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― 恋じゃなくても ―

 

 階段を上りきったところで、咲夜は、意外な光景を目にして、思わず足を止めた。
 「……あれ、奏?」
 咲夜が声を上げると、自分の部屋のドアに寄りかかっていた奏が、弾かれたように顔を上げた。そして、咲夜の顔を確認するや、何故か安堵したような顔になって、大きく息をついた。
 「はぁー……っ。良かった。帰ってこないかと思ってヒヤヒヤした」
 「は?」
 「今日、店ない日なのに、なかなか帰って来ないから」
 「ああ…、拓海のライブに行ってたから。…何、なんかあったの?」
 眉をひそめる咲夜に、奏は気まずそうに歩み寄り、自分の部屋のドアを気にしながら声のボリュームを少しだけ下げた。
 「…実は今日、明日美ちゃんが遊びに来てたんだけど―――なんか、急に“おなかが痛い”って言って、うずくまっちまってさ」
 「えっ!」
 「もう、顔は真っ青だし、腹痛いだけじゃなく吐き気も起きるし、脂汗流して苦しむもんだから、こりゃ相当ヤバい病気なんじゃないか、と思って、救急車呼ぼうとしたんだけど…」
 「で、呼んだの!?」
 「…いや、それが…」
 気まずそうな顔になった奏は、ちょっと視線を逸らして、口元に手を置いた。
 「その……本人に、止められた。救急車を呼ぶような話じゃない、心当たりがある、って」
 「心当たり?」
 「……」
 「って、何?」
 察しろよ、という目で、奏が睨む。わかるわけないだろう、という目で、咲夜が睨み返す。
 苛立ったように、口元に置いていた手で髪を乱暴に掻き上げた奏は、ゼスチャーで「耳貸せ」と咲夜に言うと、その耳にボソボソと事情を説明した。何か持病でもあったんだろうか、と険しい顔をしていた咲夜は、その説明を聞いて、呆れたように眉を上げた。
 「―――…あーあー、なんだ、そういうこと。そりゃ明日美ちゃんも慌てて止めるわ」
 「けど、マジで死にそうに見えたんだぜ!? お前でもあるのかよ、あんな重病みたいな時が」
 「あるある。私は頭にきちゃうタイプだから、酷い時は1日中頭痛でグラグラしながら仕事してるよ。高校ん時の同級生は、ちょうど明日美ちゃんタイプで、1日目は起き上がるのも無理になって、月1で必ず休んでたし」
 さも当たり前、という顔で咲夜が言い放つと、奏の顔が若干蒼褪めた。
 「…た…大変なんだな、女って…」
 「そ。女は女だってだけで、めちゃハンディ背負ってんだからね。…って言うか、奏って、女遊び派手だった上に女だらけの業界で生きてきた癖に、変なとこに疎いね。明日美ちゃんだって言うの恥ずかしかっただろうに…察してやりなよ、せい―――…」
 と言いかけた咲夜の口を、バッ、と奏の手が慌てて塞ぐ。
 「ば、バカっ! 堂々と口にするなっ!」
 「んぐぐぐぐぐー」
 「しょ、しょーがないだろっ。そ、そりゃ周りは女だらけだったけど…女のきょうだいがいた訳じゃないから、そんな現実的な話、日頃耳にする機会なんてなかったんだよっ」
 声にならないほど小さな声での奏の必死な弁明に、咲夜は「わかったわかった」という風にうんざり顔で頷き、口を塞いでいる手をポンポン、と叩いた。本当にわかったんだろうな、と半信半疑の目をしながらも、奏は口を塞ぐ手を離してくれた。
 はーっ、と止めていた息を吐き出した咲夜は、疲れたように前髪を掻き上げ、奏の顔を見上げた。
 「…で? 今、明日美ちゃんは?」
 「―――寝かせてる。タクシーででも帰らせようと思ったんだけど、吐き気酷くて、乗り物のこと考えただけで胃がムカついてくるらしくて…」
 「でも、もうすぐ10時だよ? あの子、門限あるんじゃなかった?」
 「…だから、咲夜を待ってたんだ」
 「……」
 なるほど―――なんとなく、奏の考えが理解できた。それでも咲夜は、ちょっとわざとらしく、奏を見上げる目を眇めてみせた。
 「あんたって、私と冷戦中なんじゃなかったっけ」
 うっ、と、奏が言葉に詰まる。半パニック状態で、冷戦状態のことなど、一瞬頭から飛んでいたらしい。
 「…ま、いいや。とりあえず、休戦ね」
 そう言った咲夜は、しょうがない奴、というように、くすっと笑った。

