌につられて猫が来る訳ないでしょ」
 「ハハッ、まー、いーじゃん。私が好きでやってんだから」
 由香理の現実的な意見などどこ吹く風で、咲夜はそう言って笑い、夜風に乱れた髪を無造作に掻き上げた。
 「まあ、あいつが新天地見つけて旅立っちゃったんなら、それはそれでいいんだけどね、私は。優也君がしょげてるの見てると、せめてもう1回、顔出してくんないかなー、とか思っちゃうよなぁ」
 「…でも、死んでるかもよ? その猫」
 甘いことを言っている咲夜に苛立ち、思わずそう口を挟んだ。「死」という重たい言葉に、さすがの咲夜も、僅かに表情を険しくし、気を悪くしたように由香理を軽く睨んだ。
 「そういうこと、軽々しく言わないでくれるかな」
 「軽々しく言ってるんじゃないわよ。そんな気がするから、言ってるの」
 「どういう根拠で?」
 「あの猫と違って、大人の猫だったけど、知り合いが飼ってた猫が、やっぱりある日突然、何の前触れもなく居なくなったのよ。知り合いは随分泣いたけど、その時、獣医さんが言ってた―――猫は、死期を悟ると、人目を避けてどこかに姿をくらます、って」
 「…でも、ミルクパンは、どう見ても1歳かそこいらだよ? 病気にもなってなかったし、それはないんじゃない?」
 「かもね。でも、自動車だらけの世の中に生きてるんだもの。事故で死ぬ可能性も結構あるし―――何日も戻らないようなら、死んだと思って諦めた方がいいんじゃない」
 「…冷たぁ…」
 「そんなもんなのよ、動物なんて」
 酷い奴、という目で見る咲夜に、由香理は、フン、という感じで腕組みをした。
 「特に猫なんて―――気まぐれで、餌を貰う時だけ人間に媚売って、あつかましくて大嫌いよ。他に餌を貰える所が見つかれば、飼い主の気持ちなんて完全無視で出て行っちゃうし…。恩義・忠義なんて言葉を知ってるの、せいぜい犬くらいのもんでしょ。ハムスターもインコも亀も金魚も、飼い主のことなんて、家族とも仲間とも思ってないわ。ただの“餌が出てくる便利な装置”だと思ってるんじゃない?」
 「……」
 ロマンも情緒もない由香理の意見に、咲夜は、唖然、という顔をした。
 が、暫く唖然とした後―――うーん、と首を捻った。
 「…飼い主は、餌やりマシンかぁ…」
 「動物の視点に立てば、そんなもんだと思うわよ。だから、平気で裏切れるのよ」
 「うーん…そうかもねぇ」
 そう、同意しておきつつ。
 咲夜は、由香理の目を真っ直ぐ見て、思いがけない事を口にした。
 「でもさ。動物より、人間の方が、平気で裏切るんじゃない?」
 「―――…え…っ?」

 動物より、人間の方が―――…?

 「動物の世界には、嘘がないじゃん。言語がないから、嘘をつかない。嘘という概念がないから、騙すという概念もない」
 「……」
 「人間だけが、嘘をつく―――嘘ついて、仲間や家族のフリする。生きるためでも、種を残すためでもなく……私利私欲のために、嘘をついて、平気で仲間を裏切ったり、仲間を殺したりする」
 そう言った咲夜は、どこか影のある、彼女らしくない笑い方をし、小さくため息をついた。
 「全く…人類こそが万物の霊長、なんてさ。この世に嘘をつく生き物は、人間だけだよ。高等なんだか下等なんだか…」
 「…そうね…」

 人間だけが、嘘をつく。
 1匹のメスをめぐって数匹のオスが戦うような世界―――その世界では、男女の恋愛は、そのまま種の存続に直結していた。ライオンが形成するハーレムだってそうだ。そこには、生きるという当然の使命があるだけで、打算も策略もない。
 狐と狸の化かしあい、なんて、狐と狸に失礼な言葉だ。
 人間だけが、化かしあいをする―――偽りだらけの恋をするのは、人間だけだろう。

 今日の樋口の言葉が思い出され、なんだか陰鬱な気分になる。
 そんな由香理を一瞥した咲夜は、よっ、と弾みをつけて体を起こし、うーん、と両腕を上に上げて伸びをした。
 「まー、そう言いながらもさ。その逆も言えるけどねー」
 「逆?」
 「そ、逆」
 どういう意味、と由香理が眉をひそめると、咲夜は由香理の方に顔を向け、くすっと笑った。
 「自分には何の得にもならないのに、傍にいることができるのも、人間だけ、かもね」
 「……」
 「自分の遺伝子を残すためでもなければ、安全を確保するためでもない。ただその人の傍にいたいから、自分の想いは報われなくても、傍にいる―――そんな芸当ができるのも、人間だけなんじゃない?」
 「―――…」
 「あー、喉渇いたな。ミルクパンも全然姿見せないし、そろそろ引っ込もっと」
 由香理の反応など、別に期待していなかったのだろう。咲夜はそう言うと、また小声で歌を歌いながら、由香理より先にアパートの入り口の中へと消えてしまった。


 人間だけが、打算だらけの、偽りの恋をする。
 人間だけが、見返りを求めない、純粋な恋をする。

 まるで正反対の、人間のありように―――由香理はそれぞれ、今の自分と、隣の大学生を当てはめた。
 「…アッハ…、ピッタリ」
 ピッタリすぎて、笑えない。

 ―――でも、如月さん。
 たとえ始まりが偽りでも、晴れてゴールインして、理想通りの生活を手に入れる。
 純粋ぶって、何もいらない、なんて言い続けた結末が、結局ずっとひとりぼっち。
 正論は、わかるわよ。でも―――どっちがマシな人生? 自分が惨めな思いをする立場にあっても、あなたは、ひとりぼっちになる道を選べる?

 「…選べるのかもしれないな…あの子は」
 ―――私とは違って。
 咲夜が消えた階段の方をぼんやり眺め、由香理はそう、呟いた。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22