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― 衝動

 

 エントリーナンバーがラッキー7というのは、なかなかに幸先がいいことかもしれない。
 「…あんまり関係ない気するぞ、俺は」
 「その位に思わないと緊張するじゃん…」
 呆れ気味の目つきをする一成に、咲夜は少し唇を尖らせ、緊張をほぐすようにまた大きく伸びをした。

 ジャズ・フェスタの前座を選考する、オーディション。それは、まるで入社試験の面接のように、狭いスタジオで数名の審査員を前に演奏する、というものだった。
 大きな舞台も緊張するが、むしろ、こういう閉鎖空間で間近でじっと凝視される方が、より緊張する。2000人収容できる舞台も経験している一成だって、こういう状況は音大受験の時と大学の学科試験以来のことだ。2人揃って、表情は冴えない。
 現在、オーディション室で演奏中なのは、エントリーナンバー6番だ。いよいよ次―――ますます高まる緊張に、どうにも落ち着かない。
 「嫌だよなぁ…。試験官の前で弾くの、昔から苦手だったんだよな、俺」
 「経験ない私よりはマシなんじゃないの」
 「経験してるから余計、あの嫌な空気を思い出して胃が痛くなるんだよ」
 「ううう、本番前に、もう1回歌っときたいなー。高音で声ひっくり返っちゃったらどーしよ…」
 とその時、控室のドアがガチャリと開いた。
 控室の中が、一気にシン、と静まり返る。顔を覗かせた係官は、酷く事務的な表情で、控室全体を軽く見渡した。
 「7番の方、どうぞ」
 「……」
 ―――とうとう、来た、か。
 そっと顔を見合った咲夜と一成は、覚悟を決め立ち上がると、互いの拳を軽くぶつけ合った。

***

 焦れる思いで呼び出し音を聞き続ける。
 留守番電話サービスに切り替わるギリギリで、電話は繋がった。
 『咲夜か?』
 「うん。今って大丈夫?」
 『ああ、大丈夫。オーディションの結果か? どうだった?』
 咲夜からの電話とわかった時点で、拓海には何の用事かピンと来ていたらしい。咲夜は大きく息を吸い込むと、にんまりと笑った。
 「ふふふー、受かったよ!」
 『そうか! いや、ま、当然の結果だな』
 「何それぇ。自分のことでもないのに、すっごい自信」
 ご機嫌で笑った咲夜の頬に、ぴたっ、と冷たい缶ジュースが押し付けられた。顔を上げた咲夜は、ジュースを買ってきてくれたヨッシーに、声には出さずに「サンキュ」とお礼を言い、缶を受け取った。
 『ともかく、良かったな』
 「うん。でも……結局3組出るんだけどさ、デュオは私と一成だけなんだ。あとの2組は両方クインテット。しかも出番3番目だから、ちょっと地味に沈んじゃわないか、って怖いよ」
 『人数多けりゃいいってもんじゃないさ。…あれ、ちょっと待て、お前、店はどうしたんだ?』
 「ん、たった今ライブが終わったとこ。一成もヨッシーもいるよ」
 昼間は拓海も仕事中だろうと思って控えていたが、本日のステージが全て終わり、現在午後10時―――さすがにこの時間になれば、仕事といっても飲み食いの類になっているだろう、と考え、真っ先に拓海に電話したのだ。言いながら振り返ると、それぞれの缶ジュースをあけた一成とヨッシーが、機嫌良さそうに笑い返した。
 「ライブとライブの合間に、軽くお祝いはやったんだ」
 『ふぅん…。楽しそうだなぁ』
 拓海自身も楽しんでいるかのような声でそう言うと、拓海は続いて、思いがけないことを口にした。
 『じゃあ、出場決定祝いと、この前果たせなかったホワイトデーを兼ねて、食事より咲夜が喜びそうなプレゼントをやろうかな』
 「えっ?」
 『明後日、仕事の後、暇あるか?』
 「ええと…、うん、あるけど」
 『じゃあ、俺のプライベートライブで、1曲、歌ってくれ』
 「……」

 ―――…1曲…、歌う?

