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― 青天の霹靂

 

 久々の帰省は、酷く退屈だった。

 「いいなぁ、丸の内でOL生活楽しんでるなんて。やっぱり東京の大学行けばよかったなぁ。地元の大学から地元企業じゃ、もう地味で地味で」
 「まだあんたはいいわよ。あたしなんて、独身だってだけで羨ましく思えちゃう。もー、子供いると大変で大変で…」
 高校時代の友達2人が、ケーキを食べながら、そんなことを言う。由香理は「まぁね」などと言いつつも、不愉快な気分を味わっていた。

 ―――とか言いながら2人とも、「私達だって結構幸せ〜」なんて思ってるくせに…。
 1人は本人の言う通り地味路線を辿っていて、高校時代付き合っていた彼氏といまだに付き合っている。由香理から見たら平凡そのもの、何のとりえもない男なのだが、相性がいいのだろう、2人の仲は安泰らしい。地元を選んだのだって、彼氏と離れたくない、という幸せな理由からなのだから。
 もう1人は、東京の平均的四大に進んだが、家族の意向により地元で就職をした。そこの3つ年上の先輩に見初められ、就職1年を待たずして結婚。すぐに妊娠・出産となり、由香理と同い年ながら、既に2人の子の母親だ。自由がない、生活が大変、と言いながら、彼女の表情は学生時代より穏やかで優しくなっていた。
 そんな幸せな2人は、一流企業に勤め、華やかなOL生活を送っている由香理を羨ましがる。
 まるで月9のドラマみたいだよね、出会いも多くて楽しそう―――ドラマで仕入れた虚構を信じて、由香理もそういう生活を楽しんでいるものと思い込んでいるのだ。
 馬鹿馬鹿しい―――つくづく、嫌になる。
 前は……そう、少なくとも去年くらいまでは、そうやって羨ましがられるたびに、由香理自身も鼻を高くしていた。かなりの脚色が入ってはいるものの、実際、由香理の生活は彼女らが憧れる「都会の華やかなOL生活」だ。その生活を手に入れるためには、それなりの努力だってしてきた。自分は頑張った、だからこうしていられる、平凡な生活に安穏としてたあんた達とは違うのよ―――そう思って、胸を張っていられた。
 でも―――今年の由香理は、違っていた。
 由香理だって、男性との交際の1つや2つ、経験済みだ。だが、いずれも向こうから告白され、なんとなく付き合った、という感じで、終わり方も由香理が冷めてしまったケースばかりだった。今回のように、一方的に振られてしまうのは初めて……いや、そもそも、付き合ってすらいなかった、なんて結果は、初めてのことだ。
 ドラマに出てくるような非現実的なマンション住まいと思われることは、別に構わなかった。欠伸が出るほど退屈な仕事であることも、平然と黙っていられた。でも、今回ばかりは―――物語と程遠い現実に、皮肉な笑みしか出てこない。

 「ねぇ、由香理っていつまでこっちいるの?」
 「詩織も帰ってるらしいから、またみんなで会わない?」
 詩織の名前が出たところで、我慢の限界を超えた。由香理は、残りのケーキを一気にほおばり、紅茶を飲み干した。
 「悪いけど、そうノンビリしてもいられないのよね。貴重な連休だもの、有効に使わなきゃ」
 「あー、そうだよねー。東京での付き合いもあるもんね」
 「今日もこの後、他に用事もあるから……そろそろ失礼するわね」
 いささか唐突すぎるが、体裁を繕うほど、今の由香理は元気ではない。由香理はさっさとコートを着込むと、学生時代に何度か訪れた友人宅を後にした。

