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― 不協和音 ―

 

 「じゃあ、これからは、“Jonny's Club”以外でも藤堂と組むんだ」
 「んー、多分。まだ詳細は決まってないけど」
 咲夜はそう言いながら、Tシャツの裾で林檎をきゅっと拭いた。そしてそれを、ちょうどアパートの入り口の幅だけ離れている奏に向かって、ほい、と放り投げた。
 林檎を見事片手でキャッチした奏は、それを手の中でポンポンと弾ませつつ、軽く首を傾げた。
 「やっぱ、箱が変われば、やる曲目とか変わるもん?」
 「まあね。もっとピアノソロが多い曲も出てくるだろうし、マニアックな曲とか、あんまりヴォーカルではやらないような曲を選ぶこともあるだろうし…」
 そう言いつつ、咲夜は、ポケットに無理矢理半分だけ突っ込んでいた、自分の分の林檎を引っ張り出した。さっきと同じように、はーっと息をかけて林檎を磨く。
 「とりあえず今は、一成の母校の学祭をジャックする計画、立ててるんだ」
 「ジャック?」
 ジャック、と言えば、ハイジャックとかバスジャックとかの“ジャック”だろう。なんだそりゃ、という顔になった奏に、咲夜は、手の中でポン、と林檎を弾ませて、ニッと笑った。
 「一成、音大出身じゃん。学祭も、学生主催のコンサートやらライブやらをいーっぱいやる訳よ。で、そういうライブの1つに、突然割り込んで1曲か2曲歌っちゃう、というのを計画してんの。もち、主催する学生とはグルだけど、知らなかった客はビックリ、ってな訳よ」
 それを聞いて、奏の目が興味津々に輝いた。
 「オレの高校でも、似たサプライズがあったけど、あれは大笑いだったぜ。吹奏楽の高尚な演奏が終わったと思ったら、いきなりロックバンドが乱入して、ロックコンサートに早変わりで」
 「あはははは、それ、面白い! あー、どういうライブに乱入するか、まだ聞いてなかったなぁ。ライブより、コンサートの方が面白かったかも」
 「なあ、その学祭っていつやるんだよ。オレも聴きに行きたい」
 「10月の最後の土日の、どっちか」
 「決まったら、絶対教えろよ」
 「うん」
 にんまり、と笑い合った2人は、ほぼ同時に、手にした林檎を一口齧った。無事台風シーズンを乗り切って出荷されたばかりの林檎は、適度に酸っぱくて、ほんのり甘かった。

 吹いてくる夜風は、すっかり秋風になっている。
 咲夜は、一成との新曲の練習帰り、奏は、明日美とのデート帰り。駅で偶然顔を合わせ、夜風の心地よさになんとなく部屋に引っ込みがたくて、立ち話になった。
 そうして今、奏と咲夜は、アパートの入り口の左右の壁にそれぞれ陣取り、壁にもたれて林檎を齧っている。その並びが部屋の位置関係と同じなのは、毎朝、窓越しに挨拶をする時の位置関係に慣れているからだろう。

 「でも…一成との活動が増えるのって、ワクワクする反面、ちょっと戸惑うなー…」
 もぐもぐ、と林檎を食べながら、咲夜が少し眉をひそめる。予想外な言葉に、奏も怪訝な顔をした。
 「戸惑う?」
 「うん。なんかさぁ…“2人1セット”で定着しちゃいそうで」
 「……」
 「“誰か”と一緒にプロを目指す自分に、ピンとこない。私って、目標が先すぎて、その途中の道が、あんまり見えてないんだよね、多分」
 ため息混じりな咲夜のセリフに、言わんとするところがわかったらしい。奏も小さくため息をついた。
 「麻生さんか…」
 「…うん」

 プロになるなら、その時は、ピアノは拓海で―――それが、咲夜の究極の夢。
 勿論、以前は航太郎のギターに合わせて歌っていたし、今だって一成のピアノで歌っている。でも、咲夜にとって、それは「通過点」だ。そうやって、いろんなアーティストとくっついたり離れたりしながら、結局はたった1人で夢を目指すのだろう―――咲夜はずっと、そう思っていた。
 一成は、“Jonny's Club”に限定された関係だと考えていたし、それしか無理だとも思っていた。忙しい人だし、そもそも実力に差がありすぎると咲夜は思っている。だから、活動の幅を広げるならば、それは「他の連中とも組む」という意味以外、あり得なかった。
 だから、こうして一成から1セットでの活動を切り出されると―――戸惑う。
 たとえそれが、叶う筈もない夢だったとしても……最終的には拓海と組みたい、と望んでいる自分が、一成と組んだまま歩き始めてしまっても、果たしていいんだろうか―――と。

