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― My Fair Lady /side. Saya

 

 あれは確か、高3の時。
 大学生のバンドのライブに客演として呼ばれ、1曲歌うことになった咲夜は、生まれて初めてメイクというものをした。
 知り合いに道具を借り、見よう見まねで化粧した顔は、自分自身では、初チャレンジにしては合格点なんじゃない? という感じだったのだが。
 『ねーねー、どうよ、これ』
 拓海に感想を求めると、返ってきた答えは、
 『…なんか、イマイチ』
 だった。
 『なんかなぁ、俺は素顔の方が好みだよなー、あっさりしてて。お前、デートのためにそんなメイクしてんなら、やめとけよ。相手の男、誰だかわからなくて、お前の前素通りするぞ』
 メイクに対する辛辣な感想より、人の気も知らないで他人とのデートの可能性を口にする拓海にムカついた咲夜は、参考書とバインダーを拓海に投げつけておいた。


 ―――あれ以来だよなぁ、本格的にメイクしたのなんて。
 自動ドアのガラスに映った自分の顔を見て、咲夜はそんな昔のことを思い出し、僅かに眉根を寄せた。
 いつもとは違う自分の姿は、少々気恥ずかしい感じもする。軽く深呼吸をして、待ち合わせの喫茶店に足を踏み入れた。
 「いらっしゃいませ」
 お好きなお席へどうぞ、と店員に言われ、店内をぐるりと見渡す。喫茶店というよりはカフェに近いその店は、暖かい時期には、通りに面した戸を開いてオープンカフェスタイルになるらしい。ずらりと並ぶ大きなガラス戸からは、拓海が仕事で訪れている筈のビルが見えた。
 時計を確認すると、約束の時間まで、まだ30分近くある。咲夜は、窓際の席を選んだ。
 「ご注文はお決まりですか?」
 「…じゃあ、コーヒーで」
 オーダーを受けて去っていく店員を見送りつつ、脚を組む。咲夜はバッグから携帯電話を取り出し、テーブルの上に置いた。「ごめんごめん、やっぱり仕事、終わらないんだ。また今度な」―――そんな電話がかかってくると、8割ほど、思っているのだ。
 暇つぶしのために途中で購入した音楽雑誌を開いてみたが、あまり読む気になれない。パラパラとめくってみても、咲夜の目にはその内容などほとんど入ってきていなかった。
 落ち着かない―――運ばれてきたコーヒーを、ブラックのまま、口に運ぶ。その苦味に、ほんの少しだけ、浮ついた心が宥められた気がした。


 どうせ、いつもの拓海の気まぐれだ。
 家に遊びに行ったのに、「今日はなんとなく映画を見る気分だ」なんて言って、咲夜を連れて映画館に行ってしまったこともあった。ピアノを聴かせてくれる筈が、「調子が出ない」の一言で結局咲夜が夕飯を作っただけで終わったこともあるし、それとは逆に、予定外にピアノを弾きだして、なんと2時間もの単独リサイタルを独り占めしたこともあった。どれも、拓海の気まぐれ―――なんとなくそんな気分だったから。それだけだ。
 でも―――同じ気まぐれでも、今回はちょっといつもとは違う気がして、落ち着かない。
 原因は、わかっている。あの日―――バレンタインデーの日に、危うく聞き逃しそうになった、拓海の一言のせいだ。

 『お前、無欲すぎるぞー。タダで掃除してチョコ置いてって、それで満足なのか?』

 ―――何それ。まるで私が、何かの見返りを期待して掃除してるみたいじゃん。
 馬鹿にするな、とムッとした咲夜だったが……後日、その言葉の意味を改めて考えた時、ある疑いが浮かんできてしまった。