***

 帰宅すると、友人宅に出かける時にはなかった靴が、4つ、並んでいた。
 「―――…」
 紳士物のスニーカーに、女物のローファー、それに子供のズック靴2足。それを見た途端……重苦しい空気が、家中を覆っているような気がした。勿論、気のせいだろうけれど。
 「ただいまぁ」
 言いながら、居間を覗き込む。こたつを囲んでいた家族が、一斉に由香理の方を見た。
 「あ、由香理、お帰り」
 「お邪魔してます」
 姉とその夫が、にこやかに挨拶した。その2人に挟まれるように座っている女の子は、キョトンとした顔をしている。姉の隣から、既に小学生になっている娘が手を伸ばし、この人誰? という顔をしている妹の頭をぐい、と下げさせた。
 「随分早かったのねぇ。まだ3時間と経ってないじゃないの」
 「…ちょっと気分が悪かったから」
 母の余計な一言にそっけなく答えた由香理は、こたつの上のみかんの山に手を伸ばし、1つ掴んだ。
 とりあえず孫が可愛くて仕方ないらしい父は、無言でせっせと剥いていたみかんを、「ほーら、剥けたよ」と孫娘にニコニコ顔で渡している。が、母の方は、あまり冴えない顔をしている。やはり…何年経っても、姉夫婦に対しては、心に引っかかる部分があるのだろう。
 「まさ兄は?」
 姿の見えない兄の名を口にすると、姉が困ったような顔で答えた。
 「また別の子とデートですって。相変わらずモテるみたいね」
 「ふーん…。顔だけはいいからね、まさ兄は」
 由香理がそう言うと、母がオーバーなほどのため息をついた。
 「モテるのは結構だけど、真面目なお付き合いをしてるお嬢さんがいそうにないのよねぇ…。あの子ももう30なんだから、そろそろ考えなきゃいけない年頃だってのに」
 「今時、30で結婚してない男なんて極々普通よ」
 「そうは言うけど、聡美…」
 ―――面倒くさいなぁ。
 このまま居間に留まっていたら、余計面倒な話に巻き込まれそうだ。由香理は、みかんを手に居間を離れ、2階の自分の部屋に向かった。


 友永家は、長女・聡美に長男・雅彦、そして次女の由香理の、3人きょうだいである。

 聡美は、容姿こそ極普通だが、子供の頃からよく出来た「優等生」だった。
 勉強はよく出来たし、家の手伝いも積極的にやり、県内随一の進学校に進み、東京の一流大学に合格した。大人しい性格で、高校卒業まで初恋ひとつ知らずに清く正しく生きたタイプだ。両親も、親戚での集まりがあると、いつも聡美の自慢をしていたのだ。
 そんな聡美に、大学3年の時、転機が訪れた。
 それまでは「なんだか不真面目そうで嫌だ」と倦厭していたコンパに、聡美は、就職の内定が決まったお祝いを兼ねて参加した。そこで、三流大の1つ年上の男性と知り合い、あっという間に恋に落ちたのだ。
 親の目の届かない一人暮らしで、恋愛に盲目状態になっている姉が、優等生を貫くのは無理だった。あとは卒業するばかりとなった大学4年生の秋、妊娠が発覚―――卒業と同時に出産し、既に就職していた彼氏と入籍してしまった。
 夫となった男性が就職した会社は、お世辞にも優良企業とは言えず、新卒の夫の給料では、親子3人が物価高の東京で生活するだけで精一杯だった。かと言って、生まれたばかりの子供を預ける場所もなくては聡美は働くことができず、聡美は、日々のやりくりに頭を痛めてばかりいた。
 元々親になる覚悟もできていない、コンパ三昧の学生時代を過ごした20代前半の若者が、家計のことでギスギスする妻に飽きて浮気をするまで、そう時間はかからなかった。結局……聡美は、僅か2年足らずで、離婚。2歳にもならない娘を連れて、長野に戻って来た。
 あれほど聡美を自慢にしていた両親が、外聞の悪いことになって戻って来た娘に対して言った言葉は、「一刻も早く再婚しろ」だった。“こぶつき”の女など、年齢が行けば行くほど、貰い手がなくなる―――事実だが、聡美には辛い言葉だっただろう。けれど聡美も、親戚などが両親に向ける「あんなに自慢してた子がこんなことになって」という目を意識してか、何度もお見合いを繰り返した。そして25の時、現在の夫―――長野の中堅企業に勤める10歳年上の男性と再婚した。
 あれから、既に7年。聡美は32になり、前の夫の子はもうすぐ10歳になる。現在の夫との間にも4歳になる娘がいる。温厚な夫のおかげで、家族4人、平凡ながら幸せそうだ。