 「…咲夜は、自分の隣を、常に空けておきたいタイプなんだな」
 食べかけの林檎をまた手の上で弾ませて、奏がポツリと呟いた。
 林檎を齧ろうとしていた咲夜は、その呟きに手を止め、不思議そうな顔をして奏の横顔を見つめた。
 「空けておきたい席に、藤堂がこのまま居座りそうな気がして、戸惑ってるんじゃない?」
 「……」
 「本当に隣に居て欲しい人が、はっきりと見えているから―――そいつが隣に座ってくれる可能性がたとえゼロでも、そいつ以外にその席を埋めて欲しいとは思わないから、誰かが隣に居座ったままになるのが、怖いんだろ」
 「…ハハ…」
 全く―――言い得て妙だ。
 苦笑した咲夜は、林檎を齧るのをやめて、夜風に乱れた前髪を掻き上げた。そして、反撃の意味も込めて、奏に向かってニッと笑ってみせた。
 「奏は、その逆かもね」
 「え?」
 「隣の席が空いてると、寂しくて、耐えられなくて、誰かに埋めて欲しくなるタイプ」
 目だけを咲夜の方に向けていた奏は、その言葉に顔色を僅かに変え、顔ごと咲夜の方を向いた。
 「そこに居て欲しい人はいるけれど、それが無理なのを自覚してるから―――この空洞が埋まることはないって知っているから、せめてこの寂しさを埋めてくれる人を、ずっと探してる」
 「……」
 「同じ、空いたままの隣の席を抱えてるのに―――両極で、面白いね」
 「…悔しいけど、認めるしかないな」
 思わず頷くしかなくて、奏も苦笑し、降参したように諸手を挙げた。


 孤独を抱えたまま、ずっと夢を追い求めたがる咲夜と―――孤独を抱えたままでは、生きられない奏と。
 どちらも、間違っているとは言えない。
 でも―――それが100パーセント正解だとは言えないことも、2人は、それぞれにわかり始めていた。


***


 「お前、相談する相手、間違ってんじゃねーの」
 ルーペから目を離した瑞樹は、奏の方を見ないままそう言って、チェックしていたフィルムを脇に置いた箱に放り込んだ。
 瑞樹の後ろの事務机の上に座り、片膝を抱えて瑞樹の作業の様子を眺めていた奏は、突き放すような瑞樹のセリフに、ちょっと口を尖らせた。
 「…元々客だから、店の連中には相談できないし―――女の意見より男の意見が聞きたいから、あんたに訊いてんだろ?」
 「なら、他の男に訊けよ。俺の意見は参考になんねーから」
 「なんで」
 「…あのな」
 軽くため息をついた瑞樹は、仕方なさそうに振り向いた。ちょっと不愉快そうに眉を顰めたその顔に、抱えていた膝ごと、思わず机の上で後退る。
 「1回しか恋愛経験ない奴に、恋愛相談するな」
 「……」
 「しつこい女の撃退法と、ストーカー女への復讐方法なら、いくらでも相談に乗る」
 「…そ…そう、っすか」
 ―――あんたの撃退法を真似したら、普通は、女に刺されるって。
 再び写真のチェック作業に戻ってしまった瑞樹の背中を眺めながら、密かにそう思う。
 生まれ育った環境のせいなのか、それとも、思春期に入る前から女の視線が絡まった状態で成長してしまったせいなのか。瑞樹の世の女性に対する視線には、時々、憎悪に近いものを感じられる。
 情状酌量の余地なしで、バッサリ斬って終わり。先輩である佐倉曰く「斬られただけの女はまだマシよ。斬られても懲りずに挑みかかった女は、再起不能で二度と大学に顔出せなくなってたから」―――つまりは、再起不能になるような方法で撃退してた訳だ。具体的に何をしたのかは、恐ろしくて聞く気になれなかったが。

 そんな瑞樹が、ただ1人、愛した人。
 瑞樹の恋愛経験は、確かにたった1回だ。けれど―――その1回は、「永遠」だった。

 羨ましい―――最近、つくづく、そう思う。
 その相手が、奏自身も恋して止まない人だから尚更―――何度恋をしても「永遠」を手に入れられない人間がゴマンといるこの世界で、たった1回の恋でそれを手にできた瑞樹が、羨ましくて仕方ない。
 でも、羨ましいだけじゃない。
 彼が「永遠」を手に入れるまで、どれだけ葛藤し、苦悩してきたかを、奏は―――奏だけは、知っているから。

