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ff /side. Sou

 

 窓を開けて、流れ込んだ冷気に身震いした奏は、FMラジオの音を背後に聴きながら大きな欠伸を一つした。
 窓際に置いた“マチルダ”の鉢を半回転させ、その傍に置いてあるくしゃくしゃになった煙草の箱から、煙草を1本取り出す。火をつけ、煙を吐き出しながら、奏は視線を隣の窓に向けた。
 閉まったままの窓は、開く気配すら感じさせない。
 ―――最後に歌ってたのって、いつだっけ。ええと、あれは、オレがみかん持ってった次の日の朝だから……火曜日か。
 今日は、土曜日。心の中で指を折ると、今日でもう4日―――咲夜の顔を見ていないだけじゃなく、歌声すら聞いていないことになる。
 顔を見ないのは別に珍しくもないが、歌声さえ聴こえない、というのは随分珍しい。たとえ奏が顔を出さない朝でも、雨さえ降っていなければ、咲夜は大抵窓を開け、発声練習代わりに1曲2曲歌っているのだから。
 1日2日、歌わないだけなら、そう珍しいことでもないが、さすがに4日目となると心配だ。こんなことは、例の、奏がのど飴を差し入れした時以来ではないだろうか…。
 「…風邪でもひいたかな」
 今夜にでも、一度、様子を見に行った方がいいのかもしれない―――煙草の灰を灰皿に落としつつそう考えた直後、奏は小さく息をつき、首を振った。

 例の喧嘩以来、奏は意図的に、明日美に関することを咲夜には言わないようにしていた。
 理由は単純―――喧嘩の原因となった話題だから。ただそれだけだ。
 明日美にも咲夜の話は不用意にしないようにしているし、咲夜にも明日美の話はしない。とにかく…あんな風に咲夜と仲違いするのは、もう二度と御免だった。そして、今のところ、それは上手くいっているように思えた。少なくとも…表面上は。
 でも、今、咲夜の顔を見たら、口をついて出てきてしまいそうなのは……実は、明日美のことだ。
 あの日以来―――この部屋に明日美が来て、手料理を振舞ってくれた日以来、それまで感じていた焦りが、余計大きくなった気がする。明日美の一生懸命さを見れば見るほど、一途さを知れば知るほど、嬉しさよりも申し訳なさの方が募っていく―――そのことへの、焦りが。
 オレ、このままでいいんだろうか―――誰かに訊ねたくて、仕方ない。自分自身で解決するしかない問題なのは百も承知なのに。
 今の奏は、少しつつけば破裂する寸前の、パンパンに膨らんだ風船みたいな精神状態だ。多分、咲夜の顔を見れば訊かずにはいられないだろう。もし咲夜が風邪で寝込んででもいたら……余計、熱を上げさせるだけだ。

 「…ったく、ついてないよなー…」
 恨めしそうな目で、傍らに投げ出されている携帯電話を見下ろす。
 こんな時、誰よりも相談したい相手―――それは、やっぱり、瑞樹だ。でも彼は、一昨日から5日間の予定で、ロケで中国に行っている。諸事情から、これまで海外ロケの仕事は極力断っていたのだが、今回の件は、奏の叔父で瑞樹の恩師でもある時田から頼まれた仕事でもあるため、断れなかったのだ。
 その話を聞いて、真っ先に考えたのは、蕾夏のことだ。
 元々は一人暮らしだったのだから慣れている筈とは思っても、いつも2人でいる部屋に、5日間も1人きりで暮らすことになる蕾夏を思うと、なんとなく気にかかってしまう。実を言えば、昨日の夜も耐えかねて電話を入れてしまい、「言っておくけど、私、奏君より年上なんだよ?」と蕾夏に笑われてしまった。
 明日美には、自分からほとんど電話をしない癖に―――咲夜とのことだって、そうだ。明日美と揉めることより、咲夜と揉めることを嫌って、話題を選ぶなんて―――オレって結構酷い奴なんじゃないか? と、最近、落ち込んでばかりだ。

