Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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ビルを掠めるかのような迫力で、飛行機が頭上を横切った。
ゴゴゴ…、という轟音で、奏が口にした言葉は掻き消された。代わりに、ファインダーから目を外した瑞樹の小さな舌打ちが、轟音に紛れて耳に届く。
「何? なんか、まずかった?」
煙草に火をつけつつ奏が訊ねると、風に乱れた髪を掻き上げた瑞樹は、ため息と共にフェンスに寄りかかった。
「太陽に、邪魔された」
「…ああ、なるほどね」
空は、冬とは思えぬほど高く、すっきり澄み渡っている。見上げた奏も、眩しさに思わず目を眇め、手で太陽の光を遮った。
年が明けて、三が日最終日の、3日。奏は、2003年の初仕事のため、羽田にほど近いこの会場を訪れていた。中森和泉という、最近の若手では注目株のデザイナーの新春ファッションショーが、その初仕事である。
年末年始も日本で仕事を続ける奏の様子に、ロンドンで暮らす奏の両親のことを瑞樹が気遣い、今日のショーの様子を写真に撮ってやる、と申し出てくれた。プロにそんな私用を頼むなんて、と遠慮した奏だったが―――蕾夏のアイディアだ、と聞かされては、黙るしかない。恐縮しつつも、お願いすることにした。
正直、瑞樹に会うのは、ちょっと怖かった。
電話などではちょくちょく話はしていたが、こうして実際に顔を合わせるのは、実は今日が1ヵ月半ぶりのことだ。…そう、あの日から―――瑞樹の留守を承知で蕾夏のもとへ押しかけ、その手を握りしめて泣いたあの日から、まだ1度も会っていなかったのだ。
きっと、蕾夏からもそのことは聞いているだろう。自分の不在中の奏の行動を、瑞樹はどう思っただろう? …それを思うと、かなり不安だった。何故なら、そのシチュエーションは―――かつて、奏が蕾夏を傷つけた時のものと、どことなく重なるものだったから。
勿論、電話では謝罪した。明日美との顛末と合わせ、全てを包み隠さず話して。すると、それを聞いた瑞樹は、さしたる文句も言わず、ただ一言、こう言ったのだ。
『…ま、次会う時、覚えとけ』
今朝、会場の入り口で久々に実際に顔を合わせた瑞樹は、目が合った数秒後、パコン、と奏の頭を叩いた。
『テイク・オフ直後の飛行機を、真下から撮りたい。協力しろ』
それだけ。
本当に―――それだけだった。
ショーの会場の、一般開放されていない屋上―――瑞樹のリクエストに応じて、関係者権限で上らせてもらったが、この後着替えだのメイクだのが控えている奏には、もうあまり時間がなかった。
「オレ、あと10分位で行かないとまずいから、もし撮れなかったら、あんただけ居残れるようにバックパス渡しておくよ」
灰を灰皿に落としながら奏が言うと、手元の一眼レフを弄んでいた瑞樹は、顔を上げ、僅かに口の端を上げた。
「同じミスは繰り返さねーよ。10分あれば、十分だ」
「…ふぅん」
さっきの失敗で、光を気にせず撮れる角度は、もう頭の中で計算済みなのだろう。これでまた失敗したら大笑いしてやれるところだが―――この男に限って、それはないに違いない。腹が立つほど有言実行、不可能なことは口にしないし、口にした以上は必ずそれを実現する奴だから。
「そういえば、成田は、帰省とかしないの」
「いや。いつもは帰ってる」
「いつもは?」
「今年は、親父が東京に出てきてる」
「えっ」
サラリと口にされた言葉に、奏は目を見開き、口にくわえかけた煙草を思わず元に戻した。
「じゃあ、親父さんほったらかしで、オレの写真撮りに来たのかよ!? ま、まずいじゃん」
瑞樹には、母親はいない。中学生の時に離婚した上、今から2年ほど前に他界した。妹は母の方に引き取られ、既に結婚している。実質、瑞樹にとって父親だけが家族の筈だ。滅多に会うこともないのだから、上京している時くらいはそっちを優先するべきなんじゃなかろうか。
