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― パラノイア

 

 ガラッ、と窓を開け、すぐに隣の窓に目を向ける。
 「……」
 しん、と静まり返った空気が、辺りに漂う。やけに爽やかな朝の空気が、実際より1度ほど、低く感じた。
 タイミングがずれてるとか、天気が悪くてとか、そういう理由じゃないのは、なんとなくわかる。いない―――気配そのものが、そこにない。それがわかってしまう自分が嫌だった。
 ―――またかよ。
 湧き上がる苛立ちに、奏は、寝起きの整っていない髪をぐしゃりと乱暴に掻き混ぜた。

 ただ単に顔を出さないだけなら、それほど気になる問題でもない。
 だが、不在、となると―――しかも、4月に入ってこれで5度目、週に2日ペース、となると、もうスルーできるレベルを超えている。普段は今まで通り顔を出し、歌を歌い、他愛も無い話にケラケラと笑っている咲夜だが―――だから余計、その瞬間はこんなことも忘れて奏も一緒にケラケラ笑ってしまうのだが―――さすがに不審に思わずにはいられない。
 とはいえ、帰宅しなかった咲夜の居場所は、おのずと限定される。
 咲夜の仲間は、オールナイトで飲み歩くようなタイプではないし、実家に帰った、もあり得ない。泊り込みで遊びに行くような相手がいるとも思えない。だから、限定される。嫌な話だが……限定、されてしまう。

 …面白くない。
 面白くないし、面白くないと思う自分自身のことも、面白くない。

 眉を顰めた奏は、ピシャリと窓を閉めた。

***

 「何なの、その仏頂面は。仕事来なくなるわよ」
 佐倉に指摘されたが、いきなり愛想のいい顔にはなれない。奏の顔は、もの凄く感情に忠実なのだ。
 「…別に、仕事に不服があってこーゆー顔してる訳じゃないから、見て見ぬフリしといて」
 「ふぅん? まあ、いいけど」
 そんなことより、お仕事お仕事―――佐倉は、言外にそう言って奏を急かし、ミーティングテーブルの一角に陣取った。奏とて、さっさと仕事の話に入ってしまえば、余計なことは考えずに済む。さっそく佐倉の対角線上の席に着き、頭をビジネスモードに強制的に切り替えることにした。
 「で? スペシャル・オファーって、何だよ」
 昨晩、佐倉が思わせぶりな様子で電話をしてきたから、少々無理をしてでもミーティングの時間を佐倉に合わせたのだ。時計を見れば、まだ普段なら家を出る時間だ。これで大した話じゃなかったら、マジ切れしそうだ。
 ところが佐倉は、早朝に呼び出したにしては随分と半端なことを言い出した。
 「うーん、正直に言うと、あたしも一宮君に頼んじゃっていいのかどうか、まだ迷ってるのよ。さすがのあたしも、専門外だから」
 「なんだよ、それ」
 「つまりね。モデルの仕事の依頼じゃないのよね」
 「……」
 不機嫌そうだった奏の表情が、瞬時に、変わる。
 2度ほど瞬きをした奏は、次に来る言葉を想像し、にわかに真剣な眼差しになった。だるそうに背もたれに預けていた背中を立て、若干身を乗り出すほどの姿勢になって、佐倉を見据える。
 「―――モデルの仕事じゃ、ない…?」
 「ええ」
 「じゃ、何」
 「メイクの仕事よ」
 ニッ、と口の端を上げた佐倉は、奏の前に1枚の企画書を差し出した。
 「一昨日、ハルミが雑誌で契約1本取れたの。撮影は5月29日。ファッション雑誌だから衣装はまあいいとして―――メイクだけ、お願いしたいのよ」
 「雑誌か…。カメラマンは?」
 「緒方さん。一宮君も1回、経験してるでしょ」
 あー、あの人か、と奏は頷いた。非常に印象深いカメラマンだから、よく覚えている。40前後の女性カメラマンで、奏に「ラテン系アメリカ人の結婚詐欺師カルロス・28歳」という設定を演じさせたという、妙に癖のある撮り方をする人物だ。
 「緒方さんはいいんだけど……クライアントが出してきたメイクが、前にハルミと現場でトラブル起こしてる人でね。本音を言えば、あの人とやるんじゃハルミは出せない、って位、相性悪いのよ。性格面でも、メイクの面でも」
 「相性、か…」
 性格はよくわからないが、メイクの相性が悪い、というのは、なんとなくわかる。メイク担当者がよかれと思うメイクじゃ、モデル本人がどうにも乗れない、モデルが望むメイクにすると、今度はメイク担当者がどうにも腑に落ちない―――どちらも妥協できないほど嗜好が食い違っているのは、もう“相性”と言うよりないだろう。
 「ハルミは、素顔がクール過ぎるから、メイク担当者もその見た目に引きずられ過ぎるんだろうけど…。まあ、そんな訳で、今回はそのメイクさんはお断りして、うちで用意することになったの」
 「…で、オレ?」
 「そ。君はこれまでにも、ハルミのポートフォリオでメイクと衣装をやってくれたし。今回の仕事も、そのポートフォリオのおかげで決まった訳だし。だったらいっそ、撮影も任せちゃった方がいいかもしれないと思って。…どう? やってみる?」
 問いかけるような佐倉の目に、奏は、即答した。
 「やる! 当たり前だろ」
 「オッケー。そうこなくちゃね。じゃあ、時間もないから、さっそく企画書のコピーを…」
 早くもそう言って、佐倉が書類を手にした時、トントン、と事務所のドアがノックされた。
 随分早い時間に、来客か? と振り向くと、ドアがカチャリと開き、いかにも配達員といった外見の男が顔を覗かせた。
 「おはようございまーす。佐倉みなみさんに、お届け物でーす」
 「あ、はぁい。―――ごめん、一宮君。これ、隣のコンビニで1部コピーしてきてくれる?」
 「ああ、うん」
 先ほどテーブルの上に出された紙、プラス数枚の紙の束を佐倉から受け取った奏は、配達人の脇をすり抜けるようにして、廊下に出た。その際、チラリと「お届け物」の正体を目にした奏は、あれっ、と僅かに目を丸くした。

