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― Let it be

 

 半分、冗談だと思っていた。
 大体、電話があった時間が、真夜中の1時半という非常識さだ。しかも、あんな内容―――真面目にとれ、という方が無理な話だ。

 「早かったね」
 運転席の窓を開けた一成に、そう言って笑いかける咲夜は、いつもと何ら変わらないように見えた。先日来引きずってきた気まずさを微塵も感じさせないほどに、いつも通り―――からかうような余裕あり気な笑い方も、両手をダウンジャケットのポケットにつっこんだままの立ち姿も、何もかも。
 「…思ったより、渋滞がなかったからな」
 「ふーん。良かった。せっかくの休日、時間は有効に使いたいもんね。…で、乗っていい?」
 「……」
 無言で助手席のロックを解除する。それを確認して、咲夜がドアを開け、隣の席に滑り込んできた。
 「なんだぁ、何も音楽かけてないじゃん。ドライブには音楽は必須じゃない?」
 「……」
 「私が聴いてたんでよければ、MDかけよっか。この車、MDデッキついてんでしょ」
 「…咲夜、」
 少し苛立った声で、一成が咲夜の言葉を遮ぎった。
 「どういうつもりだ? 一体」
 眉をひそめ、半ば睨むように咲夜を見据える一成とは対照的に、咲夜の方は涼しい顔をしている。MDプレーヤーをバッグから取り出そうとする仕草をピタリと止めたまま、一成に向かって、ニッ、と口の端を上げてみせた。
 「電話で言ったとおりだよ。今日1日、デートしましょう、一成君」
 「ふざけるなよ。からかってるのか?」
 「とんでもない」
 その言葉と同時に―――咲夜の口元から、笑みが消えた。
 真剣な眼差しが、一成を真っ直ぐに見据える。その目に、一成も思わずドキリとする。飲まれたように目を逸らせずにいる一成に、咲夜は、ゆっくりと口を開いた。
 「真面目に、言ってる。…付き合おう、私達。ただし―――今日1日、日付が変わるまで限定で」
 「……」
 「1日だけ、一成の恋人になる、って言ってるの」

 さすがに―――絶句する。
 一晩にして咲夜の心が動いた、などと考えるほど、一成は自惚れやでもなければ自信家でもない。間違いなく、昨日までの咲夜は、突然自分に向けられた感情と欲望に戸惑い、混乱していた。
 なのに、恋人? しかも今日1日だけ? …咲夜が一体何を考えているのか、全然わからない。

 言葉を失う一成に、咲夜も、暫く何も言わなかった。
 窓を閉めきった車内に、ウィンカーを出しているカチカチという音ばかりが響く。それを気まずく思ったのか、咲夜は、取り出しかけていたMDを掴み、MDデッキに突っ込んだ。
 流れてきたのは、ジョン・コルトレーンの『My Favorite Things』―――会話の邪魔にならない程度のボリュームに音を絞った咲夜は、小さく息をつき、髪を掻き上げた。
 「…昨日さ。帰ってから、真剣に考えてみた。自分が何を一番望んでるか。その望みを叶えるには、どうしたらいいか。それは、本当に出来ることなのか」
 「……」
 「たくさん、たくさん、いろんな事を考えて、最後に残った私の望みは―――“歌いたい”、だった」
 そう言うと、咲夜は目を上げ、一成を真っ直ぐに見据えた。
 「歌いたい―――歌わないと、生きていけない。私には、歌うことが、呼吸することと同じだから。他の何を犠牲にしても構わない、自由に…体が、心が、欲するままに、歌いたい」
 「…うん」
 咲夜らしい――― 一成は、無意識のうちに、僅かに口元をほころばせていた。
 それを見て、咲夜も、微かに表情を和らげ、薄く微笑んだ。が……、すぐに表情を引き締め、膝の上に置いた拳を、ぎゅっ、と握り締めた。
 「…私にとって、一成のピアノは、魚にとっての“水”なんだと思う」
 「水……?」
 「そう。私を一番、自由に泳がせてくれる“水”。魚は、水がなければ泳げないけれど、水は世界中のあちこちにあるでしょ? だから、泳ぐだけなら、どこの水の中でも泳げるかもしれない。でも……私は、一番居心地のいい温度で、一番体に馴染んだ水の中で、自由に泳ぎたい」
 「…だったら、そうすればいい」
 「うん。そうしたい。でも……」
 そこで言葉を切った咲夜は、視線を僅かに逸らし、少し俯いた。
 「…これ以上、一成との間に愛や恋が絡んじゃったら―――私、もう一成のピアノでは、歌えないと思う」
 「……っ」
 一成の瞳が、グラリと揺れた。
 「…私の歌は、拓海への想いがあるから、歌える歌なんだ。実ることのない不毛な恋でも―――その痛みや、苦しさや、愛しさや、この体に感じるものを、私は、歌に託してきたから。…この想いを、何て呼ぶのか、自分でもよくわからない。でも……この想いなしには、歌えない。少なくとも、今の私には。私にとってこの想いは……生きるのに必要な、“酸素”なの」