 『運命なんて、結果論だ。全てが終わってから、ああ、これは運命だった、と思うのが運命だろ。運命だって自覚した想いに、まだ未知数の想いが敵わないのは、当たり前だ』

 「…全てが終わるのって、いつだよ」
 ポツリ、と、呟く。
 いつまで明日美を待たせればいい? それとも、潔く切り捨てるべきなんだろうか? 嫌いでもない、少しは好意を持っている相手なのに? 明日美の方は、あんなにも一途に想ってくれているのに?
 …わからない。何が正しいのか。
 ため息をつき、見上げた冬空は、今の奏の心をそのまま写し取ったような、重苦しい灰色をしていた。


***


 約束通り、唯の従兄弟・涼一との顔合わせは、簡単なホームパーティー形式だった。
 唯とその交際相手に、明日美と唯共通の他大学の友人2名、それに唯の兄とその友人、そして涼一。そんなメンバー構成。でも涼一は、唯の兄が同い年で仲も良いので、唯の兄の友人たちとばかり話をして、あまり明日美には話しかけてこなかった。明日美も唯や友達と話す方が気が楽だったので、涼一と話さずに済んでいることに、むしろホッとしていた。
 セッティングした唯としては、明日美と涼一がさっぱり接触を持たないことに焦れている様子だが、肝心の涼一がそんな調子なので、明日美をけしかける訳にもいかないらしい。
 「全く、涼一さんったら…」
 不服顔で、少し離れた所にいる涼一を睨む唯に、明日美は困ったように笑った。
 「…久しぶりに会ってみたら、思っていたのと違う感じで、興味をなくしたんじゃないかしら」
 「それはないわよ。涼一さん、明日美を意識しっぱなしよ。さっきから何度もこっちに視線は向けてるんだもの」
 「……」
 ちらっ、と涼一の方を見ると―――確かに、気づかれないようにではあるが、時折こちらを窺っている感じではある。でも、明日美の頭に浮かぶ言葉は「困ったなぁ」だけだった。
 「えっ、なになに、あの人、叶さん目当てなの?」
 明日美と唯のやりとりに気づいて、共通の友人が小声で割って入った。
 明日美はその話はしたくないのに、唯の方が黙っていてくれなかった。ここぞとばかりに、さも深刻そうな顔をして頷いた。
 「そうなのよ。頼まれて明日美を連れて来たのに、シャイな性格だから、声がかけられないみたいで…」
 「やだ、そうなの?」
 「それってもしかして、私達が叶さんを独占してばっかりいるからじゃない?」
 「えっ」
 友人の1人の意見に、明日美はギョッとして目を丸くした。その話の展開から、次に来る行動が想像できたから。
 「ああー、そうよね。シャイな人だと、人と話しているのに割り込むなんてしないだろうし…」
 「じゃあ、私達はちょっと、遠慮しときましょうか」
 「え…っ、あ、あの、みんな…」
 「明日美、がんばってよ。様子見て後で戻ってくるから、どうなったかじっくり聞かせて。ね?」
 「……」
 …予想通りの展開。
 唯と友人は、明日美の気も知らずに、唯の兄と話をしていた唯の彼氏の所へ行ってしまった。気を利かせたつもりなのだろうが、明日美からすればいい迷惑だ。
 ―――や…やめてよ。せっかく、みんなと一緒だから大丈夫だって安心してたのに…。
 もう一度、チラリと涼一の方を見ると、やはり明日美が1人になったことに気づいたらしく、今度はしっかりこちらを向いていた。何故1人になっているんだろう? という不思議そうな表情を一瞬した後、これはチャンス、と思ったのか、他の人々に「ちょっと失礼」と挨拶して、こちらに歩いて来る。
 ―――ど…、どうしよう…。わたし、一宮さん以外と1対1でお話したことなんて…。
 しかも、相手が自分に好意を持っている、なんて前もって聞かされているのでは、話し難いことこの上ない。オロオロしだす明日美に、涼一は控え目な笑顔で声をかけた。
 「なんだか、突然1人になってしまったみたいだね」
 優しげな声に、明日美は困ったような微笑みを返した。
 「すみません―――なんだかあの、みんな、気を利かせたつもりらしくて…」
 「…ああ、なんだ、そういうことだったのか」
 突如、友人達が席を外した理由が、やっとわかったらしい。涼一は、ちょっと照れたような顔をして、参ったな、などと呟いた。
 「僕は逆に、女の子同士の団欒に水をさしちゃ悪いかな、と思って、わざと話しかけなかったんだけど…」
 「え…っ、そうだったんですか?」
 どうやら、みんなが想像する「シャイだから話しかけられない」という事情ではなかったらしい。考えてみれば、以前会った時だって、涼一はとても社交的で、朗らかだった。いつも他に知人らがいる時なので、あまり明日美と話す機会はなかったのだが、それでも、その時の涼一の印象は「女性に話しかけ難いタイプ」ではなかったように思う。
 「立ったままだと疲れるね。そこ、座ろうか」
 庭へと続くテラスに置かれた洒落たアイアンチェアを、涼一が軽く指差す。実際、ちょっと足が疲れてきたので、明日美は笑みを返し、涼一に続いて椅子に腰掛けた。
 あいにく、今日の空模様は冬独特の曇り空だが、気温は比較的温かく、窓を開け放っていてもさほど寒くない。むしろ、部屋の暖房で変に暑さを感じていた分、冷たい空気が心地よかった。
 「唯が変な風に吹聴したかもしれないけど、あんまり気にしないで」
 2つ持っていたノンアルコールカクテルのグラスを、1つだけ明日美に渡しつつ、涼一が苦笑した。
 「前に会った時、“あ、可愛い子だな”と思ったのに、唯が独占しててさっぱり話せなかったから、今度ゆっくり話する機会を作ってくれ、って言ったけだから」
 「は、はあ…」
 臆面もなく「可愛い子」だなどと言われると、そういうセリフを言い慣れているんじゃないか、と勘繰りたくなる。そう言えば、涼一も唯同様、いわゆる金持ちのご子息だ。お披露目パーティーに来ていた彼らと似た環境で育ってきている、と考えると、なるほどリップサービスが上手いのも頷けるのかもしれない…と、ちょっとだけ思った。
 「明日美ちゃんって、唯と同じ、文学部だっけ」
 「あ…、ハイ。唯はフランス文学で、わたしは英文学なんですけど…」
 「ああ、英文学なんだ。日本の英文学って、アメリカとイギリス、どっちなんだろう?」
 「わたしが取ってる講義は、イギリスが多いですよ。ワーズワースとか、ディケンズとか」
 「へえ、小説系かぁ。実は僕も、アメリカ文学をやるつもりで渡米して、何故かシェークスピアに嵌っちゃったんだよ。こんなことならイギリス留学にしとけば良かったって、今頃後悔してるんだ」