 まさか、とは思うけれど。
 もしかして、拓海は―――気づいているんだろうか。この想いに。

 「…んな訳、ないか」
 あれ以来何度目ともわからない一言を、低く呟く。
 ない。ある訳がない。知っていれば、わかった時点でジ・エンド―――プライベート空間に自分に気のある女を入れたがらない拓海だ。咲夜のことだって、さっさと追い出す筈だ。親戚だろうが家政婦だろうが弟子1号だろうが、とにかく、咲夜から合鍵を取り上げていない、という事実こそが、咲夜を色恋沙汰の範疇外に置いている証拠だろう。
 でも、そうだとすると、あのセリフは何だったのだろう?
 ―――無欲すぎる……うーん、拓海は、私がどういう見返りを求めると思ってんだろ? おもちゃに喜ぶ子供じゃないし、洋服やアクセサリーの類にも関心ゼロなの、拓海が一番よく知ってるし。となると…ピアノ1曲聴く権利とか? その割に、あれに続いた言葉って「1曲歌っていけ」だったよなぁ…。第一、ベロベロに酔っ払った拓海のピアノなんて、サイテー。酔払い運転なジャズなんて聴きたくないし、拓海だって聴かせたくないだろうに。
 …と、なると。
 あり得ない、と何度思っても―――やっぱり、想像は、同じところに行き着く。拓海の言葉が意味する“無欲”は、咲夜が「拓海を」求めないこと―――ただ尽くすだけで、拓海を独占しようとしないこと。…やっぱり、そういう意味としか思えない。
 じゃあ、何故、拓海は咲夜を追い出さないのだろう?
 咲夜ならば、身の程をわきまえて、拓海が守りたい領域にズカズカ押し入ったりしない、と信用してるから? 無欲すぎる、なんて言われても、はいそうですか、と欲を出すような奴でないことを重々承知しているから、咲夜の気持ちを知った上で、あの空間を提供してくれているんだろうか。
 ―――…“叔父”、として。


 僅かな苛立ちに、小さく舌打ちする。
 ―――私の方は、“叔父さん”だなんて思ったこと、一度もないのに。
 パタン、と雑誌を閉じた咲夜は、また時計を確認した。既に、約束の時間を5分オーバーだ。予想通りなので、怒りも驚きもない。雑誌を隣の席に片付け、コーヒーカップを口に運んだ。
 最近、こうやって暇な時間を持て余していると、余計なことばかり考えてしまう。隣の席に置いた雑誌を、読むでもなくパラパラとめくっては閉じ、めくっては閉じする。そんな中―――浮かんできたのは、奏のセリフだった。

 『…あのなぁ。ほんとに好きなのかよ、あの人のこと』
 『じゃあ、もし麻生さんに“忘れられない人”なんかいなくて、遊び回ってはいるけどいずれは特定の女と落ち着きたいって思ってるとしたら―――自分がその本命になりたい、とは思わない?』

 それって、本当に恋なんでしょうか―――明日美の言葉が、奏の言葉に重なる。
 …わからない。恋であろうが何であろうが、咲夜は拓海を好きだ。
 認めたくないけれど、今でも時々、他の女と拓海の情事を考えると、酷く胸が痛くなるし、苦しくて涙が滲むことだってある。
 あれだけ際どい関係になっておきながら、一成に触れられても「仲間同士のスキンシップ」としか感じないが……拓海相手だと、全く違う。拓海にキスをされれば、それが挨拶とわかっていても鼓動が速くなるし、この前みたいに抱き寄せられれば気が変になりそうになる。
 もし、拓海が、好きだと言ってくれたら―――そのまま死んでしまってもいい、って、本気で思うかもしれない。
 その位、拓海が、好きだ。
 なのに……何故、自分は、拓海を望まないのだろう?
 いつも、いつも、心にストップをかける。知られちゃいけないし、たとえ冗談でも“叔父と姪”、“憧れのアーティストと修行中の歌い手”のラインを超えちゃいけない―――“男と女”になんて、絶対になっちゃいけない。そんな焦燥感から、踏み出しかけた足を、引っ込める。いつも、いつも……もう、何年も。

 ―――自信がない、から、なのかなぁ…。
 コーヒーを飲みながら、チラリと、窓ガラスに目を向ける。
 窓の外は、すっかり暗くなっている。街灯はあるものの、ガラスには外の景色より鮮明に、コーヒーカップを手にして脚を組んでいる自分の姿が映っていた。
 いつもよりはずっと大人びて、女らしく見える自分―――確かに奏の言う通り、こういう自分もいたのか、と目から鱗が落ちた気分だ。今の自分なら、拓海と並んでも“恋人同士”に見えるかもしれない。そう思えた分だけ、「お前が思うほど絶望的じゃない」という奏の言葉を信じる気にはなった。
 でも―――“あの人”は、まるで桁違いだった。
 恐らくは、拓海の元・恋人。拓海が今も忘れられない人……もしくは、もう誰も愛せなくなるほど、拓海を傷つけた人。その真相は、わからないけれど―――“今”の拓海になった、その原点にいると思われる女性。
 先日、偶然見かけてしまった彼女は、あれから随分経っているのに、相変わらず綺麗で、優美で、まるで妖精か女神のようだった。彼女と比較したら、咲夜のささやかな自信など砂粒ほどの価値もない―――ああ、だから、勝ち目がないから、負けを認める前に踏み出した足を引っ込めちゃうのか……と、咲夜は自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。


