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― My Foolish Heart

 

 タイミングの悪い時というのは、徹底的にタイミングが悪くなるのが、世の常らしい。
 出かける直前、最後にラジオから流れてきたのが“G.V.B.”のCMだった、というのは、ここ最近のアンラッキーの集大成のようなものだ。
 『“YANAGI”からの新しい風、“G.V.B.”。4月、表参道にオープン』
 ―――もう4月も終わるだろ。まだやってんのかよ、このCM。
 理不尽な文句を内心吐き捨てつつ、奏はラジオを切った。腹立たしいことに、消してもなお、CMの背後に流れていた拓海のピアノだけは、やたら耳に残っていた。
 いつもよりちょっと重い足取りで家を出る。ガチャガチャと鍵をかけていると、突如、隣の部屋のドアが勢いよく開いた。
 「!!」
 驚いて、思わず一歩、飛びのく。
 201号室のドアから飛び出してきた咲夜は、明らかに寝癖の残った頭で、やたら焦った顔をしていた。大慌てで鍵をかけつつも、奏の視線に気づいたのだろう。その顔が、一瞬だけ、奏の方を向いた。
 「あっ、奏、おはよっ」
 「…おお、おはよ」
 「参ったよー、朝の清掃当番あるのに、寝坊しちゃったよ。昨日もヤバかったし、2日連続なんて洒落になんないよ」
 「……」
 慌ただしい様子の咲夜は、拍子抜けするほどいつも通りだ。なんだ―――と、いつもの奏なら安堵するところだが、あいにくと、今の奏は、もうその段階にはない。複雑な心境で、咲夜のドタバタした朝の出勤風景を眺める。
 「あ、昨日は中途半端でごめん。また明日の朝にでも、改めて祝杯あげる予定立てよう?」
 「え…っ、あ、ああ、うん」
 「じゃ、急ぐから! またねー!」
 慌ただしくそう言うと、咲夜は疾風の如く去って行った。

***

 「…相当きてるな」
 「―――別に、そういう訳じゃ…」
 気まずそうに答える奏に、氷室は呆れたように軽く眉を上げた。
 「その状態のどこをどう取れば“そういう訳じゃない顔”に見えるんだ?」
 「…いや、マジで、別に何かあった訳じゃないし」
 「まあ、いいけど。とにかく、客におかしなメイクだけはするなよ」
 コツン、と奏の頭を軽く叩き、氷室は再び、今帰って行った客の後片付けに戻った。叩かれた頭を押さえた奏も、多少不服そうにしつつも、つい1分前までしていた予約表のチェックに戻った。

 そう。別に何かあった訳じゃない。
 外泊が増えた理由は至極納得のいくものだし、家にいればいつもと同じように朝顔を見せる。奏の仕事が決まったことも心から喜んでくれたし、改めて祝杯もあげてくれるという。奏も、ジャズ・フェスタでは応援に駆けつける予定だ。お互い、友情は今も健在―――何も問題はない。
 でも―――…。
 「…はあぁ…」
 思わず、ため息をつく。正直、こんなにダメージを受けるなんて、自分でも予想外だ。奏は、ボールペンを握ったまま、苛立ったように前髪を掻き上げた。
 被害妄想かもしれない。
 大した問題ですらないのかもしれない。
 でも……奏は、強烈に落ち込んでいた。咲夜を心配して伸ばした手を、咲夜に拒まれた、という事実に。
 ―――こんなことで、ここまでへこむか? オレ。付き合ってる彼女に「触らないで」とか言われたんなら、へこむのも当然かもしれないけど……咲夜は友達だし、あからさまに拒否られた訳でもないだろ。ショック受けすぎだって。
 もしかしたら、抱きつこうが押さえつけようが担ぎ上げようが比較的あっさり許してくれた咲夜に、甘えすぎていたのかもしれない。この位は許容範囲だろ、と勝手に思っていたことが、咲夜のモラルからすると明らかにNGなことだった可能性は確かにある―――だから、警戒されて、怯えられた。そういう可能性は思いのほか高いような気がしてくる。
 それに。
 なんと言っても。
 ―――あのキス事件があるからなぁ…。
 やっぱり、あれを境に、どことなくギクシャクしてる気がする。咲夜が何も言わないから、こちらも好都合、とばかりに棚上げして忘れたフリをしているが―――いい加減、フリも限界が来ているのかも…。

 予約表に突っ伏してしまいそうになっているところへ、店の入り口のドアが開いた。
 まずい。仕事中だ。しかも、今この時間にやってきたとなれば、ほぼ間違いなく、予約を入れてくれた奏の客だ。慌てて顔を上げた奏は、急いで営業スマイルを作った。
 「いらっしゃいませ」
 「こんにちは」
 予約通り、姿を見せた客は―――明日美だった。


