←BACKFake! TOPNEXT→




― 支え

 

 心の支え、なんてものは、極度なロマンチストのためにある言葉だと思ってた。
 だから私には関係のないもの―――ドライに、計算通りに、したたかに生きていくには、無用のものだと思ってた。

 でも、最近、思う。

 たとえば、隣に住む優しい少年の、朝晩の何気ない挨拶とか。
 駅から会社までの僅かな時間、社交辞令的に声をかけてくる営業係長の、「がんばってるようですね」の一言とか。
 自分とは雲泥の差の、優秀でエネルギッシュな同期との、くだらない世間話やファッションの話とか。

 彼らがいなかったら、毎朝、タイムカードを押すことすらできない。
 もしかしたら、こういうのを、心の支えっていうのかもしれない、と―――ふと、思った。

***

 月曜なんて、ただでさえ憂鬱で、ましてや社員食堂でとる昼食なんて、拷問に等しいのに―――そんなシーンに割り込んできた人間は、歓迎できない人物だった。

 「えぇ? 行かないの?」
 信じられない答えを耳にしたように、先輩が目を丸くする。
 名だたる大手企業の名前が2、3並んだ、飲み会。以前の由香理なら、たとえ定員オーバーになっても、先輩を蹴落として出席しただろう。先輩が驚くのも無理はない。由香理は力なく笑い、頷いた。
 「すみません。今日は、先約があるんで」
 「ふぅん…そうなんだ」
 どことなく疑念を滲ませた目で、先輩が軽く眉を上げると、
 「一緒に飲みに行く約束してるのよね」
 隣の席に座る智絵が、そうフォローを入れてくれた。それでも先輩は、いまいち納得のいかない顔だったが、最終的には取り澄ましたような笑顔を由香理に向けた。
 「…まあ、それでいいなら、こっちは別に構わないけど。友永さんはまだ若いから、いくらでもチャンスはあるわよ。もうすぐ新人も入ってくることだし、ねぇ」
 ―――誰も「行きたいのに行けない」なんて言ってないのに…。
 勿論、先輩の考えていることは、とっくに読めている。「可哀想にねぇ、真田さんとあんなことになって」―――自業自得だザマミロ、という本音を同情というオブラートで包むと、こういうセリフになる訳だ。いちいち反論するのも馬鹿馬鹿しい。
 由香理が黙っていると、先輩は勝ち誇ったような顔をした。真田と付き合っているのは自分じゃないのに。由香理がますますげんなりすると、智絵が、場違いなほど明るい声で、一言返した。
 「そうそう、由香理はまだこれからよ。あ、先輩も、まだ諦めるのは早いですよ。由香理のいない間に、頑張って下さいね」
 「…………」
 一見、エールを送っているように見えるが、先輩のセリフといい勝負の意地悪さだ。当然、先輩もこめかみをヒクつかせたが、ここで更なる嫌味を返すのも面倒だったのか、それとも昼休みの残り時間を気にしたのか、さっさと踵を返して去って行ってしまった。
 「…ありがと」
 忌々しいものでも見るように先輩を見送る智絵に、こっそりと礼を言う。
 すると智絵は、ちょっとだけ目を見開き、それから困ったように笑った。
 「やだなぁ、何言ってるの。今までの由香理なら、あんな陰湿な嫌味を言われたら、すぐに自分で嫌味を言い返したのに―――行けばよかったのよ、飲み会でもコンパでも。今度こそいい男が見つかるかもしれないじゃない」
 「…だって…」
 少し唇を尖らせて、言いかけたが―――何を言うべきか見つからず、由香理は視線を落とし、中断していた昼食を、再び口に運び始めた。

 どうせ今夜の飲み会も、またいつもの連中が顔を揃えるのだろう。由香理と同種の女たち―――いい男を捕まえるために働いているような連中。そして彼女らは、いまだに真田をその「いい男」と信じて疑わないのだろうから、フラれた由香理に大いに同情し、その数百倍、大笑いしているに違いない。
 毎日、そうした連中の意味深な目に晒されているのに、わざわざ同席したい筈もない。欠席しても噂される、出席しても陰口のネタになるだけ―――だったら、欠席して、飲み会の時間の苦痛を回避する方が、賢い選択だ。

