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「咲夜」
「……」
「おい、咲夜」
パチン、と、咲夜の目の前で指を弾く。
それで初めて、自分がぼんやりしていたことに気づいたのだろう。咲夜は足を止め、隣を歩く奏を見上げた。
「あ…っ、ご、ごめん。何?」
「何、じゃないっつーの」
心配7割、いささか面白くない気分3割、という感じで、奏は咲夜を軽く睨んだ。
「そのまま行くと、電柱ぶつかるぞ」
「……」
言われて、視線を前に向ければ―――確かに、真っ直ぐ歩けば電柱に激突確実だ。
「ハ…ハハハ、ほんとだ」
「大丈夫か、ほんとに。心ここにあらずになるほど、根詰めすぎなんじゃないか?」
「そんなことないよ。逆に“こんな程度で大丈夫かな”って位で」
気を取り直したように笑った咲夜は、そう言って、先ほどまでとは微妙にずれたコース取りで歩き出した。実際疲れ果てている訳ではないらしく、その足取りはいたって普通だ。
「“Blue Skies”は、いいんだよね。日頃から歌ってるし、私も一成も得意な曲だから。“What's New”も、一成やヨッシーと組み始めた当初から、しょっちゅう歌ってるしさ。ただ―――最後の1曲が、ねぇ」
「ビートルズの“Let it be”だっけ」
「うん。つい最近までアレンジにアレンジ重ねてたし、客の前ではまだ歌ったことないから、何回練習やっても安心できないよなー」
―――こうやって話してる時は、普通なんだよな。
咲夜の話に相槌を打ちつつ、奏はやっぱり、少し心配そうに咲夜を見てしまう。その位、今日の咲夜は、天気予報風に言うなら「普通、一時心ここにあらず、後もの凄く変」だった。
祝杯をあげる約束をした、日曜日。
ちょっと早めに出るか、なんて話をしていたのに、奏はゴールデンウィーク明けにあるショーの緊急ミーティング、咲夜は来週末に迫ったジャズ・フェスタのために一成と最終調整、とそれぞれに予定が入ってしまい、結局は夕方に待ち合わせることになった。
食事をしながら軽く飲み、どういう流れからか、とあるラジオ番組のパーソナリティについて、妙に熱く討論してしまった。2人とも朝大体聞いている番組なので、いつ頃あったあのネタは良かったとか、あの時の1分間近くの沈黙は何だったんだろうとか、やたらマニアックな話になっていたが―――そういうくだらないネタでバカ笑いできる位、咲夜は「普通」だった。
ただ、会話が途切れた時……こういう場合、大抵飲み食いに専念してしまう奏が、ふと「妙に咲夜が大人しいな」と思って顔を上げると―――咲夜は、やたら真剣な、思いつめたような表情で黙っていた。じっと1点を見つめ、箸を動かすことも忘れて。
当然「どうしたんだ」と訊く。けれど咲夜は、我に返れば「何でもないよ」と、本当に何でもないように言う。1回目は何でもないんだな、と思えることも、2回3回と繰り返されれば、嘘であることはバレバレだ。
だから、奏も、またこう訊くしかなくなる。
「…で、結局、何」
ぼそっ、と呟くように奏が訊くと、咲夜は、まだその話が続いてたのか、と言わんばかりの顔をした。
「だから、何でもないって」
「バカ、今更“何でもない”が通用するかっての。お前、これが彼氏とのデートとかだったら、相手、完全に怒るぞ。オレといるのがそんなにつまらないのか、って」
「―――…」
咲夜が、パチパチ、と数度瞬きを繰り返す。
そして、少し気まずそうな顔で視線を逸らすと、
「…ごめん」
ぽつりと、謝った。
―――いや、素直に謝られると、それも困るんだけど。
なんだか、自分が機嫌を損ねているのを主張したみたいで、にわかに焦りがこみあげてくる。