***

 「ええ……、ええ、大丈夫。でも、乗り物酔いすると、また前みたいになりそうで…それで、泊めてもらうことにしたの。―――ええ。如月さんていうお友達。…ちょっと待ってね」
 携帯電話を耳から外した明日美は、ごそごそと身じろぎし、それを咲夜に渡した。
 「お母さんか誰か?」
 「いえ…、執事です」
 「……」
 ―――いきなり、一般家庭にはいないキャラの登場ですか。
 携帯電話を受け取った咲夜は、まあ何とかなるだろ、と心の中で開き直ってみせた。
 「…もしもし。お電話代わりました。明日美さんの友達で、如月と言います。…は? ああ、どういう“友達”なのか、ですか。えー、ご説明申し上げてもよろしいですが、ざっと話すだけでも10分少々かかりますがよろしいですか? え、ダメ? そうですか…残念ですね」
 よどみなく出てくる出たこと勝負な言葉が、我ながら恐ろしい。父との嫌味の応酬で鍛えられてしまった口が、こういう時に役に立つとは思わなかった。
 とにかく、声に抑揚のない執事氏をコロコロと丸め込み、何かあったらこちらまで、と自分の携帯番号を伝えて、咲夜は携帯を明日美に返した。その後の明日美と執事のやりとりを聞く限り、特に怪しまれた部分はなさそうだ。
 やっと電話を終えた明日美は、電話を切ると同時に、気力の限界、とばかりに大きなため息をついた。
 「…どうだった?」
 それまで、気配すら感じさせないよう部屋の隅っこにいた奏が、恐る恐る訊ねると、ベッドの上の明日美は弱々しく微笑み、頷いた。
 「ええ…、大丈夫です。如月さんが電話番号まで伝えてくださったので、信じてもらえました」
 「そ…そっか。良かった」
 「それに―――前に同じようなことがあった時、吐き気をおしてタクシーに乗ったら、車内で胃痙攣を起こしてタクシーでそのまま病院に運ばれたんです。そういう経験があったので、一晩泊めていただけるなら、無理に帰らせるよりいいと思ったんだと思います…」
 「…無理させないで正解だったね、奏」
 奏も、そういう経験談は、今初めて聞いたらしい。咲夜の言葉に、やや引きつり気味の笑顔で応えていた。そんな2人のアイコンタクトを見て、明日美はますます申し訳なさそうに体を縮めた。
 「…すみません…なんだか、一宮さん元気づけるために来た筈が、ただ迷惑かけに来たみたいな結果に…」
 「えっ。い、いや、そんなことないって! ほら、手料理だってオレ、最後まで食っただろ?」
 奏の言う通り、テーブルの上には、明日美の分だけ手付かずの料理が並んでいて、おそらく奏の分であろう食器は見事に片付けられていた。多分、明日美の分はどうすればいいかわからず置きっぱなしになってしまったのだろう。小さくため息をついた咲夜は、さて、これから何をどうするかな、と考えをめぐらせた。
 「とりあえず―――男所帯だと気ぃ遣いそうだから、明日美ちゃん、うちに来る? シャワー位浴びたいだろうし」
 「えっ、でも…」
 「え? だったら咲夜は、どこに寝るんだよ」
 遠慮するような明日美の声と、方向が微妙にズレている奏の言葉が、被る。明日美の遠慮はとりあえず置いておいて、咲夜は奏の方を振り返った。
 「床でいいんじゃない? うち、ラグ敷いてあるし」
 「冗談! ただでさえ迷惑かけるのに、床で寝るなんて、そんなこと、させられる訳ないだろ!」
 「はぁ? なーに明日美ちゃんの前だからって今更気ぃ遣ってんの?」
 私が奏の部屋の床で寝てても、気遣いの一つもしなかった癖に―――という言外に込めた意味は、多分、心当たりのある奏にはしっかり通じていたのだろう。が、僅かにうろたえつつも、頑として引こうとはしなかった。
 「お…女を床に寝かせる訳にはいかないだろ。オレが床に寝るから、咲夜んとこのベッドとオレんとこのベッドを、明日美ちゃんと咲夜とでシェアしろよ」
 「…それって、あんたは、どっちの床の上に寝るつもり?」
 「―――…」
 ケースその1、咲夜と同室になった場合―――奏としてはこの方が気が楽だが、咲夜的に絶対、NG。明日美の手前、この選択肢は絶対まずい。
 ケースその2、明日美と同室になった場合―――咲夜としてはこの方がいいと思うが、奏的に絶対、NG。別にそれほどモラリストじゃないし、遊びと割り切った同士なら会った当日でも同室できる。が……自分に想いを寄せている・お嬢様・恋愛経験なし、と3拍子揃った明日美と同室するのは、どう考えてもまずいとしか思えない。
 「…わかった。オレは、優也んとこに泊めてもらう」
 「優也君がいいって言ったらね」
 奏と咲夜のセリフに、また明日美が、消え入りそうな声で「…ごめんなさい…」と言った。

