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― Heart Break

 

 「あ…っ、おはようございます」
 挨拶されて、驚いた。普段ならこの時間に出かけることは稀な人物だったから。
 「…おはよう」
 由香理より一足先に廊下に出ていた優也は、明らかに、ミルクパンに朝ごはんをやりに行くスタイルではなく外出する格好だった。それを裏付けるように、ガチャガチャと鍵までかけている。
 カレンダーももう4月だ。大学が始まったのだろう。にしても、やはりちょっと早い気がする。
 「今日は随分早いのね」
 歩き出しながら訊ねると、優也は、相変わらず焦ったような照れたような様子で答えた。
 「友達と、ちょっと早めに行って調べものをする約束してるんです」
 「ふぅん…。大学の課題か何か?」
 「いえ、ただの趣味です」
 「趣味?」
 「位相幾何学が好きなので。僕も、友達も」
 「……」
 位相幾何学の正体は、文系な由香理には全くわからない。が、幾何学模様と代数幾何は知っている。要するに、数学だ。歌うのが趣味な奴もいれば絵を描くのが趣味な奴もいるのだから、数学が趣味の奴だっているのだろう…と無理矢理自分を納得させた。ちなみに由香理は、無趣味である。
 「気の合う友達が出来たみたいで、良かったわね」
 もの凄く頭の良さそうな人物を思い描きつつ由香理が言うと、優也は嬉しそうに微笑んだ。
 「友永さんのおかげです」
 「私の?」
 「“ありがとう”って言ってもらえて、ちょっとだけ、今の自分に自信ついたから。僕でも人の役に立てるんだな、って」
 「…そう」
 少し、ホッとした。
 あの時、ズタズタに傷ついた自尊心を辛うじて繋ぎとめてくれたのは、逆に優也の方だった。何も事情も知らない純粋な少年を利用してしまったことは、随分と後ろめたかったけれど―――彼にとっても何らかのプラスになったのなら、少しは救われる。
 「―――あの…」
 暫し無言で並んで歩いていると、優也が、なんだか妙に言い難そうに、口を開いた。
 「前からちょっと、友永さんに、訊いてみたいことがあったんです、けど」
 「訊いてみたいこと? 何?」
 「…“ミスター・X”のこと、です」
 「みすたー・えっくす?」
 そんな変なヒーローもののボスキャラみたいな名前は、由香理は初耳だ。何の話? と由香理が眉をひそめると、優也は慌てて付け加えた。
 「ああ、えっと、204に住んでる人です。表札も、集合ポストの名札もないんで、名前がわからないからって、僕らの間では“ミスター・X”って言われてるんです」
 「ふぅん」
 僕らの間、というのは、恐らくは上に住むあの2人辺りのことだろう。あの連中なら、いい歳して“ミスター・X”なんて仮名も平気でつけそうだ。
 「あの人なら、樋口さんて人よ」
 いつまでもおかしな名前で噂されていては気の毒なので、由香理はとりあえず、優也にそう教えた。すると優也は、それまでとは表情を微妙に変え、真剣な面持ちで由香理を凝視した。
 「な、なんで友永さんが、204号さんの名前を知ってるんですか?」
 「えっ? ああ…、私も知らなかったけど、あの人、偶然うちの会社の子会社の社員だったの。去年の途中から、出向でうちの会社に来てて―――会社で初めて会った時、びっくりしちゃったわ。向こうは一応、ああ、同じアパートの人がいる、って思ってたみたいだけど」
 「じゃあ、今は…」
 「そう。同じ会社に勤めてるの」
 「…そうか。だから、一緒に帰ってきてたんだ…」
 そう言えば、そんなシーンを優也や101号室の住人に見られたような記憶がある。あの時から不思議に思っていたのかもしれない、と思うと、そんなことさっさと訊けばいいのに、となんだか可笑しくなった。
 だが、優也は、何故かやたらと真剣な顔をしたままだった。どことなく心配そうな目で、由香理をじっと見たままでいる。
 「…あの、もしかして」
 「え?」
 「友永さんを泣かせた人って―――あの人、ですか」
 「……」
 ―――ああ…、それで。
 優也のこの表情の訳が、やっとわかった。
 多分優也は、誤解したのだろう。由香理と樋口が一緒に帰ってきたので、特別親しい間柄なんじゃないか、と。真田との間にあったことなど一切説明していないが、泣き叫んだ内容から、由香理が泣いていた原因が男性関係であること位はわかる筈だ。そうなれば、樋口が原因かもしれない、と疑念を持つのも無理からぬことだ。
 「…違う。樋口さんじゃないわ」
 くすっと笑い、由香理は答えた。
 「むしろ、逆。私を泣かせた人が、樋口さんの部下だから―――その責任も感じて、色々助言してくれただけよ」
 「あ…、そ、そうなんですか」
 自分の勘違いを恥じてか、優也は顔を赤らめ、気まずそうに眼鏡を直した。
 「樋口さんと私が付き合ってるとでも思ったの?」
 「…は、はあ…」
 「嫌だわ。全然好みじゃないのに」
 「そ、そうですよね」

