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出かける支度を整えた佐倉は、事務の女の子に一声掛け、事務所を出ようとした。
が―――出る直前、ミーティングテーブルの方に目を向けて、呆れたようにため息をついた。
「…何しに来たのよ、キミは。その姿は、ほとんど粗大ゴミよ」
「……」
椅子を思い切り引いて、頭だけをミーティングテーブルに乗っけた奏は、テーブルの上に広げられた写真など、全然見ていない。両腕もテーブルの下でだらんと下げた完全脱力状態で、テーブルの上にある花瓶に活けられた薔薇の花を、死にそうな目でぼーっと眺めるばかりだ。
「…やる気出ねぇー…」
「ああ、そう。どうぞご自由に。キミ自身が選ばないんなら、キミが嫌いそうな写真をあたしが選んであげるから」
突き放すように佐倉が言うと、奏の頭がむくっ、と起き上がった。
佐倉が言う「キミが嫌いそうな写真」をクライアントに提出したら、次の仕事が相当納得のいかない仕事になるであろうことが、奏が一番よくわかっているのだろう。憮然とした顔になった奏は、無言のまま写真を手に取った。
―――やろうと思えば、できるんじゃないの。
全く手が焼けるんだから、と肩を竦めた佐倉は、改めてショルダーバッグを肩に掛け直した。
「そんなに落ち込むんならね、“オレは悪くない”なんて意地張ってないで、さっさと仲直りしちゃいなさい。小学生の喧嘩じゃあるまいし、お子様丸出しよ」
「―――…」
写真をめくる奏の手が、ぴたっ、と止まる。
振り向いた奏は、不快指数100パーセント超の目で、佐倉を睨み据えた。
「…Mind your own business!(大きなお世話だっつーの!)」
「はいはいはい」
障らぬ神に祟りなし。キレてしまっている状態の奏をからかっても、こちらが損をするばかりなので、佐倉は早々に事務所を後にした。
―――しかし…相当キテるわねぇ、あれは。
打ち合わせ場所へと向かいつつ、つい、不謹慎にも笑ってしまう。
かなり前―――そう、年明け間もない頃に、例の如く瑞樹や蕾夏の件で佐倉のもとに逃亡してきたのを最後に、奏は一切、佐倉に甘えたり泣きついたりはしなかった。蕾夏のことを吹っ切れた訳ではなさそうだが、それでも、この10ヶ月あまりの奏は、非常に安定していたのだ。佐倉はそれを、隣に住むあの歌姫のおかげだろう、と考えていた。
そして、その予想は、ほぼ当たっていたらしい。歌姫と喧嘩した途端、このありさまだ。
何があったのか、その詳しい経緯は黙して語らない奏だが、奏が酷く拗ねてしまっていることと、「オレは悪くない、咲夜がオレの友情を裏切ったんだ」と言う割に怒りより寂しさの方が勝っているらしいことは、確かだ。多分、咲夜が何か奏を遠ざけるような発言をして、それに奏がショックを受け、キレてしまった―――こちらから和解する気にはなれないが、今の状況が寂しくてうなだれている。…まあ、そんな感じなのだろう。全く…一歩間違えば、本当に小学生のやることだ。
―――藤井さんを忘れたくて、新しい恋愛対象ばっかり探してるみたいだけど……案外、今の一宮君には、「恋」より「友情」の方が必要なのかもね。
苦しい事情があればあるだけ、友情に救われる時もあるだろう―――佐倉にも、そんな頃があった。
…いや。
そう、ありたかった。
「―――…」
“みなみ”。
“大好きよ、みなみ―――泣かないで。私はずっと、一緒にいるから”。
蘇った声は、春風を思い出させる、優しい声。
思わず足を止めた佐倉は、その声が聞こえたみたいに、後ろを振り返った。
けれど―――そこには、雑然とした街並みがあるだけで、“彼女”の姿はどこにもなかった。
***
定期入れをバッグに入れ顔を上げた由香理は、隣の改札をくぐった人物に気づいて、ギョッとして目を見開いた。
隣の人物も、定期入れをスーツの内ポケットに収めつつ顔を上げ、由香理に気づいた。多分、彼にとっても想定外のことだろうが、驚きは由香理ほど顕著ではなかった。
「友永さんですか―――奇遇ですね」
「…ど…うも」
―――最悪…。
同じ所に住んでいるのだから、こういう可能性もゼロじゃないとは思っていたが……到底、社交辞令の笑顔も作れない。由香理は、居心地の悪さをあらわにした顔で、彼にペコリと頭を下げた。
彼―――樋口係長。204号室の住人。