 配達人が持っていたのは、真紅の薔薇の花束だった。
 ―――そう言えば、よく見るよな。赤い薔薇。
 そんなに頻繁に事務所に顔を出している訳ではないが、それでも、薔薇の花束を見たのはこれが初めてではないし、花瓶に活けられた真紅の薔薇を見たことも何度かある。そうそう……“YANAGI”のパーティーの後、久々に訪れた佐倉のマンションにも、元は赤い薔薇だったと思われるドライフラワーが、窓際に吊るしてあった。以前はどうだっただろう? 毎回、酔っ払っていることが多いので、あまり覚えていないが。
 単純に赤い薔薇が好きなのだろうと思っていたが―――誰かからのプレゼントだろうか。
 真紅の薔薇の花言葉は、“情熱”だ。もしあれが佐倉への求愛のプレゼントなら、相当なロマンチストだな、と、奏は思った。

 隣にあるコンビニへ行くと、タイミング悪く、コピー機は既に別の人に占拠されていた。そう大量のコピーをしている訳でもなさそうなので、コピー機の横にある雑誌コーナーで立ち読みをして待つことにした。
 何かいいライブでも来てたかな、と、何気なく情報誌を手に取る。そして、コンサート関係のページを開いた時―――奏は、情報誌なんかを選んでしまったことを、激しく後悔した。
 そこには、4分の1ページほどを割いて、あと10日ほどに迫ったジャズ・フェスタのことが紹介されていた。
 「…麻生、拓海…」
 出演者欄の、最初から3人目に書かれた名前。
 一瞬忘れかけていた苛立ちが再び蘇ってしまったことに気づき、奏は、ち、と舌打ちをして、雑誌を閉じた。


***


 頬に、ヒヤリと冷たいものを感じた。
 強引に眠りから引き戻された咲夜は、ぱちっ、と目を開け、今のは何だったんだろう、と寝ぼけた頭でノロノロと考えた。
 「……」
 今にも閉じてしまいそうな目を、斜め上に向ける。そして、そこに拓海の姿を見つけ―――完全に、目覚めた。
 「おはよ」
 「!!」
 笑いを堪えたような拓海の顔がはっきり目に映った途端、ソファに横たえていた体を、ガバッ! と起き上がらせる。慌てて探したのは、時計だ。
 「な、な、何時!? 今、何時っ!?」
 「7時半、てとこか?」
 「はあああぁっ!? ジョーダンでしょ!?」
 その時間では、出社前に一旦家に戻るのは不可能だ。飛び起きた咲夜は、手首に嵌った腕時計で自ら時間を確認した。そして、冗談でも何でもなく本当に7時半であることを確認して―――情けなさに、額に手を置いた。
 「…ジョーダンは、私の方だった…」
 「気持ち良さそうに寝てたなぁ、お前。時々来てるのは知ってたけど、まさか朝までいるとは思わなかったから、驚いたぞ」
 くすくす笑いながらそう言うと、拓海はいつもの場所に部屋の鍵を置いた。カチャン、というその金属音を耳にして、ああ、さっきの冷たいのはあの鍵だったのか、と察する。咲夜は、はあぁ、と大きなため息をつき、立ち上がった。
 とにかく―――家に戻るのは、無理だ。でも、昨日は突発的に来てしまったので、泊まるつもりで来る時のように着替えの類を持って来てはいない。昨日と同じ服装で会社に行くのか…、と思うと、少々憂鬱だ。
 「…シャワーだけ、借りていいかな」
 「お好きにどうぞ」
 ありがと、と言い残し、咲夜は少々落ち込んだ足取りでバスルームに向かった。


 ―――まずったなぁ…。
 普段より熱めのシャワーを浴びつつ、頭の芯に残るズキズキとした痛みに顔を顰める。喉も、少し痛い。…典型的な、歌いすぎた時の症状だ。
 ジャズ・フェスタもあと10日に迫っている。だからこそ、近所迷惑を考えずに24時間歌えるこの部屋にも、頻繁に出入りしている訳だが―――にしても、昨日は少々、飛ばしすぎた。いくら腹式呼吸と言っても、声を出すのは声帯だ。歌えばそれなりに負担がかかる。痛めちゃったら意味ないじゃん、と、咲夜は反省した。

