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「―――奏、」
「……」
「おい、奏っ」
氷室に小突かれて、奏はやっと、我に返った。
数度瞬き、辺りを見回す。そこで初めて、スタッフ仲間5名の視線が、全て自分に集中していることに気づいた。そして自分が、カクテルの入ったグラスを非常に中途半端な高さに掲げたまま、ずーっとぼんやりしていた、という事実にも。
「どうしたん、いっちゃん…。さっきからずっとそんな風やんか」
向かいに座るテンが、怪訝そうな顔をする。その隣に座る新人スタッフも、それ以外も、程度の差こそあれ、全員「どうしちゃったのこいつ」という顔だ。
顔が、ひきつる。焦った奏は、誤魔化し笑いを無理矢理作った。
「ハ、ハハハハ。い、いや、別に? ちょっとバタバタしすぎて、疲れたかな」
「ふーん…」
それでも、誰一人、納得のいった目になる者はいない。当たり前といえば、当たり前だ。弱々しい笑みになった奏は、気まずさに、手にしたグラスを口に運んだ。
わかっている。この場は、新スタッフの歓迎会だ。仕事仲間の懇親会だ。今考えるべきは店のこと、仲間のこと、新人君のことであり、するべきことは飲み食いして騒ぐことだ。頭では一応、わかっている。
でも、実際に、考えるべきことを考えられ、するべきことを出来ているか、と言ったら―――まるっきり、ダメだ。気づけば奏は、グラス片手にまた考え事に没頭してしまっていた。
一体、何があったのか。
自分でも、さっぱりわからない。
いつもと何ら変わりはなかった筈だ。メイクの作業自体も慣れたものだったし、咲夜と話したことも、いつもと同じくだらない無駄話ばかり―――おかしなムードなどなかったし、普段と違った何かがあった訳でもなかった。
なのに。
時間が経てば経つほど、くっきり、はっきり浮かんできてしまう、記憶。
僅か十数秒の、空白―――その時、自分が何を考えていたかは何ひとつ浮かんでこないのに、触れた唇の感触だけは、やたらとリアルだ。急速に蘇った記憶に、奏は思わずグラスを置き、口元に手を置いた。
―――信じられない。
信じられない、信じられない、信じられないっ。
オレが、咲夜に!? なんで!? 何考えてたんだ、あの時のオレ!
メイクなんて、いつもやってんだろ? 確かに距離近いし、見ようによっては結構際どい距離感になることもあるけど―――メイクによっては、リップライナーどころか指で直接唇とかにつけることもあるんだし、そんなことでいちいち欲情してたら、メイクアップアーティストなんて務まる訳ない。
確かに、最近ちょっと、妙に意識しすぎなとこはあったかもしれない。デート仕様の咲夜見て、なんだ、案外“女”してんじゃん、て思ってから……確かに、極々稀に、それまで“無性別”だった咲夜が“女”に見えることはあったと思う。それは一応、ほんの少しだけ認める。
でも、だからって。
だからって、何で、いきなりキスだよ!? っつーか、そこまで欲求不満かよ!?
あああ、何やってんだ、オレはぁぁ…。たとえ欲求不満だったにしても、咲夜相手はまずいだろ。ただの友達じゃないぞ? 親友だぞ? あんな真似しでかして、咲夜から距離でも置かれたら、明日からどーすんだよ、オレ。
…ん? ちょっと、待て。
あんな真似を、「オレが」しでかしたのか?
あれ? オレが咲夜にキス「した」のか? それとも、咲夜にキス「された」のか? どっちだ??
