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― 嘘つきな唇 ―

 

 「こういうのを、パンクっていうのかな…」
 演奏される軽快な音楽を聴きながら、一成は、隣に控える咲夜にボソリと呟いた。前からこうしたサークルのライブの存在は知っていたが、じっくり聴くのは、これが初めてなのだ。
 一方咲夜は、奏に付き合ってこの手のCDやライブをそこそこ聴いている。舞台袖で足でリズムを取りながら、一成の言葉に頷いた。
 「こんなんじゃない? 代表的U.K.パンクの“Jam”とか“Clash”なんかも、こんな感じだったし」
 「…俺の知識の範囲内では、一番似てる音楽は、“ブルーハーツ”だな」
 「“ブルーハーツ”って…一成、古いよ。せめて“ハイロウズ”にしといてよ」
 「ほぼ同じだろ」
 「ほぼ同じなんだけどさ」

 『Real Pank 2002』と銘打ったライブは、客の入りはまあまあだが、微妙な空気に包まれていた。
 演奏している側は、盛り上がっている。もの凄くノリノリだ。…でも、客は、いまひとつそのテンションについて来ていない。素人の発表会だな、と、まがりなりにも金を取って歌を聴かせる立場としては、少々シビアになってしまう。
 でも、さすが音大のサークルだけあって、演奏は上手い。プロほどではないが、そこいらの素人集団のライブとは、やっぱりちょっと違う。
 ―――奏が聴いたら、結構楽しめたかもしれないなぁ…。
 ふと奏のことが頭を掠めて、残念な気持ちになる。
 その奏は、咲夜の配慮とは裏腹に、今日は仕事になり、明日美とはその後から会うらしい。なんだ、どのみちライブには来られない運命だったんだな、と思うと、嘘をついてまで気を遣うこともなかった、と拍子抜けした気分だ。でも―――奏にとっては個人的に請け負う初めての仕事。神様がくれた最高の誕生日プレゼントかもしれない。素直に祝福しておこう。
 「…よし。そろそろ行くぞ」
 咲夜たちが乱入する前のバンドの演奏が、もうすぐ終わる。一成の声に、咲夜も表情を引き締めた。
 「…了解」
 2人は、座っていたスチール椅子から、同時に立ち上がった。


***


 なかなかやるじゃん、というのが、奏の感想だった。
 アカデミックなイメージの強い音大に、パンクやヘヴィメタルができるんだろうか、と思っていたのだが、音大に行っているからといって全員がクラシック好きとは限らないのは当然だ。音大生のパンク・ロックは、プロのライブに何度も行っている奏の耳にも、なかなか聴き応えのあるものだった。
 ただ―――ライブのタイトルに『Real Pank』と謳っている割に、パンクとはあまり似ていないヘヴィ・メタルや、どっちともイマイチ違うプログレなども演奏されているのは、どういうことなんだろう? それに、選曲がかなりマイナーだ。その一貫性のなさとマイナーさのせいか、客のノリはいまひとつ、という感じだ。
 まあ…学祭とは、学生の自己表現の場なのだから、本人達の自己満足の色合いが濃いのは、当然かもしれない。その部分を割り切れば、結構楽しめる。講義室の一番後ろの壁にもたれて、奏はずっと足でリズムを取っていた。

 いかにもパンク、というノリのバンドの演奏が終わり、拍手が起こる。奏も数度拍手し、ポケットから携帯を取り出した。開かないまま、横のボタンを押したら、外側の小さな液晶画面に時刻が表示された。15時まであと5分―――プログラムではあと2組ほどあるらしいが、ここのを最後まで聴くか、それとも他の所も回るか……。
 そう、考えをめぐらせた時。
 まばらになり始めた拍手を掻き消すように、いきなり、バーン! と、場違いな音が、スピーカーから会場中に響いた。
 「!!」
 驚いて、手元に落としていた視線を、ステージに向ける。周りの客も、突然のことに、拍手の手を止めて息を呑んだ。