 でも……最近の咲夜は、歌わずにはいられない。
 頭の中にも、胸の中にも、ありとあらゆる感情が大量に渦巻いていて―――もう、飽和状態だ。普段は平気な顔をしているものの、本当はギリギリの状態。歌って、歌って、おなかの底から思いきり歌って……そうやって感情を逃がしてやらないと、体の中が一杯になって、今にもはちきれてしまいそうだ。
 1つは、拓海のことで。
 そして、もう1つは―――…。

 「……」
 きゅっ、と唇を噛む。
 シャワーを止め、濡れた頭をぶるっ、と一度振った咲夜は、バスルームの壁を伝う雫を、暫し、じっと見つめた。

 ―――…なんで…。
 どうして、私は、女に生まれてきてしまったんだろう。

 考えても仕方ないことを一瞬考えてしまい、咲夜は、ふ、と口元に自嘲気味の笑みを微かに浮かべた。
 自己嫌悪に陥っている時間はない。咲夜は、短いバスタイムを終え、さっさと浴室を後にした。


 頭をタオルで乾かしながらリビングに戻ると、拓海がグラスに水を汲み、飲んでいるところだった。
 「朝飯、どうする?」
 グラスを口に運びつつ訊ねる拓海に、カウンターに置かれた時計に目をやる。…とてもじゃないが、食べる余裕はなさそうだ。
 「…いい。途中で何か買って、客先回りの合間にでも、車で食べるから。拓海は?」
 「ああー…、俺も、いい。10時にはマネージャーが来るから、仮眠取ってから奴と一緒に食うことにする」
 「10時に仕事入ってんのに朝帰りとは、度胸あるね」
 「日付変わる前に帰りたかったんだけどなぁ、俺は…」
 はーっ、とため息をつきつつ、グラスの水をごくごく飲む拓海を何となく眺めていた咲夜は、偶然、あるものを見つけてしまい、思わず不愉快そうに眉をひそめてしまった。
 「拓海」
 「んー?」
 「やられてるよ」
 「は?」
 何が? という顔をする拓海に、咲夜はつかつかと歩み寄り、拓海のシャツの襟元をぐい、と引っ張った。露わになった首筋には、結構派手に、これぞキスマークでござい、と言わんばかりのキスマークがついていた。
 「迂闊だね、珍しく」
 「…油断した」
 拓海自身、全く気づかなかったらしい。多分もう名前もうろ覚えな昨日の女を思い出してか、その顔が一気にうんざり顔になった。そんなにうんざりな女なら、そもそも、誘いに乗らなきゃいいのに―――今更なことを思いつつ、咲夜は拓海のシャツを離し、拓海を押しのけるようにして新たなグラスに水を1杯汲んだ。
 「拓海って、こっから先、ジャズ・フェスタまで、ずっと東京だよね」
 数日前まで拓海が各地を転々としていたことを思い出し、咲夜がポツリと訊ねると、咲夜と入れ替わりにキッチンを出て行った拓海が、スケジュールを思い浮かべるように天井を仰いだ。
 「そうだな。ずっとこっちだ」
 「そっか」
 「この部屋スタジオ代わりに使うなら、夜10時までにしてくれると助かる。ちょっと、書きたい曲あるから」
 「ふぅん…。わかった」
 ―――さり気なく、釘刺されたな。
 最近、ふとしたことに感じる。突き放すのではなく、すっ、と一線引くような感じを。3月のプライベート・ライブで感じた不安は、どうやら思い過ごしではなかったらしい―――その理由は、やっぱり今もわからないのだけれど。

 …この位、なんてことはない。
 今も拓海は、ここに、咲夜の居場所をちゃんと残してくれている―――拒絶されている訳じゃないから、平気だ。

 濡れた髪をうるさそうに掻き上げた咲夜は、一瞬感じた寂しさを、手馴れた方法で捻じ伏せた。

***

 少々バタバタしたものの、会社には、ほぼいつもの時間に着いた。
 事務所内に挨拶し、急いでロッカールームに向かうと、やはりそこには、同僚の女性社員が3人ほどいた。皆、“カフェストック”の制服に着替えている最中だ。
 「おはようございまーす」
 極めて平然と咲夜が挨拶をすると、3人からバラバラに「おはよう」と挨拶が返ってきた。興味津々の視線が突き刺さるが、それを無視し、咲夜はてきぱきと着替えた。
 ―――あーあ、また噂されるんだろうなぁ…。
 正直、咲夜は、彼らが昨日何を着てたかなんて、全然覚えていない。が、世の女性の中には、同僚の毎日の服装をこと細かに覚えている輩が少なくないらしい。その少なくない人間が、このロッカールームに2人もいる。普段から変わりばえのしない格好をしているつもりなのに、よく気づくな、とこっちが驚かされる。
 先に着替え始めていた3人より早く着替えを終えると、咲夜は「お先にー」と言ってロッカールームを出た。
 バタン、と閉めたドアの向こうで、3人が集まって何やら噂話を始める気配を感じた。やっぱりね―――うんざり気分で、咲夜はロッカールームを離れた。