…いやいやいや。咲夜が、オレにキスする訳がないだろ。麻生さんがいるのに。
いや、でも、オレがするのも変だし。でも―――…。
「…ほんま、何考えてるんやろ、いっちゃん」
「…一宮さんて、見た目二枚目なのに、面白いですね…」
「まあ、中身は、2.5枚目って感じだからなぁ…」
テーブル席の一番端に座る奏を眺めつつ、“Studio K.K.”の面々は、ひそひそと、そんな話をしていた。
突然赤面したと思ったら、今度は眉間に皺を寄せて考え込み、やがて落ち込んだ顔で頭を抱え、そこから復活したと思ったら、難問が解けずに堂々巡りを繰り返してるみたいに頭を掻き毟る―――それを全部、無言のまま、たった1人でやっているのだ。オーバーアクションではないものの、傍目には「何やってるんだ一体」としか言いようのない、奇妙な光景だ。
彼が何を悩み、何に赤面し、何に落ち込んでいるのか、周囲にはさっぱりわからないが。
「見てて飽きないから、とりあえず止めるのはやめとくか」
「そやね」
優しい同僚たちは、まるで面白い動物の生態でも観察するような気分で、プチ・パニック状態の奏を眺めるのだった。
***
「だ…大丈夫かい? 咲夜ちゃん」
心配そうに顔を覗き込む拓海のマネージャーに、咲夜はもう一度深呼吸をし、幾分ぎこちなさを残した笑みを返した。
「大丈夫、です」
「そう。まあ、プロとして歌ってるっていっても、こういうライブはあまり経験ないだろうから、緊張するのも無理ないよ」
咲夜のこの状態を、本番前で緊張しているせい、と捉えたのだろう。マネージャーはそう言って、ドンマイドンマイ、と咲夜の背中を叩く。…まあ、そう思わせておいた方がいい。咲夜は、ハハハ、と少々乾いた笑い声を立てた。
―――勿論、緊張もしてるんだけどさ…。
むしろ、緊張は、どこかに吹っ飛んでしまった。そういう意味では、このとんでもない爆弾は、緊張対策にはうってつけだ。ただし……強烈すぎて、後遺症が凄まじいが。
「あと5分位だからね」
ひそひそ声でマネージャーに言われ、頷く。舞台では、拓海がトークタイムを終え、新たに曲を弾き始めていた。レイ・チャールズの『Georgia on
my mind』―――その音色を聴きながら、咲夜は、いまだ速い鼓動を抑えようと、胸に手を当てた。
水を飲んでも、何度深呼吸しても、治まらない―――落ち着かなくては。5分後に本番が……夢の舞台が、待っているのだから。
…それにしても―――…。
考えれば、考えるほど、わからない。どうして、こんなことになったのか。
目を開けたら、奏と目が合って―――そこで、記憶は途切れている。我に返るまでの十数秒、覚えているのは、キスの感触だけだ。
「…どうしよう…」
微かな呟きは、幸い、舞台のピアノの音に掻き消され、すぐ隣のマネージャーにも聞こえなかった。
…どうしよう。
どうしよう。全然わかんないよ。なんでこーゆーことになってんの!?
何考えてんの、アイツっっ!! ここは日本で、私は友達じゃん! 初対面の人と挨拶でキスしちゃう文化圏とは全然違うこと位、わかってる筈だろうに―――っていうか、あの場面て挨拶ですらないし! やめてよねーっ! 拓海じゃあるまいし、気まぐれであーゆー真似するのはっ!
…えっ、ちょっと、待って。
あれ? この場合、キスしたのって、奏? それとも、私?
いや、私ってことはないでしょう。拓海、いるのに。
そりゃ確かに…ここ最近、ちょっと、変な感じはしてたけど、さ。過剰反応しすぎ、っていうか。でもそれは、慣れないことしたせいだし。慣れない服着たりしたせいもある、かもしれないし。
少なくとも私は、好きな男いるのに他の男に興味持つようなタイプじゃないぞ。絶対無い。一番嫌いだ、そういうのが。でも、かといって、奏の方から、っていう確信も―――…。
あああ、やだなぁ。明日からどういう顔して会えばいいんだろう? キツイよなぁ、奏とギクシャクすると。拓海のことでは、もう多少のことじゃヤキモキしないけど、奏とは色んな意味で距離が近いから、精神的にモロくるもんなぁ…。
「…あー、もうっ」
しっかりしろ、自分!