あの日、会社の1階で話したのが、これまでで唯一まともに会話を交わした時だろう。あれ以降も、時々姿は見かけるものの、はっきり言って接触はなかった。でも…なんだか、そんな気がしない。酒が入ると真田が必ず愚痴るのが、この上司のことだから。
「今日は随分早いですね」
歩き出しながら、樋口がそんなことを言う。一緒に帰るなんて本当は嫌だが、帰る場所が同じではどうしようもない―――由香理は仕方なく、樋口と並んで歩き出した。
「…ええ、まあ。今夜は真田さん、接待ですから」
“随分早い”という言葉が、真田とうまくいっていないのでは、という邪推に聞こえてしまい、思わず刺々しい口調で付け足す。が、樋口の鉄仮面はまるで変わらなかった。
「勿論、知っています。これでも真田さんの上司ですから」
「……」
言われてみれば、当たり前だ。言い訳のように付け足したのは、かえってマイナスになったかもしれない。
真田との付き合い方は、相変わらずだ。
彼の家に招待されることもないし、アフター5に会っても忙しなく食事し、彼の愚痴を聞きながらお酒を飲み、ホテルで慌しく体を重ね、時間切れになる前に別れる―――そんな感じ。でも、そうした関係を持っているのは現時点で自分1人であることは、既に確認済みだ。真田独自のポリシーとして「二股はかけない」というのがあるらしく、飲み会などに参加しても「数合わせで、女目的じゃないし、誘われても乗る気はないよ」と明言している。
由香理がいる限りは、由香理とだけ付き合う。それは、嘘ではないだろう。
ただ―――愛されている、という自信が持てないのは、何故なんだろう?
いや、それ以上に―――由香理自身、真田を愛しているという自信が、いまひとつ、持てない。
好きだし、関係が深くなるほどに情も移ってしまう。なのに、何かが……言葉にならない何かが、違う気がする。その違和感に、いつも由香理は、目を瞑ってしまう。
「…そう言えば、前から訊いてみたかったんだけど、」
真田から話題を逸らしたくて、由香理は、自ら別の話を樋口に振った。
「樋口さんって、どうして表札とか郵便受けのネームプレートとか、出してないんですか?」
唐突な話に、樋口が、怪訝そうな顔をする。そして、それが自宅の玄関や郵便受けの話だと理解すると、ああ、という顔で頷いた。
「必要がないので、出していないだけです」
「必要ない?」
「会社近くに私書箱を借りているので、郵便物が届く筈もないので、郵便受けには名前は入れていません。訪ねて来る人もいませんし、休日は地元に戻ってますから、時間に換算したら、1年の大半がもぬけの殻です」
「地元、って?」
「長野です」
サラリと出された地名に、ギクリとする。
「な…っ、長野、ですか」
「今は便利ですね。新幹線を使えばあっという間です。長野県の情報番組の大半が、関東圏のレジャー情報を流してる時代ですから」
「…そ、そうね」
東京から、あっという間。
けれど―――由香理には、遠い遠い故郷だ。
「で…でも、随分親孝行な話ね。いくら新幹線を使えばあっという間でも、その歳で毎週末、地元に戻ってるなんて」
動揺を悟られないよう、少し皮肉めいた口調で由香理が続ける。30を超えたいい歳の男が、週末にデートの約束もないのか―――そんな揶揄を、それとなく込めて。
けれど、由香理の方に目を向けた樋口は、眼鏡の奥の目を僅かに細め、不思議なほど穏やかな表情をした。
「色々と―――事情があるんですよ」
それだけ答えた樋口は、それ以上、何も言わなかった。
***
頭の中を、英単語がぐるぐるぐるぐる回っている。
―――す…凄いなぁ…。受験生って、こんなに勉強するんだ。
自分もやった筈なのだが、2年近く前だから、すっかり忘れてしまった。それに、どの教科もそこそこ取りこぼしのなかった優也は、いわゆる「苦手」という科目があまりなかった。勿論、体育は駄目だったが、それは受験とは関係なかったので問題なかった。
英語が全然ダメ、という生徒に、英語を教えるのが、これほど大変だとは―――もう11月だぞ、センター試験に間に合うのか、と焦るが、優也の初めての生徒は、いまだに長文読解になると匙を投げる癖がある。そんな訳で、家庭教師の授業も、ここ数回は、得意の数学そっちのけで英語の長文読解ばかりやっている。
午後8時半。“英語酔い”状態に陥った優也は、少々足元をフラつかせながら、アパートに戻って来た。
―――あれ?