***

 ―――それにしても、叶グループのお嬢様が作った料理とは思えないなぁ、これ…。
 明日美が手をつけなかった料理を、自分の部屋から持ってきたタッパーに詰めながら、思わずまじまじと見つめてしまう。
 家庭料理と呼ぶにふさわしい、料理の数々―――執事がいる家の娘が、日常的にこんなものを作っている筈がない。花嫁修業か、常識として当然身につけるべきと考えたのか…とにかく、親か教室で習ったのだろう。いい奥さんになりそうな子だよなぁ、と、咲夜は口元をほころばせた。
 「…お嫁さん、かぁ…」
 考えたこともないや、そんなの。
 それどころか、男性との交際すら、考えたことがない。恋愛を意識し始めた頃からずっと、好きな人は、手の届かない人―――拓海、だけだったから。
 ―――いや。今そんなこと考えてる場合じゃないって。
 気が緩むと、ついそっちの話に頭が戻ってしまう。ぶるぶる、と頭を振った咲夜は、タッパーとラップをかけた皿を冷蔵庫に押し込み、バタン、と冷蔵庫のドアを閉めた。
 直後、バスルームに続くドアが開き、シャワーを浴び終えた明日美が顔を覗かせた。
 「…あの…、ありがとうございました。タオル、どこに置いておきましょう?」
 紺色の咲夜のパジャマを着た明日美は、そう言って、どことなく申し訳なさそうな顔をした。その姿を一瞥し、咲夜は小さく笑った。
 「いいよ、後で自分の部屋に持って行くから、その辺適当に置いといて」
 「ハイ。あの、この下着…おいくらでしょうか?」
 「えーと、千円ちょいだったかな。後でコンビニのレシート渡すね」
 咲夜がそう言うと、明日美は何故か、酷くホッとしたような笑みを見せた。
 「ん? 何?」
 「いえ。咲夜さんが、きちんとかかった費用を請求してくださる方だったので、安心したんです」
 「は?」
 「気を遣わせてる気がして、凄く心苦しくなっちゃうんです。払って当然のお金を遠慮されちゃうと」
 「ふーん。偉いね。世の中、“女と年下はおごられて当然”と思って、最初からお金用意しない輩もいるってのに」
 甘やかされた女王様気取りの金持ちのお嬢様とは、また違う種類のお嬢様―――本当の意味で、育ちのいいお嬢様なのだろう。微笑んだ咲夜は、冷蔵庫の方に視線を流した。
 「手をつけてなかった料理、一応、取っておけるものは全部冷蔵庫に入れたから。今日無理なら、明日の朝ごはんにすれば?」
 「あ…っ、ありがとうございます。でも―――もし、咲夜さんがお夕飯がまだだったら、食べてしまって下さい」
 「ああ、ごめん、食べてきたから」
 大嘘だ。本来なら、一成と適当に食べてくる筈だったのだが―――食べてきていたら、こんなに早く帰ってこれる筈がない。
 ―――食欲なんて、一気に吹っ飛んじゃったからなぁ…。
 「カップスープ、飲まない? 私も付き合うから」
 用意しておいたマグカップを手に、咲夜がそう言うと、明日美も微笑んでコクンと頷いた。