 今日のようなことは、過去にも2、3度、あった。
 「ねぇ、それって昨日と同じ服じゃない? もしかして彼氏とお泊り!?」と初めて訊かれた時、ただ一言「えー、違うよ」としか答えなかったのが、まずかったのかもしれない。あからさまに言われたことはないが、咲夜はどうやら、彼らから少々誤解されているらしい。いつだったか、こんな会話を、偶然聞いてしまった。
 『ジャズ・バーで歌ってるっていうし、ああ見えて結構男性関係派手っぽいよね』
 ―――ジャズ・バーで歌ってるのと、男性関係派手なのと、どういう因果関係があるんだろ。
 400字詰め原稿用紙1枚にまとめてみろ、と言いたくなったが、放っておくことにした。
 幸い、社内に咲夜に興味を持つような特殊な男もいないようだし(そういうのがいると、また中学の時の二の舞になるので厄介だが)、男と縁のない自分が実に華やかな恋愛経験の持ち主のように思われてるのを想像すると、結構笑えるものがある。実害がないなら、放置が一番だ。

 こんな咲夜だが、別に、彼女らと敵対している訳ではない。案外、普通に接している。
 社内の仕事になった時は、一緒にランチぐらいは食べているし、理解可能な話題の時は世間話もするし、理解不可能な話の時は「ふーん」と聞いている。社内の飲み会でもあれば二次会のカラオケ位は参加する。
 深刻な恋の悩みなんてものを打ち明けられたこともある。社内の話で、かつディープすぎる中身だったため、咲夜はやっぱり「ふーん」と聞いているだけだったが、それで正解らしい。変に助言をしてしまった同僚は、本人に陰で悪口を言われていた。女心は複雑なのだ。
 実に適度な「社内のお付き合い」。それが出来ているなら、ノープロブレム。
 プライベートなことを晒してまで、妙な噂を払拭しようと懸命になるだけ、労力の無駄だ。いや、むしろ―――拓海や父のことを話したところで、ただ噂話のネタを提供するだけで、メリットなどないだろう。
 下世話な噂話を立てる人間の前では、真相なんて大した意味を持たないことを、咲夜はよく知っていた。そう……嫌になるほど、よく、知っていた。

 ―――実の親ですら、娘の言葉より、無責任な第三者の噂話を信じたんだからさ。

 「……ったく……」
 久々に思い出してしまった遠い日の怒りに、咲夜は眉を顰めた。
 最近、やたら、父のことを思い出してしまう。やはり、疲れているのだろうか―――大きく息をついた咲夜は、まだ背後で微かに聞こえる噂話の声を完全に耳から排除し、歩き出した。


***


 呼び鈴を鳴らすと、暫し後、ドアが開いた。
 顔を出した咲夜は、既に部屋着に着替えていた。ライブのない日なのでもしかしたら、と思ったが、やっぱり奏より早く帰宅していたらしい。
 「奏じゃん。お帰り。どしたの?」
 「あー、ちょっと、な。…上がっていい?」
 「? いいけど、酒盛りしようにも、ビールも何もないよ?」
 「任せとけ」
 ニッ、と笑った奏は、手にしていたコンビニの袋を咲夜の目の前に突き出した。中には、ビール2缶と、おつまみが少々入っている。それを見て、咲夜もニッ、と笑った。
 「手土産持参なら、大歓迎」
 「…現金な奴…」
 「どうぞー。上がって」
 奏を促し、すたすたと部屋に戻っていく咲夜の背中を見て、奏は内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 実は、ちょっと心配していた。「上がっていいかな」と持ちかけたら―――それとなく拒否されるんじゃないか、と。具体的に何か不安な言動があった訳じゃないが、なんとなく……最近、微妙に線を引かれているような気がする瞬間が、たまに、あるから。
 その辺に散らかっていたものを片付けた咲夜は、ベッドの傍に腰を下ろした。奏はその斜め向かいのような位置取りになる。大体、この部屋に来た場合はこの位置関係が多い。
 「んで? どうかした?」
 「ああ、大した話じゃないんだけど…オレ的には結構嬉しい話だったんで、ちょっとした祝い酒」
 「何、嬉しい話って」
 「店以外の、メイクの仕事が入ったんだ」
 ガサガサと缶ビールを出しながら奏が言うと、咲夜は大きく目を見開き、僅かに奏の方ににじり寄った。
 「えー! 何、どういう仕事!?」
 「…まあ、内輪な仕事だけど。メイクする相手、うちの事務所の女の子モデルだから。ただ―――雑誌のスチール撮影ってのが、大きい」
 「じゃあ、写真撮影でのメイクなんだ」
 「そーゆーこと」
 写真撮影での、メイク。それが奏にとってどういう意味か、咲夜にはわかっているのだろう。咲夜の顔が、心から「よかった」という笑顔に変わった。
 奏から缶ビールを1本受け取り、プルトップを引く。奏も同じくプルトップを引き、2人は互いの缶をぶつけ合った。
 「おめでとう」
 「ん、サンキュ」