 こんな会社、辞めてしまいたい。ほぼ毎日、そう思っている。
 それでもまだ、ギリギリの状態で会社に出てきているのは―――樋口が「勝て」と言ったからだ。
 由香理は、負けず嫌いだ。真田に負けっぱなしで、すごすごと会社を辞めるのは、悔しすぎる。一体どうやって勝てばいいのか、まるでわからないけれど……勝ってみせろ、と背中を押す人がいる。きっと勝てると言う人がいる。その言葉を支えに、なんとか立っているのだ。
 そうでなければ、立ってなんかいられない。好奇の目、蔑みの目、嘲笑の目―――全部、自分のやってきたことの結果だとわかっていても、辛くて、辛くて、立っていられない。

 「あー、全くもう、そんな顔して」
 しょうがないなぁ、と、智絵は箸を置き、由香理の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 「ホラ、昼休み終わっちゃう前に、さっさと食べて! 今夜は、6時半に1階ロビーね」
 「えっ」
 その場しのぎの出任せかと思っていたのに―――驚いて顔を上げる由香理に、智絵はニコリと笑った。
 「トコトン飲むわよ」
 「…うん」
 ―――智絵がいてくれて、良かった。
 朝、顔を合わせれば笑顔で「おはようございます」と言ってくれる人。落ち込んでいると、こうして肩を叩いてくれる人。勝ってみせろ、と遠くから見守ってくれている人。
 彼らがいてくれて、良かった―――人生で初めて、由香理は、「誰か」に対する心からの感謝を、しみじみと覚えていた。

***

 「うわっ!」
 「きゃ……!」
 勢い込んで出てきた男とぶつかり、由香理は、抱えていた書類を落としそうになった。
 「…っ、んだよっ、人が急いでる時に邪魔―――…」
 酷く不機嫌そうに言った彼は、そこでようやく相手が由香理と気づき、荒げた声を一変させた。
 「―――なんだ、友永さんか」
 「……」
 ぶつかった相手は、真田だった。
 落としかけた書類をしっかり抱えなおした由香理は、冷ややかな目で真田を見上げた。そこには、かつては見惚れたこともあった筈の整った顔があった。
 ―――なんでこんな奴、好きになったんだろ。
 化けの皮の下の素顔を知ってしまった今、未練どころか、嫌悪感が湧いてくる。だが、真田の方は、由香理があの話を立ち聞きしてしまったことなど知る由もない。さっきうっかり見せてしまった粗野で勝手な素顔を即座に隠し、以前同様の爽やかな笑顔を作ってみせた。
 「ごめんごめん、急いでたもんだから。大丈夫だった?」
 「…ええ」
 「何、1課に何か用?」
 「樋口係長に、書類にサインをいただきに伺ったんです。いらっしゃいます?」
 「ああ、確か、いたよ。定時過ぎたのに大変だねぇ、総務も…。確か今日って、総務のお局さんが企画した飲み会があるんだろ? ノンビリしてていいの?」
 由香理が出ると決めてかかってか、真田がにこやかにそんなことを言う。
 冗談―――この男のせいで、あれ以来由香理には、ああした飲み会にノコノコ顔を出す男が全部「都合のいい女を狩りに来ている男」のように思えているというのに。半ば鼻で笑うように、由香理は皮肉めいた笑いを浮かべた。
 「私は、出ませんから。智絵と約束がありますし」
 「え、そうなの。ふーん…」
 「真田さんこそ、出席されないんですか?」
 「あー、俺は、それどこじゃないから。仕入先の接待に呼ばれてるんだよ。タダで飲み食いできるけど、楽じゃないよ、ホント」
 楽じゃない、と言いながら、真田は非常に楽しそうだった。そそくさと腕時計を確認すると、
 「…おっと、もう行かないと。じゃ、また」
 片手を挙げ、足早に去って行ってしまった。
 ―――そりゃ、いい気分でしょうよ。仕入先なら、こっちが客の立場だもの。売らんがためにご機嫌とられて、あなたは王様気分、ってところね、きっと。
 いかにも真田が好きそうなイベントだ。ため息をついた由香理は、気を取り直して1課に足を踏み入れた。