 一瞬、意味がわからなかった。
 キョトンとして、咲夜が返事をできずにいると、電話の向こうの拓海がクスクスと可笑しそうに笑った。
 『意味、わかってないだろ』
 「…全然、わかんない」
 『言ったまんまの意味だよ。明後日―――月曜日の夜7時開演のライブがあるんだ。出演は俺1人。定員80名、常連客しか来ないプライベートライブで、酒飲みながらピアノとトークを楽しむ、って感じのもんだけど……1曲位、ヴォーカル入るのがあってもいいと思ってね。どう、歌ってみるか?』
 「え……っ、ええええぇ!? い、いきなり、明後日!?」
 咲夜の素っ頓狂な声に、ヨッシーと一成が、口にしたジュースを喉に詰まらせそうになった。
 しかし、これが叫ばずにいられようか。天下の麻生拓海の単独ライブ―――しかも、準備期間ゼロの、明後日だ。冗談としか思えない。極上の天国でありながら、絶望的な地獄だ。
 「だ、だって拓海、明日まで大阪じゃんっ! 私、月曜だって昼間は仕事あるよ!? 一体いつ音あわせする気!?」
 『ハハハ、大丈夫大丈夫。歌うのは、一番一緒にやり慣れてる“Summertime”でいいから。あれならリハなし一発で歌えるだろ?』
 「歌える、と、思うけ…ど…」
 『ああ、ただし、ボランティアだからな。出演料はゼロ。でもいい経験になるぞ。咲夜なら、食事よりアクセサリーより、この方が嬉しいだろ』
 「…う…ん、そうなんだ…けど…」

 ……“けど”。
 どうしても、これがついてしまう。
 拓海だけのライブだ。ずっと憧れていた、拓海と一緒の舞台だ。遠い遠い目標だった夢―――出たくない訳がない。やりたくない訳がない。けれど……どうしても、“でも”がついてしまう。
 ―――だって…、なんで、こんな急に?
 唐突すぎるし、あまりに時間がなさすぎる。こういう小さなライブは、普段からちょくちょく開いているのだ。別に今回じゃなくたって、1ヶ月後2ヵ月後でも構わない筈だ。なのに…何故、明後日などと言うのだろう?
 それに―――…。

 携帯を耳にあてたまま、一成を振り返る。一成は、咲夜の受け答えから多少は事態が読み取れたらしく、真剣な面持ちでこちらを見ていた。
 「ちょ…、ちょっと、待っててもらえる?」
 拓海にそう断った咲夜は、携帯電話のマイク部分を指で押さえ、一成の方に向き直った。
 「どーしよ、一成…。月曜日にある拓海のライブで、歌ってみないか、って言われたんだけど…」
 月曜、という急さが引っかかったのか、一成は、ちょっと眉をひそめ、考え込むような顔をした。が、それも少しの間のことで、すぐに答えを返した。
 「まあ、咲夜がやってみたいなら、出てみればいいんじゃないか?」
 「でも、さぁ」
 「俺なら、構わないよ」
 咲夜の歯切れの悪い口調の理由を、なんとなく察したのだろう。一成は、僅かに口元に笑みを作った。
 「俺だって、会社のイベントでいろんな奴と組んで弾いてるんだ。デュオだからって、気を遣うなよ」
 「……」
 「夢、だったんだろ。…次、いつチャンスが巡ってくるかわからないぞ」
 「…うん」
 以前の一成なら、きっと、心穏やかではない話だった筈だ。お互い随分苦しんだけれど、ああした経験があったからこそ、純粋に音楽を追求できるデュオとしての土台が、ちゃんと出来たのかもしれない―――そんな風に、感じて、咲夜も少し笑い返した。

 そうだ。ずっと、夢だった。
 いつかは拓海と同じ舞台に立つ……遠い将来の夢。それが叶うチャンスが、今、目の前にあるのだ。色々と奇妙な点や不安な点はあるけれど、チャンスを掴むか、掴まないか―――その二者択一なら、答えは1つだ。

 押さえていた指を外し、咲夜は拓海に返事をした。
 「―――お待たせ。…わかった。詳しい話、聞かせて」

***

 目の前を、きらびやかなドレスが横切る。
 上品な音楽、上等で華やかな衣装の数々―――そして、それを見つめる観客の、異様なまでに夢見るような目つき。これまで見たファッションショーとは趣の違う様子に、咲夜は若干気圧され気味になった。
 「でも、どうしたの今日は、急に」
 ショーの邪魔にならないよう、佐倉が耳元でこっそり訊ねた。
 「咲夜ちゃんが、ブライダルショーを見に来るなんて―――もしかして結婚の予定でもあるの?」
 「まさか! 奏が出てるから見に来ただけだってば」
 「そりゃまあ、一宮君も出てるけど…この手のショーはやっぱり女性が主役だから、一宮君は添え物っぽいわよ? 舞台を踏めればなんだっていい、って風だから、欠員出たと知った途端ホイホイ引き受けちゃったけど……全く、欲があるんだか、ないんだか」
 契約事務所の社長としては、なかなかに複雑な心境の仕事らしい。確かに奏って、貪欲なんだか無欲なんだかわからない仕事の選び方するからなぁ―――全くあのヤローは、という顔をする佐倉を見て、咲夜はくすっと笑った。