 「いつもと変わりのない、祖父の関係のビジネスパーティーなんです」
 鏡の中の明日美は、そう言って苦笑した。
 「ですから、できるだけ話しかけにくそうな、近寄り難い感じになれると、嬉しいんだけど」
 「ハハ…、なるほどね。じゃ、性格キツくてプライド高そう、お嫁さんにするにはちょっとなぁ、な明日美ちゃんに変身させるか」
 「お願いします」
 これが冗談じゃなく結構本気なところが、明日美の不幸なところだ。極力断ってはいるものの、やはり父や祖父絡みのパーティーはポツポツあるらしく、パーティーメイクのための来店もこれで3度目になる。お嬢様も大変だな、と、奏は明日美に同情した。
 こんな風に、明日美はあれからも、たまに店に顔を出す。以前担当だった星が退職したこともあり、今では奏がほぼ固定の担当になっている。だから、来店のたび、こうしてメイク中には明日美と話をすることになるのだが―――皮肉なことに、半分付き合っているような状態だった頃より、今の方が自然に会話できていたりする。
 「でも、今回は随分間が空いたね。4月入って初めてじゃない?」
 「ええ。色々忙しくて…」
 曖昧に笑った明日美は、僅かな間、何かを言うのを迷っているように、鏡越しに奏をじっと見つめた。が…結局、言った方がいいと判断したのか、その先を続けた。
 「…実は、この夏、アメリカに行くことになったんです」
 「え?」
 予想外な話に、奏の目が丸くなる。
 「アメリカ? なんでまた」
 「実は、唯の従兄弟が、アメリカの大学に留学してるんです。彼の勧めもあって、その大学が主催している英文学のサマースクールに参加しようと思って…。その資料を取り寄せたり、手続きをしたりで、4月はなんだか凄く忙しかったんです」
 「へーえ…」
 唯の従兄弟の話は、今まで一度も聞いた記憶がないが―――彼、というからには、男性だろう。男性に免疫のない明日美が、親友の従兄弟とはいえ、男性の勧めでアメリカ行きなんていう冒険をやらかすとは、ちょっと意外だ。
 「そんな親しい男の人がいたとは、知らなかったなぁ」
 素直な感想を奏がそのまま言うと、明日美は一瞬目を見開き、それから慌てて首をぶんぶん振った。
 「ち…っ、違います! あの、誤解です。涼一さんは、前から面識はありますけど、それほど親しい訳じゃ……。た、ただ、同じ英文学をやってて、話しててとても勉強になるし、立場もちょっと似てるから、悩み事とかがわたしと似通ってるというか、だからその、」
 焦ったように早口でまくしたてた明日美は、そこまで言って少し我に返ったのか、顔を真っ赤にしたまま、一旦言葉を切った。
 奏の、ちょっと唖然としたような顔を見て、明日美がますます赤面する。この顔色、ファンデーション塗る前には何とかして欲しいな、と奏が思ったところで、明日美は気まずそうに体を縮めた。
 「…いい、お友達なんです」
 「…お友達」
 「はい。…実を言うと、涼一さんからは交際を申し込まれたこともあるんですけど―――どうしても、恋愛対象には思えなくて。でも、お話していてとても楽だし、色々ためになる部分もあるし……今では、大事なお友達です」
 「ふぅん…、そっか」
 「いいですよね、異性の親友って。男の人に悩み事相談しても、そもそも考え方も社会的な役割も違うから、絶対理解なんてしてもらえない―――って思ってたんですけど……そんなことないな、って最近思うんです」
 そう言うと、明日美は、俯き加減だった顔を上げ、ニッコリと微笑んだ。
 「できれば、一宮さんと咲夜さんみたいな関係になれたらな、って思ってるんですよ」
 「え……っ」
 「まだ、妬けちゃう部分もあるけど―――お二人の友情って、憧れます。わたしも、涼一さんの夢や恋を応援できるような友達になりたいです」
 「―――…」

 …友達…。
 そう、咲夜は、友達なんだよ。友達の中でもスペシャルクラスの―――もの凄く、貴重な。

 鏡の中でも、明日美の顔ばかり見ていたので、自分がどんな顔をしたか全くわからない。
 上手く笑えた自信は、あまりなかった。でも……奏は、一応、笑った。
 いい加減、なんとかしなくては―――そう思いながら。