 真田が言ったとおり、樋口は、確かにいた。が、電話中だった。
 「はい……はい、ありがとうございます。すみませんね、いつもご無理を言ってしまって…。……ええ……はい、それで結構です。本当に助かりました。ありがとうございました」
 電話の相手に、樋口はやたら低姿勢だった。大事な顧客かな―――書類を胸に抱き、由香理は少し離れて、電話が終わるのをじっと待った。
 電話は、2分ほど待っているうちに、終わった。受話器を置いた樋口は、眼鏡を直し、やっと由香理の方を見た。
 「お待たせしましたね。どうしました?」
 どうやら、電話をしながらも、由香理が傍に来たことには気づいていたらしい。
 「あの、こちらの書類に目を通して、サインをいただけますか?」
 「ああ……出向関係の書類ですね。すぐ読みますから、少し待っててもらっていいですか」
 「ええ、構いません」
 由香理から書類を受け取った樋口は、椅子に座りなおし、真剣な表情で書類を読み始めた。さほど長い書類ではないので、すぐ読み終わるだろうが―――少々手持ち無沙汰になった由香理は、所在なげに視線をあちこちに彷徨わせた。
 「―――…今の電話、大事なお客様だったんですか?」
 じっと黙っているのも辛いので、当たり障りのないところで、そんなことを訊いてみる。すると樋口は、書類からは目を上げず、思いがけないことを答えた。
 「いえ。仕入先の1つです」
 「え…っ」
 酷く低姿勢だったから、当然、こちらが「買ってもらう立場」だと思っていた。なのに、こちらが「買ってやる立場」だなんて―――つい5分前の真田のこともあり、由香理は驚いて目を丸くした。
 驚きの気配は、書類を見ていた樋口にも伝わったらしい。チラリと目を上げた樋口は、怪訝そうに眉をひそめた。
 「どうか、しましたか」
 「い、いえ。ただ、とても低姿勢だったから…」
 「? そうですか?」
 「…真田さんなんて、仕入先から接待を受ける、って言って、さっき出て行きましたよ?」
 「……ああ、」
 それは、樋口も知っていたのだろう。そして、由香理が酷く驚いている理由も、なんとなくわかったらしい。納得したように頷き、僅かに苦笑を漏らした。
 「真田さんは、仕入先に対して高圧的ですからね。仕入価格も、赤字ギリギリまで下げさせて、値切り交渉を渋れば、どれだけ付き合いがあっても即座に切る人です。ですから、接待も多いですよ。1回の飲み代で取引単価を1円高く取りつけられれば、仕入先にとっては安いものです」
 「…でも、仕入れが安くあがる方が、会社にとっては“善”ですよね?」
 安く仕入れて、高く売る。基本中の基本だ。やり方は好きになれないが、それで業績が上がっているなら、やはり真田は優秀な営業マンということになるのではないだろうか―――癪に障りつつも、疑問に感じて由香理がそう言うと、樋口は大きく頷いた。
 「勿論、それが“善”です。ただ―――我々が“買わせていただく”立場になる可能性は、彼の頭には全くないでしょうね」
 「…買わせて…いただく?」
 「…今、わたしが電話していた仕入先は、わたしが新人の頃、品不足で苦しんでいた商品を優先して仕入れさせてくれた所なんですよ。今回も、他の仕入先から調達できなかった分を、無理を言って急遽譲ってもらったんです」
 「……」
 「その代わり、わたしの方も、あちらが困っている時は有利な条件で契約をしたりしてますけどね。もちつもたれつ―――客であるのをいいことにふんぞり返るばかりでは、本当に困った時、自分が追い詰められるだけです」

 ―――…この人は…。
 再び書類に目を落とす樋口を見下ろし、由香理は、なんだか、ずっと胸の奥にひっかかっていたものが、スッと落ちていくような感じがした。
 真田が、何度も何度も愚痴っていた相手。その話を聞いていた時は、きちんと実績をあげている真田を、理不尽に狙い撃ちしているようにも思えた。だが―――そうじゃないことが、だんだんわかってきた。
 この人は、数字の裏にある事実をきちんと見ている。結果が良ければそれでよし、ではなく、そこに至るプロセスを問題にしているのだ。プロセスをおろそかにすれば、最終的には本人に返ってくると、ちゃんと理解しているから。
 結果ではなく、プロセス―――それは、由香理にとっても耳の痛い話だ。
 エリートサラリーマンの妻、という結果のために辿ったプロセスが、狐と狸の化かし合いだとしたら……情けない話だ。前は、結果が良ければそれでいいじゃないの、と思えた筈だったが、今の由香理には、その情けなさ、馬鹿馬鹿しさが、痛いほどよくわかる。

 「とはいえ、会社的に“善”である以上、彼が気づくのは、本当に追い詰められた時、なんでしょうね―――若いうちならいいですが、部下を持つような立場になってからだと、致命的です」
 サラサラとサインをしつつそう言った樋口は、出来上がった書類を由香理に差し出し、冷静な笑みを返した。
 「命拾いしましたね、友永さん」
 “そんな奴と間違って結婚していたら、将来、苦労してましたよ”。
 言外に、そんな言葉を聞いた気がして―――由香理も、苦笑とも自嘲ともとれない笑みを、樋口に返した。