 写真撮影での、メイクの仕事―――奏が最近、具体的に目指し始めた、将来の夢だ。
 勿論、今のように、素人相手に店で働くのも楽しいし、今後も続けていくつもりだが、一人前になった暁には、そっちの道で個人的に仕事をしていこうと考えている。テレビでも、舞台でもなく……写真の世界で。
 理由を言ってしまえば、実に単純な話だ。要するに、今のモデルとしての奏と、全く同じ理由―――瑞樹と仕事がしたいから。それが理由の大半。
 奏は、瑞樹という人間を慕ってはいるが、それは個人的なこと。仕事に関しては、そういう個人的な情から「一緒に仕事がしたい」なんて思っている訳ではない。モデルとしての奏は、自分を最も魅力的に撮るカメラマンとして、瑞樹を求めている。彼が撮る仕事なら、絶対大丈夫―――そう自信を持って断言できるから、彼と仕事がしたいと思うのだ。
 メイクに関しても、同じことだ。早い話……奏は、瑞樹の写真のファンなのだ。彼が撮る自分の写真が一番好きなように、彼が撮る広告写真は大体好きだし、プライベートで撮る写真はもっと好きだ。好きな写真の制作に、自分も一枚かむことができるなら、こんなに楽しいことはない。だから、瑞樹が撮るポスターなどで、自分がモデルにメイクを施せたら、と思ったのだ。
 今回の仕事は、そのための布石になる。
 瑞樹と契約している雑誌社じゃないし、撮るのも瑞樹じゃない。けれど……スチールの世界メイクを担当した、という実績が、一応1つ、つく訳だ。これは、大きい。カメラマンやクライアントに気に入られれば、次の仕事だってあり得る。それが重なればいずれ―――瑞樹のクライアントから声がかかることだって、あり得るかもしれない。

 「やっぱ、そっち方向で決めたんだ」
 ナッツに手を伸ばしながら、咲夜が楽しげに言う。漠然とした夢は、2月か3月にそれとなく話したことがあったので、今回の仕事が奏の理想への第一歩であることを、十分理解してくれているらしい。
 「まあ、な。身内からの依頼、ってのが少し情けなくはあるけど―――まだ営業活動を何もしてないんだから、ありがたい話だよな」
 「当たり前じゃん。フリーの仕事ってのは、人脈が命だって聞くよ?」
 「だよなぁ。あーあ…、モデル辞めても、佐倉さんとは縁が切れそうにないよなぁ…」
 まあ、いいんだけど、とブツブツ呟きつつ、ぐいっ、と缶ビールをあおる。そんな奏を見て、咲夜の笑みが、若干影をひそめた。
 「…何、縁、切りたい訳? 佐倉さんと」
 「ん? いや、別に、そういう訳じゃないけど。けどあの人、自分の事務所の人間じゃないとなったら、トコトン利用しまくりそうだよなぁ。親しくしてた分、弱みも大量に握ってるだろうから、痛いとこ突いて無理な仕事とか押し付けられそうで怖い」
 「ず…随分な言われようだね、佐倉さん」
 咲夜の顔が、ちょっと引きつる。ああ、こいつは特に弱みとか握られてないからな―――弱みを握られまくってる奏は、佐倉さんに失礼じゃないか、という顔をしている咲夜を、羨ましげに眺めてしまった。
 「プライベートじゃ義理人情に篤い人だけど、仕事になると鬼だぜ、佐倉さんは」
 「ふーん…。私、あんまり佐倉さんのこと、知らないからなぁ」
 ぽりぽり、とナッツを食べながら、咲夜が呟く。
 「麻生さんがジャズ・バーで弾いてた頃、親しくしてたんだろ?」
 「んー…、少しは、ね。でも、佐倉さんもそう頻繁に来てた訳じゃないし……途中、全然来なくなった期間もあるし」
 そこまで言って、咲夜は、あ、と何かを思い出したような顔をした。
 「あ、そっか。そのことだったのかな」
 「は? 何が?」
 「佐倉さんが言ってた話」
 そう言って、咲夜は、ブライダルショーの時、佐倉から聞いた話を奏に告げた。

 『あたしって、男運がないのよ。好きになる男は、いつだって、あたしにとっても大切な人が、世界中の誰より愛してる男ばっかり―――そしていつだって、あたしは男より“大切な人”を選んじゃうのよ。そういう自分に満足しちゃうの』

