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― before the storm ―

 

 朝の空気が、寝ぼけ眼をスッキリと目覚めさせてくれる。
 どこかで、スズメが賑やかに鳴いている。その声を聞きながら、奏は最後の眠気を振り払うように、洗いざらしのままの髪を掻き上げた。
 大きな撮影がある日や、ショーでステージに上がる日は、いつもより早く起きてその辺を軽くジョギングしたり歩いたりするのが、奏のかなり前からの習慣になっていた。
 モデルなんて華やかそうな仕事をしていると、随分生活リズムも乱れているんだろう、と思う人もいるらしいが、そうでもない。むしろ、体を売り物にする仕事である分、生活を節制している人が多い。奏の先輩モデルで5時起床22時就寝を徹底している人がいたが、確かあの人は、酒も煙草もやらず、食事も菜食主義だったと思う。まるで修行僧のような生活ぶりに唖然とさせられ、感心もしたが、真似しようとは思わない。どんなにメリットを説かれても、奏には絶対無理だ。だからせめて、仕事の前の早起き―――という訳だ。
 今日は、午前中はいつも通り店に出るが、午後から雑誌撮影がある。1週間ほど前、“Jonny's Club”にいるところを佐倉に呼び出された、あの仕事である。雑誌の仕事はあまり気が進まなかったが、担当カメラマンの名を瑞樹に言ったところ、「結構面白いカメラマンだって聞いたことがある」との答えが返ってきたので、興味が出て引き受けることにしたのだ。
 ―――面白い、って、どう面白いんだろう? 性格が面白いだけ、とか言うなよな。仕事が面白いんだろうと思って受けたんだからさ。
 それに、今日の撮影は、明日美が唯と一緒に見学に来る。いつぞやの時計のポスターみたいな撮影風景は、あまり知人・友人に見せたい光景ではない。相性のいいカメラマンだといいんだけどな、と思いつつ、奏は大きく伸びをした。

 そんな風に、今日の撮影についてあれこれ考えをめぐらせつつ近所をぐるりと一周してきた奏だったが。
 アパートまであと数メートル、という位置で、ある場面に遭遇し、思わず足を止めた。
 「……」
 ―――何だ? 今の。
 随分身を屈め、まるでこそ泥のようにアパートの入り口の中へと消えた人影が、1つ。
 反射的に、ポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。まだ6時半……人が出て行くならまだしも、入って行くのは明らかに不自然だ。奏は、僅かに緊張した面持ちで、消えた人影を追うように急いでアパートへ向かった。
 足音を忍ばせ、そっと様子を窺うと―――確かに、人が、いた。
 明らかに学生服とわかる黒いズボンに、白いカッターシャツ姿。高校生とは到底思えない背格好だから、中学生だろうか。まだ子供っぽい少年の後姿が、物置の前でしゃがみ込んでいた。
 彼は段ボール箱を抱えていて、それを物置の前に置いているようだった。物置、段ボール箱―――その符合に、奏の眉が上がった。
 「おい!」
 奏が声を上げると、少年の後姿が、ギクリとしたように凍りついた。
 バッ、と振り返った少年は、奏に目撃されたことを知るや否や、大慌てで立ち上がり、逃げ場を求めてあたふたと視線を彷徨わせた。そして、廊下の先は行き止まりだし、裏の私道も行き止まりだし、結局、奏が立ちはだかっている方向しか逃げ場がないと悟ると、無我夢中で突進してきた。
 「う、うわ…っ!」
 まさか無鉄砲に突進してくると思っていなかった奏は、その勢いに驚いて、つい仰け反ってしまった。そんな奏の脇腹に半ばぶつかりながら、彼は転がるように通りに走り出た。
 「こら、待て!!」
 「……っ!」
 思い切り腕を伸ばし、走り去ろうとする少年の腕をギリギリで掴む。思いのほか少年の力が強かったせいで、優也の部屋の窓下辺りまでつんのめってしまったが、何とかその場に留まらせることができた。
 「何してたんだ、こら!」
 「ボ、ボクは何も知らないっ、知らないったら知らないっ!」
 「知らないじゃないだろ!」
 「知らないーっ! あんなバカ猫とは、ボクは関係ないんだーーっ!」

 少年の叫び声に―――優也の部屋の窓が、ガラッと開いた。

***

 ミルクパンが姿を消してから、既に1ヶ月以上が経過していた。
 一番可愛がっていた優也の憔悴振りは、それはもう奏から見ても気の毒な位だった。大学へ行く前や帰宅後に、近所の公園や路地裏を探して回る優也の姿を何度か見かけたこともある。マリリンも時間を作っては探しているようだし、奏や咲夜も時々探していた。が…、それでもミルクパンは見つからなかった。