 インスタントのコーンスープは、既にお湯を沸かしてあったので、あっという間に出来た。
 多分明日美などは、インスタントのコーンスープなんて、初体験だろう。作っている間も、マグカップに直接注がれる謎の粉末を、興味津々で見ていた。口に合うのかな、と少し心配になったが、それは杞憂だった。
 「おいしい…」
 「結構いけるよね、ここのコーンスープ。具が多くて“食べた”って実感あるし」
 明日美も気に入ったようで、結構おいしそうな表情で、マグカップを口に運んでいた。が、何かを思い出したようにマグカップを置き、またちょっと申し訳なさそうに眉を寄せた。
 「でも…本当に、すみません。こんなことでお世話かけちゃって…」
 「いいよ。ちょっとはマシになった?」
 「ハイ。予定外だったから、自分でもビックリしちゃって…。本当にすみません」
 「だから、いいって。私も女だから、他人事じゃないし。それに、奏のうろたえまくったあの顔、かなり面白かったしね。ハハハ」
 「……」
 少し顔を赤らめながら、明日美が軽く咲夜を睨む。それに気づいた咲夜は、慌てて口を噤み、諸手を挙げた。
 「はいはい。明日美ちゃんの大好きな人の悪口は、慎むようにします」
 「…咲夜さん…」
 「まあ、奏のやつ、歳の割にガキっぽい上、短気で気が利かなくて喜怒哀楽激しすぎるけど―――いい奴、だからさ」
 おどけたようなセリフの後に咲夜が付け足した一言に、明日美の顔がますます赤くなる。そんな明日美を見ると、やっぱり口元が自然とほころんでしまう。
 こうして見ると、一見、あの奏が恋してやまない彼女と外見が似通っている気がする明日美だが―――受ける印象は、もしかしたら逆かもしれない。凛として聡いイメージの蕾夏に比べ、明日美は非常におとなしやかで、内気な印象だ。
 だからこそ、明日美の一連の行動が、咲夜からするととても不思議でしょうがない。
 「なんていうか……アレだねぇ」
 赤い顔でコーンスープを飲む明日美をじーっと見つめ、咲夜は感慨深げな声で切り出した。
 「明日美ちゃんって、見かけによらず、随分積極的っていうか…“攻め”の姿勢だよね」
 「えっ……」
 「何度恋愛しても、ひたすら“待ち”の状態にしかなれない女も結構多いのに―――明日美ちゃんは、初恋愛でも、自分からお茶に誘うし、こうやって料理作り来るし。皮肉じゃなく、本当に尊敬する、その行動力」
 「……」
 動揺したように、ちょっと瞳を揺らした明日美は、コトリ、とマグカップを置いて、視線をテーブルの上に落とした。
 「―――本当はわたし、待つことしか、知らないんです」
 「…え?」
 「…小さい頃から、お稽古事も学校も着る服も好みのお菓子も、みんな、待っていれば与えられたんです。わたしに似合う、わたしが好みそうなものが。…高校生位からだんだん、待っていれば与えられる物以外にも興味がいくようになって……たとえばソフトクリームを立ち食いするとか、流行のファッションで着飾るとか、聴いたこともない音楽を聴くとか―――でも、いいな、って思っても、わたし…どうすることも、できなかったんです。慣れ親しんだ“お嬢様”でいる方が楽だったから」
 「……」
 「…20歳のお披露目で、結婚相手まで親の…いえ、会社のお仕着せになるかもしれない、ってわかった時―――それだけは嫌だな、って思ったんです。恋くらい、自分で選びたい。でも、どうすればいいかわからない―――そんな時に、一宮さんに会ったんです」
 そこで言葉を切ると、明日美は目を上げ、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
 「別世界の人だなぁ、って思って―――ああ、きっと待ってるだけじゃダメなんだろうな、って思ったんです」
 「ダメ?」
 「今までみたいに待ってるだけだったら―――好きになってもらえるどころか、記憶にすら残らないんじゃないか、って。…だから、わたし、必死に追いかける以外の方法……わからないんです」
 「…そっか…」
 当事者ではない咲夜には、明日美が感じている“別世界感”に関しては、共感が難しい。でも―――そう感じた明日美が、待つことをやめて、自ら行動を起こそうと決めた気持ちは、なんとなくわかる。
 ―――そうせずにはいられない位、奏が好きだってことなんだよね、きっと。
 顔が見たい、声が聞きたい、店では見せない素顔が知りたい、できれば自分にも笑みを向けて欲しい―――明日美は、そういう内なる願いに忠実に従っているだけだ。それ以外の方法を、明日美は知らない。そう……「初恋なのに」ではなく、「初恋だからこそ」の行動力なのかもしれない。
 「届くといいね、その想いが」
 咲夜が微笑んでそう言うと、明日美も僅かに微笑み、頷いた。が―――その笑みは、すぐに、どことなく寂しげな笑みに変わった。
 「でも…本当は、なんとなくわかってるんです。わたしは一宮さんには似合わない、って」
 「え?」
 思いがけない言葉に、思わず目を丸くする。
