Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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「来ても、ホント、面白いことないよ?」
ドアの前で、奏が念を押すように言う。が、明日美は、ふるふると首を振って笑った。
「わたしの部屋だって、面白くもなんともないですし」
「…っつーか、面白い部屋なんて、ないよな、普通は」
ぼそっと呟きつつ、ふと、奏の脳裏に、咲夜とは反対側の隣人・木戸の部屋のことが浮かんだ。
―――…いや、あるか。
壁にも天井にも、むさくるしい格闘家のポスターがベタベタ貼ってあり、家具はないのにぶら下がり健康器やバーベルは転がっていたあの部屋は、“面白い”かもしれない。が…一般人が足を踏み入れたら、面白いというより、引いてしまうと思うが。
ああいう趣味丸出しの部屋じゃなくて良かった、と思いつつ、奏は、自分の部屋の鍵を開けた。
本音を言えば、あまり気は進まなかった。
どこに行こうか、と言って、返ってきた答えが「一宮さんの部屋を見てみたい」―――見せるのは別に構わなかったが、なんとなく…こう、説明のつかない気の重さを感じた。
「あ、あの、別に彼女面したくて、言ってる訳じゃないんです。ただ…普段、どんな所で寝起きしてるのかな、とか、窓からはどんな景色が見えるのかな、とか…」
なんでも知りたいんです。一宮さんのことなら。
…はあ。そうですか。
オレって意外と“押し”に弱いタイプだったんだな、と、この結果を見て思う。いや、明日美が意外に押しの強いタイプだった、と言う方が正しいのか。
「どうぞ」
「…お邪魔します」
少し緊張した面持ちの明日美が、遠慮がちに部屋に入る。奏もそれに続き、ドアを閉めた。いや―――閉めようとして、ふと思いとどまった。
玄関の端に置いていた、かなり履き古したスニーカーを、足で引き寄せて、ドアが完全に閉まってしまわないようにドアの隙間に挟み込む。気休め程度だが、スニーカーの幅だけ開いたドアを確認して、奏も靴を脱いで部屋に上がった。
そろそろ秋の気配がする午後、窓から射し込んだ光は、窓際に置かれたカラーボックスを追い越して、床までも僅かにかかっていた。
「日当たりのいいお部屋なんですねぇ…」
「あー、うん。オレもそれが決め手で、ここに決めたんだ」
興味津々に狭い部屋の中を見回す明日美の後ろで、奏は、居心地が悪そうに壁に寄りかかり、そう答えた。
元来、人を家に招くことのないタイプだった。今まで付き合ってきた女性も、相手の家にはよく上がりこむ割に、自分の家にはあまり連れてこない性分で、それは友人・知人に関しても同じ―――だから、他人が部屋にいる、という、この状況がもの凄く居心地が悪い。
でも、この、かつてない居心地の悪さは……やっぱり、相手が明日美だから、だろう。
「…えっと…、紅茶、淹れようか」
奏が言うと、振り返った明日美は、とんでもない、という風に首を振った。
「そ、そんな―――男の人にお茶の用意をさせるなんて、とんでもない。わたしがやりますっ」
「…や、別に、男が紅茶淹れても、いいんじゃない?」
「でもっ」
「つーか、オレが淹れた方が、ウマいと思うんだけど…。紅茶マニアの親父に恩着せがましく教えられたおかげで、そこいらの喫茶店よりはおいしい紅茶が淹れられるようになったから」
さすがにそう言われると、強くは出られない。明日美は、恐縮したように身を縮め、
「…じゃあ、お願いします…」
と答えた。手持ち無沙汰にならずに済むことにホッとした奏は、さっそくケトルに水を入れ、コンロにかけた。
「男の人の部屋って、もっと散らかってるかと思ったのに、意外と綺麗なんですね」
「そうかな。単に物があんまりないだけじゃない?」
「あ、そう言えば、テレビがないですね」
「んー、あんまり興味ない。ラジオの方が好きだし、新聞は店でざっと読めば十分だし」