 また、結構時間が経った気がした。
 腕時計を見ると、約束の時間から、そろそろ15分だ。もう1杯、何か頼もうかな―――咲夜は、コーヒーカップの残りのコーヒーを一気に飲み干した。
 「……っと、」
 カタン、と置いたカップには、普段見ることのない口紅の跡がついていた。
 普段使っている口紅を大人っぽくしたような、ブラウンローズの口紅―――大体、グロスというやつも初体験だ。やたら収まりの悪い感触で、何かを飲み食いしたら取れてしまいそうな感じだった。何も考えずにごくごく飲んでしまったが、こんな風に跡が残っているということは、もしかして口紅が剥げてしまっているのだろうか。
 慌ててバッグを開いた咲夜は、中からコンパクトを取り出し、パチン、と開いた。鏡で確認すると、やっぱり、上唇の口紅が薄くなってしまっていた。
 「あー、もう…」
 面倒だなぁ、と思いつつも、口紅を紅筆に取り、唇に筆を走らす。普段なら、剥げてもいいや、と放置するのだが、奏の力作なのだから、せめて今日1日位は綺麗な状態をキープしないとまずいだろう。
 なんてことを考えていた咲夜は、ふと、つい2時間半ほど前のことを思い出し―――紅筆を持つ手を、止めた。

 「―――…」
 ひたすら目を瞑ってたから、見てはいないけど―――さっきは、奏が、こうやってルージュを引いてくれた…んだ、よ、ね?

 途端、なんだか、体温が3度位上昇したように、顔が熱くなった。
 ―――ひ…ひえええぇ、じょ、冗談ー! 想像しただけで恥ずかしいじゃん、そんなのっ!
 他人に化粧を施してもらうこと自体、今回が初めてだ。しかも相手は、男で、それもよりによって、奏だなんて―――理由なんてうまく説明できないけれど、とにかく、とんでもなく恥ずかしい。慌てふためいた咲夜は、その時の感触を思い出したくなくて、大急ぎで適当に口紅を塗り、バタバタとコンパクトと口紅をバッグにしまった。
 「っ、あ、す、すいません! ホットココア1つ!」
 ちょうど通りかかった店員を呼びとめ、追加オーダーを頼む。
 ―――あ…あいつ、よくあんな仕事してるなー。客って全部、女じゃん…。あんだけの至近距離で、毎日口紅塗ったり眉描いたりして、変な気分になったりしないのかなぁ…。
 心臓が、バクバクいったまま、なかなかおさまらない。氷が全て融けてしまった水をくいっ、と飲み、咲夜は、雑誌をもう一度テーブルの上に広げた。

***

 更に10分―――約束の時間からは、そろそろ30分近くになろうかとしていた。
 やっと雑誌記事にも目が行くようになり、今月来日する海外アーティストのインタビュー記事を熱心に読んでいた咲夜だったが。
 「……?」
 トントン、と、誰かが肩を叩いた。
 誰だろ、と顔を上げると、そこには、全然知らない顔の若い男が立っていた。
 多分、見た目は一般的には「いい男」な方だろう。咲夜と同じ位か、もう少し上―――ベージュのジャケットを羽織っているが、日曜日なだけにその服装は完全な遊び仕様だ。
 何、という目で咲夜が見上げると、男は、やたらさわやかな笑顔で口を開いた。
 「さっきから見てたけどさ、君、もしかして1人?」
 「…は?」
 キョトン、と目を丸くする。
 ―――何、このナンパみたいなセリフ。
 「僕もさ、友達と待ち合わせしてたけど、どうもドタキャンされちゃったみたいでさ」
 「…はあ」
 「もう日も暮れちゃったし―――どう、今から一緒に、食事でも行かない?」
 「はぁ!?」

 ナンパ“みたいなセリフ”じゃないじゃんっ! 本物のナンパだよっ!!!