 ステージ上は、照明が僅かに落ち、さっきまでの熱くて激しいムードが一瞬にして消えていた。
 ついさっきまで、パンク・バンドがその前で飛んだり跳ねたりしていたのでわからなかったが、ステージの上には、1台の黒いアップライトピアノが、黒い背景に紛れるかのように置かれていた。それで、わかった―――今の大音量が、ピアノで和音を力いっぱい叩いた音だということが。
 一気に静まり返った会場に、ピアノの音色が響き始める。クラシックとは明らかに違うその旋律は、奏も最近慣れ親しみ始めたジャズ・ピアノだった。
 ―――もしかして…。
 よく見えない弾き手の顔を確認しようと、奏は身を乗り出した。が、ピアニストの顔をはっきりと捉えるより早く、奏から少し離れた場所にいた客の会話が、微かに耳に入ってきた。
 「え……っ、あ、あれ、一成じゃねぇ!?」
 「え!? う、うわ、本当だ! えぇ、なんであいつ、こんなライブに出てるんだ!?」
 「うわー、やられたわ。おかしいと思ったのよ、普段連絡なんてよこさない後輩連中が、よりによってパンクのライブに誘うなんて」
 恐らく、母校の学祭を訪れた卒業生で、一成の友人なのだろう。それに、僅かに確認できた横顔は、明らかに一成の顔だった。なんて偶然―――思わぬ展開に、奏は思わず笑ってしまった。
 一成が弾き始めた曲は、普段“Jonny's Club”で弾いているようなジャズとは、ちょっと違う感じの曲だった。いや、感じが違うというより…どこかで聴いた気がする曲だった。
 なんだっけ、この曲。
 ええと、これは確か―――と、奏が記憶を手繰り寄せていると、ピアノに歌声が重なった。

 「Every breath you take... Every move you make... Every bond you break, Every step you take, I'll be watching you...」

 「―――…」

 ああ……そうか、随分アレンジしてるけど、ポリスの『Every breath you take』だ。
 という納得した思いより、もっと強い思い。
 なんで、お前が、ここにいるんだ? ―――その、強い疑問。

 ピアノの陰から出てきたその姿も、毎朝聴きなれているその歌声も、どう考えてもそれは―――咲夜、だったから。

 「O can't you see.... You belong to me..... How my poor heart aches with every step you take.....」

 突き抜ける―――どこまでも、天の高みまでも突き抜けるような高音。話す時はアルト気味な声が、高音を発する時、信じられないほどの透明度を持って空気を震わせる。間違いようがない―――この高音は、咲夜にしか出せない声だ。
 「…なんでだよ…」
 呆然とステージを見つめたまま、知らず、呟きが漏れる。
 咲夜は、今回の計画からは外れた筈だ。一成と一緒に出るのは在校生で…咲夜では、なかった筈だ。勘違いということはないだろう。本人がそう言っていたのだから。
 そう…咲夜本人が言ったのだ。今日が奏の誕生日で、しかも、奏がこの計画を結構楽しみにしていたことを知った上で。
 なのに、今、そのいる筈のない咲夜が、ステージの上にいる。
 いつもと何ら変わらない、飾り気のない服装で、それでもダイヤモンドみたいな輝きを放ちながら、心から楽しんでいるように歌を歌いあげている。
 一体―――これを、どう理解すればいいんだろう?

 「誰、あれ。凄い声」
 「声楽科に、あんな生徒いたっけ? 1年? 2年?」
 「あれってやっぱり、藤堂先輩だよね。去年定演でゲストに来てくれた。…ってことは、あの人もうちの卒業生?」
 「どうなんだろう…。でも、息合ってるなぁ。結構長く組んでるのかも」
 在校生らしき女性2人が、奏の前で小声で噂する。それを耳にしながら、奏は、まるで石になったみたいに動けなかった。
 咲夜が『Every breath you take』を歌っているのを、実は奏は、何度か聴いている。2週間位前から、朝などに、そのフレーズを何気なく口ずさんでいたのだ。その時は曲目まで思い出せなかったが、ハミングだったその歌は、間違いなくこの歌だった。
 そして、ステージ上の咲夜と一成は、前の2人が言う通り、“Jonny's Club”で演奏している時以上に、息が合っていた。相当な練習を重ねて臨んだことがわかる、一分の隙もなく噛み合った演奏と歌―――それは、咲夜以外がこの歌を歌うなんて話は最初からなかった、ずっと咲夜と一成のコンビでこの曲を作り上げてきた、という証拠に他ならない。
 つまり。
 咲夜が、奏に、嘘をついていた―――そう考えないと、辻褄が合わない。