アパートの入り口まであと数メートル、という地点で、優也は、不思議な光景を見つけて、眉をひそめた。
8軒分の郵便受けがずらっと並ぶ所に、とっくに夕飯を食べている筈のマリリンが立ってる。しかも、手にした手紙らしきものをじっと見つめて。
「何してるんですか? マリリンさん」
近づきつつ、優也がそう声をかけると、マリリンの背中がビクリ、と跳ねた。
あたふたと振り返ったマリリンは、そこに優也の姿を見つけると、取ってつけたような笑顔を作った。
「あ、あら、優也。お帰り」
「…ただいま…」
挨拶をしながらも、優也の目は、ついマリリンが手にしている手紙に向いてしまう。それに気づき、マリリンは、手紙を慌しく畳んでしまった。
でも、優也は、一番重要な情報はしっかり見た。
特徴のある縁取りの封筒と、白い便箋数枚―――あれは、エアメールだった。
「か、家庭教師の帰り? いよいよ追い込みだから、大変でしょう」
「うん、まあ。…あの、今の手紙…」
「ああ、これ?」
優也がちょっとその話に触れると、マリリンは引きつった笑いで、後ろ手に隠してしまった手紙をチラリと見た。
「ちょっと、知り合いから、深刻な手紙が来ちゃってね。アハハ、やーね、こんな所で立ち読みして」
「…マリリンさんて、外国に知り合いがいるんだ」
「まあね。アタシ位の歳になりゃ、そりゃまあ、海外の友人の1人や2人」
―――アタシ位の歳に、って……いくつ?
究極の疑問が、また頭を過ぎったが、それを口にする前に、マリリンの足元にじゃれついていたミルクパンが優也にまとわりついてきた。
「ただいま、ミルクパン」
よいしょ、と抱き上げたミルクパンは、以前よりやっぱり重い。
わがままお坊ちゃま君に拉致され、ろくすっぽ調べもしないで適当なキャットフードを山ほど食べさせられたミルクパンは、急激に太ってしまい、現在、ダイエットの真っ最中である。日中、面倒を見るのはマリリンの役目だが、ちょうど小説がスランプ気味なのも手伝い、リボンやら割り箸やらを使って、しょっちゅうミルクパンをからかって遊んでいる。優也が暇な時は、犬同様、散歩と称して近くの公園まで連れて行ったりもする。おかげで、脂肪がついてるな、といった感じだったミルクパンのおなかは、ここ数日で目に見えてスリムになってきた。
「ミルクパンと遊んでる時の優也、本当、いい顔するね」
ミルクパンに頬ずりする優也を眺め、マリリンがぽつりと呟いた。
自分の顔など見えない優也は、思いがけない言葉にキョトンと目を丸くした。
「僕が?」
「人間と一緒にいる時より、楽しそうで自然な表情する。…それだけ、ミルクパンが好きなんでしょう」
マリリンの言葉に、少し考えた優也は、力ない笑みをマリリンに返した。
「…人間は、難しいから」
天才少年、などと持ち上げられても―――まるで、自信なんてゼロだ。
誰かと1対1になる時、優也はいつだって、父から「ダメな子供」と言われていた頃の優也に戻ってしまう。大学の仲間も、このアパートに住む人々も…みんなみんな、自信に溢れて見える。キラキラ輝く周囲の人々の中で、自分だけがちっぽけで、みすぼらしい存在になったような気がして―――言いたいことも飲み込み、自信なさげに俯いてしまう。
でも、ミルクパンの前では、自然体でいられる。
ミルクパンは、優也が大人しいからといってバカにすることもないし、他の子と違うからといって陰口を叩くこともない。社交的でカッコイイ同級生と比較することもないし、洒落たジョークの1つも言えなくても「つまらない奴」なんて言わない。
「…お父さんは、勉強さえできればいい、って、そういう人だったけれど―――そうなのかなぁ…。大学入ってからは、勉強って、実は一番どうでもいいことなんじゃないか、って気がしてしょうがないんだけど…。なんか、僕が勉強ばっかりやってた間に、他の人はもっと別なことを学んでたんじゃないかな、って……1人だけ、置いてけぼりになった気がしたりする」
ぽんぽん、とミルクパンの背中を撫でて、優也が呟いた。
そんな優也に、マリリンはくすっと笑い、同じようにミルクパンの背中を撫でた。
「…人間、似たように見えても、本当は十人十色よ。優也からは、大学の仲間はみーんな同じ色に染まって見えるんだろうけど、1人1人じっくり見れば、全員まるで違う個性の持ち主―――ここの住人がバラバラなようにね。同じ色の中に、たった1人、違った色の自分が混じっちゃったように思えて、寂しくなることもあるだろうけど……そんなことない。同じ色をした人間なんて、1人もいない。優也も、沢山ある色の中の1つに過ぎないのよ」