***


 「…のらないなー。今日は別の歌、歌いたいなー…」
 「却下」
 ヨッシーに即答され、咲夜は唇を尖らせた。
 「今週はこのプログラムって決めただろ? 咲夜の気まぐれで変えるのは、却下」
 「けちー。いいじゃん、別の歌でもー。その日にプログラム決めてぱぱっと演奏できる曲、最低10曲は常備してんのに。前にだって当日になって曲を差し替えたこと、何回もあるじゃんー」
 「ほらほら、準備しろ準備。もうすぐ出番だぞ」
 聞く耳持ちません、といったヨッシーの態度に、咲夜も諦めるしかなかった。まだぶちぶち言いつつも、スチール椅子から立ち上がり、鏡の前に立つ。
 と、鏡越しに、背後にいた一成と、目が合った。
 「……」
 ―――そりゃ、そういう目になるよね。
 怪訝そうな一成の目を見て、咲夜は気まずそうに咳払いをした。
 確かに過去に、諸事情により当日のプログラムが変更になったことは、何度もあった。けれどそれは、咲夜が風邪をひいて高音が出難いとか、店内の年齢層が極端に偏っていて曲想が合わないとか、そういう事情だ。なんかのらない、というわがままで曲を変えたことは一度もない。そして、そういういい加減なわがままを、咲夜自身もあまり好きではないこと位、一成もよく知っている。
 「咲夜」
 案の定、ヨッシーが先に控室を出たのを見計らい、一成がぼそっと訊ねてきた。
 「お前らしくないじゃないか。なんでそんなに嫌がるんだ? “My Foolish Heart”を」
 「…だから、ただ気分的にのれないだけだって」
 「のれない、か」
 呟くように言うと、一成は、疑うような眼差しで咲夜をじっと見た。
 「な、何?」
 「…のれない、って言う割に、前より上手く歌ってるな、と思ったんだよ」
 「……」
 「ヨッシーが、是が非でも“My Foolish Heart”を()る、って言い張ってるのは、先週のミーティングで咲夜が歌った“My Foolish Heart”のせいだ。今の咲夜にはこの歌がマッチしてる、と思ったから、今こそ歌い時、と思ってるんだろう」
 「…歌い時…かぁ…」

 正直、この“My Foolish Heart”は、元々あまり得意な歌ではなかった。
 咲夜的解釈をするならば、この歌は「惚れっぽい女が自制を自らに言い聞かせている歌」だ。
 魅せられて気が迷うことと、恋に落ちることは、別物なのよ。でもこんな夜は「これって恋ね」と思ってしまうもの―――キスの魔法に惑わされれば、区別がつかなくなってしまう。だから気をつけなさい。勘違いしちゃダメよ。…まあ、要約するならば、そんな歌詞になる。
 一途な恋心は、歌える。失恋の歌も得意だ。ただ漠然と「恋って素敵ね」なんて歌も、そこそこ楽しいと思う。でも……この手の気の多い女の歌なんて、咲夜にはその女の心理がさっぱりわからないが故に、もの凄く苦手だった。やだよこんな女、何ムードに酔ってフラフラしてんだよ、という気持ちが常にあって、どうにものれなかった。
 そう。のれなかったのだ。元々。そして、のれない証拠に、歌ってみるとイマイチだった。その辺はテクニックで乗り切るだけのキャリアはあるものの、本人の中では何かしっくりこなかったのだ。
 少なくとも―――1ヶ月ほど前までは。

 じゃあ、今は、どうか。
 …別の意味で、もの凄く、苦手だ。

 「何か、あったのか?」
 少しだけ心配そうな色合いを乗せて、一成が眉をひそめる。
 「俺としては、表現の幅が広がったのならめでたいことだ、位にしか思ってなかったけど……そう言えば最近、元気ないな」
 「ハ、ハハ…、別に、何もないよ?」
 「……」
 ―――だから、そういう疑いの目で見ないでくれるかな。
 冷や汗が出てきそうになる。せっかく作った笑顔が引きつりそうで怖い。だが、もう一言、安心させるセリフでも口にしておくべきか、と咲夜が迷ったところで、一成は小さくため息をつき、肩を竦めた。
 「…まあ、咲夜がそう言うなら、俺は別にいいけど。でも―――正直、最近の咲夜は、ちょっと、困る」
 「え?」
 「歌に妙に色気が出てきて、こっちが焦る」
 「……」
 言葉を失う咲夜に、一成は、控室のドアを開けながら、ふ、と微かに笑った。
 「別れたとはいえ、1日限定でも“彼氏”をやったからな。少々、複雑だ」
 「一成…」
 正直、リアクションに困る。が、一成はポン、と咲夜の肩を叩き、行くぞ、と促してくれた。
 ―――大人だなぁ、一成は…。
 勿論、最初からこんなに割り切っていた訳じゃないのは、傍で見ていただけによく知っているが―――こんなカッコイイ対応をされると、変なことでグダグダしている自分が、酷くかっこ悪く思える。少々自己嫌悪に陥りながら、咲夜は控室を後にした。