そもそも、このシチュエーションを恋人同士のデートに喩えたのも迂闊だった。いや、ありがちな喩えなのかもしれないが……少なくとも今の奏には、もの凄くまずい喩え方だ。ここ2日ほど―――更にはここ1ヶ月ほど―――自分で自分を持て余して七転八倒した結果、ようやく自分の中で形づくられた答えが、かなり絶望的な答えだっただけに。
居心地の悪くなった奏は、何か上手いフォローはないものか、と必死に言葉を探した。
でも、結局、何もいい言葉なんて思い浮かばなくて。
「…もしも、だけどさ」
暫し、黙ったまま歩き続けた挙句、奏はぽつぽつと話し出した。
「もし、咲夜が何か悩んでたり問題抱えたりするなら―――でもって、オレに話しても問題ないような話なら……話してみろよ。いや、話してくれよ」
「……」
「オレじゃ、何の力にもならないかもしれないけど、さ。…でも、前、言っただろ?」
「前?」
「藤堂とのこと、後から知った時にさ。次、何かあったら、絶対オレに相談しろよ、って」
咲夜の横顔が、微かに、反応を示した。
“わかった”―――そう答えたことを、思い出したのだろう。奏の方を流し見た咲夜の目は、僅かに動揺していた。
これで、借りがひとつ―――あの時、そう思った。
明日美を傷つけたことに落ち込み、過去の罪を忘れられずにボロボロになっていた時、重たすぎる話を黙って聞いてくれたのは、咲夜だった。咲夜がたった1人で、一成という絶対に切ることのできない相手との関係に悩んでいた時、自分は、咲夜に甘えて、随分助けられた。
だから今度は、自分が助ける。次に咲夜が窮地に立たされたり思い悩んだ時は、誰よりもまず自分が力にならなくては―――あの時、そう自分に誓った。
「…だから、ダメもとで、話してみろよ」
足を止め、奏は咲夜の腕を軽く握った。それで咲夜も、一緒に立ち止まった。
「少なくともオレは、咲夜に話聞いてもらっただけで、随分気が楽になったぜ? 解決しなくても、話した分楽になるなら、とりあえず話してみろよ」
迷うように、咲夜の目が揺らぐ。
黙ったまま、暫く考え込んだ咲夜は―――やがて、小さく息をつくと、夜風に乱れた髪を掻き上げた。
「―――別に、悩んでたり窮地に立ってる訳じゃないんだ。ただ……引っかかってるだけで」
「引っかかってる?」
「奏、」
目を上げた咲夜は、覚悟を決めたように、真っ直ぐに奏の目を見据え返した。
「本屋、付き合ってくれる?」
***
咲夜が本屋で購入したのは、普段咲夜が読んでいるとは到底思えない、女性向けのビジネス雑誌だった。
すぐ近くのカフェに入ったものの、前の店でそれなりに飲んでしまっていたので、2人はカフェラテとミルクティという、酷くマイルドな注文をした。
「ちょっと、待って。暫く考えをまとめるから」と言うと、咲夜は注文した飲み物が来るまで、黙って雑誌のあるページを熱心に読んでいた。向かい側に座っているので、どんな記事を読んでいるかは、奏にはわからない。仕方なく、唯一見ることのできる雑誌の表紙と裏表紙を、見るともなく眺め続けた。
「…うーん…」
カフェラテが運ばれてきて、店員が姿を消すと、咲夜はやっと雑誌を置き、微妙な表情で首を捻った。
「やっぱり、引っかかるなぁ」
「…って、その雑誌の記事に引っかかってたのか?」
「うん」
そう言うと、咲夜は雑誌を奏の側から読めるよう、テーブルの上で回転させた。
「この記事」
トン、と咲夜が指差した記事は―――奏もよく知るファッションブランドの記事だった。
『“YANAGI”の新ブランド・“G.V.B.”―――その戦略を聞く』
「これが、何」
「この女の人だけど―――奏、見覚えない?」
数枚ある写真のうち1枚を指差し、咲夜が少し身を乗り出す。そこには、クリーム色の開襟のブラウス姿の女性が写っていた。肩まで伸ばした栗色の髪を内巻きにした、かなり目立つ顔立ちの女性だ。美人―――いや、確かに整ってはいるが、むしろ愛らしい顔立ちと言った方がいいだろう。年齢は測り難いが、大体30前後ではないだろうか。