 ―――そうよ。
 全然、好みじゃないわ。あんな生真面目がスーツ着て歩いてるようなタイプなんて。

 樋口が恋愛対象だなんて、心外もいいところだった。
 そして、それ以上に―――あんな人をそんな対象として見るなんて失礼なことだ、と由香理は思った。

***

 この日も淡々と仕事を進めていた由香理は、ある書類に目を留め、少し眉をひそめた。
 「……」
 それは、この4月から出向してきた、子会社の人物に関する書類だった。子会社―――しかも、樋口と同じ会社の。
 子会社から誰か来るという話は聞いていたし、その受け入れ準備もしていたが、樋口と同じ会社とは今日まで気づいていなかった。
 ―――営業1課…? やだ、配属まで樋口さんと同じじゃないの。
 同じ会社から、同じ課に2人も出向……ちょっと、妙な話だ。しかし、会社が決めたことなので、何か事情があるのだろう。自分が気を揉むことでもない、と、由香理は自らに言い聞かせ、書類を所定のファイルに挟んだ。

 「ちょっと、友永さんっ」
 由香理がファイルを書棚にしまっていると、背後から先輩がヒソヒソ声で話しかけてきた。
 業務中である。先輩である。仕事のことだろうとは思うが、なんだかその雰囲気が噂話をする時のそれに近い気がして、由香理はちょっと不思議に思った。
 「はい?」
 「ちょっと、聞いた?」
 「え?」
 「秘書課の、柚原さんのこと」
 柚原、という名が出て、由香理の心臓が小さく跳ねた。

 『バカ。柚原女史は本命なんだよ。バックに柚原建設がついてるんだぜ。無事結婚にこぎつけて、浮気がバレておじゃんになったら、洒落になんないだろ』

 秘書課の柚原―――真田の本命だ。あの時は由香理も初耳だったが、その後、何度か噂は耳にした。真田とどこそこを一緒に歩いてた、だの、誰かからの誘いを「彼氏がいますので」と断ったとか。
 お嬢様で美人で楚々とした柚原は、男性の間でも人気が高い。女性の間で評判のいい真田との組み合わせに、文句をつけられる人間は誰もいない。そこはかとなく面白くないという気分を滲ませつつも、みな、この新しいカップルを無言のうちに認めていた。
 「柚原さんが、どうかしたんですか?」
 「この夏に、寿退社するんですって! 秘書課の上司に退職願出したっていうから、間違いないわよ」
 「……へぇ……」
 冷ややかな声しか、出てこなかった。
 先輩の、人の不幸を喜んでいるような笑い方の意味が、わかった気がした。由香理がこのニュースに打ちのめされると思っているのだろう。柚原が寿退社―――それは、裏を返せば、真田が結婚するというニュースに他ならないのだから。
 でも、残念ながら、由香理の胸には「ふーん」という冷めた感情しか湧かなかった。まさにその通りの、軽く眉を上げただけの表情をする由香理に、先輩は更に続けた。
 「しかも、よ。相手を聞いてビックリよ」
 「え?」
 「手塚証券の、超エリート社員だっていうのよ! ねぇ、ビックリでしょ」
 「……」
 ―――なに、それ。
 由香理は、目を丸くしたまま、返す言葉もなく先輩の顔を凝視した。
 手塚証券の、超エリート社員―――じゃあ、真田は、一体何なのだろう? 柚原の真意は知らないが、少なくとも真田は、柚原と結婚することを前提として交際していた筈だ。そうでなければ、あんなセリフを同僚たちに言う筈もないだろう。
 「…それ、ただの噂話なんじゃないですか?」
 どうしてもそうとしか思えず、なんとかそれだけ訊ねる。が、先輩はぶんぶん手を振った。
 「ちーがうわよぉ。上司と話し合いしてるところにお茶を運んだ子が、しっかり聞いたっていうんだから。しかも上司は前から知ってたみたいで、やっと日取りが決まったのか、だって。どうも、随分前から婚約はしてたみたいよ」
 「……」
 「上司は、真田さんのことは知らなかったんじゃないかしら。凄いわよねぇ、柚原さん。真面目で育ちが良さそうな感じなのに…」
 「……」

