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― Confession

 

 ピピッ、ピピッ、という、目覚まし時計のアラームの規則的な音が聞こえる。
 腕を伸ばし、アラームを止めた咲夜は、そのまま暫く動かなかった。やがて、だるそうに体を起こすと、寝癖だらけの髪をくしゃっ、と掻き混ぜた。
 「……はあぁ……」
 信じられない。
 土曜日だというのに、大好きなライブがある日だというのに、歌う気が起きない。
 いや。今日に限った話ではない。あれ以来――― 一成とあんなことがあって以来、咲夜は、思うように歌が歌えなくなっていた。
 ―――まいったなぁ…。またヨッシーに言われるよなぁ…。
 木曜日のライブのことを思い出し、余計気鬱になる。
 表面上、一成と咲夜は、いつも通りに演奏し、いつも通りに歌っていた。でも、ヨッシーの耳は誤魔化せないし、第一、楽屋でのムードがあまりにもギクシャクしすぎていた。「何があったか知らないけど、演奏に私情を持ち込むな」と、珍しい位に厳しい口調でヨッシーに言われ、2人とも、返す言葉もなかった。
 今日も多分、一昨日と同じことの繰り返しだろう。いや……問題が解決しない限り、これまで通りの演奏は望めないのかもしれない。
 「…解決、ったって…」
 一体、どうやって?


***


 気が乗らないせいか、その日、咲夜が店に着いたのは、普段の土曜日より若干遅めだった。
 ―――帰りまで、空、持つといいんだけどな。
 雲行きが怪しく、時折ポツンと雨粒が落ちてくる空を見上げ、僅かに眉をひそめる。この空模様には、重たい気分が余計重たくなる気がする。その気分を振り払うように、咲夜は大きく深呼吸をしてから、通用口のドアを開けた。
 いつも通り廊下を進み、控室のドアの取っ手に手をかける。が―――中から聞こえてきた会話に、ドアノブを回そうとした手が止まった。

 「どうして…!? 納得いかない、そんなの」
 随分と切羽詰った声だが、その声は、間違いなくミサの声だった。
 そして、それに答えた声は、一成の声だった。
 「…だから、この前の事は、悪かったと本当に」
 「そんなの、聞きたくない…! そんなの、百も承知の上だもの。あたし、言ったじゃない、あの人の代わりでも構わないって―――この前、キスに応えてくれたのだって、そういうことなんでしょ? あの人と何かあったから、キスさせてくれたんだよね?」
 その言葉に、咲夜の肩が、ビクリ、と跳ねた。
 ―――ミサちゃんと、一成が?
 “あの人”とは、当然……自分のことだろう。この前、というのが、いつのことかはわからないが、多分…あの後か、一昨日か。とにかく、咲夜とあんなことがあった後であるのは、多分、間違いないだろう。
 正直を言えば……少しばかり、ショックだ。あんなキスを自分にした一成が、その後で、あのミサにもキスをしていたなんて―――そんなものなんだろうか、男ってやつは。
 ―――何言ってんだろ、私。一成の彼女でもなければ、一成を男として好きな訳でもない癖に……身勝手もいいとこじゃん。
 矛盾した自分の感情に、苛立つ。無意識のうちに唇に指先で触れながら、咲夜は、上手く説明のつかない不愉快さに、知らず眉を寄せていた。
 「いいよ、それで。身代わりでも、セフレでも、何でも藤堂さんの都合いいようにしてよ」
 「…っ、馬鹿! 何を、」
 「あたし、そこから這い上がる自信、あるもの」
 その言葉の中身同様、一成の言葉を遮ったミサのその声も、きっぱりとして、自信あり気だった。
 「代替品や都合のいい女から、本物の彼女に成り上がる自信、あるよ。藤堂さん相手なら」
 「……」
 「藤堂さんが苦しいなら、あたしを利用しちゃって構わないよ。この前のキスみたいに。だから―――いいでしょ? 今日、店終わったら…」
 「…悪いけど、それは、無理だよ」
 一成が、酷く低い声で、そう答えた。
 「君が自信を持ってそう言えるほど、俺は情にはもろくないし、嫌いならどんな関係になってても容赦なく切り捨てられる方だ。それに…誰かを、誰かの代替品にするのも、好きじゃない」
 「…でも、」
 「この前は、本当にどうかしてた。足りないって言うなら、何度でも謝る。でも―――他の人間で代わりがきくなら、それは“恋”じゃない」
 「……」
 「代わりがきかないからこそ……苦しむんだよ」