だが、瑞樹は涼しい顔のまま、肩を竦めた。
「ああ、それは、大丈夫。全然ほったらかしじゃねーし」
「は?」
「親父が泊まってんの、蕾夏の実家だから」
「……」
蕾夏の実家は、どこだか知らないが、都内から電車で1時間ほどの所にあると以前聞いた。一人娘の蕾夏が家を出てしまったので、夫婦2人で住んでいる筈だ。
「今日は親父2人でどこだかの川に“初釣り”に行ってるらしい。蕾夏は母娘で“初売り”で福袋買ってる」
「…まさか、親父さんが上京したのも、成田より蕾夏の親父さんとの釣りがメイン?」
「かもな」
…平和な図ではあるが―――なんだか、不思議な図でもある。瑞樹と蕾夏が籍を入れていない、つまり、まだ両家が「家族」じゃないだけに、余計妙な感じだ。
でも、よかった―――奏は、僅かに微笑んだ。
産みの母に捨てられた、というバックボーンを持つ奏ではあるが、生後数日で千里と淳也に引き取られたので、血の繋がりとは無関係に、自分の生まれ育ちは非常に恵まれていて幸せだった、と思える。比べて、瑞樹は―――実の両親に育てられていながら、その幼少時代は、目を覆いたくなるほど、悲惨だった。偶然にも、そうした瑞樹の過去を知る立場となってしまった奏は、父親や蕾夏の両親のことを穏やかに話す瑞樹の姿に、ちょっとした感慨を覚えずにはいられなかった。
―――…そういえば…、咲夜って、ちょっと成田っぽいとこ、あるかもしれないな。
再び煙草を口にしながら、ふと、そんなことを思う。
母親と反目していた瑞樹同様、咲夜も父親と反目し、深い孤独と憤りを人知れず抱えている。その表面からは窺い知ることのできない深い闇を内に秘めながら―――その欠片さえ、顔には出さない。そんなもの、何でもないさ、という顔をして、飄々と風のように生きている。そんなところが、咲夜と瑞樹の共通項のような気がする。
苦しい恋や2つの職業という、自分自身と重なる部分に対するシンパシーが、咲夜を気にかける理由だと思っていたが……基本的に自分は、こういうタイプに弱いのかもしれない。そんなことを思い、内心苦笑した。
その時、屋上のコンクリートを揺らすほどの轟音が、再び轟いた。
はっ、としたように、フェンスを蹴って体を起こした瑞樹は、鋭い目つきで上空を見上げ、一眼レフを構えた。
太陽の光を遮りながら、ジェット機が、青空を横切る。その巨体は、真下から見ると、白いお腹を晒す巨大生物のように見えた。瑞樹は、僅かな青空とその巨体とをフレームいっぱいに収め、連続でシャッターを切り続ける。その姿は、巨大な生き物に戦いを挑んでいるように、奏には思えた。
―――やっぱり…なんか、カッコイイよなぁ…。
蕾夏が惚れるのも、当然かもしれない―――獲物を追い、無心にシャッターを切り続ける瑞樹の姿を見ると、いつも、そんな風に思ってしまう。それは、悔しい、というよりも……憧れ、だった。
ジェット機が頭上を通り過ぎ、更に高度を上げたところで、瑞樹はファインダーから目を離し、カメラを下ろした。
僅か10秒ほどの間に24枚撮りを撮りきったらしく、自動巻き戻しが終わったフィルムをポン、とカメラから取り出す。見事にタイミングが合ったのだろう。表情の読み難い男だが、瑞樹の口元には、なんとなく満足げな表情が浮かんで見えた。
「…あんた、ショーが終わったら、蕾夏と待ち合わせなんだろ?」
「まあな」
あっさり返され、拗ねたように口を尖らせた奏は、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「ちぇ…。いいよなぁ。またフリースロー対決、挑もうかなぁ。オレ、今なら成田に勝てそうな気ぃする」
「―――…」
奏が言うと、フィルムをジャケットのポケットに放り込んだ瑞樹は、目を上げ、僅かに目を見張った。