 「佐倉さん、大学生の一時期、多恵子さんとすっごい仲良かった人と付き合ってたんだ」
 咲夜のセリフに、多恵子って誰だっけ? と一瞬混乱する。が、思い出した。咲夜の憧れの歌姫―――拓海のピアノをバックにジャズ・バーで歌っていた、佐倉の大親友だ。
 「その彼氏も、そのジャズ・バーで、バーテンとして働いててさ。付き合ってる間って、佐倉さん、店に全然来なかったんだ。多恵子さん、何も言わなかったけど、多分…あの人のこと、好きだったと思う。子供の私でもわかったんだから、佐倉さんも気づいてたよね、きっと…」
 「でも、付き合ったんだろ?」
 「別れちゃったけどね。あっという間に。理由訊いたら、“3人で1セットの友達関係の方がラクチンでいい”だって」
 「…不遇な奴だな、昔から」
 思わず奏が呟くと、咲夜は不思議そうに目を丸くした。
 「昔から?」
 「オレと知り合った頃もさ、個人的に面倒見てた女の子の彼氏に、密かに片想いしてたらしい。今じゃすっかり“2人を見守るお姉さん”役。恋愛感情転じて、完全に保護者感覚らしいけど」
 「…不遇だね」
 「運がないだけなんだろうなぁ…。いい女なのに、もったいない」
 やれやれ、という感じで首を振り、またビールをあおる奏を見て、咲夜は少し複雑な表情をしていた。が―――思い直したように自分の缶ビールを手に取り、微かに笑みを口元に浮かべた。
 「もったいないなら、奏が引き受けてあげれば? 佐倉さんのこと」
 「……っ!!!」
 発せられたとんでもないジョークに、奏は危うく、口にしていたビールを吹き出すところだった。すんでのところで堪えたせいで、ビールでむせてしまった。
 「ゲ、ゲホゲホゲホ…!」
 「うわ、大丈夫?」
 「だ…っ、大丈夫、じゃ、ねーよっ! 趣味悪すぎだぞ、今の冗談…!」
 ゲホゲホとむせつつ、半ば涙目で、咲夜を睨み据える。が、咲夜はキョトンとした顔で、実にあっさりとこう言ってのけた。
 「え、別に冗談じゃなかったんだけど」
 「―――余計、たち悪い。なんでよりによって、佐倉さんとオレが!?」
 「でも、やっちゃったことは、あるんでしょ?」
 ギョッとして、固まった。
 何のことやら、という顔をすればそれで済んだ話だと、数秒後、わかったけれど―――奏の顔は、感情にとっても忠実なのだ。何故それを、という顔で思い切り固まっている奏を見て、咲夜は軽く眉を上げた。
 「…ふーん、やっぱり」
 「…もしかして、鎌、かけたのかよ」
 「半分ほど」
 「……」
 「意味不明なパーティーにまで同行するほど、佐倉さんと柳社長のこと、やたら気にしてたから、ただの事務所社長と所属モデルじゃないな、とは思ってたんだ。パーティーに同行した翌朝に朝帰りってどうよ、と思って鎌かけたら、あっさり引っかかってくれるから、なんか拍子抜け」
 「…バカヤロウ」
 急激に、疲れが押し寄せてくる。大きなため息とともに、奏は半ばテーブルに突っ伏した。
 正直、知られたくなかった。佐倉との間にあった、半端な付き合いのことは。瑞樹にだって話していないのだ。ましてや……咲夜には、もしかしたら、この世で一番知られたくなかったかもしれない。
 「別にいいんじゃない? 大人同士なんだし。奏、彼女欲しがってたじゃん。結構お似合いだと」
 「―――咲夜、」
 ゆらり、と顔を上げながら発した声は、自分でも驚くほど、低く、凄みがあった。
 キレてしまいそうになる寸前の苛立ちが、脳の奥をチリチリと焼いているのが、自分でもわかる。なんだってこの話題に、そうも苛立つのか―――わからないけれど、とにかく。
 「それ以上言ったら、コロス」
 「……」
 さすがに、咲夜の顔が、強張った。
 戸惑ったように、少し瞳を揺らした咲夜は、意気消沈した様子で視線を落とすと、
 「…ごめん」
 と小さく呟いた。
 妙に気まずい空気が、間に流れる。暫し黙って、それぞれのビールを口に運んだ。

 ―――よく考えたら、オレがキレるような話でもないんだよな…。
 ちびちびとビールを飲み進めながら、奏は、とんでもなく険悪なオーラで咲夜に接してしまったことを、早くも後悔していた。
 新しい恋を見つけたい、というのは、咲夜と出会った当初から一貫して言っていたことだ。蕾夏とのことも、明日美とのこともよく知る咲夜が、佐倉と奏が男女の関係にあると知れば、さっきのようなセリフが出てくるのは、至って当然のことだ―――冷静になって考えれば、そう思える。
 なんだってあんなに、イライラしたんだろう?
 からかわれたり、ひやかされたりした訳じゃないのは、咲夜の口調からもわかったのに……いや、だからこそ余計、癇に障った。なんでお前からそんなこと言われなきゃならないんだよ、と、理不尽なことを言われたような怒りを覚えた。おかしい―――最近の自分は、どうもおかしい。自分でも理解不能なものに、やたらイライラしたり、ムカついたりする。