 それから暫くの間、明日美は、涼一と色々なことを話した。
 主に大学のこと、文学のこと―――親の会社のこと。将来のこと。

 「うーん…アメリカ留学にしても、下手な日本の大学行くより、よっぽど耳ざわりがいい、って理由が大半だし……あとは、4年間は自由にできる、っていう魅力かな? 卒業すれば、嫌でも親の会社に縛られて生きることになる運命だからね。でも―――親の敷いたレールに乗っかって生きるのは、息苦しい部分もあるけど、正直、ホッとしている部分もあるんだ。こういう育ち方をしてるから、今更“自分の力でゼロから始める”なんてパイオニア精神、なかなか起きてこないし…。そういう人間には憧れるけど、いざ自分がその立場に立った時、何をすればいいのか、何をやりたいのか、さっぱり思いつかないような気がするなぁ…」

 求める前に与えられてきた人種。おもちゃも、お菓子も、学歴も……そして、将来も。
 個人的目的などまるっきり見えず、家の名前・会社の名前に恥じない大学を卒業するために、日々講義に出続けている―――そんな自分に、つまらない人間、と嫌気がさしながらも、結局それ以外の生き方などできそうにない。…そんな人間。
 そう、涼一は、まるで明日美自身のようだった。
 涼一と話すのは、驚くほどに楽だった。楽しい、とは違うけれど…楽、だった。どれもこれも、明日美自身が実体験として感じてきたことばかりだから。こういうのを、同じ世界に生きている同士、って言うんだろうな―――涼一の話を聞きながら頷くたび、明日美は苦々しい思いでそう実感していた。
 そして、実感するたび、苦しくなる。
 涼一との共通項を見つければ見つけるほど―――奏と自分の距離が、どんどん遠くなる気がして。