 その、ミルクパンが。
 今、目の前に、何事もなかったように丸まっていた。
 表の騒ぎに目を覚ました優也が、慌てて物置へと向かい、そこに置かれたダンボールの中に発見したのだ。

 「ミルクパン……!」
 パジャマ姿のままの優也が抱き上げると、1ヶ月前より僅かに成長したミルクパンは、みゃあ、と聞きなれた鳴き声をあげた。半分涙目だった優也は、嬉しさに満面の笑みを浮かべ、ミルクパンを抱きしめて頬ずりをした。
 「…成長した、ってか…太ったんじゃない?」
 同じく、突然の大声に驚いて起き出してきた咲夜が、ミルクパンを眺めてぼそりと呟く。まだ少年の腕を掴んだままの奏も、その言葉に頷いた。
 「…太ったよな、確実に」
 まるで、高級キャットフードをたらふく与えられたまま、外にも出さずに家の中でゴロゴロさせていたかのような体型変化―――猫らしいスリムな体型が、全体に丸みを帯びた体型に変わっていた。成長期の子猫であることを差し引いても、それは「大きくなった」というより「太った」だった。
 「……」
 物言いたげな目で奏と咲夜がジロリと睨むと、少年は気まずそうな顔で俯いた。
 この段ボール箱を持ってきたのは、明らかに、この少年。ということは、ミルクパンが1ヶ月行方不明だったのも、この少年が原因であることは想像に難くない。そして恐らく―――この不自然な体型変化の原因も、この少年である確率が高い。
 事情を訊こうと奏が口を開きかけた時、マリリンの部屋のドアが僅かに開いた。
 「―――ミ、ミルクパン、見つかったのかしらぁ?」
 ドアの隙間から、裏返ったような声でマリリンが訊ねる。声はすれども、姿は見えず―――まだメイク前だったのだろう。さっき窓の隙間から声をかけてきた時も、やっぱり顔を見せなかった。今、力づくでドアを開けたら、マリリンの素顔が見える筈なのだが―――そうしたい衝動をなんとか抑え、奏も咲夜も引きつった笑みをドアの隙間に返した。
 「見つかったよ。今、優也君が抱っこしてる」
 「そ、そう。よかったわ。また後で、アタシも顔出すから」
 「…どうぞごゆっくり」
 たったそれだけのやりとりで、ドアは再びパタン、と閉まった。
 ―――やっぱり、どさくさに紛れて、ドアを思いっきり開けてやればよかったかも…。
 もう2度とないかもしれない、メイク前のマリリンを拝むチャンスだったのに…ちょっと、惜しいことをした。