 由香理と聡美は、6つ離れている。
 目障りでありつつも自慢でもあった姉。姉のようになることが正しい道と信じて、必死に頑張って勉強したが、姉と同じ高校には入れなかった。姉が合格した東京の大学も、由香理には雲の上みたいなレベルだった。お姉ちゃんには敵わない―――ずっとそう思って生きていた。
 そこに突如起きた、姉の妊娠、出産、結婚…そして、離婚。疲れ果てた姉が2歳児を連れて長野に戻って来た時、由香理は高校3年の受験生だった。
 姉の転落から由香理が学んだことは、「お姉ちゃんみたいになっちゃ駄目だ」ということだ。
 勉強がいくらできても、性格が良くても、家事をよく手伝っても、結局は結婚相手を間違えれば全ては水の泡になる。あれほど娘自慢だった両親の掌を返したような態度を見れば、よくわかる。「一流大を出しても、結局この程度の平凡な男にやる羽目になるなんて」と、姉の目の前でもはっきり愚痴るほどだ。
 女はやっぱり、最後は結婚相手で評価される―――由香理は、そう確信した。

 4つ離れた兄・雅彦は、比較的容姿に恵まれ、昔から女性にとてもモテた。
 親戚も、成績の良さより見た目の良さの方が食いつきがいいらしく、親族の集まりで、雅彦はいつもアイドルだった。
 成績はあまり良くなく、長く勉強させられるのはゴメンだ、と四大行きを勧める両親に耳も貸さず、地元の専門学校に進学。卒業後は社員10人ほどの小さな会社に就職したが、長続きしなかった。その後も職を転々としており、現在の会社で4社目だ。
 「俺には才能があるんだ」が、兄の口癖だ。その根拠は、はっきり言って無いに等しい。強いて言えば学生時代からバンドでヴォーカルを担当しており、そのルックスの良さから女性ファンが結構ついたこと、位だろう。今も時々、ライブハウスで仲間とライブをやったりするが、それらは全て素人が趣味で開くライブ―――お金を「払って」開くライブだ。
 はっきり言って、雅彦は、バカである。昔から由香理は兄をバカにしてきたし、今も大馬鹿野郎だと思っている。
 いくら外見が良くても、ああいう男にだけは捕まっちゃまずいな、と由香理は肝に銘じている。よく考えたら、姉の最初の夫も、雅彦タイプの男だった。由香理が雅彦から学んだのは、「駄目男の見分け方」かもしれない。

 生まれてからずっと、由香理は、優秀な姉と美男子の兄の下で、注目もされず、褒められも貶されもせず、平凡な子供として育ってきた。
 そして、神童と言われた姉が平凡な田舎のいち主婦となり、夢ばかり追いかけている外面ばかりの息子に愛想を尽かした今、両親が唯一自慢しているのは、由香理が東京の一流商社に勤めていることだ。これ以上、自慢の子供が外聞の悪いことになるのだけは、勘弁して欲しい―――そう考えているであろう両親は、最近、由香理にこんなことを言う。

 『高望みはしなくていいから、とにかく安定したきちんとした人と、早く結婚しなさい』
 『そうよ。女は若い方が高く売れるんだからね。あんたももう26―――丸の内じゃどうだか知らないけど、こっちじゃ決して若いとは言えない歳よ?』
 『せっかくいい会社に入ったんだから、長く勤めたいのはわかるがな。結局女は、結婚してないと色々うるさく言われるんだぞ。お前もそろそろ、真剣に考えなさい』