 「そんなこと、ないんじゃない? 結構お似合いだと思うよ? 奏の外見も、見慣れてみれば案外普通だし、明日美ちゃんだって十分可愛いし」
 「…いいえ、もっと根本的なとこで、似合ってないと思うんです」
 「根本的?」
 どういう意味なのか、と咲夜が眉をひそめたが、明日美は俯いてしまい、何も答えなかった。そして、暫し俯き続けた後―――顔を上げた明日美は、悲しげに目を細めた。
 「わたしが―――咲夜さんみたいな人間だったら、良かったのに」
 「……は…?」
 キョトンとした顔を咲夜がすると、明日美は辛そうに目を逸らし、また俯いた。
 「…歳の割に子供っぽくて、短気で気が利かなくて、喜怒哀楽が激しすぎる―――そんな一宮さんになれる相手に、わたしもなりたい。…わたしの前にいる一宮さんは、いつも優しくて、わたしの知らないことを一杯教えてくれる…“大人”だから」
 「……」
 ―――ま…まずったなぁ。またそこに行っちゃうのか。
 咲夜からすれば、奏の明日美に対する態度はレディファースト精神の表れ―――つまりは、明日美を女性として気遣っているからに他ならない。咲夜と同じ扱いになる、ということは、イコール、奏にとっては“女”じゃなくなるに等しい。咲夜は“女”じゃなく“友達”なのだから。…そのことを、どうすれば明日美は理解してくれるのだろう?
 参ったな、とため息をついた咲夜は、少しぬるくなったコーンスープを口に運んだ。こういう決着のつけ方は好きじゃないが、しょうがない―――明日美を安心させるためだ、と自分に言い聞かせ、マグカップをテーブルに置いた。
 「―――あのさ。なんか、あらぬ心配を明日美ちゃんがしてるみたいだから、とっておきの秘密を暴露しちゃうけど、」
 咲夜がそう言うと、興味をひかれたように、俯いていた明日美が顔を上げる。
 その顔がしっかりこちらを向くのを待って、咲夜はその続きを口にした。
 「私、ずーっと昔から、好きな人がいるから」
 「……えっ」
 「片想いだけどさ。生まれてこのかた、そいつ以外、好きになったことないんだ。もう10年になるかなぁ…」
 「…じゅ…10年…」
 その途方もない年月に、明日美が目を見開く。そう、10年―――我ながら苦笑してしまう。
 「奏もそのこと知ってるし、半分諦めてる私に向かって“もっと積極的に攻めろ!”なんてけしかけてる。私も、さっさと明日美ちゃんに決めちゃえ、って奏の背中押してる―――つまり、私と奏は、そういう関係な訳よ。…わかるかな」
 「…は…あ…」
 わかったのか、わからなかったのか、明日美は、どこか呆然とした声色で、曖昧に相槌を打った。
 もう少し説明すべきか…いや、あまり色々言うと言い訳じみてて嫌だな―――などと考えた咲夜だが、続いて明日美が口にしたのは、咲夜の考えとはまるっきり別方向の話だった。
 「あの―――どうして、半分諦めちゃってるんですか?」
 「はっ!?」
 ―――いきなりそっちですか!
 「あっ…ご、ごめんなさい。でも、10年も片想いなんて……わたしなら、そのまま実らずに終わっちゃったら、死んじゃいたくなるほど辛いかも…と思って…」
 …弱った。火を消すために投げ込んだネタが、まさか新たな火種とされるとは。困ったように眉を寄せた咲夜は、うーん、と唸りながら、髪を掻き混ぜた。
 「どうして、って―――そりゃ、まあ、望みがないことを10年かけて実感させられたから、っていうか、最初から私は対象外、っていうか…」
 言いながら、胸の辺りがズキズキする。無意識に、心臓の下あたりを押さえてしまう。
 「…でも、あいつにも特定の彼女、いつもいないし。遊びで次々女を変えちゃうような男だけど―――ううん、だから逆に、プラトニックでいられる自分に、満足してる部分もあるかな。恋愛対象にされてないのは悔しいけど……体目的でポイ捨てされる女の方が、もっと惨めだから」
 「―――…」
 咲夜の言葉に、目を丸くしていた明日美は、怪訝そうに眉をひそめた。
 そして、暫しじっと黙り込み―――やっぱり理解できない、という表情のまま、口を開いた。
 「…咲夜さんは、好きな男の人が、他の女性と、その……そういう、ことをしても……平気なんですか?」
 ドキン、と心臓が跳ねる。
 平気じゃない、からではない。数時間前―――全く同じセリフを、聞いたばかりだから。
 「ハ…、ハハハ、そ、そりゃまあ、いい気はしないよ。昔はすっごい嫌で、あんたがそうやって女遊びするならこっちも適当な男で遊びまくってやる! とか、結構危ない腹いせを考えてた時期も……あ、いや、やってないよ? 考えただけで」
 まずい。動揺のあまり、余計な恥まで晒している気がする。咲夜の背中を、冷や汗が伝った。
 「で、でも、今は―――なんていうのかな、慣れた、というか、あいつを独占するのは無理、って悟ったというか…。いちいち嫉妬してたら、身が持たないし」
 「……」
 咲夜の説明を聞いても、明日美の怪訝そうな表情は変わらなかった。
 咲夜の顔をじっと見つめ、眉根を寄せた明日美は、僅かな沈黙の後、咲夜に訊ねた。

