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― affection ―

 

 朝。
 “ベルメゾンみそら”の2階で、2つ並ぶ窓が、ほぼ同時にカラリ、と開いた。
 「……」
 まさか隣も窓を開けるとは思っていなかった2人は、互いの寝ぼけ顔を見て、無言のまま固まった。
 「…おはよ」
 咲夜が、気まずさを残した顔で、そう挨拶すると、
 「……はよ」
 奏も、いまいち憮然としたムードを残した顔で、挨拶し返す。
 そして―――どちらからともなく、今開けたばかりの窓を、閉めてしまった。

 「…ガキ」
 閉めた窓を睨んで、咲夜が呟いている頃。

 「―――…オレってガキ…」
 閉めた窓にぐったりと頭をもたれさせた奏は、自己嫌悪に陥っていた。

***

 「ほんま元気ないなぁ。いっちゃんがそんな風やと、張り合いないわ」
 「…うっせーよ」
 事情も知らない癖に―――心の中でそう毒づきながら、奏はテンを睨み、レジをガシャンと閉じた。すると、雑誌をマガジンラックに戻していたテンが、ムッとした顔で振り返った。
 「うるさいゆーても、こんだけ長い期間ぼーっとされると、さすがに心配になるわ。氷室さんかて心配してるやろ?」
 「……」
 「口では言わへんけど、星さんや他の先輩たちも心配してんで。技術の未熟さを営業スマイルでカバーしてるいっちゃんが、その営業スマイルまで失くしたらえらいことになる、って」
 ―――心配って、そっちの心配かよ。
 職場の容赦ない“心配”に、思わずガクッとくる。…まあ、営業スマイルでカバーしてるかどうかは別として、まだ技術が未熟なのは事実なので、反論し難いものもあるが。
 「なあ。ほんまにお隣さんと喧嘩しただけなん?」
 つつっ、と傍に寄ってきて、テンが小声で訊ねる。その表情は、心配しているというより興味津々という感じだ。
 「ほんまは叶のお嬢様と何かあったとか、浮気がバレて大騒ぎになったとか、そういう裏事情があるんちゃうの」
 「ねぇよっ。どーゆー想像してんだよ、お前は」
 「だあって、ちょっと考え難いやんかぁ。ベタ惚れしてくれる可愛い女の子もいて、仕事も結構順調ないっちゃんが、たかが友達と喧嘩した位で、そこまで落ち込むなんて」
 「考え難くても、それが事実だから。ほんとに咲夜と喧嘩しただけ」
 奏自身だって、驚いている。“たかが友達と喧嘩した位”―――テンの言う通りだ。
 奏だって、友達と喧嘩した経験位、掃いて捨てるほどある。腹を立て、感情のままにまくしたて、冷静になった途端後悔し、そして翌日には謝る―――「悪かったな」、「おお、こっちこそ悪かった」。そんな感じで、翌日の夜には仲直りしておしまいだ。
 ところが、今日は11月20日―――咲夜と喧嘩してから、もう3週間だ。
 ―――やっぱ…オレが悪いのかな。
 今見送った客の情報をメモしながら、そんな考えが頭をよぎる。
 嘘をついたのは、咲夜の方だ。理由はどうあれ、嘘はよくない。だから自分は悪くない。この点においては、今も考える気はない。でも―――咲夜はあの時、一応は謝った。その謝罪を受け入れず、突っぱねて帰ってきてしまったのは、自分の方だ。この部分においては…やっぱり、自分が悪いような気がする。
 謝った方がいいのかもしれない。
 でも、嘘をつかれた方が謝るのは、なんだか納得がいかない。
 いや、でも。
 というジレンマでイライラしているうちに、1週間過ぎ、2週間過ぎ―――気づけば、3週間過ぎていたのだ。全く…いい加減にしろよお前、と、自分で自分にうんざりしてくる。
 「ほんなら、咲夜ちゃんとは喧嘩して以来、あんまり会うてへんの?」
 「…まーな」
 「ふぅん…そうかぁ。何が原因で喧嘩したのか知らへんけど―――ちょうどいいのかもしれへんなぁ」
 本当に“たかが友達の喧嘩”であるとわかり、一気に興味をなくしたらしいテンは、つまらなそうにそう言って、まだ手に持っていた雑誌をマガジンラックに戻しに行った。
 が、奏からすれば、今のセリフはかなり疑問だ。思わず眉をひそめる。
 「ちょうどいい?」
 「そーやない?」
 「…何が?」
 本気で、わからない。素で怪訝そうな声を出す奏に、テンは呆れたような目を向けた。
 「決まってるやんか、叶のお嬢様や」
 「……」
 「いっちゃんは“まだ彼女やない”言うけど、向こうが自分に気ぃあるの知っててそれに応じてるんやったら、彼女も同然やろ? ウチがお嬢様やったら、咲夜ちゃんはめっちゃ目障りな存在や。いっちゃんは友達を大事にするタイプやから、お嬢様より友達優先して、お嬢様から顰蹙買ったり、いらん嫉妬されたりするんちゃうか?」
 「嫉妬、って―――なんで、友達に嫉妬するんだよ? 彼女ができたら、友人関係全部絶たないといけないのかよ? 変だろ、そんなの」
 「ほんま、アホやなぁ、いっちゃんは!」
 つい、テンの声が大きくなりかける。が、客を意識したテンは、慌てて奏の腕をぐい、と引いて、声を一気に小さくした。
 「咲夜ちゃんは、ただの“友達”ちゃうやん―――“女”、やろ」
 「―――…」
 “女”。
 それを聞いて、奏はギクリとして、表情を硬くした。
 わかっていたつもりなのに…言われて初めて、意識した。自分達がどういうつもりでいようが、隣に住む大切な友人は、自分とは異なる性別の持ち主―――“女”、なのだと。
 「自分より仲良さそうな女が、自分の好きな男のすぐ隣に住んでるんやで? 嫌に決まってるわ。特にいっちゃんは、懐いた相手にはとことん尻尾振って懐きまくる性格やし。いっちゃんが気ぃ弱ってる時、ほんまなら自分が駆けつけて慰めたいのに、すぐ隣にそれができる女がおるなんて、脅威やわ。慰めてるうちに、ついフラフラーっと一線越えたりされたら、彼女としては大ショックやろ?」
 「…そりゃ、いくらなんでも妄想だろ」
 迷惑そうに入れた突っ込みも、幾分語調が弱めになってしまう。
 確かに…自分がいくら“妄想”と思っても、そういう不安を感じる女性は、案外多そうな気がする。そして―――そういう不安を感じる女性の中には、明日美も入っている、気が、する。