 

 その後、約束通り智絵と飲みに行った由香理は、樋口から聞いた話のせいか、最近になく軽い心で酒を楽しむことができた。
 いい気分で酔い、いつもより少し遅い帰宅の途についたのだが―――1日の最後に、珍しい人物たちに遭遇してしまった。

 「おい、しっかりしろって…!」
 「…うう…き、気持ち悪ぅ……」
 普段の10分の1にも満たない速度で、ノロノロとアパートに向かう男女一組。背格好だけでもわかるとおり、それは、由香理の上に住む住人2名だった。
 2人とも酔っ払い状態らしいが、明らかに咲夜の方が奏より酔っているらしく、奏に脇腹を抱きかかえられるようにして、かろうじて歩いている。
 「ご…ごめんー…、郵便受け、見てぇ…」
 「明日の朝にしろって」
 「オーディションの詳細が文書で送られてきてる筈なんだってばー…」
 「…ったく、もー…、少しは自力で立てよっ」
 「あああ、悔しいー。テンちゃん、絶対、失恋してパワーアップしたよ。何のために、私が行ったんだか…」
 「…まあ、お前以外があんまり被害受けずに済んだから、来た意味はあるだろ」
 「気まずいのはわかるけどさーっ。だからって、氷室さんや星さんには全然飲ませないで、私と奏をピンポイント攻撃するって、酷いと思わないー!?」
 「思う思う。思います。…あ、っと!」
 咲夜を抱えながら郵便受けを開けた奏は、手元が狂って、中身を床に落としてしまった。
 慌てて拾おうとしても、ほとんど立てない状態の咲夜がいるため、ままならないようだ。見かねた由香理は、早足で近寄り、代わりに床に散らばったチラシや封書を拾い上げた。
 「はい」
 拾った紙の束を、奏に差し出す。突如現れた由香理にちょっと驚いた様子の奏は、
 「…あ、どうも」
 と言って、由香理から郵便物を受け取った。が、何故だろう、受け取り終えても、ずっと由香理の顔をまじまじと見つめていた。
 「…何?」
 「えっ」
 「私の顔に、何かついてる?」
 「ああ、いや、」
 怪訝そうな由香理の顔を見て、奏はバツが悪そうな笑みを見せた。
 「ただ、なんかちょっと、顔が変わったな、と思って」
 「……え、」
 思いがけない言葉に、由香理が目を見張ると、立っているのがやっとな咲夜が、奏に縋りながら呻いた。
 「…うう…、も、もーだめ、吐きそう…」
 「うわ、ちょっ、待て、あと1分待て!」
 どうやら、咲夜の状態は相当緊迫しているらしい。受け取った郵便物をジャケットのポケットに突っ込んだ奏は、ためらうことなく、えい、と咲夜を担ぎ上げた。
 ―――うわ、自分も酔ってるのに、それで階段上る気?
 2人で転げ落ちるんじゃなかろうか、と思ったが、咲夜を右肩に担いだ奏は、結構楽勝ムードで歩き出した。背が高いばかりでひょろひょろしていると思っていたが、案外力が強いらしい。
 麻袋か米俵のように担がれた咲夜は、腕をだらんと下げて完全に泥酔モードだが、それでも顔をあげ、力ない笑みで由香理に手を振った。相変わらず、変な人―――でも、つられるように、由香理も手を振り返してしまった。
 2階へと上がる2人を見送ったが、暫し後、2階からドアを開け閉めする音がしたので、どうやら無事、部屋に帰りついたらしい。どうやら2人きりで飲んでた訳ではなさそうな話だったが、一体なんだって、あんなになるほど飲んでしまったのだろう? 謎だ。

 いや。それよりも。

 ―――顔が…変わった?
 どういう風に、変わったのだろう? 毎日鏡で見ていても、特に何も思わないが。
 でも、奏は、毎日何十人という女性の顔を―――素顔も、メイクをした顔も見ているのだ。プロならではの、何か気づく点があったのかもしれない。
 何が、どういう風に変わったのか。そしてそれは、真田との間にあったことと、少しは関係があるのか。…ちょっと、聞いてみたかった。惜しかったな、と由香理は小さくため息をついた。


