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― My Fair Lady /side. Sou

 

 「全く…いいご身分よねぇ…」
 「……」
 「楽しむだけ楽しんで、あとはハイさようなら―――それでも文句言う女がいないんだから、謎だわ」
 「……」
 「ちょっと、」
 女の声が険悪なムードになって、ようやく拓海は、窓の外の夜景から、背後に寝転がっている声の主に視線を移した。
 「…え、何?」
 「何、じゃないわよ。聞いてなかったの?」
 「いや、聞いてたよ」
 「じゃあ何言ったか言ってみてよ」
 「えーと…何だっけ。お宅のディレクターが女子アナを3人も愛人にしてる話だっけ」
 「……聞いてなかったのね」
 はい、すみません。聞いてませんでした。
 という意味を込めて肩を竦めてみせるものの、その態度の10分の1も、拓海は申し訳ないとは思っていない。
 そもそも、この女がテレビ局関係者なのは朧気ながらも覚えているが、名前も役職も、興味がないから全然覚えていない。次に会った時「覚えてる?」と訊かれたら、恐らく拓海は「ああー、いつもお世話になってます、鈴木さん」と答えるだろう。覚えていない人間は、ひとまず全部「鈴木さん」にしておくようにしている。事実、本当に鈴木さんだったことが、過去に2回もあったのだし。
 「ね、また今度、付き合ってくれない? 気に入っちゃった、麻生さんのこと」
 「食事ならね」
 極めて穏やかにそう言うと、拓海は、半分ほどの長さになった煙草を灰皿に押し付けた。当然ながら、相手はこの返答に酷くご不満の様子だ。
 「何よ。私じゃ不足があるっていうの?」
 「ハハ…、そんなことないよ。単に、二度寝はポリシーに反するだけで」
 それでも彼女は、納得のいかない顔だった。面倒だな、と内心舌打ちした拓海だったが、それを表には出さず、涼しい顔でコートを羽織った。
 「君は俺と寝てみたいって思ったんだから、その目的は果たせたんだろう? 何が不満なのか、わからないなぁ」
 「……」
 「それとも、恋人になりたいとか、結婚したいとか思った、なんて今更言う?」
 コートの襟を直しつつ振り返った拓海は、半身を起こして不満そうに黙り込んでいる彼女に、ニッ、と笑い返した。
 「俺の噂を承知で誘ったからには、君が求めてたのも“恋愛”じゃなく“ゲーム”だった筈だろ? ゲームは、おしまい―――リセットもコンティニューもなしだよ」
 「…ゲームの中で、本気になることだって、あるじゃない」
 「ないね。少なくとも、俺は」
 「……」
 「じゃ、おやすみ」
 また、評判が下がるんだろうな―――と思いつつも、二度と会わないかもしれない人間のご機嫌を取るのは面倒だった。拓海は、彼女が何も言わないのをいいことに、さっさと部屋から出て行った。


 そう。これは、ゲームだ。
 さして魅力があるとは自分でも思えないこんな奴に、女がこぞって群がってくるのは、拓海が「数多くの美女を知る男」として名高いから、だろう。そういう奴を上手いこと本気にさせられたら、過去のあらゆる美女に自分が勝ったことになる、と本気で思っているらしい。
 愛や恋とはほど遠い、人恋しさと原始的欲求と、男の、女の、見栄の張り合い―――馬鹿馬鹿しい。評判が地に落ちて、誰も見向きもしなくなったら、それはそれで構わない気がする。遊び尽くしてこの年齢になると、もう女なんかいなくても不都合はないのだから。

 それでも。
 時々は、ほんの少しだけ、期待しないでもないのだけれど。
 心から欲しいと思える相手か―――それが無理なら、無駄な情を感じることなく平然と“利用”できる相手が、今からでもいいから現れてくれないか、と。