 ―――もしかして。
 もしかして咲夜も、テンと同じことを考えたのだろうか?
 考えてみれば、咲夜が音大祭の件で嘘をついた日は、“Jonny's Club”に明日美を連れて行った日だ。もしかしたら、あの時……明日美の態度に何かを感じたか、直接明日美と何かを話したか、とにかく奏が全く気づかなかったものに、咲夜だけ気づいたのかもしれない。だから、あんな嘘を―――…。

 「…だったら、なんでそう言わないんだよ」
 「え?」
 無意識のうちに呟いた言葉にテンがキョトンと目を丸くする。口に出してしまっていたことに気づき、奏は慌てて「何でもない」と誤魔化しておいた。
 そう、ちゃんと正直に言えばいいのだ。「明日美ちゃんから見たら私は“女”だから、あんたにやましいことがなくても、私との付き合いについては明日美ちゃんに言わない方がいいよ」、と。そう説明してくれれば、咲夜からおでんを分けてもらったとか、咲夜が新しく買った観葉植物に今度は自分が名前をつけ返してやったとか、そういう話を不用意に明日美にはしない、と誓うこともできたのに。
 ―――付き合い方を変える必要なんて、ないだろ。なんでそうなるんだよ。
 咲夜の気持ちが、少しわかったが……やっぱり、よくわからない。
 「ま、ええわ。いっちゃんが落ち込んでぼーっとしてる間に、ウチはいっちゃん目当ての客、ばんばん横取りさしてもらうし」
 「ばーか。んなこと、させるか」
 いや、本当に横取りされかねない―――お調子者に見えて、テンは着実に実力をつけているのだ。今のところイーブンだと思いたいが、他に仕事を持っていない分、テンの方が先を歩いている可能性は高い。テンをわざとらしく睨みつつも、奏は今一度、しっかりしろ、と自分に活を入れた。