 人生、24年。遠い昔に勘違い大学生に後姿だけで声をかけられて以来の事態だ。思わず咲夜は、辺りを見回してしまった。
 残念ながら、前の席には、人がいない。後ろの席には人がいるが、ナンパ男にとっても“背後”だ。
 ―――どう見ても、私に言ってるんだよね、これ。
 わーい声かけられちゃった、と喜ぶほど、咲夜はおめでたくない。たまに、ナンパにあった数が美人度・魅力度のバロメーターだと勘違いしている女がいるが、そうではないことを咲夜はよく知っている。高校時代のバンド仲間に、よく渋谷でナンパしていた奴がいたが、奴いわく「簡単にヤれそうな女にしか声かけないよ」とのことだった。つまり、よく声をかけられる女は、イコール魅力的な女性、ではなく、軽そうな女、なのである。
 よって、咲夜は、この人生2度目のナンパに、一気に不愉快そうな顔になった。
 「…そっちはドタキャンらしいけど、こっちはまだ人待ち中だから」
 軽く目を眇め、ホットココアのカップを口に運ぶ。もう話す気ないです、という意志表示のつもりだったが、男は全然引かなかった。
 「けど君、もう1時間もこの店にいるじゃん。ずっと見てたけど、電話かかってくる様子も、メールがくる様子もないしさ」
 ―――ストーカーか、貴様は。
 店に入った時から観察されていたとは、鳥肌ものだ。本気で総毛立った咲夜は、カチャン、とカップを置き、不敵なまでの笑みを作った。
 「余計なお世話。第一、約束があろうがなかろうが、あんたと食事する気なんて、全然ないから」
 「えーっ、つれないなぁ。何、このまま相手が来るの、何時間も待ってる気? つまんないじゃん。俺と一緒に行った方が、時間の有効活用だって」
 「ハハハ、有効活用なんて単語、知ってんだ。断ってるのも理解できないみたいだから、まだ幼稚園か小学校かと思った」
 「き、きついなー…。引き下がらないのは、君が魅力的だからなんだけどなー」
 「しつこいよ。お断りっつったらお断り。さよーなら」
 そう言って、ぷい、と顔を背けかけた時。
 男の背後から近づいた人影が、男の頭を、バコン! とかなりの勢いでひっぱたいた。
 「イテッ!」
 「…コラ。人の連れを、何口説いてるんだ」
 驚いて、顔を上げると―――そこには、憮然とした顔の拓海が、立っていた。
 「拓海…!」
 「よ。遅くなったな」
 ニッ、と笑う拓海と、席を立ちかけている咲夜を見て、どうやらその場しのぎの芝居ではないことがわかったのだろう。ナンパ男は、叩かれた頭をさすりつつ、すごすごと退散していった。一刻も早く立ち去ることばかり考えていたのか、そのままレジを素通りしかけて、店員に呼び止められていた。
 「ふぅん…。ついてくる女かどうかも見極められないで声かけてるんじゃ、ナンパ初心者だな」
 「…拓海が言うと、自分はプロフェッショナルだ、って言ってるみたいに聞こえるよ」
 呆れ加減に咲夜が言うと、振り返った拓海は、とんでもない、という風に笑った。
 「まさか。俺は、ナンパされる側だよ。何が悲しくて自分から声かけてまで女漁りしなきゃならないんだ?」
 「はいはいはいはい」
 そうでしょうとも、そうでしょうとも―――世の男どもが聞いたらボコボコにされそうな発言だ。ため息をついた咲夜は、軽い頭痛と眩暈を感じて、思わず額を手で押さえた。
 「んで? 仕事は終わったの?」
 気を取り直して、本題を切り出す。すると拓海は、済まなそうな顔になって頭を掻いた。
 「いや、それが―――ライナーノーツの部分で、かなり意見がスタッフ内で割れちまって」
 「えっ、じゃあ、まだ終わんないの?」
 待ち合わせ場所に現れたから、てっきり仕事が終わったのだと思っていた。が、拓海がバツが悪そうに告げた答えは、予想外だった。
 「まだ1時間はかかりそうなんだ。しかも、1時間きっかりで終わるかどうかも微妙だし―――待たせておける時間じゃないんで、休憩取って走って来た。…どうする? どっかで時間潰せるか?」
 「―――…」

 驚き、だった。
 こんなことのために―――電話で済むような話のために、仕事をわざわざ抜け出して、直接伝えに来るなんて―――約束通り仕事を切り上げて現れる以上に、びっくりだ。