「じゃあ、一宮さんには、ドラマの話はできないんだ…」
「ハハ、確かに。明日美ちゃんは、よくドラマ見るんだ?」
紅茶の準備をしつつ、振り返って奏が訊ねると、部屋の真ん中に所在なげに立っていた明日美は、ニコリと笑った。
「ええ。あまりテレビは見ないけれど、ドラマは好き。でも、難しいのや深刻なのは苦手で、見るのは恋愛ドラマばかりだけれど」
「ふーん…恋愛ドラマ、か」
咲夜とは正反対だな―――「恋愛小説は嫌い」が口癖な隣人を思い出し、くすっと笑う。明日美と咲夜は、“一途”という部分では共通する2人だが、それ以外では、色々な意味で対極にあるかもしれない。
「……あ。一宮さん、サボテンなんて育ててるんですね」
窓際に置かれたサボテンの鉢植えを見つけたらしく、明日美が、嬉しそうな声を上げる。
あまり触れて欲しくないものを見つけられ、一瞬、胸がドキンと鳴った。が、奏は努めて平然と答えた。
「ああ、うん…、貰い物なんだけど、結構放置してても育ってくれるんで、オレでも育てられてるって感じ…かな」
「男の人が、植物を育ててるなんて、なんだか意外…。何て種類のサボテンなんですか?」
「さぁ? オレらは、勝手にマチルダって呼んでるけど」
突如、人の名前のような名前が出てきて、明日美がキョトンと目を丸くした。
「マチルダ?」
「そう。咲夜が勝手につけた名前だけど、なんか定着しちゃって」
「……」
「あ、咲夜って、覚えてるかな」
「…え、ええ。覚えてます。お隣さんですよね。ジャズを歌ってた……如月咲夜さん」
3週間ほど前に一度会っただけで、以来、話題にも出したことはなかったが―――明日美は、意外にも苗字まで覚えていたらしい。紅茶の缶の蓋を閉めながら、奏は明日美を振り返った。
「よく苗字まで覚えてるなぁ。オレなんて、同じ日に会った明日美ちゃんの友達の苗字、全然覚えてないのに」
驚いたような感心したような奏のセリフに、何故か明日美は慌てた様子で、ぎこちなく笑った。
「め…珍しい苗字だったから、たまたま覚えてただけです」
「ああ、確かに、特徴ある苗字だよな。…あ、」
シュガーポットを手に取った奏は、あることを思い出し、しまった、と舌打ちした。
「明日美ちゃん、確か、紅茶に砂糖入れてたよな」
「え? ええ。大体、小さめのを2個位」
「まずったなー」
砂糖を切らしていたのを、すっかり忘れていた。確か明日美は、苦いものや渋いものが苦手で、紅茶も砂糖なしでは飲めなかった筈だ。
「ごめん、明日美ちゃん。このやかん、お湯が沸いたら音が鳴るから、火を止めといてくれるかな」
「え?」
「隣から砂糖、借りてくる」
「…あ…、はい」
一瞬、明日美の表情が曇ったような気がしたが―――さして気に留めず、奏はスニーカーを履いて部屋を出た。
―――あいつ、いるかなぁ…。
日頃が過密スケジュールな分、日曜日は死んだように部屋でぼーっとしていることの多い咲夜だが……いなかったら、優也かマリリンに借りるかな、と考えつつ、奏は、咲夜の部屋の呼び鈴を鳴らそうとした。
が、奏の指がボタンを押す直前―――ガチャッ、と、咲夜の部屋の鍵が開く音がした。
「!!」
反射的に、2歩、後ろに下がる。コンマ数秒の差で、ドアは、奏の鼻先を掠めるようにして開いた。
「…っ、え、えぇ!?」
ドアを開けた張本人である咲夜は、ドアを避けて仰け反っている奏を見て、驚いて目を大きく見開いた。
「そ、奏!? ちょっ、大丈夫!? ぶつかんなかった!?」
「い、いや、ぎりぎり、セーフ」
―――でも、結構危なかったかも。
心臓がバクバクいって、一気に冷や汗が噴き出したが、奏はなんとか引きつった笑いを咲夜に返した。
「ごめん、まさか人がいるとは思わなかったから…。何? なんか用?」
「え? あ、ああ…。砂糖、貸してくれない?」
「砂糖? 料理用の?」
「いや、角砂糖。…実は、明日美ちゃんが来てて…あの子、砂糖なしでは紅茶飲めないから」
奏がボソボソと答えると、事態を把握した咲夜は、パッと表情を明るくし―――続いて、ニヤリ、と不吉な笑い方をした。