 その時、音楽が変わった。
 一段高くなったフロアに、すっきりとしたフォルムのウエディングドレス姿の女性をエスコートして、白のタキシードを着た奏が現れた。
 ファッションにそれほど関心がある方ではないし、ましてやウエディング産業の流行りすたりなどには完全に疎い咲夜だが、女性が着ているドレスは、これまでのウエディングドレスのイメージとはちょっと違う感じで、「新しい」と感じるものだった。近々結婚を予定しているのであろうカップルだらけの観客も、咲夜と同じように感じているらしい。パンフレットと実物を見比べたりしながら、楽しそうに何やら囁きあっている客があちこちに見受けられた。

 客の目の大半は、女性のドレスに行っている。
 けれど―――咲夜は、奏の動きだけを見ていた。一時も見逃さないよう、しっかりと。
 歩き方、目線の配り方、手の上げ下ろし、踵の返し方―――他の舞台や撮影よりは抑えてはいるものの、やはり、誰よりも目を惹く。普段の奏は、むしろ、周囲に埋没しようとするかのように、極々当たり前の20代の若者、といったオーラしかまとっていないのに……舞台の上や、カメラの前に立った時の奏は、強烈なオーラを放つ。それは容姿の優劣の問題じゃないし、テクニックでもない―――奏の持つ資質、才能の問題なのかもしれない。
 『は? 撮影とかショーの時? うーん……結構、自己陶酔入ってる気ぃするな、ああいう時は。衣装着た自分を鏡に映して、そこに映った“奴”になりきるんだよ。だから、“見せてる”って言うよりは“演じてる”に近いと思う。客観的に見たら、相当恥ずかしいと思うぜ、あれ』
 ―――凄いなぁ…奏って…。
 パンフレットを胸に抱き、小さく息をつく。
 歌声を売る仕事と容姿を売る仕事の差はあるけれど、やはり自分も奏も、同じ“表現者”だ。けれど―――役になりきって演じる奏と、歌の主人公に自分を投影し自分を曝け出す咲夜。表現法は、もしかしたら正反対なのかもしれない。

 「でも、随分仲がいいわね、相変わらず」
 奏が引っ込んだことで咲夜の集中力が途切れたのを、表情などから察したのだろう。佐倉が、茶化すようにそう言って咲夜の肩の辺りを小突いた。
 「ただの友達と呼ぶには、ちょーっとばかり接近しすぎな気もするけど? 実際のところ、どうなのよ」
 「…やだなぁ。佐倉さんがそーゆー目するような部分、私たちには微塵もないってば」
 「そうは言うけど、こんなショーまで見に来てるんじゃ、疑いたくもなるわよ?」
 くすくす笑う佐倉を、咲夜は軽く睨み、再び舞台に目を移した。この手の冗談は、なんだか、奏との間の友情を冒涜されたみたいで不愉快だ。
 「そういう悪趣味なジョーク飛ばしてる暇あったら、佐倉さんこそ、真剣にショー見といた方がいいんじゃないの。結婚適齢期真っ只中じゃん」
 軽い仕返しのつもりで咲夜が言うと、佐倉は一瞬キョトンと目を丸くし、それから可笑しそうに笑った。
 「アハハハ、優しいわねー、咲夜ちゃん。まだあたしって適齢期なんだ。とっく過ぎたかと思ってたわ」
 「…いや、それ、笑うとこじゃないよ、佐倉さん」
 「はー…、ウエディングドレス、ねぇ」
 咲夜の突っ込みをサラリと聞き流し、佐倉は腕組みをすると、舞台に目をやった。
 「あたしには、縁のないもんだろうな、ああいうシロモノは」
 「…そんなことも、ないんじゃない?」
 「男はもう、こりごり」
 呟くようにそう言った佐倉は、目だけを咲夜の方に向け、苦笑いを浮かべた。
 「あたしって、男運がないのよ。好きになる男は、いつだって、あたしにとっても大切な人が、世界中の誰より愛してる男ばっかり―――そしていつだって、あたしは男より“大切な人”を選んじゃうのよ。そういう自分に満足しちゃうの」
 「……」
 「想うだけなら、罪にはならないもんね。…もう諦めてるわ。ありきたりな結婚なんて」
 ―――想うだけなら…。
 なんだかそのセリフは、自分自身と重なって聞こえた。
 佐倉にも、咲夜にとっての拓海のように、手を伸ばすことさえ躊躇われるような恋が、あったのかもしれない―――そんな風に感じて、咲夜は少し、悲しくなった。