 この気まずい空気をなんとかしたくて、奏はフル回転で、話題を探した。
 そして、よりによってこんな時、事情によっては余計気まずくなりそうな話題がポン、と脳裏に浮かび―――浮かんでしまうと、もう消えなくなった。
 「…そう言えばさ」
 咲夜の様子を窺うように、口を開く。と、咲夜も、何、という目をこちらに向けてきた。
 「お前最近、家帰らない日があるだろ。週に2日位」
 「え…っ」
 咲夜の目が、僅かに大きくなった。パチパチ、と2回瞬きを繰り返した咲夜は、驚いた様子で奏の顔をマジマジと凝視した。
 「な、なんで知ってんの?」
 「なんとなく。朝起きて窓開けたら、あー、また留守か、って感じで」
 「…わ…わかる、もん、なんだ」
 「……なんとなく」
 とはいえ、同じ隣人でも、木戸の気配というのはさっぱりわからない。トレーニングマシンの騒音があれば在宅はわかるが、大人しくしている木戸の在宅は全くわからない。咲夜の方だけわかる、というのも妙な話だが―――この反応を見る限り、いない、と感じた奏は、どうやら正しかったらしい。
 「麻生さんとこ、泊まってるのか」
 先回りして奏が言うと、咲夜は小さくため息をつき、疲れたように背後のベッドにもたれた。
 「…まーね」
 「なんでまた」
 一瞬、咲夜の返答が遅れる。
 遅れたので、奏が、先走って訊く形になってしまった。
 「もしかして―――麻生さんと、何かあった?」
 途端、咲夜が、キョトンとした顔をした。
 「は?」
 「…や、だから、その……咲夜の片想いが実る方向に、何か進展があったのかと」
 「……」
 暫し、意味を考えるように眉をひそめていた咲夜だったが―――ようやく奏が何を考えているかを察すると、呆れたような顔をして体を起こした。
 「あーのーねー! ある訳ないじゃん、進展なんて。そーゆー面白いことがあったんなら、真っ先に奏に報告してるよ」
 「お―――…」
 面白いこと、って。
 またもの凄い言い方をするものだ。面と向かって言うのが恥ずかしいからなのか、それとも……面白い、と表現してしまうほど、咲夜の中で拓海と男女の関係になることは「ありえない展開」なのか―――でも、そんな想像するなんて信じられない、という顔をされると、さすがにちょっとムッとする。
 「…じゃあ、一線越えたとか、実は“一緒に暮らさないか”って口説かれてるとか、そういうんじゃないのかよ」
 「何それ。新しいギャグですか」
 「ポジティブシンキングって言えよ。てめーがネガティブだから、少しでも明るい方向に考えてやってんだろ」
 「ないない。全然ないから、そんな展開」
 「じゃ、何しに泊まりに行ってんだよ、麻生さんとこに」
 「ジャズ・フェスタが近いからじゃん」
 あっさりと、咲夜はそう言いきった。
 「拓海んとこ、防音設備が完璧に整ってるから、24時間音楽OK、真夜中に大声で歌いまくっても誰にも迷惑かからないじゃん。だから、歌いに行ってんの。先週位まで、拓海、東京以外での仕事が多かったから、好都合だったんだ」
 「……」
 言われてみれば、もの凄く、納得。
 「…なんだ」
 落胆とも、安堵ともとれない感情に、力が抜ける。はーっ、とため息をついた奏は、ノロノロとナッツに手を伸ばした。
 「なぁんだよ、そういう理由か。色々気ぃ回して損した」
 「あ。何それ、損したって。ムカつく」
 「そのくらい、色々想像して、頭使った、ってことだっつーの」
 ぽい、とナッツを放り投げ、口でキャッチする。見事、成功。それを見て、咲夜も真似してナッツを放り投げてみた。
 「あ、」
 まるっきり見当違いな方向へ、ナッツが飛んでいく。
 フローリングの床に落ちたナッツは、カツン、と軽い音を立てて、コロコロと遠くへ転がって行った。

 「……」
 「……」
 それを見て―――2人同時に、吹き出した。

 「お前、コントロール悪すぎ」
 「おっかしいなー。スポーツは平均点いってた筈なんだけど」
 「ナッツ投げるのにスポーツの成績関係あんの?」
 「球技の一種じゃん」
 「マジかよ」
 「なんか、奏ができて自分ができないと、悔しいよなぁ」
 もう1回投げるが、さっきとはまた別方向に飛んでいく。片膝を立てた奏は、身を乗り出して、そのナッツを見事口でキャッチしてみせた。
 「ムッカつくーーー! 返せ、私のナッツ!」
 「もう食っちゃったしー」
 「ミックスナッツの中で一番好きなアーモンドだったのに! くやしーっ!」
 「わかったわかった」
 肩で笑った奏は、広げたアルミ袋の上のミックスナッツを漁り、アーモンドとおぼしき物を摘み上げた。
 そして、面白くなさそうにしている咲夜の唇に、摘んだアーモンドを押し付けた。

 「!」
 ビックリしたように、咲夜が目を見開く。
 それでも、条件反射的に、僅かに口を開いてしまったのだろう。押し付けられたアーモンドは、あっさり、咲夜の口の中に納まった。