 「そんで? この1ヶ月、あんたがミルクパンを誘拐してた訳?」
 腕組みをした咲夜が、奏に捕えられている少年を睨み、やっと本題に入った。
 少年は、“誘拐”という不穏な単語に震え上がったように、ブルブルと激しく首を振った。
 「ゆっ、誘拐だなんて、そんなっ。た、ただ……ボ、ボク、前からここにこの猫を見に来てて、その…この猫が可愛かったから、」
 「可愛いから、勝手に黙って連れてったのか」
 奏が低く訊ねると、少年は、続く言葉を飲み込み、不貞腐れたような顔になって頷いた。
 「ここで飼われてたのは、知ってたんだろ。だったら、オレたちが心配することもわかってたんじゃないのか?」
 「……」
 「近所に住んでるんだろ? なら、優也が毎日毎日、心配して探し回ってるのだって、わかってたんじゃないか?」
 「だ…っ、だから、もう返したからいいだろっ」
 「ふざけんなよ、ああ?」
 ぎゅううううぅ、と奏が少年の腕をきつく掴む。途端、反抗的な少年の態度が一変する。
 「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 「謝って済むなら、ケーサツいらないっつーんだよ。で? どうして返す気になったんだ。ちゃんと説明しろ」
 「……」
 少年の目が、奏、咲夜、優也の顔を順に盗み見る。そして最後に、優也の腕の中にいるミルクパンの顔を見ると―――ムッとしたように眉根を寄せ、口を尖らせた。
 「…だって…あの猫が…」
 「猫が?」
 「ちっとも、言うことを聞かないんだ」
 「……」
 「ママに内緒だから、庭に置いた物置の中で飼ってたんだけど……ボクのご飯の残り物は食べないし、一緒に寝るのも嫌がるし、学校に連れてくと逃げ出そうとするし。キャットフードもすんごい高くて、ボクのお小遣いじゃ買い続けられないし……大体、抱っこもさせてくれない猫なんて、面白くないよっ。そんなバカ猫、もういらない。ぬいぐるみの猫の方がいいや」
 「バカはお前の方だろっ!」
 鼓膜が破れそうな奏の大声に、少年の体が本気で数センチ跳ね上がった。奏は、そんな少年のシャツの首根っこを、少年の足が浮きそうなほど引っ張った。
 「ミルクパンは“生き物”だろーがっ! 自分の思い通りになると思ったら大間違いだ! そんなこともわからずに勝手に連れて行ったのかよ!? お前、その歳になるまで、一体何学校で習ってきたんだ!? ああ!?」
 「だ…っ、だ、だ、だって、」
 「だって、じゃねーよっ!」
 「まーまーまー、落ち着きなさい、奏」
 相変わらず腕組みをしていた咲夜が、激昂する奏を制するように、冷ややかな声で割って入った。
 「こういうママに飼い慣らされたわがままおぼっちゃま君には、怒鳴ったところでわかんないよ。通報しよう。親に連絡入れて、親からきつーくお灸を据えてもらうしかないよ」
 「えっ」
 咲夜の冷静な一言に、少年の顔が、一気に真っ青になる。そんな少年の顔をチラリと見て、咲夜は、とどめの一言を付け足した。
 「そしたら、こいつ、ママに捨てられるかもね。“勝手に人が飼ってる猫を盗んできて、手に負えないからって捨てようとするような情けない子供、もういらないわ。お人形の方がずーっと可愛くていいわぁ”ってさ」
 「―――…」
 …スゲー、毒舌…。
 少年のわがまま発言を見事に活用した毒舌に、奏は固まり、少年本人は泣きそうになった。本気で泣き出すんじゃないか、と思ったところで、助け船を出してくれたのは、意外にも優也だった。
 「…やめようよ、咲夜さん。親にまで言うことないよ」
 一番精神的苦痛を受けた筈の優也の発言に、咲夜のみならず、奏も眉をひそめる。が、優也は、少し悲しげな顔をして少年の方を見て、こう言った。
 「ほんとは、君が可愛がってくれるって言うなら、ミルクパンを君に渡そうと思ってたんだけど―――もう二度と連れて行かない、って約束してくれるなら、僕は、もういいよ」
 「でも、優也君…」
 「いいんだ」
 納得のいかなそうな咲夜の声を遮り、優也はそう言うと、ぎゅっとミルクパンを抱きしめた。
 「この子には、捨てたくなるほどバカ猫なのかもしれないけど……僕には、心配で眠れなくなるほど、大事な友達だから」
 「……」
 「捨ててくれて、ありがとう」
 本音から出た言葉。
 けれど、それが本音だからこそ―――それほど大事にしていた“友達”を盗んだ上に物のように捨てた少年にとっては、咲夜の毒舌以上に突き刺さる言葉だった。
 「……ごめ…ん、なさい…」
 この言葉を聞いて初めて、言い訳と開き直りを繰り返していた少年は、やっと、謝罪の一言を口にした。


 結局、少年の親には通報せず、二度とこんな真似はしない、ときつく約束させ、帰らせた。
 「甘いなぁ…優也も」
 その憔悴振りを知っているだけに、優也本人より、奏や咲夜の方が腑に落ちない。少し不満げに奏が言うと、ミルクパンを抱いた優也は、曖昧な笑みを奏に返した。
 「ちょ…っとだけ、同情、したかな」
 「同情?」
 「うん。…なんか、あの子、もっと子供の頃の僕自身と重なる気がして」
 「……」
 「僕自身が“飼い慣らされたおぼっちゃま君”だったから。ただ…お父さんの顔色ばっかり窺って、猫を拾ってくる勇気もなかったけど。あの子が親のこと出されて真っ青になったの見て、なんだか―――自分が親に叱られた時の気持ち思いだして、可哀想になっちゃったんだ」
 「…ごめん…」
 発言主の咲夜が、それを聞いて、気まずそうに呟く。そんな咲夜に、優也は苦笑し、首を振った。
 「咲夜さんがあそこまで言ってくれたから、逆に僕も寛大になれたのかも。…ほんとは咲夜さんも、親に連絡する気なんてなかったんでしょう?」
 「…ま、ね」
 え、連絡する気じゃなかったのか。
 後半の毒舌は別として、親に連絡する云々はてっきり本気で言っているものと思っていた奏は、意外な話に、ちょっと目を丸くした。
 「私はただ、もういらないから、って捨てられる側の気持ちを考えて欲しかっただけなんだけどね…。優也君にもだけど、ミルクパンにも謝って欲しかったんだ」

 ―――こいつって、表から見えるだけの言葉じゃ、意図が見え難い奴だなぁ…。
 笑顔をどこまで信用すればいいのかわからないし、表面的な意味だけじゃない深い意味をこめて発言してたりするし―――面白い。色々と共通項の多い2人だが、感情も思いもストレートに表すことしかできない自分とは、ある意味では、対極にいる人間なのかもしれない、と奏は思った。