 さも、由香理が受けた仕打ちを思い浮かべて「いい気味でしょう」とでも言いたげに興奮する先輩を眺めながら、由香理は、一緒に興奮することができなかった。
 本来なら、まさに「いい気味」な筈なのに。
 真田に同情する気などさらさらないし、自業自得だ、という気持ちは、確かにあるのに。
 何故だか―――由香理は、酷く、重苦しい気分になっていた。

***

 昼休み。智絵は仕事で外に出ているため、由香理は社員食堂に1人で行った。
 先輩から聞いた話が気になって、なんとなく、社員食堂全体を見渡して、真田の姿を探した。が、普段から社員食堂なんてほとんど利用しない彼のことだから、案の定、その姿は見当たらない。そのことに、少し、ホッとした。
 が、その代わり―――珍しい人物を見つけてしまった。
 ―――樋口さん…。
 驚いた。社内にいたとは知らなかった。
 由香理は、週の半分以上、昼に社員食堂を利用するが、彼の姿を見るのは非常に稀だった。真田同様、営業のために外に出ていることが多いからだろう。その割に、定時以降は社内が多く、帰宅も意外に早い日が多い。決められた時間内は目一杯活動し、無駄な残業はしないタイプなのかもしれない。
 少し迷った末、由香理は、既に席についている樋口の所へ向かった。
 「樋口さん」
 由香理が声をかけると、割り箸を割ったばかりの樋口が、少し驚いたように顔を上げた。
 「ご一緒しても、いいですか?」
 「…ええ、わたしは構いませんよ」
 さすがに、並ぶのは気が引けた。由香理は、樋口の向かいの席に自分のトレーを置き、腰を下ろした。

 暫し、無言のままの状態が続いた。
 ―――何、話すつもりで来たんだろう? 私…。
 自分から“ご一緒”させてもらっておいて、今更ながら、自分でも不思議に思う。同郷ではあるが、共通の話題など思いつかないし、タイプもまるっきり違うため会話が弾むとも思えない。なんで一緒に食べようなどと思ったのか―――黙々と食べ物を口に運びながら、由香理は少し後悔した。
 何にせよ、沈黙は居心地が悪い。思い切って、自分の方から口を開いた。
 「…あの…、樋口さんも、聞いてるかしら。その…真田さんの、じゃなくて、柚原さんの…」
 おずおずと訊ねた件に、樋口も心当たりがあったらしい。顔を上げた樋口は、涼しい顔であっさり答えた。
 「結婚されるそうですね、どこかの証券会社のエリートと」
 「やっぱり、営業でも噂になってるんだ…」
 「内容が内容なだけに、昨日にはもう広まってましたよ。噂話が好きなのは、何も女性の専売特許じゃありませんからね」
 ということは、当然、真田も耳にしているだろう。もっとも、まともな付き合いであれば、柚原本人の口から別れを告げられてしかるべき立場の筈なのだが―――なんとなく、あの自信満々の真田の口調とこの現実のギャップを考えるに、真田は社内に噂が流れたその瞬間まで、柚原が他人と結婚することなど微塵も考えてはいなかったような気がする。
 「…真田さん、何か言ってた?」
 由香理が小声で訊ねると、樋口は、少し意外そうに目を見開き、それから苦笑を由香理に返した。
 「あなたも案外、人がいいですね。真田さんに同情してるんですか?」
 「そ…っ、そういう、わけじゃ」
 「真田さんは、今日は、取引先に直行です」
 樋口の言葉に、由香理は、僅かに眉根を寄せた。
 「自慢話を披露していた連中に問い質されるのが、嫌だったんでしょう」
 「…そう…」
 「以前のあなたなら、自業自得だざまあみろ、と、大いに気分を良くした筈ですけどね」
 「……」
 確かに―――そうかもしれない。
 勿論、そういう気持ちがゼロな訳じゃない。由香理を都合のいいように弄び、あっさり捨てた奴だ。しかも柚原に対してだって、恋愛感情より「柚原建設の令嬢だから」という理由で近づいたような奴だ。自分が全てをコントロールしていると信じていたのに、最後の最後、大人しそうなお嬢様に逆に捨てられてしまった―――天狗になっていた分、へし折られた鼻は、相当痛いだろう。でも、その痛みも自業自得だ。由香理が真田によって与えられた痛みが、自業自得以外の何物でもなかったのと同じように。
 でも……だからといって、100パーセント、ざまあみろ、とは思えない。
 あの後由香理が晒された、幾多の同情の目。それをはるかに上回る、好奇の目と蔑みの目。真田に捨てられた時、由香理は周囲から、いい気味だ、ざまあみろ、という言葉を無言のうちに浴びせられ続けた。
 多分―――真田も、同じ思いをする。それを想像すると、気の毒でならない。何故なら、そうした目を向けるのは、真田と柚原の関係にはなんの関係もない第三者―――ただ人の幸・不幸を面白おかしく噂する連中なのだ。無責任な第三者の興味本位の中傷に傷ついてきた由香理は、いくら真田相手であっても、その無責任な第三者の立場には絶対なりたくなかった。
 「どうやらあなたは、もう真田さんに勝てたみたいですね」
 黙り込む由香理を見て、樋口は静かに、そう言った。
 「報復が遂げられた、とほくそえむようなら、まだまだだと思いましたが……哀れむだけの余裕があるのなら、もう大丈夫でしょう」
 「…そうですね」
 周囲の目には、まだ打ちのめされている部分があるけれど―――真田には、負けなかった。彼のした仕打ちに負けずに、彼を哀れむだけの高みにまで這い上がってこれた。初めてそのことを実感できた気がして、由香理は樋口の言葉にくすっと笑った。