 信じられない、という風に何度も目を瞬いた咲夜は、暫し、言葉すら出てこなかった。
 「? おい、大丈夫か?」
 ぺちぺち、と頬を軽く叩かれ、ハッ、と我に返る。誤魔化すように笑った咲夜は、慌てて腕時計に視線を落とした。
 「え、ええと―――もうすぐ7時かぁ…。さすがに待ってるのはキツイかなぁ」
 「やっぱりそうか…。悪いな」
 「ううん」
 なんとも思ってないよ、と首を振る。
 実際、なんとも思っていなかった。それどころか、1時間半でも2時間でも、待っているのは構わなかった。ただ―――咲夜がここで待っていたら、拓海も気になって、仕事に集中できないだろう。実際、こうして仕事を抜けてきてしまったのだし。大事なアルバムの仕事の邪魔をするのは、やっぱり嫌だ。
 「また、暇ができたら、おごってよ」
 「おお。リクエスト、何か考えとけよ。それにしても―――…」
 そう言って、拓海は少し咲夜から離れ、腕組みして咲夜の顔をまじまじと眺めた。
 「化けてるなぁ、今日は。一瞬、誰だかわからなかったぞ」
 ぎくり、と咲夜の顔が強張る。珍妙なコスプレ扱いされるかもしれない、と身構えつつも、乾いた笑い声を上げる。
 「ハ…、ハハハハハ、い、いやー、実は、奏の練習の餌食になっちゃって」
 「へーえ、一宮君のメイクか」
 「うん。それと、スタイリストもちょこっと勉強したから、服も…」
 「そりゃ凄いな。ふぅん…さすが、黒川賢治の弟子、ってなとこか」
 「いや、その、私はやめとけって言ったんだよ? 拓海と食事する位のことで、そんなにオシャレしなくても―――…」
 弁解するように、そう言いかけた咲夜だったが。
 顎に手をかけられ、続く言葉を飲み込んだ。

 唇に、軽く触れた、拓海の唇。
 ものの、1秒か2秒―――けれど、それは、挨拶ではないキスだった。

 思わぬ事態に、ポカン、と見上げる咲夜を、拓海は余裕の笑みで見下ろした。
 「レディとの約束を延期させるからには、お詫びのキスの1つや2つ、しとくのが礼儀かと思って」
 「……」
 途端―――ここがどこだか思い出して、一気に顔が熱くなった。
 「っ、バ、バカ! そんな礼儀、聞いたことないよっ!」
 「ハハハ、ごめんごめん」
 「ほんっとに、あんたの悪趣味には付き合いきれないっ」
 「そんな、普段より可愛い顔で怒られても、全然怖くないよなぁ」
 楽しげに笑った拓海は、ぽんぽん、と咲夜の頭を撫でた。
 「ま、この後どうするか知らないけど、さっきのナンパ君みたいな奴に狙われたら、完全無視で、交番駆け込めよ」
 「……」
 「じゃ、また」
 こら。公衆の面前でキスしといて、1人で店に置いて行くなっ。
 と言いたかったが、言葉にならなかった。握り拳で怒りを抑える咲夜をよそに、拓海はくるりと踵を返し、店を出て行ってしまった。
 ―――し…信じられない…っ! なんて奴! サイテーっ! もう、絶対、絶対、次会った時に今の10倍位文句言ってやる…!!
 悪態を思いつく限り並べ立てながら、ストン、と椅子に腰掛ける。周囲を気にしてこっそり見渡してみたが、一瞬の出来事だったから見ていない人が多かったのか、もしくはこの程度のことは何とも思わない人ばかりだったのか、咲夜の方を見ている人は、視界に入る範囲内では誰もいなかった。
 ―――でも、まあ。
 レディと言ってくれた、ということは……一応、この格好は、合格だったんだろうか。
 あれでも拓海は、褒めてくれたつもりなのかもしれない―――だからといって、あの暴挙はあんまりだとは思うが。はぁ、と息を吐き出した咲夜は、気を落ち着かせようと、ココアのカップをまた手に取った。
 すると。