 拓海を想って―――…。
 わかっていたことだ。それでも……胸が、ズキリと痛む。
 でも、拓海への、憧れと恋愛感情が入り混じった想いがあるからこそ、今の咲夜の歌がある―――咲夜の言うことは、わかる気がした。
 叶わない、恋だから。
 告白して、フラれて終わり、という恋とは違う、叶うことを望んですらいない恋だから……その想いに、エンドマークも限界もない。
 そういう恋だからこそ、咲夜の歌が生まれる。上限のない想いは、音楽を得ることで、どんどん浄化されて―――人の心を震わせる、あの歌声に変わる。一成を惹きつけて止まない、あの歌声に。

 「…一成の気持ち、戸惑いはしたけど、迷惑じゃなかった。むしろ…嬉しかった。一成のこと、人間として尊敬してきたし、好ましいって思ってるから。でも……」
 唇を噛んだ咲夜は、顔を上げ、苦しげな目で一成を見つめた。
 「一成のピアノに一成の想いを感じながら、それを無視して拓海を想って歌うのは……辛すぎる。辛すぎて、もう、これ以上、歌えないよ」
 「……」
 「愛とか、恋とか、わからない。わからないけど―――私は、歌えない“女”になって一成に愛されるより、一成の目指す音楽を一緒に実現していける“歌い手”として、一成に必要とされたい」
 「……」
 「…ごめん……私には、抱きしめてくれる“男”としての一成より、歌わせてくれる“ピアニスト”の一成が必要なの」

 ―――知ってたさ。そんなことは。
 自嘲とも、寂しさともつかない笑みが、口元を掠める。
 自分の身も顧みず、一成の手を心配して駆け寄った咲夜に、咲夜にとって自分は飽くまでも“ピアニスト”なのだと思い知った。あんな場面であっても、“男”と意識する以上に、“ピアニスト”として意識されていた―――そのことに、“男”の一成が傷つき、痛みを訴えた。あの時は。
 でも―――あの時のような怒りや苛立ちは、今は、ない。
 気づいたから。自分も同じだと。

 さっき、自分のピアノでは歌えない、と言われた時―――恋を失う以上のショックを受けた。咲夜が、歌えなくなる―――それは、咲夜自身にとっても恐怖だろうが、一成にとっても耐え難い恐怖だから。
 …そう。なんのことはない。咲夜が“男”の一成より“ピアニスト”の一成を優先したように……一成もまた、無意識のうちに、“女”の咲夜より“ヴォーカリスト”の咲夜を重視していた。ただ、それだけのことだ。