「いや…、オレは、見覚えないな」
「…そっか…」
「誰だよ、この人」
記事から目を離し、眉をひそめる。すると咲夜は、少し硬い表情で、一音ずつ切るみたいに答えた。
「拓海の、元、彼女」
「……」
―――麻生さんの……。
ずっと昔、偶然、咲夜が1度だけ目撃した女性―――拓海の素顔をよく知る咲夜が、唯一、拓海の恋人だと直感できた女性。そして、拓海を今の拓海に変えた原因かもしれない、と咲夜が思っている女性。
ごくん、と唾を飲み込み、もう一度写真に視線を落とす。確かに……勝ち目ゼロと咲夜が思うのも無理はないな、と思うほどの美女ではある。でも、この女と拓海の間にそんな甘い時間があったなんて、なんだか奏にはピンと来なかった。
「それって、高校の時にたまたま見かけた女だよな」
念のため確認すると、咲夜ははっきりと頷いた。
「ちょっと雰囲気変わったけど、間違いないよ。私、今年に入ってから一度、偶然道を歩いてるこの人見たことあるし……その時の髪型とかが、ほぼこの写真と同じだから」
「ふぅん…。この女が、麻生さんと、ねぇ…」
「…一昨日の金曜日にさ。ちょっと用事あって、佐倉さんの事務所に行ったんだ。そこで偶然、この雑誌記事見ちゃって―――びっくりした。“G.V.B.”絡みの記事で、まさかこの人の顔見ることになるなんて。しかも―――…」
そこで一旦言葉を切った咲夜は、少し力ない声になった。
「…しかも、佐倉さんの友達だなんて」
「……」
思わぬ話の展開に、奏は驚き、目を見張った。
「佐倉さん、の?」
「…うん」
「麻生さんの元彼女が、佐倉さんの友達?」
「…うん。そう言ってた。元は同じモデル事務所のモデル仲間で、今は親交はないけど、昔は大親友だったって。あんまりしつこく訊くのも変だから、それしか聞き出せなかったけど」
「……」
“G.V.B.”。
“大親友”。
―――…まさか。
ある可能性が、奏の頭の中にひらめいた。
慌てて、写真に目を戻す。写真ばかりに注視していたので気づかなかったが、写真の下には、この人物の説明がちゃんと入っていた。
“G.V.B.”デザイン室 チーフデザイナー・大原香苗。
「…カナエ―――…」
『…君はまだ、自分の立場を理解していないようだね。君が想うほど、カナエは君を想ってはいないんだよ―――昔も、今もね』
『勝手なこと、言わないで。心弱りしていたカナエの弱みにつけこんだあなたに、カナエの気持ちをどうこう言われたくないわよ』
『…全く…なんだって君は、そうも簡単にカナエを信用するんだろうな』
『カナエよりあなたが信用できる筈もないでしょう?』
『そうかい? 少なくともビジネスの上では、君と僕は最も信頼しあってるパートナーじゃないか? カナエだって、想像すらしていないだろう―――彼女が得意満面で発表した“G.V.B.”も、君と僕なしには日の目を見ることすらなかった、なんて事実』
この写真と、あの時の会話が、繋がった。
“カナエ”―――謎のキーワード。あのパーティーの日、偶然立ち聞きしてしまった柳と佐倉の会話の中で、何度となく出てきた名前だ。あの“カナエ”がこの大原香苗のことであるなら……理解、できる。柳が佐倉を“G.V.B.”のパーティーに招待したのは、“G.V.B.”がただの“YANAGI”の新ブランドではなく、大原香苗を―――佐倉の元親友をチーフデザイナーとしたブランドだからだと。
…いや。だとしたら。
だとしたら―――それならそれで、また別に、疑問が湧いてくる。柳のセリフも、佐倉のセリフも、謎だらけだ。
「な…何? なんか知ってるの? 奏」
奏の様子に何かを感じたのだろう。咲夜が、探るような真剣な目で奏を真っ直ぐに見据えてきた。