「…そう、かな…」
「そうよ。人間が同じ色ばっかりだったら、面白くないじゃないの。全員違う色をしているからこそ、小説も書けるってもんよ。登場人物の個性がなけりゃ、ストーリーは生まれないからね」
「……うん」
もしかしたら、まだ、自分には見えないだけなのかもしれない。周りを取り囲む、様々な色が。
そんな風に、ほんの少しだけ思えて―――優也も、マリリンに微笑を返した。
と、その時。
駅の方向から、コツコツ、というハイヒールの音が近づいてきて、優也は、ある予感にドキリとした。
ミルクパンを抱きしめたまま、振り返る。マリリンも、足音に気づき、優也と一緒に視線を通りに向けた。そして、そこで目撃することとなった光景に―――2人揃って、固まった。
足音の主は、2人の直感通り、由香理だった。
ただし、その隣に―――なんだか見覚えのある、でも、顔自体にはあまり見覚えのない、30過ぎ位の男性の姿もあった。
「―――………」
唖然として立ち竦む2人の方へと、由香理と男はどんどん近づいてきて、そして2人と目が合うと、それぞれに軽く会釈した。2人も、条件反射的に、頭を軽く下げる。
会釈した姿で、2人は確信した。
この男は、謎の住人―――“ミスター・X”であると。
「じゃあ、おやすみなさい」
2人の前を通り過ぎた辺りで、“ミスター・X”が、由香理にそう挨拶する。
「はい。お疲れ様でした。おやすみなさい」
由香理もそれに応え、そう挨拶した。その声は、異様なまでに事務的だった。
そして2人は、階段下で別れ、“ミスター・X”は2階へ、由香理は自分の部屋の方向へと消えてしまった。呆然とするマリリンと優也の耳に、やがて、それぞれの場所からドアの閉まる音が聞こえた。
ドアの閉まる音が聞こえてからも、2人は、まだ動けなかった。
―――ど…どーなってるの、これ? まさか、アタシが冗談で書いたプロット通りのオチってこと?
かつて、同じアパートに住む男女が同じ会社に勤めている、という設定を途中まで練ったことのあるマリリンは、その設定を彷彿させる場面に出くわし、呆然としていた。
そして、由香理に恋心を抱いている優也は、由香理が聞いたら逆上間違いなしの、大いなる勘違いを起こしていた。
―――し…知らなかった…。“ミスター・X”って、友永さんの彼氏だったんだ…。
元々、実る筈もない恋だけど―――恋する人の彼氏が同じアパートに住んでいる、というのは、かなり、ショックだ。
優也は、“ミスター・X”が去っていった階段を呆然と見つめたまま、こういうのを絶望って言うのかもしれない、なんてことを考えた―――それが、勘違いであることも知らずに。
***
「藤堂さんっ」
控室に引っ込もうとした一成は、自分を呼び止めた声に、反射的に眉を顰めてしまった。
気づかれないようにため息をつき、振り返る。案の定―――そこには、“Jonny's Club”のアルバイト店員・ミサの姿があった。
半分だけ開けたドアを手で押さえたまま、ミサに向き直る。本当は一刻も早く控室に戻りたかったが、ここで無視をすると控室まで追いかけてくることは、過去数度の経験から証明済みだ。
「…何」
少々不機嫌な声で一成が訊くが、ミサは一切気にしていない様子で、想像通りのセリフをにこやかに口にした。
「あたし、今から休憩なの。藤堂さんも夕食がまだなら、一緒にとらない?」
「…悪いけど、忙しいから」
「でも、次のステージまで、まだ時間があるでしょう? ちょっとだけ、」
「―――ミサちゃん」
食い下がる気配を見せるミサの言葉を遮り、一成は、今度は誤魔化すことなくため息をついた。客に気づかれないよう気を遣いつつ、少し語調を強める。
「この前、言っただろう?」
「……」
「こういうのは、困る。迷惑なんだ」
ちょっとキツすぎるかな、と思いながらも、それが正直な気持ちだ。
一成がはっきりとそう言うと、ミサの顔から、笑顔が消えた。が―――傷ついた顔はしていなかった。迷惑は百も承知の上なのだろう。
コクン、と一度唾を飲み込んだミサは、僅かな間、視線を下に向けた。が、すぐに目を上げ、真っ直ぐ一成を見つめた。
「…でも、藤堂さんだって、片想い…でしょ?」
「……」
「あの人が、藤堂さんに振り向くまで―――あたし、まだチャンスは残ってるって思ってるよ」
そう言い放つと、ミサはニコリと笑った。
「今日は、大人しく退散するけど…また、時間ある時、1杯付き合ってね」
「ミサちゃ」
「お仕事戻ろーっと」
一成の返事を待たず、ミサはくるっと踵を返し、店内へと戻って行った。
―――休憩じゃなかったのか?