 「Every move you make... Every vow you break... Every smile you fake, Every claim you stake, I'll be watching you...」

 ―――なんで…。
 何考えてんだよ、咲夜。

 疑問が、苛立ちと怒りに変わる。
 奏は、ステージを見据えたまま、手にしていた携帯電話をきつく握った。


***


 「アハハ、大成功ーっ!」
 咲夜が手を挙げると、一成も笑顔で手を挙げた。空中でがしっ、と手を握った2人は、大いに満足して笑い合った。
 舞台では、まだ次のバンドの演奏が続いている。前半のパンク色の強いバンドとは違い、ポリスやU2のようなポスト・パンクを得意とする連中―――その間を繋ぐ意味も込めて、咲夜たちがライブの途中に乱入した訳だ。まだ最後にもう1回、出番があるが、とりあえず最初の1曲は大成功―――客の反応も良かったし、演奏自体も満足の出来だった。
 「一成のアレンジ、やっぱり絶妙。ポスト・パンクが、見事にジャズしてたじゃん」
 「そりゃどうも。でも、あれだな―――咲夜は、ベタベタなジャズを歌うより、こういうアレンジものの方がノレて歌える感じだな」
 「そうかなぁ」
 舞台袖と廊下とを仕切るドアに寄りかかりつつ、咲夜はペットボトルの蓋を捻り、首を傾げた。
 「確かに、スタンダード・ジャズって、お手本がたくさんあり過ぎて、どうしても好きなヴォーカリストの歌い方に引っ張られちゃう部分はあるかも…。その点、スティングが歌う“Every breath you take”は、明らかにジャズじゃないから、ジャズとして歌うなら自分でゼロから作るしかないもんね」
 「なるほどな…。じゃあ、そっち路線で、これからどんどんアレンジしてくかな…」
 「おおーい、一成!」
 ペットボトルのお茶を飲みながら一成が呟くと、それに被るように、悪友たちの声が響いた。どうやら、会場に来ていた一成の仲間が、廊下に出てくると踏んで駆けつけたらしい。
 「やってくれたな、お前! 俺達にも知らせないなんて」
 「一成も随分腹黒くなったよなぁ。この後、絶対飲みに付き合えよ」
 駆け寄ってきた仲間に取り囲まれて言いたい放題言われる一成を眺め、咲夜はくすっと笑った。
 ―――奏が来てれば、こうやって一緒に騒ぐこともできたかもしれないけどね。
 そう思うと、少し寂しい。でも、こればかりは、今更言っても仕方のないことだ―――そう考え、ペットボトルに口をつけた。
 と、その時。