 “トントン”。
 「……」
 また、誰かが、肩を叩いた。
 さっきの嫌な記憶が、頭をよぎる。またナンパ野郎か? と眉を顰めた咲夜は、半ば睨むようにして、背後斜め上を見上げた。
 が、トントン、の主の顔を確認したら―――咲夜は思わず、目も口も大きく開いてしまった。
 「そ……奏っ!!??」
 それは、どう見ても、奏だった。
 ただし、一見、累っぽくもあった。そう―――サングラスではなく、眼鏡をかけていたのだ。でも、一度、2人を並べて見たので、間違うことはない。第一、累はとっくにイギリスの筈だ。
 「な、何してんの、こんなとこで!」
 「……や、何、って……」
 酷く気まずそうな顔をした奏は、視線を泳がせながら、眼鏡を取った。
 「まあ―――言うなれば、“売り手の良心”?」
 「…意味わかんないんですけど、それ。ってか、よく知ってんね、そんな言い回し」
 ゴホン、と咳払いした奏は、立ったままでは目立ちすぎると思ったのか、おもむろに咲夜の向かい側の席に腰を下ろした。
 「…つまり、なんていうか……あの後、どうなったか気になってさ。張り切ってメイクしてコーディネートしたまではいいけど、麻生さんがどんな反応するか、心配だったし。それに、ドタキャンになるかもしれない、って聞いてもいたし―――それで、こっそり、様子を」
 「は? じゃあ、ずっとこの店にいたの?」
 「あそこに」
 奏が指差す方を見ると、ほぼ空になったグラスと水のグラスが置かれた空席があった。確かに、咲夜からは死角となる席だ。
 「い…一体、いつから?」
 「30分か、40分前かな。待ち合わせの時間のちょい前だから」
 「……」
 「あのナンパ野郎の時も、あとちょっとの差で、オレもしゃしゃり出て行きそうになったんだけど―――麻生さん来たから、慌てて身を隠した。目が全然こっち向いてなかったから、多分気づかれてはいないと思う」
 「……バカ……」
 全身から、力が抜けていく。大きなため息をついた咲夜は、ガックリと肩を落とした。
 売り手の良心なんだか、ただのおせっかいなんだか―――心配してくれたのは嬉しいが、その結果、あのキスシーンまで目撃されてしまった訳だ。公衆の面前で、というのも赤面ものだが、奏の目の前で、というのは、その何倍ものショックだ。死にたい。消えたい。今すぐ融けてなくなりたい。
 「で、どうなったんだよ、デートは。麻生さん出てっちゃったけど」
 咲夜の気も知らないで、奏が身を乗り出して訊ねる。もう一度ため息をついた咲夜は、髪を掻き上げつつ、顔を上げた。
 「…ん…、キャンセルになった」
 「え、なんで」
 「ライナーノーツの打ち合わせが難航してるんだってさ。あと1時間で終わるかどうか怪しい、て言うから、人待たせた状態じゃ集中できないだろうから、また今度、ってことにした」
 「ことにした、って―――お前なぁ、せっかくのチャンスに、またそんな諦めのいい態度とって…」
 不服そうな顔をする奏に、咲夜はちょっと苦笑しつつ、首を振った。
 「ううん。いいんだ。だって、わざわざ仕事抜け出して、じかに伝えに来てくれたもん」
 「……」
 「それだけで、十分。…十分すぎる位、嬉しいよ」
 その嬉しさを噛み締めるように―――咲夜は、ふわりと微笑んだ。
 本当に幸せを感じているとわかる、その笑顔を見て、納得のいかない表情だった奏も、諦めたように息をつき、肩を竦めた。「咲夜がそう言うんなら、しょうがないか」といった感じで。
 「ごめん。せっかく奏が色々やってくれたのに…」
 少し済まなそうに咲夜が言うと、奏は苦笑を浮かべ、いいや、と言った。
 「ま、何て言ってたか知らないけど、見る限り反応は悪くなさそうだったし」
 「ハハ、まあね。一応褒めてたと思うよ」
 「で? これからお前、どうするんだよ」
 「うーん、どうしよっかなぁ。今更家帰って夕飯作る気もしないから、どっかで食べてこうかな」
 ココアをこくん、と飲みつつ咲夜が呟いた言葉に、奏は暫し考え、それからニッ、と企むような笑いを浮かべた。

 「じゃあ―――せっかくのデート仕様だし、ナンパ避けに、男が同行するのは当然、だよな?」

***

 ムードのあるラウンジでグラスを傾ける、なんて柄じゃないのは、百も承知で。
 むしろ、童心に帰って遊んじゃえ、というノリになるのは、この組み合わせなら、当然のことで。

 「ああああーっ、ちくしょー、負けたっ!」
 バチを放り投げる奏の横で、咲夜は勝ち誇った笑みを見せた。
 「ま、一応、お金貰って音楽やってる立場だしー? リズム感で素人さんに負ける訳にはいきませんとも」
 「お前、ずるいぞ、オレの知らない曲選びやがって…。なんだよ、北島三郎の“祭”って! “与作”しか知らねーよっ!」
 「えぇ、うっそー、日本人なら知ってて当然でしょー」
 「日本人じゃねぇっつーの!」