『バスケが得意ならさ。勝負してくれよ、フリースロー』
『なんでまた』
『5本ずつシュートして、もしオレが勝ったら―――この後2、3時間、あいつ貸して』
『……それ、“宣戦布告”って取っていい訳?』
『…いつまでも“部外者”の立場に甘んじる気はない』
『―――いいぜ。売られた喧嘩、買ってやるよ』
かつて―――そう、蕾夏を傷つけてしまったあの日よりも、まだ昔。宣戦布告のつもりで瑞樹に挑んだ、バスケのフリースロー対決。他の人間にはわからなくても、挑戦状を叩きつけられた側である瑞樹にだけは、わかる。フリースローという単語が、奏と瑞樹の間では、どういう意味を持っているのかを。
数秒、奏を見据えた瑞樹は、あの時と同じように、不敵な笑みを奏に返した。
「野心のある奴は、嫌いじゃない」
「……ハハハ」
あの時、負けて捨てゼリフを吐いた奏に言ったのと、同じ言葉だ。やっぱり、敵わない―――奏は、降参したように苦笑した。
―――…そう。これで、いいんだ。
蕾夏が好きで、好きで、好きで―――でも、成田も好きで。手に入らない恋に苦しみ、犯した罪を悔やみ……それでも2人からは離れられない。…それが、今の本当のオレ。あるがままの、本当のオレだ。
ならば、そのままの自分を、2人に曝け出せばいいだけ。
好きじゃないフリ、忘れたフリ、痛みを感じていないフリをするから、苦しくなる。感じた痛みを、幸せを、憧れを、そのまま2人に伝えれば―――成田も、蕾夏も、それをそのまま受け止めてくれる。
やっと……理解、できた。2人が言う、オレがオレらしくあれ、という、その言葉の意味が。
事態は、何も変わっていないのかもしれないけれど。
もう、2人にも自分にも嘘をつかずに済むようになった分―――奏は、確実に、去年より楽に息をしている自分を感じていた。
***
「佐倉さん」
咲夜が声をかけると、手元のタイムテーブルらしきものを睨んでいた佐倉が、驚いたように振り返った。
「あら…! 咲夜ちゃんじゃない!」
「明けましておめでとう」
「おめでとう。なぁに? 一宮君に招待されたの?」
「ん…、休みばっかで、暇だしね」
丸めたパンフレットを手でポンポンと弾ませ、咲夜はそう言って苦笑した。
実際、暇だった。
“Jonny's Club”は休みだし、会社も当然休み。実家には戻らないと決めたし、ジャズ仲間はみんな家族団らん優先、いわゆる遊び仲間の類はいないし、拓海は毎年、年末年始は海外だ。アパートから出る用事すら、咲夜にはなかった。
マリリンのところに新年の挨拶にでも行こうかな、なんて思ったのだが、あいにくマリリンはクリスマス直後から留守だ。妙に慌てた様子で「編集さんが来たら、適当に誤魔化しておいてね」などと偶然会った咲夜に頼んで出て行ったが、一体どこに行ったのだろう? スーツケースをガラガラと引っ張るその姿は、お盆にロスへ行った時と同じだったが……また海外だろうか。
優也は、4日ほど帰省し、昨日既に戻ってきている。ミルクパンが気になって仕方ないのだそうだ。しかも、本日3日からは、早くも家庭教師のアルバイトが始まるという。正月も遊び呆けていた高校生だった咲夜は、受験生に正月がないってのは本当なんだな、と初めて思った。
それ以外の住人とは付き合いがなく―――結果、手詰まり。それは奏も同じで、結局今年は、年越しそばもお雑煮も、奏と咲夜の2人でぼそぼそと食べたのだった。
「佐倉さんも、こんな所で見るの?」
客席の端、壁際にひっそり立っている佐倉を不思議に思い、そう訊ねる。すると佐倉は、タイムテーブルを2つ折りにし、くすっと笑った。
「そりゃ、新人なら楽屋にも舞台裏にもべったりくっつくけどね。一宮君くらいのベテランになれば、ショーが動き出しちゃえば、あたしの出番はないわよ。こういうショーの裏舞台って、裏方さんとモデルが秒刻みで動いてるから、外してた方が迷惑にもならないしね」