 「…なあ、成田」
 抱えた膝を引き寄せ、奏は自らの膝に顎を乗せた。
 「やっぱり、間違ってるかな。好きになれるかもしれない、とか、好きになりたい、とか……そういう気持ちで、会い続けるのって」
 「さあな」
 短く答えた瑞樹は、また新たなフィルムをライトボックスに置き、ルーペを目に当てた。
 「くっつく過程なんて、男と女の数だけあるんだから、片想いされてるうちにこっちも好きになる、ってパターンもアリなんじゃねぇの」
 「…うん、まあ、そうなんだけど」
 「ただ、くっつかない運命にある奴とは、どんだけ頑張ってもくっつかないけどな」
 「……」
 「逆に、それが運命なら、離れようとしても磁石みたいにくっつくだろうし」
 「…運命…、か」
 瑞樹の口から出てくると、陳腐なその単語も、一気に現実味を帯びる。唇を噛んだ奏は、視線を落とし、黙り込んだ。

 これでいい、と思う自分と、間違ってる、と思う自分がいる。
 少なくとも、明日美のことは好きだ。恋愛感情とは微妙に違うが、可愛いと思うし、年の差もあって、守ってやらなくては、という気持ちにもなる。明日美の方も、多くを望んではいない。ならば―――これでいい。お互い、足りない部分を満たし合えているのなら、自分達は間違っていない。
 でも…蕾夏を想うような激しさで、明日美を想うことができるか、と言われたら―――多分、無理だ。
 激しいだけが恋じゃない。それはわかっているけれど、今もまだその激しさを引きずっている状態では、穏やかで優しい明日美との恋愛が、叶う筈のない激しい恋を上回ることはない……そう、思ってしまう。
 別の恋を見つけるのが先か、それとも、蕾夏への想いを断ち切るのが先か。それに迷う自分が、奏を責める。お前は間違っている、と。

 「…成田は、軽蔑する? オレのこと」
 ポツリと奏が訊ねると、瑞樹は、ちょっと驚いたような目をして振り返った。
 「全然無関係な女の子を、もしかしたら傷つける結果になるかもしれないのに、巻き込んでる。こんな真似までしてるのに―――それでもまだ、あいつのこと忘れられないでいるオレを、軽蔑する?」
 「―――…いや」
 瑞樹はそう答え、微かに笑った。
 「…運命なんて、結果論だ。全てが終わってから、ああ、これは運命だった、と思うのが運命だろ。運命だって自覚した想いに、まだ未知数の想いが敵わないのは、当たり前だ」
 「……」
 運命と自覚した想い―――蕾夏への、想い。未知数の明日美への想いが、その運命に敵わないのは、当たり前。
 言われてみれば、そうなのかもしれない。遠い未来か…もしかしたら、近い未来、明日美との関係に何らかの結果が出た時、初めてわかるのだろう。ああ、これ“も”運命だった、と―――それが良い結果でも悪い結果でも。
 「ま、どんな子か知らねーけど―――俺が言う事は毎回同じだから、それ以上のアドバイスは期待するな」
 「え?」
 また作業に戻りながら、瑞樹がそう言って、ついでのように一言付け足した。
 「二度と言わない、って言っただろ」
 「―――…」