 「咲夜」

 低く抑えた声と共に、誰かが咲夜の腕を掴んだ。
 驚いて声の主を見上げた咲夜は、その顔を確認するや、更なる驚きに大きく目を見開いた。
 「そ…っ、奏―――…!?」
 そこにいたのは、絶対ここにいる筈もない人―――見たこともないほど険しい顔をした、奏だったのだ。
 「ど、ど、どーしてあんたがここにいるの!? 仕事は!? 明日美ちゃんは!?」
 「…いいから、ちょっと来いよ」
 動揺する咲夜をよそに、奏はぐい、と咲夜の腕を引き、歩き出した。奏に引かれ、つんのめるように歩き出した咲夜は、困ったように一成を振り返ったが、事態に気づいた一成もまた、仲間に囲まれてしまってどうすることもできないようだった。
 ―――つ、次の出番までには、絶対戻るから。
 伝わるかどうかわからないが、そういう意味を込めて、引きつった笑みでペットボトルを持った手を振ってみせる。が、一成の反応を見る前に、奏の引っ張る力に負けてしまった。
 「…っ、い、痛いって、奏!」
 「うるさい」
 「ってか、私、まだ出番あるんですけど!」
 「うるさいっ!」
 一成たちから十分距離を取った所で、奏は足を止め、くるりと振り返って咲夜を睨み下ろすと、そう怒鳴った。
 「オレに文句言う前に、どういうことか説明しろよ! どーゆーことだよ、これ! なんでお前が藤堂と一緒に学祭の舞台に立ってんだよ! え!?」
 「なんで、って…」
 「嘘なんだろ、全部」
 奏の目が、一層険悪になる。
 「藤堂の後輩がどうしても歌いたいって言い出したのも、そいつに譲ってお前は出ないことにしたのも、全部嘘だろ? あの話の前にも後にも、お前、ずっと“Every breath you take”、歌ってたんだから」
 ―――うわ、そこまでバレてるのか。
 不覚だった。どうせ奏は来られないのだから、当日歌う曲を口ずさんだところで問題はないと、気を抜いていた。やはり、つき慣れない類の嘘をつくと、どうしてもボロが出る―――内心舌打ちをしながら、咲夜は気まずさに、僅かに視線を落とした。
 「…ごめん…」
 「…やっぱり嘘かよ…」
 大きく息を吐き出した奏は、やっと咲夜の腕を掴む手を緩め、苛立ったように髪を掻き毟った。
 「お前なぁ―――なんでそんな嘘つくんだよ? オレが来たがってんのも知ってたし、オレの誕生日なのも知ってたのに」
 「…なんで、って…誕生日だからじゃん。他の日だったら、普通に言ってたよ」
 咲夜がボソボソと呟いた答えに、奏は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「なんだよ、それ」
 「誕生日、って言ったら、特別な日じゃん」
 「だから?」
 まるでわかっていない奏に、今度は咲夜の方が苛立つ。小さくため息をついた咲夜は、眉根を寄せ、奏を軽く睨み上げた。
 「…あのさ。考えてみなよ。あんたは今、明日美ちゃんと半分付き合ってる状態でしょ? 向こうはすんごい奏が好きで、あんただってその気持ちに応えようって考えてる、そういう状態でしょ?」
 「…それが、何だよ」
 「だったら、明日美ちゃんの気持ちも考えなよ。彼氏同然の男の誕生日だよ? クリスマスイブと並ぶ、カップル専用特別イベントだよ? 一緒に過ごしたいに決まってんじゃん」
 「そんなの、オレが、オレ自身の誕生日をどう過ごそうが、オレの勝手だろ?」
 ムッ、としたように、奏が眉を顰める。
 「実際、この時間までは仕事ってことになったんだし。お前だって、誕生日に仕事入ったって言ったって、“明日美ちゃんが可哀想だから断れ”なんて言わなかったじゃないか。仕事ならオッケーなのに、なんでお前のライブだと駄目なんだよ。おかしいだろ、そんなの」
 「それは―――…!」

 ―――私が、明日美ちゃんにとって、“女”だから。

 危うく、口に出してしまいそうになった言葉を、直前で飲み込んだ。
 脳裏に浮かぶのは、あの日、嶋崎がヒステリックに怒鳴った時の、あの顔―――航太郎の悪意のない行動に、恋心が傷ついて、傷ついて、傷ついて……嫉妬と猜疑心に歪んでしまった、醜い女の顔。自分の存在が、あの可愛かった嶋崎をこうも変えてしまったのか、それが原因で“音楽”という航太郎との絆は、完全に切れてしまったのか……それを知って、ショックだった。もの凄く。
 そして咲夜は、嶋崎に見た自分に対する感情と同じものの片鱗を、この前、明日美にも見つけてしまった。
 咲夜が奏に接近すればするほど―――そして、奏がそれを隠さず、正直に明日美に話せば話すほど、あの純粋無垢な明日美が、どんどん歪み、醜くなる。そんな未来が、あの瞬間、見えてしまった。
 かと言って、事情を説明して、奏に嘘をつかせる訳にもいかない。奏は正直な顔をしている。嘘をつけば、たとえやましい部分がなくても、それが顔に出るだろう。明日美からすれば、奏が咲夜のことで嘘をついているのに気づくのは、親しげな様子を正直に口にされる以上に、痛手になるに違いない。