 ――― 一成……。
 胸が、痛い。
 代わりがきかないからこそ、苦しい―――それは、咲夜自身も知る苦しみだから。拓海なんて嫌いになれればいいのに、もっと他の人を好きになれたらいいのに。そう思いながら、何度も何度も逃げようとしたけれど…無理、だったから。

 「おっ、咲夜。遅かったな」
 「―――…ッ!」
 突如、この空間とは別の次元からの声が割って入った。
 ギョッとした咲夜が、思わずドアノブを放してしまった弾みで、ドアノブがガチャッ、と音を立てた。その音に気づき、控室の中の気配もハッとしたように凍りついた。
 振り返ると、携帯を手にしたヨッシーが、何食わぬ顔で立っていた。
 「ヨ、ヨッシー! いっ、いつからいたの!?」
 「? 今来たところだけど? 家に電話しに出てたんだ」
 「あ…、そう」
 「さっさと中入れよ。時間ないぞ」
 そう言いながら、先に立ってドアを開けたヨッシーだったが――― 一成とミサが向き合って立っている光景を目にして、固まった。
 でも、そこは人生の先輩だけのことはある。数秒後、我に返り、極めて軽い口調でミサをたしなめた。
 「おいおい、ミサちゃん。店がかきいれ時の時間帯に、こんな所で油売ってちゃあ、クビになっても文句言えないぞ?」
 「…すみません」
 反論の余地などないだろう。ミサは、ペコリ、と頭を下げ、半ば逃げるように控室を後にした。
 ヨッシーとぶつかりながら廊下に出たミサが、咲夜とすれ違う瞬間、咲夜を睨んだ。悔しそうな、憎悪にも似たその目に、背筋がゾクリと冷たくなったが―――ミサは、何も言わず、そのまま店内に続くドアの向こうに消えてしまった。
 「ほら、咲夜。さっさと準備しろよ」
 「…あ…、うん」
 トン、とヨッシーに背中を押され、よろけるように、控室に足を踏み入れる。それと同時に、気まずそうに佇む一成と、目が合った。
 ―――息が…苦しい。
 こんな状態で、まともな歌なんて、歌えるんだろうか―――そう思ったけれど、ステージはもう目の前だ。逃げ出すこともできない状況に、咲夜は一成から目を逸らし、唇を噛んだ。

***

 1回目のライブが終わると、ヨッシーが、一成の頬を平手打ちした。
 「一成!」
 ガタン、とよろけてテーブルにぶつかった一成を、咲夜が思わず支える。が、平手打ちされた一成は、何故ひっぱたかれたのかを悟っているのか、頬を押さえることもしないで顔を背けていた。
 「ちょ…っ、何すんの!? 何も叩くことないじゃんっ!」
 黙ったままの一成の代わりに咲夜が噛み付くが、ヨッシーは咲夜を無視して一成の横顔を睨みつけた。
 「バカヤロウ! お前がまだ音大生のヒヨコだった時代から、お前のピアノ聴いてきた俺の耳が誤魔化せる訳ないだろう!」
 「……」
 「一体、誰のピアノを真似ようとしてるんだ?」
 その一言に、一成がハッとしたように顔をヨッシーに向けた。
 「ただ咲夜と息が合わないだけなら、俺も黙って見守ろうと思ってたけど―――何か、変えようとしてるだろ。バレバレなんだよ、俺には」
 「……」
 「試行錯誤は、大いにやって構わないけどな。金払ってる客の前で弾く時は、そんな迷いは出すな」
 「…悪かった」
 かすれ気味の声でそう呟いて、一成は、また視線を逸らした。
 「悪かった―――次のステージは、いつも通り弾くから」
 「当たり前だ。全く、お前らしくもない―――咲夜もそうだぞ。一成の機嫌を見ながら、恐々歌っててどうするんだ? 自由自在に歌い上げるのがお前のいいとこなのに、迷ってるお前の歌なんて最低だぞ」
 一成の機嫌を見ながら―――確かに、そうだった。
 歌っている間、ずっと、咲夜はひたすら一成のピアノを気にしていた。いつもなら、様子を窺うまでもなく、ただ思ったままに歌を歌えば、それが自然と一成のピアノと重なっていたのに…一昨日も、今のライブも、それができなくて。なんとか合わせよう、なんとか呼吸を掴もうと、何度も一成の方に目をやりながら、迷いながら歌っていた。
 「…ご…めん…」
 しょげ返ったように、咲夜も謝る。うな垂れる2人を前にして、その反省のほどがわかったのか、ヨッシーは大きなため息をついて、控室を出て行った。
 あれ以来、一成と2人きりになるのは、これが初めてだ。うな垂れたままの2人の間に、気まずく重苦しい空気が流れる。
 「…一成…、ピアノ、変えようとしてるの?」
 「……」
 「なんで? …もしかして、拓」
 「ちょっと、迷ってるだけだから」
 咲夜が口にしかけた名前を遮るように、一成は、顔を背けたまま、きっぱりとそう言った。
 「…どうすれば、咲夜と上手く呼吸が合うか、それがわからなくて色々迷ってるだけだ。でも…ヨッシーの言う通りだよな。そんな試行錯誤を、客の前で見せるのは、プロの自覚が足りなすぎる。…甘いな、まだまだ」
 「……」
 「お前も、いつもみたいに、好き勝手歌っていいから」
 やっと顔を上げた一成は、咲夜の方を見て、微かに笑みを作った。でも―――その笑みは、酷く痛々しいものだった。
 「お前に、そんなこと言えた立場じゃないけど……頼む。俺も努力するから、ステージの上では、忘れてくれ。この前のことは」
 ―――無理だよ…そんなの…。
 ただのピアニストとヴォーカリストという、私情の入らない関係には…もう、戻れない。
 一成がバラードを弾けば、そこに一成の本音を見た気がして焦るし、自分がラブソングを歌えば、一成の前で拓海への想いを吐露しているようで、酷く気まずくなる。重ならない想いに、お互い焦って、苛立って、落ち込んで、でもなんとかしたくて―――何も、できない。
 でも、できない、で済まされるなら、結局は素人の趣味止まりだ。
 「…わかった」
 努力だけは、しないと―――咲夜は、一成と同じように、薄い微笑を作って頷いた。

