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緊張の面持ちで、ドアを開ける。
「お、咲夜、遅かったな」
サンドイッチを頬張りながら明るく言うヨッシーの横で、顔を上げた一成も、微かに笑みを返した。
「お疲れ」
「……お、お疲れ、様」
―――待て。私が不穏な態度をとってどうする。
明らかにギクシャクした自分の表情と口調に、一瞬焦る。後ろ手でドアを閉めた咲夜は、軽く息を吸い込み、改めてニッ、と笑った。
「ルート外の客にコーヒー届けに行ってたから、ギリギリになっちゃったよ。おにぎり買う時間もなかったから、ちょっとパワー不足かも」
「サンドイッチはやらないぞ」
警戒したようにヨッシーが言うと、苦笑した一成が、テーブルの上のコンビニ袋をガサガサいわせながら、何かを取り出した。
「カロリーメイトなら、お裾分けしないでもない」
「あ、ラッキー。しかもフルーツ味じゃん」
「早く食わないと、着替える時間なくなるぞ」
そう言ってカロリーメイトの箱を放り出した一成は、また手元の楽譜に視線を落とした。
「…じゃあ、いただきます」
―――良かった…。いつもの一成だ。
どんな顔をすればいいか、と一晩唸ったせいで、ほとんど眠っていないが―――とりあえず、一成の方は普通に接してくれる気らしい。黄色い箱を手元に引き寄せながら、咲夜は密かに、ほっと息をついた。
「そう言えば、お前たち2人、麻生拓海のライブに行ったんだろう?」
咲夜がカロリーメイトの中袋を開けたところで、ヨッシーが何気なくそう切り出すと、楽譜をめくる一成の手と、袋を開ける咲夜の手が一瞬、止まった。
あまり昨日のことには、触れて欲しくない。それはどちらも同じだが、一成の方が切り返しは早かった。すぐに、何事もなかったように楽譜をパラリとめくり、さり気なく答えた。
「…ああ、行ったよ」
「あのメンバーでのセッション・ライブって、2度目だよな。どうだった?」
「前回行ってないけど、なかなか良かった。な?」
「えっ? あ、うん」
同意を求められ、咲夜も慌てて頷いた。そうだ。ライブの感想を訊かれているだけなのだから、そう身構えることもないのだった―――慣れないシチュエーションに、判断力が乱れているらしい。
「あの人達とは、息が合ってるみたい。拓海のピアノとベーシストさんが相性いいからね」
「ふぅん…ベーシストか…。行っとけば良かったかな」
同じベーシストというパートを担当している同士、興味が湧いたらしい。ぱくっ、とサンドイッチを口に入れつつ、ヨッシーが呻いた。が、その表情は、すぐ興味津々のものに変わり、少し身を乗り出すようにして、一成の顔を覗き込む。
「…で? 一成的には、麻生拓海の生ピアノの感想は?」
「……」
一瞬、目だけを上げた一成は、すぐに視線を楽譜に戻した。そして、その口から出てきた感想は、咲夜にとっては思いもよらないものだった。
「何て言うか―――相変わらず、咲夜の歌みたいなピアノだった」
「えっ?」
―――私の歌みたいな…ピアノ?