 大事な友達の、恋人になるかもしれない人には、あんな顔をさせたくない。
 そして、大事な友達には―――ずっと、友達でいて欲しい。多少、距離が離れてしまっても。

 「…それは…ライブはお遊びで、仕事は仕事だから、に決まってるじゃん」
 無難な言葉でお茶を濁した咲夜は、まだ納得のいかない顔の奏から目を逸らした。すると、そこに誤魔化しを感じたのか、奏が不愉快そうに一層眉を顰めた。
 「ほんとかよ、それ。実はお前、オレに来て欲しくなかっただけなんじゃねーの」
 「は?」
 拗ねてしまったような奏のセリフに、今度は咲夜が、思いっきり眉を顰めた。思わず、何言ってんのこいつ、という顔で奏を見上げる。
 「何それ。来てもらいたかったに決まってんでしょ?」
 「…どうだかね。でなけりゃ、嘘ついてまで回避するような話か? これ」
 完全に、拗ねてしまっている。何に対してそんなに拗ねているのかわからないが、本当に奏に来て欲しいと思っていた咲夜からすれば、言いがかりもいいところだ。
 ―――なんか、ムカついてきた。
 そもそも奏が、明日美の気持ちにも気づかずに、店に明日美を連れてきたりするからいけないのだ。この分だと、彼女の誕生日もクリスマスイブも、「楽しいから」の一言で自分の趣味や咲夜との遊びの約束などを優先してしまうんじゃないだろうか。あんた、本気で明日美ちゃんと真剣に付き合おうって気、あるの? と疑いたくなる。
 「じゃあ逆に訊くけど、これって、あんたがそこまでグチグチこだわるような話な訳?」
 キレてしまいそうになるのを抑え、なるべく冷静に、奏にそう訊き返した。すると奏は、さっきの咲夜同様、何言ってんだこいつ、という顔で咲夜を見下ろした。
 「当たり前だろ!? 嘘つかれた側の気持ちにもなれよ! 日頃信用してるからこそ余計頭にきてるに決まってんだろ!?」
 「だから、それはゴメンって!」
 「逆ギレかよっ!」
 「逆ギレでも何でもないよっ! 嘘をついたのは悪かったと思ってる、でも、言いがかりつけられるのは心外だから怒ってるだけじゃんっ!」
 「言いがかりつけたくなるほど、お前の行動が意味不明だっつーんだよっ!」

 「―――咲夜、」

 白熱しきった空気に、ふいに、まるで違う空気が割って入る。
 ハッ、と同時に現実に戻った2人が、声の方に目を向けると、そこには、複雑な顔をした一成が立っていた。
 「…大丈夫か? あと5分で、最後のバンドが舞台に上がるけど…」
 「…あ…、そ、そう」
 最後のバンドの持ち時間は、15分。その後が、咲夜たちの番だ。気持ちを切り替えないと―――息を吐き出した咲夜は、一成に笑みを返してみせた。
 「大丈夫。すぐ戻るから」
 「…そうか」
 一成も、一瞬だけ口元で笑ってみせたが、そうしながらも訝しげな目を奏の方に向けた。気まずそうに奏が視線を落とすと、一成もそれ以上事情を訊く気にもなれず、そのまま2人を置いて仲間の所へ戻って行った。
 言い合いも、会話も、途切れる。
 重たい空気の中、奏の足元に置かれたアルミ製のケースをチラリと見た咲夜は、
 「…仕事、上手くいったの」
 と訊ねた。咲夜の視線を追うように、足元のメイク道具の入ったケースを見た奏は、まだ気まずそうにしながらも、ぼそっと答えた。
 「…まあ、納得のいく仕事はできた」
 「そっか。…良かった」
 「お前の歌も、良かった」
 ぶっきらぼうに奏が付け足した言葉に、ちょっと驚く。が…、咲夜は素直に笑い、「ありがと」と答えた。
 「もう1曲歌って、その後、サークルの連中とセッションして“Let it be”を歌うんだけど―――奏は、もう行った方がいいよ」
 「……っ」
 それまで背けられていた奏の目が、弾かれたように、咲夜の方を向く。なんで、という不満と疑問をそのまま映したその目に、ああ、こいつって本当に嘘がつけないな…、と苦笑しそうになる。
 「最後まで聴いてたら、4時過ぎちゃうじゃん。明日美ちゃんと何時に待ち合わせか知らないけど…行った方がいいんじゃない?」
 「…そう、だな」
 実際、最後まで聴くのは、まずかったらしい。ため息をついた奏は、気鬱そうに髪を掻き上げた。
 「…じゃあ、また、帰ってきたら顔出せよ。ライブの話聞きたいし、オレも仕事の話したいし」
 ―――だから、それが駄目なんだって。
 上手く伝わらない苛立ちに、叫びだしそうになる。
 奏は、咲夜との距離が、近すぎる―――まるで、愛情に飢えていた捨て犬が、拾ってくれた優しいご主人に尻尾を振るみたいに、それが仲間であれ友達であれ恋人であれ、気に入ればとことん懐き、その懐に入ってくる。近すぎるが故に、自分達以外が原因で、せっかくの友情がぶち壊しにされる、という事態など、まるで考えていない。
 少し位、距離を置いてでも―――友情を保ちたい、という咲夜の気持ちなど、まるでわかっていない。
 「…今日は、一成たちと打ち上げがあるから、ちょっと無理」
 そっけなく返すと、奏の顔が、目に見えてがっかりする。捨てられた犬みたいなその表情に胸がチクンと痛くなったけれど。
 「奏、さ。…明日美ちゃんと本気で付き合う気あるなら、私と話すより、明日美ちゃんと話しなよ」
 途端、奏の目が、丸くなる。
 「…えっ?」
 「…だから…もし彼女が出来たら、私にしてた悩み事とか相談事とかは、私じゃなく彼女にしないとまずいんじゃない?」
 「……」
 「私だって、もし自分の恋人が、自分には何も話してくれなくて、隣に住んでる友達にばっかり相談したり愚痴こぼしたりしてたら、嫌だと思うよ。奏だって、そうなんじゃない? お飾りの彼氏・彼女じゃなく、本当の恋人が欲しいなら―――私達の付き合いが変わるのは、多少はしょうがないんじゃない…かな」
 「…………」