 手軽に入れるこじゃれたカフェで適当な夕飯を取り、閉店寸前の“GAP”で奏の服を大急ぎで見てまわり―――ゲームセンターで最初に飛びついたのは、“太鼓の達人”。リズム感のせいか、はたまた日本人のせいか、運動神経では劣る咲夜の方が、太鼓を叩くのは上手かった。
 リベンジとして奏が選んだのは、バスケットゲーム。バスケットゴールに何本シュートを決められるか、という、極端に奏寄りなゲームだったが、負けん気の強い咲夜は、やってやろうじゃん、と受けて立った。
 当然ながら、結果は惨敗―――全シュートを決めた奏には、何故か、景品としてキャラメル1箱が授与された。
 「ふーん、良かったねー、奏ちゃん。キャラメル貰って嬉しいでしょー。お姉ちゃんにも1コ頂戴」
 「しょうがねーなー。お情けで1コだけやるよ」
 キャラメル1コを咲夜の口の中に放り込んだ奏は、自分の口の中には、これみよがしに2つ放り込んだ。
 「…大人気ないよ、奏」
 「お前もな」

 エアホッケーでは本気で白熱し、何度かパックが宙を飛んだ。飛んだパックが他の客に当たったことも1回あり、2人して平謝りに謝った。
 “F1サーキット”では、タイムを競うことより、相手の進路妨害をすることにばかり熱中し、2台とも大破。道のど真ん中でスピンしてるうちに、ゲームオーバーになった。
 まだあったのか、と驚かされた“ダンス・ダンス・レボリューション”は、2人して撃沈。どう見てもダンスには向かない体型の男が、ビール腹を揺らしながら華麗にステップを踏むのを、奏も咲夜も、呆気にとられて眺めるばかりだった。
 “ハウス・オブ・ザ・デッド”では、2人揃ってなかなかの射撃の腕前を披露したが、弾の装填ミスに慌てているうちに、咲夜がゾンビに斧で切りかかられ、アウト。1人、孤独な戦いを強いられた奏は、2人目のボスキャラとの戦いに敗れ、涙を呑んだ。
 フリードリンク目当てで1時間だけカラオケに入る。咲夜が例のホイットニーの『And I will always love you』を熱唱すると、奏の方はボン・ジョヴィの『Livin' On A Prayer』で予想外の音域の広さを披露した。
 横文字の歌ばかり、しかも1フレーズで演奏中止、という方法で次々歌っていったら、1時間後には、カラオケに入る前より喉が渇いてしまった。フリードリンクの意味なかったね、と苦笑した2人は、結局、自販機でポカリやコーラを買って、喉を潤した。

 まるで、羽目を外しまくった高校生のような遊びっぷり。
 でも、2人とも、ここ何年なかった位に、笑った。バカみたいに笑った。
 楽しくて、楽しくて、しょうがない―――いい歳して何やってんだ、と眉をひそめられようとも、こんなバカ騒ぎが、どうしようもなく、楽しかった。


 「こいつ、どーしよっか」
 帰り道を歩きながら、UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを、ぽんぽん、と宙に投げつつ、咲夜が訊ねる。
 いわゆるテディ・ベアみたいな、熊のぬいぐるみ。サイズとしては、高さ20センチ位の、適度な大きさだ。
 「奏んとこ、飾る?」
 「げ、勘弁。男の一人暮らしにそれは、いくらなんでも嫌だろ。咲夜の部屋のがマシ」
 「そうだなぁ…。じゃ、ベッドの上にでも置いとくかな」
 「UFOキャッチャーって、取る時は夢中だけど、取った後で結構困るよな。巨大なアザラシのぬいぐるみゲットした時なんて、相当困ったぜ、持ち帰るのも恥ずかしいし」
 「それ、どうしたの?」
 「途中で偶然会った5歳位の子供に、あげた」
 「へー、親切ぅ」
 「むしろ助かったって」

 まだ、3月になったばかり―――でも、夜風がどことなく、春めいている。
 いい気分で歩きながら、空を見上げると、薄く雲のかかった月が浮かんでいた。そんな月を暫く見上げていた咲夜は、ふとあることを思いつき、奏の方に目を向けた。