「へぇ…、そうなんだ」
「音楽業界のマネージャーなんかは、舞台袖に貼りついてるもんなの?」
「あー、そういえば―――拓海んとこのマネージャーも、ライブの時は、客席の一番前の一番端っこに陣取ってることが多いなぁ」
自分自身にはマネージャーなんていないから、唯一知る拓海のマネージャーで判断するしかないが……案外、ああした立場の人は、いざ本番がスタートしたら、邪魔にならないようどいてる方が多いのかもしれない。なるほどなぁ、と、咲夜は大きく頷いた。
と、ここで拓海の名前を出したことで、思い出した。
「そうだ。拓海と言えば―――佐倉さんの事務所って、あの“YANAGI”の社長から、出資受けてるんだよね」
「? 今のところは、ね」
「拓海が今度、その“YANAGI”のテレビコマーシャルのBGMを担当するんだって」
「麻生さんが?」
初耳だったのか、佐倉はそう言って、露骨に眉をひそめた。
「うん。前に奏が“YANAGI”のショーに出たでしょ。あの時、私、拓海も行かない? って誘って断られたんだけど―――その時のこと拓海が覚えてて、年末に電話で教えてくれたの。なんか、あんまり“YANAGI”の印象が良くないから1回断ったけど、再度オファーが来ちゃったんで、試しに受けた、って」
「…そう」
佐倉は何度か頷き、黙って聞いていたが、やはり納得がいかない部分があるらしく、余計に眉根を寄せた。
「うーん…どうも、腑に落ちないわねぇ…。前にパーティーで同席したことあるけど、柳さん側も麻生さんにいい印象は持ってない感じだったのに」
「ああ…うん、その話も、前に聞いた。でも、仕事となればまた別なんじゃない?」
そう思ったからこそ、咲夜は、個人的な好き嫌いで仕事相手を選ばないらしい“YANAGI”の社長・柳のことを、ほんの少しだけ見直したのだが―――佐倉は、そうではないらしい。
「そうかもしれないけど―――…何考えてんのかしら、あいつ」
腕組みをしたままそう呟き、難しい顔で考え込んでしまった。
―――あいつ、ねぇ…。
黙り込む佐倉を横目で見つつ、咲夜も、知らず眉をひそめる。
咲夜は、柳という男を知らない。拓海から聞いたパーティー会場での鼻持ちならない態度と、奏から聞く怪しげな行動内容のみが、咲夜が知る柳の全てだ。
ここ2、3年で先代から“YANAGI”を継ぎ社長に納まったが、それまでは“YANAGI”の部長クラスだったという。奏曰く「頭のキレる金持ちがスーツ着て歩いてる感じ」の風貌らしい。年のころは佐倉より少し上……33、4歳といったところだろうか。そう考えると確かに―――ちょうどいい年回りだ。奏の懸念も、あながち、ただの考えすぎとも思えない。
「……あのさ、佐倉さん」
「ん? 何?」
「こんなこと訊いていいのかどうか、わかんないけど―――柳社長と佐倉さんの関係って、何?」
訊きにくそうに咲夜が訊ねると、佐倉はパッ、と咲夜の方に顔を向け、キョトンと目を丸くした。
「あ、あたしと柳の関係!? 何よ、それ!」
「いや、だってさ。奏も結構心配してるよ? 個人的な繋がりでもないと、なかなか出資なんてしないだろうし…その割に、“YANAGI”としてモデル事務所を立ち上げて、そこの取締役に佐倉さんを据えようと画策してる、なんて噂も聞くし。やってることに矛盾感じない? それに―――なんていうか、奏の話聞いてると、柳社長が執着してるのって、佐倉さんの事務所って言うより……」
―――佐倉さん自身、なんじゃないの。
さすがにそれは、口にし難かった。曖昧に語尾をぼかして言葉を濁したが、佐倉は口にしなかった言葉を察したらしく、ああ、という顔をした。
「なるほど? 咲夜ちゃんも一宮君も、あたしの身を心配してくれてる訳だ」
「…そりゃ、したくもなるよ。腹黒そうな男が、佐倉さんの身辺で怪しい行動を取り続けてる訳だからさ。しかも、同席した時の目つきが興味津々とくれば…」