 「―――それって…恋、なんでしょうか?」
 「……え?」
 「恋が実って、今自分がその人を独占できているならまだしも―――片想いだったら、耐えられないです、そんな状態。わたしなら、好きな人が…一宮さんが、他の女性に触れるなんて、考えただけで気が違いそうになります。今だけじゃなく、過去に一宮さんの彼女だった人、全員に嫉妬するかも…」
 「……」
 「好きな人を独占したい、って想いのない恋なんて…あるんでしょうか…?」
 「……」

 明日美の問いに―――咲夜は、何故か、答えられなかった。


***


 ガコンッ。
 ……コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン……

 ドン!
 …ごろごろごろ。

 「―――…何の音だよ、これ」
 床の上の奏が呟くと、
 「…最後のは、ダンベルだと思います」
 ベッドの上の優也が、諦めたような声で答えた。
 時刻は、午後11時半。普段の奏ならまだ楽勝で起きているが、優也に合わせて早めの就寝である。部屋全体の照明は消しているが、暗闇にトラウマのある優也の習慣で、枕元の白熱灯のランプは点けてある。
 そんな部屋に、先ほどから頭上から響く、不気味な音。
 頭上―――優也の上の部屋といえば、例の格闘技マニア・木戸である。
 「…ダンベルの前の、コン、コン、コン、コン、てのは?」
 「それが…わからないんですよ。ここ2ヶ月、ほぼ毎晩聞こえるんですけど―――なんか、妙に規則正しいですよねぇ、この音」
 と言っているそばから、またコン、コン、コン、コン、が聞こえ始めた。バーベルを落とした時のような衝撃はなく、なんだか、床を直接何かで叩いているような音だ。しかも、やたら規則正しく、一定のリズムを刻んでいる。
 「歩く速度に似てるな…ルームランナーか?」
 「…あの部屋に、あんな大きな機械まで入れたんでしょうか」
 「ぶら下がり健康器もあったもんなぁ…」