「ああ、わかるわかる。似てるからな、咲夜の歌と麻生拓海のピアノ」
キョトンとする咲夜本人をよそに、ヨッシーはその感想に納得したらしい。もぐもぐ口を動かしながら、大いに頷いた。
「あ…あの、私の歌みたいって…何?? 歌とピアノが似てる、って、意味不明なんですけど」
「あれ? 咲夜本人は思わない?」
「…いや…つか、考えたことない」
「個性が同じだってことだよな、一成」
な? とヨッシーに同意を求められた一成は、小さく息をつくと、楽譜を下ろした。そして、テーブルに腰掛けているヨッシーと咲夜の顔を一度交互に見、最終的にはヨッシーを見上げた。
「…咲夜の歌も、麻生拓海のピアノも、荒削りでありながらやたら伸びがあって、高音が明るくクリアな音がする。感情の起伏をそのまま音楽にしたみたいな表現の仕方も同じだし―――特に、咲夜が歌う“Blue
Skies”と、麻生拓海がソロで弾く“Blue Skies”は、楽器だけ取り替えて同じ人間が演奏したみたいに、瓜二つだ」
「……」
「単体なら、最強の個性だと思う。でも……似た色の絵の具を混ぜ合わせれば、薄い方が濃い方に塗り潰される」
そこで言葉を切った一成の目が、こちらを向く。
「咲夜が麻生拓海のピアノで歌ったら、まさに個性の殺し合い―――今やったら、キャリアの分、咲夜の個性だけが麻生拓海の個性に潰されて、終わりだ」
「―――…」
拓海に潰されて―――おしまい。
咲夜は言葉もなく、一成の顔を呆然と見つめ返した。そんなこと…考えたこともなかった。プライベートで拓海のピアノに合わせて歌った時も―――昨日、いつかあの舞台に拓海と立てるだろうか、と夢見た時も。
「まあ、“麻生拓海とのセッションがしたい”って言ってるのは、ずーっと未来の話だろう? それまでに成長してりゃいいさ。なぁ?」
慰めるでもなく、ヨッシーがそう言う。咲夜もそれに応え、少々ぎこちなくなりつつも、苦笑を浮かべて頷いた。
―――いや、でも、結構ショックかも。
呆然としてるだけの時より、苦笑を作った後の方が、じわじわとその衝撃が襲ってくる感じだ。その証拠に、半分に割ったカロリーメイトの片方が箱の上に落ちたことに、咲夜は気づいていなかった。
「おっと、あと15分か」
手でも洗いに行くのか、ヨッシーがそう言って控室を出て行った。一成も、テーブルに散らばった楽譜を揃え、咲夜も慌ててカロリーメイトを口の中に押し込んだ。
「あ、このジュース、一口もらっていい?」
「どうぞ」
置いてあったブリックパックのジュースを、一口もらう。なんとかカロリーメイトを流し込んだ咲夜は、はぁ、と息を吐き出し、チラリと一成の方を見た。
「…あのさ。さっきの話って…」
「―――念のために言っておくと」
トントン、と楽譜を揃えた一成は、咲夜の目を真っ直ぐ見て、きっぱりと言った。
「嫉妬じゃないから」
「…そんなこと、思ってないよ」
拗ねたように唇を尖らせた咲夜だったが、そういえば誕生日プレゼントのお礼を改めて言ってなかった、と気づき、
「それと…オルゴール、ありがとう」
と唐突に付け加えた。
本当に唐突な流れに、一成もちょっと目を丸くしたが―――照れ隠しのようにふいっ、と顔を背けると、手にしていた楽譜をケースに放り込んだ。
「―――…上手く言えないけど……、俺はただ、もしも、の可能性に賭けて、俺の本音を覚えといて欲しかっただけだから…」
「……」
「今は、答えは、いい。…今まで通りの咲夜でいてくれないと、やり難い」
「―――うん」
当然だ。一見、咲夜ばかりが色々言われて混乱しているように見えるが、きっと、言うつもりのなかった話をして動揺してしまっているのは、一成も同じだろう。
咲夜と一成の関係において、最優先事項は「音楽」―――気まずさを引きずって、舞台に上がる訳にはいかない。気を引き締めるように軽く自らの頬をぴしゃりと叩いた咲夜は、残りのカロリーメイトを一気に口に放り込んだ。
***
「え? 涼一さん?」
『そう。覚えてる?』
勿論、記憶にあった。明日美は、唯の問いかけに、受話器越しながら頷いた。
「ええ。唯の、従兄弟の方でしょう? 確か、2度ほどお会いした」
『そうそう。今、アメリカの大学に留学してる、あたし達より2つ上の従兄弟。その涼一さんが、来月、冬休みで日本に帰って来るんだけど―――明日美、1度、会ってくれない?』
「え?」
目を丸くした明日美は、携帯片手に、首を傾げた。
「どうして?」