 ふと時計を見ると、もうすぐ昼だった。
 「テン、先に行ってくるか?」
 他の連中は、全員手が塞がっている。奏が訊ねると、テンは首を横に振った。
 「12時に星さん指名で入ってるお客様、次からウチが引き継がせてもらう約束してるから、今日もきちんと見とかんと。それにきっちり昼の時間は、コンビニもファミレスも混んでて、短時間で戻ってくるんがキツイわ」
 「…つまりオレに、その混雑を縫ってダッシュで昼飯食って戻って来い、と」
 「いっちゃんの方が食べるの早いやん。ピラフもカレーも5分で平らげるやろ」
 「…はいはい」
 確かに、おっしゃるとおり―――肩を竦めた奏は、一足先に休憩に入ることにした。
 ―――しっかし…時間ねーなー。30分…いや、20分で戻らないと。
 氷室からは頼まれていないが、氷室を指名している客が12時半から入っていた筈―――なんとか間に合って、立ち会いたい。昼を抜いても良かったのだが、今朝はあまり食欲がなく、果物しかとらずに出てきてしまったので、エネルギー切れ寸前だ。
 やっぱりコンビニで何か買ってくるのが現実的だな…と考えながらロッカーを開けた奏は、いつもの習慣で、放り込んでいた携帯を手に取り、開いた。
 すると―――画面に、メールのアイコンが表示されていた。
 「……」
 仕事中に、誰かからメールが入っていたらしい。誰だろう、と思いながらメールを開いた奏は、表示された意外な人物の名前に、ちょっと目を丸くした。

 『明日美です。
  今日は早番の日ですよね。もしご迷惑じゃなければ、夕方から、一宮さんのおうちにお邪魔してもいいですか?』

***

 「…なんていうか…意外」
 明日美の後姿を眺めつつ、奏は、まだ幾分呆然としたまま、そうポツリと呟いた。
 エプロンの紐を後ろできゅっ、と締めた明日美は、振り返り、不思議そうな顔で首を傾げた。
 「意外、ですか?」
 「うん、意外。料理なんて、絶対やったことないと思ってたから」
 「…そんなに家庭的じゃなく見えますか、わたしって…」
 「あ、いや、そういう意味じゃなくて―――育った環境からして、家事は全然やらずに済むだろうと思って」
 慌てて奏が説明を加えると、明日美はちょっと目を見開き、それから顔を僅かに赤らめた。
 「―――正直に言っちゃうと、ついこの前まで、全然できなかったんです」
 「え?」
 「2年生になってから、“これも花嫁修業のひとつ”と母に命じられて、こっそりお料理教室に通ってるんです…しかも、超初心者コースに。この歳でじゃがいも1つ剥けない状態だったなんて知られるのが恥ずかしくて、一宮さんには黙ってたんですけど…」
 「……」
 「月2回、まだ半年なので、あまり、期待しないで下さいね。あっ、でも! い、一応先生には褒められてるんですっ!」
 真っ赤になってそう弁解する明日美の様子に、このところ沈みがちだった奏も、思わず吹き出してしまった。
 「アハハ…。そう意気込まないでも、オレ、この世のものとは思えない味でない限り、大抵はおいしく食えちゃうタイプだから」
 「…ハイ」
 恥ずかしそうに、でもどこかホッとした様子で笑った明日美は、くるりとキッチンに向き直り、買い込んできた食材をスーパーの袋からガサガサと取り出し始めた。


 誕生日以来、明日美とは何度か顔を合わせていたが、ここ1週間は、あまりに自分の落ち込みが激しいため、わざと会わないようにしていた。せっかく店に来てくれたり、食事に行ったりしても、自分が暗い顔をみせたり心ここにあらずな態度を取ってしまっては、明日美に嫌な思いをさせるだけ、と思ったのだ。
 そうしたら―――昨日、心配した明日美から電話がかかってきた。
 『昨日の電話で、一宮さん、凄く元気がなかったから』
 つい30分前、スーパーの買い物袋を提げて現れた明日美は、そう言って笑った。
 『ううん、その前も…誕生日の日からずっと、なんだか元気がなかったから。手料理でも振舞ったら、ちょっとは元気になってもらえるかな、と思って』
 全く、外見に似つかわしくない行動力に、毎回驚かされる。とてもこれが初めての恋だとは思えない―――いや、むしろ、初めての恋だからこそ、押したり引いたりする勝手がわからずにいるだけなのかもしれないが。