 本日1回目のステージに上がった咲夜が、まず最初に歌ったのは、かなりアップテンポな『It Don't Mean a Thing』だった。
 昨日の朝、ちょっと痛めてしまったかな、と心配になった喉の調子は、幸い良好なようだ。滑らかに声が出る。もうあんな風に歌いすぎないように気をつけないと、と、改めて肝に銘じた。
 そして、2曲目が問題の、『My Foolish Heart』。

 「The night is like a lovely tune... Beware, my foolish heart...」

 ―――あー…、やだな、最悪。
 こんな歌、歌いたくない。歌詞がやたら具体的なのも最悪だ。
 なのに、最悪、と思いながらも、これまでよりずっと艶やかで情感豊かに歌い上げていることを、咲夜自身も自覚している。全く……上手く歌えて落ち込むなんてことがあるなんて、今まで想像したことすらなかった。
 思い当たる節が多すぎるのだ。この歌は。
 まさに、タイトル通り。自分の愚かな心を呪いたくなる。

 「His lips are much too close to mine... Beware, my foolish heart...」

 これだけ気をつけろ気をつけろと言いながら、この歌の結びは、「It's love, this time it's love, my foolish heart」ときている。これは恋なのよ、今回は恋なのよ、ああ私って愚かね―――アホか、と怒鳴りつけたくなる。
 アホか、と、自分をぶん殴りたくなる。

 散々毒つきながらも、これまでで一番情感たっぷりな『My Foolish Heart』を歌い終えた咲夜は、たくさんの拍手を受け、笑顔で頭を下げた。
 そして、次の曲へ移るためにマイクを握りなおした時―――これまで全く目を向けなかったカウンター席をたまたま見てしまい、そのことを激しく後悔した。
 「―――…」
 今すぐ、消えて、なくなりたい。
 そこには、この歌を一番聴いてほしくなかった人―――奏が、居心地が悪そうに座っていたのだ。