***


 それから数日後。由香理は、仕事の用で銀座にある会社を訪れた。
 用事自体は簡単なもので、ものの10分少々で終わった。が、すぐに戻るのも惜しい気がして、少しのんびりした足取りで駅へと戻り始めた。
 銀座は銀座でも、こうした裏通りは、普段滅多に足を運ぶことはない。表通りの賑わいとは違い、随分と閑散としていて、建物も一時代昔にタイムスリップしたみたいだ。ノスタルジーなどとは無縁な方だが、なんだか心が凪いでいくような気がする。春を予感させる午後の風を受けながら、由香理は久々に落ち着いた気分を味わっていた。
 ―――へぇ…、この辺って、画廊が多いんだ。知らなかった。
 普段なら気づくことのない小さな画廊や画商の看板を見つけ、由香理はふいに、詩織のことを連想した。
 どうしてるかな―――何年かぶりに、そんなことを思ったら。

 「じゃあ、失礼します」

 その声を聞いて―――由香理は思わず、足を止めた。
 数メートル先のギャラリーの扉が開き、中から、男性と女性が出てきた。男性がギャラリーの人間、女性の方が今のセリフの主だ。大きなバッグを肩から提げ、男性にぺこぺこと頭を下げている。
 後ろに一つにくくっただけの、やぼったい髪型。何の工夫もない極当たり前のダンガリーシャツに、穿きふるしたジーンズ、ズック素材のローファー。大きなバッグは、絵を入れるためのバッグだろう。いかにも身なりに構わない芸術家という風体だ。
 「わかりました。では、買い手が現れ次第、ご連絡しますので」
 「はい。今後もよろしくお願いします」
 更に深く頭を下げた彼女が、再び顔を上げるのとほぼ同時に、ドアは閉まった。
 あまりにも深く頭を下げたせいで、結びきれなかった髪が顔にかかってしまっていた。彼女はそれを鬱陶しそうに後ろにはらうと、ほっ、と息をついて、踵を返した。
 そして、由香理と、目が合った。

 「―――…」
 他人の空似、では、なかった。
 もう5年以上会っていないけれど―――全然、変わっていない。下手をすれば中学か高校の頃から、ずっと。由香理は、呼吸すら忘れたように、彼女の、眼鏡の向こうにある驚いたように見開かれた目を、見つめた。
 「ゆ…由香理…!?」
 「……詩、織」
 唐突すぎる、再会だった。

***

 「びっくりしたなぁ。まさか、あんなとこで由香理に会うなんて」
 先ほどのギャラリーからさほど離れていない喫茶店に入ると、オーダーをしてすぐ、詩織はそう言って懐かしそうに笑った。
 仕事中なのは、自分でもわかっている。でも、これほどの偶然の再会なのだ。たった紅茶1杯、ものの30分のことなら、大目に見てもらっていい筈だ―――由香理はそう心の中で言い訳をした。
 「でも、随分綺麗になっちゃったから、一瞬わかんなかったよ。いかにも丸の内のOL、って感じ」
 「…詩織は、全然変わらないわね」
 「アハハ、うん、親からも“いい加減もっと女らしくしろ”って言われてるんだけどねぇ…」
 でも無理なんだよね、と詩織は困ったように笑う。
 そう、詩織は、昔から身なりには構わなかった。ブラウス1枚、口紅1本買うお金があるなら、絵の具を買いたい―――それが、詩織の口癖だった。


 詩織は、多分由香理にとって、幼馴染と呼んでいい存在だろう。
 初めて会ったのは、小学校4年生の時。由香理は地元の小学生、詩織は転校生だった。目が悪く、さえない眼鏡をかけた詩織は、同級生から「メガネ、メガネ」とからかわれた。それに同情した訳ではないが、たまたま席が隣だったこと、家も近所だったことから、由香理はなんとなく、詩織と仲良くなった。
 詩織は、愛らしい名前とは反対に、見た目的にはイマイチだった。
 太れない体質なのか、子供の頃から痩せており、思春期を迎えても女らしい丸みがほとんどつかなかった。顔もいわゆる貧相な顔で、目鼻立ちはインパクトが薄く、絶望的に不美人ではない代わりに、どう頑張っても可愛い顔とは言い難い顔だった。その顔に度の強い眼鏡をかけているので、余計イケてないイメージになってしまっていた。
 運動も駄目、勉強もいまひとつ。成績表を見比べると、どの教科も由香理の方がはるかによく出来た。その成績通り、2人は別々の高校に進学した。それでも、2人はずっと友達だった。

 詩織は由香理にとって、心地よい存在だった。
 家では姉の優秀さや兄の美しさの陰に隠れてしまう由香理を、詩織はいつも「凄いね」と言う。可愛いし、成績もいいし、羨ましい―――由香理ってなんでも揃ってていいね、と。
 周りでは詩織のことを「由香理の引き立て役」などと噂している者もいたらしい。事実、由香理自身、どこかでそうした意識があったのも事実だ。詩織は、由香理がコンプレックスを抱かずに済む相手だ。だから心地よかったのだし、学校が離れても親しく付き合っていけたのだと思う。