***

 ショーの終了後、出口でぼんやり奏を待つこと、30分。
 「悪い悪い、待たせて」
 ポン、と肩を叩かれ振り向くと、ダッシュで着替えを終えた奏が、そこに立っていた。見慣れた顔を見つけ、咲夜はホッとしたように笑った。
 「ううん。案外早かったじゃん。もっとかかるかと思ってた」
 「店回る時間を多く取りたかったから、一応急いだんだよ」
 そう言って奏は、さっそく歩き出した。まだ4時過ぎじゃん、と咲夜は思ったが、今日しか時間がないことを考えれば、プロである奏の意見には従った方が無難だ。若干早足気味に歩き出した。


 さして興味もないブライダルショーを見に来たのは、要するに、明日の拓海のライブに着て行く衣装を奏に選んでもらう“ついで”だった。
 衣装だなんてオーバーなものを買う気はないのだが、拓海のライブであることを考えれば、やはり自分もある程度大人の女性を演出しなくてはならない。が…残念なことに、咲夜の持っている服は、いずれもカジュアル風味か徹底したフォーマル専用―――というより、法事用。女っぽい服装は、皆無に等しかった。
 下は、この前買った黒のミニスカートでいいかもしれない。だが、上はもうセーターはやぼったいし、ライトを浴びるとかなり暑いと思う。悩んだ末、奏に相談したら、こんな答えが返ってきた。
 『いや、下は咲夜らしく、ジーンズとかでいいと思う。上に着るもんで大人っぽさの演出だな。嫌味のない程度に襟元の深く開いているブラウスにしろよ。できれば光沢のある生地がいいな―――襟はシャープな方がいやらしくなくていいと思う』
 多分、世の女性の大半が、これを聞いて「ああいうブラウスね」とイメージできるのだろう。だが、咲夜には無理だった。
 『…ごめん、一緒に選んで』
 これが、咲夜の結論だった。


 「お前の出番って、明日の何時頃?」
 歩きつつ奏に訊ねられ、咲夜は、拓海から聞かされたスケジュールを頭に思い描いた。
 「んーと……多分、8時半頃。ライブハウス入りするのが6時で、私服のまんまリハ1回やるって」
 「じゃあ、ライブハウスに入る前にうちの店に寄る、ってのも無理だよなぁ…」
 「…だろうね。普通に仕事あるから、多分6時も間に合わないと思うもん。開場前にギリギリ滑り込んで、リハーサルの最後にちゃちゃっと歌わせてもらって、もうあとは本番」
 「何考えてんだよ、麻生さんは…」
 理解に苦しむ、といった顔で、奏が眉間に皺を寄せる。全く同感だ。昨夜から何度、同じことを言ったかしれない。

 いや。
 理解に苦しむだけ、じゃ、ない。
 昨日、電話で「歌ってみないか」と言われた時も、まず最初に襲ってきたのは、天地がひっくり返ったような「驚愕」。そして、次に襲ってきたのは、「喜び」ではなく―――「不安」、だった。
 ―――何、考えてるの? 拓海…。
 奏が口にした言葉と同じだが、意味は違う。なんて無茶な計画を立てるんだ、という意味じゃなく、言葉のままの意味―――拓海は、何を考えて、こんなことを言い出したのだろう? 気まぐれにしたって、ライブは拓海の仕事だ。そんなに私物化できる筈もない。なのに、そんな場を使ってまで、何故―――…。
 …なんだか、怖い。
 何故、なんだろう。なんだか―――極上の夢を見せられた後、地獄に突き落とされるような予感がして、体の奥底にある何かが不安に震えている。