『どうして、って―――鈍いわねぇ…。男性が女性に会いたいって言ったら、その理由位、察してあげなさいよ』
「……」
察することができるとしたら、それは―――明日美は、僅かに頬を赤くし、動揺したように口元に手を置いた。
『今年の夏休み前半に、明日美に久々に会って……なんだか、気に入っちゃったみたいなのよ。12月の最初の週は、期末試験で帰ってこれないけど、終わり次第帰国するから、一度お茶でもご一緒できないか、って』
「…で…でも、わたしには…」
―――わたしには、一宮さんが。
そう、はっきり言えたら、どんなに楽だろう。でも―――案の定、明日美の言葉の続きはすぐわかったらしく、受話器の向こうの唯が、呆れたようにため息をついた。
『…明日美の言いたいことは、見当つくわ。一宮さん、でしょ』
「―――…ええ」
『…ねえ。うるさがられるのは承知で言うけど―――もういい加減、引き時なんじゃない?』
「……」
『この前だって、お母様に怒られたんでしょう?』
「あ、あれは、突発的なトラブルだもの。一宮さんじゃなくても、同じ結果になってたと思うわ」
数日前の初めての外泊を思い出し、明日美は慌てて弁解した。救急車もタクシーも、断ったのは自分だ。あんなに頑なにその場から動くことを明日美に拒否されては、奏じゃなくたってお手上げだっただろう。
『それはそうだけど―――ああいう時、堂々と一宮さん自ら電話で事情を説明できないのは、結局は、一宮さんをお母様に紹介していないからでしょう?』
「……」
『で、紹介できないのは、一宮さんが明日美の相手として不足があるからじゃなく―――彼が、明日美の“恋人”ではないから、でしょう?』
「……」
『もう、まる3ヶ月よ? たまには別の人にも目を向けてみたら? 明日美は一宮さんしか男性を意識したことがないから、一宮さん以外を考えられなくなってるだけかもしれないし…。とにかく、世の中にはいろんな男性がいる、ってことを知るためにも、一宮さんのことは好きなままでいてもいいから、いろんな人と会って話をする位はしてみたら?』
一理、ある―――明日美は唇を引き結び、うな垂れた。
『まあ、一宮さんのことはさておき…“親友の従兄弟の帰国を祝う”って気持ちだけでいいから、来ない? 変なセッティングなんてしないわよ。1対1なんて明日美には無理だろうから、そうね……あたしの彼とか、他の親類や友達も呼んで、ちょっとしたホームパーティーなんて、どう?』
唯の提案は、確かに、明日美にはピッタリだった。参加者の1人としてなら―――観念した明日美は、
「…わかったわ。2人きりとか3人だけとか、唯たちカップルとダブルデートとか、そういうんじゃないなら…」
と答えた。
―――“恋人”…か…。
二つ折りの携帯を畳み、ため息をつく。
多くは望まない。あの日見かけたあの女性を、奏が忘れてくれるまで―――それまで、一番近くにいる女性として傍にいることを許してくれるなら、それだけで十分幸せだ。その気持ちは、今も変わっていない。
でも、その気持ちを裏切ろうとするほどに欲深な自分にも、明日美は気づいている。
気づいているから……あの日のことが、胸に刺さった棘のように、チクチクと痛む。
今まで見たことがないほど落ち込んで塞ぎこんでいた奏に、少しでも元気になって欲しくて。拙い手料理でも喜んでくれれば、そう思って、奏の部屋を訪ねた。
でも、本当は、少しだけ―――ほんの少しだけ、考えていた。
もしも今日、落ち込んでいる奏が、自分を求めてきてくれたら―――まだ恋愛感情がなくても、そういう関係になってしまえば、優しい奏だから、自分を“彼女”にしてくれるかもしれない……と。
―――ちょっとしたことで赤面するほど、知識も経験も全然足りない上に、世間の女の子よりずっと子供な癖に……そんなところばかり、ずるくて。
ただ純粋無垢に一宮さんを想ってるような顔をして…心の中では、そんな打算を働かせて。
一宮さんに迷惑をかけておきながら、別の部屋で寝る、って聞いた時には、ちょっとだけがっかりしたりして。
恥ずかしい―――恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
俯いた明日美は、記憶を振り払うように、頭を振った。
***
『TAKUMI ASOU / combination』