 ふいに、コートのポケットの中で、携帯電話が震えた。
 ちょうど、信号が赤だった。足を止めた拓海は、携帯を取り出し、受話ボタンを押した。
 「はい」
 『拓海? 私』
 「ああ、咲夜か」
 咲夜なら、信号が変わるまでに話が終わるのは無理だろう。拓海は、携帯を耳に当てたまま辺りを見回し、横断歩道から少し脇に逸れた所にある街灯に背中を預けた。
 『あ、まだ外か。今って大丈夫?』
 「大丈夫。どうした、何かあったか?」
 『ん、あのさ、実は、5月にあるジャズ・フェスタ。拓海も出るやつ。あれのオーデション、受けることになったから』
 「オーディション?」
 5月にある、ジャズ・フェスタ。国内のトップアーティストを集め、合計4時間ものライブをやるのだが、ジャズ仲間の多くが参加するし、確かに拓海も出ることになっている。が、オーデションの話など聞いたことがない。
 「オーディションって、何?」
 『あー、拓海たちは知らされてないのかな。あのさ、あのライブ、開場から開演まで結構時間があるじゃん。で、その時間を、セミプロとか売れてない連中の演奏で埋める訳よ。年末には参加申し込みしといたんだけど、書類とデモテープ選考で落っこちちゃったら格好つかないな、と思って、拓海には黙ってたんだ』
 「てことは、受かったのか。へぇ…、やったな」
 『ハハ、まーね』
 電話越しに聞こえる咲夜の声が、照れたような、ちょっと自慢げな声になる。
 選考が通っても、ジャズ・フェスタのメインに出られる訳じゃない。有名アーティストの前座の、しかも「そのオーディションに出る権利」―――それでも咲夜にとっては、とても嬉しいことなのだろう。お前はそんなとこで喜んでるレベルにはない、と言ってやったら、咲夜はどう思うだろう? …多分、たちの悪いジョークか、じゃなかったら嫌味としか取らないだろう。眉間に皺を寄せた表情までもが目に浮かぶ気がして、拓海はちょっと苦笑した。
 「で、オーディションは、いつ?」
 『再来週の土曜日。ライブある日だけど、日中だから大丈夫だと思う』
 「てことは、ええと……15日か。残念だなぁ…。出演者権限で、オーディション見せてもらおうかと思ったのに、俺、14日から3日連続で大阪だ」
 『バ…ッ、き、聴きに来なくていいよ! 拓海が見てたら、緊張するじゃん! 私だけじゃなく一成も!』
 「何を今更。俺の目の前で散々歌ってるだろ、お前は」
 『…気分的に、違うんだって。あーゆー場と、家とか店じゃ。ああ、良かった。拓海留守ん時で』
 「なんだか邪険にされた気分だな、おい…」
 ―――15日、か。
 考えてみれば、その前日・14日は、いわゆるホワイトデーとかいうやつだ。イベントごとには疎い拓海だが、この前のバレンタインデーに、相当な醜態を咲夜に晒してしまったので、ホワイトデーにはお詫びをお礼を兼ねて食事にでも連れて行ってやろう、と頭の片隅に留めておいたのだ。
 しまった、大阪だったか―――軽く舌打ちした拓海は、近日中のスケジュールを脳裏に思い描いた。アルバム制作が大詰めに入っているので、あまりのんびりしている時間はない。来週以降の予定は、かなり流動的だ。
 でも、1日だけ、なんとか都合のつきそうな日がある。

 「…じゃあ、今度の日曜にでも、合格祈願とホワイトデー兼ねて、どっか食事にでも行くか」

 それは拓海の、ちょっとした気まぐれだった。


***


 2月も残すところ2日となり、星が店を辞める日が近づいていた。
 28日できっちり辞めるところを、店のオープン当初からの常連客が週明けに予約を入れたこともあり、退職は3月3日月曜日まで延長になった。