ペチペチ、と頬を叩き、活を入れる。駄目だ。今は奏のことを考えている場合じゃない。歌だ。歌にだけ集中しなくては。
機材に立てかけるようにして置いてある、全身を映す鏡に目を向ける。そこには、いつもの自分よりなんとなく精悍なイメージの自分がいた。この前のデート仕様とは違い、今回はクールな仕上がりにしてくれたらしい。
クールビューティー風な自分は、なんだか、自信あり気に見える。そういう自分を見ると、一種の自己暗示だろうか―――拓海との間にある実力差やキャリア差に対するコンプレックスが、あまり気にならなくなってきた。
大きく2回、深呼吸を繰り返す。『Georgia on my mind』のメロディに合わせ、声には出さず、歌ってみた。
「Now ya know it's, georgia....georgia...no peace, no peace i find...... Just this old, sweet song......keeps georgia on my mind.....」
心が、1フレーズごとに、音楽に溶け込んでいく。
拓海の弾くメロディラインは、微妙なテンポの揺れも、盛り上げ方も、笑ってしまうほど咲夜自身の歌と似ている。まるで、咲夜がピアノという楽器になってあそこで歌ってるみたいだ。唇を動かすだけの、音のない歌だが、咲夜は、歌う毎にどんどん、さっきまでの焦燥と混乱が収まっていくのを感じた。
―――…ん…、大丈夫。
大丈夫。ちゃんと、歌える。
やっと落ち着いた咲夜が目を開けると、それとほぼ同時に、演奏が終わった。拍手と共に、拓海が僅かに立ち上がり、聴衆に笑顔で会釈した。ピアノの陰になって見えなかったその姿が、咲夜の位置からもやっと確認できた。
改めて顔を見て、やっと少しだけ、実感する。ああ……拓海とセッションするんだなぁ、と。でも、ここまで来てもまだ、いまひとつピンとこない。あと1分か2分で長年の夢が実現する、なんて。
…ほら、また。
なんだか、不安が、ゾクリと背中を冷やす。
こんな悲観的な人間だった覚えはないのに―――何故なんだろう? ジャズ・ヴォーカリストを目指してからずっと、ずっとずっと、目指していた夢。それが実現する、というのに、何故……何が、不安なんだろう?
―――ううん、今は、考えない。
不安を振り切るように、鋭く息を吸い込み、背筋を伸ばす。奏とのことは随分と心臓に悪かったが、おかげで出番前の緊張なんて感じる暇もなかった。開演前にやった短いリハーサルを思い出しつつ、咲夜は静かに、出番を待った。
拍手がある程度止んだところで、拓海は、ブーム式のマイクスタンドを自分の方に引き寄せた。
「次の曲ですが―――今日いらっしゃった方は、ラッキーですよ。今夜限定、1回限りのスペシャル・セッションだからね。…えー、5月のジャズ・フェスタで、前座として出る新人デュオがいるんだけど、そのヴォーカリストだけ、一晩、誘拐してきました。血眼で人探ししてるピアニスト見かけたら、多分彼女の相棒なんで、ここに居るのは黙っといて下さい。―――え、通報? ハハ…、それは勘弁して。1曲セッションするために警察捕まるのは、さすがに困るから」
プライベート・ライブだけあって、古馴染みな客も多いらしく、客席からも声が飛ぶ。そんなムードは、ちょっと店でのライブに似ているかもしれないな、と咲夜はくすっと笑った。
「では、ヴォーカル・如月咲夜、ピアノ・麻生拓海で、1曲―――“Summertime”」
きゅっ、と、マイクを元に戻し、拓海が椅子に座り直す。そのタイミングを見た咲夜は、ライトから外れて暗闇の中にひっそり立っているスタンドマイクの前へと、そっと進み出た。
―――落ち着け。
いつも店で歌うのと、同じだ。違うのはただ、相手が拓海になっただけ―――大丈夫、絶対、歌える。
咲夜がマイクを握ったのとほぼ同時に、ポロ―――…ン、と、マイナーコードが一度、奏でられる。出だしは咲夜からだ。今聴いた和音に自分自身をチューニングし、咲夜は、静かに息を吸い込んだ。
「―――…Summertime...... and the livin' is easy......」
ライトが、ゆっくりと、辺りを照らす。
拓海のピアノの音が、声に重なる。
「Fish are jumpin'........... and the cotton is high...........」
瞬間―――“無”に、なった。
これが、遠い遠い未来の夢だったことも。何を考えているのかわからない拓海に対する、漠然とした不安も。
