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― 動き出す日常

 

 「―――だから、やっぱり年末年始は日本(こっち)に居残るよ。まとまった休み取ったら、そっち戻るから。……うん、ごめん。父さんいる時間帯にも、もう1回電話入れる。…あ、累は? ……ハハハ、そっか。手紙の返事、年内には出すって言っといて。ああ、それと、年明けに写真、送るから。さっき言ったショーの時、プライベートでだけど、成田が写真撮ってくれるんだ。オレが帰らないって聞いて、母さんたちが残念がるだろうから、せめて写真だけでも、って。って言っても、提案したのは蕾夏らしいけど…」
 「……うん…、連絡しなくて、悪かったよ。確かに、色々あったにはあったんだけど―――オレ1人で解決したかったから。……ん? …ああ、大丈夫。もう大丈夫だから。…オレさ…上手く言えないけど、少し楽になった気ぃしてるんだ。何が変わった訳でもないんだけど―――少しだけ、前に進めた気がする。だから…もう、心配しないで」
 「…ん、サンキュ。じゃあ、また時間見て電話するから」

 

 「―――…あ、お母さん? 私。今って大丈夫? …うん、あのさ、荷物、そっちに届いた? ……あ、ホント? そそ、クリスマス・プレゼント。大したもん買えなかったけど―――2人には当日まで内緒にしといて。…うん…あはは、うん、それでいいよ。……え? …あー、うん、でも…ごめん。やっぱ、やめとく。去年の二の舞じゃ、亘にも芽衣にも悪いじゃん。…うん…ほんとに、ごめん。電話だけは、ちゃんとする。とりあえず、亘と芽衣に、謝っておいてくれるかな。それと―――お父さんにも、一応」
 「……ん…、まだ、頭ではわかってても、気持ちの方が追いついてない感じなんだけど……なんだろう。許せない、よりも、ああ、哀れな奴、って方が勝ってきた…の、かな。…ま、私が直接話すと、多分、また喧嘩になっちゃうから―――ごめん、代わりに伝えておいて」
 「…うん……うん、わかった。じゃあ―――いいクリスマスを」


***


 「ど…どういう、こと…?」
 声を震わす由香理を流し見、真田は、いつもと何ら変わりのない笑顔を見せた。
 「あれ、佐久間は気に入らなかった? 俺と同じ営業1課で、つまりはうちの会社じゃエリートコースって訳だし。まぁ平凡ではあるけど、そう見苦しくないルックスだし? 結構お勧めだと思うけどなぁ」
 「……」
 足元がよろける。ふらついた由香理の背中に、給湯室の流し台の縁がトン、とぶつかった。

 12月に入ってから、真田との逢瀬は、完全に途絶えていた。
 忙しいから、という彼の言葉は、他の営業たちを見ていても嘘とは思えなかったし、由香理自身も、面白みのない部署なりに忙しかった。だから、真田からの誘いがないことは、あまり気にしないようにしていた。
 しかし、2週間以上全く音沙汰なしとなると、さすがに不安になってきた。それで昨日、由香理の方から真田に連絡を入れ、夕飯だけでも付き合えないか、と言ったのだ。
 結果、待ち合わせ場所に現れたのは、由香理とは同期の、真田と同じ1課の営業マン・佐久間。
 確かに真田の言う通り、1課配属になったということはエリートコースに乗っているのだろうが、出身校も見た目も極々平凡、あまりピンとこないタイプの男である。2度ほど飲み会で同席しており、向こうは結構興味ありそうな様子だったが、由香理からすれば眼中には全くなかった。
 『真田さん、取引先との飲み会が入っちゃったんで』
 照れた様子でそう言う佐久間の様子に、彼が真田から頼まれてここに来たのだと、本能的にわかった。一応笑顔で適当に誤魔化し、店に入ることすらせず別れたが、真田が一体どういうつもりで佐久間を寄こしたのかを考えると、嫌な予感で由香理の頭はパンクしそうだった。
 そして今日。
 耐え兼ねて、1課に真田を訪ねた挙句、給湯室に連れてこられて、真田からぶつけられた言葉。
 “佐久間も悪くないんじゃないかと思ってさ”―――信じられない、いや、信じたくない言葉だった。