***

 てっきり、ステージが終われば何か言ってくるものと思っていた。
 けれど奏は、咲夜たちがステージを下りるのを見届けると同時に、カウンター席を立ち、レジの方へと向かってしまった。控室に戻る直前にそれに気づいた咲夜は、さすがに見過ごしにはできず、慌てて奏の後を追った。
 「奏!」
 店のドアを開け、咲夜が奏の背中に声をかけると、既に地上へ上がる階段を上り終えていた奏が、驚いたように振り返った。
 あからさまなほど、うわ、しまった、という顔をしている。どうやら、咲夜に気づかれているとは思っていなかったらしい。こんな目立つ風貌をしていて、バレないと思う方が間違いだ。
 ライブ直後に慌てて店内を突っ切った上、数段とはいえ階段を駆け上がったため、息が切れた。はぁ、と咲夜が息をつくと、奏は気まずそうに頭を掻いた。
 「…なんか、無駄な体力使わせたみたいだな」
 「ううん。それより―――どうした訳? 来たのに、何も言わずに帰るなんて」
 「いや、その……」
 何か話題を探すみたいに、奏の目が、落ち着かなくあちこちを彷徨う。と、探し求めていたものを見つけたのか、やっと咲夜の方にまともに目を向けた。
 「あ…っ、そ、そうだ。今朝言ってた祝杯の話だけど―――日曜なんか、どうだ?」
 「え?」
 「ちょっと早めから遊びに出て、“太鼓の達人”リベンジとか」
 「…いいけど…まさか、それ言うために、わざわざ来たの?」
 隣に住んでいるのに、これはちょっと、説得力がない。本人もわかっているらしく、作り笑いがすぐに引きつった。
 「…だよ、な」
 「―――どうしたの」
 咲夜が促すと、奏は大きく息を吐き出し、暫し、口元に手を置いたままじっと考え込んだ。そして、やっと決心がついた、という様子で顔を上げ、やたら真剣な表情で咲夜を真っ直ぐに見下ろした。
 「…あの、さ」
 「うん」
 「オレ、何かお前怒らせるようなこと、したか?」
 「はっ?」
 唐突すぎる話に、目が点になる。
 瞬時に浮かんだいくつものクエッションマークで、咲夜の眉間に、怪訝そうな皺が寄る。上手く通じなかったか、と、苛立ったように髪を掻き毟った奏は、もっと直接的に訊くことにした。
 「だから、ええと―――お前最近、ちょっと、どことなくよそよそしい、って言うか、ちょっと一線引いてる、って言うか……いや、オレの思い過ごしなら申し訳ないけどさ」
 「……」
 「昨日も、その……なんか、様子、おかしかったし」
 ―――そんなに、あからさまだったのか。
 ヒヤリとした汗が、額に滲む。自分ではいつも通りの態度を取っているつもりだったし、昨日のことも、すぐにフォローを入れたからギリギリセーフ、と思っていたのに……。
 焦りから、一瞬瞳を揺らした咲夜だったが、即座に、何言ってんの、という笑いを浮かべた。
 「や、やだなぁ。別にそんな態度とったつもり、私の方はないんだけど」
 「…ほんとか?」
 「うん」
 「……」
 「それとも、何、奏の方に何か、私のこと怒らせたような心当たりでもあんの?」
 「…じゃあ、単刀直入に言うけど―――麻生さんとの初セッションライブの日」
 抑揚なく告げられた言葉に、ドキン、と心臓が鳴った。
 「オレも、正直な話、かなり気にしてたんだけど―――だから余計、その話題避けてたりもしたんだけど……あのキスのこと、怒ってるんじゃないかと思って」
 「……」
 「…ごめん。オレ、いまいち、どういう経緯でああなったのか、自覚してないんだよな。謝ろうにも、そこんとこがわかんなくて、つい黙ったまんまにしてたけど…」
 「そ…、そっか」
 声が、上ずってしまいそうだった。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。何のことはない、向こうもやはり同じように気にしていたし、どうしてああなったかもわかっていなかった、というだけの話だ。こちらが焦る理由は、何もない。
 「ハハ…、私も、経緯とかわかんなくて、なんか気まずいからあのことは触れずにおいたんだ。だから、奏が謝ることは、何もないよ」
 「いや、でもさ、」
 「世の中にはさ、友達同士でそーゆー雰囲気になっちゃうことも、結構あるんじゃない?」
 自分でも納得のいかない結論を明るい調子で告げ、咲夜は、吹っ切れたような笑みを作って、奏を見上げた。
 「だからさ。気にすんの、やめよ?」
 「……」
 「私からか、奏からか、わかんないけどさ―――ちょっと気が迷っただけだよ、きっと。どっちも悪かった、ってことで、もうおしまいにしよう? そんなことで気まずくなるの、もったいないじゃん」
 「―――…そうだな」
 咲夜に同意した筈のそのセリフは、何故か、妙に不服そうな色合いをしていた。
 が、小さくため息をついた奏は、一度目を逸らし、再び咲夜を見ると、今度ははっきりと、思い切ったような笑みを見せた。
 「そうだよな。…サンキュ。おかげでちょっと、すっきりした」
 「そっか。良かった」
 咲夜も、少しホッとして、自然な笑みを浮かべた。
 そして―――そこで、会話は、途切れた。

 何かが、言いたいのだけれど。
 何かを、言いたそうにしているのだけれど。
 何を言っていいのかわからず、暫し、2人して、視線を心もとなく泳がせた。

 “How white the ever constant moon... Take care, my foolish heart.
 There's a line between love and fascination... That's hard to see on an evening such as this―――…”

 さっき歌った『My Foolish Heart』の歌詞が、ふいに頭に浮かぶ。
 実際、こんな都会のど真ん中、ビルとビルの間から辛うじて顔を覗かせている月は、まるで真冬の月みたいに冴え冴えと明るい。全く―――こんなところで、変にシンクロしないで欲しい。苦々しい思いで、咲夜は視線を、奏の背後の月から引き剥がした。
 その引き剥がした視線が、奏の視線とぶつかってしまい―――心臓が、どくん、と音を立てた。

 「……」
 こんな夜は。
 区別が、つかなくなる。
 見えなくなる―――確かにある筈のボーダーラインが。

 「―――…咲夜、」
 名前と共に、一歩詰められた間合いに、咲夜は反射的に視線を逸らし、その場の空気を断ち切るように素早く告げた。
 「ごめん、もう、戻らないと」
 「え?」
 「ライブとライブの間に、打ち合わせすることになってるから。ジャズ・フェスタの件で」
 嘘ではない。でも、なんだか自分の声が、酷く言い訳がましく聞こえた。その焦燥感に、咲夜は再び奏を見上げ、ニッ、と笑ってみせた。
 「もう、時間ないからね。過去最大数の客を相手に歌うんだから、そろそろ気を引き締めないと」
 「あ…ああ、そうだな」
 言おうとした言葉を遮られ、ちょっと気が抜けたような声で相槌を打った奏だったが、すぐに気を取り直し、咲夜と同じようにニッ、と笑い返した。
 「張り切りすぎて、喉痛めるなよ」
 「う…、痛いとこ突くね」
 「じゃあな」
 ぽん、と咲夜の頭に一度手を乗せると、奏は踵を返し、駅の方へと歩き去った。
 その背中を見送りながら、咲夜は、これまで以上の自己嫌悪と、微かな罪悪感を覚えた。何故そんなものを覚えるのか―――その理由も、いまいちはっきりしないままに。