数年前に発表されたアルバム―――色々なアーティストをゲストに呼んで、1曲1曲、違う人と組んで演奏した曲を集めたアルバムだ。その1曲目に、誰とも組まず、たった1人で弾いている『Blue
Skies』が収録されている。
―――よし、勝負。
拓海のCDをデッキにセットした咲夜は、ゴクリ、と唾を飲み込み、プレイボタンを押した。
1秒後、スピーカーからは、近所迷惑にならない程度の音に絞り込まれた拓海のピアノが流れてきた。
いかにも、拓海のピアノだった。
楽しそうに弾いているあの姿が、目の裏に容易に浮かぶ。顔だって絶対笑顔だ。『Blue Skies』は、拓海も好きな曲だから。
鍵盤を自由自在に叩く、力強い指―――テンポも、速く、緩く、気ままに揺さぶられる。まるで体の一部がピアノになってしまったみたいに、拓海は感情の赴くままに音を奏でる。それが、CDを通してでもよくわかる。
比較的短いその曲は、タイムカウントが4分になる前に終わってしまった。咲夜は、次の曲が始まる前に、ストップボタンを押した。
そして、続いて手にしたのは―――昨日、一成に協力してもらって吹き込んだMD。
虹を思わせる配色のそれを暫し凝視した咲夜は、覚悟を決め、デッキにセットした。
「……よし」
MDの再生ボタンを押すと―――今度は、一成のピアノが奏でる『Blue Skies』の前奏部分が流れてきた。
『Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see....』
咲夜自身の声が、一成のピアノに被る。咲夜は目を閉じ、神経を耳だけに集中させた。
タイトで軽やかなピアノと、対を成すように歌い上げられる、酷く感情的な歌声。青い空を見上げて「あー、いいお天気ー」と伸びをしている自分自身が目に浮かぶ。当然だ。そういう気分で歌ったのだから。
咲夜がテンポを落とせば、それを読んだように、ピアノもテンポを落とす。アップテンポになれば、その場のノリで邪魔にならない程度のアドリブを挟み、高音が気分良く出れば、スキャットで一成のアドリブに対抗したりもする―――そんな風な掛け合いで、『Blue
Skies』は5分半ほどの長さになっていた。
脳裏に浮かぶ自分は、笑顔だった。
そして、その楽しげに歌う姿は―――笑ってしまうほどに、楽しげにピアノを弾く拓海のムードと、そっくりだった。
録音した曲が終わり、勝手にMDがストップする。
ストップからたっぷり1分、身じろぎひとつせずにいた咲夜は―――唐突に、ふ、と口元だけで笑った。一成からこの指摘を受けて以来、2週間以上をかけて検証してきたが、『Blue
Skies』で比較したら一発だったから。
速くなる箇所、遅くなる箇所、歌い上げる箇所、軽く流す箇所……解釈はバラバラだが、その表現方法というか、音の質というか―――…。
「…ここまで似ること、ないじゃん…」
双子か、私たちは。
ついに吹き出した咲夜は、ハハハハ、と大笑いして床の上に転がった。
『似た色の絵の具を混ぜ合わせれば、薄い方が濃い方に塗り潰される。咲夜が麻生拓海のピアノで歌ったら、まさに個性の殺し合いだ』
―――ほんとだ。その通りだよ、一成。
笑いながら、突きつけられた現実が、胸を刺す。気づかなかった―――“育てられる”とは、こういうことなのか。
音楽は得意だったが、ジャズは1から拓海に教わった。拓海しか知らなかった。拓海の与えてくれる音楽が咲夜の全てだった。ただでさえ似ている2人―――音楽性がコピーされてしまったのは、必然なのかもしれない。
1人なら、もしくはまた別の個性とのセッションなら、この個性は最大限生かされるだろう。例えば一成となら、一成には足りない情感の部分を咲夜の歌が補い、咲夜には足りない冷静な計算を一成のピアノが補ってくれる。そうやって、互いの個性を生かせるだろう。
でも、拓海と咲夜では―――個性の殺し合い。そして、殺し合った結果…潰れるのは、どう考えても劣っている、咲夜の方。
「…まいったなー…」
拓海のピアノにふさわしいヴォーカリストになりたい、と思い続けていたのに――― 一頻り笑い疲れた咲夜は、天井を見上げて、途方に暮れたように呟いた。
と、その時、玄関で呼び鈴が鳴った。
むくっ、と起き上がった咲夜は、誰だろう、と思いながら魚眼レンズを覗き込んだ。するとそこには、レンズのせいで歪んだ奏の横顔があった。
咲夜がドアを開けると、あらぬ方向を見ていた奏は、にっ、と笑った。
「よ。帰ってたんだ」
「うん、まーね。月曜だし。…どうした?」