 「年末で、俺も忙しいしねぇ。女と仕事の板ばさみになるのも、結構キツイし」
 「……」
 「友永さんも、あんまり俺と親しくしすぎると、売約済みと勘違いされて後々困ることになるよ? ホラ、もうすぐクリスマスだし? さっぱり時間の取れない俺を待ってる暇があるなら、他探せばよかったのに」
 「…わ…たし、真田さんと付き合いながら他を探すほど、器用じゃないわ」
 由香理がやっとの思いでそう言うと、真田は一瞬目を丸くし、それから極めて明るい苦笑を漏らした。
 「付き合いながら、って―――やだなぁ、そういうんじゃないだろ? 俺たちは」
 「―――…」
 「仕事の愚痴を吐きあったり、フリー同士、慰めあったりさ。セックスありの友達、っていうの? 俺も結構気に入ってたけどね、こういう関係。でも、仕事や恋愛の方が大事なんじゃないかな。いい機会だから、そろそろやめた方がいいよ、お互いに」
 ―――な…に…、それ…。
 あまりのことに、言葉も出てこない。
 いや、それ以上に―――反論、できない。
 確かに、好きだと言われたこともなければ、こちらから言った覚えもない。話題も会社のことが大半で、お互いのプライベートにはほとんど触れたことがない。いや……真田と過ごす時間は、基本的に「真田が喋る時間」であり、由香理はただひたすら聞き役でいることが多かった。そんな関係を、「付き合ってた」と言えるのか―――そう問われれば、反論できない。
 …でも。
 「でも…っ」
 そう呟いてみても、続きが、出てこなかった。由香理は、怒りともショックともつかない感情に身震いしながら、真田の、普段となんら変わらない顔を凝視することしかできなかった。
 「……っと、そろそろ戻らないとヤバイな。じゃ、また」
 チラリと腕時計に視線を走らせた真田は、あっさりそう言い残し、給湯室を出て行ってしまった。


 ―――なんだか、悪い夢でも見てるみたい…。
 フラフラと給湯室を出て、廊下を歩く。先に出た真田の姿は、とうの昔にそこにはなかった。
 まだあと8時間、仕事をこなさなくてはいけないのか、と思うと、真田を問い詰めるのは定時後にすればよかった、なんて馬鹿な後悔が頭を過ぎる。だるい、疲れた―――けれど、不思議と涙は出てこない。