 『蕾夏と比較するのだけは、やめとけ』

 思い出した、瑞樹の唯一のアドバイスに―――奏は、グラリと瞳を揺らし、視線を逸らした。


***


 一成と音大の後輩が共同企画した「音大祭突撃ジャック」の詳細が決まったのは、その話が持ち上がってから10日後のことだった。

 「毎年、このプログラムが不人気なんだよな」
 昨日出来上がったばかりだという音大祭のパンフレットを開いて、一成がトントン、とその一部を指差す。
 「パンクやヘヴィメタに走ってるサークルがあって、そこが毎年開いてるライブなんだけど…興味本位で客は入るけど、盛り上がってるのは本人達だけ、って状態が、もう3年ほど続いてる」
 「あー…、確かに、耳に馴染みがいいクラシックや普通のロックと違って、そっちの趣味じゃない人には結構寒いライブかもね」
 奏に誘われて行ったヘヴィメタのライブを思い出して、咲夜も頷く。あれはプロ中のプロのライブだったから、曲に馴染めずともギターテクニックなどを見て楽しむことができた。が、音大とはいえ素人集団のライブでは、それもなかなか難しいだろう。
 「で、短いライブだし、客が音疲れした最後の最後に、プログラムには載せずに俺達が登場する、と」
 「ヘヴィメタサークルが怒るんじゃない?」
 「そこは一応、考えてある。誰もが歌えるビートルズを、サークルの連中も一緒に歌うってことで」
 「ハハ、ジャズとヘヴィメタが一緒に歌う“Let it be”とか、おもしろそうじゃん。ええと日程は―――…」
 パンフレットを改めて確認すると、問題のライブは日曜日の午後の欄に載っていた。
 ―――日曜日なら、奏も仕事が休みだから、来れるかな。
 ヘヴィメタやパンクなら、奏も好きなので、咲夜達のライブジャック抜きでも楽しめるかもしれない。絶対教えろよ、と言っていた奏を思い出し、咲夜は少しだけ口元をほころばせた。
 「ヨッシーは参加しないの?」
 黙って計画を聞いているだけのヨッシーに確認すると、ヨッシーは、ライブ前の腹ごしらえであるおにぎりを頬張りつつ、ぶんぶん、と首を振った。
 「無理無理。その日、いとこの結婚式だから」
 「…ヨッシーんとこ、年がら年中、冠婚葬祭やってない?」
 「親戚多いからねぇ、うちもだけど、家内んところも」
 なるほど、結婚して、冠婚葬祭対象者が2倍になった訳だ。独身2名は、唯一の既婚者に「お疲れ様です」と頭を下げておいた。
 「ん、そろそろ時間だな。行くぞ」
 「はーい」
 おにぎりの最後の一口を押し込んだヨッシーの掛け声で、一成も咲夜も立ち上がる。3人は、順々に控室を出た。
 「あ、そうだ、咲夜」
 咲夜より1歩先に控室を出た一成は、控室のドアを閉めた咲夜を振り返った。
 「来月の麻生さんのライブ、チケット取れそうか?」
 「え? ああ、うん、なんとか2枚は取れそう」
 先週のうちに一成に頼まれていたので、拓海のマネージャーを通して、押さえておいたのだ。咲夜が2枚とVサインの意味で指を2本立ててみせると、一成は「サンキュ」と言って咲夜に笑みを返した。そして、前に向き直り、ヨッシーに続いて店へと続くドアに向かった。

 ―――なんか…やっぱり変だよなぁ…一成のやつ。
 前を歩く一成の背中を見ながら、咲夜は密かに首を捻った。
 やたら根を詰めて練習をしていることもそうだし、今まで一度も頼んだことのなかった拓海のライブチケットを咲夜に頼んだこともそうだし―――そして何より、この前の、あの唐突な抱擁。
 何度思い返しても、あの抱擁の意味が、咲夜にはわからない。そして、抱擁と共に言われた言葉の意味も。

 『…誰にも負けない。1対1で勝負したら、負ける勝負でも―――これだけは―――…』
 『―――俺が、誰よりも咲夜を歌わせるピアニストになってみせる』

 ―――誰と勝負してるの? 一成。
 一成が誰かに対して闘志を燃やしているのはわかるが、その相手が誰なのか、咲夜には思い当たる節がなかった。今、咲夜と組んでいるのは、他でもない一成本人なのだし、いずれは拓海と、と思っているが、それはずっとずっと未来の話だし―――何故今、一成の口からああしたセリフが出てくるのか、その理由が、いまいちわからない。
 もっといいピアノを弾く、とも言っていたが、これ以上実力の差が咲夜と開いてしまうと、追いかける咲夜の方が息切れしてしまいそうだ。
 一成の実力があれば、そんなにあくせくする必要など、まるでないのに……一体、どうしてしまったのだろう?

 そうした心配も、ドアをくぐり、店内に足を踏み入れた途端、一瞬にして霧散した。
 照明の落ちたステージの中央に置かれたマイクスタンドのシルエットを見ただけで、背筋がピンと伸び、混乱気味の頭が一気に集中する。一度深呼吸をした咲夜は、ステージに上がり、マイクスタンドにそっと手を添えた。
 頭上のライトがパッ、と一斉に点き、暗かった店内も一気に明るくなった。マイクを握りつつ、いつもの癖で店内をざっと見渡した咲夜は―――入り口近くのテーブルに目を移した瞬間、えっ、と目を丸くした。
 そこには、ちょっと気まずそうな笑みを浮かべた奏と―――居心地悪そうに奏の向かい側に座っている明日美がいたのだ。