 はあっ、とため息をついた一成は、腕を乗せていたハンドルに、額を押し付けた。
 いくら言い聞かせたところで、やっぱり、捨て去るしかない想いが、胸の奥で暴れる。でも…耐えるしかない。耐えられる筈だ。恋は失われても、2人の間には“音楽”が残るのだから。
 「―――…わかった」
 低く答えた一成は、顔を上げ、余計な感傷を吐き出すように、大きく息を吐き出した。それから、口元を僅かに皮肉っぽく歪めて、咲夜の方を流し見た。
 「それで? 1日限定のデートとやらは、何なんだ? 同情でもしてるのか?」
 「ううん」
 「我慢して恋人のフリされても、俺は、嬉しくもなんともないぞ」
 「我慢なんてしてないし、フリをする訳でもないよ」
 咲夜はそう言って、ふっ、と笑った。
 「フリじゃなく、本当に恋人同士になるの。1日限定で」
 「……」
 また、意味がわからなくなってきた。眉をひそめた一成は、咲夜の真意を探るように、咲夜の目を見つめた。
 「…本当の恋人同士って…意味、わかってるのか」
 「うん」
 「…言っとくけど、いい歳した普通の恋人同士なら、男は当然、好きな女に手を出すぞ?」
 「…うん。わかってるよ」
 「……」
 「…わかってるよ」
 そう、答えて。
 咲夜は、一成の肩に手を置いて、少し身を乗り出した。

 「―――…」
 一瞬、微かに頬に触れる、咲夜の唇。
 この前、あんな際どい真似をしておきながら、たったこれだけのことに、一成の心臓は止まりそうになった。
 ―――咲夜…。
 僅か10センチしか離れていない咲夜の目を、見つめる。その真意が、わかるような、わからないような、複雑な気持ちで。

 「…そうすることが、一成の気持ちを受け止めたことになるなら―――いいよ」
 「……」
 「せっかく生まれた一成の想い……捨てることで終わらせるのは、私は嫌だから。振った、振られた、って終わらせ方はしたくない―――私達には、時間がないから」
 「…時間…?」
 「火曜日には、また一緒に、ステージに立たなきゃいけないでしょ?」
 ―――ああ…、そうか。
 片想いであれ、失恋の痛みであれ、それを引きずるだけの時間は、自分達にはない。引きずっていては、咲夜は自由に歌えないし、自分も思うようなピアノは弾けない。もう、迷いを音楽に持ち込む猶予は、自分達にはないのだ。
 「一成の気持ち、1日だけでも受け止めて、終わりたい。それに―――この先、ずっと拓海を想い続けたとしたら、これが私にとって最初で最後のデートになるだろうし…ね」
 そう言って、咲夜はくすっ、と笑った。
 一成も―――苦笑に近い、微かな笑みを漏らした。

 そんなに簡単に、この想いと決別できるかどうか、わからないけれど。
 ただ拒絶され、欠片も報われることなく終わった恋ではなかったと、2人がそう思うことができれば……それで、いい。

 「…ずっと、好きだった。咲夜」
 一成が、改めてそう言う。
 それに応え、咲夜は、珍しい位に柔らかな笑みを浮かべた。
 「ありがとう―――嬉しい」
 「…俺と、付き合ってくれるか?」
 「うん…いいよ」
 「…ただし、今日だけ、だな」
 「…うん。そう」

 拓海が好きだから、でもなく、好きじゃないから、でもなく―――男女ではなく、求める音楽を作り上げるパートナーとしての自分達を、優先したいから。

 「付き合って―――今日限りで、別れよう。一成。明日から、また“仲間”に戻れるように」


***


 一成に想いをぶつけられて―――生まれて初めて、考えた。拓海以外との恋愛について。
 初めて、意識した。自分を“女”として求めてくれる、“男”というものの存在を。
 きっと、ほかの女性たちは、憎からず思っている人からこんな風に求められれば、心をときめかすのだろう。
 その先にあるのは、当たり前の恋―――気の遠くなる年齢差に絶望することもなく、当たり前のようにデートして、当たり前のように抱き合って、当たり前のように寄り添いあえる、恋。

 もし、拓海を好きになっていなければ。
 実らなくてもいいから、拓海だけを愛していこう―――そんなことを心に決めなければ。
 自分にも、そんな、平凡で幸せな恋もあったのかもしれないな、と……一成の想いを知った時、少しだけ、思った。