 「でも多分…あの子の言った“ごめんなさい”は、優也君に対してだけの“ごめんなさい”なんだろうな―――…」
 そう言った咲夜は、少年が去って行った方角を、ぼんやりと眺めた。

***

 「今からあなたには、結婚詐欺師になってもらいます」
 「―――…は?」
 ダークスーツを着崩した奏は、カメラマンの発した一言に、間の抜けた声を上げた。
 カメラマンは、40前後位に見える、ボーイッシュな外見をした女性だった。女性カメラマンと組んだ経験があまりなかった奏は、意外な展開にちょっと驚いたが―――撮影前に言われたこの一言には、驚いたというより唖然とした。
 「名前はカルロス。年齢は28。国籍はラテン系アメリカ人。これまでに9人の女性を騙し、次のターゲットが記念すべき10人目です」
 「……」
 「あなたは、記念すべき10人目に、大金持ちの美貌の未亡人を選びました。仕掛けは上々で、あと一押しで彼女に残された莫大な遺産の半分を手にできそうです。さあ、ここからが腕の見せどころ、未亡人をメロメロにして、相手の方からプロポーズさせよう―――…」
 「……」
 「―――…という、非常にウソ臭い男を演じて下さい」
 …マジですか。
 何かの冗談かと思ったが、カメラマンの顔は、「本気と書いてマジと読む」と言わんばかりに、真面目な顔だった。いや、それどころか…思わずこちらが後退りしたくなるほどに、力の入った真剣さだった。
 ―――成田が言ってた「面白い」って、こういうことかよ。
 シチュエーションを設定して演じさせるカメラマンは他にもいるが、「ラテン系アメリカ人の結婚詐欺師カルロス・28歳」なんて設定をしてくるカメラマンは、多分、この人位のものだろう。さすがの奏も、思わず吹き出した。
 「オレ、ラテン系な顔じゃないんですけど、いいですか」
 「どうぞどうぞ。ノリがラテン系なら、それでOKよ。…さて、始めましょうか」
 ニッ、と笑ったカメラマンは、そう言って、三脚にセットされた一眼レフに手をかけた。

 

 まばゆいライトが、世界を包む。
 真紅の薔薇の花束を持った奏が、ライトの中央で、軽快に身を翻す。着崩したジャケットの裾が、まるでスローモーションでも見ているみたいに、華麗な軌跡を描いた。
 「うわ…凄い。お店にいる時とは別人みたいね」
 感心したような唯の言葉にも、明日美は反応できなかった。見学札を胸元でぎゅっと握り締めたまま、瞬きすら忘れて、奏を見つめた。
 ―――…綺…麗…。まるで、別の生き物みたい…。
 挑戦的に口元に浮かぶ魅惑的な微笑も、射抜くようにカメラを見つめる目も―――もしこれが本当に人を騙すためのものなら、きっと自分も騙される。いや、騙されたいと思う。たとえ嘘でも……あんな目で見つめられたいと思ってしまう。
 ネクタイを緩める。壁に寄りかかり、カメラを流し見る。髪を掻き上げる。花束を抱きしめる。…そのポーズひとつひとつが、驚くほどに魅力的で、彼がポーズを変えるたび、胸のドキドキが止まらなくなる。
 ―――どうしよう。
 動悸の治まらない胸をそっと押さえ、明日美は唇を噛んだ。
 彼に忘れられない人がいても、その人が彼には絶対手の届かない相手だとわかっているから、嫉妬もしない。彼があの人を忘れるまで、待てる。ただこうして、時々会って、一緒にいてくれればそれで……それだけで十分だ。本当に。
 でも……どうしよう。だんだん、欲が、出てくる。
 惹きつけられれば、惹きつけられるだけ―――貪欲になっていく。これまで知らなかった自分の欲深さに気づき、怖くなる。
 「別世界の人よねぇ…」
 唯が、ポツリと呟く。
 「あんな一般人、いないもの。あたし、明日美はお嬢様であの人は一般人、てところに不安を感じてたけど……むしろ今は、明日美が一般人であの人が“別世界の人”に見えるわ」
 「……」
 「…大丈夫なの? 本当に。深入りする前に、友達止まりでやめといた方がいいと思うけど…」
 「…だって…」
 好き、なんだもの。
 “好き”―――苦しい位に、あの人が、好き。口に出したら、それだけ想いが大きくなる気がして、口にはできなかった。

 