 「え、送別会?」
 「ああ。って言っても、内輪での飲み会だけど」
 ぽい、と、包み紙の両端を捻った典型的キャンディを奏が放り投げると、咲夜は見事、片手でそれをキャッチした。
 眼下を、中高生が足早に通り過ぎる。この前までは、そのうちの多くが紺色のコートを身につけていたが、ちょっと前から制服姿の方が目立ち始めている。まだまだ寒い2月の末だが、それでも陽射しが僅かに春めいてきているのを、彼らも感じているのかもしれない。
 「内輪って?」
 「星さん本人と、氷室さん、テン、でもってオレ」
 「…大丈夫かね、その顔ぶれで」
 奏以外3名の心理を想像して、咲夜がキャンディを剥きながら渋い顔をする。咲夜には詳しい話はしていないが、氷室と星が人知れず付き合っていたことや、テンが氷室に振られたことなどは知っているので、そういう顔をするのも無理はないだろう。奏だって、氷室から予定を訊かれた時には、「いや、そりゃ無理だろ」と思わず言ってしまったほどなのだから。
 「…確かに、ちょっと前を考えると、傍にいて胃に穴があきそうなシチュエーションだけど―――仕事中を見る限り、結構あっさりしてるぜ、3人とも」
 「仕事中は、でしょうが」
 「いや。テンも、星さんと一緒に昼休み取ったりしてるしな。あっちはあっちで、色々話もしたみたいで、前ほどじゃないけど、そこそこ関係修復したらしい。氷室さんと星さんは、元々割り切れてる大人だし―――ま、本人たちがいいなら、いいかな、と」
 「…みんな、人間できてんなぁ」
 私なら無理だよ、と、キャンディを口の中に放り込み、咲夜が呟く。
 ―――いや。そうでもないだろ。
 奏は、不愉快さがモロ顔に出るから無理だろうが―――咲夜は、完璧なまでに何とも思っていないような顔を作って参加するような気がする。が、それは指摘しないでおいた。
 「とはいえ、オレ1人じゃ気まずいし、テンが暴れたら押さえ込めそうな人間いねーし……ってんで、咲夜も出てくれないかと思って」
 「ふぅん…。まあ、いいけど。いつ?」
 「まだ決めてないけど、辞める日の夜か、じゃなかったら前日の2日の夜にしようかと思ってる」
 奏が言うと、咲夜はちょっと眉をひそめた。
 「2日の夜? って、日曜だよね」
 「? ああ。星さんとテンは出勤してるけど、氷室さんとオレは休みだから、わざわざ出て行く形になるな」
 「…あー、その日は、ちと、無理だわ」
 「なんだ。先約か」
 「うん。拓海に会うんだ」
 飴を口の中で転がしながらなので、いささか不明瞭ではあるが、咲夜は確かにそう言った。
 が、あまりにもあっさりしすぎなその一言に、奏は僅かに目を見張り、少し身を乗り出した。
 「会う?」
 「そ。ほら、ジャズ・フェスタの予選通過の話。あれ昨日電話で報告したら、当日は大阪だから、オーディションの合格祈願とホワイトデーを兼ねて、今度の日曜に食事に連れてってやる、って。バレンタインデーの日、たまたま拓海の家を掃除しに行ったら、拓海、メチャクチャ酔って帰ってきてさ。その時の醜態の口止めもあるみたい」
 「…なんか、“会う”ってのは、初めて聞いたな」
 咲夜が時折拓海の家に行っているのは知っている。拓海のライブなどを聴きに行って、楽屋などで会うこともあるらしいのも知っている。が、そういう時使われるのは「拓海の所に行く」とか「ライブに行く」であり、「会う」という言葉ではない。
 直感的に、いつもとは違う、と感じた奏だが、それはあながち間違いではなかったらしい。咲夜は、奏の言葉を受けて、ハハハ、と気の抜けたような笑い方をした。
 「あー、だろうね。だって、わざわざ約束して食事しに行くなんて、これが初めてだもの」
 「えっ。そうなのかよ」
 「そんなもんでしょ。親戚だもん」
 ―――そりゃまあ、親戚なんだろうけどさぁ…。
 それでいいのかよ、という目を奏が向けると、咲夜はちょっとうろたえた顔をした。
 「な、何?」
 「…お前、欲なさすぎだぞ。いくら“一生片想いでもいい”ったって、可能性ほぼゼロって思ってんのは、お前の思い込みかもしれないだろ。麻生さん、フリーなんだから、もっと積極的に行けって。他のことにはアグレッシブなのに、なーんで麻生さんにだけは“待ち”の姿勢なんだよ」
 「…そんなこと言ったって…。今みたいな関係でも、別に」
 「あーまーい。もし麻生さんに本命の女でも現れたら、今みたいな関係すら無理になるぞ。家の掃除はその女がするし、他の女が入るのは嫌だ、っつって、お前も出入り禁止になるかもしれないぞ。それでいいのかよ」
 「……」
 そう言われ、咲夜は、眉根を寄せて想像してみた。
 暫し、想像をめぐらせた結果―――咲夜の顔が、もの凄く渋い表情に変わった。
 「…ビミョー…」
 「…あのなぁ。ほんとに好きなのかよ、あの人のこと」
 本気で、疑いたくなってくる。片想いも、10年も続けると、こうなってしまうのだろうか。明日美のセリフじゃないが、もう男女間の愛とか恋を超越して、アガペーとか言われる愛に転化されてしまっているのかもしれない。
 「じゃあ、もし麻生さんに“忘れられない人”なんかいなくて、遊び回ってはいるけどいずれは特定の女と落ち着きたいって思ってるとしたら―――自分がその本命になりたい、とは思わない?」
 「それは…思うけど…」
 唇を尖らせた咲夜は、視線を逸らすと、窓枠に頬杖をつき、小さく息をついた。
 「なんていうか―――昔はもっと、凄く凄く苦しかったからさ。拓海に対するいろんな“欲”を押さえ込むようになって……それに、慣れちゃったんだよね。欲しいと思うからこそ、苦しいんだからさ。別にいいや、想うのはこっちの勝手だ、って思うことができれば、多少胸は痛んでも、ドロドロした嫉妬とか寂しさとか、感じずに済むし。そういう風にコントロールするのに慣れちゃったから、なーんか…ピンとこないんだよね。拓海と“恋愛”してる自分の図、なんて」
 「慣れ、か…」