 奏は、何も言わなかった。
 何も言わず―――ただ黙って聞いているうちに、丸くなっていた目が、次第に細くなり、険しくなっていった。

 たっぷり10秒、咲夜を見据えていた奏は、ふい、と顔を背けると、足元に置いたケースを乱暴に掴み、くるりと踵を返した。
 「え…っ、奏!?」
 怒ったような足取りで歩き出す奏に、咲夜は慌てて、その後を追った。
 「ちょ、ど、どうしたの!?」
 「……」
 「なんなの! 言いたいことあるなら、はっきり言えば!?」
 きつい語調で咲夜が言うと、奏はピタリと足を止め、咲夜を振り返った。
 その目は―――怒りと同時に、酷く傷ついた色を湛えていた。
 「…わかったよ」
 搾り出すような声でそう言い、奏は一度、唇を噛んだ。
 「わかったけど…わかんねぇよ。咲夜が言うこと、理屈はわかるけど、オレにはわからない」
 「……」
 「お前も、恋人ができたら、オレは要らなくなるのかよ!?」
 「…そ、」
 「友達は―――友情は、恋が見つかるまでの“つなぎ”かよ!? オレにはわかんねーよっ!」

 言葉を失う咲夜に背を向け、奏は、荒々しい足取りで歩き去った。
 二度と振り返らない奏を、追いかけたかったけれど―――咲夜は、追いかけられなかった。


***


 「―――…一宮さん…?」
 「……ん……?」
 心配げな明日美の声で、我に返った。慌てて隣に目を移すと、そこには、声以上に心配げな顔をした明日美が歩いていた。
 「あ…ああ、ごめん。またボーッとしてた」
 「わたしは、いいけれど……大丈夫? なんだか今日、ずっと元気がないし…」
 映画を見て、食事をして。…もう、今日何度目だろう? 明日美にこうして指摘されるのは。わかってる―――自分でも、相当おかしいことは。明日美に心配をかけるなんて情けないことだが…どうしようもない。奏は、誤魔化しようもない落ち込みに、またちょっとうな垂れた。
 「本当は、お仕事で大変なことがあったとか…」
 順調だった、と報告した初仕事くらいしか、思い当たる節がないのだろう。明日美が眉をひそめて訊ねる。苦笑した奏は、足を止め、首を振った。
 「いや、仕事はマジで、順調だった。少し自信もついたし…」
 「じゃあ…?」
 「…別に。やっぱり、初仕事で緊張してたせいかなぁ…。なんか、めちゃくちゃ疲れた」
 …疲れた。
 口にしたら、疲れが、実感として襲ってくる。大きくため息をついた奏は、近くの街灯に疲れたようにもたれた。そして、ズルズルと背中で街灯を擦りながら、しゃがみ込んだ。


 ―――Every move you make... Every vow you break... Every smile you fake, Every claim you stake, I'll be watching you...