 ただ、1点。
 詩織は、絵が好きだった。
 子供の頃はさほど上手い訳ではなかったが、下手の横好き、とばかりに、いつも絵ばかり描いていた。初めて由香理を描いた絵など、「私、こんな顔じゃないもん!」と泣いたほどに酷い絵だったが、フルーツキャンディーをバラ撒いたようなポップで明るい色使いは、子供ながら「綺麗だな」と由香理も思っていた。
 中学に入り、デッサンなどもしっかりしてくると、詩織はますます絵にのめりこんだ。絵だけじゃなく、イラストや漫画なども描いていた。「上手いね」などと褒められることもあり、由香理も褒めたことがあったが、絵そのものに興味のない由香理は、絵に関して詩織にひけめを感じたりコンプレックスを覚えたりすることはなかった。
 高校生になると、詩織は美術部に入部し、本格的に絵を描くようになった。市のコンクールなどに入賞し、その展示会に由香理も行ったりしたが、あまり面白くない気はしたが、さほど気にしなかった。多分―――所詮、絵なんて趣味の世界、将来にも役立たないし、成績とはまた別の話だ、と、あまり重視していなかったのだ。

 大学進学で、2人の進路は大きく変わった。
 由香理は東京の女子大へ。長野を離れ、東京での一人暮らしが始まった。一方詩織は、地元のデザイン専門学校へ進んだ。
 大学1年の夏、長野に帰省すると、当たり前のように詩織がいた。やっぱり髪を後ろで束ね、色気のない眼鏡をかけ、絵の具で汚れても構わないような服を無造作に着ていた。化粧を覚え、服装も垢抜けた由香理を見て、「凄いね、一気に都会の人になっちゃったね」と羨望の眼差しで言った。年末年始の帰省の時も、そうだった。
 ところが、1年生の終わりの、春休み―――そこに、詩織はいなかった。
 デザイン学校の研修で訪れた、とあるアメリカの画家の展覧会。その画家は、詩織が以前から憧れていた、女性画家だった。
 その会場で、本人に会うという夢のような体験をした詩織は、駄目で元々、と勇気を振りしぼり、自分の描いた絵を画家に見せに行った。そして―――なんと、彼女がアメリカで開いている美術スクールに編入しないか、と直接誘われたのだ。
 憧れの人に「才能がある」と認められ、しかも勉強させてやると誘われて、断るような人間はいないだろう。詩織は彼女についてアメリカへ行ってしまった。
 そして、そのまま―――アメリカで、新進のイラストレーターとして働き始めてしまった。

 由香理は、なんだか、裏切られたようなショックを覚えた。
 ずっと格下と思っていた詩織。自分を慕っていた詩織。絵は上手いけどただそれだけ、それ以外は全てが平均以下の詩織。そう思っていた詩織が、最後の最後、隠し技で由香理を逆転し、あっという間に手の届かない高みへと行ってしまった―――そんな風に感じて、ショックを通り越して、怒りさえ覚えた。
 全てが及第点、全てが平均的―――何ひとつ突出していない自分。
 全てが落ちこぼれ、全てが平均以下―――けれど、たった1つ、絵の才能だけはある詩織。
 ずるい。才能なんて、神様の依怙贔屓(えこひいき)だ。努力ではカバーしきれない世界……天賦のものでしか勝負できない世界だ。凡人である自分が、敵う筈もない。それまで下に見てきた部分がどこかしらあっただけに、悔しかった。そして、自分には何の相談もせずに行ってしまった詩織を、憎んだ。なんだか、自分の凡庸さを哀れまれたような気がして。

 もしかしたら詩織は、これまでも、口では「由香理って凄いね」と言いながら、内心、気の毒に思っていたのかもしれない。
 これといって人に誇れるだけの才能も美貌も持ち合わせていない由香理が、才能のある自分を慰めるようなことを言うたび、何も気づかずに哀れな奴、と思っていたのかもしれない。

 そう感じた由香理は―――以来、詩織との連絡を絶った。詩織が一時帰国している、と聞いても、無視した。
 あんなに仲の良い親友だったのに何故、と周りから言われるたびに、表面上は笑って誤魔化しながら、心の中では皮肉な笑みを浮かべていた。詩織を親友だなんて思ったことは一度もない―――あの子は私の引き立て役に過ぎなかったし、詩織にとっても同じようなものだろう、と。