「へーえ、そっかそっか、明日美ちゃんがね、ふーん…。私、これから暫く出かけるから、ちょうど良かった」
「へ?」
「ここって結構、壁薄いからねー。夜まで戻らないから、遠慮なくどうぞどうぞ」
「…ッ、」
咲夜の不吉な笑みの意味を理解し、奏は思わず、ぺしっ、と咲夜の頭をはたいた。
「バ、バカ! んなこと想像してんじゃねえよっ」
「痛いなー。女の子連れ込んどいて、その言い草ってないと思うよ?」
「連れ込んだんじゃねーって。部屋が見たいって言うから―――…」
小声ながらも憤慨したように奏が反論する背後で、スニーカーの幅だけ開いたドアから、ピー、という笛吹きケトルの音がした。その音に反応して、2人とも、そちらに目を向けた。
多分、明日美が止めたのだろう。ピー、という音は、数秒鳴ったところで止まった。
「…随分と、紳士なことで」
咲夜のセリフに、ケトルの音に引き剥がされていた視線を咲夜に戻すと、咲夜の目は、ドアに挟まっている奏のスニーカーに向けられていた。何故そんなものが挟まっているのか、奏の意図が読めたのだろう。
「わかっただろ。そんなんじゃないって。人のこと、そういう目で見るなよな」
憮然として奏が言うと、咲夜は呆れたような目で奏を見上げた。
「ほんっと、単純な奴…。本気でキレないでよ。冗談で言ったに決まってんじゃん」
「……」
「ちょっと待ってて。角砂糖持ってくる」
そう言うと、咲夜はくるり、と踵を返し、自分の部屋に引っ込んだ。
―――わかり難い冗談言うんじゃねーよっ。
知らず、眉間に皺を寄せてしまう。
明日美との関係については、一応、咲夜には話してある。あの日、会う約束のことを話してしまった以上、事の顛末をある程度話さざるを得なかったのだ。だから、明日美がまだ“彼女”でないことは、咲夜だって知っている筈だ。知っていて、あんな冗談を言うとは―――悪趣味にもほどがある。
咲夜は、すぐに戻って来た。
「はい、どうぞ」
「…サンキュ」
咲夜が差し出したシュガーポットを受け取る。理由のない気まずさに、お礼までがぶっきらぼうになってしまう。
「今から外出、って、どこに行くんだ?」
「ん? ああ、店で一成と新曲練習。オーナーの好意で、時々貸してもらってるんだ」
「ふーん…。休日まで大変だな」
「好きなことは“大変”じゃないんだな、これが」
そう言いつつ部屋の鍵を閉めた咲夜は、振り返り、軽く奏の腕を叩いた。
「じゃ、仲良くやりなよ―――“彼女候補”と」
「…そっちも、もうちょいマシな扱いされるように、頑張れよ」
仕返しとばかりに奏がニヤリと笑って言い返すと、唇を尖らせた咲夜は、「大きなお世話!」と言って、グーで奏の胸を軽く殴って行った。
急ぎ戻ると、明日美は、テーブルの脇にぺたんと座り込んで、奏を待っていた。戻って来た奏の手にシュガーポットが握られているのを見ると、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「すみません、わざわざわたしのために…」
「別にいいよ。こっちが咲夜に貸すこともあるんだし、切らしてるの忘れたオレのミスだしさ」
奏は軽い調子でそう答えたが、明日美の表情はすぐれなかった。そんなに気にすることないのに―――押しの強いところもあるのに、妙に遠慮しすぎなところもあって、結構難しい。とにかく気にして欲しくないので、奏はそれ以上何も言わず、手早く紅茶を淹れた。
お湯がちょうどいい温度だったらしく、今日の紅茶は、理想的な色に仕上がった。
「はい、どうぞ」
カチャン、と音を立ててテーブルに置かれたティーセットを見て、落ち込んだような表情だった明日美の顔に、ふわりと嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「綺麗な色…」
「味や香りも気に入るといいけど」
「いただきます」
少し大きめだったのか、角砂糖を1つだけ入れた明日美は、さっそくティーカップに口をつけた。