 また暫く、沈黙が続いた。
 探すともなく、話題を探していた由香理は、ふいに、午前中に見たあの書類のことを思い出した。
 「そう言えば―――樋口さんの会社から、また1課に1人、出向してきたんですね」
 「ええ」
 「珍しくないですか? 同じ子会社から、同じ部署に2名も出向なんて」
 すると樋口は、食事の手を休めずに、実にサラリと意外な言葉を由香理に返した。
 「ああ、彼は、わたしの後任ですから」

 その瞬間。
 柚原の名前を聞いた時の数倍、心臓がドキン、と大きく跳ねた。

 ―――…後、任?
 後任……樋口の後任、という、ことは。
 「…樋口さん…、子会社に、戻られるんですか」
 由香理が訊ねると、樋口は箸を置き、湯飲みに手を伸ばしながら、由香理に目を向けた。
 「ええ、一旦は戻ります。引継ぎがあるので、まだ当分先ですが」
 「一旦は?」
 妙な言い回しだ。由香理が眉をひそめると、自分の失態に気づいたかのように、樋口は「しまった」という顔をした。「一旦は」の一言は、どうやら無意識のうちに口にしていたらしい。
 「一旦は、ってことは、じゃあ……いずれまた、うちの会社に?」
 「いえ、そうじゃないんですよ」
 何か気まずいことがあるのか、樋口はやたら歯切れ悪くそう言い、困ったような顔をした。言うべきかどうか逡巡し、結局、軽い咳払いを挟んで、説明をした。
 「実は……会社を辞めて、長野に戻るんです」
 「えっ」
 「こちらに出向に来る前から、決まっていたんです。わたしはむしろ、後任の彼の受け入れ態勢をこちらに作るために来たようなもので―――この出向が終わり、残務整理がついたら、退職することになってたんですよ」
 「…ど…どうして…」
 唖然として問う由香理に、樋口は、ほんの少しだけ照れの混じった笑みを、静かに浮かべた。
 「結婚、するんです。地元で」
 「……」
 ―――結…婚…。
 由香理の表情が、固まった。
 周囲のザワザワとした話し声が、一瞬にして消える。由香理は、目を大きく見開いたまま、樋口の顔を呆然と見つめた。
 「…わたしの実家は、長野で、小さいながらも会社をやってるんです。そう、ちょうどこの前、電話の件で友永さんに話した、うちの仕入先。あそこと似たような立場で、大手企業の顔色を窺いながら細々と存続している、典型的中小企業です」
 「……」
 「会社を辞めたら、父の会社に再就職する予定です。父はまだ現役ですし、既に兄が専務として働いているので、わたしはただの社員という扱いになりますが―――どうしても、地元に戻りたかったので」
 「…結婚相手のため…?」
 それ以外、考えられない。案の定、樋口は薄く微笑み、小さく頷いた。
 「彼女は、地元の病院に勤めています。医師不足・看護師不足に悩んでいる地域なので、離れる訳にはいきません。わたし自身―――妹が長年持病を患って、その病院のお世話になっています。彼女のような優秀な看護師に、“東京で働く夫に妻が伴うのは当たり前”だなんて言う気はさらさらありませんよ」
 「……」
 「実を言えば、こう見えて私も、すぐ人や土地に情が湧いてしまうタイプでして―――前住んでいた場所では、随分周囲とべったりな付き合いをしてたんですよ。だから、自分の中で結婚を決めた時から、“ベルメゾンみそら”に移り住み、なるべく東京に未練を残さないようやってきたつもりですが―――よくしてくれた取引先や、懇意にしている仕入先を思うと、少し、辛いですね。勿論……あなたを始めとする、よき同僚たちのことも」
 「…そ…う…ですか…」