 咲夜が歌っていた『Every breath you take』の一節が、頭をよぎる。
 ―――“Every smile you fake”…か。
 そう…咲夜の笑顔は、いつだって鵜呑みにはできない。ニッコリ笑いながら、残酷なことを口にする。心の中でどれほど泣いていても、その涙を1ミリだって出さずに、まるで楽しんでるみたいに笑ってみせる。
 でも、それでも、自分には、絶対嘘はつかないと思っていた。
 他の人間に見せる笑顔が偽り(フェイク)であっても―――自分に見せる笑顔だけは別だと、根拠もなく信じ込んでいた。
 だから、ショックだった。その理由が何であれ、嘘をつかれたという事実が。キレてしまいそうになるほどに…ショック、だった。
 いや。
 それよりもショックだったのは、あの一言。

 『本当の恋人が欲しいなら―――私達の付き合いが変わるのは、多少はしょうがないんじゃない…かな』

 …わからない。
 いや、わかりたくない。
 あの言葉を聞いた時、奏の頭に浮かんだのは、咲夜と距離を置く自分じゃなかった。
 咲夜が、その望み通り拓海への想いを実らせた時―――咲夜に斬られる自分だった。拓海を手に入れたからもう要らない、と、咲夜に斬り捨てられる自分だった。

 『私はただ、もういらないから、って捨てられる側の気持ちを考えて欲しかっただけなんだけどね…』

 ―――嘘つけ。考えてないのは、お前の方だろ。
 ミルクパンの一件で、咲夜が発した言葉を思い出し、唇を噛む。
 ステージの上の咲夜は、眩しかった。一成と視線だけで合図を交わし、まるで一対のように、2人でステージを作り上げていた。言葉などいらない連帯感が、あそこにはあった。最近、すれ違ってばかりで、咲夜とは朝にちょっと話をする程度だった奏にとって、それは酷く羨ましくて―――妬ましい光景だった。
 わかっている。あれほど腹を立てた、本当の理由は。
 あのステージを見て―――奏は、既に自分が「斬り捨てられた」ような気がしたのだ。


 「…わたしでよければ、悩み事、訊きますよ…?」
 しゃがみこんだ奏の傍らに明日美もしゃがみ込み、ポツリと言う。
 友達と喧嘩して落ち込んでる、なんて話、明日美にしようとは思えない。苦笑した奏は、気だるく髪を掻き上げ、明日美に目を向けた。
 「いや―――心配しなくていいよ。サンキュ」
 「でも……わたし、お仕事のこととかはわかりませんけど、話を訊くだけなら、いくらでもできますから…」
 と言いかけたところで、自分の口調がまた丁寧語に戻ってるのに気づき、明日美はハッとしたように口元を押さえた。
 「あ…、ご、ごめんなさい!」
 名前の呼び方をめぐって話をした時、奏が「親しさを表すのは口調の方なんじゃないか」といったような話をしたのを、律儀に守っていたのだろう。そういう一途なところが、明日美の可愛いところでもあり、面白いところでもある。
 「アハハ…、いいよ。無理しないで。無理して砕けた口調にしてる方が、不自然だろ。明日美ちゃんが自然に話す言葉で話せばいいって」
 「…本当に?」
 「うん、本当」
 「良かった。本当は、いつも凄く喋り難かったんです」
 安心したように笑顔になった明日美だったが―――すぐに、その笑顔は、また心配げな顔に戻ってしまった。
 「…あの、一宮さん」
 「ん?」
 「…もしかして、今日の約束って、迷惑…だったんでしょうか…」
 思わぬ話に、奏の目が丸くなった。
 「は?」
 「…一宮さん、お仕事があったのに、わざわざわたしの為に時間を作らせてしまって…」
 奏の気鬱な顔が、自分とのデートのせいだと思ったらしい。奏は慌てて首を振った。
 「まさか! そんな訳ないって! 第一、これは“オレの”誕生日を祝ってくれてんだろ? 迷惑な訳ないよ」
 「…でも…」
 「本当だって」
 心細そうにする明日美に、奏は明日美の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。

 指に絡んだ髪は、奏が知っている黒髪よりも、頼りない手ごたえだった。
 不安げに見つめ返す目は、奏が知っている瞳より、明るい色をしていた。
 でも―――どことなく、彼女を彷彿とさせるその表情に、奏の胸が痛んだ。