***

 前奏と2カウントに続き、歌い出す。

 「You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire...」

 憧れのヘレン・メリルの十八番、『You'd be so nice to come home to』。いつもなら最高に気分良く歌えるナンバーの筈だ。
 ―――信じられない…。まるで、翼を片方、もがれたみたいだ。
 自由に、歌えない。現実を引きずりすぎて、歌の世界に入っていけない。1回目のライブより若干マシな気はするが、とても、いつも通りのレベルとは言えない。咲夜自身も勿論だが、それ以上に……一成も。
 当たり前だ。まだ何も決着がついていない、宙ぶらりんな心のままで、演奏しているのだから。

 ―――“自分の体より、俺の手の心配、か”。

 あの時の、一成の傷ついたような寂しそうな目が、どうしても忘れられない。
 自分がされたことより、際どい関係になってしまったことより―――咲夜にとっては、一成の手の方が大事だった。もし一成が大怪我をしたら、今まで通りのピアノを弾けなくなったら……そう思っての、自然な行動だった。なのに…一成は、その行動に傷ついていた。
 わからない―――どうすれば良かったのだろう?
 ひたすら自分の身を案じて、一成をほったらかしにして逃げれば良かったんだろうか。なんてことをするんだ、と憤って、非難し詰り倒せば良かったんだろうか。それとも…抵抗せず、あのまま流されてしまった方が良かったんだろうか? 一成をそういう対象と考えたことが、これまで一度もないのに?
 一成が、何にあんなに傷ついたのか―――それが、咲夜には、わからない。
 わからない、けれど……理解しなくてはいけない。それだけは、はっきりとわかる。知らねばならない――― 一成を傷つけた理由、一成が苦しんでいる理由、そして…自分自身が酷く苦しんでいる、その理由も。

 何を一成が求め、何を自分が求めているのか。冷静に、もう一度考えなくては。
 それができなかったら―――もがれた片翼は、戻らない。そして多分、それは一成にとっても同じ―――片翼をもがれた一成は、今、飛べずに苦しんでいるに違いない。
 自由には、歌えない―――それは、咲夜にとっては、一番の恐怖だ。想像しただけで、咲夜は思わずぶるっと震えた。


 1曲歌い終えた咲夜は、大してハードな曲を歌った訳でもないのに、全身に嫌な汗をかいていた。
 片翼で飛ぼうとすることが、これほど厳しいものとは知らなかった―――疲労感を必死に押さえ込みながら一礼した咲夜は、顔を上げ、汗で額に貼り付いた前髪を掻き上げた。
 と、その時。
 ふと視線を向けた店内に、見覚えのある顔を見た気がして、前髪をはらうその手を、思わず止めた。