「今日、店で貰ったんで、お裾分け」
そう言って奏が差し出したのは、みかんの入った袋だった。
「おおー、冬の定番じゃん。ありがとー。何、こんなもん差し入れてくれる客がいるの? 奏んとこの店」
「いや、くれたのは、黒川さん」
日本にはいない筈のメイクの師匠の名が出てきて、咲夜はちょっと目を丸くした。
「ロンドンじゃないの」
「昨日からこっち来てんだ。年末の忙しさを乗り切るにはビタミンCを十分補給しなさい、とか言って、うちのスタッフ全員に配るために、いきなりみかんを箱買いだぜ?」
「ハハハ…、いい師匠じゃん」
「まーなー。実際、すげー忙しさだし…」
「ってか、今日って何日? うわ、9日? もう12月の3分の1終わりかぁ…なんか意味もなく焦るなぁ」
などと言いながら、それぞれ、無意識のうちにビニール袋の中に手を突っ込んで、みかんを1つ取り出す。肩でドアを押さえながら、2人は立ったままみかんの皮を剥き始めた。
「お前、今年の正月は、家帰んの?」
「うーん…多分、やめとく。去年後悔したから」
「そっか…」
「奏は? イギリス戻るの?」
「いや、無理。中森和泉のファッションショーの仕事が、年明け2日からあるんだ」
みかんを1房口に放り込みつつ、奏はそう言って眉を顰めた。
「年内は、その準備もあって土日も休みなし。店もパーティーシーズンだし、ひたすら働きづめっぽいなぁ…。オレ、マジで過労死するかも」
「…三が日にやるファッションショーなんか受けちゃった時から、過労死への第一歩踏み出してる気するけど」
「咲夜の方は暇?」
「うーん…」
咲夜も唸りつつ、みかんを1房口の中に放り込む。
「飛び込みでもライブやらせてくれる企画がありゃ、飛び込むつもりなんだけど―――まだ決まってない。会社の方も結構忙しいしなぁ。意外と会議が多いみたいで、コーヒーの注文も増えるんだよね」
「日本人、会議好きだよなぁ」
「ねぇ。無駄な会議が多いのに」
どうということもない無駄話を、2人は、みかん1個を食べ終えるまで続け、おやすみの挨拶をして別れた。
本当に悩んでいること、本当は話したいことが、それぞれにあったけれど……何故か、その話はしなかった。
悩みを話し合える貴重な相手なのに。
それは今も変わらないのに。
ここ半月ほど―――奏も、そして咲夜も、明日美や一成の名前を何故か口にできなくなっていた。
***
「では最後に―――80年代に大ヒットした名曲を、ジャズ風味でお楽しみ下さい。…ポリスの“Every breath you take”」
咲夜のセリフを受けて、ヨッシーのウッドベースが、リズムを刻み始める。
一成のピアノが、そのリズムに合わせて、音を奏でる。2人が作ってくれる空気を体に感じながら、咲夜が歌い出した。
「Every breath you take... Every move you make... Every bond you break, Every step you take, I'll be watching you...」
この前の音大祭で、一成と咲夜だけで演奏した曲に、更にベースパートを加えて厚みを増したアレンジ。今日が初お披露目だが、1度目のライブの反応は上々だった。
―――やっぱり、一成のピアノって、私と相性がいいんだろうなぁ…。
間奏の間、一成のアドリブパートを聴きながら、改めて思う。
クールとも思える一成のピアノは、咲夜の歌声を“締める”役割を担っているし、咲夜の情感むき出しの歌い方は、一成のピアノに彩を添える役割となっている。互いの個性を潰しあわず、尊重しながら、1つの楽曲を作っていけるパートナーは、拓海が言っていたとおり貴重な存在だ。
いつかは拓海と―――その想いは、拓海と自分が組むことのリスクを自覚してもなお、消えることはない。けれど、拓海を究極の目標としている自分が、一成と組んで活動範囲を広げていいものかどうか……というここ最近の迷いには、これで答えが出た気がする。
今の自分が歌うには、たった1人でアカペラで歌うのでなければ――― 一成のピアノしか、組む相手は、あり得ない。漠然とではなく、それがわかったから、この先の将来がどんな形になるにしろ、“今”一成と一緒に上を目指すのは、絶対に間違いじゃない。…そう自信を持って言える。
ただ、新たな問題が、1つ。
―――これから何をしていけば、拓海と同じステージに立てる“私”になれるんだろう…?