 でも、本当にそうだろうか。
 そうやって“欲”を押さえ込むことに慣れれば、本当に、嫉妬や渇望を感じずに済むんだろうか。
 単に「感じてないフリ」をしてるだけじゃないんだろうか―――父親に対する複雑な心理を、日頃、能天気な笑いで誤魔化して、見事に隠し切っているように。

 疑いの眼差しで奏がじっと見ていると、その視線に気づき、咲夜がこちらに顔を向けた。
 「……何」
 「いや、別に」
 「それが別にって顔?」
 「なんでもねーよ。ただ、オレなら無理、って思っただけ」
 「無理?」
 「オレなんか、今でも、成田と蕾夏の仲良さそうな場面見ると、上手くいってんだなって友人としてホッとする反面、悔しいし“オレだったら良かったのに”って思うし、かなり気分悪くなるぜ? 惚れた女なんだから、そうなって当然だろ?」
 「……」
 僅かに、咲夜の瞳が揺れた。
 微かな動揺を滲ませ、再び視線を逸らしてしまう。奏は単に自分の本音を言ったに過ぎないが―――そこにはどこか、咲夜の本音に触れる部分もあったのかもしれない。
 ―――案外、臆病な奴なのかもしれないな、咲夜って。
 拓海に拒否されること、拓海の傍に居場所を失うことを恐れて、“可愛い姪”の仮面を被って、自分はこれでいいんだと自分自身にまで嘘をついている―――そうやって何年も過ごすうちに、それしか出来なくなっている。それが、今の咲夜なのかもしれない。
 一成と“仲間”に戻るためにあれだけ大胆なことをやるような部分もあるのに……こと、拓海に関してだけは、まるで少女みたいに幼くて、臆病。…そんな咲夜の素顔を、今の表情に垣間見た気がした。

 こいつ、このままずっと、麻生さんの“姪”で終わるつもりなんだろうか。
 相手に気持ちも伝えてないし、相手の気持ちもわかってないのに―――それで一生終わって、本当にいいのかよ?

 「…よし。オレに任せろ」
 唐突に、奏が言い放った。
 謎の発言に、顔を上げた咲夜は、「は?」という目で奏を凝視した。
 「任せろ?」
 「初めて、麻生さんに食事に誘われたんだろ?」
 「う、ん」
 「姪と叔父、ってこと抜きにして考えれば、男に食事に誘われた女な訳だ、咲夜は」
 「…うん、まあ、そうなる、の、かな?」
 「でもお前のことだから、麻生さんとこに掃除に行くのと変わらない感覚でいるだろうし、ライブ見に行く時とおんなじようなファッションで行く気でいるんだろ」
 「当たり前じゃん。オシャレして何になんの、拓海相手に」
 「バカ、好きな男相手だからこそオシャレすんだよ、普通はっ!」
 「えええー、嫌だよ! 照れるじゃん、なんかー」
 「いいから、任せろっ!」
 ガン! と奏が手すりを叩くと、モロに嫌そうな顔をしていた咲夜も、慌てて口を噤み、頬杖をやめて姿勢を正した。
 「…ま…任せる、って、何する気?」
 恐る恐る訊ねる咲夜に、奏は自信あり気に、ニッ、と笑った。
 「咲夜を、初デート仕様に、オレがプロデュースしてやる」