 「―――…」

 店の、入り口に一番近い席に、たった1人で座っている客。
 咲夜と目が合っても、笑みもなく、どこかうつろな表情で座っているその客は―――奏だった。


***


 通用口を出て、表通りに回りこむと、奏は店の入り口で待っていた。
 「奏…!」
 咲夜が声をかけると、奏は、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま振り向き、微かに微笑んだ。
 「早かったな。ミーティングとか、いいのかよ」
 「え? あ、ああ…うん」
 今、それどころじゃないし。
 などということは、今明かすべきネタでもないだろう。曖昧に笑って誤魔化した咲夜は、奏と並んで歩き出した。
 「どうしたの、珍しいじゃん。1人でうちの店来るなんて」
 「…ん。ここ何日か、咲夜が顔出さないし歌も歌わないんで、どうしてるんだろう、と思って」
 「あー…、ごめん。心配かけて」
 「やっぱ、体調でも崩してた? なんか本調子じゃない感じだったよな、今日のライブ」
 「…う…ん。す、少しだけ、ね」
 ―――やっぱり、奏の耳でもわかるほど、酷かったんだな…。
 ライブ後、ヨッシーに丸めた楽譜で連続で頭を叩かれ、「どっちも頭冷やせ」と呆れたように言われたが……客にまで不審がられていたのだとしたら、かなりまずい状況だ。この状況が続いたら、“Jonny's Club”をクビになる可能性だってあり得る。なんとかしないと―――平然とした顔を保ちつつも、咲夜は内心、激しい焦りを感じた。

 唐突に、沈黙が流れる。
 話すこともなく、2人は、黙って並んで歩き続けた。
 心配していた空模様は、今は傘のいらない状態だが、一度雨が降ったのか、アスファルトは真っ黒に濡れていた。見れば、隣を歩く奏の髪も、乾きつつあるものの、一度雨に濡れたような感じだ。
 咲夜の心配をして店に来ただけではないと、直感的に思っていた。やはり、様子がおかしい―――咲夜は、僅かに眉をひそめ、奏の横顔を覗き込んだ。
 「―――何か、あったの」
 「……」
 「店にいる時から、変だとは思ってたんだけど…やっぱ、変だよ、奏。何かあったんじゃない?」
 「……ハハ…」
 力のないうつろな笑い方をした奏は、湿った髪をぐしゃっ、と掻き混ぜ、大きなため息をついた。
 「…ダメだなぁ…オレって」
 「え?」
 「1人で片付けるべき問題なのに―――蕾夏に泣きついて、咲夜にすがって……情けねーよ。自分で、自分が」
 「……」
 「―――なあ、咲夜」
 顔を上げた奏は、口元だけに、ふっ、と笑いを浮かべ、疲れ果てたような目で咲夜を見た。
 「オレ、懺悔ってしたことないけど―――もしやったら、ちょっとは、楽になるかな」

 ―――懺悔…?

 何のことかわからず―――咲夜は、不思議そうに目を丸くした。

***

 「はい」
 咲夜が缶コーヒーを差し出すと、雨に濡れたベンチを拭いていた奏は、振り返り、ちょっとだけ笑った。
 「サンキュ」
 「熱いから、気をつけて。…どう、座れそう?」
 「一応。気になるなら、オレのジャケット敷くけど」
 「ううん、大丈夫そう」
 咲夜も、自分のハンカチを出して、ほとんど水滴のなくなったベンチをもう一度拭いておいた。2人は、ベンチに並んで腰掛け、それぞれに缶コーヒーのプルトップを引いた。
 温かいコーヒーが喉を通り、冷え始めていた体が少し温まる。なんだか―――久々に、ホッとできた気がした。咲夜だけじゃなく、奏も。
 「…で? 何、懺悔って」
 缶コーヒーを両手で包んで、咲夜が訊ねる。
 奏も、缶を手の中で弄びながら、暫くは何も答えなかった。が、やがて、何から話すべきか、その糸口を見つけたように、口を開いた。
 「―――前さ、咲夜、オレに言ったよな。“意外だ”って」
 「え?」
 「…咲夜と親父さんの話聞いて、女をとっかえひっかえしてる麻生さんを、気持ち悪いとか許せないとか思わないのか、って言った時」
 「…ああ、あったね、そんなこと」

 『奏って、思いのほか、そういう心理学的なことに頭が回るんだね。あの話から、性的トラウマ抱えて今も苦しんでる、なんて状態まで想像して心配してるとは、私自身でも思わなかった。なんかちょっと、意外』

 ほとんど忘れてしまっていたが、言われて思い出した。実際、かなり意外だったから。
 「あの時オレ、母親がカウンセラーだから、とか何とか答えたけど……実は、違うんだ」
 「違う?」
 僅かに眉を寄せる咲夜の方をチラリと見て、奏は、手にしていた缶コーヒーを一度口に運んだ。はぁ、と息をつき、また少しの間黙ると―――ゆっくりとした口調で、また話し出した。