 超初心者コース、というセリフは、決して謙遜ではなかったらしい。キッチンに立った明日美は、傍らにしっかり料理の本を広げている。食材を切る手は、危なっかしくはないが、やたらスローペースだ。でも、そういう姿がかえって微笑ましい。
 こういう時、確かに明日美を可愛いと思うし、愛しいという感情に似たものを感じる気がする。
 明日美に癒され、慰められて、心穏やかに生きたいと、本気で思う瞬間がある。
 なのに……明日美の、自分に向かって一直線にぶつかってくる瞳を見るたびに、心の中に起きる感情は―――“罪悪感”だ。
 明日美と同じだけのエネルギーを、自分は明日美にぶつけていないから。明らかにバランスを欠きすぎた関係―――なのに、明日美の「傍にいるだけでいい」という言葉に甘えて、中途半端に繋ぎとめている。そのことに対する、“罪悪感”だ。
 咲夜と喧嘩をして、精神的に余裕がなくなって以来、前にも増して思う。
 早く―――早く、なんとかしなくては。明日美と自分の間にある差を、早く埋めてしまわなくては……、と。


 結局、明日美の料理が全て出来上がったのは、日も暮れて、夜7時を回った頃だった。
 「…この献立に2時間もかかるって、異常ですよね…」
 「いいんじゃない? 初心者ってそんなもんだろ。それより―――このメニューも、かなり予想外だよなぁ」
 狭いテーブルに並んだ料理を眺め、思わず唸った。
 料理教室で習う料理なんて、どうせ実用的じゃない非日常的なメニューばかりだろう、と思っていたのだが、明日美が作ったのは典型的な家庭料理だった。ボリュームのある肉じゃがに、じゃこやワカメを使ったほうれん草の和え物、きのこをふんだんに使ったお吸い物、茄子の田楽―――およそ、金持ちのお嬢様が作るには似つかわしくないメニューだ。
 「良家のご子息と結婚するとは限らないし、もしそうなったとしても、お手伝いを雇うような経済状況じゃない場合だってある、と言って、母が“家庭料理”コースを選んだんです」
 「へーえ…」
 「…食べてみてもらえますか?」
 恐る恐る、といった表情で、明日美が上目遣いに奏をチラリと見る。よほど自信がないんだな、と苦笑しつつ、奏は「いただきます」と手を合わせた。イマイチ程度の味でも、褒めてやらないとな、なんて考えながら。
 でも―――そんな心配は、無用だった。
 「あ、うまいじゃん」
 「えっ」
 「うまいよ、ほんとに。へーえ、やるなぁ」
 実際、かなりおいしい。奏は、偽りのない笑顔で、明日美の作った料理を口に運んだ。
 お世辞ではないことは、笑顔と口調でわかったのだろう。箸もつけずに、緊張の面持ちでじっと様子を見ていた明日美の顔が、一気に明るくなる。
 「よ…よかったぁ…。先生が褒めて下さるのも、お世辞じゃなかったんですね」
 「ハハ、料理教室の先生の言葉も、お世辞だと思ってたんだ?」
 「だって……わたしの周りって、お世辞を言う人が多くて」
 「……」
 なるほど―――叶という家に生まれてしまったが故の苦悩が、なんとなく透けて見える一言だ。
 「料理が上手いのは、お世辞じゃないよ」
 くすっと笑って奏が言うと、明日美ははにかんだようにフワリと微笑み、やっと自分も箸を手にした。
 ところが。