 「あのさ、奏」
 「ん?」
 「5月のゴールデンウィークって、なんか予定入ってる?」
 「? いや、特別には。店に出る日もあるけど」
 「もし、予定が合えば、だし、それ以前にオーディション通れば、の話だけど―――もし、私たちがジャズ・フェスタに出ることになったらさ。今日みたいに、奏にメイク頼んで、いいかな」
 思いがけない話に、奏はちょっと目を丸くし、歩く速度を緩めた。
 「オレに?」
 「うん。そんなこと、全然考えてもみなかったんだけどさ。なんか…今日、メイクしてもらって、そうしたくなった。普段着のままの自分で歌うのも悪くないけど―――拓海たちの前座だもん。晴れの舞台に立つにふさわしい、ジャズ・ヴォーカリスト仕様な自分に化けて、歌いたいな、って」
 「ジャズ・ヴォーカリスト仕様、か…」
 考え込むように口元に手を置いた奏だったが、結構面白いかもしれないな、と思ったのか、暫し後、にんまりと笑ってみせた。
 「おっけー。スケジュール確認してみる」
 「サンキュ」
 「そのためには、まず、オーディション通れよ」
 「…当たり前じゃん。頑張りますとも」


 もうすぐ、オーディション。
 その先には、もう、春。

 明日美や一成、氷室と星や、テンや、ミサ。痛みや葛藤や涙の続いた冬が終わり―――もうすぐ、春がくる。
 僅かに春を思わせる夜風と、弾けまくった後の余韻に、奏も、咲夜も、近づいてくる季節に、暫し思いを馳せた。


***


 「お疲れさん」
 目の前に差し出された缶コーヒーを見て、拓海は我に返り、マネージャーを仰ぎ見た。
 「ああ…、お疲れ。悪かったな、遅くまでつき合わせて」
 「何言ってるんだ。俺の仕事でもあるだろう? まあ、何にせよ、良かったよ。無事ライナーノートの仕様が固まって。後はいよいよ写真撮影だな」
 「そうだな」
 レコード会社の1階ロビー。既に人影などほとんどなく、受付嬢もいない有様だ。喋りすぎたのと館内空調のせいで、喉が少し痛かった。拓海は缶コーヒーのプルトップを引き、その3分の1ほどを一気に飲んだ。
 「けど、お前……良かったのか? 戻って来ちゃって」
 マネージャーも拓海の隣に座り、缶コーヒーを開ける。プルトップを引く音に被さるように、拓海にそう訊ねた。
 「別に、あの時点で帰ってくれても、こっちは構わなかったのに―――予定があるなら、また明日以降に続きを決める、って言っただろう? 咲夜ちゃんと約束してたなら、あの子を優先してやりゃあよかったのに」
 「……」
 「せっかく、めかしこんでたのになぁ…。可哀想だろ、日頃いいようにこきつかっといて」
 「ハハ…こきつかってるつもりは、ないんだけどなぁ…」
 軽く笑った拓海は、そう言って、また缶コーヒーに口をつけた。

 そう。あの時、マネージャーも喫茶店の外まで同行していた。
 あと30分だけ待てるようなら待ってもらえ、最低限のことは決定した、後は写真撮影後でも構わないから―――マネージャーにそう言われて、咲夜のところへ行ったのだ。
 いつもの咲夜なら、その通り伝えるつもりだった。
 でも―――やめた。今日の咲夜には。

 「しかし、あれだな。まだ子供っぽかった時期から知ってるから余計思うのかもしれないけど…咲夜ちゃんも大人になったよなぁ。今日みたいな格好してると、特に思うよ。なかなか色気もあるし、いよいよ男が放っておかない年頃だな」
 大きなガラス窓越しに見た咲夜の姿を思い出しているのだろう。マネージャーの口元が激しく緩む。
 「お前もいよいよ、娘を嫁にやる父親の心境を味わう時期が来たかもなぁ」
 からかうように言われた拓海は、暫し黙り込み、それからポツリと答えた。
 「ああ―――そうだな」


 まるで、人の理性を試すかのように、艶やかに変身した咲夜――― 一夜だけ咲く花の名を持つ、音楽の女神。
 いつまでも、この手の中で育てていきたい、と思っていたけれど。

 ―――そろそろ、潮時なのかもしれない。

 唇に、そっと、触れる。
 選ぶ訳にはいかない、選択肢―――気まぐれに誘ったりするんじゃなかったな、と、拓海は少しばかり後悔した。


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