 「…咲夜?」
 どうした、という色合いの奏の声に、ハッ、と我に返る。なんでもないよ、と首を振った咲夜は、大きく息を吐き出し、話を元に戻した。
 そう。問題は、服装だけじゃない。ナチュラルメイクという名の「ほとんどすっぴん状態」しかできない咲夜に、果たして、大人の女性を演出するメイクなどできるだろうか、という問題。しかも、舞台だ。ライブハウスとはいえ、“Jonny's Club”よりは客席と距離があるだろうし、ムードだって、店のライブとは全然違うだろう。
 「入りから出番までが長いから、じっくり自分でメイクするけど……仕上げが不安だよなぁ」
 困ったように咲夜が言うと、少し考えた奏が、思いがけないことを言い出した。
 「オレ、8時ならそっち行けると思うから、最終チェックしてやろっか」
 「え、悪いよ、そんなわざわざ」
 仕事でもないのに―――咲夜が眉をひそめてそう言うと、奏は咲夜を見下ろし、ニッ、と笑った。この前、拓海とのデートのプロデュースを申し出た時と、よく似た笑い方で。
 「お前の最高峰の夢だったんだろ? 化けさせて、最高の自分を演出させてやりたい、っていう職業的な野望があるから、一種の仕事かも」
 ―――てことに、なるの?
 なんだか、よくわからないが―――奏が総点検してくれるなら、安心だ。
 二度とないかもしれない拓海とのライブ、歌で勝負するのは当然だが、やはり拓海が恥をかかないよう、拓海のピアノに合わせて歌うにふさわしいムードを演出したい。舞台の上の奏のようにはいかなくても……あの10分の1のオーラでも身にまとうことができれば、実力差を多少はカバーできるかもしれない。
 「…奏が、それでいいんなら、お願いするけど…」
 「ん、いい。…あ、おい、渡るぞ」
 「えっ、」
 突如、咲夜の手首を、奏が握った。
 何故がその行動にギョッとしつつ、慌てて奏の視線の先を見ると、今まさに渡ろうとしていた横断歩道の歩行者信号が、忙しなく点滅を繰り返していた。どうやら、赤になる前に渡るぞ、ということだったらしい。咲夜も、奏に手を引っ張られるままに、小走りに奏の後を追った。

 ―――調子、狂うよなぁ…。
 チラリと、自分の手首を掴んでいる奏の手を、見下ろす。
 この前から、そうだ。拓海とのデートに協力してもらった時から―――いや、正確には、メイクしてもらった時のことを思い出して、そのあまりの接近ぶりに気づいて焦ってしまった時から。
 背後から羽交い絞めされたこともあるし、脚で押さえつけられたりもした。なのに、あれ以来、ちょっとした接触でドキリとしたり、変に汗が出てきたりする。たかが腕を掴まれた程度で、鼓動が速まったりする。そういう自分に気づくたび、咲夜はうろたえ、同時に苛立つ。
 なんだか、そうした反応が、奏を“男”として意識しすぎているみたいで。
 奏を“男”と意識するのは、佐倉の冗談同様、なんだか自分たちの関係を冒涜する行為のような気がした。何故かはわからないけれど―――そんな気がした。

 横断歩道を渡り終えると、奏は、無意識のうちに掴んでいた咲夜の手首に気づいた。
 「…あ、悪い」
 なんだかバツの悪そうな顔になった奏は、パッ、と咲夜の手を離し、先に立って歩き出してしまった。
 「……」
 人を米俵みたいに担ぐわ、押し倒してスリーサイズ測るわ、散々好き勝手やった癖に。
 今更、何を気まずくなっているのだろう―――その気まずさを、自分自身も感じているだけに、咲夜はそれを口にはできず、なんとなく釈然としない気分のまま、奏と並んで歩き出した。


***


 「ちょ…、い、いっちゃん! いっちゃん、待ってってばー!」
 「ああああ、お前ら、遅すぎ! 終わったら店行く! また後でー」
 テンを始めとする店の連中のトロトロした歩きに業を煮やした奏は、改札を抜けると同時に、彼らを置き去りに走り出した。

 ―――だからオレはパスするって言ったのに…。
 腕時計を確認しつつ、ひとりごちる。
 星が辞めて、半月。仮採用という形で入ってきた見習い君を勇気付けよう、というテンの意見は、確かに偉いし、奏も賛成だ。でも―――今月末に本採用が決まれば、どうせ店全体の歓迎会をやるのだし、見習い君の指導係は氷室なのだから、最低限氷室と見習い君、そして発案者のテンの3人でやれば済む話だ。氷室と自分だけじゃ気まずいのなら他の奴を誘えばいいし、実際誘って2名も名乗りを上げたのだから、もう十分の筈だ。
 なのに、なんで、予定の入っている奏を誘うんだか―――「いっちゃんは絶対こなアカン!」というテンのセリフは、どういう意図からくるわがままなのだろう? さっぱりわからない。
 結局、奏も含め6名となった今夜のプチ歓迎会の会場は、たまたま予約がとれたこともあり、麻生拓海のライブが行われるライブハウスからもほど近い、洒落たカフェ・バーということになった。場所まで合わせられると、断りきれない。仕方なく6名でゾロゾロと移動したのだが、やはり1人で移動するより時間を食ってしまい、いまや8時に間に合うかどうかギリギリな時間だ。