 「―――…っつ…っ」
 料理に箸をつけようとした明日美が、突如、体を折った。
 「い…、痛…っ」
 「え?」
 「痛い……っ」
 「え!?」

 おなかを押さえた明日美は、苦しげにそう言うと―――手にした箸を、取り落としてしまった。


***


 「一成! 急げーっ!」
 咲夜がチケットを持った手を振り回すと、一成の駆け寄るスピードが1割ほど増した。
 ライブハウスの壁にバン! と手をついた一成は、ぜいぜい、と肩で息をしながら、疲れたように咲夜を睨んだ。
 「…さ…最初から急いでるだろ…。これ以上走らせて、どうしようって言うんだ…」
 「スピード1割増が可能だったってことは、まだ本気が足りなかったってことじゃん。さ、行こう行こう」
 「…ちょっと位、休ませてくれ…」
 切れ切れの息でそう訴えたが、結局、ジャケットの袖を掴んだ咲夜に引っ張られるように、一成もライブハウスの入り口をくぐった。

 都内でも1、2を争う大きさのライブハウスは、ジャズファンで完全に満席になっていた。
 ワンドリンクチケットをそれぞれの飲み物と交換し終えた咲夜と一成が、指定されたテーブルに着いたのは、開演5分前―――本当にギリギリだった。
 「良かった、間に合って」
 「咲夜は、何時に着いてた?」
 「私も危なかったよ。一成が来る2、3分前」
 「しかし…平日で、しかも6時開演って、無茶言うよな」
 「ステージ終わったらすぐ新幹線で移動しないといけないからね。変なスケジュール組んじゃったよなぁ、拓海も…」
 そういう無茶気味な時間設定でも、これだけの客が入るのだ。出会った頃は三流ピアニストだった拓海も、随分出世したものだ。
 「そんな訳で、楽屋に行くのは了解取ってるけど、あんまり長居できないと思うけど…いいかな」
 ビールをグラスに移し変えながら咲夜が訊ねると、既にカクテルを口に運んでいた一成は、やっと落ち着きを取り戻した、という顔で頷いた。
 「ああ。一言挨拶したいだけだから」
 「そっか」
 「―――ああ、そうだ、忘れないうちに……これ」
 「え?」
 「…もうライブ始まるから、開けるのは家帰ってからにしろよ」
 そう言うと、一成は小さな包みをテーブルの上に置いた。缶ビールを置いた咲夜は、綺麗にラッピングされたその包みを見下ろし、思わず目を丸くした。
 「覚えててくれたんだ?」
 「当たり前だろ。…誕生日、おめでとう」
 「……ありがと」
 自分でもほとんど忘れかけていたのに―――思いがけず一成が覚えていてくれたなんて。プレゼントを手に取った咲夜は、嬉しそうに微笑んだ。
 その笑顔を見て、うろたえたような顔になった一成は、
 「た…大したもんじゃ、ないから」
 とぶっきらぼうに言い添え、顔を背けてしまった。照れたような顔をする一成に、咲夜はくすっと笑い、プレゼントをありがたくバッグの中に収めた。
 それとほぼ同時に―――BGMが消え、客席の照明がゆっくりと落とされた。

 ステージ上の無数のライトが、煌々と舞台を照らす。
 中央には、1台のグランドピアノ。それを挟むように、ウッドベースとサックス、そして背後にはドラムセット。ドラムスの合図で、ドラムとウッドベースが刻むビートが、ライブハウスを支配し始める。
 このリズムは―――『Take Five』だ。
 計算された5拍子。そのリズムに乗って、拓海のピアノが、同じ5拍子を刻む。口元をほころばせた咲夜は、目を閉じ、彼らの刻むビートに身を委ねた。

 拓海は、こういうスタンダード・ナンバーでライブを始めることが多い。オリジナルや洋楽のアレンジなど、自分の個性を打ち出した楽曲をトップに持ってくることが多い中では、ちょっと珍しい選曲だが、その理由を咲夜は知っている。
 『アメリカに行って、食う時間も削って、ひたすらスタンダードを弾き倒したのが、俺の原点だからな』
 まるで呼吸をするように、まるでピアノが体の一部になったかのように、まるで歌を歌うかのように―――拓海は軽やかに、耳に馴染んだスタンダード・ナンバーを奏でる。体に染み付いた、ニューヨークの香りのするジャズが、拓海の原点だ。
 そっと目を開けると、舞台の上の拓海は、楽しげにピアノを弾いていた。
 こうしてピアノを弾くことが、自分の最上の幸せなのだ、と言うように―――穏やかな、満足した表情で、力強く鍵盤を叩いていた。
 ―――やっぱり、好きだなぁ…。
 改めて、そう実感する。
 いつだって咲夜の耳の奥には、拓海のピアノが響いている。拓海という人そのものも好きだけれど……やっぱり、拓海のピアノが好きだ。泣きたくなるほどに…好きだ。