 「……うるさい」
 うるさい、うるさい、うるさい。

 自室のドアを背に、苛立ちのあまり、口に出して呟く。
 こんな家族、大っ嫌いだ―――手にしていたみかんを握りつぶさん力で握り締め、由香理は唇をきつく噛んだ。


***


 「そう言えば、どうだった? 久々の実家は」
 「―――…最悪」
 口紅を塗り直すためコンパクトをパチン! と開けつつ、由香理はうんざり声で答えた。
 「私、やっぱり地元って合わないんだわ。こっち戻って、大学時代の友達とパーッと遊んだら、ようやく気が晴れたって感じ。もー、田舎は面倒で嫌いよ」
 「そう? うちの地元なんて由香理んとこよりずーっと田舎だけど、のんびりできて良かったけどなぁ」
 「智絵は、名実共に立派にキャリアウーマンしてるから、風当たりが強くないんでしょ。全く…こっちは傷心中だってのに、理解のない奴ばっかりで、最悪よ」
 「……はーん。まだ引きずってるの、真田さんのこと」
 コーヒーカップに口をつけながら、智絵が軽く眉を上げる。と同時に、紅筆を取った由香理の眉もピクリと動いた。
 「―――当たり前でしょ。まだ1ヶ月も経ってないのよ」
 「そりゃそうだろうけど―――あのさぁ。確かに由香理は可哀想な目に遭ったと思うけど、正直、振られてラッキーだったと思うよ?」
 「どうして?」
 「だぁって……真田さん、成績はいいけど、性格悪いじゃない」
 「……」
 ―――それは…良くはないかも、しれないけど。
 でも、悪いと断言するほど、悪い訳でもないと思う。仕事優先すぎて気遣いの足りない人、自分のことばかり喋って人の話を聞く姿勢が足りない人、とは思うが、一緒に飲めばちゃんとおごってくれるし、ドタキャンすれば「ごめん」と言って別の日をキープしてくれる。しかも、兄のような口先ばかりの人間ではなく、ちゃんと一流企業で成績を上げているのだ。根拠のない自信過剰は嫌いだが、事実に基づく自信は、男らしくてカッコイイのではないだろうか。
 「…智絵が言うほど、悪いとは思えないなぁ…」
 「うーん…由香理は、真田さんのいい時しか見てないから、気づかないだけなんじゃない? 人当たりが良くて口が上手いから、営業成績は確かにいいけど、後輩を顎で使ってるとこなんか見ると、ムカムカしてくるわよ。それに―――こんな言い方したら悪いけど、由香理を騙す気なら、いい顔しか見せないのも当たり前だし…」
 「……」
 「全く―――こんな目に遭わされたのに、真田さんを庇うなんて。そんなに好きだったの?」
 ―――好き…、だった?
 少し考えた由香理は、コンパクトを閉じ、バッグにしまいながらため息をついた。
 「…どうかな。自分でもよくわかんないわ。ただ…」
 「ただ?」
 「…情は移ってたかも」
 それがたとえ偽りであっても―――甘い時間を過ごせば、やはり情は移ってしまう。順調に進んでいると思った計画がいきなり終わりになってしまったショックと悔しさ以外にも、切ない感傷を感じるのは……自分でも知らないうちに、真田に情が移っていたから、だろう。
 「…まあ…それは無理もないわよ。とにかく、あたしから見たら、由香理がそんなに落ち込むような価値、真田さんには無いから。縁が切れて助かった、位に考えなさいよ」
 「ん…、ありがと」
 曖昧に笑みを作り、そう智絵に答えたものの―――本当に価値がなかったんだろうか、と、由香理はまだ割り切れない気持ちだった。

***

 定時まであと少し、というところで、総務の先輩から気の重い仕事を頼まれた。
 「友永さん、営業1課の小池さんに、この書類の確認、取ってきてもらえる?」
 「あ…、はい」
 ―――よりによって、営業1課…。
 行きたくない、と思ったが、しょうがない。渋々席を立った由香理は、先輩から渡された書類を手に営業1課へと向かった。
 年末年始の休暇明けからまだ2日、営業の人間も、普段よりは外回りから帰ってくる時間が早いだろう。下手をすれば、真田と鉢合わせになる可能性もある。やましいことは何もないが、やっぱり顔を合わせるのは気が重かった。
 ―――やだなぁ…。真田さんいたら、上手く無視できるかな。
 憂鬱な気分に、由香理は大きなため息をついた。

 営業1課のフロアに到着し、恐る恐るオフィス内を覗いてみたが、幸い、真田の姿は見えなかった。
 真田の机の上は雑然としている。その2つほど隣にある係長席には、樋口の姿もあった。もしかしたら真田も、たまたま席を外しているだけで、社内にはいるのかもしれない―――戻ってくる前に用事を済ませた方が無難だ、と考え、由香理は急ぎ、オフィスの奥の方に座っている小池の所へと向かった。
 「小池さん」
 1メートル以内にまで近寄ってから、声をかける。振り向いた小池に、由香理は笑顔で書類を差し出した。
 「お仕事中すみません。この書類について確認なんですが―――…」
 無意識の内に、極力腰を屈めて、目立たないようにしてしまう。小池と会話している途中でそれに気づき、由香理は苛立ったようにつけ爪を掌に食い込ませた。
 全く―――真田の方が勝手だとわかっているのに、どうして自分の方がコソコソしなくてはいけないのだろう? つくづく、振られた側の立場は弱い。今まではそこまで深い関係にはならなかったし、終わる時は由香理から離れるばかりだったから、考えてもみなかったが……こういう場合、社内の人間というのは、非常に厄介だ。
 ―――社内恋愛は、やめといた方が無難なのかもなぁ…。