 撮影は順調に終わり、唯は、撮影を終えた奏に簡単な挨拶だけして、帰って行った。
 「どうだった? 撮影見た感想は」
 スタジオを出て歩きながら奏に訊かれ、明日美は、さっきまでのドキドキが蘇ったように頬を紅潮させた。
 「なんか…感動しちゃった。一宮さんのポスターって、今までにも何点か見たけど―――動いてる方が何十倍も素敵で。一宮さんてやっぱり、動きがある方が綺麗」
 「き…綺麗…」
 男に使うには微妙な形容詞に、奏もちょっと顔を赤らめる。ゴホン、と咳払いした奏は、照れたように視線を逸らした。
 「…夜はちょっと仕事の関係者と飲まなきゃいけないけど、それまで少し時間あるんだ。…ケーキでも食べる?」
 「ハイ」
 忙しい奏は、普段からあまり時間が取れない。でも今日は、僅かな隙間にできた時間を明日美のために使ってくれる、という。明日美は嬉しくなってやたら笑顔になってしまった。

 撮影スタジオ近くの洒落たオープンカフェに入り、ケーキと紅茶を注文したところで、奏は、向かいに座る明日美の頭のてっぺんからつま先までを眺めた。
 「なんか…今日は随分、カジュアルにしてない?」
 指摘されて、ドキリとする。そう―――実は、今日は、普段とは違う格好をしてきたのだ。
 「え…、ええ。唯に頼んで、初めて買ったの。…ジーンズ穿いたのって、これが初めて」
 「ふぅん…」
 「……変?」
 不安げに明日美が訊ねると、奏は一瞬キョトンとし、それから困ったように笑った。
 「ハハ…、そんなことないよ。珍しいから驚いただけで」
 「…本当に?」
 「うん。いいんじゃない、たまにはそういう服も。普段のスカートの姿の方が、見慣れてるからホッとするけど」
 「……」
 ―――つ…次は、スカートにしよう。
 いいんじゃない、と言いつつ、奏の言葉からは「いつもの方がいい」という本音が透けて見える気がする。いつもカジュアルスタイルな奏には、同じようにジーンズやTシャツを着た女の子の方が合う気がしたのだが…自分がやると、普段の格好で横に並んだ時以上に、不自然に見えるかもしれない。
 「でも、どうしたの、急に」
 「う…ううん、別に」
 頬杖をついて訊ねる奏に、明日美は曖昧な笑みを返して誤魔化した。
 言える筈もなかった。あの人を―――奏と当たり前みたいに気さくに笑い合っていた歌姫を、ちょっと意識してしまったなんて。
 特別美人でも華やかでもないのに、細身のジーンズに洒落たシャツを羽織り、肩を掠る程度の黒髪を少し無造作に掻き上げていた彼女は、奏の横に居ても全然不自然じゃなかった。同じ世界の人―――そんな風に見えた。彼女だって唯の言う“一般人”の筈なのに、自分とは何が違うのだろう?
 …本当は、わかっている。
 明日美は、上等のシルクや、仕立ての良いワンピースしか知らない。でも…奏も咲夜も、そんなものより、洗いざらしのジーンズや、丈夫で着やすいコットンシャツに慣れ親しんでいる。それは、着るものの良し悪しの問題じゃなく、生き方そのもの―――甘やかされ、自分の夢も見つけられず、ただ与えられた環境を何も考えずに生きてきた自分と、夢を見つけ、自分の力で歩いてきた彼らの違いだ。
 学生と社会人の差、お嬢様と自活した大人の差、親の敷いたレールの上にいる者と自由に羽ばたいている者の差―――どれもこれも、自分は奏とは反対側にいるから……怖くなる。
 貪欲になればなるほど…怖くなる。自分が行くことの叶わない、奏と同じ側にいる、彼女が。
 「どうした? もしかして疲れた?」
 「えっ」
 怪訝そうな奏の声に、我に返った。
 見れば、ちょうど注文したケーキと紅茶が運ばれてきたところだった。随分考え事に没頭してしまっていたらしい。顔を赤らめた明日美は、慌てて角砂糖を2個、ティーカップに落とした。
 「あ…あの、そう言えば、もうすぐ一宮さんの誕生日でしょう?」
 カチャカチャとスプーンを動かしながら、なるべくさり気ない風を装って明日美が切り出すと、既にケーキの周りのセロファンを剥がし始めていた奏は、手を止めることなく頷いた。
 「ああ、うん。27日ね」
 「ちょうど日曜日みたいだけど―――何か予定とか、入っている?」
 「んー…、本当はあった筈なんだけどなぁ。なくなった」
 微妙な言い回しに、明日美の手の方が先に止まる。眉をひそめた明日美は、うまくセロファンが剥がせずに苛立っている奏の顔をじっと見つめた。
 「なくなった?」
 「うん。ほら、“Jonny's Club”でピアノ弾いてた、藤堂。あいつと咲夜が組んで、藤堂の母校の学祭で演奏する、って話があって―――それがオレの誕生日だったんだよな。面白そうだから、行くつもりだったんだけど……なんか、咲夜は出なくて、藤堂だけになったって話だから。あんまりよく知らない藤堂のために、休み割いて行くのもなぁ、と思って、キャンセルした」
 「……」
 ―――それって、たとえ誕生日であっても、咲夜さんが出るなら絶対行った、ってこと…なの、かな。
 いけない。奏がこういう事を平然と言うこと自体、奏が咲夜を何とも思っていない証拠なのに―――気持ちを切り替えるため、明日美は、まだ十分掻き混ぜていない紅茶を、一口だけ飲んだ。
 「じゃ、じゃあ、誕生日の日は空いてるんですね」
 焦るとつい、口調が元に戻ってしまう。が、奏はそれを特に指摘しなかった。それよりも、やっと切れ目がわかって無事セロファンを剥がせた事の方に気を取られていたらしい。
 「そうだなー、今んとこ、暇だなぁ」
 「じゃあ―――ライブ、行きませんか?」
 明日美が思いきって言った一言に、さすがに奏の手が止まった。
 ケーキの一端にフォークを乗せたまま、奏は顔を上げ、驚いたように明日美の顔を見た。
 「ライブ?」
 「ええ。…その、今からチケットを取れたら、だけど」
 「…何の?」
 「ええと―――ハードロックとか、ヘヴィメタルとか…」
 「……」
 奏の目が、キョトンとしたように丸くなる。そして―――奏はとうとう、耐えかねたように大笑いした。
 「アッハハハハハ、あ、明日美ちゃんが、ハードロックにヘヴィメタル!? どうしたんだよ急に」
 「お、おかしい…?」
 「うん、おかしいおかしい」
 肩を揺らして笑いながら、奏はフォークを置き、邪魔になった前髪を掻き上げた。
 「あのさ。服にしても音楽にしても、無理にオレに合わせようとしなくていいんじゃない?」
 「…えっ」
 ドキリとした。まさに―――明日美が意識していたことだから。
 「明日美ちゃんには、やっぱり女の子らしい服が似合うし、ヘヴィメタルは似合わないよ。オレの趣味に合わせたい、って思ってくれるのは嬉しいけど、無理してヘヴィメタにノリまくってる明日美ちゃん想像すると、嬉しいっていうより、引くかも」
 「ひ…引かれちゃうのは、ちょっと…」
 自分でもちょっと想像してみて―――想像するんじゃなかった、と後悔した。変だ。もの凄く。何が奏の誕生日プレゼントにいいだろう? と悩んで、ライブのチケット、という案が思いついた時には、我ながら凄い名案、と思ったのに―――その横にいる自分の不自然さにまでは、考えが及んでいなかった。
 「…やめときます」
 色々言われるより、想像するのが一番効果的だった。うな垂れた明日美は、あっさり、ライブチケット案を撤回した。そんな明日美を見て、奏はくすっと笑った。
 「でも―――ありがとう。オレ自身、半分誕生日忘れてたのに、そんな風に考えてくれて」
 「……」
 チラリと目を上げ、奏の顔を確かめると、奏はとても嬉しそうな笑みを見せてくれていた。
 なんだか、それだけで―――とても、とても、心が満たされた気がした。