 ―――うん。聞かなくて、正解だった気がする。
 咲夜、という名前の後に、奏が何を言うつもりだったのか―――多分、奏自身もわかってなかったんじゃないだろうか。…なんだか、そんな気がした。


***


 翌日は、前日のすっきりとした晴天とはうって変わって、曇り空だった。
 雨が降らなきゃいいけど、と雲行きを心配しつつ咲夜がハンドルを握っていると、助手席に置いた携帯電話が軽快な着信音を奏でた。
 「…っと」
 この時間帯の電話は、大抵、会社からの業務連絡だ。サイドミラーを確認しつつ路肩に車を寄せた咲夜は、車が完全にストップすると同時に携帯の受話ボタンを押した。
 「はい、如月です」
 『あ、吉田です。お疲れ様』
 注文や客からの要望・クレームの対応をしている女性からだ。咲夜も「お疲れ様です」と返した。
 『如月さん、この後って1件メンテに寄って帰社予定ですよね』
 「えーと、そうですね」
 『実は、如月さんの担当外の地域から、如月さん名指しで注文が入ったんだけど―――どうします?』
 「は? 名指し?」
 しかも、担当外地域……妙な話だ。
 「あのー、どなたなんですか? そのお客様って」

 そして、返ってきた答えに―――咲夜は、思わず目を丸くした。

***

 「…カフェストックでーす」
 「あら、来たわね」
 お客様はそう言うと、ふふふ、と楽しげにほくそえんだ。

 さして広くないオフィスの中には、佐倉みなみ、ただ1人。ご丁寧なことに、人ばらいまでしてあるのだ。一体どうやって、事務の女の子を追い出したのだろう?
 仕事中だろうが、佐倉はデスクではなく、ミーティングテーブルを使っていた。その上には、書類やら雑誌やらが散乱している。が、明らかに、テーブルの一角が不自然に綺麗に空いている。コーヒーポットを置くつもりなのだろう。全く―――堂に入った完全犯罪だ。いや、犯罪ではないが。
 「コーヒー1ポット、お待たせしました」
 「ありがと。ご覧のとおり、あいにく1人なのよね。せっかくだから咲夜ちゃんも飲んで行かない?」
 ―――「あいにく1人」なのに、1ポット注文してる時点で、策略としか言いようがないじゃん…。
 少々呆れたものの、ここまであけすけにやられては、子供じみた真似はできない。観念した咲夜は、コーヒーセットをミーティングテーブルの上に置き、お客様の向かい側に腰掛けた。
 「おいしいのよねー、ここのコーヒー」
 上機嫌でそう言った佐倉は、さっそくコーヒーカップにポットのコーヒーを注いだ。…まあ、事実だ。手前味噌になるが、否定はしない。
 「社長自らコーヒー農場に視察に行って、豆を直輸入してるから」
 「ふーん。カフェストックの社長も、確か相当若くして起業した人よね。ベンチャーとしては成功してるわよねぇ…。興味あるわ」
 つくづく、佐倉という人は、ビジネスの話が好きらしい。佐倉さんなら社長と気が合いそうだな、なんて思い、咲夜はくすっと笑った。
 「それで? 佐倉さんは、なんだってコーヒー1ポットをご注文くださったんですか?」
 計略に合わせて、咲夜がわざと丁寧な言葉遣いをすると、コーヒーカップ片手に席に着いた佐倉は、チラリと目を上げ、意味深に笑った。
 「咲夜ちゃんに会いたかったからよ。でも、よく考えたら、あたしってば咲夜ちゃんの携帯番号、知らないのよね」
 「…それなら、奏に言ってくれりゃよかったのに…」
 「普段ならね。今回はちょっと、一宮君には内緒で会いたかったから」
 「奏には内緒で?」
 不審気に眉を寄せる咲夜に、佐倉は「とりあえず飲みましょ」と、自らのコーヒーにミルクを入れた。確かに―――せっかくのコーヒーが冷めてしまっては台無しだ。咲夜も、佐倉に注いでもらったコーヒーに、砂糖とミルクを控え目に入れた。