 …でも。
 だったら、何のために、この会社に入社したのだろう?
 理想の結婚相手を見つけるため―――それだけが、由香理の志望動機だ。自分でも笑ってしまうほどに、それ以外の理由は皆無なのだ。破局した時の面倒を嫌って社内の人間を避けていたら……本当に、この会社にいる意味など、なくなってしまう。
 だって、智絵とは違うから。
 自分は、会社にとって重要でも何でもない、平凡な総務の人間―――すぐにでも取替え可能な、明日辞めても誰も困らない人間なのだから。

 「ええと、これでいいですか?」
 一瞬逸れた意識が、小池の声で引き戻された。
 「あ…、え、ええ。ありがとうございました」
 慌てて笑顔を作り、書類を受け取る。もうここに用はない。一刻も早く戻ろうと、由香理は出口へと急いだ。
 だが、オフィスの出口に差し掛かった時。

 「真田ぁ、お前、いつか絶対女に夜道で刺されるぞ」

 入り口横に設置されたパーティション越しに聞こえた小さな会話に、由香理の足が止まった。
 パーティションの向こうは、ちょっとした休憩スペースになっていて、このフロアでは唯一の喫煙スペースでもある。喫煙者がここに居るのはそう珍しい話ではない。そして―――真田は、喫煙者だ。
 ひやかすような同僚の声に答えたのは、明らかに真田の、押し殺したような笑い声だった。

 「そういう危ない女は、ちゃんと見極めてるって。友永さんはそういうタイプじゃないない。気位高そうに見えて、その実コンプレックスで凝り固まってるタイプだから」

 自分の名前が出て、びくん、と由香理の肩が跳ねる。
 いけない、聞かない方がいい―――そう思うのに、何故か足は動かなかった。

 「でも、昨日見かけたけど、メチャクチャ元気なかったぜ? かなりキテんじゃないの、彼女」
 「あー、今はまだそうかもな。でも大丈夫、面のいい一流大卒の新入社員が営業1課にでも配属されりゃあ、すぐ元気になるから」
 「ああ、それは言えてる」
 「でも、なんで友永さんだったんだ? 最初から秘書課の柚原さん狙いだったんなら、さっさと柚原さんに仕掛けりゃ良かったのに」
 「柚原さんて良家のお嬢様だろ? もう、ガード固くて固くて…。落とすには相当時間かかるな、と考えると、クリスマスに間に合うかどうか微妙な線だったんだよ。かと言って、あんまり遊び歩いても格好つかないし―――そう考えると、友永さんて、凄い好都合だったんだよな、“つなぎ”として」
 「うわ、ひでー、“つなぎ”かよ」
 「可愛いもんだよ、優しいことの1つ2つ言えば、あっさり“都合のいい女”になってくれるんだから。肩書きとルックスしか見てない、玉の輿願望丸出しな子だから、操縦は楽だよな。俺に嫌われるようなことは一切しないで、だまーって愚痴も聞くし、簡単に抱かせてくれるしさ」
 「だったら、柚原女史落とした後も、浮気相手にキープしときゃ良かったのに」
 「バカ。柚原女史は本命なんだよ。バックに柚原建設がついてるんだぜ。無事結婚にこぎつけて、浮気がバレておじゃんになったら、洒落になんないだろ」
 「ハハ、お前も逆玉の輿願望かよ」
 「案外、相性良かったんじゃねーの、お前ら。似たもの同士で」
 「冗談! なんであんな平凡な、肩書きも何もない女と。俺の目標はもっと高いんだぞ」

 「―――………」

 ―――ク…クラクラ…する…。

 世界が、回る。冷たい汗が、全身に噴出す。グラリ、と傾いだ体は、平衡感覚を失っていた。パーティションに手を添えていなければ、立っていられないほどに。
 早く、ここを、離れなければ。
 そう考えても、頭は空回りを続ける。動けない―――動けない。1歩も。