目を閉じ、香りを味わうように一口、口にする。すると、パッ、と目を開けた明日美が、驚いたように目を見開いた。
「凄くおいしい…!」
「ハハ…、良かった」
「どうやって淹れたんですか?」
「お湯の温度と、お湯の注ぎ方にコツがある、って感じかな。親父にはまだ敵わないけど」
もっとも、父のように、紅茶を淹れるたび温度計を持ってくるようになったら、終わりだと思う。真剣な眼差しで温度計を睨む父を見て、そこまでやるなら喫茶店でも開け、と何度言ったことか…。きっと、母があんまり褒めるものだから、本気にしてのめりこんでしまったのに違いない。
まあ、何にせよ、明日美の表情が明るくなったので、ホッとした。奏も脚を崩し、自分の分のティーカップを口に運んだ。
こうして、のんびり紅茶を飲んでいると―――こういうのも悪くないのかもしれない、と思う自分がいる。
明日美を好きになれれば、のんびり、穏やかな時間が待っている気がする。それは、なんだか慣れない感じではあるが―――結構幸せで、ゆっくりと育てていける恋愛かもしれない。
そういう恋も、悪くない。そう思っている自分が、確かにいる。
けれど―――…。
「…咲夜さんって…」
唐突に、明日美が口を開いた。
ちょっとぼんやりしていた奏は、その声に現実に戻り、目をパチパチと瞬いた。
「え?」
「…いえ」
「? 咲夜が、どうかした?」
奏が眉をひそめると、明日美は、気まずそうに視線を落とし、僅かに頬を染めた。
「咲夜さんって、いくつなんですか?」
「いくつ、って、年齢? ええと…オレより3つ下だから…23? 今年24かな。それが、どうかした?」
「いえ。ただ―――よ、呼び捨てだから」
「呼び捨て?」
「…一宮さんのこと、“奏”って」
言い難そうに明日美が言ったセリフで、明日美の言わんとすることが、やっとわかった。ティーカップを置いた奏は、ちょっと可笑しそうに笑った。
「確かに日本じゃ“さん”とか“君”とかつくけど、英語圏じゃ、名前で呼び捨てが当たり前だよ。オレだって、“奏”って呼び捨てか、じゃなかったら“ミスター”付きで苗字で呼ばれるか、だったから、年下も大抵は呼び捨てだったし」
当然のことだが、奏がそう指摘すると、明日美はハッとしたように顔を上げ、目からウロコが落ちた、といった表情で奏の顔を見つめた。
「…ほんとだ…。そうですよね、考えてみたら」
「何、年下の癖に呼び捨てにして生意気、とか思った?」
「そ、そういう訳じゃ、ないです」
慌てて否定した明日美は、ちょっと恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ただ―――なんだか、呼び捨てって、親しそうだなぁ、と思って…」
―――ああ、なるほど。
奏からすれば、初対面の人間にでも“奏”と呼ばれるのが当たり前な生活をしていたので、なんとも思わないが―――明日美からすると、女性と男性が呼び捨てで呼び合う、というのは、随分親しい間柄に思えるらしい。言われてみれば、日本の文化では、そう感じて当然なのかもしれない。
「親しそうな呼び方が羨ましければ、明日美ちゃんも、呼び捨てで呼んでいいのに」
くすっと笑って奏が言うと、明日美は驚いたように目を見開き、またマジマジと奏の顔を凝視した。
「よ、呼び捨てで!?」
「そ。呼び捨てで」
「無理ですっ。せ、せめて、さんづけで“奏さん”か―――君づけで、“奏君”、とか」
“奏君”。
その響きに、ドクン、と鼓動が大きく跳ねて、止まった。
「―――…」
バカ、動揺するな。
自分自身でも予想だにしなかったスイッチに、奏の視線が揺れた。それを誤魔化すように、奏は無理矢理笑った。
「と…年下には、呼び捨てにされるより、君づけで呼ばれる方が、違和感ある気しない?」
「あ…っ、そうですね」
「…呼び方より、その丁寧語を変えてくれる方が、オレとしては嬉しいかな」
呼び方に話題が戻されるのが嫌で、奏は、話を微妙にずらした。