 唐突すぎる幕切れだった。
 けれど、プライドを傷つけられた悔しさと怒りは感じても、失恋の痛みは、感じなかった。

 …いや。
 失恋の痛みなど―――本当の恋を知らない由香理が、知る筈もなかった。

***

 やっとの思いで仕事をこなし、智絵を無理矢理誘って空元気で夕食をとり―――由香理が帰宅したのは、真田と会う日よりずっと早い、夜10時前だった。

 「……っ」
 駅からアパートに向かう途中、僅か3メートル前を歩く後姿気づき、思わず一瞬、足を止める。
 今はやりとは到底思えない、やぼったい紺色のダッフルコート。決して背が高い方じゃないのに、背中を丸めているから余計小柄に見えてしまうその後姿は、間違いなく、隣に住む大学生だった。
 ―――やだ、タイミング悪…。
 知らず、眉をひそめる。
 純粋無垢でいかにも晩熟(おくて)そうな彼の顔を見る時、由香理の胸に湧いてくる思いは、いつも後ろめたさと劣等感だった。真田に初めて誘われた日も、偶然彼に会ってしまい、非常に気まずい思いをした。今日も、こんな精神状態で彼の顔を見たら、あの時以上の気まずさと劣等感を感じてしまいそうな気がする。
 ゆっくり歩いて、距離を取っておこう―――そう考え、由香理は、歩く速度を極端に落としたのだが。
 ヒールの音に気づいたのか、彼は突然、振り返った。
 「―――…っ!」
 「…あ…れ、友永、さん?」
 眼鏡をかけている癖に、妙に夜目が利く。つくづく、厄介な奴―――内心、舌打ちしたい気分になりつつも、由香理はひきつった笑顔を顔の表面に貼り付かせた。
 「こ…こんばんは」
 声も聞いて、相手が由香理だと確信したのだろう。少年は、街灯の下でもはっきりわかるほどに顔を赤らめ、いきなり挙動不審になった。
 「どっ、どっ、どうもっ。こここんばんは」
 「……」
 ―――やっぱり、苦手だわ。
 やめて欲しい。そんな、少女漫画の脇役でしかあり得ないような、絵に描いたような「恋する少年」ぶりは。
 でも―――真田にプライドをズタズタに傷つけられたばかりの由香理にとって、笑ってしまうほどに自分への恋心を露わにする優也は、由香理の失いかけた自信をくすぐってくれる、痛手を癒してくれる相手でもあった。いつもよりは苛立ちを感じないことに気づいた由香理は、幾分、自然な笑顔になり、優也の隣へと歩み寄った。
 「奇遇ね。君にしては遅いんじゃない? コンパか何か?」
 「…い…いえ、その、アルバイトです」
 「ふぅん。何やってるの、アルバイトって」
 「家庭教師、です」
 「へぇ。頭いいんだ」
 そう言えば、高校を2年間で卒業し、17歳で大学に進学した天才少年だ、と、誰かの噂で聞いた気がする。そう考えて改めて見ると、優也の顔は、いかにも頭が良さそうな顔だ。というより―――勉強「だけ」はできそうな顔だろう。彼がファーストフードやコンビニでアルバイトをする姿は、まるで想像がつかない。
 「そんな頭良くて、将来って何になるの?」
 優也と並んで歩きつつ、何の気なしに、由香理がそう訊ねる。
 すると優也は、キョトリと目を丸くし、続いて、ちょっと眉を寄せて考え込んだ。
 「一応…数学の研究者になろうと思ってるんですけど…」
 「…はあ…天才らしいお答えね」
 皮肉っぽく由香理が言うと、優也は暫し黙り込み、それからポツリと呟いた。
 「でも、最近―――極普通の会社員に、憧れてるんです」
 「え?」
 ―――普通の会社員に?
 予想外な答えに、今度は由香理が目を丸くした。
 「なんだってそんな、つまらないものに―――数学者を目指すほどの頭脳があるなら、ノーベル賞とか大学教授とか、もっと憧れるべきものがあるんじゃない?」
 「…って、父からも言われてきたんですけど……最近、そんなの、面白くも何ともないかな、って思えて」
 「…どうして?」
 「なんでかな。…よくわからないけど」
 そう言うと優也は、ちょっと俯き、アスファルトを蹴る自分のスニーカーのつま先を見つめた。
 「研究して、誰も解けなかった問題を解く、とか、新しい発見をする、とか―――そりゃ、その世界で見たら凄いことで、後々何かの発明に繋がったりする、尊い仕事なのかもしれないけど……父が目指せと言う理由は、誰かの役に立つためじゃなく、結局、肩書きとか名誉とか、そういうのなんだろうな、ってことに気づいてきて」
 「……」
 「そういうのって結局、自己満足でしょう? だから、そんな肩書きや名誉を欲しがって、この先の人生、ずっと“勉強”ばっかりしていくより―――極々平凡な人生でも、ちょっとしたことにやりがい見つけたり、大切な人を守るために必死に働いたりできる人間の方が、カッコイイ気がするんです。僕は、特別扱いの自分に、ずっと自信が持てずにいるような奴だから―――…」
 そこで言葉を切った優也は、顔を上げ、由香理に微かに微笑んだ。
 「肩書きも名誉もない、極々平凡な人間であることに自信が持てる人間が、凄くカッコイイと思うんです」
 「―――…」

 なんで―――…この子は……。
 なんだってこの子は、いつも、私が目を背けようとしていることばかり、こうも色鮮やかに私に見せつけるんだろう…。

 由香理の根底をグラグラ揺さぶるような内容に、由香理は耐え切れず、目を逸らした。
 「…ふぅん…、そう」
 何気ない様子で、そう相槌を打ち、そのまま―――アパートに着くまで、何も喋らなかった。