 その時、朧気ながら、左側から視線を感じた。
 ノロノロと顔を向けると―――樋口係長が、こちらを見ていた。
 パーティションの向こう側の会話は、当然、彼にまでは届いていないだろう。でも、この向こうに誰がいるのかは、元々知っていたのかもしれない。由香理を見る樋口の目は、憐れむような、痛々しいものを見るような……そんな目だった。

 『狐と狸の化かしあいを、やめろとは言いません。でも―――残念ながら、あなたは、したたかさでは彼より上ですが、悪人度では彼より下です。必ず負けます』

 ―――…ええ…、そうよ、樋口さん。
 あなたが言う通りだった。本当に。

 よろけた弾みで、カツン、と1歩、前に踏み出した。
 その1歩に縋るように―――由香理は、ふらふらと、営業1課のオフィスを後にした。


***


 バタン! とドアを閉めると同時に、全身の力が抜けた。
 どうやってここまで帰って来たのか、今何時なのか―――全然、わからない。慣れ親しんだ、自分の部屋の匂いに、一気に気が抜ける。ズルズルと玄関に崩れ落ちた由香理は、泣くこともできず、呆然と宙を見つめた。

 ―――狐…と…狸の…化かしあい、か…。
 「…………っ…ふ…」
 小さな笑いが、一瞬、漏れた。
 が、そのまま自嘲の笑いが続くことはなく―――由香理は、口を手で押さえ、こみ上げてきそうな何かを必死に押し殺した。

 酷い、と、傷ついた分だけ口にできれば、まだ良かった。
 由香理は、真田を完全には責めきれなかった。あんな酷い男、と思うけれど…責めきれなかった。でも、それは、真田に惚れた弱みなどではなかった。むしろ…逆、だった。

 本当はウンザリしてた。毎回毎回聞かされる、真田の愚痴には。情事の後、由香理を無視してふかす煙草もイヤだった。ホテルに誘うまでは優しいくせに、とも思っていた。でも……そんなこと、微塵も顔には出さなかった。
 真田の「肩書き」に、執着していたから。
 せっかく手にした、「エリートサラリーマンの妻」になれるかもしれない可能性を、逃したくなかったから。
 それと、都合のいい女を繋ぎとめておこうとした真田と、どういう違いがあるだろう? どっちも同じだ。自分の欲求を簡単に満たす相手を手に入れようと、お互い騙しあっていただけ―――まさに、狐と狸の化かしあいだ。

 ―――私も…真田さんも…やってたことは同じなんだ…。
 真田だけを一方的に責める権利など、由香理にはなかった。1人で被害者ぶっても、後ろめたいだけだ。
 でも、せめて、あんな風に、関係のない人に言うのだけは、やめて欲しかった。
 ……いや、あれで良かったのかもしれない。おかげで、残っていた情も木っ端微塵に砕けた。終わって良かったんだ、惜しかったことなんて何もなかったんだ―――智絵の言ったとおりだ、と、思うことができたのだから。