 ―――…本当は…わかってる…。
 わたしと一緒にいる時の一宮さんは、本当の一宮さんじゃない。咲夜さんが言ってたみたいな、子供っぽくて短気な一宮さんの顔なんて、わたしには見せてくれない。
 …違う。「見せてくれない」、じゃない。「見せられない」んだ。
 わたしには、優しい顔以外見せられないんだ。咲夜さんには散々悪態ついたり文句言ったりできても……わたしには、できないんだ。
 わたしが、それを受け止めるだけの器じゃないから。
 歳もずっと離れてて、まだ学生で、親や会社の名前に守られて、ただぬくぬくと無目的に生きることしか知らない―――「お嬢様」だから。

 遠い―――凄く、凄く、遠い。
 当たり前だ。一宮さんは、もっともっと広くて自由な世界で、ゼロから、自分の力で這い上がってきた人だもの。わたしが知らないような人とも、沢山出会って、沢山別れて……わたしの知らない世界を、いっぱい知ってる人だもの。
 こんな、鳥籠みたいな狭い世界に住んでいながら、そこから飛び立つことを夢見ることすらしなかったわたしとは、全然違う―――別の世界に生きてる人なんだもの。


 「…明日美ちゃん?」
 涼一の不審げな声に、ハッと我に返った。
 我に返って初めて、ちゃんと涼一の方を向いていた筈が、いつの間にか俯いてしまっていたことに気づいた。
 「何かまずいことでも言っちゃったかな?」
 心配そうにする涼一に、慌てて明日美は微かな笑みを作り、軽く首を振った。
 「いえ……ちょっと、寒くなってきたかな、と思って」
 「ああ、そう言えば…。ごめん、じゃあそろそろ、中入ろうか」
 「ハイ」
 「…その前に、明日美ちゃん、」
 ふいに、涼一の表情が真剣なものになる。
 「唐突な話だとは思うけど、その―――もし良かったら、冬休みの間、時々会ってもらえないかな」
 「…えっ」
 「実際に話してみて、思いのほか話も合うし、元々可愛い子だと思っていたし…。勿論、明日美ちゃんさえ良ければ付き合いたいっていうのが本音だけど―――僕も、まだ暫くはアメリカ暮らしが続くし。…とりあえず、唯を抜きにしての友達として、始められないかな」
 「……」
 明日美の顔から笑みが消え―――再び、俯いてしまった。
 その反応で、返事がわかったのだろう。涼一が、少し残念そうに、ため息をついた。
 「…駄目、か」
 「…ごめんなさい」
 「結構、上手くいきそうな気がするんだけどなぁ…」
 「…そうかもしれません。でも―――…」
 顔を上げた明日美は、真っ直ぐに涼一を見詰めた。
 「でも、わたし―――好きな人がいるんです」
 きっぱりとした明日美の口調と真摯な目に、涼一は一瞬、驚いたように目を見張った。
 が―――数秒後、何故か酷く納得したような顔になり、苦笑した。
 「そうか……だから、か」
 「え?」
 「明日美ちゃんが変わった理由だよ」
 思いがけない言葉に、今度は明日美が目を見張る。
 「前会った時は、僕と目を合わせることすらできない子だったのに…今日は、話す時も、話を聞く時も、君はまっすぐ僕の目を見てくれていた」
 「……」
 「臆病で引っ込み思案すぎるところがどうかなぁ、と思ってたから、その点でもますます今回限りは惜しいな、と思ってたんだけど―――そうか。恋をすると、女の子って変わるんだなぁ…。変えたのが僕じゃないのはちょっと癪だけど」
 全然―――自分では、気づかなかった。でも、涼一の言う通り、自分が変われたのは多分…奏のおかげだ。
 少しでも奏のことを知りたい、もっと別の顔が見てみたい―――始めは鏡越しに、そして途中からは向かい側の席で。明日美はいつだって、そんな風に、ずっとずっと奏を見つめていたから。怖いとか恥ずかしいとか、そんなことよりも……この恋心の方が勝っていたから。

 ――― 一宮さん…。
 こんなに、こんなに、好きなのに―――どうして、こんなに遠いんだろう?
 …会いたい。
 一宮さんに、会いたい―――…。

 膝に置いた手を、ぎゅっ、と握り締める。そんな明日美の様子を見て、涼一は、諦めたように肩を竦めた。
 「…まあ、でも、せっかく趣味の合う女の子に出会えたんだし―――下心なしで、また会って欲しいな。ああ、勿論、唯同伴で構わないから」
 そう言って笑った涼一の顔は、これまで見た中で、一番飾り気のない、素に近い笑顔だった。
 案外、この人とは、恋愛は無理でも、いい友達にはなれるのかもしれない―――そんな予感を覚えて、明日美はフワリと微笑んだ。