 

 「水族館ってさぁ、子供の頃以来だったかもしんない。ドライブは、生まれて初めてかも」
 「ふぅん…。初めてづくしだな、今日は」
 「一成は? 今までもよく、女の子連れて水族館行ったりした?」
 「…そういう話は、デート中にしない」
 「ハハ、そーだった。ごめん」
 「ああいうレストランでのディナーは?」
 「うーん、そうだなぁ、フレンチは初めてじゃないけど、海が見えるレストラン、ていうシチュエーションは、初めて」
 「じゃあ、腕組んだり、肩抱かれたりするのは?」
 「…どうせ初めてですよ」
 「キスはするのに、腕は組まないのか、麻生さんとは…。不思議な関係だな、つくづく」
 「一成こそ、そういう話、デート中にしないの!」
 「興冷めなこと言われた仕返しだ」
 「…結構性格悪いね、一成も」


 デートコースの定番・水族館をのんびり見て回って。
 海沿いの道をドライブして、見晴台では、海風の冷たさに危うく風邪をひきかけて。
 海の見えるレストランで、ちょっと洒落たフレンチ・ディナーを満喫して。
 一成の手は、ずっと、咲夜を包んでいてくれた。北風が強い中、包んでくれる腕のある時間は、温かくて、心地よかった。きっと、世界中の恋人同士が、この心地よさを知ってるんだろうな―――知らなかった温かさに甘えながら、咲夜は、そんなことを思った。

 いろんなことを話したり、時には、ただ黙って景色を眺めたり。
 そんな時間を過ごし、都内に戻って、とある駐車場に車を停めた時―――時計は、午後11時を回っていた。


 「……」
 エンジンを切ると、途端、車内が静かになる。
 気まずいような、緊張したような、微妙な空気が2人の間に流れる。少し前から、咲夜も、そして一成も、何故か無口になっていた。
 「―――…まだ、1時間あるよ?」
 そっと一成の方を窺いながら、咲夜がポツリと言うと、シートに深く沈みこんで前を見つめていた一成が、咲夜の方に目を向け、苦笑を浮かべた。
 「…いや。無理するなよ」
 「別に―――強がりやハッタリで、言った訳じゃないよ」
 「……」
 「…本当に“私”を好きな人なら…構わないって、思ったから」

 ただ体を目当てにされたり、何かを誤魔化す手段にされたり、誰かの代わりにされるのは、嫌だけれど。
 美人でも何でもないこんな自分でも、好きだと言って、心から求めてくれる人がいるのなら……構わない。
 一成は、誠実だし、無責任なことをする人じゃない。そう、父のような―――母を裏切った上、“母”を妊娠までさせてしまったあの父のような、身勝手で無責任な人間ではない。
 一成が、あんな真似をするほどに、自分を求めてくれているのなら―――1度だけ、その気持ちを受け止めたって、いいんじゃないだろうか。

 「一成なら―――構わないよ、私は」
 そう言って、咲夜が微かに微笑むと――― 一成は、少し辛そうに目元を歪め、おもむろに体を起こした。
 「……っ、」
 助手席のシートに押し付けられるようにして、唇を奪われる。
 この前と同じ、欲望をそのままぶつけてくるみたいなキスに、息が苦しくなる。ドアとシートの隙間に押し込まれてしまった肩が、少し、痛い。
 息苦しさと痛みに眉をひそめながらも、咲夜は恐る恐る腕を伸ばした。
 そして、緩く、一成の背中を抱きしめた。