 「…オレの叔父さんの、時田郁夫。咲夜も知ってるって言ってただろ?」
 「うん」
 「オレ、昔からあの人、大好きでさ。モデルになった時も、郁に撮ってもらうのが夢だった。そう―――ちょうど、咲夜が麻生さんのピアノで歌いたい、って思ってるのと、同じ感じで」
 「……うん」
 チクン、と、また胸が痛む。その痛みを誤魔化すように、咲夜も缶を口に運んだ。
 「…ちょうど3年くらい前、オレ、その夢が原因で、やたら荒れてたんだ。郁に必要とされるモデルでありたいのに……撮ってもらえなかったから。…無理もなかったんだよな。あの頃のオレ、前にも言ったとおり“Frosty Beauty”なんて言われてた、完全に“綺麗なだけのお人形”だったから―――郁が、オレが演じる“Frosty Beauty”を好きになれないのは、わかってたんだ」
 「…路線変更は、考えなかったの? 時田郁夫に撮ってもらえるようなモデルになる、っていう」
 「ハ…、そりゃ、考えたさ。でも…モデル始めた頃のオレって、本当に全然売れなかったんだ。演技力の未熟さのせいだって、今はわかってるけど―――あの頃は、素のオレは必要とされてない、素のオレじゃダメなんだ、って思い込んでた。だから、売れるために、感情を殺して、オレじゃないオレを演じて―――もう、そうするのが当たり前になってた。あの頃は」
 「…そっか…」
 「憧れのカメラマンは見向きもしてくれなくても、オレ自身面白くもないと思ってる“Frosty Beauty”に、クライアントはいくらでも金をつぎ込んでくれる。…女もさ、黙ってても、この外見に釣られて寄ってくるんだ。あー、世の中、中身なんて見ちゃいねーんだよなぁ、所詮オレは外見だけ求められてるんだ、オレの中身なんてどうでもいいんだ―――そんな風に、本気で思ってた」
 「……」
 「大して郁に思い入れのない弟の累が、郁と一緒に仕事してんのなんか見て、同じ顔してんのになんで累だけ……って、卑屈になって、累のこと妬んだりもした。…ほんと、今思うと、情けない状態だったな。3年前のオレ」
 苦笑した奏は、そう言って息を吐き出すと、どこか懐かしむような笑みを口元に浮かべた。
 「そんな時に―――あいつらに出会った」
 「……あいつら……?」
 誰のことだろう、と咲夜が訊ねたが、奏は、それには答えなかった。視線を、真っ暗闇の公園へと真っ直ぐに向けたまま、ぽつり、ぽつりと続けた。
 「…スゲー、嫌な奴らだった。人がさ、隠そう隠そうと思ってる醜い部分を、あっという間に暴いて、目の前に突きつけてくるんだ。…オレが世を拗ねて“どうせ人間は外面だけ”なんて言ってるのも、累に嫉妬してるのも、全部見抜かれた。それどころか―――“Frosty Beauty”の顔に、本音ではウンザリしてることも。…オレ自身ですら、自覚してなかったのに…な」
 「……」
 「ほんとに、嫌な奴らだった。2人揃って」
 そこで、言葉を切って―――奏は、僅かに、視線を下に向けた。
 「…でも……いつの間にか、惹かれてた。どうしようもなく」
 「―――…」

 ―――そ…っか…。
 それが、成田さんと、蕾夏さんなんだ…。

 説明されなくても、わかった。世を拗ね、ひねくれていた奏に、突然射し込んだ“光”―――それが、あの2人だったのだと。
 「…気づきたくなかった。あの2人の結びつきの強さは、傍で見てて、嫌ってほど、わかってたから。勝ち目なんてゼロなのに、生まれて初めて本気で惚れるなんて―――しかも、その相手を憎むこともできないなんて……認めたくなかった。自分でも」
 「……」
 「だからいつも、あいつには冷たい態度ばっかり見せて、好きどころか嫌ってるようなフリばっかりして……そんな顔しておきながら、あいつの顔が見たくて、声が聞きたくて、つい周りをうろついてさ。…でも、そこでも見せつけられるのは、あいつらの絆の強さだけなんだよ。オレの居場所なんて…どこにも、ないんだ」
 缶を握る奏の手が、微かに、震える。
 指先が震えるほど、きつく缶を握り締めた奏は、暗い目で、地面を見つめた。
 「…だから、オレは…」
 「……」
 「…オレ、は……」
 「…奏…?」
 なんだか、様子が、おかしい。
 続けさせて、大丈夫なんだろうか―――咲夜が不安を覚えた直後、奏は目を伏せ、俯いた。
 「―――…好きになってもらえなくてもいい。でも、一瞬でも、一度でもいいから、あいつを、自分のものにできたら―――強引でも、力づくでもいいから、捨てるしかないこの想いを、一部でもいい、あいつに刻みつけてしまえ。…そう、思って…」
 「…え…っ」
 その言葉から連想されることに、胸の奥が、ひやっと冷たくなる。
 …まさか。
 そう思って息を詰めたが―――奏が口にした続きは、無慈悲だった。
 「…オレは、その通りに、したんだよ」
 「……」
 「……嫌がって泣き叫ぶあいつを無理矢理押さえつけて……成田の名前を必死に呼ぶあいつを平手打ちして……無理矢理、自分のもんにしようとした。…レイプしようとしたんだ。オレは」
 「―――…」