***


 ロッカーを閉め、時計を見ると、7時を大幅に過ぎていた。
平日より1時間早い閉店だが、“Jonny's Club”のライブも土曜日は平日より早いタイムスケジュールだ。
 ―――ちっ…、1回目のライブには間に合わないか。
 歌声の聴こえない咲夜を気にして、今夜の夕飯は“Jonny's Club”にしよう、と決めたまでは良かったが、1回目にはもう間に合わず、2回目のライブまではまだ時間が随分ある。どうするかな―――と考えつつ、奏はロッカールームを出た。

 まだ居残る店長に挨拶し、通用口から外に出ると、空からポツンと雨粒が落ちてきた。
 うわ、雨か、と思って空を見上げたが、数秒見上げた間に、顔に当たった雨粒はほんの1粒2粒だった。薄い灰色の雲に、月も僅かに透けている。
 ―――傘が要るような降りには、ならないみたいだな。
 頬に落ちた雨を手の甲で拭い、視線を元に戻す。
 すると―――数秒前には気づかなかった人影が、そこにあった。

 「―――…」
 壁に溶け込むように、明日美がそこに、佇んでいた。縋るような、心細そうな顔をして。
 「あ…明日美ちゃん?」
 「……一宮、さん」
 ほんの少し微笑んだ明日美が、フラリ、と歩み寄る。その動きが、今にも倒れそうに見えて、奏は慌てて腕を伸ばし、明日美を支えた。
 「ど、どうしたんだよ、一体! いつからここに?」
 明日美の顔を覗き込みながら訊ねたが、明日美からの返答はない。ちょっと頬に触れてみると、今日の気温の割には、その頬はあまりに冷たい―――随分前からここで奏を待っていたのかもしれない、と奏は思った。
 「…何か、あった?」
 恐る恐る訊いてみると、明日美は黙ったまま、首を何度も振った。
 「…何も…ない、です。ただ―――会いたかったから」
 「……」
 「一宮さんに……会いたかった……」
 「あ…明日美ちゃ―――…」
 口にしかけた名前を、奏は、思わず飲み込んだ。
 細い腕が背中に回り、奏に縋りつく。
 まるで助けを求めるみたいに抱きついた明日美は―――微かに震えていた。
 「…怖いんです」
 「こ…わい…?」
 「…一宮さんの、一番近くにいる存在になりたいのに……全然、なれない気がして」
 「……」
 「なんだか―――距離を縮めようと焦れば焦るほど、離れていってる気がして」
 心の奥から搾り出すような明日美の言葉に、ドキリとさせられる。
 確かに、明日美の一途さを知れば知るほど、奏は喜び心が癒される一方で……困っていた。その想いにまだ応えられない自分を見つけては、焦っていた。
 そう―――明日美が感じていたことを、奏もまた、反対側の立場から感じていた。明日美と親しくなればなるほど、2人の間の温度差がどんどん開いていく、その焦りを。
 「わ…わかってるんです。欲張っちゃいけないことは。欲張ったら…彼女にして欲しいなんて言ったら、一宮さんに迷惑だって思われることは、わかってるんです。でも、わたし……わ…たし……」
 言葉を切った明日美は、より強い力で、奏にしがみついた。
 「―――…お願い…。恋人にして、なんて言わないから……抱いて、下さい」
 「…ッ、」
 唐突なセリフにギョッとして、奏は慌てて明日美の体を引き剥がそうとした。
 「ちょ…っ、お、落ち着けって! そんな急に、」
 「お願いっ!」
 奏の言葉を遮った明日美の声は、泣きじゃくっているかのような声だった。
 「一番傍にいてもいいって、言ったでしょう…!? いいんです、好きじゃなくても、遊びでも、一宮さんが…一宮さんの一番近くにいるのはわたしだ、って信じたいんです…一瞬でもいいから…」
 「あ、明日美ちゃん、」
 「お…お願い……っ…」
 「……」
 「お願い……だ…から……」
 「―――…」