 ピンポーン―――…

 由香理の感傷を遮るように、背後で、ドアチャイムが鳴った。
 「……」
 誰だろう―――こんな所に、訪ねて来る者など、いる筈もない。それでも由香理は、ノロノロと立ち上がり、魚眼レンズを覗き込んだ。
 歪曲した視界の中に見えたのは、ある意味、今一番見たくない顔だった。
 「…誰、」
 わかっていながら、少々そっけなく訊ねる。ドアの外の訪問者は、律儀に答えた。
 「あ、あの…っ、お、お隣の、秋吉です」
 「…何の用なの」
 「そっ、その―――き、今日、アルバイト先でみかんを大量に貰ってしまって……と、友永さんがさっきお帰りになったんで、ちょ、ちょっと、お裾分けを」
 「……」
 みかん、という言葉に、ふと、数日前実家で食べたみかんを思い出した。
 大嫌いな家族、大嫌いな郷里―――でも、思い出した途端、ちょっとノスタルジーに浸りそうになった。息をついた由香理は、ゆっくりと鍵を開け、ドアを開いた。
 ドアの向こうから現れた優也は、みかんの入った紙袋を抱えて、おどおどした顔をしていた。それでも、由香理の顔を見ると、またいつものように顔を僅かに赤らめ、気恥ずかしそうに笑った。
 「こ…こんばんは」
 「……」
 「全部で12個、入ってます。え、ええと、1人でもその位なら、食べられるかなー、と…」
 「…なんで私に?」
 皮肉な笑みが、口元を歪ませる。けれど、優也はその意味がわからないように、「はっ?」と目を丸くした。
 「お裾分けなら、101の海原さんとか、2階のあの2人とか、仲いい人いっぱいいるじゃない。なんで私んとこに来たのよ」
 「…ええと、マリリ―――海原、さんは、今編集さんに拉致されて、ホテルにカンヅメ状態なんで、いないんです…。咲夜さんと一宮さんにも、と考えたんですけど、帰って来てるかどうかわからないし、それに―――…」
 「それに?」
 由香理が促すと、優也はますます顔を赤らめ、ただでさえ猫背な背中を、更に丸めた。
 「そ、それに……友永さんに、やっぱり、食べてもらいたかったんで」
 「……」
 「…いつも、1人で、頑張ってるみたいですから。みかん食べて、ビタミンとって、いつも颯爽としてて綺麗な友永さんでいてもらえたらな…、と…」
 「……ハ……ッ」

 いつも颯爽としてて―――綺麗な友永さん?
 あんたの目には、私はそんな風に映ってるの。真田さんを手玉に取ろうとして、逆に弄ばれた挙句に捨てられた―――会社では何の存在意義もない、ただ惰性と「一流企業のOL」という立場への未練と歪んだ結婚願望から、毎朝会社に通っているにすぎない、こんな私が。

 「冗談じゃ…ないわよ…っ!」
 何かが、由香理の中で、切れた。
 ぷい、と顔を背け、踵を返した由香理は、靴を脱ぐことも忘れてズカズカと部屋に上がった。
 乱暴にバッグを床に投げつけ、ドサリ、とベッドに腰掛ける。ひきつりそうな息を鋭く吸い込んだ由香理は、玄関先で呆気にとられている優也の方を見、その顔を歪めた。
 「冗っ談じゃないわよっ! それ、嫌味!? 私のどこが“颯爽として綺麗”なのよ!?」
 「え……っ」
 思ったままを正直に口にしただけだった優也は、突然の由香理の怒りように、返す言葉がなかった。
 とにかく、由香理の声があまりに大きいので、1歩玄関内に入ってドアを閉めた。そして、まだ何が何だかわからないまま、おずおずと答えた。
 「と…友永さんは、綺麗、ですよ…?」
 「どこがよっ」
 「どこが、って…」
 「あんたなんかに、そんな歯の浮くようなお世辞、言われたくないわよ…っ! 天才少年だ、ってチヤホヤされてる、特別な人間の癖に…! あんたみたいな選ばれた人間に、私の……私みたいなつまらない人間の、何がわかるっていうのよ!!」
 「……」

 こんな子供みたいな子に、何を言っているんだろう。
 馬鹿馬鹿しい―――そう思うのに、止まらない。

 「どうせ―――どうせ私は、お姉ちゃんみたいに成績優秀でも優等生でもないし、お兄ちゃんみたいにいい顔だちに生まれてもいない…。それは…それは、いいのよ。どのみち、お姉ちゃんは結婚に失敗してお兄ちゃんはモテる自分に酔っちゃってて、自慢の子供が一転、2人揃って友永家の恥なんだから」
 「……」
 「でも……私は、あの2人より酷いのよ。詩織みたいに、才能もない。会社でだって、秘書課の子たちみたいにチヤホヤされる立場でもなければ、営業みたいに会社に貢献できる仕事もしてない。智絵みたいに仕事をバリバリやって、女1人でも生きていけるほど自立してる訳でもない…! 自分自身で勝負できることは、なんにもない―――本当に、なんにもないのよ…!!」
 平手で、ベッドの縁を叩く。その衝撃で、堪えていた涙が溢れてきた。
 「だ…から…、誰もが羨むような結婚をして、結婚相手で勝負するしかないんじゃない…。お姉ちゃんやお兄ちゃんみたいに恵まれてなくたって、平凡な人間でも輝ける、最後は勝てるんだ、って……勝負できるのは、それしか、ないんじゃない…っ。な…のに……」
 「…友永…さん…」
 「なのに……結局、いつも、負けてばっかりなのよ―――…」