***

 「奏―――…!」
 ステージが終わり、一旦控室に引っ込んだ咲夜は、慌てて2人の席へと駆け寄った。
 咲夜の顔を見た奏は、ハハハ、と誤魔化すような笑顔を作り、手を挙げた。
 「来るなんて聞いてなかったから、いきなりいてビックリしたよ。…あー、明日美ちゃん、久しぶり」
 「…こんばんは」
 咲夜が挨拶すると、明日美も控え目な笑みを浮かべ、ペコリと頭を下げた。10日前、奏の部屋に遊びに来ていたらしいが、明日美本人に会うのは、1ヶ月前、この店に来た時ぶりだ。相変わらず上品で育ちの良さそうな外見だが、奏の隣にいることに慣れてきたのか、前見た時よりはリラックスしているように咲夜の目には映った。
 「何、店あがった後のデート?」
 咲夜がニヤリと笑って訊くと、奏は困ったような笑みを見せた。
 「まあ、そんなとこなんだけど―――急だったから、いい店が思いつかなくてさ」
 つまり、突然明日美が“Studio K.K.”にやって来た、という経緯でのデートなのだろう。彼女候補として名乗りを上げたこともそうだが、明日美は、外見に比べて結構行動派なようだ。
 「いい店が思いつかない、ったって、あちこち行ってるでしょ、普段から」
 「いやー、それが……オレが店の連中と行くような店って、騒がしい居酒屋が大半だし、ムードもへったくれもなくて―――面倒だとファミレスだし、イタリアンとか言われると、もうメニュー暗記してるサイゼリアだし」
 「あー、サイゼリアねー。いいよね、安くて…」
 「なー、ドリンクバーあるし。…でも、デートって感じじゃないだろ」
 「まあ、ねぇ」
 ―――でも、この子は、そういう店でも良かったんじゃないかなぁ…。
 奏と咲夜の超庶民的会話を黙って聞いている明日美をチラリと見て、咲夜はふと、そう思った。
 明日美のことを、それほど知っている訳ではないけれど―――これまでの経緯を聞いていると、恋人同士のディナーとか、定番のデートスポットとか、そういうことよりも、「極当たり前の奏の日常」を望んでいるような気がする。居酒屋でも、ファミレスでも構わないから、奏がいつも行くような店に行き、奏が普段食べるようなものを食べ、自分も奏の日常の一部に触れたがってる―――そんな気がしてならない。
 奏は奏で、恋愛経験の全然ない明日美が相手なだけに、あまりムードのない所へ連れて行っては夢を壊してしまいそうな気がして、ついつい気を遣ってしまうのだろうが……明日美に関しては、そういう気遣いは無用かもしれない。また後でそれとなく助言しておこう、と、咲夜は頭の片隅にメモしておいた。
 「来るってわかってれば、それなりに気配りした選曲もしたのに―――今日って、結構マニア向けな選曲だったよ。明日美ちゃん、退屈しなかった?」
 咲夜が訊ねると、明日美は小さく首を振った。
 「いえ、なんだか、大人っぽい曲が多くて、カッコイイって思いました」
 「あー、2曲目の一成のピアノソロの部分、結構カッコ良かったでしょ。新曲で、一成が一番ノッてる曲だから、最近では一番の自信作なんだ」
 「難しい曲ですよね。わたしも小さい頃ピアノをやっていたから、ピアノの人の指の動き見て、驚いてたんです」
 なるほど―――元々、ピアノをやっていたのか。それなら、奏がこの店をチョイスしたのは、単なる苦し紛ればかりではなかったのかもしれない。
 そう咲夜が思いかけた時、突如、どこかかから携帯の着信音が鳴った。
 誰? という感じに咲夜と明日美がキョロキョロする中、奏がGパンのバックポケットから携帯を取り出した。どうやら、奏の携帯だったらしい。
 液晶に表示された名前を確認した奏は、途端、ギョッとした表情をした。
 「げっ、社長だ」
 「え、佐倉さん?」
 「なんだろ、こんな時間に―――ごめん、ちょっと席外す」
 パチン、と携帯を開きながら立ち上がり、奏はそう言って2人に断りを入れ、店の外へと出てしまった。