 ずっとずっと遠い未来でもいい。いつか自分も、あのステージに立てるだろうか。

 そんな夢を見ながら、咲夜は再び、目を閉じた。

***

 約2時間のライブが終わると、2人は、急ぎ拓海の楽屋へと向かった。
 「けど、驚いたな…。まさかスペシャルゲストで、勢川レイ子が出るとは思わなかった」
 「私も聞いてなかったから、驚いた。しかも、アンコール曲だけ飛び入り参加、ってのが憎いよね」
 楽屋に向かいつつ、口をついて出るのは、どうしても勢川レイ子のことだった。
 勢川レイ子は、年齢こそ拓海より1つ2つ上なだけだが、キャリアというか、ジャズ界でのランクは拓海よりはるかに上―――ベテランのジャズ・シンガーである。知名度だって半端じゃない。その勢川レイ子が、拓海たちのライブのアンコールにいきなり登場して、1曲だけ歌ったのだ。何が起きたんだ、という感じで客席も興奮状態に陥ったが、何も聞かされていなかった咲夜も相当興奮した。
 「全ステージ、あの調子でアンコールだけ出てるのかなぁ…」
 「まさか。今日だけ特別ゲストだろ」
 「だよなぁ。…ま、いいや。きっちり拓海に問い質しておかなきゃ」
 などと話をしているうちに、楽屋に到着した。
 楽屋の扉は半分開いていた。
 「拓海ー、入るよー」
 そう声をかけ、一応コンコン、とノックしてから、半開きのドアを開け放った。
 そして―――目に飛び込んできた光景に、2人して固まった。

 「―――…あら、」
 拓海の首に腕を回したまま、悪びれた風もなく振り向いたのは、どう見ても勢川レイ子その人。
 1秒前に見た、超有名人とそこそこ有名人のキスシーンに、2人の脳裏に、スキャンダル専門誌の見出しが躍った。
 「なんだ、先約があったのね」
 「…いや、そういう訳じゃ」
 困ったような笑い方をする拓海に、勢川レイ子は、唇に残してしまった口紅を指で拭う余裕まで見せた。
 ―――うーん…いろんな意味で、勢川女史の方が上だな。
 冷ややかな目を咲夜が向けると、拓海の笑顔が若干引きつった。早く離れて下さい、とでも言わんばかりに、勢川の肩を軽く押すと、勢川もスルリと腕を解き、緩やかに波打つロングヘアを掻き上げた。
 「時間もなさそうだから、これで失礼するわ。…じゃあ、残りのライブも頑張って、麻生君」
 「ありがとうございました」
 やはり先輩格には礼儀正しくするのが基本だ。拓海は姿勢を正すと、勢川に向かって丁寧に頭を下げた。ニッコリと笑った勢川は、踵を返すと、ツカツカとヒールの音をたてながら、楽屋を出て行った。やはり、今日の特別出演は、たまたま時間のあった勢川が飽くまで好意で飛び入り参加した、本日限定のイベントだったらしい。
 あれだけ鮮やかにやられてしまうと、嫉妬する気も失せる。お見事―――心の中でいい加減な拍手を送った咲夜は、それでも、はぁ、と短いため息をついた。
 「…拓海。とうとう先輩格まで食っちゃった訳?」
 呆れたように咲夜が言うと、目を見開いた拓海は、とんでもない、という風に首を振った。
 「冗談だろ! いくら俺でも相手を選ぶこともあるぞ」
 「ふぅーん…どうだか」
 「…無理にお願いして、スケジュールの隙間を縫って出てもらったから、お礼のひとつもしないとまずいだろ」
 「お礼がアレですか」
 「……ご本人の希望なら、仕方ないだろ。それもこれも、全部咲夜のためだぞ」
 「は?」
 何で私の? と咲夜が眉をひそめると、拓海は気まずそうに咳払いし、いつも通りの笑みに戻った。
 「咲夜の誕生日だろ? 今日は」
 「……」
 「今日のチケット取った日に、たまたま勢川さんに会う機会があったから、ダメもとで頼んだんだよ。…あの人、俺と違って完全に“ゲーノージン”だからな。キスの1つ2つで5分歌ってもらえるんなら、安いもんだろ」