***


 氷室から聞かされた話に、奏は、グラスを持つ手を止め、思わず目を丸くした。
 「け…結婚? 星さんが?」
 「うん。週明けには、正式に発表あると思うけど」
 「……」
 知らなかった。
 というより―――星に付き合っている男がいること自体、全く知らなかった。だが、呆然とする奏の向かい側で、氷室はいたって涼しい顔だ。
 「もしかして…氷室さん、知ってたのかよ。星さんにそういう男がいるの」
 「ん? ああ、まあ、一応は」
 「…オレ、全然知らなかった…」
 「…っていうより、奏、ここ最近、他人の動向に意識が全然行ってなかったんじゃないか? 自分のことで精一杯で」
 少し呆れ気味に氷室に言われ、ぐっ、と言葉に詰まる。
 確かに―――プライベートがいっぱいいっぱいで、色々と注意力散漫になっていた気がする。仕事でも、交友関係でも。最近、テンがやたら積極的に客を取りに行っているのを横目で見て、オレもこんな風じゃまずいよな、とちょうど思っていたところなのだ。だから、氷室の的確すぎる一言が、結構グサリと胸に刺さる。
 「…悪かったよ。色々心配かけてたみたいで」
 明日美とのことは、店の連中の前で口に出した覚えはないが、明日美が客なだけに、周囲もなんとなくわかっていたのだろう。でも―――今日、普通に店に現れ、普通に奏を指名し、にこやかに帰って行った明日美を見て、氷室たちも、2人の間にきっちり線引きされたことを感じ取ったらしい。あれからたった3、4日で、客として自然に店に来てくれた明日美にも感謝したが、明日美を見送った後、「良かったな」と氷室にこっそり囁かれ、ああ、周りにも心配かけてたんだな、と改めて申し訳ない気分になった。
 「はは、そんな気まずそうな顔するなって。僕にしろテンにしろ星さんにしろ、心配2割興味8割で見守ってただけだから」
 「……」
 ―――そういう奴らだよ、あんた達は。
 「それで!? 星さん、いつ結婚するって!?」
 機嫌を損ねたように眉を顰めて奏が言うと、くすくす笑った氷室は、カクテルを一口飲んで、テーブルに並べられた料理に手を伸ばした。
 「うん―――あんまり細かいことは聞いてないけど、もしかしたら結婚を機に、店を辞めるかもしれないって」
 「えっ。なんでまた…。星さん抜けられたら、店のダメージもデカいだろ」
 「ああ。でも……相手がメーカーの人だからね。黒川さんが他のメーカーと提携してる以上、やっぱりやり難いみたいで」
 「…って、もしかして相手の男、前の職場の人?」
 「そう。もう5年の付き合いらしいよ」
 元々は化粧品メーカーの専属メイクだった星だ。その頃出会い、交際を続けてきた、ということらしい。ということは、奏が星と知り合った時には、既にその男と付き合っていた訳で―――丸1年と5ヶ月あまり、奏はその事実を全然知らなかった、ということになる。
 「…ここ最近、云々、て問題じゃなさそうだな、オレ…」
 「…基本的に、他人にあんまり興味ないんじゃないか?」
 「そ、そんなことないって! ただ、星さんはちょっと、ポーカーフェイスっていうか…。同じ女でも、テンなんかは結構わかりやすいから、何かあればすぐ―――…」
 そう反論しかけた奏は、ふとあることを思い出し、ちょっと眉をひそめた。
 「―――そう言えばテン、最近、ちょっと変だよな」
 「えっ、そうか?」
 今度は、氷室の方がキョトンとした顔をする。
 「態度が変だろ? 特に、星さんに対して」
 「え…、そうだったか? 全然気づかなかったけど」
 ―――おいおい…マジで氷室さん、気づいてないのか?
 思わず、呆れた目で氷室の顔を見つめてしまう。星の結婚より、テンの異変の方が、気づいているスタッフは絶対多い筈だ。自分も相当ぼーっとしてるとは思うが、氷室も負けていないかもしれない。

 最近のテンは、星に対して、異様に刺々しい態度をとる。
 以前はむしろ、女同士仲良くやっている、姉妹のような感じだったのに―――今の態度は、あからさまに星をライバル視しているような感じだ。
 奏はそれを、最初、見習いという立場を離れたせいだと思っていた。事実、奏と氷室だって、先輩後輩という立場は変わらないものの、正スタッフという意味では同等の立場…つまり、ライバルである。それと同じように、テンと星も、同じ土俵で競い合うライバルになったのだから、テンはそれを意識しすぎて妙な態度になってしまっているのではないか……そんな風に思っていた。
 でも―――ここ2、3日で、その考えは生ぬるいのかもしれない、と思うようになった。
 星からランチに誘われたテンが、その誘いを断る現場を、目撃してしまったのだ。
 『ウチ、昼時間ずらしますから。星さん、先行って下さい』
 内容だけ聞けば単に星を気遣って遠慮したようにも思えるが、そう言ったテンの表情は、ニコリともしていなかった。それどころか―――星の顔すら見ていなかった。