『Every breath you take』を最後まで歌いきり、それまでの拍手より大きな拍手を客から貰った咲夜は、心からの笑みと共に頭を下げ、手を振ってステージを下りた。
それに続いてステージを下りた一成やヨッシーと、新曲の成功を祝って、密かに拳をぶつけ合う。これだけ手応えのある新曲は久々なので、3人ともちょっとハイテンション気味だ。
「新曲祝いで、1杯やる?」
咲夜がヒソヒソ声で提案すると、ヨッシーが申し訳なさそうに諸手を挙げた。
「いやー、祝杯は、悪いが2人だけであげてくれ」
「あ…そっか、ヨッシーは早く帰らないとまずいんだった」
ヨッシーの妻は、現在、妊娠3ヶ月で、つわりと戦っている真っ最中なのだ。ただでさえ愛妻家のヨッシーは、今まで以上に妻思いになり、ステージが終わるとダッシュで帰っている。祝杯なんぞあげている場合ではないだろう。
「じゃあ、俺たちだけで盛大に祝うか」
「だね」
一成と咲夜が、そう言って密かに笑った時―――“STAFF ONLY”のドアの直前で、甘ったるいケーキみたいな声が、一成を呼び止めた。
「藤堂さんっ」
「―――…」
3人とも、振り向かずとも、声の主はわかっている。…アルバイト店員・ミサだ。
複雑な表情の咲夜とヨッシーが一成に目を向けると、一成は、少々うんざり、という顔でため息をついていた。
「…すぐ行くから」
咲夜に小声でそう言った一成は、面倒くさそうに振り返った。ヨッシーは、関わり合いになるのは御免とばかりに、そそくさとドアの向こうに姿を消し、咲夜もその後を追ってドアの向こうに体を滑り込ませた。
ドアを閉める時、気になって、ちょっとだけ一成とミサの様子を窺うと、ミサは、何故かこちらを見ていた。
その、咲夜をじっと見据える目が、あの時シマリス―――嶋崎が見せた目に似ている気がして、咲夜はゾクッという寒気に身を震わせて、ドアを静かに閉めた。
***
「じゃあ、お先に」
「お疲れ様ぁ」
大慌てで帰って行くヨッシーに咲夜が手を振ると、それとほぼ入れ替わりで、一成が控室に戻って来た。
「ミサちゃん、何て?」
ミネラルウォーターの蓋を開けつつ咲夜が訊ねると、疲れた顔の一成は、ドアを閉めて、大きなため息をついた。
「…咲夜。祝杯あげるなら、別の店にしよう」
「は? いいけど……なんで?」
「…多分、店で飲んでたら、乱入してくると思う」
「…なるほど」
思わず、眉根を寄せる。同じ“攻め”の姿勢でも、明日美の方はあっぱれと思えるが、明らかに迷惑そうな一成にしつこく食い下がるミサは、もうやめとけ、と助言したくなる。
「顔は可愛いんだけどなぁ…。一成の前の彼女に似てるし」
そう呟いて咲夜がミネラルウォーターに口をつけると、一成は、あからさまにムッとした顔になった。
「―――お前、自分の立場を理解した上で言ってるのか、そのセリフ」
「え?」
「…覚えておいてくれ、って言っただろ」
「……」
―――しまった。大失言。
前の彼女に顔の傾向が似ているのは、確かに事実だが―――自分に好意を抱いている一成に向かって今のセリフを言うのは、「私よりあの子の方がお似合いだよ」と暗に言っているようなものだ。慌てた咲夜は、ペットボトルを置き、思わず立ち上がった。
「い、いや、“顔は可愛いのに、なんでああいう性格なんだろう”って意味であって、ミサちゃんの方がいいんじゃない、って意味じゃないよ? 第一、一成の元カノ、もっと性格良かったじゃん」
「…どうでもいいだろ。前の彼女のことなんて」
「……だ…よね」
焦りで、掌が汗ばんでくる。そんな咲夜からフイ、と目を逸らすと、一成は、置いてあったスポーツタオルで額の汗を拭った。
―――相当、機嫌悪いなぁ…。
ついさっきまでは、新曲が上手くいったことを上機嫌で喜んでいたのだから……この不機嫌の理由は、やはりミサなのだろう。とりあえず、ミサのことにはこれ以上触れない方がいいらしい。
「―――…あ…、そう言えばさ。一成と録音した“Blue Skies”と、拓海が弾いてる“Blue Skies”の比較、昨日、やってみた」
思い出したように咲夜がそう言うと、スポーツドリンクをあおっていた一成が、僅かに眉をひそめ、咲夜の方を見た。
「…それで?」
「ん…、一成の言うこと、よくわかった」
「…そうか」
そう相槌を打つ一成の声は、嬉しそうでも、安堵しているようでもなかった。真摯な表情で、暫し咲夜を見つめて、それから目線を落とす。