「―――まあ、そういう興味がゼロじゃないのは、確かでしょうね」
ふふっ、と笑った佐倉は、余裕の表情で肩にかかった髪をはらった。一時期はショートヘアなどにもしていた佐倉だが、最近は肩までのミディアムロングで定着しているらしい。
「ご心配ありがと。でも、大丈夫よ。柳が多少“女”として興味を持ってたって、実際の行動に出るとは思えないわ」
「なんで?」
「うーん…どうしよっかな。業界的には結構、裏情報なんだけど―――…」
などともったいぶった佐倉だったが、結局、咲夜の耳元に口を寄せ、ヒソヒソ声で続けた。
「―――柳には、超のつく美人の、ながーい付き合いの女性がいるのよ」
「えっ」
「しかもその子、あたしの古い知り合いなの」
「……」
「柳からすれば、やっとの思いで口説き落とした獲物よ? その知り合いに手なんか出して、全ておじゃんにする筈ないでしょ」
―――…そうかなぁ。
それは甘いんじゃないの、という気が、しないでもない。例えばの話、その、やっと口説き落とした美女よりも、佐倉の方に本気になってしまったとしたら―――そうじゃなくても、策士らしき男だから、美女にはバレないよう、上手いこと浮気をする方法を考えないとも限らない。
という懸念が、そのまま、目つきにも出てしまっていたのだろう。微妙な表情をする咲夜を見た佐倉は、困ったように笑った。
「第一、ね。いくら柳が狙ったところで、あたしにその気がないんだから、どうしようもないでしょ。どんな姑息な手を使われても、どんな条件を出されても、あたしは折れる気、ないわよ。あの男、仕事相手としては悪くないけど、個人的にはすっっっっごい嫌いだもの」
「す…凄い、力入ってるね、嫌い方に」
“凄い”を思いっきり強調した言い方に、思わず咲夜の顔も引きつる。咲夜には、そこまで嫌える相手はいない。友達を作らない代わりに、嫌うことも少ない―――それが、咲夜のこれまでの人間関係だったから。
「そこまで嫌いな相手なら、なんでビジネスパートナーに選んだ訳?」
「え?」
「相性悪そうな拓海を起用するあたり、ビジネスマンとして優秀そうなのは、わかるけど―――同じ位優秀な人、他にもいるんじゃないの? だったら、すっっっごい嫌いな奴より、好きか、せめて普通位の人、選んだ方が良かったんじゃない?」
どうにも納得いかず、咲夜がそう訊ねると―――佐倉は一瞬目を見張り、それから、少々意味深な、曖昧な笑みを浮かべた。
「まあ―――色々、事情があるのよ」
「……」
“色々”。
―――つまり、言えない、ってことか。
やはり佐倉と柳には、何か仕事上の繋がり以外の関係があるのかもしれない。が……咲夜が聞いたところで、佐倉が答えるとも思えないし、それが咲夜個人と関係があるか、と言われれば、関係ないとしか言いようがない。
「…とにかく、事務所を乗っ取られたくなかったら愛人になれ、なんて展開になっても、絶対応じないでよね」
結局、奏も咲夜も、そういう事態を心配しているのだ。釘を刺すように咲夜が言うと、佐倉は声を上げて、あはは、と笑った。
「ないない。絶対ないから、そんなの」
「…なら、いいけどさ」
その時、会場に据えられた巨大なスピーカーから、大音量の音楽が流れてきた。
どうやら、ショーの始まりらしい。咲夜も、そして佐倉も、舞台の方へときちんと向き直った。
色とりどりのライトが、舞台を照らす。
きらびやかな照明、ノリの良い音楽。舞台の隅に陣取った司会者の合図と共に、先頭を切ってランウェイに姿を現したのは―――奏だった。
―――へーっ、やっぱりスーツ着れば、そういう人っぽく見えるなぁ…。
スタイル抜群の美女をエスコートして出てきた奏は、毎朝見ている寝ぼけた顔の奏とは、やっぱり別人だ。光沢のあるダークスーツの着こなしは、まさに完璧。まるで、ハリウッド俳優が赤カーペットの上を颯爽と歩いてるみたいに、キラキラしたライトの中を笑顔で歩いている。