拓海のピアノによく合うハスキーボイスに生まれたかったな、なんてことも。もうちょっと実力ついてからにして欲しかった、なんてことも。冬、一成との間にあったことも―――ついさっき、奏との間にあったことも。
“無”になる。咲夜は、感情だけを持った楽器になる。父への怒りも、母への思慕も―――日頃は見せない、咲夜自身の呻き、叫び、涙が、歌へと昇華される。
「Oh your Daddy's rich.... and your ma is good lookin'......... So hush little baby, don't you cry.........」
ピアノの方に目を向けると、そこに、拓海がいた。
一成じゃなく、拓海なんだな、と、頭の片隅で実感する。目が合ったら、拓海が少し笑ったので、咲夜も無意識のうちに笑った。
咲夜が初めてジャズに触れた、あの時―――ハスキーな歌声を持つ歌姫と一緒に拓海が演奏した1曲目が、この『Summertime』だった。あの時の拓海のピアノは、もっと荒削りで、個性をそのまま剥き出しにしていた。けれど今、あの時やソロの時より個性を抑えて演奏しているのは、きっと咲夜のためなんだろう。一成が言っていたように、よく似た個性同士がぶつかれば、実力で劣る咲夜の方が負ける―――それを拓海も知っていて、咲夜を引き立ててくれている。
あと10年先のセッションなら、そんなこともなかったのかもしれない―――そう思うと、やはり、少し悔しくて寂しいけれど。
―――でも……幸せだ。
凄く、凄く、幸せだ。
拓海が好き、とか、そういうこと以上に―――歌を与えてくれたその人と、こうやって同じ舞台に立てることが、とても、幸せだ。
僅か数分間の、短い夢だった。
最後の1音の余韻が消え、客席から80人分の拍手が湧き上がった時―――咲夜は、今この瞬間なら、「死んでもいい」なんて陳腐なセリフも口にできるかもしれないな、……なんて、思った。
***
「お疲れ様」
出番を終え、舞台袖に戻ると、拓海のマネージャーがそう言って、ペットボトルを差し出してくれた。
はあっ、と息を吐き出し脱力する咲夜の背後で、早くも次の曲が始まっている。『Maiden Voyage』を、かなり、拓海テイストにアレンジしたもの―――ハービー・ハンコックが怒るぞ、と思うが、ハービーの原曲よりこっちの方が好きだ。随分前に2度ほど、咲夜も拓海の家で歌ったことがあるが、やはりソロ演奏とデュオでは、同じ『Maiden
Voyage』でもかなり違う。
―――やっぱ、ちょっと早かった気、するよなぁ…。
舞台を降りれば、また欲や後悔が顔を覗かせる。ペットボトルの水をあおりつつ、咲夜は僅かに眉を寄せた。
「どう? 長年の師匠と共演した感想は」
「…もうちょい、実力差縮まってからにしたかった」
咲夜がボソリと答えると、マネージャーは一瞬キョトンとし、それからくすくすと笑った。
「何言ってるんだい? 謙虚だなー、咲夜ちゃんは。音楽なんて、ある程度のテクニックがついたら、あとは人生経験だろう? テクニック面では、大御所も若手実力派も大差ないよ」
「だから、その人生経験をもうちょい積んでからにしたかった、ってこと。歌の深みとかあるじゃん…」
「うーん…でも、咲夜ちゃんがあと10年人生経験積んでるうちに、拓海も10年、更に人生経験積むしねぇ…」
「……」
―――なんか、ずるい。それって、永遠に追いつけないってことじゃないか。
面白くなさそうに咲夜が唇を尖らすと、マネージャーは、しょうがないね、といった風に息をついた。
「咲夜ちゃんがどう思ったか知らないけど―――今回、拓海が咲夜ちゃんに出演を依頼したのは、拓海流の“卒業証書”だと思うよ、僕は」
「…えっ?」
卒業証書?
思わぬ言葉に、目を丸くする。
「ジャズ・フェスタの前座、受かっただろう? 金払って入ってくる千人規模の人間の前で歌う訳だ、咲夜ちゃんも。その連絡聞いて、拓海、言ってたよ。あいつももう“卵”なんかじゃない、一人前のアーティストだな、って」
「……」
「僕も、拓海のマネージャーとして、子供の頃から君を見てたけどね。君の目標が拓海なのは、なんとなくわかってたよ。…多分拓海は、咲夜ちゃんに、拓海とのセッションなんてレベルをゴールに据えないで、もっと広く、高い所を目指せ、って言いたかったのかも」
「…広く…高い、ところ…」
―――だから、狭くて低い目標は、さっさと叶えてやった、ってこと…?