実際、呼び方などより、ですます調の方がよっぽど他人行儀だ、と思っていたが―――こんな展開でなければ、多分、それも明日美の個性だ、と、あえて指摘しなかっただろう。なんだか卑怯な手を使った気がして、胸がズキンと痛んだ。
“奏君”。
…気づかなかった。
オレをそう呼ぶ人は、親戚以外では……蕾夏だけだった。
明日美に“奏君”と呼ばれるのは、何故か、嫌だった。
他の誰かに呼ばれるよりも、ずっと―――どこかしら蕾夏に似ている明日美だからこそ、嫌だった。
***
店内から漏れ聴こえる音に、僅かに眉をひそめた咲夜は、ドアノブを回そうとした手を止めた。
そして、演奏の邪魔にならないよう、改めて静かにドアを開けた。
ガランとした定休日の店内で、一成が弾いていたのは、何故かクラシックだった。
一成の指が、力強いタッチで、ピアノのキーを叩く。ベートーベンは、一成が一番得意な作曲家だと、以前聞いた覚えがある。ベートーベンを聴くと、いつも激しく降りしきる雨を連想する咲夜は、外の青空とは正反対な情景に、暫しその場に佇んだ。
―――まるで、何かにとり憑かれたみたい…。
咲夜が来たことにも気づかず、無心にキーを叩き続ける一成の背中を眺めながら、ここ最近感じていた不安が、また咲夜の胸を掠める。
何が、どんな風に、とは説明できないけれど―――最近の一成は、ちょっと様子がおかしい。
元々無口な男だったが、それまで以上に口数が少なくなり、時々ぼんやりと何かを考え込んでいるような表情をする。オーナーの話では、先週も、その前も、定休日に1人でここに来てピアノを弾いていたらしい。店でのライブが終わった後に、近くのスタジオを借りて弾いているらしい、とも聞いている。
一成は、あまり感情をピアノに表すタイプではない。けれど…今弾いているベートーベンは、酷く感情的だ。
もしもこれが、今の一成ならば、一成の心の中は大嵐だ。目を閉じると、浮かんでくるのは、窓を叩く大粒の雨、唸る木々、顔を上げれば息をするのも苦しい位の、激しい雨―――本当に…何かにとり憑かれているとしか思えない。
一向に演奏を止める気配のない一成を見兼ねた咲夜は、小さくため息をつくと、ツカツカとピアノに歩み寄った。
真後ろに立った咲夜にも、まだ気づかない。すぅ、と息を吸い込み、咲夜は、一成の耳元に顔を寄せた。
「いっせい!!」
「―――…ッ!!」
ギョッとしたように、一成の肩が跳ね、手が止まった。
慌てて声の主を仰ぎ見た一成は、そこにいるのが咲夜だとわかり、驚きのあまり飲み込んでいた息を、安堵と共に吐き出した。
「な…なんだ…咲夜か」
「なんだ、じゃないよ。約束したんだから、いるのは当たり前じゃん」
「…もう時間か―――悪い。気づかなかった」
腕時計を確認した一成は、そう言って立ち上がり、軽く伸びをした。時間も忘れるほど、長い時間弾いていたのだろうか―――咲夜は余計、眉をひそめた。
「ねえ、一成…。最近、どうかした?」
「どうか、って?」
ピアノの前を離れ、壁際の席に向かいながら、一成が訊ね返す。その返事が、妙につっけんどんな気がして、訊かない方がいいのかな、とチラッと思ったが…やっぱり、訊かずにはいられない。
「最近、根を詰めすぎなんじゃない? よくぼーっとしてるし…本当はすっごい疲れてるんじゃないかって、ヨッシーも少し心配してたよ」
「別に疲れてないよ」
「でも、」
「咲夜」
まだ何か言いたげな咲夜に、一成はポン、と何かを投げて寄こした。反射的にキャッチすると、それは缶コーヒーだった。
「…サンキュ」
「とりあえず、ちょっと休憩。…座れよ」
そう言いながら、自分も椅子に腰を下ろす。
―――何訊いても無駄、って感じだな。
諦めた咲夜も、一成の斜め向かいに移動し、ストンと腰を下ろした。
缶コーヒーのプルトップを引き、歩いてきて乾き気味だった喉を潤す。そんな咲夜の様子を眺めていた一成も、自分の分の缶コーヒーを開けた。
「そう言えば―――麻生さんの移籍問題、どうなった?」
さり気なく振られた話題に、缶コーヒーを運びかけた手が、ピタリと止まる。