 姉夫婦は、平凡ながら、幸せそうに見えた。
 兄も、両親からは愚痴られながらも、本人は楽しそうだった。
 智絵だって、秘書課の子だちだって……そして、詩織も、みんな輝いて見えた。たとえ不遇でも、評価されなくても…由香理の目には、眩しかった。

 何故、自分は、自分の力で輝くことができないのだろう?
 いつも輝く星を見て、羨むばかり。姉を羨ましがり、兄を羨ましがり―――2人の失敗を目にし、今こそ自分が輝く時だと、そう考えて奮起してきたつもりだったのに……。


 ベッドスプレッドをぎゅっ、と握り締め、由香理は、声を押し殺して泣いた。
 息が、苦しい―――何度も何度もしゃくりあげるから、息が続かなくて、苦しくて仕方なかった。
 優也の存在も忘れて、暫く泣いていると、どこかから「…お邪魔します…」という遠慮がちな声が聞こえた。それでも顔を上げられず、両手をついて泣き続けていたら―――目の前に、何かが差し出された。
 「……」
 涙で滲んだ視界に、橙色のみかんが、1つ、あった。
 ノロノロと顔を上げると、みかんを差し出す優也が、そこにいた。困り果てたような、でもどこか同情したような顔で、由香理にみかんを差し出していた。
 「こ…これ、食べて……元気、出して下さい」
 「……」
 「…僕は、友永さんの気持ちは、よくわかりません。でも―――他人が眩しく見える気持ちは、よくわかるんです」
 「……あなた…が…?」
 天才少年の、あなたが?
 由香理が少しだけ目を丸くすると、優也はほんの少しだけ、微笑んだ。
 「確かに…僕は、人より少しばかり、勉強が出来たかもしれません。高校でも、特別待遇だったし…大学でも、いつも好奇の目で見られてました。友永さんの言う、特別な人間だとは思わないけど……特殊な扱いなんだろうな、とは思ってます。…でも…僕には、周りの“普通の人”全員が、眩しいです」
 「……」
 「当たり前みたいに友達が作れて、飲んだり騒いだりできて、恋愛もできて―――勉強なんか出来なくても、そういうことが普通に出来る、普通の人が、眩しいです。例えば―――友永さん、みたいな」
 「…わ…たし…?」
 「友永さんは、僕には、凄く眩しい人です。ずっと」
 「……」
 由香理が、じっ、と目を見張る。
 すると優也は、急に恥ずかしくなったように顔を赤らめ、若干早口になった。
 「お…お化粧して、素敵な服着て、毎日ピン、と背筋伸ばして、颯爽と会社に行く姿―――それだけで、凄いなぁ、っていつも思ってました。その…僕は、服のセンスないし、見た目も“のび太君”だし、背が低いくせに猫背…だし…」
 「…そ…う…」
 「だから―――元気に、なって下さい」


 ―――優しくて。
 それが、隣のOLに憧れる少年の純粋さからくる、ただの慰めに過ぎないとわかっていても、優しくて。
 涙が―――止まらなかった。


 堪えきれず、由香理は、目の前にいる隣人に、おもむろに抱きついた。
 えっ、と、優也が硬直するのがわかる。手に持っていたみかんが、由香理の背後のベッドの上に転がった。でも―――そんなの、どうでもいい。突然の事態に完全にパニックになる優也を無視して、由香理は更にきつく、優也に抱きついた。


 いつもいつも恋する少年の目で見ていた、名前もうろ覚えな、隣の大学生。
 好きでもなければ、嫌いでもない。私の人生には、完全に関係のない人。そう思うけれど―――今日の私は、胸が痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、今にも気が違ってしまいそうだから。

 …ねえ、君。
 ちょっとだけ―――君の純粋さ、私にも分けてよ。
 打算尽くしな偽りの恋しか知らない私に―――君の知ってる恋を、教えて。


 「…秋吉君」
 抱きつかれたまま固まっている優也の、少し伸びかけの髪を掻き上げ、由香理は耳元に囁いた。

 「私のこと―――欲しくない…?」


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