それを目標にしているうちは、私が、拓海という枠から出ようとしないから?
低い、というのには納得いかないが、狭い、という部分は…少し、わかる。拓海は親戚で、咲夜の先生だ。姪権限・生徒権限を使って甘えれば、こうしたライブで1曲歌わせてもらう位、いくらでも出来たかもしれない。それじゃ意味がないと思ったから、「お願い、1曲歌わせて」なんて言わずに来ただけで。
お前が目指してたものは、今のお前なら、こんなに簡単に実現することだったんだよ―――そう拓海に言われた気がして、咲夜は、複雑な心境になった。
そう言われる位、自分の実力が認められたんだ、という喜びと。
その一方で―――未来まで続くと信じていた目標を、いきなり取り上げられたような、心もとない不安を。
「あいつ、口では優しいことやお世辞めいたこと言う奴だけど、本当の意味で人を褒めることなんて、あんまりないよ。良かったな、咲夜ちゃん。本当の意味で、“先生”に認められて」
「……うん」
マネージャーに曖昧に微笑み返した咲夜は、そっと身を乗り出し、舞台の方を覗き込んだ。
舞台袖のスタッフや機材が邪魔になり、拓海の姿は見えない。けれど、スタッフが見ているモニターに、舞台上の拓海が綺麗に映っていた。
―――なんで…だろ。
歌を与えられてからの、10年あまりの歳月……ずっとずっと、拓海が目標だった。拓海と一緒の舞台に立つのが夢だった。拓海から一人前のヴォーカリストと認められたいと願っていた。
そして今、その通りになった。拓海に認められ、同じ舞台に立つことを許された。凄く凄く幸せで、本当に死んでしまってもいいほど嬉しい。
なのに―――私は、何が、そんなに不安なんだろう……?
夢が叶うのが、怖い。
そんな心境になるなんて―――夢を叶えるまで、この世にあることすら知らなかった。
「…拓海…」
モニターの中の拓海に、呟く。あらゆる意味で自分と似た存在である、拓海に。…そう、拓海が、自分と似ているからこそ……咲夜は、一抹の不安を拭い去ることができない。
なんだか、この舞台で、拓海から大きく距離を置かれた気がして―――咲夜は、その心細さに、知らずぶるっと身震いをしていた。
***
―――あー…、天井が回るー…。
目覚めて、それが最初に頭に浮かんだ言葉。
ぐるぐる、天井が回っている。すぐには起き上がれず、奏は、ぐったりとしたまま、天井が正常な位置でストップするのを待った。
5分ほどして、やっと少し、マシになった。が、起き上がってみると、なんだか平衡感覚がちょっと変な感じだ。それでもベッドを抜け出た奏は、窓際に置いたラジオのスイッチを入れ、ノロノロと朝の準備を始めた。
昨日の内輪の歓迎会は、結局、途中から自棄酒っぽくなり、奏にしては少々飲みすぎてしまった。素面でいては頭がどうしてもあの話に向いてしまうので、酔っ払って何も考えられなくなりたかったのかもしれない。
正体を失くすほどではないが、足元がおぼつかない程度に酔っ払い、ふらふらと帰宅した時は、咲夜が既に帰っているかどうかすら頭に浮かばなかった。ぬるめのシャワーを浴び、水を何杯も飲んでアルコールを薄め、面倒なことから逃げるようにベッドにもぐりこんだ。おかげで、夢ひとつ見ることなく、朝まで熟睡だ。
が……薄まりきらなかったアルコールが、中途半端に頭にへばりついているらしい。明らかな二日酔いほどではないが、この中途半端さが、逆に気持ち悪い。いっそ最悪の二日酔いで寝込んだ方が、まだマシかもしれない。
ザブザブと顔を洗うと、少しだけさっぱりした気分になった。
ラジオからは、90年代の洋楽が流れている。マグカップに入れた牛乳を半分ほど飲んだが、まだ食欲はあまりなかった。ぐしゃっ、と髪を掻き上げた奏は、ふと、視線を、ラジオの置かれた窓際へと向けた。
「……」
ラジオの隣に置かれた、目覚まし時計の長針を確認する。窓から射し込む光を見る限り、今日は晴天―――普段なら、そろそろ、咲夜も窓を開ける頃だ。
―――何て挨拶すりゃいいんだ…?