「本当は…言うべきかどうか、迷ったんだ。咲夜が、麻生さんと同じレーベル目指してた理由が、麻生さん自身だったことも、なんとなくわかってたから。ずっと目標にしてたものが、自分にとってプラスにならない、なんて知ったら、ショックだろうと思って…」
「そんな! ショックは、ショックだったけど、教えてもらってよかったと思ってるよ。私は」
一成が申し訳なく思うことなど、何もないのに―――咲夜は、テーブルを回り込んで、一成の所に歩み寄った。
「おかげで、実力不十分な私が拓海と組むことのリスク、新しい観点から考えられたし―――それに、今の私には、一成のピアノが凄く合ってるんだ、ってことも再認識できたし」
「……」
「だから、教えてもらってよかった。…本当に」
それが、嘘偽りのない咲夜の本音だと、感じ取ることができたのだろう。
「……そうか」
目を上げた一成は、どこか安堵したように、微かな笑みを浮かべた。つられたように、口元をほころばせた咲夜だったが。
「ただ―――新たな悩みが、1つ、できちゃったけど」
困ったような顔になった咲夜のその言葉に、一成が、怪訝そうに眉をひそめる。
「新たな、悩み?」
「うん。つまりさ、今は、一成と活動範囲をどんどん広げて、メジャーになっていくことを目指すにしても―――遠い将来の夢としては、やっぱり、まだあるんだよね。その……拓海とのセッション、ていう、最終目標が」
「……」
「今までは、ただ、上手くなればいずれは…って思ってたんだけど―――個性が被っちゃってダメ、となると、この先どうすれば、拓海と同じステージに立てるようなヴォーカリストになれるのか、よく―――…」
そこまで言いかけて、咲夜は、ハッとして、次の言葉を飲み込んだ。
目の前にいる一成の表情が、あっという間に、硬く険しい表情に変わったから。
―――な…、何? 私、なんかまずいこと、言った?
一成の突然の表情の変化がわからず、咲夜は、戸惑ったように瞳を揺らした。
一成は、暫し黙って咲夜の顔を見据え―――やがて、疲れたような、皮肉めいた笑いを一瞬漏らし、目線を落とした。
「……結局、咲夜の最終目標は、そこなんだな」
「…えっ」
「最高のヴォーカリストになるのが夢なんじゃなく―――“麻生拓海と同じステージ立てるヴォーカリスト”が、咲夜の夢か」
「……」
「…なあ、咲夜」
硬い声でそう言って、一成は、目を上げた。
僅かに憤りを滲ませた目に、真正面から見据えられる。咲夜は思わず、緊張したように背筋を伸ばした。
「その夢は、“ピアニスト・麻生拓海”っていうアーティストに対する単純な憧れからくるのか、それとも―――麻生拓海っていう“男”に対する恋愛感情からくるのか……どっちなんだ?」
ドキリとした。
自分でもその疑問は、前からあった。これが、純粋な音楽的憧憬なのか、それとも恋愛感情の延長なのか―――でも、何度考えても、どちらなのか自分でもわからなかった。そう…今、この瞬間だって、まだその答えは出ていないのだ。
息を呑み、言葉を失う咲夜を前に、一成はその答えを待つように黙っていた。
なんとか答えなくては―――そう思って、咲夜が口を開きかけた、その刹那。
一成の目が、まるで、痛みに耐えるかのように、苦しげに細められ―――その手が、咲夜の肩を掴んだ。
「! いっ―――…!」
口にしかけた名前は、唐突に押し付けられた唇で、最後まで声にはならなかった。
この前の、微かに触れるだけみたいなキスとは全然違う、躊躇のない口づけ―――息をするのも苦しいほどに。抗議のために振り上げた手は、舌を絡めとられた苦しさに、一成の肩に爪を立てることしか出来なかった。
「……っ、ちょ…っ、い、―――…」
一瞬唇が離れた隙に抗議の声を上げたが、背中に腕を回され、また口づけられた。
苦しさに、涙が滲んでくる。よろけて思わず後退った咲夜の脚に、スチール椅子がガツン、とぶつかった。それに一瞬気をとられた咲夜は、次の瞬間、あることに気づき、きつく閉じていた目を見開いた。
強引にシャツのボタンを外して、入り込んでくる掌―――むき出しになった肩が外気に触れた途端、離れた唇が、そこに押し付けられた。
「……っ、」
素肌のあちこちに触れてくる唇に、全身がゾクリとする。それは―――たちが悪いことに、悪寒とは程遠いものだった。
「や、め……っ」
抵抗する声も、声にならない。焦りが、急速にせり上がってくる。まずい―――絶対、まずい。このまま流されたら、抵抗できなくなる。
ぎゅっ、と目を瞑った咲夜は、渾身の力で、一成を突き飛ばした。
「―――…っ!」
予想以上の力だったのか。それとも油断していたのか。