 途端。
 唐突に、唇が、離れた。

 「―――…」
 突然止んだ嵐に、咲夜は、キョトンと目を丸くして、一成の顔を見上げた。
 見上げた先にある一成の顔は、少し、驚いたような顔をしていた。
 僅かに目を見開き、咲夜を見下ろす―――やがて、一成は、詰めていた息を吐き出し、降参したように苦笑した。
 「やっぱり―――やめた」
 「…ど…して?」
 「もう、十分だから」
 「え?」
 「…もう、十分だよ。これ以上したら―――今、咲夜を抱いたら、多分、一生後悔する」
 そう言うと、一成は、咲夜の額にかかった前髪を掻き上げ、あらわになった額に、軽く唇を落とした。
 「抱かれるなら―――お前を欲しがる奴じゃなく、お前が欲しいと思う男にしとけよ」
 「……」
 「…まだ、1時間あるけど……これで、終わり」
 「…それで、いいの?」
 「ああ」
 眉をひそめる咲夜に、一成は、はっきりとそう言って、静かに微笑んだ。
 「別れよう―――“仲間”に戻るために」
 「……うん」
 その微笑が、苦しそうでも、無理をしているようでもないのが、なんとなくわかったので―――咲夜も、微笑むことができた。

***

 車を降り、向かった先は、見慣れたドア。
 一成の手の中でチャリン、と音を立てたキーで、鍵を開ける。非常灯の中、廊下を突っ切り、もう1枚ドアを抜けると―――そこには、眠りついていた“Jonny's Club”の店内が広がっていた。
 ステージ周りの電気だけをつけると、休日の店内で、ピアノの周りだけが浮かび上がった。
 「…何がいい?」
 一成が振り返って訊ねると、咲夜はニッ、と笑い、答えた。
 「ビートルズの、“Let it be”」
 「…まだ、アレンジの途中だろ。あれは」
 不審気に、一成が眉をひそめる。無理もない―――『Let it be』は、次に何か特別なライブがあったらその時に発表しようと、まだ大切にアレンジを重ねている途中で、実際に歌ったことは一度もないのだから。
 「うん。でも…いいの。なんか、凄く歌いたいから、あの曲が」


 勿論、一成は知らない。昨日、咲夜が、同じ曲を拓海にリクエストしたことなんて。
 でも…昨日、拓海の弾く『Let it be』を聴いて、改めてわかったから。自分が優先すべきものが何なのか―――自分が歌うために、何が必要なのか。

 咲夜は、歌う。拓海への届かない気持ち、行き場のない恋心―――心の中に溢れる想いを、全部、全部、歌へと昇華させる。
 そうすることで……報われている。

 実らせるだけが、恋の結論じゃない。
 叶わない恋を、歌い上げる。歌い上げることで、報われる。…それが、咲夜の恋。


 “Let it be”―――“あるがままに”。
 歌いたい。溢れてくる歌を、自由に―――あるがままに。


 ポ―――…ン…。

 一成が叩く白鍵が、音を奏でる。
 前奏を聴きながら、咲夜は目を閉じた。そして―――歌い出した。

 

***

 

 電話をするには、勇気が要った。
 このまま、暫く電話をせずにいたら―――なかったことにできないだろうか。何事もなかったように、また今までのように会えないだろうか。…そんな甘いことも、何度も考えた。
 後悔して、惨めな気持になって…何が正しいかわかっていながら、それだけはしたくなくて。そうやっているうちに、3日過ぎた。
 そんな時―――背中を押してくれたのは、母だった。