***

 「何書いてんの、いっちゃん?」
 「んー…?」
 手帳の空白ページに、休みなくシャープペンシルで何かを書きこんでいる奏を見て、同じく昼の休憩から戻って来たばかりのテンが、不思議そうな顔をした。
 首を伸ばし、奏の手元を覗き込む。そして、驚いたように目を丸くした。
 「うわ、それ、デザイン画!? いっちゃん、デザイン画描けるん!?」
 「んー…、デザイン画、ってほどのもんじゃないけどなー…」
 元々美術系に強かった奏なので、絵そのものは、まあ普通レベルには描けた。モデルをやっている関係上、服飾の世界の裏舞台を結構見てきて、デザイン画などを目にする機会も多かったため、服飾デザイナーのデザイン画の描き方も、なんとなく頭に入っている。だから、モデル仲間の女の子から服装のアドバイスなどを求められると、以前からこうして、紙にマネキンのような絵を描いて説明していたりした。
 それに、奏の師匠である黒川賢治は、メイクアップアーティストとスタイリスト、2つの顔を持つ。「メイクとファッションは一対のもの」というのが彼の主張で、メイクに合わせて服や小物もトータルコーディネートするのが、彼の本職なのだ。
 今はメイクアップアーティスト1本に絞って修行中の奏ではあるが、黒川に半分弟子入りのようなことをしていた頃は、師匠の黒川をなぞる形で、メイクとスタイリスト、両方の勉強もしていた。その時に、黒川を真似て、全体のコーディネートのラフ画なども描いていたので、ファッションの事を考える時は、文字より絵を描く方が楽だ、と感じるレベルにはある。
 「何の絵? それ」
 「ん…、ちょっとな。ああ―――そうだ。星さんの送別会だけど、月曜日にしていいか?」
 デザイン画を描く手を休めず、奏が言うと、テンは意外そうに眉を寄せた。
 「え、なんで? いっちゃん、日曜の方がいい、言うてたやんか。月曜は、モデルの仕事で、事務所寄らなアカンかもしれへんから、って」
 「だったんだけどな。咲夜が、日曜の夜は、用事ができたから」
 「え、そうなん?」
 「テンだって、咲夜来てくれた方がいいんだろ?」
 「…うん。咲夜ちゃんおってくれた方が、気まずくなくて助かるわ」
 実を言えば、最初に「咲夜ちゃんにも来てもらえへんかな」と言い出したのは、テンの方なのだ。多少なりとも事情を知っているし、店の人間でない分、完全な第三者という立場を貫ける―――そういう人間が1人入ってくれた方が、事情を知りすぎている者同士だけが顔を揃えるよりマシだと思ったのだろう。奏もそれは、同意見だ。
 「ほんなら、星さんと氷室さんにも、月曜夜で決定って言うとくわ」
 「ああ、頼む」
 「今夜の店の送別会には、いっちゃんも出るんやろ?」
 「ん」
 答えつつ、奏の意識は、もうデザイン画にしか向いていなかった。

 奏の持ち出した計画に、咲夜は今ひとつ乗り気ではなかった。
 『だって拓海、その日は昼間、アルバムの打ち合わせの仕事が入ってんだよ? それが長引いたら食事はまた今度、ってことになってるんだから、奏が色々やってくれても、全部無駄に終わる可能性、5割位あるよ?』
 それでもいい、と思う。
 5割、無駄になる可能性があるのなら、同じ5割だけ無駄にならずに済む可能性もある訳だ。そしてその5割の中には、それまで姪としてしか咲夜を意識しなかった拓海に、1人の“女”として咲夜を意識させられるかもしれない可能性も含まれている。
 ―――ちょっと強引かもしれないけど、その位しないと、あいつ、ずーっとあのまんまだろ。
 正直な話、単に咲夜をイメチェンさせてみたい、という職業的興味も、かなりの割合であったりするのだが―――やっぱり、咲夜には、一生で一度の恋と決めた恋を、実らせて欲しい。その手助けが、少しでもしたかった。

 ―――あいつ、手足長いし、首も細くて長めだから、佐倉さんが言ったとおり、どっちかっつーとモデル体型なんだよな。
 絵を描きつつ、日頃ぼんやりとしか見ていない咲夜の姿を、もう一度、スタイリストとしての目で見直す。
 背が伸びずに佐倉を嘆かせたが、確かに咲夜の体型はバランスが取れているように思う。普段はボーイッシュな服ばかり着ているが、以前、ミルクパンが逃げて大騒ぎした時、マリリンに借りた大きなセーターをワンピースのように着た咲夜は、案外脚の形が綺麗だった……気がする。意外に、ミニスカートなど穿かせたら、かなりのイメチェンになるのではないだろうか。
 ごちゃごちゃしたアクセサリーは、絶対似合わない。フリルの類もまずい気がする。色も、顔立ちがあっさりしているから、原色はあんまり似合いそうにない。
 ―――あ、そうだ。服選ぶなら、サイズがわからないとまずいか。
 帰ったらさっそく採寸をしよう。スタイリストと化した奏は、当然のように、そう考えたのだが―――…。