 ―――拓海の、バカ。
 プロのミュージシャンが、私情でそんなサプライズ、やらかすなんて。

 「―――…あ…りがと」
 不覚にも、泣いてしまいそうになる。今、これ以上何か喋ったら本当に涙が滲みそうで、咲夜は視線を逸らし、拗ねたように唇を尖らせた。
 そんな咲夜の様子を見てくすっと笑った拓海は、咲夜の1歩後ろで、複雑な表情をして立っている一成に目を向けた。
 「久しぶり、藤堂君」
 拓海が薄く微笑んで挨拶すると、一成は表情を引き締め、静かに頭を下げた。
 「無理を言ってチケットを取っていただいて―――ありがとうございました」
 「いや。今日は藤堂君が来るって聞いてたから、これでも結構緊張したよ。君レベルのピアニストに聴かれてると思うと…ね」
 「…とんでもない。麻生さんには、まだ敵いません」
 そう言うと、顔を上げた一成は、ふ、と口元にだけ微かな笑みを浮かべ、何気なく付け足した。
 「もっとも―――咲夜専属のピアニストとしてなら、麻生さんに負けない自信がありますが」
 「……!」
 突然何を言い出すんだ、と、咲夜がギョッとしたように振り向く。が、一成は、全く表情を変えなかった。
 挑戦的とも取れる一成のセリフに、拓海も僅かに眉を上げたが、余裕あり気に笑い声を立てた。
 「ハハハ…、ごもっとも。そりゃ、今、実際に組んで演奏してるんだから、藤堂君より上を行くミュージシャンはいなくて当然だよなぁ。いいピアニストに早い段階で出会えて、ラッキーだったな。咲夜」
 「…うん」
 どうやら拓海は、一成の言葉を「格下からの挑戦状」とは受け取らなかったらしい。ホッとした咲夜は、拓海の言葉に同意し、微笑んだ。実際、もしこれが咲夜と同レベルのパートナーだったら、咲夜の上達も、ユニットとしての完成も、ずっとずっと遅れていた筈だ。いい時期に一成のピアノと出会えたのは、かなり幸運なことだろう。
 「あ…、拓海、あんまり時間ないんだよね。私達、挨拶したかっただけだから、もう帰る」
 廊下から伝わる慌しい気配に、咲夜は時計を気にして、そう話を切り上げた。事実、あまり時間がないらしく、拓海も咲夜を引き止めようとはしなかった。
 「悪いな。また時間のある時にでも」
 「うん」
 「藤堂君も。また聴きに行くよ、“Jonny's Club”に」
 「…はい」
 そう返事して、静かな笑みを返す一成が、拳をきつく握り締めたことを―――咲夜も、そして拓海も知らなかった。

***

 ―――誕生日…かぁ…。
 ライブハウスを出て、一成と並んで歩きながら、咲夜はちょっとした感傷に浸っていた。
 一成にはプレゼントを貰って、拓海からはあんなサプライズを贈られて―――今朝は、弟や妹から電話もあった。自分はなんて幸せなんだろう、と思う。
 でも―――誕生日、というキーワードで思い出すのは、奏のことだ。
 あの日は、奏の誕生日だったのに……いくら初仕事が上手くいったとしても、あの後明日美と楽しい時間を過ごせたとしても、あの喧嘩のせいで奏のせっかくの誕生日が台無しになったのは、間違いない。それを思うと、落ち込まずにはいられない。
 もう、11月20日。あれから3週間も経っている。
 やっぱり、もう一度こちらから謝った方がいいのかもしれない―――今朝のぎこちない奏の反応を思い出し、咲夜は小さくため息をついた。