 肩を大きく震わせながら吐き出される言葉は、まるで、明日美の心の悲鳴に聞こえた。
 恋の痛みに苦しんでいる明日美は、なんだか、自分を見ているみたいで―――奏は唇を噛み、明日美を抱きしめた。
 そうする以外―――どうすることも、できなかった。

***

 ―――いいのかよ、こんなことで。

 …いいだろ。どこが間違ってるんだよ。
 可愛いとはずっと思っていたし、愛しいって気持ちも、前からあった。まだ温度差がありすぎて戸惑う部分もあるけど、差は歩み寄っていけば縮められる。関係が変われば、距離感だって変わるだろ。だから、これでいいんだ。

 でも―――…いいのか? 本当に。

 2人の自分が、右へ、左へ、絶えず揺れ動いている。
 やたら冷静な自分と、その冷静な自分を振り切って暴走しようとする自分が、思考を混乱させる。いいんだろうか―――いや、これでいい。その繰り返しを、延々続けている。ここまできてもまだ。

 「…一宮さん…」
 唇が離れた合間に、呟くように明日美が、奏の名を呼ぶ。
 その声が、別の人の声に聞こえた気がして、思わず、組み敷いた明日美を改めて見下ろす。そして、確かめる―――頼りなげに自分を見上げているのが、一体誰なのかを。

 …まだ、今なら、引き返せる。
 でも…引き返す必要なんて、あるだろうか? ずっと望んでいた筈だ。心穏やかに誰かを愛し、愛されること―――その相手が明日美であって、何故いけない? もう二度と苦しい恋はしたくない、と言ったのは、自分自身だ。明日美は、多分、この世の誰より自分を好いていてくれる。これ以上幸せな恋なんて、あるだろうか?
 いつまでも迷うから、明日美を不安にさせるのだ。
 進めばいい―――進めば、答えは出る。

 目を瞑ると、奏は、明日美の首筋に口付けながら、フワフワしたセーターの裾から手を滑り込ませた。
 無我夢中で。
 いや。
 何かから、必死に逃げるかのように。

 

 “ヤメテ”


 “やめて、奏君”


 “やめて…! こんな事で、奏君のこと、嫌いにさせないで…!”


 ―――痛みと折り合いをつけながら、生きてくしかないの。
 目に見えない位に小さな欠片になるまで―――私も、奏君も。


 …ありがとう。
 私のこと、好きになってくれて。

 苦しむだけだってわかってても私を好きになってくれた人として、奏君はちゃんと私の中に残っていくよ。日本に帰っても、ずっと―――…。

 

 「―――…ッ!」

 ガバッ、弾かれたように体を起こした奏は、愕然とした思いで明日美を見下ろした。

 「……い…ちみや、さん…?」
 驚きに目を丸くした明日美が、僅かに涙の浮かんだ目で、自分を見上げている。上等なレースに縁取られたその胸元に、自分のつけた痕を見つけた奏は、体が震え出すのを止められなかった。
 ―――…オレは……。
 心臓の真ん中が、氷の刃で貫かれたかのように、冷たい。
 ―――オレは……なんて、バカなんだ…。
 視界が、霞む。
 急激に襲ってきた涙が、堪えきれず、奏の目から溢れて、パタッ、と明日美の頬に落ちた。


 ずっと、目を逸らしていた。
 他の告白してきた女性はきっぱりと断ることができたのに、何故明日美だけ、こうして中途半端な繋ぎ止め方をしたのか……その、理由から。
 明日美が必死だから、純粋だから、一途だから―――そんな風に言い訳していたが、本当は違う。認めたくなかった。その本当の理由の方は。