そう心の中で突っ込みを入れつつも―――結局、まだ諦める気配のないミサに、どっと疲れが襲ってくる。思わずドアに縋った一成は、額をドアに押し付けて3度目のため息をついた。
好きな人がいるから、と、あれほどはっきり断ったのに―――何を考えているのだろう、あの子は。
―――しかも、俺が言った「好きな人」が誰なのか……あの分じゃ、気づいてるんだろうな。
“あの人”という言い方に、その事実を感じ、気が重くなる。今のところ、逆恨みして彼女に嫌な態度を取ったりすることはなさそうだが―――少し、気をつけておいた方がいいかもしれない。
重たい気分のまま控室に戻ると、ヨッシーはちょうどコーヒーを淹れて飲み始めたところ、咲夜はぼんやりしているところだった。
「お、一成、遅かったな」
「…ああ。まあ」
ヨッシーの指摘を曖昧にかわし、そっと咲夜の様子を窺う。
このところ、咲夜は、元気がない。ステージでは普段通りだし、気が張っている時は何らいつもと変わらない様子でいるが―――ふとした瞬間に、こんな風にぼんやりして、どこか心もとない様子であらぬ方向を眺めてしまう。
原因は、知っている。あの時の―――音大祭の時の、奏との大喧嘩だ。
切れ切れに聞こえた内容や、以前奏が店に連れてきた大人しそうな女の子のことを考え合わせると、大体の事情は想像がつくが……どうやら、本格的に奏を怒らせてしまったらしい。奏が怒るのも無理はないが、一成としては、咲夜の気遣いも理解してやれよ、と言いたくなる。
別に、咲夜と奏の友情を心配して、そんなことを考えるのではない。
心が弱ってしまった咲夜が、こんな時、誰を頼るのか―――その想像がつくから。
「―――…あれっ、一成が戻ってきてる」
突如、我に返った咲夜が、そんな声を上げる。あまりにタイミングを外しすぎな一言に、一成とヨッシーが、同時に苦笑した。
「咲夜ー、ぼーっとし過ぎだぞー。魂がどっか行っちまってたら、魂こもった歌なんて歌えないぞ?」
ヨッシーが言うと、咲夜は気まずそうに椅子から立ち上がり、視線を彷徨わせた。
「あー…、っと、まだ次のライブまで、時間あるよね」
「ああ」
「じゃあ―――ちょっと、電話してくる」
「……」
「…あ、そうだ、一成」
控室のドアを開けつつ、咲夜が、何かを思い出したように振り返る。そして、複雑な表情で立っている一成に、ニッと笑ってみせた。
「戻ってきたら、さっきやってたアレンジ、途中でいいから弾いて聴かせてよ」
「…了解」
一成が笑い返すと、咲夜はヒラヒラと手を振って、ドアの向こうに消えた。パタン、とドアが閉まると同時に――― 一成の顔から、笑みが消えた。
「あのモデルの坊やにでも電話するのかね」
先日のトラブルを簡単に一成から聞いているヨッシーが、そんなことを呟く。
―――あいつじゃ…ないだろうな。
では、誰なのか―――それを、ヨッシーに言うつもりはない。
無言のまま、唇を引き結び、ガタン、と椅子を引く。テーブルの上には、ポータブルキーボードと、書きかけの楽譜が数枚。椅子に腰掛けた一成は、店の迷惑にならない程度に音量を絞り、キーボードの鍵盤を叩いた。
さっきまで弾いていたピアノとは明らかに違う、電子的なピアノの音。書きかけの楽譜を見ながら、これまでアレンジが出来上がった部分を弾きなおしてみる。頭の中に、この音に重なる咲夜の歌声を思い描きながら。1ヶ所、コードを変えた方が良さそうな部分を見つけた一成は、その部分を消しゴムで消し、新しい音を書き込んだ。
「―――…何を焦ってるんだ? 一成」
ヨッシーの、普段とは違うトーンの声に、一成の手が一瞬止まった。