 「―――…咲夜」
 ふいに、黙って隣を歩いていた一成が、口を開いた。
 顔を上げた咲夜は、一成の方に目を向け、何? という視線を返した。
 見上げた一成の横顔は、怒りを抑え込んだような、何かをぐっと飲み込んだような…そんな、緊迫感を伴った表情だった。
 「麻生さんって、いつも、ああなのか?」
 「? ああ、って?」
 「…今日の勢川レイ子みたいなこと」
 言われて、ああ、と苦笑する。知っている人の間では結構有名な話らしいが、いちファンに過ぎない一成は知らなくて当然かもしれない。
 「拓海、モテるからね」
 「……」
 「1人の女とは1度限り、っていう変なポリシー貫いてるから、いっつも決まった女はいないけど―――お互い、遊びと割り切った同士だから、トラブルにはならないみたいだよ」
 「……いいのか?」
 低く、呟くように言った一成は、険しい表情で咲夜の方を見た。
 「お前は、それでいいのか? 咲夜」
 「……え?」
 「好きな男が、あんな風にいろんな女と付き合って―――平気な筈ないだろ?」
 「―――…」

 思わず、足を止めた。
 心臓が大きく脈打ち、一瞬、止まる。大きく目を見開いた咲夜は、凍りついたような表情で一成を見上げた。
 どうして―――少なくとも一成には、そんな感情、微塵も見せた覚えはない。今日のやりとりでも、それとはわからなかった筈だ。でも…一成のこの口調は、確信を持っているとしか思えない。

 どういう理由であれ、一成が気づいているのは、事実で。
 こんな表情をしてしまった以上、今更それを誤魔化すのは無理だと、咲夜は悟った。観念した咲夜は、一成を見上げたまま、ふっ、と寂しげな笑みを口元にだけ浮かべた。
 「―――私が拓海を独占するなんて無理だ、って……随分前に、悟ったから」
 「……」
 「…負け犬の遠吠えって言われるかもしれないけど―――ああいうその他大勢の女みたいに、一時の快楽しか共有できない女に成り下がるなら、私は一生、拓海と結ばれなくてもいいと思ってる。どうでもいい女になる位なら、片想いのまま死ぬ方がマシだから」
 「…麻生さんが、咲夜の気持に応える可能性は、ないのか?」
 「ある訳ないじゃん」
 自嘲気味に笑い、視線を逸らす。
 「どんだけ長い時間、一緒にいると思ってんの? …その間一度だって、挨拶レベル以上のキスすら貰ったことのない私が、拓海の恋愛対象な訳ないよ」
 「……」

 沈黙が、流れる。
 一成は、どう思っただろう? 15も歳の離れた男に本気で恋心を抱くなんてバカだと思っただろうか。…視線を逸らしてしまったので、一成の表情は見えない。そこに呆れた色や侮蔑の表情を見つけたくなくて、視線を戻す気にはなれなかった。
 11月の夜風が、冷たい。風に乱れた髪を整えるように、咲夜が、頬にかかった髪を手ではらう。
 その、刹那。

 「…だったら、」
 酷く掠れた、一成の声。
 その声に、咲夜が、逸らした視線を僅かに戻しかけると同時に――― 一成の手が、咲夜の頬に触れた。
 頬に触れた手の冷たさに、息を呑み、一成を見上げる。
 その表情を確認する前に―――吐息が、唇を掠めた。

 「―――……」

 重なった唇に、時が、止まった気がした。
 身動きも、瞬きもできない。突然触れた唇の意味を考えることも―――突き放すことも、受け入れることも。
 どうして―――その言葉が頭に浮かんだのは、唇が離れてからだった。

 咲夜の頬から手を離した一成は、その反応を確かめるのを拒絶するように、そのまま咲夜を強引に抱きしめた。背中に回った腕の力に、息が、詰まる。苦しい―――混乱したまま、咲夜は一成の腕の中で喘いだ。
 「……い、っせい…?」
 苦しい中、なんとかその名前を口にする。が、一成の手が緩むことはなかった。
 「…だったら…咲夜」
 「……」
 「だったら―――俺にも、チャンスがある、ってこと…だよな」
 「―――…」
 一成の言葉の意味が、朧気ながらも咲夜の頭の中に形作られかけた時、一成自身の言葉で、その意味が告げられた。押し殺すように―――懺悔するかのように。

 「…好き、だった。ずっと」

 その告白に―――咲夜は、抱きしめられる苦しさとは違う、新たな苦しさを、胸に覚えた。


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