 「ハハ、返却完了」
 「……」
 上機嫌で笑う奏とは対照的に、咲夜は、目を見開いたまま、固まっていた。が、早くもビールに手を出していた奏は、そんな咲夜の様子に、すぐには気づかなかった。
 気づいたのは、ビールを一口飲んで、缶をテーブルに置いてからだった。
 突如静かになってしまった咲夜を不審に思い、どうしたんだろう、と咲夜の方を見ると―――咲夜は、口元に手を置いて、まだビックリしたような顔のまま固まっていた。
 「咲夜?」
 「……」
 「どう、」
 どうした、と言いながら、手を伸ばすと。
 咲夜は、ハッとしたように表情を変え、奏から逃げるように体を後ろに引いた。
 一瞬、指先に触れた咲夜の肩が、すい、と遠ざかる。その反応に―――どうした、の一言が、喉の途中で止まった。

 「な、なんでもない」
 体を引いた咲夜は、視線を逸らすと同時に、落ち着かない様子で立ち上がった。そのまま、すたすたとキッチンに向かい、冷蔵庫を少し乱暴に開けた。
 「なんでもない、ごめん。ちょ…、ちょっと、昨日の晩、歌いすぎたから―――テンション上がりすぎて、なんか……一気に、疲れ出たかも」
 「……」
 「練習しすぎで本番棒に振ったら、洒落になんないね。ハハ…」
 ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出し、バタン、とその扉を閉める。どんな顔をしてこのセリフを言っているのか奏には見えないが、その声は、普段より少し上ずって聞こえた。
 「…早く、寝た方がいいかも」
 ぽつり、と呟かれた言葉が、言外に「もう帰って」と言っているように聞こえる。胸の奥の辺りが冷たくなるような感覚に、奏は顔を歪めてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
 「大丈夫、か」
 辛うじてそう問うと、ペットボトルを持った咲夜は、クルリと振り向き、口元だけで笑って見せた。
 「ん、大丈夫。一晩眠れば、ケロッとしてるよ、きっと」
 「…そっか」
 「―――あんまり、お祝いらしいこと、できなかったね。ごめん」
 食べ残ったミックスナッツと、まだ少し中身を残して置かれている缶ビールを見下ろし、咲夜は少し申し訳なさそうな顔をした。確かに―――奏も、苦笑を返した。
 「最初に、乾杯しただろ」
 「…また、改めて、どっかに食べにでも行こっか」
 それを聞いて、キリキリと張り詰めていた緊張が、少し、緩んだ。小さく息をついた奏は、やっと自然な笑みを見せることができた。
 「そうだな。…じゃ、オレもそろそろ撤退するか」
 自分の缶ビールを手に、よっ、と弾みをつけて立ち上がる。それを合図にしたように、咲夜もペットボトルを流し台に置き、奏を見送るために玄関へと足を向けた。

 靴を履き、ドアを開けた奏は、咲夜の方を振り返った。
 「無理、すんなよ」
 その一言に、咲夜は、奏を安心させるかのような笑顔を返した。
 「ありがと。じゃ、おやすみ」
 「…ん、おやすみ」
 いつもと何ら変わりない言葉を残し、ドアが、閉まった。


 「―――…」
 閉まったドアの外側で、奏の顔から、笑みが消える。
 缶ビールを握っていない方の、手―――さっき、咲夜にアーモンドを食べさせ、咲夜の方へと伸ばした右手を、見下ろす。その指先には、2つの記憶が色濃く残っていた。
 僅か1秒触れた、唇と。
 触れようとして遠ざかった、怯えたような肩と。

 …触れようとして、拒絶された。
 指先に残る片方の記憶が訴える、その事実に―――奏は唇を噛み、右手をきつく、握り締めた。


***


 ―――…ねえ。幸せだった?

 …ああ。幸せだった。

 ―――もし、次の世があるなら、私……また……あなたと……

 …待ってるよ。
 愛してる。生まれ変わっても、君を待ってるよ。

 君を、愛してる―――早く、生まれ変わっておいで。咲夜と2人で、君を待ってるから。


 音楽が、途切れた。
 遠い日の記憶から現実に引き戻された咲夜は、のろのろとヘッドホンを取り、デッキの電源を切った。
 裸足のまま、ペタペタと歩いて、キッチンに向かう。さっき飲んだミネラルウォーターの残りを冷蔵庫から取り出し、一口飲むと、少しだけ気持ちが凪いだような気がした。

 病室で聞いた会話は、まだ、咲夜の耳の奥に、はっきりと残っている。
 けれど、咲夜は、その続きの現実を知っている。父が母に告げた、あの数々の誓いの言葉が、一瞬にして偽りに変わってしまった、残酷な現実を。
 …2ヶ月―――たった、2ヶ月だ。何故、許すことなどできるだろう?
 あんな人間には、なりたくないと思う。どんなに辛くても、寂しくても、その人を想って一生を終えるような人生を送りたい。だから―――恋は、一生に一度で、十分だ。


 ミネラルウォーターで冷やされた唇に、そっと、触れる。
 あの時、微かに触れた指先が、まだ、そこに僅かな熱を残してるような気がした。

 ―――お願い。
 お願いだから、奏―――そんなに無邪気に、触れないでよ。

 苦しげに目元を歪めた咲夜は、勢いよく冷蔵庫を開け、ペットボトルを放り込むと、バタン! とその扉を閉めた。


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