 …頼むから。
 頼むから―――蕾夏と似た目をして、そんな風にオレを見ないでくれ。

 今も消えない恋心からか、泣きそうな明日美を慰めるためか、……それとも、自分でもよくわからない、この喪失感からか。
 奏は、明日美の頭を引き寄せると、その唇に微かなキスをした。

 「―――…誕生日、祝ってくれて、ありがとう」
 「……」
 耳まで真っ赤になる明日美を見て、奏は、微笑んだ。
 微笑んでいるのに―――感じているのは、幸福と呼ぶには程遠いものだった。


***


 自宅に戻った拓海は、部屋の中に人の気配を感じ、廊下で一旦、足を止めた。
 「……」
 音を立てないように、リビングに続くドアを開ける。
 灯りのついていない部屋の中、窓から射し込む月明かりの中で、ピアノにもたれた咲夜が、歌っていた。

 「O can't you see.... You belong to me..... How my poor heart aches with every step you take.....」

 透明な高音が、夜の闇の中に響く。
 ―――泣いてるのか…。
 実際には、泣いていない。でも、歌声が泣いていた。咲夜は、あの日を最後に、涙を流して泣いたりはしない―――悲しくなると、こうして歌で泣く。この10年、ずっとそうやってきた。
 灯りをつけるのは、やめておいた。拓海は、薄暗がりの中で、手にしていた鍵をいつもの場所に放り出した。
 チャリン、と、鍵が音を立てると同時に、歌声が止んだ。
 振り返った咲夜は、そこに拓海が立っているのを見つけ、ふわりと微笑んだ。
 「お帰り。早かったね」
 「そっちこそ。…今日は、藤堂君たちとのライブだろ? 打ち上げは?」
 「んー…、断ってきた」
 「…そうか」
 「でも、ライブは、大成功だったよ」
 「その割に、歌が“泣いてる”な」
 なんでもお見通し、といった口調で拓海が言うと、咲夜は降参したように苦笑し、肩を竦めた。
 「ちょっと、色々あってね」
 「…色々、か」
 「そ。色々」
 咲夜の言う「色々」は、「訊くな」に等しい。拓海自身、訊かれたくない事を訊かれた時、同じように「色々」と答えるから。
 ジャケットを放り出し、ピアノの前に座った拓海は、ピアノの蓋を開け、キーを1つだけ叩いた。

 ポ―――……ン…。

 優しい音が、部屋の中に広がる。
 その音に促されるように、窓の外を眺めていた咲夜が、口を開いた。
 「―――…ねえ、拓海」
 「ん?」
 「拓海は、友達、何人くらいいる?」
 意外な質問に、拓海は顔を上げ、拓海に背を向けて佇む咲夜を見上げた。
 「友達?」
 「そう。友達」
 「……」
 眉根を寄せ、暫し考える。出した結論は―――簡潔だった。
 「仲間なら、たくさんいるな」
 「友達は?」
 「1人か2人、ってとこか」
 「……ハハ、」
 やっぱり、といったニュアンスを含んだ、短い笑い声。
 振り返った咲夜は、クスクス笑いながら、ピアノの縁を軽く叩いた。
 「やっぱり私たちって、似てるんだね」
 「…そうかもな」

 誰とでも友達になっているようなフリをして、本音では、友達は1人か2人。
 表面では、いくらでも親しくできる。同じ趣味や同じ目標を共有していれば、一緒に目指すこともできる―――仲間として。でも……隠している心は、誰にも見せない。心を見せるのが怖くて、いつも距離を取る。
 心を曝け出した結果、裏切られるのが、怖くて。
 かつて、その心を曝け出して、手酷い仕打ちを受けた記憶があるから――― 一番奥底にある心を、笑顔で覆い隠して、怯えている。それが、よく似た2人の本当の姿。

 「一宮君と、何かあったとか?」
 拓海が訊ねると、咲夜は一瞬、黙り込んだ。
 黙り込んで―――そのまま、その問いには答えなかった。ただ、大きな大きなため息をついて、一言だけ言った。

 「…友達、なくしたかもしんないなぁ―――…」

 そう呟く咲夜は、もう、笑顔すら作れなくなっていた。


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