本物だな、と、思った。
こういう世界に精通している訳でも何でもないが―――本能的に、感じる。この人、本物のモデルだな、と。
ジャケットの裾の翻し方、ターンをする時の足の流れるような動き、歩きながら髪を掻き上げる仕草……どれも、毎日のように見ている奏なのに、もの凄く綺麗で、カッコ良く見える。平凡な人間がただ漠然と着たなら、別にカッコ良くもなんともないスーツが、奏が身につけるだけで、とてつもなく魅力的な服に見えてしまう。あれ見て憧れた一般人が、真似して買って、失敗するんだろうな―――そんな構図が見えた気がして、思わず苦笑してしまった。
「もったいないなぁ…今年の誕生日で辞めちゃうなんて」
ポツリと咲夜が呟くと、隣に立つ佐倉も、ふっと笑って頷いた。
「そうね。一宮君なら、30過ぎまで十分現役で通用するんじゃないかな。顔は整ってるけど、本来持ってる雰囲気が少年ぽい、っていうか―――化けようとすれば、ストリートファッションの学生にも、フォーマルを着た大人の男にも化けれるから。でも……限界が見え出してからじゃ遅い、って言う、一宮君の考えも、よくわかるのよ。特に男性モデルは、生き残りが難しい上、その後の身の振り方が難しいから」
「…うん、なんか、わかる気する。だから、モデル辞めて俳優とかタレントになっちゃう人、多いんだろうし…」
「そ。一宮君はその辺、案外賢いわよ。事務所としたらもうちょい頑張って欲しい気もするけど、あたしは一宮君の意志を尊重するわ。今も仕事は厳選してるけど…そろそろ、最後の仕事を何にするか、よく相談しないといけないかもねぇ」
「最後の仕事…か」
そう言いつつ、咲夜は、ランウェイから視線を移し、観客に紛れてシャッターを切る、1人の人物を見つめた。
舞台を歩く奏を、ファインダー越しにずっと追い続けている人物―――瑞樹だ。
「成田さんの仕事だったら、一番幸せだろうなぁ…」
しみじみ、咲夜がそう呟くと、何故か佐倉が吹き出した。
「? 何?」
「いやー…、なんか、微笑ましくなっちゃったわ」
「は?」
「咲夜ちゃんて、ほんと、一宮君のこと好きなのね」
「は!?」
好き、という言葉に、思わず目を見開く。が、佐倉は、違う違うと手を振りつつ、なおも笑った。
「ああ、変な意味じゃなく、人間的に、よ。一宮君、幸せだわ。こんなに理解あるお隣さんがいるなんて」
「―――…」
人間的に―――それは、確かに、そうかもしれない。
前は、よく似たタイプなんじゃないか、と思っていたし、そんなことを佐倉に言ったこともあった。あの時、佐倉に「むしろあなた達は正反対に見える」と言われてもピンとこなかったが……最近では、咲夜もそう思うようになった。ああ、私達って、正反対なんだな、と。
奏の直情的な部分や喜怒哀楽の激しさは、咲夜から見ると理解不能な部分も多々あるが―――それ故に、尊敬する部分も多い。あんな風に生きられる人っていいな、という、憧れのような気持ちもある。佐倉の言う通り、咲夜は、奏という人間が、人として大好きだ。
奏は今、瑞樹や蕾夏に受け入れられて、報われている、と言っている。
多分、ああして舞台に立っている間も、ファインダー越しに自分を見つめてくれる瑞樹を感じ、幸せを覚えているだろう。奏は、貪欲にその幸福を求めてる。幸せになるために、己を隠さず、欲しいものを欲しいと訴えて生きている。
そんな奏を見ていると、自分もがんばらなくては……と、改めて、思う。
『お前が麻生さんのピアノに憧れる気持ちは、わかる。自分の歌とシンクロしてるんだから、当然かもしれない。だから、これからは―――麻生さんのピアノに合わせることじゃなく、他のこと考えてみろ』
『…他のこと、って』
『同じ音楽性を持つ同士なら……超えてみせろよ。あの人のピアノを、ヴォーカリストとして』