 ―――まさか、何か気づいたとか、そういうんじゃないよね…?
 コーヒーを掻き混ぜつつ、ちょっと不安になる。
 ここ最近の咲夜は、佐倉と奏の関係を考えると、何故か異様な不快感を覚えるようになってしまったのだが―――そんなことは、佐倉は勿論のこと、奏だって知る筈もない。咲夜の心の内だけの、あまり人には知られたくない負の感情だ。
 でも、このタイミングで、唐突すぎるご招待だ。やはり因果関係があるように感じずにはいられない。コーヒーカップを口に運びながら、咲夜は警戒したように、僅かに肩に力を入れていた。

 「…実は、一宮君のことなんだけど」
 カチャン、とカップを置くと、佐倉はそう切り出した。
 「もしかして咲夜ちゃん、一宮君と喧嘩でもした?」
 「は?」
 キョトン、と咲夜が目を丸くすると、佐倉は、意外なほど真剣な眼差しで咲夜をじっと見据えた。
 「一昨日の朝も、来月の仕事のオファーで会ったけど―――仕事の話してる間はまぁマシだけど、ちょっとでも間ができると、途端に心ここにあらず、ボーッとしたまま、難しそうに眉間に皺寄せちゃってね。店でもあの調子なんじゃないかな」
 「……」
 「本音を言わせてもらえば、ここ数ヶ月じゃ最大級の落ち込み方だと思うわよ、今の一宮君て。…そろそろ、仕事に支障をきたす段階かも。ああ見えて結構、気に病むと地球の裏側まで落ち込むタイプだから」
 「…それが、私のせいだ、ってこと?」
 「それ位しか、思い浮かばないってことよ」
 そう言って、佐倉はずい、と身を乗り出した。
 「前回、一宮君がミョーな状態になったのも、咲夜ちゃんと喧嘩してた時だったみたいだし―――あの時も、集中力がボロボロになって、普段なら一発で頭に入るような段取りを忘れちゃったり、ミスしたり……そりゃもう悲惨だったのよ。ゴールデンウィーク明けにはショーも待ってるし、その先にはメイクの仕事も控えてるし、あの時みたいな状態になられちゃうと、こっちも困る訳よ。わかってくれる?」
 「わ…わかります。お察しします。はい」
 一気に畳み掛けられ、気圧されたように何故か丁寧語で答えてしまった。
 というか…初耳だった。以前、咲夜と険悪な状態になった時、奏がそこまでボロボロになっていたなんて。自分以上にダメージを受けていたらしい奏の様子が目に浮かび、咲夜は、胸がズキリと鈍く痛むのを感じた。
 「今年の誕生日でモデル廃業するなら、そろそろ“最後の仕事”も本腰入れて決めてかなきゃいけないしね。…ねえ、咲夜ちゃん。もし喧嘩してるとか気まずくなってるとかあるなら、ちょっとだけ、協力してくれない?」
 「…そう言われても…別に、喧嘩してる訳じゃないし」
 「じゃ、ちょっと冷たい態度取ってるとかは?」
 そんなつもりは、ないけれど。
 …でも、何がなんだかわからない状態の奏からすれば、そう思えたのかもしれない。まさか咲夜が、奏を“男”と意識してしまうのが怖くて逃げている、なんて、奏には思いもよらないことなのだろうし。
 「…ちょっと、色々行き違いがあったのは、事実だけど」
 困ったように眉根を寄せた咲夜は、小さくため息をつき、コーヒーカップをカタン、と置いた。
 「昨日、結構踏み込んで話し合ったから、多分、大丈夫だと思うよ」
 「あら、そうなの?」
 「うん。まだ多少、奏も納得いってない部分あるかもしれないけど―――ひとまず、一番引っかかってた話は、決着ついたから」
 まさかそれが「経緯も理由も不明なキス」の件だなどとは、佐倉には言えない。非常に曖昧な表現になってしまうが、仕方ないだろう。
 「ふーん…なんだかわからないけど、じゃあ、あたしの呼び出しは間抜けなタイミングだった訳ね」
 なぁんだ、とつまらなそうに呟いた佐倉は、ちょっと疲れたように、椅子の背もたれに深く沈みこんだ。
 「ま、あたしがアレコレ言わなくても、一宮君を操縦するのは、咲夜ちゃんなら簡単よね。なにせ、全幅の信頼を置いてる“親友”だもの。よしよし、って頭撫でてあげれば、尻尾振って喜んじゃうんじゃない?」
 「ハ…ハハハ、き、きついこと言うね、佐倉さん」
 ―――でも、そうかも。
 ちょっと一線を引いた時の、あの寂しそうな、しゅんとした様子。そして、遊びに行こうか、なんて提案した時の、あのぶんぶん尻尾を振っているような嬉しそうな顔。…あれだけノーブルな顔をしておきながら、奏の喜怒哀楽の表現は、情けないほどに犬っぽい。勿論―――それが、奏の魅力なのだけれど。
 …だからこそ、咲夜も、どうすればいいかわからなくなる時が、あるのだけれど。
 「ごめんね、お節介で呼び出したりして」
 少しすまなそうにそう言うと、佐倉は席を立った。
 「ひとまず、ゆっくりコーヒーブレイクしてって」
 「ん、じゃあ、お言葉に甘えて」
 仕事中だが、この後に控えているユーザーもいないことだし―――咲夜は佐倉に笑顔を返し、再びコーヒーカップに口をつけた。