 ―――参ったな…。挨拶だけしたら戻るつもりだったのに。
 まさか奏のいない間に戻ってしまう訳にもいかないだろう。明日美と2人きりで残されてしまった咲夜は、このまま立っているべきか、とりあえず奏が戻るまで座っておくべきか迷った。
 明日美の方は、戸惑ったような表情で、奏が出て行ったドアを暫し見つめていた。が―――急に何かを決めたような表情になり、おもむろに、傍らに立っている咲夜を見上げた。
 「―――あの、咲夜さん」
 「え?」
 「ちょっと、お話してもいいですか?」
 「……」
 何だろう? 奏のことで、何か相談事だろうか―――何を話したいのかわからないが、断る理由もないので、咲夜は奏の席にストン、と腰を下ろした。
 「―――…何?」
 咲夜が促すと、明日美は一瞬、怯んだような目をして、緊張したように唇をきつく引き結んだ。が、話したいことがあるのは嘘ではなかったらしく、暫くすると覚悟を決めたように口を開いた。
 「…あの…、この前、一宮さんのお部屋に伺ったんですけど…」
 「ああ、うん。来てたみたいだね。角砂糖借りに来た日でしょ?」
 「ええ。あ…っ、角砂糖、ありがとうございました」
 「? …別に、いいけど」
 まさか、角砂糖のお礼が言いたかった訳ではないだろう。調味料の貸し借りなど、よくある話だし。
 「……あの……」
 「…はい?」
 「その、咲夜さんは―――よく、一宮さんの部屋に行ったりするんでしょうか…」
 「は?」
 唐突な質問に、思わず、目をパチパチと瞬く。
 もの凄く言い難いことを口にしているような様子の明日美に、一体どんな話が飛び出すんだ、と身構えていたら―――ちょっと、予想外。
 どういう意図で言っているのか、よくわからないが、下手に嘘をつくと、奏の話と噛み合わなくなったりして面倒だろう。咲夜は、正直に答えた。
 「よく、って言うほどじゃないけど、たまーに行き来してるよ?」
 「…それって、どういう用事で、行き来するんでしょう…?」
 「どういう、って―――仕事帰りに、あー疲れた、ビールでも飲もうかな、って時に、声掛けて“飲むかー”ってことになれば、どっちかの部屋で飲んでる、って感じ?」
 「……」
 咲夜の答えを聞いた明日美は、一度、大きく目を見開くと、なんだか辛そうな顔になって、力なくうな垂れた。
 ―――あ、あれ? まずいこと言った?
 明日美にとってショックになるような話は、何もないと思ったが―――首を傾げかけた咲夜は、そこでハッ、とあることに気づき、慌てて少し身を乗り出した。
 「あ―――あの、もしかして、夜に部屋を行き来してるからって、変な想像してる!? そういう心配なら、私と奏に限っては、ぜんっっっっっぜん、ないから!」
 「……」
 咲夜のフォローを聞いて、明日美がチラリと目だけを上げた。が……、その目は、どう見ても今の言葉に納得した目ではない。焦りに、咲夜の背中を冷や汗が伝った。
 「ほんとに、心配しないでよ―――ね? 奏から見たら、私は完全に男の友達と同じ存在だし、私から見た奏も、いわゆる男じゃ全然ないし」
 「…す…すみません」
 咲夜の必死さに、自分が今、どんな目で咲夜を見てしまったのかを感じ取ったのだろう。明日美は、自らを恥じるように顔を赤らめ、口元に手を置いた。
 「すみません、わたし……わたしも、おふたりの関係を変な風に勘ぐってる訳じゃ……ただ、」
 紅潮した顔で口元を抑えたままの明日美は、そこで言葉を切り、咲夜の顔を真正面から見つめた。
 その顔に浮かんでいたのは―――“不安”だった。
 「ただ―――時々、どうしようもなく、怖くなる時があって…」
 「……」
 「一宮さんも、咲夜さんも、お互い何とも思っていなくても、わたしは―――わたしの目には、一宮さんはやっぱり男の人で……咲夜さんは、女の人だから」
 「…………」
 「―――ごめんなさい」
 軽く目を見開き、言葉を失っている咲夜の様子に、明日美は、いたたまれなくなったように、視線をテーブルの上に落とした。
 「ごめんなさい、本当に……わたしったら、一宮さんの彼女でもないのに、こんな…。わ、忘れて、下さい」

 ―――それは、無理だよ、明日美ちゃん。
 聞いてしまった言葉を、忘れるなんて、無理だ。今更、聞かなかったことにはできない。

 「あ。おい、咲夜。なに人の席を無断占拠してんだよ」
 その声で我に返った咲夜と明日美は、弾かれたように、戻って来たばかりの奏の顔を見上げた。
 「? な、なんだよ、2人して」
 そのタイミングがあまりにシンクロしていたので、奏は驚いて、1歩後ろに下がった。不審がられてしまったことにオロオロしだす明日美に気づいた咲夜は、ガタン、と音を立てて席を立った。
 「別にいーじゃん。女同士で、積もる話も色々あったんだよ。それより、佐倉さん、何て?」
 「え? あ、ああ…、それが…」
 咲夜の言葉に、奏の表情が曇った。ちょっと挙動不審になっている明日美に目を移した奏は、済まなそうに手を合わせた。
 「ごめん、明日美ちゃん。まだ少し時間あると思うけど、オレ、事務所寄る用事ができたから」
 「え…っ、お、お仕事なの?」
 「来週ある雑誌撮影のことで、明日の朝までに確認しないとまずい書類ができたんだ。今すぐ店出ないとまずいけど―――どうする? オレと一緒に出れば、駅まで送っていけるんだけど…」
 「あ、じゃあ…、わたしも帰ります」
 慌てた様子でそう言うと、明日美はバッグを手に席を立った。テーブルの上の伝票をひったくった奏は、咲夜の方に目を向け、苦笑めいた笑みを浮かべた。
 「っつー訳で、帰るわ」
 「ハハ…、この時間からもうひと仕事かぁ…お気の毒。倒れないようにね」
 「お前だって、もう1ステージあるじゃん。…じゃーな」
 ニッ、と笑う奏に、咲夜も同じように笑い返した。
 そして、バタバタと店を後にする2人を最後まで見送ることなく―――“STAFF ONLY”のドアの向こうへと消えた。