「…ああ、無事交渉も終わって、正式に移籍になったみたい」
努めて何とも思っていない口調で、淡々と告げる。が…、内心、複雑な気分だった。その複雑な気分を振り払うように、咲夜はくいっ、と缶コーヒーをあおった。
「今度の所も超メジャーだし、ジャズ専門のネームバリューさえ考えなければ、拓海のデメリットになることは、何もないと思うよ。新人だった昔とは違って、拓海ももう、レーベルにこだわらないとハクがつかないって立場じゃないから、いいんじゃない」
「まあ…、そうだろうな」
少し考えるように一点を見つめた一成は、納得したように、何度か頷いた。
「それで? 咲夜は、どうするんだ?」
「んー…、正直、あそこ狙うモチベーションは、下がってる」
現金すぎる話で認めたくないが…それは、事実だ。咲夜は、苦々しげに眉を顰めた。
「勿論、それだけじゃないけど、やっぱり“拓海のアルバムに参加したい”ってのが、あそこ狙い続けてた動機だから―――その拓海が抜けちゃうと、やる気は下がるよなぁ…。でも、だからって“ラッキー、他のレーベルなら、契約外アーティストでもがんがん使ってもらえるじゃん”って素直に喜ぶ気にもなれないし……正直、自分がどうしたいのか見失って、迷子になってる感じ」
「迷子、か」
「…うん。ずっと、目標だったから…頭が、そう簡単に切り替わらないのかも」
叔父という存在より、恋して止まない人という存在より―――手の届かない、目標。
ずっと、ずっと、拓海を追いかけて走ってきた。拓海のピアノに憧れて、その音に寄り添える歌声に憧れて―――その憧れが、咲夜を歌わせてきた。今だって、その憧れは少しも消えていない。
でも―――移籍の話を聞いて以来、何かが、咲夜の中で変わった気がする。
ジャズ専門レーベルは、拓海がこだわり抜いた末に選んだレーベルだった。他のレーベルで既にCDを出していた拓海が、自分から話を持ちかけ、やっと認められて契約をしたレーベルだったのだ。だからこそ、咲夜もあそこに固執してきた。拓海が認められた所に、自分も認められたい―――そういう気持ちも、確かにあった。
それが、あっさり、拓海自身によって切り捨てられて。
自分があのレーベルを目指していたのは、拓海だけが動機ではなかった。ならば―――拓海が移籍したからといって、拓海にくっついて自分の目標も変えてしまうのは、何か違うんじゃないだろうか。
これまでこだわってきた自分は、何だったんだろう?
拓海のピアノに、自分の歌。それで1枚のアルバムを作る。…本当に、それだけが、自分の夢を叶える方法なんだろうか?
何が、どう変わったかは、自分でもわからない。ただ―――絶対的な目標が、ぷつん、と切れた瞬間から、今まで見えなかった自分のこと、拓海のこと、ジャズのこと……そういうものが、だんだん見えてきた。色々見えすぎて―――迷子になっている。
「迷子になってる時は、焦っても、答えは出ないんだよね」
ため息をついた咲夜は、また一口、コーヒーを飲んだ。
「とりあえず、答えが出るまで、デモテープ作るのはやめようと思ってる。拓海とのセッションは最終目標で、今はまだまだ、もっといい歌を歌えるように、鍛えなきゃいけないし」
「……そうか」
短く相槌を打つと、一成は、暫し黙ってコーヒーを飲み続けた。
どうしろ、とも、どうすべきだ、とも、一成は言わない。咲夜も、人から答えを貰おうとは思わない。一成に付き合って、咲夜も暫く、黙って缶コーヒーを口に運び続けた。
静かな時間が、ゆるゆると流れる。
一成との間には、いつも音楽があるから、こういう音のない時間は、結構気まずい。だから咲夜は、ついいつも、先走って自分から口を開いてしまう。
でも―――こうやって、黙っているのも、悪くないのかもしれない。咲夜は、そう、初めて思った。
お互い、少し心が疲れているみたいだから―――そんな時位は、言葉も音楽もなく、ただ静かに過ごす時間があっても、いいのかもしれない。
「―――…咲夜は…」