 佐倉は、何か仕事を中断していたのか、ツカツカとオフィス中を歩き回り、FAXを送ったり、書類を確認したりしだした。時折テーブルに戻ってはコーヒーを一口飲む―――そんな姿は、いかにも佐倉らしい、仕事一筋のかっこいい女、といった感じだ。
 ―――…良かった。
 佐倉の姿を目で追いつつ、咲夜は内心、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 こうして佐倉を見ていても、湧いてくる感情は、以前と何ら変わらない。サバサバしていて、鋭くて、姉御肌で頼り甲斐がある、大人の女性―――佐倉はやっぱり、好ましい女性の1人だ。
 今、佐倉に対して、不愉快な感情や敵愾心は、全く起きない。あれほどひとり悶々と悩んでいたのが嘘のようだ。
 ―――うん…どうかしてたんだ、やっぱり。全部、一時の気の迷いだったんだ。
 本当に? と問いかけるもう1人の自分を捻じ伏せ、咲夜はそう、自分を納得させた。

 「佐倉さん、ここにある雑誌、見せてもらってもいい?」
 「ご自由にどうぞー」
 手持ち無沙汰なので、一番近くにあった雑誌を貸してもらった。
 普段、絶対読むことのない類の、女性向けビジネス誌―――逆に、佐倉がいかにも読みそうな雑誌だ。くすっと笑い、咲夜は雑誌をペラペラとめくり始めた。
 が、さほど分厚くもない雑誌の中ほどまでめくった時。
 咲夜の手がピタリと止まり―――表情が、凍りついた。

 「―――…」

 …こ…れは……。

 心臓の辺りが、冷たくなる。
 見出しの文字と、掲載された1枚の写真が、頭の中で空回りする。
 これは―――これは、一体、何? どういうこと? ただの偶然? それとも―――…。

 「あらら、そんな記事読んでるの、咲夜ちゃん」
 佐倉の声に、ハッと我に返る。
 どうやら佐倉は、咲夜が熱心にその記事を読んでいると思って、どんな記事かと覗き込んだらしい。見上げると、佐倉は記事に目を落としていた。至って普通の顔で―――むしろ、笑顔で。

 『“YANAGI”の新ブランド・“G.V.B.”―――その戦略を聞く』

 そう題された記事には、“G.V.B.”のお披露目ファッションショーの写真と一緒に、1人の人物の写真が掲載されていた。
 “G.V.B.”のデザイン室、チーフデザイナーという肩書きを伴って。

 「デザイナーにしとくにはもったいない、美人でしょ」
 まるで自分のことのように笑った佐倉は、指先で写真を軽く叩いた。
 「…もしかして、佐倉さんの知り合い?」
 上ずらないよう細心の注意をはらいつつ、訊ねる。まさか―――そう思って訊ねた質問に、返ってきた答えは、実にシンプルだった。
 「そうよ。前、言ったでしょ? あたしの知り合いが“YANAGI”にいる、って」
 「……」

 『ご心配ありがと。でも、大丈夫よ。柳が多少“女”として興味を持ってたって、実際の行動に出るとは思えないわ』
 『柳には、超のつく美人の、ながーい付き合いの女性がいるのよ。しかもその子、あたしの古い知り合いなの』
 『柳からすれば、やっとの思いで口説き落とした獲物よ? その知り合いに手なんか出して、全ておじゃんにする筈ないでしょ』

 …じゃあ。
 じゃあ、この、人は。


 “G.V.B.”デザイン室 チーフデザイナー・大原香苗(カナエ)

 その文字の上で、静かに微笑んでいる、その人は―――昔、一度だけ見た、拓海の恋人だった。


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