年末、最後のライブの際に一成に言われた言葉を、思い出す。あの瞬間―――自分が目指すべき道が、よりはっきり見えた気がした。
―――私も、負けてられないな。奏に。
舞台上の奏を見つめ、咲夜は、密かにそう思った。
***
長時間のフライトの末、到着ロビーに降り立った拓海は、そこで出迎えた人物のあまりの意外さに、唖然としてしまった。
「…どうも、お久しぶりです」
「―――…」
なんで、こいつが、ここに。
帰国して最初に見る顔がこの顔とは、この1年、先が思いやられる。うんざり顔で髪を掻き毟った拓海は、大きなため息をついた。
「…なんの用ですか、柳さん」
「今日帰国されると聞いたので、お出迎えです。今度仕事でご一緒するんですし、少し親交を深めておきたいと思いましてね」
―――嘘つけ。
「…この後、人と待ち合わせがあるんで、時間がないんですが」
極めて刺々しく拓海が言うと、“YANAGI”の二代目社長・柳は、そのすっきりとした一重の目を細め、嘘っぽい笑いを作った。
「お時間は取りませんよ。僕も忙しい身ですから―――そこのラウンジで、コーヒーでもどうですか?」
***
「毎年、アメリカで、懇意にしているアーティストたちと年越しライブをやってるそうですね。日本人アーティストが、国の内外を問わずに活躍されているのは、大変頼もしいことです」
「……」
どの口がそんな歯の浮くようなセリフを吐いてるんだか―――脚を組んだ拓海は、ずずっ、とコーヒーをすすりながら、向かいに座る男の気障な顔を無感動に眺めた。
恐らくは自社ブランドのものであろう、ビシッとしたスーツ。やぼったくならないよう気を配りつつも、ビジネスシーンにマッチするよう考えられた髪形。以前、成人式を迎えたばかりの柳の写真を何かで偶然見たことがあるが、あまり変わっていないように見える。要するに、若い頃、老けすぎてたのだろう。すっきりした切れ長の目とシャープな顎は、むしろ同年代より若々しく見える。
―――笑えるほど対照的だな。
鏡に映った自分の姿を想像し、つくづくそう思う。見るからにビジネスマンな柳と比較すると、自分はどう頑張ってもまっとうな仕事に就いているようには見えない。使い込んだ皮のジャケットといい、ヴィンテージもののジーンズといい、この格好で商社でも訪問しようものなら、絶対受付で止められるだろう。
「…それで? そろそろ本当の目的を話してもらえませんか」
カチャン、とコーヒーカップをソーサーの上に置き、脚を組みなおす。親交を深めたいなんて柳のセリフは、1ミリだって信じてはいなかった。
―――何が目的だ。さっさと吐け。
冷ややかな笑みでそう迫る拓海に、柳は涼しげな営業スマイルを返した。
「本当に、親睦のためですよ。仕事抜きで、麻生さんにお会いしたかっただけですよ」
「ほーお。なんでまた」
「…嫌だなあ。しらばっくれてるのは、そちらの方じゃないですか?」
途端―――柳の目が、笑っていながらも、ゾクリとするほど冷たくなる。
「あなたは昔から、僕の宿敵なのに」
「……」
なかなか―――笑わせる。
くっ、と笑った拓海は、テーブルに置いた煙草の箱に手を伸ばした。
「俺の方は、あんたを宿敵だと思ったことは、一度もないね」
「……」
「大体、顔を合わせるのは、これがまだ2回目か3回目だろ? ライバル視されるほどの関わりもないのに、一方的に敵意を持たれても迷惑だ」
「―――とことん、話を逸らす気ですか。まあ、いいでしょう」
軽く眉を上げた柳は、そう言って、ジャケットの内ポケットに手を入れた。煙草を口にくわえ、火をつけた拓海がライターをパチン、と閉じると―――目の前に、1枚の写真が差し出された。
その写真を見た途端。
ドクン、と心臓が大きく脈打って―――止まった。
「―――…」
落ち着け―――この男が関わってきた時から、予想はできていた筈だ。煙を吐き出した拓海は、ライターをテーブルに置き、口の端をつり上げた。