 …声が、出ない。
 なんと言っていいのか―――想像を、超えていたから。
 脳裏に浮かぶのは、あのポスター撮影の日、不安そうな様子を見せる奏を、優しくも厳しく励ましていた蕾夏の微笑だ。まるで姉のように、奏を温かく包んでくれていた。その蕾夏と奏の間に、そんなことがあったとは―――到底、信じられなかった。

 「…ど…どう、なったの、それで」
 やっとの思いで搾りだした声は、乾いて掠れていた。が、コーヒーを飲むような気には、どうしてもなれない。
 「…幸い、途中で我に返って、本当に、最後までやらずには済んだ。…言い訳にもならないよな。あんだけの傷負わせて、めちゃくちゃにしておいて…。結局―――オレがやったことがきっかけで、蕾夏は一時期、心を病んで……逃避衝動で、耳が聞こえなくなった。…後悔しても、後悔しても、足りない。今思い出しても…気ぃ違いそうになる。あの時のことは」
 「…そ…う…」
 壮絶すぎて―――相槌も、打てそうになかった。短い咲夜の相槌に、奏はくしゃっ、と髪を掻き上げ、息をついた。
 「…成田は、オレを殺そうとしたんだ。首絞められて―――正直、このまま死ねたらいいのに、って思ったよ。好きな女なのに、あんな暴力ふるって、あんなボロボロの状態にして―――本気で死にたかったから。…でも、成田は、オレを殺さなかった。耳の聞こえない蕾夏を必死に助けて、蕾夏も、そんな成田に応えようと、死に物狂いで戦って、戦って……立ち直った」
 「…奏は…、どうしたの、その後」
 「…死に物狂いで謝ったし、日本に来てからは―――多分、それなりにあいつらの力にもなれたと思う。…あんなことしたオレなのに、2人はオレのこと、“信頼できる友達”だって言ってくれる。…凄いだろ。自分を、自分の恋人を、強姦しようとした男なのに」
 それは―――奏が、本気で後悔し、言葉通り、死に物狂いで罪を償ったから、だろう。
 …なんとなく、わかる。奏がどんなことをしたかは、具体的にはわからないけれど―――直情的にキレて、すぐに後悔し、罪を認めれば許してもらえるまで必死に土下座する。そんな奏の素顔を、咲夜は知っているから。
 それでも、そんな経緯のあった奏を、そこまで認め、姉や兄のように受け入れている瑞樹と蕾夏は、やっぱり凄いと思う。
 「…強いね…2人とも」
 思わず、呟く。
 「ああ。最強だよ。敵いっこない…」
 咲夜の呟きに応え、ふっ、と笑った奏の顔が―――突如、苦しげに歪んだ。
 瞬きと同時に、涙が、缶コーヒーを握る手に、落ちた。喘ぐように苦しげに息を吸い込んだ奏は、痛みを堪えているみたいに、目元を歪めた。
 「…そんな…強い奴らだから……忘れられない…」
 「……」
 「こんなに…っ、こんなに、痛くて、苦しくて、息もできない位なのに―――オレは、蕾夏が忘れられないんだ。ただ一方的に蕾夏に片想いをしてた時の、何倍も……後悔した分も、受け入れてもらえた分も、あの2人の痛みを知った分も……昔より、今の方が、蕾夏が、いや…あの2人が…」
 「…そ…っか…」
 聞いている咲夜の方も、涙が滲んできそうだった。その涙を誤魔化すために、咲夜は、手にしていた缶コーヒーをくいっ、とあおり、甘ったるいコーヒーと一緒に涙を飲み込んだ。