 ―――ほんと、全然変わらない…。
 運ばれてきたコーヒーに、ミルクや砂糖を入れてカチャカチャ掻き混ぜる詩織を眺め、由香理は何度目ともわからない言葉を、心の中で呟いた。
 外見も、服装も、喋り方も、まるで変わっていない。高校時代の詩織そのまんまだ。アメリカに行ったからには、英語も相当勉強しただろうし、そこで仕事も立派にこなしているのだから、もっと違う雰囲気に―――具体的にはわからないが、いかにも“アメリカの芸術家”っぽいムードに変わっているだろう、と勝手に想像していたのに…。
 「やだ。どうかした?」
 あまりにしげしげと由香理が見るので、詩織が照れたように、ほつれた髪を直してみせた。その手首が、驚くほどに細いことに気づき、由香理は思わず眉をひそめた。
 「…なんか、詩織、昔にも増して痩せたんじゃない?」
 「えっ、そう?」
 由香理の視線に気づき、詩織は自分の手首を見下ろした。
 「ああー、確かに、少し痩せたかなぁ。何度も体を壊したから、その影響もあるかも…」
 「え、体を壊した、って……」
 何それ、と由香理が険しい顔になると、詩織は誤魔化すように手を振り、苦笑した。
 「別にそんな、大病を患った訳じゃないけど、アメリカ行ってから、何度も体調崩したから―――言葉通じないストレスとか、食事の違いとか、色々で」
 「そうなんだ…」
 「それに、仕事するようになってからは、とにかく貧乏だし。酷い時なんて、1週間、黒パンにカップスープだけでしのいだり、とか、水道止められちゃったりとか」
 「……」
 なんとも言えない気分に、押し黙る。
 大変だったんだね、の一言で終わらせられるような苦労ではないだろうことは、なんとなく想像がつく。けれど、どれも由香理の知らない苦労だ。日本から一歩も出ず、親の仕送りで東京に暮らし、大学を出、毎月ちゃんとした給料をもらえる会社に勤め―――給料日の直前はある程度はピンチになっても、ライフラインを止められるほどの極貧にはなったことがない。
 そんな生活を、どちらかというと出不精で大人しい方だった詩織がしていたなんて―――想像したことなど、一度もなかった。何も言えず黙り込む由香理に、詩織は少し不思議そうな顔をしたが、ふいに、何かを思い出したようにポン、と手を叩いた。
 「あっ、そうそう。まだ家族以外には言ってなかったから、由香理も知らないかもしれないけど―――あたしね、2月から、日本に戻って東京で一人暮らししてるの」
 「えっ」
 思わず、目を丸くする。
 いや、あまりに突然の再会で、疑問を持つことすら後回しになっていたが……考えてみたら、アメリカにいる筈の詩織が銀座にいるのは、酷く不自然な話だ。
 「な…なんで? アメリカの仕事は?」
 「うん…それなりに安定してきたんだけど、やっぱり向こうでの一人暮らしは、結構疲れちゃって。年末年始に東京に来て、必死に売り込みかけて、1社、デザイン会社とフリー契約が取れたから、思い切って戻ってきちゃったの」
 「…もったいない…」
 普通は、日本から世界に出て行くのを夢見るのに―――アメリカで既に仕事をしていたのに、日本に戻るなんて。海外進出を夢見る芸術家が聞いたら、愚か者扱いされるに違いない。
 けれど詩織は、惜しそうな顔をする由香理に、サバサバとした笑いを見せた。
 「そうかなぁ…。だってあたし、英語もそんなに上達しなかったから、今でも日常会話が結構ストレスだし、住んでた場所、日本に比べたらずーっと治安も悪かったし―――色々疲れちゃうと、いい絵もデザインも浮かばなくて。絵を描くだけがとりえなのに、それすら出来なくなったら、意味ないなぁと思って」
 「…確かに、そうなのかもしれないけど…」
 「それに、日本なら、好きな時に帰省できるし―――由香理にも会えるし」
 当然のように、詩織はそう言って、笑う。
 その笑顔に―――由香理は逆に、凍りついたような表情になった。

 ―――私に…会えるから?