 「まあ、相手が星さんなら、大丈夫だろう。あの人以上にテンの扱い上手い人、いないし」
 さして重要な問題とも思っていないのか、氷室は、生ハムのサラダをもぐもぐ食べながら、サラリとそう言った。
 「案外テンも、星さんから結婚の話聞いてて、それで本気出してるだけかもしれないよ。星さんが抜けるのは、店からすれば大打撃だけど、他のスタッフからすれば、自分のランクを上げる絶好のチャンスなんだから」
 「…うーん…」
 「お前もテンに負けるなよ」
 氷室に軽く睨まれ、奏は首を竦め、取り分けたパスタをフォークに巻きつけた。
 まあ、確かに―――星が抜けるのは痛いが、テンや自分にとっては大きなチャンスだ。いや、自分達下っ端だけじゃない、ナンバー2である氷室も、それ以外のスタッフも、星目当てで来ていた客を自分が獲得しようと考えている筈だ。というより……誰かが絶対に、獲得しなければならない。なんとしても。それができなければ、星目当ての客をごっそり失うことになるのだから。
 本気で、2つの仕事の配分を大きく変える時期なのかもしれない―――奏がそんなことを考えた時、店内に流れていたジャズの音色が一気に小さくなった。
 「…あ、始まるな」
 「ああ」
 ヒソヒソと言い合った奏と氷室は、パスタやサラダを口の中に押し込み、ステージの方へ向き直った。

 クリスマスを4日後に控えた週末ということもあり、“Jonny's Club”の店内は、クリスマス仕様の飾りつけが施されていた。
 先週の今日、ここを1人で訪れた時は、こんなものを見た記憶がない。咲夜の話では、クリスマス前1週間限定の、特別仕様なのだそうだ。氷室の気まぐれに付き合って、2週連続で来てしまったが、1年で7日間しか見られない飾りつけを見られたので、結構ラッキーだったかもしれない。
 いつもならピアノとウッドベース、それにマイクスタンドしかない筈のステージにも、ピアノに寄り添うように、クリスマスツリーが置かれている。まだライトがついていないステージの上、店内の照明が絞られると、ツリーに巻かれた電飾でピアノの周りが幻想的に浮かび上がって見えた。
 そんな中―――ライトもつけないまま、ピアノの音が、店内に響いた。

 「I'm dreaming of a white christmas... Just like the ones i used to know......」

 ピアノに続き、咲夜の歌声が響く。
 『White Christmas』――― 一昨日の朝、ラジオから聴こえた曲だ。その時の会話を思い出し、奏は思わず苦笑した。
 ウッドベースが入ると共に、次第に、ステージ上のライトが明るくなっていく。いつもとは違う趣向のステージは、やはりクリスマス仕様らしい。奏はフォークを置き、ジャズ風味の『White Christmas』を堪能することにした。

 ライトが完全につくと、間奏の間に奏の姿を見つけた咲夜は、ちょっと驚いた顔をした。まさか2週連続で来るとは思わなかったのだろう。奏自身、予定外のことなのだから、咲夜が驚くのも当然だ。
 バツが悪そうに笑って奏が手を挙げると、咲夜もクスリと笑い返した。そして、ピアノを弾く一成の耳元に何事かを囁いた。多分、奏が来ていることを伝えたのだろう。一成も、ピアノを引きながらチラリとこちらを振り向き、小声で何かを咲夜に返した。
 「……あ、やっぱり」
 その時、氷室が唐突に、小さな声でそう呟いた。
 その声に、ステージから氷室に視線を移すと、氷室はステージ上をじっと見つめて、何度か頷いていた。視線の先には――― 一成の傍から離れ、またマイクスタンドを握っている咲夜の姿がある。
 「やっぱり、って?」
 演奏の邪魔にならないよう、小声で奏が訊ねると、氷室は、ステージを見つめたまま答えた。
 「実は、確信なかったから言わなかったけど―――今日ここに来たいって言ったの、あの2人の顔、確認するためだったんだ」
 あの2人、とは、やっぱり―――咲夜と、一成のことだろう。この流れからすると。
 「…なんで?」
 「いや、それが……先週の日曜に、水族館であの2人見かけたんだよ。偶然に」
 「……」
 「僕も1度しか会ってないから、確証なかったけど……うん、間違いない。あの2人だ」
 「…まあ…仲間同士だし、休みに水族館行くことだって、あるんじゃない?」
 ちょっと微妙な気分で奏が言うと、氷室はようやく奏の方に目を向け、軽く眉をひそめた。
 「でも、どう見ても、付き合ってる恋人同士っぽかったけど?」
 「…え?」

 ―――恋人同士っぽい?