いきなり謝るのも変だし、第一、ああなった経緯が自分でもわからないのだから、謝るべき問題なのかどうかすら怪しいし。とはいえ、いくら経緯がわからないからって、「昨日ってオレら、キスしたよなぁ。なんでだっけ?」などと呑気に訊けるだけの心臓と非常識さは、残念ながら持ち合わせていなかった。
…やはり、向こうがその件に触れてくるまで黙っている方が賢いかもしれない。
大体、咲夜だって昨日、キスした事実をあっさりスルーして、舞台に向かったじゃないか。アメリカナイズされた拓海のもとで成長した咲夜だし、この前など喫茶店でいきなり拓海とキスしていた位だから、あの位、何とも思っていない可能性だってある。咲夜の性格を考えるとその可能性は絶望的に低いが―――無理矢理、そう思い込めなくもない。
でも自分でも気にしている癖にわざと黙っているのは卑怯なんじゃないか、とか。
いや、こっちだって、向こうからその話を持ち出されたら、何と言っていいかわからない、向こうもその気持ちは同じかもしれない、とか。
「うーん……」
窓の前で、奏は、ひたすら逡巡を繰り返していた。
一方咲夜は、もう少し早起きで、既に朝食を食べ終えていた。
FMラジオから流れる洋楽を、無意識のうちに口ずさみながら、コップに水を注ぐ。
「はいはい、ご飯だよー」
やたら葉っぱが増えてしまった百恵と竹彦に水をやり、一息ついたところで、視線が向かうのはやっぱり窓の方だった。
―――参ったな、どーしよ…。
穏やかな春先の青空には似つかわしくないため息が、咲夜の口から漏れた。
昨日のライブは、結果的には、大成功だった。
ライブ終了後、拓海の熱狂的ファンが花を届けに楽屋まで来たのだが、マネージャーと一緒にコーヒーで一服してた咲夜にも「とても良かった」と言ってくれた。咲夜が拓海とどういう関係に当たるのかを何ら説明しなかったので、客の中には色々と邪推する者もいたらしい、とその人から聞いて、くすぐったいような迷惑なような、不思議な気分になった。
拓海は、総じて上機嫌。「いやー、咲夜も成長したよなー。ジャズ・フェスタも、前座の方が良かった、なんて言われないように、俺らも頑張らないと」などと冗談を言っていたが、皮肉ではなく褒めているのがわかる口調だったので、咲夜もホッとした。
言い知れぬ不安が、まだ頭のどこかにこびりついていたが―――夢が実現したのだし、それが成功したのだから、ひとまず今夜はこれでよしとしよう。そう思って、素直にライブの成功を喜んだ。
途端―――脇へ放り出しておいた問題が、また戻ってきてしまった。
隣の部屋を意識してしまうのが嫌で、帰宅と同時に大急ぎでシャワーを浴び、ヘッドホンをして音楽をかけまくり、そのまま眠った。今朝の目覚ましは、タイマーでオン・オフするようセットしておいたCDだ。おかげで、いきなりヘッドホンから大きな音がダイレクトに耳に流れ込み、非常に心臓に悪い起き方になってしまった。
どうやって、挨拶すればいいんだろう? とりあえず昨日のお礼を言うのが先決だが―――「あの事なら気にしてないから」と、こちらから言うべきだろうか? でも、気にするな、などと言える立場かどうか、経緯が曖昧なだけに微妙な感じだ。それに、奏は日本とは違う習慣の国で生まれ育っている。あんなことなど意識すらしていないのかも―――下手にキスの話など蒸し返しても「何のこと?」とキョトンとされる可能性もあり得る。
顔を出さなければ、変に心配されたり、深読みされたりしそうだし。でも、顔を出せば、嫌でもその話になるだろうし。
―――やっぱ、奏から何か言ってくるまで、黙ってた方がいいのかなぁ?