 「…わ…たしに、会いたかったの? 詩織」
 思わず、少し震える声で、訊ねる。
 すると詩織は、驚いたように目を丸くし、続いて可笑しそうに笑った。
 「やだ、当たり前じゃない! あたし、友達って呼べる人って、由香理だけだもの」
 「……」
 「由香理、成績もいいし可愛いし、友達もいっぱいいたでしょ。あたしなんて、転校生で、皆からメガネメガネってからかわれて、絵を描く位しか能がなくて―――友達やってても、全然いいことないだろうなぁ、って、なんか申し訳なく思ってたのに、由香理はずっと友達でいてくれたじゃない? 学校が離れちゃっても、ずっと」
 「……」
 「自慢の友達だもん。ずっと会ってなかったけど…うん、やっぱり、想像してたとおり、カッコイイOLさんになってた。これからは、時々会えるよね。あ…、でも、もっと綺麗でオシャレなOLの友達が、いっぱいいるかな」
 こんな見てくれのあたしじゃ、昔より余計差がついて、由香理が恥ずかしい思いするかな―――そう言って笑う詩織を、由香理は、信じられない思いで凝視し続けた。
 そして、その言葉のどこにも、嫌味も遠まわしな蔑みも妬みも自慢も見つけられず……とうとう、泣きそうに顔を歪めた。

 この子は……そんな風に、思ってたんだ、私のこと。
 なのに私は、勝った負けたと2人の間に優劣をつけて、勝手に詩織の心内を想像して、勝手に捻くれて、勝手にコンプレックスを募らせて―――詩織に、背を向けてた。ずっとずっと。
 本当は、ただの引き立て役だなんて、思ってなかったのに。
 そう思うことで、友情なんてなかったと思うことで―――置いてきぼりになった寂しさと悔しさを誤魔化してた。

 「…だったら…なんで、黙って行っちゃったのよ…」
 涙をなんとか堪えながら由香理が問うと、詩織はバツが悪そうに体を縮めた。
 「う、ん。だって―――由香理にもし引き止められたら、もう一生絶対めぐってこないチャンスだ! って思っても、日本に残っちゃいそうな気がして…」
 「……」
 「自信もなかったし、寂しいのも苦手だし……だから、日本に残る方が楽なの、わかってたし、ね。でも、あたしには絵しかないんだし―――そう思って、自分を追い込むためにも、由香理には連絡しなかったんだ。落ち着いたら手紙を出して、それで由香理にはわかってもらえるだろう、って思って」
 「…わ…かんなかったわよ。返事も出してないじゃない、私」
 そう。返事を出していない。
 これまでに何度も詩織から手紙が来たけれど―――腹立たしいと思いながら、実はこっそり、全て読んでいたけれど―――返事は、出さなかった。だってそこには、今詩織が話したようなことは書いてなくて、ただアメリカでの日常が淡々と書かれているだけだったから。どこに引っ越した、今何を描いている、どこそこの仕事をした―――苦しいことも、悩んでることも、由香理に対する友情も、何ひとつ。
 でも、高校までの詩織を考えれば、その理由はなんとなくわかる。多分詩織は……心配させたくなかったのだ。由香理を。
 「手紙を出しても返事もくれない、薄情な友達なのに……なんで、そんな風に思えるのよ」
 「なんで―――うーん、なんで、かなぁ…」
 くすっ、と笑った詩織は、コーヒーを口に運んだ。そして、カップを置くと同時に、僅かに目を細めた。

 「―――多分、あたしの絵を最初に褒めてくれたのが、由香理だから、かなぁ」
 「……えっ」
 意外な言葉に、目を見張る。
 「由香理が最初だったんだ。学校の写生大会であり得ないような風景画描いちゃった時―――先生が“ちゃんと描け”って言ったのに、由香理は褒めてくれたんだよ。“綺麗な絵だね、見てて楽しくなるから、私この絵好きだよ”って」
 「……」
 「凄く、凄く、嬉しくてね。…あたし、アメリカにいる間も、ずっとあの言葉が心の支えだったんだ」


 『すごいね、詩織ちゃん。綺麗な色だね。私、色つけるの下手だから、詩織ちゃんみたいな絵、羨ましいなぁ…』
 『そう? ほんとに?』
 『うん。詩織ちゃんの絵見てると、楽しくなるよ。私は大好きだよ、この絵』
 『ほんとに?』
 『うん』
 『ありがとう―――ありがとう、由香理ちゃん』


 遠い日の写生大会のワンシーンが、唐突に、蘇って。
 涙が―――溢れた。

 「え…っ、ゆ、由香理!? ど、どうしたの!?」
 「…ごめん」
 「え?」
 「……ごめんね、詩織……」


 うろたえ、心配する詩織の前で、由香理は、人目も気にせず、泣いた。
 泣いて、泣いて、泣いて―――泣き続けた。詩織が、色あせたハンカチを貸してくれるまで、ずっと。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22