***


 「えっ、結婚式?」
 氷室からいきなり切り出された話に、奏は目を丸くした。氷室は、私服のシャツを脱ぎながら軽く頷いてみせた。
 「実は、友達がいきなり同じ日に挙式することになってさ。どうしても俺にメイクして欲しいって。変だよなぁ…27日って赤口(しゃっこう)なのに、なんで被ったんだろう」
 「…大安と友引がいいのは知ってるけど」
 「仏滅と赤口は避けるんだよ、普通。でも、なんでも正午だけは吉とかで、どっちの結婚式も正午スタートだよ。きっと赤口で空いてたから、滑り込むにはいい日だったんだな」
 つまり。
 氷室は元々、古い付き合いのウエディング専門のメイクさんの代役で、27日の正午からの結婚式のメイクを頼まれていた。が、当日まであと10日という日になって、全く同じスケジュールで、大変親しい友人が結婚式を挙げることになり、そのメイクを頼まれたのだ。
 依頼が被ってしまった氷室としては、どっちを選ぶか、となれば、大親友の結婚式を選びたいのは当然な訳で。
 「奏はまだ、1人で外の仕事受けたこと、ないだろう? どうかな、俺の代わりに代役メイク、頼まれてくれない?」
 「……」
 27日―――誕生日。
 数日前の明日美との会話が、頭をよぎる。特に内容は決めなかったが、せっかく奏のために何かお祝いをしたい、という明日美に合わせて、その日はスケジュールを空けておく、と明日美には言ってあった。
 でも……引き受けたい。
 氷室の言う通り、奏はまだ、1人で外の仕事をしたことがない。店ではリピーターの客のメイクも担当するようになり、時には氷室に同行してテレビ局や撮影スタジオにお邪魔することもあったが、自分1人で外で仕事をする、という経験がまだないのだ。そんな奏にとっては、この話は、すぐにでも飛びつきたい話だった。
 「…ええと、正午から、ってことは、オレは何時から行ってりゃいい?」
 「念のため9時入りしといて欲しいんだ。挙式が正午、披露宴は1時半から。ドレスからワンピースに着替えての凄くカジュアルなレストランウエディングらしいから、披露宴前にもメイクをちょっと直してやって欲しいんだ。だから終わるのは…遅くとも2時位かな」
 それならば、夕方から映画を見て食事をする位の時間は取れるだろう。奏は、ホッと胸を撫で下ろし、笑顔で氷室に答えた。
 「わかった。じゃあ、ありがたく初仕事させてもらうことにする」