うーん、でも。
「―――…はー…」
憂鬱だなぁ、ともう一度ため息をついた咲夜は、窓枠に額を押し付け、暫し迷った。
そうして、双方、散々迷った末。
迷ってる自分に嫌気がさした。
―――まあ、こっちが顔だしても、向こうが顔出さない時だって、あるんだし。
そう思って、思い切って、窓を開けた。
……が。
「!!」
ガラッ、という、窓を開ける音が、2つ、重なった。
咲夜は左に、奏は右に、ギョッとしたように目を向ける。そこには、今の自分そっくりな表情をして固まっている相手が、自分そっくりなポーズで、こちらを見ていた。
「―――…」
どちらも、声が出ない。
コントの如き展開に、暫し、思考がストップする。電線にとまったスズメの爽やかな鳴き声も、この場面にはミスマッチに思えた。
結局、先にフリーズ解除したのは、咲夜の方だった。
「お―――おは、よ」
少々ぎこちないながらも、笑顔を作って、咲夜が挨拶する。
それを受けて、奏もやっと我に返り、慌てて笑顔を作った。当然こちらも、いまひとつ引きつり気味な笑顔だが。
「お…、おお、早いな、おはよ」
「別に早くないよ。いつもと同じ位じゃない?」
「ああ…、オレ、少し寝坊したからな…」
「…そういや、顔色あんまり良くないね。二日酔いみたいな顔してる」
「実際、二日酔い気味だし。懇親会で結構飲んだから」
「へー、そうなんだ」
なんだ、結構普通に喋ってるじゃん―――奏も、咲夜も、それぞれにちょっとホッとする。引きつっていた顔も、次第に普段の顔に戻りつつあった。
「あ、昨日のライブ、凄く上手くいったよ」
咲夜がそう言うと、奏の顔が一気に普段の顔に戻った。
「ほんとか!」
「うん。お客さんからも“良かった”って言われた」
咲夜の方も、普段通りの笑い方に戻り、少し身を乗り出した。
「本番直前に、鏡で自分の姿を見たんだけどさ―――昨日のあの自分の姿を見てると、なんか、自信が湧いてきたんだ。結構貫禄あるように見えるじゃん、大丈夫、ぺらぺらの新人の歌なんて聴かせる気か、なんて客が怒るほど、舞台慣れしてなさそうには見えないぞ、いけるいける、って」
「おお…、すげー。自己暗示だな」
「あはは、まさに、そう。この前のデート仕様もそうだけど、メイクとかファッションって、人にいい印象を与えるためもあるけど、それ以上に自分自身の気持ちを変えるためにあるんだなー、って、つくづく思った。…ありがと。奏に頼んで、やっぱ、良かった」
「いや。オレもそれ聞いて、ちょっと自信ついた」
満足げに、お互い、笑い合う。
そこで、ちょっと、話題が途切れてしまった。
「―――…」
話題が途切れると、どうしても、あのことが頭をよぎる。
あのことが頭をよぎると、どうしても、ぎこちなさと気まずさが、2人の間に流れる。奏も咲夜も、次の話題が上手く見つからず、少し、焦った。
すると、その時―――ラジオから、聴き覚えのある曲が、流れてきた。
「……あ、」
同じ局を聞いていた奏と咲夜は、同時にそれに気づき、自分のラジオを振り返った。振り返ったところで、テレビではないので、そこにはいつもと変わらないラジオがあるだけなのだが。
『“YANAGI”からの新しい風、“G.V.B.”。4月、表参道にオープン』
それは、“YANAGI”の新ブランドのCMだった。咲夜にとっては以前から馴染みのある、奏にとっては“YANAGI”のパーティーで拓海が生演奏をした時に聴いた曲が、CMのバックに流れていた。
「…放送、開始してたんだ。“G.V.B.”のCM」
咲夜が、ポツリと呟く。
「…みたいだな。知らなかった」
奏も、同じように呟いた。
「奏も、パーティーで聴いてるんだよね」
「ああ。結構古い曲みたいだな。佐倉さんが5年くらい前に行ったライブでも聴いた覚えがある、って言ってたから」
「佐倉さんが? ふーん…知らなかった。あんまり拓海のライブとかに来ない人だったから」
そんな会話の中で、奏は、ある重大なことを思い出し、あ、と心の中で声を上げた。