 『人を好きになることは、尊いことよ。でもね、明日美―――お母さんが若い頃に読んだ本に、こんな言葉が書いてあったの』

 母から、その言葉を聞いた時―――やっと、決心がついた。

 「明日……会えますか」
 『…うん。いいよ』
 受話器から聞こえる声は―――いつものように、優しかった。

***

 喫茶店に現れた奏は、明日美の顔を見るなり、驚きに目を大きく見開いた。
 「…こんにちは」
 「……」
 フワリと微笑む明日美にも、何の反応も返せない。
 そうこうしているうちに、ウェイターが注文を取りに来たので、奏はミルクティーを注文し、明日美の向かい側に座った。驚いている様やあたふたした様子がちょっとコミカルで、明日美は思わずくすっと笑ってしまった。
 奏の、こういうところも、凄く好きだった。
 ―――ううん…今も、凄く好き。
 そう思うと、胸が、ズキリと痛む。無意識のうちに、胸をそっと手で押さえてしまった。
 「驚いた―――どうしたの、その頭」
 脱いだジャケットを隣の席に置きながら、奏がまじまじと明日美の顔を眺める。
 豊かな長いストレートロングだった明日美の髪は、今は、肩につくかつかないかの、ミディアムヘアになっている。
 「午前中、切ってきたんです」
 ふふっ、と笑って明日美が椅子に座りなおすと、上品な内巻きにしたブラウンの髪が、肩先でくるん、と弾んだ。
 「似合ってます?」
 「え…っ、ああ、うん。ロングも良かったけど、大人しくなりすぎだったかな―――ミディアムの方が、なんか、明日美ちゃんらしいかも」
 「本当? 良かった」
 「でも、なんで急に?」
 「―――…敗北宣言です」
 努めて、さりげない口調で、そう告げる。
 けれど―――それを聞いた奏が表情を変えるのを見てしまうと、気丈に作った笑顔が、崩れてしまいそうになった。
 「あ…あれから、わたし、考えて、」
 ―――駄目。笑って終わりにするって、決めたんだから。
 「す…凄く、恥ずかしいことしちゃったな、と思って……一宮さんの迷惑も顧みず、本当に、」
 ―――…駄目…笑…わない…と…。
 「…本当…に……」
 …無理、だった。
 沈痛な面持ちになってしまった明日美は、震えてしまう唇を指で押さえ、俯いた。そして、その続きを口にできないまま―――黙り込んだ。

 奏は、黙っていた。
 幾分、蒼褪めたような顔をして、ただ黙って、俯いている明日美を見つめていた。注文した紅茶が運ばれてきても、ミルクを紅茶に入れることもしないで。

 双方、押し黙ったまま、時間だけが過ぎる。
 そうして、5分ほども経った頃だろうか―――明日美の震えがほぼ収まったのを確認して、奏が、ゆっくりと口を開いた。
 「―――明日美ちゃんが敗北宣言することは、ないよ」
 「……」
 その言葉に、ソロソロと明日美が顔を上げると―――奏は、辛そうな顔をして、明日美を見据えていた。
 「明日美ちゃんは、負けてなんかいない……いつだって、自分に正直に、真っ直ぐにオレにぶつかってきてた。負けたのは……オレの方だ」
 「……」
 「オレは……最後まで、勝てなかった。オレ自身に」
 どういう意味だろう―――明日美が眉をひそめると、奏は唇を噛み、いきなり頭を下げた。
 「今まで…本当に、ごめん」