 そう―――だったんだ…。
 204号室の住人は、表札も名札もなし、なんだか隠遁生活を送っている人付き合いの嫌いな人みたいだな、と思っていたけれど。
 その割に、話してみると、不思議なほどに温かくて、親切な人だな、と思ってはいたけれど。
 生活拠点を長野に残したままのような生活スタイルも、アパートの住人とほとんど接点を持たなかったのも―――全部、いずれここを離れることを決意していたから、だったんだ。
 愛する人の仕事や使命を認めて、そのために、自分が彼女のもとに行くことを決めたから…だったんだ。

 凄いな、と思った。
 そして―――そこまで認められ、愛されているその女性が……羨ましい、と思った。
 「…いつ…結婚、されるんですか?」
 辛うじて、そう訊ねる。樋口は、湯のみを手に取り、静かに微笑んだ。
 「9月です」
 「…そうですか」
 由香理は、精一杯の努力で、笑顔を作った。
 「おめでとうございます」

 声が、震えてはいなかっただろうか―――それだけが、心配だった。

***

 キイ、とドアを開けると、聴き覚えのある歌声が店内から流れてきた。
 初めて足を踏み入れる店―――由香理は、少し物珍しいものを見る思いで、薄暗い店内を見回した。

 『あ、これ、咲夜さんから貰ったんです。ワンドリンクチケット。2枚貰ったから、友永さん、良かったらどうぞ』

 今朝、優也に貰ったチケットは、“Jonny's Club”という店のものだった。
 席に着き、飲み物を注文した由香理は、店内で1ヶ所だけ明るくライトに照らされている部分へと目を向けた。そこには、優也から聞いたとおり、同じアパートに住む歌姫の姿があった。
 ―――ふぅん…、やっぱり、上手いわね。
 時折頭上から降ってくる歌声しか知らないが、マイクを遠く離してもあれだけの声量―――あの細い体から出てくるとは思えない。兼業とはいえ、ちゃんとお金を貰って歌ってるだけのことはあるんだな、と由香理は思った。
 咲夜の歌うジャズを、由香理は知らなかった。また、英語の歌詞を聞きとれるほど、英語が得意でもなかった。何を歌っているのかわからない歌を聴きながら、由香理は、運ばれてきたカクテルに口をつけた。

 なんだか、物悲しいメロディだ。
 切ないようなピアノの音色と、体の底を揺さぶるようなベースの音、そして伸びやかな咲夜の歌声を聴いていたら―――涙が、出てきた。


 ―――…痛い…。
 胸が、痛い。

 誰かとの交際が終わるたび、いつも辛かったし、悲しかった。その悲しさを、私はずっと失恋の痛みだと思ってた。
 でも―――真田さんとのことで、わかってしまった。私は今まで、誰かを本当に好きになったことが、一度もない。その都度、顔が好みだったり、肩書きや持ち物にのぼせあがったり、色々してたけど……その人を心から好きになって、恋心に胸を焦がすような経験なんて、一度もしてなかった。
 だから、私は、失恋の痛みも知らなかった。
 プライドを傷つけられた痛み、相手の好意を足蹴にする罪悪感、競争相手に負けてしまった悔しさ……そんなものしか、知らなかった。