「咲夜もちょっとおかしいけど、お前の方がおかしいよ。ここ2ヶ月か3ヶ月―――そんな性急な奴じゃなかった筈なのに、何にそんなに焦ってるんだ?」
「……」
「…お前の、咲夜に対する気持ちは、一応知ってるけど。でも、それとピアノは別モノだろ? じっくりユニットを作り上げてメジャーを目指したい、って言ってたのに……お前は言葉が少なすぎるから、何考えてるか分かり難くて、心配になるよ」
―――…心配、か。
一成の口元に、微かに笑みが浮かぶ。が、何も言わずに、一成は、音符を書き込む手を再び動かし始めた。
焦るな、と言う方が、無理な話だ。
一刻でも早く、1曲でも多く、いい曲を―――咲夜が、まだこの手の内にいる間に、早く気づいてくれるように。
お前が憧れているピアノは、お前を伸ばすピアノじゃない、お前を殺すピアノだということに。
お前を本当に歌わせることができるのは、あいつのピアノじゃない―――俺のピアノだということに。
麻生拓海。
たとえ、女としての咲夜は手に入れることができなくても―――絶対に、渡さない。ヴォーカリストとしての咲夜だけは。
書き入れた音符を見据える。
ペンを置き、キーボードに向き直った一成は、何かを振り切るように無心に鍵盤を叩き始めた。
***
「なんだ、まだ仲直りしてないのか」
『…そう言わないでよ。向こうが意地になっちゃってるんだから』
電話の向こうの咲夜の拗ねたような顔が目に浮かび、思わず笑う。そんな拓海の視界の端で、マネージャーが「早くしろ」と合図しているのが見えた。が、拓海は完全無視だ。
『そんな訳で、また泊めてもらっていいかな』
「どうぞどうぞ。今日は俺、ちょっと帰れるかどうか微妙だけど、勝手知ったる家なんだから好きに使えばいい」
『サンキュ』
「そんなに隣にいるのが気まずいんなら、いっそのこと、またうちで暮らせば?」
返事がわかっていながら、そんな提案をしてみる。返ってきた答えは、やっぱり予想通りだった。
『…それは遠慮させていただきますー。あいにく、今の部屋、すっごい気に入ってるしね』
「だったら、1日も早く仲直りしろよ」
咲夜がその言葉に反応して「そのセリフは奏に言ってよ!」と言うのと、業を煮やしたマネージャーが拓海の目の前でぶんぶん手を振ったのとは、ほぼ同時だった。
はいはい、と降参したように片手を挙げた拓海は、咲夜と更に二言三言、言葉を交わしてから、電話を切った。
―――“友達”、か。
切ったばかりの携帯を見つめ、自然、口元がほころぶ。
親友と呼び合う間柄でもお世辞や社交辞令が横行する時代に、こうして喧嘩ができるということは、本音を晒し合って付き合っている、ということだ。そんな相手がいる咲夜が、少し羨ましい。
でも……咲夜の変化に、喜んでばかりもいられない。
咲夜は、ああ見えて繊細な部分がある。精神的に追い詰められると、表面的には平気な顔をしておきながら、そのストレスがじわじわと体を蝕んだりするタイプだ。そう、あの時も―――父親への不信感から心を病んだ時も、摂食障害を起こして体を壊した。喧嘩は大いに結構だが、そのストレスを内側に飲み込みすぎると、またまずい事態になるかもしれない。
事情を聞けば、少しは力になれる部分もあるのだろうが、今回ばかりは咲夜も口が重い。
―――ま、
「おーいー、たーくーみー」
眉根を寄せて考え事をしていた拓海は、目の前20センチの位置にずいっ、と顔を突き出してきたマネージャーに、思わずのけぞった。
「休憩時間が残りどれだけかわかってるのか? さっさと話を進めよう」
「…はいよ」
―――リハーサルの休憩時間は、休憩のためにあるんだろ。仕事の打ち合わせに使うこと自体間違ってないか?