 正直、なんだって自分が、こうも躍起になって咲夜の手助けをしようとしているのか、奏自身にもよくわからなかった。
 勿論、今回のことは、咲夜に頼まれたことだ。頼まれなくたって、親友の、一生に一度になるかもしれない、晴れの舞台だ。本来ならもっとじっくり準備期間を設けて、最高の舞台にしたかっただろう―――だからせめて、少しでもそのイメージに近くなるよう、自分にできることはしてやりたい。そう思うのは、別におかしなことではないだろう。
 でも―――何かが、自分でも釈然としない。
 報われない恋のまま終わった自分の代わりに、せめて咲夜には恋を実らせて欲しい、という思いが、少々暴走気味なのだろうか。だとしたら、ちょっとお節介が過ぎるかもしれない。もうちょっと考えないとな、と、奏は少し反省した。

 「いっちゃんっ!」
 「うわっ!」
 突如、背後から声がして、奏は思わず飛び上がりそうになった。
 驚いて振り向くと、全力で走ってきたテンが、ゼーゼーと肩で息をしながら立っていた。途中から奏は走るのをやめ早足に切り替えていたのだが、追いつくには全力疾走が必要だったのだろう。
 「な…、なんだよっ! 驚くだろ、いきなり!」
 心臓がバクバクいう。時間がない、と焦りつつも、立ち止まらない訳にはいかなかった。足踏みに近い状態で見下ろす奏に、テンは大きく深呼吸をし、上がってしまっていた息をなんとか整えた。
 「はー…、いっちゃん、走るの、速いわ、ほんまに」
 「氷室さんたちは、どうしたんだよ」
 「お店に、向かってるわ。さっきの、角で、曲がる筈やってん」
 「じゃ、なんでお前がここにいるんだ?」
 「ライブハウス、どういうとこか、見てみたかってん」
 ガクッとくる返答に、本当に体から力が抜ける。大きなため息をついた奏は、勝手について来い、という目をテンに向け、さっきより僅かにペースを落として歩き出した。
 チラリと時計を確認すると、まあなんとか間に合いそうな時間だった。トークタイムを挟むので、どんなに早くても8時半より前の出番にはならない、と言われているから、ほぼ問題はないだろう。
 「…なんや、知らんけど―――いっちゃんて、咲夜ちゃんの優先順位が、めっちゃ高いんやね」
 唐突に、テンがポツリと呟いた。
 意味が、よくわからない。眉をひそめた奏は、訝しげにテンを見下ろした。
 「この前描いてたデザイン画、咲夜ちゃんのためやろ? 今日かて、職場の懇親会より咲夜ちゃんの方が優先やし……星さんの送別会の時も、場が気まずくなることより、咲夜ちゃんが酔いつぶれることばっかり心配しとったし」
 「…そりゃ、職場の仲間と親友じゃ、親密度違ってて当然だろ?」
 「うん。そうや。…大事なんやな、咲夜ちゃんが」
 「? まあ、な」
 何が言いたいのだろう? 首を傾げる奏に、テンはおもむろに顔を上げ、ちょっと引きつったような、どこか寂しげな笑みを見せた。
 「ア、アハハハ、けど、いっちゃんて誰にでも親身で優しいから、結構罪作りやと思うわ」
 「は?」
 「叶のお嬢様にも、ウチにも。好きなだけ泣かしてくれるし、本気で心配してくれるし。よ…弱ってる時やと、つい、フラフラ〜っと、自分の気持ちまで勘違いしてしまいそうになるわ」
 「……」
 「うん―――そうや。勘違いしたら、アカンねんな」
 自分に言い聞かせるように、そう言って、数度軽く頷くと―――テンは、なんだかふっきれたような表情になって、1歩後ろに下がった。
 「なんや、スッキリしたわ。ほな、また後で」
 「え、」
 呆気にとられる奏を残して、テンはくるりと踵を返し、今来た道を走って戻って行った。もうライブハウスには興味を失くしたらしい。あっという間に遠ざかった背中は、多分、懇親会を開く店に向かうのであろう曲がり角を曲がり、消えてしまった。
 「……なんだったんだ」
 なんだか、よく、わからないけれど。
 “勘違いしたら、アカンねんな”―――あの言葉の意味は、ちょっとわかった気がした。心弱りしている時、優しくしてくれる人がいたら、甘えて、縋りたくなるものだ。それは心の痛みを誰かに癒して欲しいだけなのだが……時として、それを恋と勘違いすることも、あるのかもしれない。
 ―――難しいもんだな…失恋の相談に乗るのも。
 今日、何がなんでも来い、とテンが奏にわがままを言ったのも、まだ癒えていない失恋の痛みが原因なのかもしれない―――ため息をついた奏は、くしゃっ、と髪を掻き混ぜ、再びライブハウスへと急いだ。