 その日の内に明日美にこのことを伝えると、明日美は一瞬、寂しそうな声になりながらも、最終的には奏の個人的に受ける初めての仕事を祝福してくれた。
 『じゃあ、映画にしましょう。一宮さんに合わせて、アクション映画で』
 「…だから、オレに合わせなくていいって」
 『だって、誕生日だもの。それに、わたしだって全然見ない訳じゃないから。だから、この位は主役に合わせさせて。…ね?』
 「そう? …じゃあ、お言葉に甘えて」
 待ち合わせ時間を話し合い、電話を切ると同時に、誰かが階段を上がってくる足音がした。
 玄関に目を向けた奏は、携帯をベッドの上に放り出し、立ち上がった。
 予感通り、足音は、隣の部屋の前で止まった。急いでスニーカーに足を突っ込んだ奏は、ドアを勢いよく開けた。
 「咲夜」
 奏が声をかけると、バッグから鍵を取り出していた咲夜は、びっくりしたように奏の方を向いた。
 「…っ! び、びっくりしたー! 何なの、突然」
 「いや、嬉しさのあまり、一刻も早く知らせたくて」
 「え?」
 キョトンとする咲夜に、奏はにんまりと笑い、Vサインを作ってみせた。
 「店以外でのピンでの仕事、ついに決まったぜ!」
 途端―――咲夜の目が大きく見開かれた。
 「えー!! マジ!?」
 「大マジ。っつっても、氷室さんの代役だけどな。でも、氷室さんの手伝いじゃなく、最初から最後までオレ1人でメイク担当するんだぜー」
 「やーったじゃん、おめでとー」
 「ありがとー」
 満面の笑みで手を伸ばしてきた咲夜と、パン! とハイタッチする。なんだか、氷室と話しても明日美に報告しても、いまいち初仕事の嬉しさを実感できずにいたが、ここにきてやっと嬉しさが実感を伴って湧いてきた。
 「なあ、時間あるなら、祝杯付き合わない?」
 奏が親指で部屋の中を指しながら誘うと、咲夜は、満面の笑みをすぐに申し訳なさそうな笑みに変えた。
 「あー、ごめん。付き合いたいのは山々なんだけど」
 「? なんか用事でもあんの? この時間から」
 「ん…、今度ライブでやる曲に、ちょっと苦労してるんだ。明日、もう1回スタジオ借りて練習するから、一成に吹き込んでもらったMD、今夜中に全部聴いて、イメージ掴まないとまずいんだ」
 「そうか…、大変だな」
 「あ、ちょっと待って」
 残念そうな顔になった奏に、咲夜は突如そう言い残して、急いで自分の部屋の鍵を開けて部屋の中に駆け込んだ。一体どうしたのか、と奏が待っていると―――約1分後、咲夜が再びひょいと顔を覗かせた。
 「はい、これ持って」
 「?」
 にゅっ、と差し出された物を、反射的に受け取る。それは、プルトップの引かれてある、冷たい缶ビールだった。
 咲夜は、後ろ手に隠し持っていた自分の分の缶ビールも取り出し、プルトップを引いた。そして、ニッ、と笑って、缶ビールを掲げてみせた。
 「初仕事決定、おめでとう」
 「―――…サンキュ」
 奏も笑みを浮かべ、咲夜の缶に自分の缶をぶつけた。そして2人は、ほぼ同時に、それぞれのビールに口をつけた。

 廊下で、しかも立ったままの祝杯。
 そういえば、最後に咲夜と部屋でゆっくり話をしたのって、いつだっただろう?……なんだかすれ違いの多い最近の自分達に気づき、奏は、ちょっと寂しさを感じた。
 でも―――何故すれ違っているのか、その原因までは、この時の奏には考えられなかった。