ふいに、一成が口を開いた。
ぼんやりとピアノを眺めていた咲夜は、一成の方に顔を向け、何? という感じに首を傾げた。
一成は、咲夜の方は見ていなかった。両手で包んだコーヒー缶を、意外なほど真剣な目で見下ろしていた。
「咲夜は―――プロになるなら、麻生さんの…」
「え?」
「麻生さんの方が―――…」
そう、言いかけて。
一成は、その続きを飲み込んでしまった。
何かを振り切るように顔を上げた一成は、怪訝そうな顔をしている咲夜に、微かな笑みを返した。
「…いや、なんでもない」
「? でも…」
「なんでもない。それより、大事な話があるんだ」
そう言うと一成は、手にしていた缶をテーブルに置き、ガタン、と音を立てて、椅子を少し動かして、咲夜との間合いを僅かに詰めた。
「大事な話? 演目のこと?」
「いや。この店の話じゃない」
「じゃあ、何?」
「咲夜に、やる気があればだけど―――少し、ライブ活動を広げてみないか?」
思わぬ話に、咲夜は、ちょっと目を丸くした。
「広げる、って……ここ以外でも演奏する、ってこと?」
「ああ。ただ、俺達には仕事があるから、ヨッシーみたいにライブハウスを掛け持ち、なんて真似はできない。だから、ジャズ・コンテストとか、セミプロのセッションライブとか、スポット的なライブ活動に、俺と組んで出てみないか?」
「……」
「俺の耳が確かなら、お前の声は、
「…確かに…」
実際、咲夜は、ライブが好きだ。
その瞬間にしか歌えない歌―――録り直しのきかない、一発勝負の歌。だからこそ、1回1回が大事で、愛しい。同じ『What's New』でも、ライブの方が、デモテープ用にマイクの前で歌った時より、ずっと気持ちを入れて歌うことができるタイプだ。
今まではルーチンワークの範囲内でしか、ライブのことは考えてこなかったが…時間の都合がつくなら、1ステージでも多くのステージを踏みたい、という欲は、咲夜にもあった。でも、忙しい一成に、それを持ちかけるのは無理な話だと、ずっと思っていたのだ。
何の計画もなしに、こんな話をする一成ではない。咲夜の目が、真剣みを帯び、キラリと光った。
「…何か、計画があるの?」
少し身を乗り出すようにして咲夜が訊ねる。
それを受けて、一成も、何かを企んでいるようにニッと笑った。
「金にならなくていいんなら」
「お金なんて、どーでもいい」
「…咲夜なら、そう言うと思った」
そう言って笑う一成に、咲夜も笑った。
笑ったら。
おもむろに伸びてきた手が、肩に置かれた。
―――…え?
と思った瞬間―――座ったまま、軽く、一成に抱き寄せられていた。
「…………」
拓海とハグを交わすのは、ただの挨拶で、毎度のことだけれど。
一成やヨッシーとも、ライブが上手くいった後など、互いに肩を抱き合って、それぞれの健闘を讃えたりもするけれど。
でも―――なんだろう、これは。
決して強くはない、まるで包み込むみたいな、緩やかな抱きしめ方―――おかしな意味じゃないのは、なんとなくわかる。でも…いつもの仲間内のスキンシップとも、なんだか違う気がする。
「―――もっと、いいピアノを弾いてみせる」
耳元で、一成が、意外なほど静かに、そう言う。
静かだけれど―――その声は、静かな炎をあげているような、はっきりとした闘志を感じさせる声だった。
「…誰にも負けない。1対1で勝負したら、負ける勝負でも―――これだけは―――…」
「……い…っ、せい…?」
何の話かわからず、咲夜が、小さく訊ねる。
すると一成は、ふいに腕を解き、咲夜の肩を押すようにして、咲夜の体を引き離した。
問いかけるような目をする咲夜に、一成は、意味深な不思議な笑みを、口元に浮かべた。
「―――俺が、誰よりも咲夜を歌わせるピアニストになってみせる」
そう言って、真正面から咲夜を見据える一成の目は―――今まで見たことがないほど、強い意志を秘めた目だった。
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