***

 打ち合わせ通り、ライブハウス入り口の係員に咲夜の名前を言うと、無事通用口に案内され、舞台裏に回ることができた。咲夜がいる筈の控室のドアをノックした時、時計の針は、8時を僅かに過ぎた位置を指していた。
 「はーい、どうぞ」
 中から聞こえてきた声は、紛れもなく咲夜の声だ。
 ―――ギ…ギリギリ、セーフ…。
 無事、出演前に駆けつけられたらしい―――第一関門クリアを確信し、奏はようやく胸を撫で下ろすことができた。
 ガチャッ、と控室のドアを開けると、咲夜がたった1人で、控室の壁際にある鏡の前に座っていた。スタッフ全員、既に始まっている拓海のライブにかかりっきりになっているらしい。
 「よ、よかったあぁ…! 懇親会のメール来た時から、もう来ないんじゃないかってすっごい不安だったよー!」
 そう言って、救世主が現れたかのような泣きそうな顔をする咲夜を見て―――思わず、吹き出した。
 黒のスリムパンツに、上品な光沢を持つシャツを身につけた咲夜は、顔の部分だけが妙に「薄味」だった。ファンデーションはきちんと塗ってあり、眉も一応描いてあるが、それ以外はゼロ―――アイメイクも、チークも、ルージュもなしだ。
 「お…お前、まさか、その顔で舞台に上がる気だったんじゃないだろうなぁ? スゲーのっぺらぼう」
 「んな訳ないじゃんっ。…1回、日中のメイク全部落として、最後までメイクし直したんだけどさ―――もう、あまりにも悲惨な状況になったから、もう1回全部落として、ファンデーションと眉まででストップしといたんだ。残りは奏来たらやってもらおうと思って」
 「オレが間に合わなかったら、どうする気だったんだよ」
 「…“普段メイク”でいく予定だったよ。ピカソの絵みたいな顔で出るよりマシじゃん…」
 是非ともその、悲惨な状況のピカソ風メイクを見てみたかった。ククク、と笑った奏は、荷物を置き、さっそく咲夜の奮闘の結果のチェックに入った。
 「ごめんねぇ、新人さんの歓迎会なのに」
 「いや、内輪のもんだし。それに、終わったらすぐ駆けつけることにしてるから―――舞台袖で歌聴けるんなら、残ることも考えたんだけどな」
 「許可もらえればよかったんだけどねぇ…。ケチだよなー、今回の主催元」
 「…ん、ファンデーションもアイブロウもオッケー、と。やっぱ、舞台映えするには目元だよな。目ぇ閉じて」
 これならなんとか、10分程度で終わりそうだ。アイライナーを手に取った奏は、作業に集中すべく、一度大きく深呼吸をした。

 「アイライナーなんて初めて使ってみたけどさぁ。絶対無理だよ。瞼のギリギリの際のところに1本線描くなんて」
 「お前、相当不器用だろ」
 「器用ではないかもしれないけど…」
 「変だよなぁ、料理上手いのに。きゅうりを連続であの薄さにスライスできるのに、なんでアイライン1本が引けないんだろう」
 「それを言うなら、奏の方が変じゃない? じゃがいもの皮をあーんなに分厚くしか剥けない奴が、なんでそんなにチマチマした作業ができる訳? すんごい不思議」
 「お、一応、マスカラはやれたのか」
 「透明マスカラだから失敗しても被害が少ないと思って」
 「被害……」
 メイクに使うとは思えない単語に、また笑いがこみ上げそうになる。多分ピカソメイクは“被害”だらけだったのだろう。
 アイラインを引き、アイシャドーを施した後、口紅を選ぶ。微かに薄紫がかった光沢を持つシャツに合わせて、咲夜の手持ちの口紅の中では一番合いそうな、落ち着いたプラムカラーの口紅を選んだ。紅筆に取り、慎重に唇に塗っていく。
 「この前思ったけど、グロス塗るとお前、気になるのか気持ち悪いのか、すぐ唇舐めようとするだろ。あれ、やめとけよ。ただグロス食ってるだけだし、唇乾燥するばっかりだから」
 「うー…、でもさぁ」
 「こら、喋るな」
 口紅を塗っている最中に、唇を動かされては困る。奏が、手で押さえていた頬を軽く指先で叩くと、咲夜もそれに気づいて、慌てて大人しく口を閉ざした。