 「…えっ」
 「悪かった。明日美ちゃんを傷つけるような真似ばっかりして」
 「え…っ、あ、あのっ」
 深々と頭を下げる奏に、明日美は慌てて身を乗り出した。
 「や、やめて下さい! 一宮さんが謝ることなんて、何もないじゃないですか…! 一宮さん、最初から正直に、あの人を忘れられないって―――それなのに、まだ一宮さんがあの人のこと想ってるのに、それを承知でつきまとったのは、わたしの方なんです。わたしが一宮さんの迷惑も考えずに、自分の気持ちを押し付けたから…」
 必死に明日美がそう訴えると、奏は、その言葉を遮るように、俯いたまま首を何度も振った。顔を上げた奏は、悲痛な目をして、明日美を真っ直ぐに見つめた。
 「迷惑なんか、してなかった。本当に」
 「……」
 「…迷いがあるなら、突っぱねるべきだったんだ。君の気持ちを知ってるなら、半端な気持ちのまま受け入れたりしちゃいけなかった―――ちゃんと、気持ちの距離と同じだけの距離を取った付き合いをするべきだったんだ。……なのに、オレは……君よりずっと大人な癖して……君の好意に甘えてばっかりだった」
 「……」
 「好いていてくれることに甘えて…中途半端に君を期待させて…何度も、傷つけただけだった…」
 ―――そんな目……しないで。
 胸が、痛くなる。
 自分勝手な、片想いだったのに―――そんな申し訳なさそうな、後悔しきった目を、奏にして欲しくない。明日美の目に、知らず、涙が浮かんだ。
 「だから―――君は、負けてなんかいない。負けたのはオレだ。せっかく、オレを好きになってくれたのに…傷つけただけで終わった、オレの負けだよ」
 「…一宮さん…」
 「ごめん―――こんな奴好きになって、何もいいことなかったよな、明日美ちゃんも…」
 自嘲気味に、奏がふっと、寂しげに笑う。明日美は、涙を飲み込みながら、必死に首を振った。
 「そんなこと……ないです」
 「でも…」
 「そんなこと、ないです。…一宮さんを好きになって、わたし、いいことしかなかったです」
 自然と―――口元が、ほころんだ。
 嘘じゃないから、それが明日美の偽らざる本音だから、笑える―――今度は、無理することなく、自然に。
 「…一宮さんのお店で初めてメイクをしてもらった時、まるで魔法だ、って思いました。変身できたような―――別の自分になれたような気がして、嬉しかった。でも…メイクを変えたって、服装を変えたって、人の中身は変わらないでしょう?」
 「…うん」
 「一宮さんは、わたしの中身を、変えてくれたんです」
 「オレが?」
 奏が、少し目を丸くした。明日美は、こぼれた涙を指ではらい、笑顔で大きく頷いた。
 「…ずっと、与えられるだけの人生だったのに……一宮さんに出会って、わたし、自分の手で何かを掴もうとすることを知ることができました。一宮さんを好きになって…一宮さんに好かれたい、傍にいたいって思って…その願いを叶えるために、行動できたんです。本当に―――自分でも信じられない位に」
 「……」
 「一宮さんに恋をして、わたしは、与えられることしか知らないお嬢様から、欲しいものを手に入れるために自ら行動できる人間に―――ずっと憧れていたような人間に、変身できたんです。…ね…? 凄い魔法でしょう…?」
 「…明日美ちゃん…」