 …大笑いだ。
 今更、失恋の痛みを知ることになるなんて。
 しかも―――それが恋だったと気づいたのが、失恋したその瞬間だったなんて。


 本物の失恋が、こんなに痛いなんて、知らなかった。
 幸い、人目につき難い、端っこの方の席だ。由香理は口元を手で覆い、声を殺して泣いた。

 勿論、樋口は平凡な外見にすぎないし、学歴も職歴もズバ抜けてはいない。以前の由香理なら絶対、興味すら抱かなかったであろう男だ。
 それに、話していて楽しいような相手でもない。休日にドライブに連れて行ってくれる樋口の姿など想像がつかないし、腕を組んだり抱き合ったりする姿なんてもっと想像がつかない。それどころか、スーツ以外の格好すら頭に浮かばない。あらゆる意味で、由香理が理想としていた恋愛は無理そうな奴だ。
 けれど―――由香理は、顔も名前も知らない、樋口の婚約者が、どうしようもなく羨ましかった。
 樋口は、人を魅了するルックスも、自慢できる肩書きも、洒落た会話も、かっこいい車も、何も持っていない。けれど、一番大事なもの―――人を思いやる心と善悪を見極める正しい目、そして、常識をわきまえながらもそれには囚われない、自由で柔軟な思考を持っている。それは、いくらお金を稼いでも、どんなに勉強しても、手に入れられるようなものではないだろう。
 由香理は、彼のその内面に救われ―――その内面に、いつの間にか惹かれていた。
 惹かれていたのに……気づけなかった。そのことが、悲しかった。

 ―――ううん…気づかなくて良かったのよ。婚約者がいるような人のことを、もしかしたら好きになってくれるかも、なんて一瞬でも期待したら……もっと辛かったもの。
 変な期待を持ったりしなくて、良かった―――それだけが唯一、救いだ。由香理は、口元を覆っていた手を外し、大きく息を吐き出した。
 ……うん。良かったんだ。
 そう考えれば、失恋の痛みも、少しマシになる。溢れていた涙も、それでようやく収まった。


 「もしかして、友永さん?」
 その声に、ハッ、と我に返った。
 気づけば、店内は先ほどまでより明るくなっており、BGMも生演奏からCDに変わっていた。慌てて顔を上げると―――そこには、ライブを終えて舞台を下りてきた咲夜の顔があった。
 「ああー、やっぱ、102だ。ステージから見てて、そうじゃないかなー、と思ってたんだ」
 部屋番号で由香理を呼び、咲夜は軽やかに、あはは、と笑った。
 「何、偶然? それとも、私が歌ってる店だって知ってて来たの?」
 「…優也君に今朝、ワンドリンクチケットを貰ったから」
 「あ、そうなんだ。3枚も渡しちゃったからなー。あの子飲めないし、困り果てて手当たり次第配ったかな、ハハハ」
 「……」
 まさか、咲夜に見つかってしまうとは思わなかった。由香理は気まずさに視線を逸らした。泣いたばかりの顔だ。あまり見られたくなかった。
 が、もう涙は止まっていても、泣いていたのはわかってしまうらしい。咲夜は、少し驚いたように目を丸くした。
 「え…っ、な、泣いてんの?」
 「…別に」
 まだ涙の跡の残る頬を、軽く手の甲で拭う。無意識の仕草だったが、それは、泣いていたことを自ら認める以外の何物でもなかった。
 「別に、って顔には見えないんだけど」
 「…うるさいわね。失恋しただけよ」
 自棄っぱちになって放った一言に、咲夜は目を見開き、口をつぐんだ。
 「って言うより―――その人が今度結婚する、って聞いて初めて、自分がその人のこと好きだ、ってことに気づいただけよ」
 「……」
 「…望みのない恋なんて、気づかないままスルーしたかったのに、ね。…バカみたい」
 「…そっか」
 小さく息をつき、咲夜はそう、相槌を打った。そして、その場に佇んだまま、押し黙った。