 

 「ぎゃーっ! ちょ、ちょっと、冗談!! パス! 絶対パスー!!」
 「はぁ? 何言ってんの、お前。採寸しなきゃ、服買える訳ないだろ」
 メジャーを持った奏に追いかけられ、咲夜は必死に「パス」を繰り返した。
 「エ、Mサイズ9号でいいってば!」
 「オレが行く店の大半が、Mサイズとか9号なんて書き方してないんだっつーの。アメリカンサイズで、自分のサイズ言えるか?」
 「知らないよそんなのっ!」
 「ええい、うるさい!」
 「わああぁ!」
 背後から突き飛ばす。倒れる先をベッドの上にしてやったのは、せめてもの配慮だ。ものの見事に突っ伏した咲夜をえい、と足で押さえつけて、まずは肩幅から測る。
 「いいってばさー、服なんて、いつものでー。どうせ拓海のことだから、気合入れてオシャレしてったって、“何それ、新しいコスプレ?”とか言うに決まってるよぉ」
 奏の下でジタバタしつつ、まだ咲夜がぶつぶつ言っている。が、奏はまるっきり動じない。淡々と、折り畳んだ紙に咲夜の肩幅を書き付ける。
 「そんでもいいんだって。“隣の奴の練習台にされた”って言っとけよ。はい、次。腕伸ばして」
 「…はいよ」
 もう、諦めの境地だ。がくりとうな垂れた咲夜は、ベッドに顔を埋めつつ、ぶっきらぼうに腕を伸ばした。
 「あんたさぁ…、まさか明日美ちゃんにもこんな真似してたんじゃないでしょうねぇ?」
 「まさか。目が合っただけで赤面してどもるような子だぞ。押さえつけて採寸なんかしたら、何をどう勘違いされるかわかんないだろ」
 「なんか、差別ぅ。すんごい扱いの違いじゃん……って、ぎゃあああああ!!」
 みぞおちを抱えられた咲夜の上半身が、一瞬、宙に浮く。咲夜が文句を言う前に、奏はさっさとメジャーを巻きつけ、メモリを読んだ。
 「えー、お前、案外胸あるじゃん。麻生さんから“おうとつゼロ”って言われたとか聞いてたから、相当悲惨な状況かと思ってた」
 「あーほーかー!!! こんなもんまで測るなんて聞いてないっ! 変態! セクハラ反対ーっ!」
 腕をポカポカと殴る咲夜を無視して、多分世の女性の多くが虚偽申告しているであろうスリーサイズをさくさく測る。セクハラと言われようとも、この3つを測らないことには、体に合う服なんて絶対見つけられないのだ。
 「よし、採寸終わり、っと。靴だけは足慣らしに時間かかるだろうから、あり物でなんとかするか…。スニーカーとかローファー以外の靴、何か持ってる?」
 「…2、3足、持ってます…」
 「じゃ、携帯カメラで撮らせて」
 「…好きにして」

 咲夜、完全敗北。
 かくして奏は、仕事の合間の時間を利用して目ぼしいセレクトショップを細々と回り―――いよいよ、3月2日当日を迎えたのだった。

***

 ノックを、2回。
 「おーい、着替えたか?」
 「―――んー、いいよー、入ってきて」
 メイク道具一式を携えた奏は、咲夜の返事を受け、ドアを開けた。
 奏に渡された服に着替え終えた咲夜は、酷く心もとない様子で、玄関先に佇んでいた。
 「…どう、かな」
 「…なかなか、やるじゃん」

 控え目にスリットの入ったミニタイトスカートは、咲夜の脚によく似合っていた。セレクトショップで一目惚れしたベルトが、シンプルな黒一色のスカートによく映えているし、春先らしいオフホワイトのセーターは、襟ぐりが普段咲夜が着るものより広く開いていて、オーソドックスながらも女らしく見えた。
 普段、ただ耳にかけて後ろに流しているだけの髪も、片方だけアンティークな色合いのヘアアクセサリーで留めてある。そのアクセサリーとほぼ同じテイストの一連のネックレスが、胸元に光っていた。
 エネルギッシュで活動的な咲夜なのに、どんな色がいいだろう、と考えた時、奏の脳裏に浮かんだのは、どこか寂しげな淡いラベンダーカラーだった。控え目な配色の中、耳元に光る小粒のタンザナイトのピアスは、偶然にも以前、拓海から卒業祝いにプレゼントされたものらしい。ということは、案外拓海も、咲夜のイメージはああした薄紫色だと思っているのかもしれない。