そうは思うが、他に時間の取りようもないので、仕方ない。諦めた拓海は、携帯をバックポケットに突っ込み、面倒そうに椅子に腰掛けた。
「それで? なんだってそんなオファーが来たんだ?」
テーブルの上の煙草に手を伸ばしながら拓海が訊くと、マネージャーは、難しい顔で首を捻った。
「知らん。お前に対するイメージは最悪の筈なんだけどな…。まあ、純粋にお前のピアノが気に入ったから、なんじゃないか? 個人的印象と仕事を混同するタイプもいるにはいるが、あの人はそうじゃなかった、ってことだろう」
「そうかねぇ…」
「僕は悪くない話だと思う。CMで流れれば、こっちにとってもいい宣伝になる。それに、企業イメージもかなりいいだろう?」
「企業イメージはね」
パチン、とライターの蓋を閉じ、煙を吐き出す。煙草を口の端にくわえた拓海は、僅かに目を眇め、テーブルの上の資料を手に取った。
「―――…“YANAGI”…、か」
あのヤロー、何考えてやがる。
ビジネスライクな人間だ、とは噂には聞いている。だから、マネージャーの言う通り、印象が劣悪な拓海に、ただ楽曲が気に入ったという理由で、自社のCMのBGMを依頼してきても、不思議ではないのかもしれない。
でも―――…。
「…とりあえず、1回、突っ返して」
バサッ、と資料をテーブルの上に投げ出し、そう結論づける。意外な回答だったのか、マネージャーが驚いたように目を丸くした。
「つ、突っ返す、って―――断る、ってことか?」
「そ。どのみち、これから1ヶ月、ライブで全然時間ないし。断って、はいそうですか、となれば、それでも構わない。本気で俺のピアノが必要なら、1回断ってもまた接触してくるだろ」
「…まあ…、そうだな」
マネージャーも、以前、とあるパーティーで同席した際の“YANAGI”社長の拓海に対する慇懃無礼な態度を知っている。だからこそ、あまり強くは言えないのだろう。いまひとつ納得のいかない顔をしながらも、彼はあえて異を唱えはしなかった。
ビジネスで動いているなら、多分、この1回で終わりだろう。
でも、私情で動いているなら―――必ず“次”がある。あのいけすかないキザ男は、そういう男だ。
―――さて…、どう出るかな。あの二代目ボンボンは。
そそくさと書類を片付けるマネージャーの手元を見つめ、拓海は険しく眉根を寄せた。
***
ドアノブに、小さな紙袋が、1つ。
「……っ」
息を呑んだ佐倉は、足早に廊下を突っ切り、自宅の玄関ドアの前に駆け寄った。
ドアノブに掛けられた手提げタイプの紙袋を、毟り取るようにドアノブから外す。中には―――真紅の薔薇が、1本だけ入っていた。
―――いつ、ここに、来たの。
いる筈もないのに、思わず辺りを見回す。が、深夜のマンションの廊下には、佐倉以外の人影はなかった。息を吐き出した佐倉は、気分を落ち着かせるために、肩の下まで伸びた髪を掻き上げた。
真紅の薔薇が、1本―――今までにないパターンだ。
いつもとは違う、ということは、この薔薇の意味もいつもとは違う、ということだろう。何が言いたいのか―――眉をひそめた佐倉は、紙袋の中から、薔薇をそっと摘み上げてみた。
そして、そこで初めて、紙袋の底に落ちているカードに気づいた。
「……」
ゴクリ、と唾を飲み、ゆっくりとカードを拾い上げる。
裏返っていたカードをひっくり返してみると、特徴のある筆跡で、たった二言だけ、綴られていた。それを3度読み直した佐倉は―――複雑な思いで、瞳を揺らした。
『忘却は、罪だろうか。
カナエを追うな。追っても、過去は戻らない』
“カナエ”。
封印されてきた名前に、心臓が大きく跳ねる。
忘却は、罪だろうか―――…。
「…あたしは、忘れられない」
カードを見つめ、ポツリと呟く。
振り返り、その姿を探す。けれど、あの春風を思わせる優しい人は―――やはり、そこにはいなかった。
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