咲夜に突き飛ばされた一成は、大きく後ろによろめき、背後にあった背丈ほどのロッカーに派手にぶつかった。それこそ、ロッカーがぐらり、と揺れるほどに。
バーン! というロッカーにぶつかった音の直後、ロッカーの上に無造作に積み重ねられていた店の備品の数々が、バランスを失って、一成の上に一気に落ちてきた。
「い、一成っ!!!!」
メニューの書かれた小さな黒板やら、店内を飾るオブジェやらが、一成にぶつかり、音を立てて床に落ちた。思わぬ事態に驚いた咲夜は、慌てて一成に駆け寄った。
「一成! だ、大丈夫!?」
ロッカーと壁に挟まれるようにして、半ば床に座り込みかけている一成に合わせ、咲夜も床にしゃがみ込んだ。その咲夜の頭にも、古いメニューが1枚、ぶつかって落ちた。
「い…って……」
やはりどこかを打ったのか、一成はずるずると崩れ落ちながら、小さくそう呻いた。咲夜は、そんな一成の手を取り、慌ててどこも怪我をしていないか確認した。
「大丈夫!? 一成、指、動かしてみて、指!」
「……」
咲夜の言葉に、一成は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。が、咲夜はそれにも気づかず、一成のもう一方の手をも掴んだ。
「どこも痛くない!? ピアニストが、指怪我したら、一生に関わるじゃない…!」
「―――…」
「一成…!?」
外から見える怪我はないことを確認した咲夜は、まだ指を動かそうとしない一成に、早く、というように、その名を呼んで、目を上げた。
そして、一成の、驚いたように見開かれた目を見て―――不審気に眉をひそめた。
「な…っ、何…?」
「何、って……」
呆然と繰り返した一成の目が、躊躇うように、咲夜の顔から僅かに下がる。
その視線を追うように、咲夜も、自らの体を見下ろす。そして、左半分肩も胸も完全にむき出し、という凄まじい状況に初めて気づき、慌ててシャツの胸元だけを掻き合わせた。
「―――…自分の体より、俺の手の心配、か」
そう呟いた一成の声は、何故か、酷く傷ついたような声色だった。それに気づいた咲夜は、よりシャツの胸元をきつく引き寄せながら、意味を問うように眉をひそめた。
一成の顔も、やはり、少し傷ついたような、寂しそうな表情だった。が、咲夜と目が合うと、一成は目を逸らし、ロッカーで打ってしまったらしい肩を手で押さえ、ノロノロと立ち上がった。
「―――…悪かった。本当に」
頭上からかけられた言葉に、顔を上げる。
見上げた先の一成は、つい数秒前の傷ついた表情は消え、後悔しきった顔をしていた。どこか呆然と自分を見上げる咲夜に、余計辛そうに顔を歪めると、一成は目を閉じ、頭を下げた。
「悪かった―――…」
「……」
一体…どう、答えろというのか。
その答えも見つからず、咲夜が無言のまま見上げる中、一成は顔を上げ、咲夜の視線を振り切るように、床の上に散らばったものを片付け始めた。
どうすればいいのか、やっぱりわからなかったが―――とにかく、この気まずい空気から早く逃れたくて、咲夜はよろけながら立ち上がった。
乱れた服を整え、壁に掛けておいたダウンジャケットを取って、羽織る。その一連の動作をノロノロやっている間に、一成の片付けも終わっていた。が、一成は帰り支度をする様子もなく、壁際に置いた椅子に腰を下ろしてしまった。
「…一成…?」
帰らないの、という意味で咲夜が訊ねると、一成は僅かな苦笑を見せ、首を振った。
「暫く、頭冷やす」
「…そっか」
他に何か、言うべき言葉があるような気がしたけれど。
結局何も見つからなくて―――咲夜は、中途半端な空気をまとったまま、1人、控室を出た。
通用口を抜け、裏道に出た咲夜は、従業員用のドアをパタン、と閉め、そこで大きく息を吐き出した。
途端。
予想もしなかった震えが、体の内側から生まれて……その場に、座り込んでしまった。
震えているのは、突然の一成の行動が怖かったからではないし、この冬一番の冷え込みのせいでもなかった。
この震えは、漠然とした予感からくる、震え。
一成という大事なパートナーと、ギリギリ保っていたバランスが、もう修復不可能なほどに崩れてしまった―――そんな予感から、咲夜は、どうすればいいかわからず、震えていた。
「…い…っ、せい…」
一成。
明日から私は、どんな顔して生きてけばいいんだろう…?
自らの腕を抱いた咲夜は、12月の冷たい空気の中でもなおまだ熱い頬を、自分の膝頭に押し付けた。
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