 咲夜らしい配色。けれど、普段の咲夜とはまるっきり違う印象だ。
 想像以上に女らしくなってしまった咲夜に、見る目あるじゃんオレ、と自画自賛する。と同時に、案外イケてるじゃないか、と咲夜のことも見直した。
 「オレ、スタイリストの方メインにすりゃ良かったかなぁ…。メイクよりこっちの方が才能ありそうだ」
 「黒川賢治みたく、両方やれば?」
 「じゃあ、咲夜は実験体第1号か」
 「…ひど…」
 むくれる咲夜に苦笑した奏は、メイク道具をローテーブルの上に置き、メイクの準備を始めた。
 「じゃあ、そこ座って」
 「うー…、なんか、緊張するなぁ…」
 ぶつぶつ言いつつも、咲夜も大人しく、ベッドの端に腰掛けた。服汚れないようにしろよ、と前もって言われていた咲夜は、用意したタオルを襟元にぐるりと巻きつけておいた。
 「言われたとおり、洗顔しかしてないよ」
 「おっけー。じゃ、始めるか」

 メイクは、順調に進んだ。
 下地を整え、ファンデーションの色を作り、丁寧に塗っていく。普段饒舌な咲夜だが、その間、ひたすら無言だった。
 「…なんか、やけに大人しいな。調子狂う」
 「…だってさぁ…。なんか、照れるよ、これって」
 「照れる?」
 「奏も、やられてみりゃわかるって。まな板の鯉状態で、顔、好き勝手弄られてるしさ。美容院で髪カットする時以上に、距離近いし」
 「ああ…、そういえば」
 明日美も、もの凄く照れていたっけ。最初に奏がメイクを担当した時。
 奏は、客の立場にはなれないので、客から見て自分たちメイク担当者がどう見えるのか、全然わからない。が、確かにこうして見ると、眉を描いたりアイラインを引いたり、という1ミリ単位の作業になると、相手の顔との距離がかなり近くなる。明日美が赤面したのも、そう考えると無理もないことなのかもしれない。
 ―――って、あんまり意識すると、やり難いよなぁ…。
 普段は見知らぬ第三者、というか客と認識しているだけの存在を相手しているので、全然意識することはないが―――日頃から親しい人間が相手だと、なんだかこちらまでむず痒くなってくる。アイシャドーを瞼のきわに入れていた奏は、危うく手元が狂いそうになり、慌ててチップを持ち直した。

 意識しないように、意識しないように―――呪文のように唱えてみるものの、さすがに、最後に口紅をひく時は、手が震えそうになった。
 ―――よ…よくオレ、日頃、こんなことフツーにこなしてるな。
 相手は咲夜だ。ほんの2、3日前、メジャー片手に格闘した相手だ。そう思っても、唇の形をリップブラシでなぞるのは、冷静ではいられない。グロスまで塗り終えた時、奏はなんだか、10人以上の客を相手にメイクをこなした後のような疲労感に襲われた。

 「―――…もう、いい?」
 「…ん、完了」
 メイクの間中、ひたすら目を閉じたままでいた咲夜が、やっと目を開いた。
 そして立ち上がり、玄関脇に置いてある、ほぼ全身を映すことができる姿見の前に立つと―――そこに映る自分を見て、僅かに目を見開いた。

 メイクをしたところで、やっぱり咲夜は、咲夜だ。顔がコロッと変わった訳ではないし、美人かどうかという判断も、素顔の時とさして変わらないだろう。
 でも、どこかが―――服装を変えてもなお変わらなかった部分が、変わっていた。
 普段、咲夜が絶対に見せることはない、“女”な部分―――人によってはそれを“色香”と呼ぶのかもしれない。少年のような中性っぽさを持った咲夜だが、中身は極当たり前の、24歳の女性だ。恋する相手もいれば、逆に恋された経験もある。鏡の中の咲夜は、そういう、当たり前の大人の女になっていた。