 パチパチと目を瞬いた奏は、暫し氷室の顔を見つめた。眉をひそめた氷室の顔は、冗談や嘘を言っている顔ではなさそうだ。
 一体、どういうことだろう―――再びステージに視線を戻した奏は、さっきまでとは違った心持ちで、ステージに立つ2人を眺めた。

***

 ライブを終えると、咲夜は、一成と共に奏と氷室のテーブルにやってきた。
 「お久しぶりですー、氷室さん」
 「どうも、久しぶり」
 にこやかに挨拶する咲夜に、氷室も笑顔で挨拶した。一成の方は、相変わらず口数が少ないらしく、奏に対しても氷室に対しても、決まりが悪そうに会釈するのみだった。
 「何、今日は2人揃って。今朝、来るなんて一言も言ってなかったのにさ」
 「あ…、いや、氷室さんとどっか食いに行くか、って話になって―――いい店、思い浮かばなくて、ついつい。ハハハ」
 「ふーん。レパートリー少ないね、奏」
 「…うっせーよ」
 氷室の話を聞いてしまったとはいえ、そんなことをこの場で言う訳にもいかない。人の立場も知らないで―――奏は咲夜を軽く睨み、残り少なくなっていたビールをくいっ、と飲み干した。
 「もう帰っちゃう? まだ少しいるなら、私も一成もほとんど食べてないんで、軽くご一緒させてもらおうかと思ったんだけど」
 「まだいるよ。食いもん残ってるし。…な?」
 奏が目を向け確認すると、氷室も頷いた。
 「ちょっと電話入れるとこあるから、電話してくるけど、まだ暫く飲ませてもらうよ」
 「そっか、良かった。じゃあ私、ダッシュで着替えてくるね」
 そう言うと、咲夜はポン、と一成の肩を叩き、小声で「一成の荷物、持って来よっか」と確認した。頼む、と言う一成に笑顔で応えた咲夜は、急ぎ、“STAFF ONLY”のドアの向こうへと消えた。
 氷室も、咲夜が戻ってくる前に、と言って、何の用事かわからない電話をかけに、一旦店の外に出てしまった。
 「……」
 残された形の奏と一成が、なんとなく、顔を見合わせる。
 なんだかわからない気まずさが、一瞬漂ったが―――ちょうどそこに、オーダーを取りにウェイターが来た。2人は、なんとなくホッとしながら、同じ銘柄のビールを注文した。
 ―――考えてみれば、今が絶好のチャンスだよな…。
 斜め前の席に腰を下ろす一成を見ながら、ふと、そういう考えが頭を過ぎる。
 この話題は、なんとなく、咲夜は簡単には本当のことを言いそうにない予感がする。かといって、氷室が戻ってきてからでは訊き難い。少々唐突だが、訊いてしまった方がいいだろう―――咳払いした奏は、思い切って口火を切った。
 「…なあ、藤堂」
 奏に話しかけられ、一成の目がこちらを向く。
 「その…変なことを訊くようで、悪いんだけど―――さっき、氷室さんから妙な話、聞いたもんだから…ちょっと、気になって」
 「妙な話?」
 「うん。なんでも……この前の日曜日に、咲夜と藤堂を、水族館で見た、って」
 「……っ」
 途端、冷静だった一成の目が、明らかに狼狽したものに変わった。
 げ、本当だったのか―――どう見てもその話を肯定している一成の態度に、奏はヒヤリとした汗が額に浮かぶのを感じた。
 「な…んか、恋人同士にしか見えなかった、っつー話なんだ、けど…」
 「…いや、その…」
 狼狽した一成の顔が、ほんの僅かに紅潮する。困ったような、怒ったような顔で視線を逸らした一成は、参ったな、と呟きながら、その短い髪を掻き毟った。
 「まさか、知り合いがいるなんて……」
 「…じゃあ、やっぱ、お前と咲夜だったんだ」
 「……」
 「…なあ。お前ら、一体どーなってんの?」
 奏が訊ねると、一成は逸らしていた目を戻し、今度は不審気に眉をひそめた。
 「―――咲夜から、何も聞いてないのか? 一宮は」
 「は……?」
 聞いてないのか、って―――何を?
 当然知っているものとばかり思っていた、とでも言いたげな一成の目に、奏の方も、眉をひそめた。


 一成は、咲夜や氷室が戻ってくるまでの、短い間に、実に端的に事情を説明してくれた。
 全て初耳ばかりの話に、奏はずっと、目を丸くしたままだった。
 そして、全ての話を聞き終わった時―――ある事実に気づいた奏の背中に、先ほどとは違う種類の冷や汗が伝った。