***

 更にもう1ステージ終え、帰宅の途についた咲夜は、電車の中でも、歩きながらも、気づけば何度もため息をついていた。
 ―――参ったなぁ…。
 気が、重い。
 聞かなかったことになど、できる筈がない。無視などできない。あれが明日美の本音だと―――微笑を浮かべるその心の内では、ああいう不安を抱えているんだと、もう知ってしまったのだから。

 『それでも、ダメなのよっ! あんた、バカじゃないの!? 男同士なら誰も何とも思わないことでも、航太郎が男であんたが女なら、周りは色々噂するの! ううん、周りだけじゃない―――どんなに航太郎を信じてても、航太郎に愛されてても、いつも一緒にいる2人を見せつけられるたび、わたしが…わたし自身が、もう普通の目では見られなくなるのよっ! そんなことが、同じ“女”なのに、なんでわからないの!?』

 「…言ってくれるよね、シマリス」
 憮然とした顔で、思わず呟く。
 4年間も恨みがましい目で見られていたと思うと、今は腹が立つ。咲夜をバカで鈍感だと言うなら、明日美のようにはっきり不安をぶつければいいのに―――嫉妬深い女と思われるのが嫌な癖に、黙ったまま嫉妬する。そんな女と、不安を誤魔化す術すらもたない純粋無垢な明日美を比較するのもアホらしい位だ。
 あの時のショックが、まさか、こんな形で再現されるなんて。
 ―――参ったなぁ…。
 同じことを、また心の中で繰り返し、ため息をつく。疲労と苛立ちに、咲夜はぐしゃっと髪を掻き上げた。

 「あれ、咲夜?」
 アパートまであと2、3分、というところで、突如、背後から声をかけられた。
 振り返るまでもない―――足を止めた咲夜は、声の主が追いつくのを待ち、顔を上げた。
 「すっげー奇遇。今帰り?」
 「うん。結構時間かかったんだね、事務所の用事」
 並んで歩き出しながら咲夜が言うと、奏は、うんざり、という顔でため息をついた。
 「ああ。こんなギリギリで確認するようなことじゃねーだろ、ってな内容で、マジで腹立った」
 「ご愁傷様」
 「…今日はいきなり行って驚かせて、悪かったな」
 ボソリと謝る奏に、咲夜は苦笑を浮かべ、首を振った。
 「別に、謝るようなことじゃないじゃん。驚きはしたけどさ。でも―――あの子、うちの店より、ファミレスに行きたかったんじゃないかな」
 「え?」
 「恋愛シチュエーションを夢見てる段階は、もう過ぎてると思うよ。…もっと、素顔見せてやれば? その方が喜ぶよ、あの子ならさ」
 「……」
 ちょっとわかり難い表現だったのか、奏は眉根を寄せ、うーん、と唸った。
 「つまり―――デート向きかどうかより、オレが普段行くような店の方が、明日美ちゃんが喜ぶ、ってことか?」
 「ま、そういうこと」
 「…そういうもん?」
 「騙されたと思って、やってみなさい。あんたってホント、女関係華やかだった割に、恋する乙女心をぜんっぜん理解してないよね」
 「ハハハ…反論できねー…」
 ―――本当に、全然、理解してないよね。
 参ったな、という苦笑を浮かべる奏を見上げ、心の中で繰り返す。
 咲夜の話を明日美の前でする時、奏は、それを耳にする明日美の気持ちなど、まるで考えていないだろう。当然だ。咲夜にとっての奏がそうであるように、奏にとっての咲夜は、あくまで“友達”―――“異性”とは思っていないから。
 でも、そうは思ってくれない人もいる。
 少なくとも……今、奏が受け入れようとしている人は、そうは思ってくれていない。
 「あ、そうだ。例の音大祭の話って、どうなった?」
 咲夜の苦悩など知らずに、奏が呑気に訊ねる。
 訊かれて、咲夜もその話を思い出した。面倒な話題じゃなくなったことにちょっとホッとした咲夜は、幾分表情を明るくした。
 「ああ、その話だけど―――結局、日曜日になったみたい」
 「日曜日…って、何日だっけ」
 「ええと…27日かな」
 今日見たパンフレットに印刷されていた日付を思い出し、咲夜が答える。すると、奏の目が驚いたように丸くなった。
 「え、マジ!? 27日って、オレの誕生日じゃん」
 「―――…」
 それを聞いた途端―――咲夜の笑みが引きつり、それとは逆に、奏の顔が満面の笑みになった。
 「やった、ラッキー。去年の誕生日は仕事だらけで、なーんにもいいことなかったんだよなぁ。今年は咲夜たちのライブがあるから、ちょっとはマシな誕生日だな」
 「…ふ、ふーん…」
 ―――まずいって、それは。
 知らず、冷や汗が噴き出してくる。誕生日―――絶対、明日美も知っている筈だ。好きな人の誕生日で、しかも休日とくれば、絶対色々と計画を立てているだろう。
 やはり、まずい―――咲夜は、なんとか誤魔化し笑いを作り、奏を見上げた。
 「せ、せっかく喜んでるところを、悪いけど―――私は、出ないことになった、んだ」
 もの凄く、不自然な流れ。
 奏も「は?」という顔になり、不審気に咲夜を見下ろした。
 「なんで? お前と藤堂で組んで出るんだろ?」
 「…の、筈だったんだけど―――現役学生で、どーしても一成のピアノで歌いたい、って子が出てきちゃってさ。い…一成は、じゃあ意味ないからやめる、って言ったんだけど―――卒業間近な学生の、思い出になる話じゃん。だから、みんなで説得して、一成だけ出ることになった…ん、だ」
 「……」
 眉根を寄せた奏は、なんだそれは、という顔で、暫し咲夜の顔をじっと見た。咄嗟についた大嘘を見抜かれそうな気がして、また冷や汗が背中を伝う。
 「ご…ごめん。奏が、そんなに楽しみにしてくれるとは思わなかったから…」
 「…いや、オレはいいんだけど…お前、いいのかよ、そんなんで。お前だって楽しみにしてたんだろ?」
 「…あー、うん、まあ。でも…一成と組むのは、何もこれが最後じゃないし」
 咲夜が苦笑混じりにそう言うと、奏もそれ以上、この話に突っ込む気はなくなったらしい。小さくため息をつくと、
 「まあ…咲夜が納得してるんなら、オレがとやかく言う問題じゃないけど」
 と締めくくった。ズキン、と痛む良心に、咲夜はもう一度、
 「ごめん…」
 と奏に謝っておいた。