『…じゃあ、もう1つだけ訊くけど―――麻生さんにCM音楽を依頼したのは、どういう意味? あの人、全部承知で、この仕事を請けた訳? それとも、何も知らないの?』
―――うわ、オレ、なんであのこと忘れてたんだよ、今まで。
“YANAGI”のパーティーで、偶然立ち聞きしてしまった、佐倉と柳社長の会話。あの話ぶりは、なんだか、柳社長が拓海にCM音楽を依頼したのには、単なるビジネス以外の裏事情があるような言い回しだった。そして、その裏事情に拓海が気づいているかいないかで、今回の仕事を拓海が請けた意味は大きく変わってしまうような口調だった。
咲夜は、知っているんだろうか? 柳と拓海の間に何かがありそうだ、ということを。それと、もしかしたら……佐倉もそれに、多少なりとも、関与しているかもしれない、ということを。
もし、知らないとしたら―――教えてやった方がいいんだろうか。あの時聞いた会話、全てを。一瞬、そんな風に考えた奏は、もう少しで口を開きそうになったが。
―――馬鹿馬鹿しい。なんでオレが、麻生さんのそんな込み入ってそうな話に、首突っ込まなきゃならないんだよ。
なんだか妙な苛立ちを覚え、口をつぐんだ。
…イライラする。
自分から首を突っ込んで、あれこれプロデュースしたり、応援したりしておきながら。余計なお節介を焼いているのは、自分の方でありながら。
何故なのだろう―――拓海のことを考えると、奏は無性に、苛立ちを覚えた。
一方、咲夜がCMを聞いて思い出したのも、やはり奏と同じ、“YANAGI”のパーティーの日のことだった。
と言っても、パーティーそのものではなく、パーティー帰りの拓海のセリフだ。
『今日なぁ、“YANAGI”のパーティーで、会ったぞ。佐倉ちゃんと、咲夜の、お隣さん』
『へえ…。エスコート役にでも抜擢されたかな』
―――やっぱり、奏って、佐倉さんとこからの帰りだったのかなぁ…。
翌朝、駅でばったり会った奏のことを思い出し、ちょっと眉をひそめる。
“ベルメゾンみそら”に来る前、師匠の黒川のマンションを追い出された奏は、佐倉に助けを求めたと言っていた。新しい恋を探してる位なのだから、佐倉と奏の関係は恋愛関係ではないのだろうけれど―――当初咲夜が感じていたよりは、プライベートでも親密な関係なのかもしれない。
別にいいじゃん、と、思う。
拓海をずっと見てきて、それに文句をつけずにきた咲夜だから、奏と佐倉がどんな関係でも、非難するつもりなど毛頭ない。真剣な恋を知るまでは結構遊び呆けていたらしい奏なのだから、割り切った関係の女性の1人や2人いる方が、むしろ自然に思えるくらいだ。
だから、あの朝も、そうなのかなぁ、と思った程度で、それ以上のことは何も思わなかったのだが―――…。
…何故、だろう。
今、CMを聞いて佐倉のことを思い出し、真っ先に浮かんだ感情は―――苛立ち、だった。
明日美のことは、あんなにも応援できたのに……佐倉と奏のことを考えると、何故か、得体の知れない不快感に襲われる。その不快感に、咲夜は、知らず眉根を寄せた。
CMが終わり、再び、短いお便りの紹介を挟んで、ラジオから洋楽が流れ始めた。
「…あ、バック・ストリート・ボーイズだ」
胸の奥に広がりかけた不愉快さを振り払うように、咲夜が呟いた。それを機に、奏も髪を掻き上げ、ラジオから目を離した。
「日本でも結構、人気あるみたいだな」
「アイドル的な扱いされてた部分もあったからね、一時期」
「げ、マジかよ。案外いい歳なんだけどなぁ、こいつら…。一番年上の奴なんて、30過ぎてんじゃない?」
「あはは、当時はもうちょい若かったしさ。それに、日本にもいるじゃん、30過ぎたアイドル」
こんな風に、下らないことを喋って、バカ笑いできる関係がいい。
気まずさを感じることも、2人の間には関係ない誰かに妙な苛立ちを覚えることもなく、必死にもがいてる自分たちを笑い飛ばし合える関係がいい。
相手がそれに触れないのを幸いに、2人は、昨日の僅か数秒のワンシーンを、忘れた。
いや。
忘れた、ふりをした。
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