 「―――どう? 気に入った?」
 咲夜の後ろから鏡を覗き込み、訊ねる。それでも咲夜は、まだ自分の顔を呆然と見ていた。
 「…お前さ。麻生さんの前で“女”捨てることに慣れてきたから、こういう自分なんていない、って思い込んでんだろ。ちゃんとそれなりにすりゃ、そこいらの女よか、ずーっといい女になれるのに―――勿体無いと思わねーの? 一生、麻生拓海の“可愛い姪”で終わるのは」
 「…それ言いたくて、こんなことしたの? 奏は」
 やっと奏の提案の真意に気づいたらしく、咲夜がポツリと呟く。鏡越しに目が合い、奏は薄く笑みを返した。
 「オレは、どう頑張っても、今抱えてる想いを叶えることはできないけどさ。…お前の方は、不可能じゃないって、マジで思う。お前が思ってるほど絶望的じゃない、って。なのに―――それに、咲夜自身が気づいてないなんて、勿体ないだろ」
 「……」

 瞳を揺らした咲夜は、もう一度、鏡の中の自分の姿をじっ、と見つめた。
 1分ほども、そうやって見つめ続けただろうか。やがて小さく息をついた咲夜は―――鏡の中の奏に、ふわりと微笑んだ。

 「…ありがと」

 どことなく儚げな、気だるさをまとったような、笑み。
 その笑みを向けられて―――不覚にも、ドキリとしてしまった。

 「…っと、うわ、あんまり時間ないや。あと、何か準備することってあったっけ?」
 腕時計を確認した咲夜は、慌てた様子で鏡から離れ、一旦外してあったピアスをもう一度付け直し始めた。一瞬動揺してしまった奏は、それを誤魔化すように髪を掻き上げ、ええと、と周囲を見回した。
 「あー、そうだ。バッグって、どれ持ってくんだっけ」
 「一応、普段のより小ぶりの革バッグ持ってく。黒だから、色は合ってると思うよ。どぉ?」
 ショルダーバッグを肩にかけた咲夜は、腰に手を当てて、ポーズをとって見せた。
 「…ま、そんなもんか」
 「あ、ねぇ、服とアクセサリーの代金、ほんとに半分だけでいいの? こっちは千円の市販チョコだったから、なんか申し訳ないよ」
 「いい、いい。オレのがはるかに高給取りなんだから。モデル辞めたら収入減るし、太っ腹なことできんのもあと半年ちょいだろ」
 一応、バレンタインにもらったチョコのお返し、という名目で、トータルコーディネートにかかった費用の半額を奏が負担したのだ。咲夜は何度も「全額払うからレシート貸して!」と言ったのだが、半ば強引に押し付けた計画なので、さすがに全額払わせるのは気が引けたのだ。

 結局咲夜は、その上から薄手のハーフコートを羽織り、極々シンプルな黒のパンプスを履いた。就職活動用に買った靴らしいが、入社式以来、冠婚葬祭以外では全然履いていなかったのだそうだ。
 「ひえー…、転ばないかな」
 「転ぶなよ。ミニスカートで転ぶと、悲惨だぞ」
 「やなこと言うなぁ、全く…」
 出かける咲夜と一緒に、メイク道具をまとめた奏も、咲夜の部屋を出た。午後4時半―――太陽の光はすっかり夕方の色に染まり、早くも夜が近づいている気配を漂わせていた。
 「これでドタキャンになったら、ほんと、奏に申し訳ないなぁ…」
 「ま、いいじゃん。その時はその時で」
 咲夜に自信を持たせるのが一番の目的なのだから、拓海が来るか来ないかはおまけみたいなものだ。さっきの奏のセリフで、それをちゃんと理解しているのか、咲夜は「それもそうだね」と言って、奏に笑みを返した。
 鍵をかけ終え、ほっ、と息をついた咲夜は、きちんと奏に向き直り、もう一度言った。
 「ありがと。ほんとに」
 「―――ん。じゃ、がんばれよ」
 「ハハ、拓海が来れば、ね」
 奏の右手と咲夜の左手で、パチン、と軽く手のひらを合わせる。くるりと踵を返した咲夜は、履き慣れないハイヒールをコツコツといわせながら、階段を下りて行った。

 「……」
 ―――なんだか、なぁ……。

 廊下に1人残った奏は、咲夜の後姿が消えた方向をぼんやり眺めつつ、説明のつかない気分に、少し苛立ったように髪を掻き毟った。

 …もしかして、「花嫁を送り出す父親の心境」って、これに近いのかなぁ…。


 がんばれよ、と応援する気持ちが、8割。
 ほんとに大丈夫かあいつ、という心配が、1割。
 残り、1割は―――ちょっと惜しいことしたな、という、どことなく面白くない気分だった。


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