***

 「―――…ごめんな、この前」
 「は?」
 一成や氷室と別れた帰り道、2人だけになるなり、突如謝ってきた奏に、咲夜はまさに「は?」という顔をした。
 「何、ごめん、って」
 「…藤堂から、聞いた。先週までのこと」
 「……」
 途端―――咲夜の顔色が、明らかに変わった。
 「…え…?」
 「実は―――氷室さんが、偶然、居合わせちゃったらしいんだよ。お前と藤堂の“1日限定デート”。それで…さっき、お前が着替えに行って、氷室さんも席外してた時に、藤堂に訊いたんだ。どういうことなのか、って」
 「……」
 「…先週の日曜っていったら、オレが……蕾夏とのこと、咲夜に話した、翌日だろ?」
 あまりの気まずさに、奏は口元に手を置き、ボソボソと続けた。
 「知らなかったとはいえ―――悪かった。お前の方も、相当悩んでただろうに……オレ、全然気づかずに、自分のことばっかり…」
 「や…やだな、もう! そんなこと位で!」
 まだ動揺しながらも、咲夜はぎこちない笑い方をして、バン! と奏の背中を叩いた。
 「気にしなくていいって、そんなの! 奏がそんな落ち込んだ顔するような話じゃないじゃん」
 「…でも、話した内容が、内容なだけに―――だってお前、その…藤堂に、いきなり襲われかけたんだろ?」
 「……ッ、ちょ、一成、そんな話までしたの!?」
 「……」
 奏の無言に、「Yes」の意味を感じ取ったのだろう。ギョッとしたように目を見開いていた咲夜は、はあぁ、とため息をつき、ガクリとうな垂れた。
 「…一成のバカ…」
 「…や、なんで気まずくなったのか、そこんとこオレが細々問い質したから。藤堂は律儀に答えてくれただけだから、あいつを責めんなよ」
 「…もー、奏が知ったら、絶対、結びつけてへこむだろうな、と思ったんだよなぁ…」
 そう言うと咲夜は、傍にあった街灯にもたれかかり、また大きなため息をついた。奏も足を止め、ダウンジャケットの襟を掻き合せた。
 「大体さぁ…、咲夜もみずくさいんじゃねーの? そりゃ、途中喧嘩みたいなこともしてて、相談するどころじゃなかったんだろうけど……1ヶ月も、何ひとつ知らなかったんだぜ? オレは。オレと明日美ちゃんの話はこと細かに把握されてて、オレの方はなーんにも知らされてなかった、って思うと、結構不公平な気ぃしてくるぞ」
 「…しょーがないじゃん。なんか言い難かったし、一成との間のゴタゴタを、奏との間に持ち込みたくなかったんだもの」
 唇を尖らせて咲夜がブツブツ言った言葉に、奏はまだちょっと拗ねつつも、その気持ちは少しわかる気がした。
 奏自身も、途中から、明日美との間のことを咲夜に話さなくなった。2人の間に、明日美との問題を持ち込みたくない―――という、咲夜と同じ理由から。
 自分が相談するばかりで、咲夜からは何ひとつ相談してもらえなかった、という点はやっぱり残念だし恥ずかしいしちょっとムカつかないでもないが―――黙っていた咲夜の気持ちも多少理解できたので、奏はそれ以上、そのことで咲夜に文句を言うのはやめておいた。


 『あの時―――驚いた。咲夜が、俺のこと、抱きしめてきたから。あの瞬間、咲夜が“1日だけ、俺の恋人になって、俺を受け入れる”って言った言葉が、単なる言葉だけのことじゃなかった、ってわかった。…好きだ、って伝えた想いが、拒絶されたんじゃなく、ちゃんと受け入れてもらえた、って思えた。…敵わないよな、ほんとに』

 さきほど、一成が言っていた言葉が、頭に蘇る。

 自ら想いを断ち切り、たった数日で友人として店を訪れてくれた明日美しかり。好きな相手がいながらも、ただ拒絶しただけでは気まずさしか残らないから、と一度一成を受け入れる決意をした咲夜しかり。
 男がうじうじと悩んでいる間に、女はいつの間にか、男じゃ絶対思いつかないようなことを決意し、迷うことなく行動に移す。ついさっきまで泣いて落ち込んで怯えていたのは、むしろ女の方だったのに。
 凄いよなぁ、女って―――奏と一成は、密かに、そんな話をしていたのだ。咲夜が戻ってくる前に。