 そんなやり取りをしているうちに、アパートに着いてしまった。
 「なんか、いきなり明日美ちゃん来るし、佐倉さんに呼び出されるし…1日の最後でどっと疲れたよなぁ…」
 「…そうだね」
 私も、結構疲れたよ。
 言葉には出さずに、そう相槌を打ちながら、バッグから鍵を取り出した。
 「なあ、今から1杯、付き合わない?」
 いつもと何ら変わらない調子で、奏が鍵を開けながらそう言った。
 ―――私も、飲んで憂さ晴らししたい気分なんだけどね。
 きゅっ、と鍵をきつく握った咲夜は、顔を上げ、力の抜けたような笑みを奏に返した。
 「ごめん―――私も、相当疲れてるっぽい。飲んだら倒れそう」
 「え? あ…、もしかして、体調でも悪かったか?」
 途端、奏の表情が心配そうになる。本当に―――感情に素直な顔をしている。咲夜は、演技ではなく本心から苦笑した。
 「ん…、少しね。今日は大人しく寝ることにする」
 「そっか…。悪かったな、気づかなくて。じゃあ、おやすみ」
 「―――おやすみ」
 先にドアを開けていた奏が、先に部屋に引っ込んだ。パタン、とドアが閉まるのを見届けてから、咲夜も鍵を開け、部屋に入った。


 カチャリ、と鍵をかけた咲夜は、電気も点けずに、ドアにもたれかかった。
 なんだか―――もの凄く、疲れた。
 「……」
 バッグから、携帯電話を取り出し、開く。
 真っ暗闇の中、咲夜の手元だけが、携帯電話のバックライトに照らされる。そんな自分の手元を見下ろし、咲夜は、もうそこには登録されていない人の名前に思いを馳せた。

 「―――…ほんとに、難しいね……航太郎」
 あんたの名前は、もう、ここにはないけれど。
 私は―――せめて奏は、あんたの二の舞にはしたくない。
 奏には新しい恋を見つけて幸せになって欲しいし、私を理由に恋を逃して欲しくはないし、何よりも―――奏っていう友達を、失いたくない。

 ちょっと位、良心が痛むのも……寂しいのも、仕方ないよね。

 唇を噛んだ咲夜は、パチン、と携帯電話を閉じた。


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