「…また、懐かしい顔だな」
「なかなか、いい写真でしょう。極最近撮ったものですが…あまり変わってませんね。昔と」
「で? 思い出話に花でも咲かせる気か?」
「いえ。ただ、あなたの反応を見て楽しみたかっただけです」
―――ああ、そうかい。
苛立ちがピークに達しそうになる。が、我慢した。こいつの性格の悪さなど、とうの昔に知っている。反応を楽しみたい奴に反応してみせては、完全に思う壺だ。
「…あんたの性格の悪さがうつったのか、前よりかなり性格悪そうになったな。気の毒に」
ピン、と写真を弾き、拓海がそう言い放つと、柳は露骨にムッとした顔をした。
「性格が悪くなったとしたら、それはあなたの責任でしょう」
「ハハハ、そうかもな」
「…動じませんね」
「今更」
「…なるほど」
短く息をついた柳は、写真を内ポケットに再び収め、冷め始めたコーヒーを口に運んだ。
「―――さして、深い意味はありませんよ。今回、仕事を依頼したのも、今日こうして会いに来たのも。ただ、ポリシーに従っただけです」
「ポリシー?」
「戦うためには、まず敵をよく知ること」
コーヒーカップを置いた柳は、そう言い、フッ、と冷たい笑いを見せた。
「当面、あなたは僕の最大の敵ですから―――少しでもあなたと多くの接触を持ちたかった。ただそれだけです」
「…何度も言わせるな。俺はあんたを敵とは思ってない」
―――大嫌いな奴とは思ってるけどな。
これ以上喋っていると、精神力の全てをそぎ落とされそうだ。テーブルの上に置かれた伝票を握り締めた拓海は、煙草を口の端にくわえ、席を立った。
「とにもかくにも、楽曲はきっちり提供させていただきますよ、柳さん。…じゃ、また、来週の打ち合わせの席で」
「…ええ。楽しみにしてます」
社交辞令的挨拶を返す柳の顔も見ないまま、拓海は足早に席を離れ、レジへと向かった。
そうしなければ―――挑発に乗って、余計なことまで喋ってしまいそうだった。
***
呼び鈴を鳴らして暫くすると、ドアが内側からガチャリと開いた。
「お帰りー。Happy New Year!」
「―――…ただいま」
いつもと変わらず出迎えてくれた笑顔に、拓海も笑顔になる。くしゃっ、と咲夜の頭を掻き混ぜた拓海は、いつもの帰国時と同様に、その唇に軽くキスをした。
「三が日過ぎちゃったからさー、いくらなんでもおせち料理もなぁ、と思って、とりあえずお雑煮作ってみたんだ。食べる?」
「食う食う。機内食がまずくて駄目だったから、腹減ってるんだ」
「お餅、何個?」
「ひとまず2つ」
「おっけー」
くるりと踵を返した咲夜は、『On the Sunny Side of the Street』の一節を鼻歌で歌いながら、キッチンへと消えた。年明け早々、明るい明るい―――奏と喧嘩してた頃や、その後暫く、咲夜を覆っていたあの重苦しいムードは、すっかりなくなっているようだ。
のんびりした足取りで廊下を進み、リビングに入った拓海は、手にしていたボストンバッグをその辺に放り投げ、疲れたようにソファにドサリと沈みこんだ。
「なんか、疲れてるみたいじゃん。大丈夫?」
「んー? …ああー、まあなー…」
疲れてる訳じゃない。
ちょっとばかり―――胸が痛んだだけだ。
目を閉じると、換気扇の音と鍋や菜箸の音、それに咲夜の歌声だけが聞こえる。
穏やかな時間を連想させる音をBGMにしながら―――拓海の脳裏には、さっき柳から見せられた写真が浮かんでいた。
―――あんな目をするようになったのか…。
それは、柳のせいか?
それとも―――俺のせいか。
蒸し返された傷が、ズキズキと痛む。
その痛みから逃れるように、拓海は咲夜の歌声に耳を傾け続けた。脳裏に浮かぶ残像が、思い出せないほど薄らぐまで、ずっと。
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