 明日美が、蕾夏に似ていたから。
 恋しても、恋しても、手に入らない人―――その人に、明日美が似ていたから、手放せなかった。一瞬でも見られる夢を。


 「ど…、どうしたの? 一宮さん…」
 次々に涙をこぼす奏に、明日美は、ほんの少し前の状況も忘れたように、オロオロした様子で奏に手を伸ばした。
 小さな手が、瞼に溢れた涙を掬ってくれる。けれど奏は、口元に手を置き、小刻みに首を横に振った。
 「ご…めん…」
 「……」
 「ごめん、明日美ちゃん―――本当に…ごめん…」
 「一宮さん…」
 傍らに投げ捨ててあった、フワフワした優しい色合いのセーターを掴んだ奏は、それを明日美に掛けてやった。それで、奏の言う「ごめん」の意味がわかったのだろう―――やがて、明日美の頬に、涙が伝った。
 「…あ…謝らないで、下さい。一宮さんが困るようなことを頼んだのは、わたし、ですから…」
 泣きながらもそう言ってくれる明日美に、奏は何も言えず、ただ首を振ることしかできなかった。
 明日美は悪くない。明日美はただ、自分の想いに正直に行動しただけだ。自分にも、奏にも、一切嘘をついていない。ただこの恋のために、精一杯ぶつかってきた―――ただ、それだけだ。

 明日美を抱き起こした奏は、言葉にならない分も、明日美を抱きしめた。強く―――さっき、奏にしがみついてきた明日美よりも、ずっとずっと強く。
 「ごめん…本当に、ごめん……」
 それ以外―――どんな言葉も、声にはならなかった。

***

 「―――本当に、1人でいいの?」
 タクシーのドアを押さえ、奏がもう一度確認する。
 「オレも、家まで一緒に…」
 奏が言いかけると、明日美はうっすらと微笑み、首を小さく振った。
 「やっぱり、母に見つかると多分、うるさいから…」
 「…そっか」
 親には内緒で奏に会っている明日美は、これまでも決して奏には送らせようとはしなかった。おかげで奏は、今や、この女性ドライバーを多く抱えているタクシー会社のご贔屓さんだ。早い時間なら明日美の自宅の最寄り駅から、門限ギリギリなら別れたその場から、明日美が乗れるよう、タクシー会社に電話するのが常だから。
 「次…いつ、会えますか?」
 不思議なほど落ち着いた声で、明日美が奏に訊ねる。
 もしかしたら明日美も、奏と同じことを感じているのかもしれない―――奏は微かに笑みを浮かべ、答えた。
 「…明日美ちゃんから連絡をくれれば、オレは都合を合わせるよ」
 「―――…じゃあ、電話します。明日か、明後日にでも」
 「うん」

 おやすみ、と言い合い、ドアから手を離すと、タクシーはバタン、とドアを閉じ、奏を残して走り去った。
 ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、暫し、タクシーの後姿を見送った奏は、大きく息を吐き出して―――空を見上げた。

 ポツン、と、雨が落ちてくる。
 さっきとは違って、次々に―――もうすぐ、傘が欲しくなるような雨になるだろう。

 唇を噛んだ奏は、頬を濡らした雨をぐい、と手の甲で拭い去ると、少し急ぎ足で歩き出し―――やがて、走り出した。


***


 呼び鈴を、1回。
 静寂の中、前髪の先から、雫がぽたっ、と落ちた。

 「―――はい…?」
 ドア越しに、少し警戒したような声が聞こえた。
 「…オレ。奏」
 「……っ」
 驚いたように、息を呑む気配―――続いて、鍵を開けるガチャンという音と、チェーンを外そうとする音がした。
 「あ、待って!」
 今にも開きそうなドアを、咄嗟に手で押さえる。
 「待って―――チェーンは、かけておいて」
 「……」
 「顔……見たい、だけだから」
 暫し、ドアを挟んで、沈黙が流れる。
 やがて、チェーンの長さ分だけドアが開き―――その隙間から、蕾夏が顔を覗かせた。
 「ど……どうしたの、奏君。こんな時間に」
 蕾夏の動きに合わせて、黒髪がスルリと肩から滑り落ちる。10センチほどの隙間から見えるその光景に、奏は口元をほころばせた。
 「…ん。どうしてるかと思って」
 「あ。もしかして、瑞樹が海外出張だからって、心配して来たの?」
 昨日の突然の電話を思い出したのだろう。そう言って蕾夏はクスクスと笑った。
 「やだなぁ、大丈夫だって言ったでしょ? もー、瑞樹も奏君も心配しすぎだよ。これでも大学卒業から5年以上、ずーっと1人で暮らしてたんだからね?」
 「……」