 ゴンッ!
 …ごろごろごろ。

 「だあああぁっ! 木戸! 落とすんじゃねーっ!」
 「お、落ち着きましょう、一宮さん…」
 起き上がって天井を睨む奏を、優也が身を乗り出して制した。当初は2階からの騒音に毎日怯えていた優也だが、さすがに1年以上住み続けたおかげで、ちょっとやそっとの音ではビクつかなくなったらしい。
 「お前…よく平気だなぁ…」
 「…ダンベルやバーベル落とすのは勘弁して欲しいけど、あの謎の“コン、コン”は、結構気に入ってるんですよ」
 「気に入ってる?」
 「規則的な音だから、睡眠導入効果があるみたいで、よく眠れるんです」
 「……」
 習慣とは、恐ろしい―――今も頭上から聞こえる“コン、コン”を聞きながら、奏は、宇宙人でも見るように優也の顔をマジマジと見てしまった。
 「…ま、いいや。そのうち子守唄に聞こえてくるんだろ」
 「一宮さんも、災難ですね…。お友達が倒れた上に、こんな所に寝る羽目になっちゃって」
 諦めたようにゴロン、と横になる奏を見下ろし、優也が苦笑する。
 本当に―――優也の言う通りだ。奏は、人が自分の目の前で具合が悪くなったり倒れたりするシチュエーションが、もの凄く苦手なのだ。明日美が倒れたこと以上に、それを見て自分が年甲斐もなく大慌てし半パニック状態に陥った、そのことの方が痛い。せっかく明日美が手料理を作ってくれたというのに、途中からは心配で味がわからなくなってしまったし―――全く、なんて日なんだ、とため息をついてしまう。
 「今日って、13日の金曜日じゃないよなぁ…」
 「20日の水曜日ですよ」
 「じゃあ、仏滅かな…」
 「あ、そうだ」
 何を思い出したのか、優也がまた、少し身を乗り出した。
 「咲夜さんの誕生日ですよ」
 「え?」
 「11月20日―――今日って、咲夜さんの誕生日ですよ」
 「……」

 誕生日―――…。
 咲夜の、誕生日!?

 思わず奏は、がばっ! と飛び起きた。


***


 連続3回押された呼び鈴に、もしかして明日美だろうか、と慌てて玄関に出た咲夜は、意外な人物がドアの外に立っているのを見つけて、驚いた。
 「何、どうしたの、奏」
 優也は自分達より寝るのが早いから、もう寝たと思っていたのに―――目の前にいる奏は、寝間着代わりのスウェットの上下姿ではあるが、完全に目が覚めた顔で、肩で息をしている。
 「明日美ちゃんなら、痛み止め飲ませたから、もう眠ってるかも」
 隣の奏の部屋をチラリと見て咲夜が言うと、今そのことを思い出した、とでもいうように、奏も自分の部屋に目をやった。
 「あ…、ああ、そっか。サンキュ」
 「…何なの? もう寝てると思ったのに」
 「あー…、うん、一応、寝たには寝たんだけど―――今、何時?」
 「は? …11時40分だけど」
 手首の腕時計に一瞬だけ目をやって咲夜が答えると、奏は一気に安堵した顔になり、1歩後ろによろけた。
 「ま…間に合ったか…。良かった」
 「間に合った?」
 「日付変わったらまずいと思って。―――誕生日、おめでとう」
 「……」
 一瞬、意味がわからなかった。
 けれど、それが、自分の誕生日を祝ってくれた言葉だと気づいて―――不覚にも咲夜は、吹き出してしまった。
 「やだなぁ、それ言うために、2階までダッシュした訳?」
 咲夜が肩を震わせながらそう言うと、奏はムッとしたように眉を寄せた。
 「笑い事じゃねーよっ。優也から聞いて冷や汗もんだったぞ、ほんとに。せっかくの誕生日に、こんな迷惑かけちまったのかよ、って―――何がなんでも誕生日当日のうちにお礼とお詫びを入れとかないと、マジで眠れなくなりそうでさ」
 「ハハ…、奏らしい」
 プチン、と切れれば逆上し、しまった、と後悔すれば大慌てで謝罪―――歳の割にガキっぽい上、短気で気が利かなくて喜怒哀楽激しすぎるけど……やっぱり、いい奴だ。
 「本当に、悪かったな。誕生日の夜が、こんなに慌しくて」
 ボソボソと謝る奏の腕に、咲夜は軽くパンチを入れた。
 「いいって。私も奏の誕生日を台無しにしたんだから、お互い様じゃん」
 誕生日に喧嘩して、誕生日に無事解決―――なんとも、変な話だ。互いに苦笑した奏と咲夜は、「じゃあお休み」と言い合って、別れた。