 由香理がカクテルグラスを手に取る。その指先を黙って見ていた咲夜は、カクテルグラスが再びテーブルに置かれるのを待って、再び口を開いた。
 「―――ま、望みはないけどさ。いいじゃん」
 「……」
 何よそれ、と眉をひそめ、由香理が顔を上げる。すると咲夜は、何ともいえない笑みを見せた。
 どこか、はるか彼方に想いを馳せているような―――誰かを想って歌を歌っているかのような、そんな、不思議な笑みを。
 「今、気づいたばっかりならさ。その“好き”は、そんなにすぐには消えないよ。だったら…好きなままでいいじゃん」
 「…好きな…ままで?」
 「想うだけなら、自由じゃない?」
 「……」
 「叶わない想いでも、抱いていくのは、本人の自由じゃない? 相手に迷惑かけたりしなければ、想い続けてもいいんじゃない? その“好き”って気持ちが、小さくなって、遠くなって、消えるまでは…さ」

 ―――あなたも、そうなの?
 訊いてみようかと、一瞬、思った。けれど……訊くまでもない、と思って、やめた。
 はるかな世界に想いを馳せるような、咲夜の目は―――今語った言葉こそが彼女自身の想いなのだ、と由香理に告げていたから。

 ―――想いを抱いていくのは…私の、自由。
 でも……叶わない想いを抱き続けるなんて、辛いだけなんじゃない?

 わからなかった。
 でも、それも、悪くない。…いや、そうするしかないのかもしれない、と思った。

***

 前日の涙は、幸い、翌日にまでは響かなかった。
 とはいえ、泣いた翌日の目には、パソコン画面はなかなか酷なものだ。普段より若干腫れぼったさの残る目をしっかり開け、由香理は、書類を作るため操っているエクセルの画面を睨んだ。
 ―――あーあ、泣くとメイクのノリも悪いし、最悪だわ。
 泣くことでスッキリした部分はあったが、やはり泣いたりするんじゃなかった、と後悔する部分も多い。なるべく泣かない人生を送りたいな、なんてことを頭の片隅で思った時。
 「おはようございます、“カフェストック”です。定期メンテナンスに伺いました」
 「……っ」
 その声に、一瞬、ギョッとした。
 反射的に首を伸ばし、入り口の方を伺う。そこに立っていたのは―――咲夜とは別人の、しかも、男性だった。
 ―――そ…そうよね。声からして別人なのに。
 “カフェストック”の定期メンテナンスの担当は、随分前にこの男性に替わっていた。担当地域が変わったのか何なのか、その辺の事情は知らないが、とにかく咲夜じゃなくなったことは、とうの昔に由香理も知っていた。なのに、つい“カフェストック”という社名に反応してしまったのだ。

 『想うだけなら、自由じゃない?』

 昨日は結局、あの一言を残して、咲夜はすぐに奥に引っ込んでしまった。
 1人残された由香理は、お酒を飲みながら、ゆっくり色々と考えた。そうして、結構な時間を費やしてしまったが故に、咲夜の2回目のライブまで聴く羽目になった。2回目が終わって引っ込む際、まだ同じ席にいる由香理を見つけて、咲夜は相当呆れた顔をしていた。が、“STAFF ONLY”と書かれたドアが閉まる直前、一瞬だけ見せた苦笑に、由香理は少しだけ救われた気分になった。
 そして、なんとなく―――詩織に会いたいな、と、思った。
 ―――気持ちが弱ってる時にばっかり会いたくなるなんて、ずるいなぁ、私も…。
 仲直りした途端、これだ。アメリカで弱音を吐かず頑張っていた詩織に比べて、なんて自分は弱いんだろう―――そう思うと、連絡を取ってまで弱音をぶちまける気にはなれないのだけれど。
 今度の休みにでも、一度、彼女の新居を訪れてみようか。
 …何故か、そう思った。

 「友永さん」
 ぼんやりと“カフェストック”の担当者の方を見ていた由香理は、その声にハッとして、慌てて振り返った。
 「はいっ」
 「この書類、ちょっとわからないところがありまして―――今、構いませんか?」
 いつもと変わらない、穏やかで、かつ冷静な声で、樋口が書類を差し出す。
 その書類を受け取った由香理は、気づかれぬよう息を吸い込み、笑顔を作った。
 「はい」

 叶わない想いだけれど―――想うだけなら、自由だ。
 せめて、初めて好きになった人には、いい思い出として残りたい。
 友永由香理は、愚かで、計算高くて、現実が見えてなくて、本当に情けない人間だったけれど―――それで終わらなかった、と認めてもらいたい。女としても……この会社の一員としても。

 この人がこの会社を去るまでの残り僅かな時間、精一杯、頑張ろう―――そう思うだけで、由香理の“今日”は、“昨日”までより、確実に輝いていた。


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