 また暫く、沈黙が流れる。
 少し、風が強くなってきた。咲夜の飲むコーヒーはほぼ空になったが、落ち込んだように俯いている奏の方は、あまり飲んでいない様子だ。
 「…冷めちゃったね」
 咲夜が、奏の手元を見てそう言うと、少しだけ目を上げた奏は、微かに苦笑を漏らした。
 「ごめんな。せっかく買ってきてくれたのに」
 「ううん。…別のやつ、買ってこよっか」
 「いや、いい」
 そう言って、奏は、手にしていた缶コーヒーを一気にあおった。残りを全部、飲み干したのだろう。軽そうな缶を足元に置き、奏はほっ、と息をついた。
 「―――悪かったな、咲夜。聞いてて、気分のいい話じゃなかったろ」
 「…ううん」
 勿論、ショッキングな話ではあったが―――奏が何故、あれほどまでに蕾夏に心を残しているのか、その原点がよくわかった。単なる恋心じゃなく、色々な気持ちがミックスして出来た、名前のない“想い”なんだな、とわかって―――ある種、親近感を覚えた。
 それは、咲夜にとっての拓海も、同じだから。
 憧れ、絶望、期待、苛立ち―――何故この人でなきゃいけないんだ、と、運命を呪いながらも、やっぱり心は離れない。その想いの出来上がる過程の違いはあるけれど……奏にとっての瑞樹や蕾夏は、やはり、咲夜にとっての拓海と、どこか似ている気がする。
 「でもさ―――なんで急に、今日、話す気になったの?」
 コーヒーをコクン、と飲みつつ、咲夜が訊ねる。
 すると、奏の表情が、少し強張った。
 迷うように、少し瞳を揺らした奏だったが―――やがて、意を決したように唇を一度引き結び、ゆっくりと答えた。
 「…今日、明日美ちゃんが来たんだ」
 「……」
 やっぱり―――明日美ちゃんがらみ、か。
 そんな気は、していた。このところ、奏がまるで明日美の名を口にしなくなっていたから、咲夜も気にしてはいたのだ。咲夜自身―――あんなことがあって以来、店のことも拓海のことも、奏にはあまり言わなくなっていたから。
 「…なんか、あった?」
 「……」
 「…もしかして、ピリオド、打っちゃったの?」
 今の話から想像して、先回りするように、咲夜が言う。が、奏は、僅かに視線を落とし、首を横に振った。
 「―――抱いてくれ、って言われた」
 「……っ」
 さすがに、目を見張る。
 あの明日美が―――いや、案外、明日美なら、思いつめればそんなことも言うのかもしれない。
 「…そうする、つもりだった。あの子のことは好きだし、いつまでも友達以上恋人未満で足踏みしてたら、申し訳ないし―――オレも、早く蕾夏を忘れたかったから。…でも……あの子を組み敷いた時、オレが思い出したのは―――蕾夏だった」
 言葉を切った奏の視線が、更に、下がった。
 「蕾夏を……無理矢理、奪おうとした時のこと、だったんだ……」
 「……」
 「オレには……できなかった」
 ―――そ…れは…。
 咲夜の脳裏に、明日美の姿と、一度だけ会った蕾夏の姿が浮かぶ。そして、思い出すのは、自分が奏に言った言葉―――そう、咲夜ですら、そう言ったのだ。明日美のことを、蕾夏に似ている、と。
 …ああ、だからか。
 唐突に、理解した。
 随分長いこと、新しい恋を探しているという割には、なかなか特定の女性との交際に踏み切らなかった奏が、何故、明日美にだけは、随分とプライベートな所まで踏み入れさせたのか―――少し不思議に思ってはいたのだが……その理由の一端を、垣間見た気がした。
 「…嫌ってほど、わかった。オレは―――明日美ちゃんが蕾夏に似てるから、手放せなかったんだ。蕾夏の代わりになってもらえるかもしれない―――そんな、馬鹿げた夢が、捨てられなくて」
 「…奏…」
 「オレ……最低だよな……」
 感情が決壊したように、奏は、手を口元に当てて、声を押し殺すようにして、泣いた。
 痛いのに…これほどまでに痛いのに、それでもまだ、叶うことのない想いから解放されずにいる奏は、見ているだけで辛くて、辛くて―――咲夜は、缶コーヒーをベンチの端に置くと、うな垂れた奏の肩に腕を回した。
 両腕で、自分よりずっと大きな体をした奏を、抱きかかえる。まだ雨を残した明るい髪に頬を押し付け、咲夜は、奏の肩を、子供をあやすみたいにゆっくりと叩いた。
 「…仕方…ないよ、奏」
 「……」
 「抱きしめてあげたいと思っても……抱きしめても……それでも相手を傷つけることは、あるよ。大事に想ってても…その想いが、すれ違うことも……あるんだよ…」