 「―――…あーあ…」
 部屋に戻った咲夜は、大きなため息を一つつき、ベッドに身を投げ出した。
 奏の部屋に寝ることになった明日美と別れ、この部屋に戻ってからも、やっぱり咲夜はこうしてベッドの上でぼんやりしていた。奏が訪ねて来る直前まで。
 奏は謝っていたが、咲夜にはむしろ、今夜のアクシデントはありがたかったのだ。
 明日美のことでバタバタしている間は、余計なことを考えずに済んだから。

 『咲夜が、残された僅かな可能性に賭けて、麻生さんを想い続けてるんだったら…黙ってるつもりだったんだ。でも…もう可能性はない、って咲夜が悟りながら、それでもまだ麻生さんを想っているんなら―――麻生さんを想い続けて終わる位なら、お前の半分でもいい、俺に預けられないか…?』

 はあぁ、とため息をついて、ごろん、とベッドの上を転がる。
 中学の時のあの大バカヤロウは、カウントに入れなくていいだろう。あの先輩は、咲夜ではなく、咲夜の体に興味があっただけなのだから。だから―――これは、咲夜が、24年の人生で初めて受けた“告白”なのだ。
 “好きだ”という言葉が、こんなに重いものだなんて、知らなかった。
 非日常キャラの執事さんを軽く丸め込める咲夜でも、一成の言葉を笑って聞き流すことは、到底できなかった。ストレートにぶつけられ、真剣に受け止めたその言葉は……胸が悲鳴を上げそうになるほど、重たかった。
 その重たい言葉に、咲夜は、何も答えられなかった。一成も、「今は答えはいらない」と言っていた。言葉の重みを受け止めるだけで精一杯な咲夜を思いやるように―――それ以上、何も言わずにいてくれた。
 でも、返答保留で安堵することなど、咲夜にはできない。
 何故なら、明日は木曜―――頭を整理する間もなく、“Jonny's Club”のライブの日だから。
 「どーしよー…」
 またごろん、と転がり、思わず呻く。あんなことがあった後で、一体どんな顔で一成に会えばいいのやら―――それを考えるだけで、頭がパンクしてしまいそうだ。

 暫く、ごろんごろんと左右に転がって呻いていた咲夜だったが、やがてムクッ、と起き上がり、床に投げ出していたバッグを引き寄せた。
 バッグの中から取り出した箱は、オフホワイトの包装紙でラッピングされ、洒落たナチュラルカラーのリボンと造花が飾られていた。なんだか申し訳なくて、咲夜はリボンを丁寧に解き、包装紙が破れないよう慎重にラッピングを解いた。
 出てきたのは―――小さな、オルゴールだった。
 「…一成っぽいなぁ…」
 くすっ、と笑った咲夜は、さっそくネジを巻いてみた。そして、手の中のオルゴールが奏で始めたのは―――咲夜が得意な『Blue Skies』だった。

 「...Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see......」

 オルゴールに合わせて、小声で歌ってみたら。
 なんだか―――泣きたくなった。


 『それって…恋、なんでしょうか―――…?』

 …わからないよ、そんなの。
 独占するのは無理だ、と諦めている状態が恋じゃないなら、確かに、私の拓海への想いは、恋じゃないのかもしれない。もしかしたら、長い長い時間をかけすぎて、始め恋だったものが他のものに姿を変えたのかも―――とにかく、今のこの想いを何て呼ぶのか、私には、わからない。

 でも、これが、恋じゃなくても。
 明日美ちゃんが奏を必死に追いかける、あの気持ちと同じ、恋じゃなくても。
 私は―――やっぱり、拓海が、好きだ。
 いい加減で、節操がなくて、気分屋で……時々、15歳も上なのが嘘なんじゃないか、って位に子供っぽくて、もう本当にしょうがない奴なんだけど―――そういうのも全部ひっくるめて、“拓海”という存在が、好きだ。


 オルゴールの音が、途切れる。
 もう一度、今度は最後までネジを巻いた咲夜は、そっとオルゴールをベッドの上に置き、またコロン、と横たわった。
 目を閉じれば、青空の夢が見られるかもしれない―――そんな風に思って目を閉じたが、その日、咲夜には、なかなか眠りは訪れてはくれなかった。


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