 でも。
 そんな、凄い生き物である“女”も、ただ強いばかりではないだろうことは、奏にもわかっているので。


 「次、何かあったら、絶対オレに相談しろよ」
 少し睨むようにして、そう念を押す。
 顔を上げた咲夜は、苦笑し、
 「わかった」
 と答えた。

 これで、借りがひとつ。
 その分も、次に咲夜が窮地に立たされたり思い悩んだ時は、誰よりもまず自分が力にならなくては―――咲夜に懺悔を聞いてもらったことで、ひとつ、心の重荷を下ろせた気がしていた奏は、口には出さず、そう誓っていた。

***

 週明け月曜日は祝日だったが、“Studio K.K.”は営業日だった。
 氷室の言っていたとおり、朝のミーティングで、星の結婚と、店を辞めるかもしれない可能性についての報告がなされた。
 「看板スタッフの星がいなくなると、店としても厳しい状況になる。まだ辞めると決まった訳じゃないが、みんなもその点、頭の片隅には置いとくように」
 星の結婚に関しても寝耳に水だったらしいスタッフたちは、店長の言葉に表情を引き締め、「わかりました」と答えた。奏もそう答えつつ、テンの反応が気になって、少し離れた所にいるテンの顔をそっと窺った。
 ―――うーん…、テンも知らなかったっぽいな…。
 テンの驚いたような顔を確認し、首を捻る。氷室が言っていた、星の結婚を知っていて本気モードになっているだけ、という説も、それではあり得ないことになる。じゃあ一体、テンの不可思議な変化は、何が原因なのだろう?


 「一宮君」
 ミーティング後、珍しく星が声をかけてきた。タオルの準備をしようとしていた奏は、手を止め、振り返った。
 「今日2時から、岩田様のご予約が入ってるの。もし手が空いてるようなら―――ちょっと、一緒にやってもらえるかしら」
 「え…、それって」
 「…まだ、辞めるって決まった訳じゃないけど、念のため……ね」
 つまり、岩田様の引継ぎを、今のうちから始めておこう、という訳だ。来店頻度の高い上客であることは、奏も承知している。さすがに、奏もちょっと緊張の面持ちになった。
 「次のオレの予約が2時半からなんで、30分なら」
 「ん…、じゃあ、お願いね」
 「はい」
 ポン、と奏の肩を叩き、一旦立ち去りかけた星だったが―――何かを思い出したのか、ふいに足を止め、振り返った。
 「あ―――そう言えば、この前から一宮君に訊きたいことがあったんだったわ」
 「訊きたいこと?」
 「大したことじゃないんだけど……」
 そう言うと星は、若干声のボリュームを落とし、奏の耳元に口を近づけた。
 「……前に、一宮君の隣に住んでる女の子が、ジャズライブをやってる店、連れて行ってもらったわよね」
 「? ああ、うん。それが何?」
 「実はこの前、あの女の子と、あの時ピアノ弾いてた男の人が、水族館でデートしてる現場に出くわしちゃったんだけど―――もしかしてあの2人って、付き合ってるの?」
 「―――…」

 ―――あれ?

 瞬間。
 大きな大きなクエッションマークが、奏の頭の中に、ぽん、と浮かんだ。

 「…あ…っ、その、別に、ただ興味があっただけで、どうしても知りたい訳じゃないんだけど、ね」
 「……」
 「一宮君?」
 怪訝そうな星の声で、我に返った。
 「……あ、ご、ごめん」
 「どうかした?」
 「い、いや。……ええと、それって、先週の日曜の話? だったら、ちょっと事情があって行っただけで、別に付き合ってるとかそういうんじゃないから」
 「あら、そうなの?」
 「ああ。オレもその事情、聞いてるし」
 「そうなの。ふぅん…。結構お似合いに見えたのに、残念ね」
 ―――どう返せっていうんだよ、そのセリフ。
 事情を知る奏からすれば洒落にならない星の言葉に、奏は引きつった笑顔だけで答えた。本当にただ興味があっただけだったのか、星は奏の答えをすんなり受け入れ、笑顔で去って行ってしまった。


 「…………」

 星さんが結婚する相手は、前の化粧品メーカーの人で、5年の付き合いで。
 咲夜と藤堂がデートしたのは、先週の日曜日、1日限りで。
 そのたった1日、数時間だけのデートを、氷室さんも、星さんも、偶然目撃していた…らしい。

 「―――…はい????」

 …なにやら、とてつもなく嫌な予感を覚えて―――奏は、ぶるっ、と身震いした。


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