 話し掛けるとつい答えてしまいそうになるだろうから、と、暫し、無言のまま作業が続いた。
 口紅を塗り終え、軽く紙で押さえたところで、一度、咲夜の顔をまじまじと見る。
 「…ねー、もう、終わった?」
 「いや、考え中。…うーん、どうするかな。グロス塗った方がいいけど、歌うのに支障があれば、やめた方がいいし…」
 奏が、迷ったようにそう言うと―――咲夜が、それまでずっと閉じていた目を、開けた。

 その、刹那。
 目が、合った。
 普段ならあり得ないほど、近い距離で。

 思いがけない形で目が合ってしまった2人は、それぞれ、口にしかけていた言葉が、喉の手前で止まってしまった。

 「―――……」

 なんだか。
 目が、逸らせない。
 なんだろう、これは―――でも、疑問さえ浮かんでこない。目が合ったまま、どちらも、何かに捕えられてしまったかのように、相手の目を見続けることしかできなかった。

 そして、どちらからともなく―――何かに吸い寄せられるように、相手の唇に、自分の唇を、そっと重ねた。

 

 「如月さーん!!」

 ココココン、という鋭いノックと共に廊下から掛けられた声に、僅か数秒の魔法は、一瞬で弾けた。
 同時に夢から覚めた奏と咲夜は、弾かれたようにドアの方に顔を向けた。ドアにはまったすりガラス越しに、スタッフらしき男性のシルエットが浮かんでいる。
 「ちょっと早めに舞台袖でスタンバイしてもらいますから、あと5分で出て下さーい!」
 「あ…、は、はーい!!」

 あと、5分。

 他のことが、全部吹っ飛んだ。
 互いを押しのけるようにして離れた2人は、即座に行動を開始した。まずい、時間があまりない。咲夜は鏡の方に向き直ってメイクの出来具合を確認し、奏はグロスは後回しだ、と口紅を放り出してチークブラシを手に取った。
 「うっわ、さすがプロ…! やっぱ、奏待ってて正解だった」
 「まだ完成してねーよっ。とりあえずチーク入れるから、じっとしとけ」
 奏がチークブラシを頬骨の上で動かし始めると、毛先が目に入らないよう、また咲夜は目を閉じた。
 さほどカバーすべき点もない輪郭なので、順当な部分に控え目にチークを入れる。結局、口紅を更に塗り足し、薄くグロスを塗って、完成とあいなった。
 出来上がった咲夜は、前回のようなそこはかとない甘さはないが、ちょっとモデルっぽい、より大人びた顔に変身していた。服装といいメイクといい、佐倉が見たら大喜びしそうだ―――ただし、あと10センチほど、背が高ければだが。
 「よっしゃ、完成!」
 「あーりーがーとー。本当に助かった」
 「メイク負けする歌、歌うなよ」
 「任せなさい」
 ニッ、と笑い合った2人は、互いの拳を軽くぶつけ合った。それとほぼ同時に、控室のドアが開いた。
 顔を覗かせたのは、スタッフ用のバックステージパスを首から提げている男だった。どうやらさっきの声の主らしい。
 「準備、できましたか?」
 「はい、OKです」
 「じゃ、行きましょう」
 スタッフに促された咲夜は、軽くシャツの襟や袖を整え、控室のドアから廊下へ出た。そして、ドアを閉める前に、控室の中の奏を振り返り、もう一度笑った。
 「じゃあ―――本当に、ありがと」
 「おう。がんばれよ」
 奏も、笑顔で答えた。
 そして、ドアは、パタンと閉じた。


 その、3秒後。

 閉じたドアの、内側と、外側で。

 「「…………えっ???」」

 奏と、咲夜は、同時に眉をひそめ、同じ言葉を口にしていた。


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