 そのやり方は、随分ひとりよがりで、間違っていたかもしれない。
 後悔する部分も、いっぱいある。もっとああすればよかった、こうすればよかった―――思い出すだけで恥ずかしいことも、いっぱいある。
 でも……それでも、奏に恋をしたことに、後悔はない。恋は、最大の魔法だ。生まれ変わることさえ出来るほどの魔法―――そんな奇跡を体験できたのも……奏が、いたから。
 これほどまでに、恋焦がれる人に、出会えたから。

 「…わたし、まだ、一宮さんが好きです」
 「……」
 「好きだけど―――追いかけるのは、もう、やめます。だから…時々、電話やメール、してもいいですか? 今度は、彼女候補としてじゃなく―――友達として」
 「―――…うん」
 明日美の言葉に、奏は目を細め、うっとりするほど優しい笑みを返してくれた。
 「いいよ。オレも、必ず返事出すから―――友達として」

 

 冷めてしまった紅茶を飲み、ポツリポツリと年末年始のことなどを話して、2人は、喫茶店を出た。
 「一宮さん、これからまたお店なんですよね」
 「ああ」
 「次お邪魔する時は、一宮さん指名しますね。ちょっとでもお店での一宮さんの株が上がるように」
 「ハハ…、サンキュ。けど、氷室さんのが上手いよ、やっぱり。あんまり期待しないでおいてくれると助かる」
 上着のポケットに手を突っ込み、寒そうに首を竦めながら笑う奏を見上げながら、明日美は、不思議な感慨を覚えた。
 ―――不思議…。今の方が、見たかった一宮さんの顔が見れるなんて。
 皮肉な話だけれど―――恋愛感情が介在しては、上手く育めない……それが、奏と自分の運命なのかもしれない。
 「……そう言えば、1つ、言い忘れてたんですけど、」
 奏と並んで歩き出しながら、明日美は、今思い出したように切り出した。
 「咲夜さんに、伝言、お願いできますか?」
 「咲夜に?」
 首を傾げる奏に、明日美は、ちょっと気まずそうな顔をした。
 「…前に一度、咲夜さんに、失礼なことを言ってしまったんです。咲夜さんに好きな人がいる、って話を聞いて……一宮さんも、ご存知なんですよね?」
 「ああ、うん。それなりに」
 「それで―――咲夜さんが、その人のことを手に入れようとも独占しようとも思わない、って言ったから…わたし、どうしても納得いかなくて、思わず言っちゃったんです。“そんなの、本当に、恋なんですか?”…って。でも―――昨日、母から、素敵な言葉を教えてもらったんです」
 そこでちょっと間を置くと、明日美は薄く微笑み、奏を見上げた。
 「“恋は、自分を満たそうとすること。愛は、相手を満たそうとすること”」
 その言葉に―――奏の表情が、僅かに変わった。
 「自分が満たされるために相手を求めてしまう“恋”じゃなく、あるがままの相手を受け入れて、その存在そのものを愛しいと思う“愛”―――それを聞いて、ああ、咲夜さんの想いは、もしかしたら恋じゃなく愛なのかもしれない、って…そう、思ったんです」
 「…愛…、か」
 ちょっと考え込むような表情をして、奏が、その単語を繰り返す。伝わっただろうか―――明日美は、軽く首を傾け、もう一度奏に頼んだ。
 「機会があったら、咲夜さんに、伝えて下さいね」
 すると奏は、明日美に目を向け、微笑んだ。
 「わかった。…オレも、いい話聞けて、良かった」
 「……そうですか」
 良かった、伝わった―――それを確信して、明日美は、安堵したように笑った。


 手に入れようともがく“恋”じゃなく、あるがままのその人を、その存在そのものを愛しく思う心―――“愛”。

 一宮さん。
 わたしも、あなたを、そんな風に愛せるようになりたい。

 そして、あなたも―――“あの人”を、そんな風に愛せるようになれるといいですね。

 

***

 

 2つ並んだ窓が、ほぼ同時に開いた。

 12月。早朝の空気は、吸い込んだ肺を凍らせるかのように、冷たい。その冷たさに、奏はぶるっと身震いをし、咲夜は小さなくしゃみをひとつした。

 「…おはよ」
 「…おー…。寒いなぁ」
 「寒いねぇ…」
 鼻をぐずらせながら咲夜が答えると、煙草の箱に手を伸ばしていた奏が、心配そうに軽く眉をひそめた。
 「風邪ひいたんじゃないの、お前」
 「…どーだろ。勘弁して欲しいなぁ…今日もライブあるのに」
 「意外に呼吸器官系弱いよなぁ…。どっから出してんだよ、あのミラクルボイス」
 「別に、隠れた第2の口とか第3の喉とかは持ってないよ」
 「ある訳ないだろっ! こえーよっ」

 『えー、次のリクエスト曲は、世田谷区のSさんから。奥様との思い出の曲だそうで……今の季節にはお馴染みの曲ですね。“ホワイト・クリスマス”、お聴き下さい』

 奏と咲夜のどうでもいい会話の背後で、FMラジオが、『ホワイト・クリスマス』を流し始めた。
 奏は背後のラジオを振り返り、咲夜は隣の窓を覗き込む。そして同時に、
 「…クリスマスかー…」
 と呟いた。

 「そういやぁ、そろそろか」
 「すっかり忘れてたよ、クリスマスなんて」
 「…イギリス帰らないから、家族いないし」
 「…バカ親父がいるから、家戻らないし」
 「彼女もいないし」
 「どーせ永遠の片想いだし」

 クリスマスなんて、まるっきり無関係に等しい、このシチュエーション。
 ムードいっぱいの『ホワイト・クリスマス』を聴きながら、奏と咲夜は顔を見合わせ、苦笑を交わした。

 「あーあ…上手くいかねーなー…」
 「ほぉんと―――上手くいかないことだらけだね、世の中」


 もうすぐ、クリスマス―――奏がこの部屋にやってきてから、1年が過ぎていた。


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