***


 初仕事で誕生日の日曜日は、快晴だった。
 奏の初めての客は、小柄で童顔の、とても今日結婚する人とは思えないような女性だった。
 「童顔なんですよぉ。ウエディングドレスの試着の時は、なんだかコスプレみたいで」
 「ハ…ハハ、そんなことないでしょう」
 ―――いや、そうかも。
 頭の片隅で思ったが、それは絶対、口に出してはいけない。それよりも、緊張でここ数日あまり眠れなかった、という新婦の顔色の悪さの方が問題だ。奏は、健康的な顔色を意識しながら、下地を整えていった。
 思いのほか、緊張する。
 奏にとっても特別な日だが、この女性にとっても特別な日だろう。不自然なメイクになってないか、本人ががっかりするメイクになってないか―――段階を踏む毎に、いつも以上に確認してしまう。紅筆を握る時は、危うく手が震えそうになった。
 そして、完成したメイクを見て―――鏡の中で、嬉しそうな笑みを見せる新婦に、大きな大きな安堵のため息をついた。
 見開くと子供っぽくなりすぎな目元に、差し色的に入れた、クールなパープル。モード系のメイクみたいにキツくならないよう、淡い色を何重にも重ねて、クールな色を使いながらも、全体の雰囲気はフワフワと優しいムードに仕上がっている。多分、彼女に似合う色はピンクだろうが、色をクール系にしたことで、素顔より若干大人びて、しっとりした女らしい感じ……だと、奏自身は思っている。
 「嬉しい…! パープルって、大好きな色なんです! 大人っぽい色だからって、日頃絶対に使わないんだけど……こんな自然な入れ方ってあるんですねー…」
 嬉しそうに、いろんな角度から仕上がったメイクを眺める彼女を見て、こっちも嬉しくなった。

 披露宴用のメイクは、着替えたワンピースの可愛らしいデザインに合わせて、式用より若干色をピンク系に変更した。服装が服装なので、下手をしたら七五三になりそうで、式の時よりこちらの方が難しかった。
 それはヘアメイクを担当している美容師にとっても同じだったらしく、上品に、でも子供っぽくならないように、と、微妙な路線を狙ったアップスタイルを苦心して編み出していた。
 そんなこんなで―――概ね成功、という評価で、奏のたった1人での初仕事は無事終わった。


 やっぱり、面白い―――メイク道具を肩から提げ、ぶらぶらと歩きながら、そんなことを思う。
 モデルが天職だと言われ、自分でもそう思うけれど、一生続けられる仕事ではない。その点、この仕事は、技術を磨き、移り変わる流行について行くだけの柔軟さを持ち続ければ、一生続けていける仕事だ。そして―――人を笑顔にできる仕事でもある。
 童顔さ丸出しだった今日の新婦が、大人びたメイクを施した途端、視線の流し方も口の開き方も、淑女然としたものに変わった。やはり、メイクは“魔法”だ。でも、別人に化ける魔法ではない。自分でも知らなかったもう1人の自分を表に引き出すための魔法だ。
 今日で、27。モデル業は、28の誕生日までと決めている。
 ―――あと1年かけて、2つの仕事の比重を変えていかないとな…。
 モデル業をだんだん削り、こうした1人でのメイクの仕事を増やしていくようにしなければ―――そう考えれば考えたで、モデルとしての欲も出てくるのだが。仕事に関しては結構欲張りだよな、と、佐倉にも時々言われることを思い、奏は思わず苦笑した。

 「さて、と…」
 明日美との待ち合わせまでは、まだかなり時間がある。駅に着いてしまった奏は、このまま移動するか、あまり来たことのないこの辺をぶらぶらしてみるか、ちょっと迷った。
 と、その時―――来る時には気づかなかったものに気づき、奏は、僅かに目を見開いた。
 「―――…」
 数メートル先にある電柱に括りつけられた、いかにも手作り、といった感じのたて看板。

 『音大祭2002 10月26日(土)〜27日(日) 雨天決行』

 大きな文字で、そう書かれている上には、赤の矢印と音符マークがいくつも入っていた。
 「…音大祭…?」
 ―――って、アレだよな。藤堂の母校でやってるやつ。
 近づいて、もう一度よく看板を確認すると、案の定、隅の方に一成の母校の音大の名前がしっかり入っていた。知らなかった―――この辺りにあったのか。
 辺りを見回すと、似たような看板はいくつかあり、中にはプログラムについて詳しく書かれているものもあった。それらを1つ1つ確認していた奏は、ある看板に目を留めた。

 『Real Pank Live 2002! ヘヴィ・メタルとパンク好き集まれ! 27日(日)14:00〜』

 「へー…、音大でパンクかぁ…。すっげー違和感」

 …まだ、随分時間もあるし。
 他に時間を潰す方法も思いつかないし。
 それに―――偶然、藤堂の演奏に遭遇したら、それはそれで面白いかもしれないし。

 気まぐれを起こした奏は、メイク道具の入ったケースを肩に掛け直し、赤い矢印を追い始めた。


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