 ―――…一…成…。
 一成……。

 胸が、痛い。
 咲夜は、奏を抱える腕にもう少し力をこめ、今度は自分の痛みに耐えようと、唇をきつく噛んだ。


 『他の人間で代わりがきくなら、それは“恋”じゃない。代わりがきかないからこそ……苦しむんだよ』


 …そうだよ。一成。
 蕾夏さんの代わりを明日美ちゃんができないように、拓海の代わりは、誰にもできない。代わりがきくなら、それは“恋”じゃない―――ただの欲望だもの。

 一成も、奏みたいに、苦しんでるんだろうか。
 一成があんなことしたのも、奏と同じで―――私に、想いの一部でもいいから、刻み込みたいと思ったんだろうか。
 あんなこと、しなきゃ良かったって、後悔して、後悔して―――でも、ミサちゃんじゃ、私の代わりにはならなくて……今、奏が苦しんでるみたいに、苦しんでるんだろうか。

 だとしたら、一成。
 恋って―――痛みばかりで、幸せは、本当にほんの一握りだね…。


 咲夜は、奏を抱きしめながら、ずっと考えていた。
 一成が望むもの。自分が望むもの―――何がすれ違っているのか。どうすれば重なるのか。…そんなことを、ずっと。

 そして―――奏の後悔の涙が、涸れ果てた頃。
 咲夜も、1つの答えを見つけることができた。


***


 電話の呼び出し音が、何度か響く。
 この時間じゃ無理かな―――諦めかけた時、電話は、繋がった。

 『咲夜か?』
 心に響くテノールが、耳をくすぐる。くすっ、と笑った咲夜は、耳に押し当てた携帯電話を両手で包んだ。
 「…こんばんは。もしかして、お取り込み中だった?」
 からかうように咲夜が言うと、電話の向こうの拓海は、ムッとしたような口調で返した。
 『馬鹿。“お取り込み中”なら、電源は切ってるだろ』
 「ハハ、そーだよね」
 『どうした、こんな時間に』
 「ん…。別に、なんとなく」
 『は?』
 「―――ねえ、拓海。そこにピアノ、ある?」
 『あるよ。家だから』
 「そっか。……1曲、弾いてもらってもいい?」
 『? 変な奴だな…。いいよ。何がいい?』
 「……ビートルズの、“Let it be”」
 電話の向こうで、ガタガタと、ピアノを用意する音がする。コトン、という音の後聞こえた拓海の声は、多分携帯をピアノの上にでも置いたのだろう、かなり小さかった。
 『普段、あんまり弾く曲じゃないからな。期待するなよ』
 「わかってる」

 やがて―――耳元に、拓海のピアノの音が降って来た。
 多分、拓海の弾く『Let it be』を聴くのは、これが初めてだ。ベッドに腰掛けた咲夜は、目を閉じ、携帯電話から聴こえてくる音に、耳を澄ませた。


 『―――実は、蕾夏に会ってきたんだ。ついさっき』
 『蕾夏は、言ってた。…想いは、作ろうと思って生まれるものでもないし、生まれてしまった想いは、無理矢理消すこともできない、って。オレの、蕾夏に対する想いは、わかってる―――わかってる上で、オレを“友人”として大切に思ってる。だから、焦って想いを消そうとしたりしなくてもいい……蕾夏を想ってる“オレ”を、蕾夏も…そして成田も、大事に思ってるから、って』
 『…オレはずっと、蕾夏への想いを消さなきゃならない、って焦ってたんだよな。…でも、無理なんだよ、そんなこと。咲夜―――お前が、麻生さんへの想いを消せないのと同じで、さ』

 ―――オレって、幸せだよな。
 オレの恋は、実らなかったかもしれない。この先も多分…実らないまま、終わるんだと思う。
 でもさ。オレ、報われなかったとは思わない。
 だって、オレの想いは、蕾夏も、成田も、ちゃんと受け止めてくれてる。受け止めて―――好きでいて構わないと言ってくれてる。それって…十分、報われてるだろ。


 ―――拓海…。
 拓海…拓海…拓海…。
 好き―――あなたのピアノも、あなた自身も、全て。
 好きで、好きで、涙が溢れそうなほどに―――好き。
 これからも、ずっとずっと、あなたを好きでいる。恋は一生に一度きり―――そう思ってる。今、この瞬間も。

 …でも、拓海。
 一度だけ―――1日だけ、その言葉、裏切ってもいいかな。


 実らせるだけが、恋の結論じゃない。
 別の方法で報われる想いもある―――拓海のピアノを聴きながら、咲夜は、朧気だった答えを、少しずつ、形にしていった。
 そして、決めた。

 明日―――会おう、一成と。


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