 心配するのには、理由がある。瑞樹にも、奏にも。
 その理由を作ったのは―――自分だ。

 もう、上手く笑えなかった。
 口元が、歪む。さっき抑え込んだ筈の涙が、また目元に滲んでくる。それに、蕾夏も気づいたのだろう。いつもの笑顔が次第に消え、不思議そうな、何かを探るような表情に変わる。
 「奏…君…?」
 「……うん」
 「何か、あったの」
 「……いや」
 瞬きと共に、涙が落ちる。なんだって自分の顔は、こう、感情に忠実すぎるのだろう―――こんな時、コントロールの効かない自分の顔が、ほとほと嫌になる。
 「…ごめん、蕾夏」
 「…何?」
 「今だけ、手……借りても、いいかな」
 「……」
 少し、躊躇った後、チェーンをかけたままのドアの間から、そっと、白い手が差し出された。
 触れるのを恐れるように、恐々とその手を手に取ってみる。

 ―――蕾夏だ。
 たったこれだけで―――胸が、締め付けられる。息も苦しいほどに。

 コツン、と額を、ドアの端にくっつける。
 蕾夏の片手を、両手で握り締めた奏は、肩を震わせて、泣き声を押し殺した。

 

 蕾夏と比べるな―――瑞樹の言っていた言葉の本当の意味が、今、やっとわかった。
 単に、蕾夏を理想化して、それと比べるような真似はよせ、という意味だと思っていたが…そうじゃなかった。
 比較する、ということは、常に奏の中の基準が“蕾夏”だということだ。蕾夏というピースを手に、誰かを探してる―――瑞樹のあの言葉の意味は、「蕾夏の代わりを探すな」という意味だったのだ。


 ―――オレは、恋なんて、全然探してなかった。
 新しい恋を見つけたい、なんて言いながら、いつも蕾夏を探していた。
 蕾夏が成田に微笑みかけるように、オレに微笑みかけてくれる誰か。蕾夏が成田に向けるような目で、オレを見つめてくれる誰か。
 …そう。オレは―――あいつに、なりたがっていたんだ。
 蕾夏に愛されている、蕾夏に必要とされているあいつ―――成田瑞樹に。

 純粋にオレを想ってくれる人を傷つけて初めて、自分のしてきたことがわかるなんて。
 バカだ―――救いようのない、大馬鹿野郎だ。

 

 「―――…奏君」
 もう一方の蕾夏の手が、そっと伸びてきて、奏の手に添えられた。
 「瑞樹が、心配してた。…奏君、無理してるかもしれない、って」
 「……」
 ―――成田…が…?
 意外な言葉に、奏はドアから額を離し、驚いたように蕾夏を見下ろした。
 ドアの内側にいる蕾夏は、少し悲しげな微笑を浮かべ、奏を見上げていた。
 「私以外の誰かを、早く好きにならなきゃ、って焦ってる―――そのために、どこかで間違ってるってわかっているのに、無理して新しい恋に踏み出そうとしてる。…そういう風に見える、って」
 「……」
 「…焦らないで、奏君」
 宥めるように、蕾夏の手がポンポン、と奏の手の甲を叩く。
 「私も瑞樹も、奏君の全部を受け入れた上で、奏君を“友達”だって言ってるんだよ? 奏君の私への想いも…罪も…償いも…全部、知っているから」
 「…蕾、夏…」
 「だから奏君は、今までの奏君でも構わないの。…言ったでしょう? ロンドンを発つ時、手紙で」

 ―――“奏君が、奏君らしくあれますように”

 …ああ、そうだ。
 それが、瑞樹と蕾夏が、奏に託した言葉だった。

 「…想いはね、何かをすれば生まれるものでもなければ、自分の意志で消せるものでもないの。自然と生まれて、育てられていくもの―――そして、いつか自然と消えたり、別のものへと変化していくものなの。…だから、奏君の私への想いも、無理矢理引き剥がして削除できるものじゃないし、新しい恋も、無理に見つけようとして生まれるものでもないの」
 ゆっくりとした口調でそう言った蕾夏は、フワリと微笑み、奏の手を緩く握った。
 「だから、奏君―――焦らずに、ゆっくり、ゆっくり、見つけて。自然と生まれてくる想い―――奏君だけの“真実”を」


 虚構(Fake)ではなく、真実(Truth)を―――…。


 奏は、その言葉に、無言のまま頷くと―――やっと、微かな笑みを浮かべた。


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