「知ってるなら、教えてよ。どうしても引っかかる―――だって、“G.V.B.”だよ? 拓海がCM曲を担当した……ううん、柳社長が直々に拓海にCM曲を依頼してきた“G.V.B.”だよ? そのチーフデザイナーが元彼女だなんて、そんな偶然て、普通、ある?」
「……だよな」
この前からずっと引っかかっている、佐倉のセリフ。あれを考える限り―――そんなこと、別に気にすることないじゃん、とは、奏には言えない。
やはり、咲夜には全部話した方がいいだろう。奏はミルクティーを一口飲み、意を決した。
「実はオレ、“G.V.B.”のパーティーで、ちょっと妙な話を偶然聞いちまったんだ」
「妙な話?」
「ああ。でも、オレ自身に何か関係あるか、って言われたら全然関係ない話だし、多分咲夜自身にも関係ないから、咲夜に話すかどうか、ちょっと迷ってたんだけど―――香苗、って人が麻生さんの元カノなら、やっぱ、ちょっと引っかかる」
「な…に?」
「柳社長と、佐倉さんの、立ち話」
「……」
「カナエ、って名前が、何度も出てきた。佐倉さんは、カナエが来てると思って、あのパーティーに出席したみたいだった。その時は誰のことかわからなかったけど、多分…この人、だよな。でも、カナエは来てなかった―――その理由を、柳は、佐倉さんをパーティーに招待したことをうっかりカナエに喋ってしまったからだ、って言ってた」
「え?」
咲夜の眉が、怪訝そうにひそめられる。
「だって、香苗さんは、佐倉さんの元親友じゃない?」
「…それは、オレもよくわからないけど。とにかく、柳が言うには、佐倉さんがカナエを想うほど、カナエは佐倉さんを想ってない、って言ってた。で、佐倉さんの方は柳に向かって、心弱りしてたカナエに付け込んだ奴にそんなことは言われたくない、みたいな反応してた」
「……」
「それと―――これは、どういう意味か微妙だけど、“G.V.B.”は、柳と佐倉さんがいたから日の目を見た、って。カナエはそれを知らないような言い方だった。柳の言葉を信じるなら、佐倉さんは親友と思ってるけど、カナエって人の方はむしろ嫌ってたり憎んでたりするんじゃないか、って、あの時感じた。それに、佐倉さんだって咲夜に“元”親友って説明したんだろ?」
「…それは…そうだけど」
ますます眉を寄せた咲夜は、何事かを深く考え込むように、口の辺りに手を置き、暫し黙り込んだ。が、やがて、目だけを上げ、複雑そうな表情で奏を見返した。
「―――心弱りしてた香苗さんに、柳さんが付け込んだ、って言ったよね」
「ああ、うん。細かいセリフ忘れたけど、そういう意味だった」
「…私さぁ…前、佐倉さんと柳さんのこと心配して、佐倉さんに色々訊いたことあったんだけど―――佐倉さん、言ったんだよね。柳さんが自分に興味を持ってるのは知ってるけど、大丈夫。柳さんには、何度も口説き落としてゲットした恋人がいて、しかもそれは、佐倉さんの知人だ、って」
「……えっ」
「彼女の知りあいである自分に手を出す訳がない、って。その時は、ふーん、て思ったけど……その“知人”がこの人だ、ってことは―――…」
つまり。
麻生拓海の元彼女、イコール、柳社長の現彼女。
「…マジかよ…」
一気に、話がディープな色合いになってくる。もはや、“G.V.B.”のCM曲を柳が拓海に依頼した背景に、この件が絡んでいないなどとは、どう楽観視しても思えない。
「拓海…知ってるのかな、このこと」
不安げな目になった咲夜は、ポツリとそう呟いて、大原香苗の写真を指先で撫でた。
「…どうだろう。佐倉さんも、咲夜と同じこと、柳に訊いてたけど―――柳のやつ、適当に誤魔化しやがった。本人に訊けとかさ」
「訊いたのかな」
「訊くような付き合い、あるのかよ。あの2人」
さほど親しくない印象を持っていた奏は、咲夜にそう訊ねた。が、咲夜はそれには答えず、ただ心配そうな顔で写真を見つめていた。
確かに、佐倉と拓海は、知りあいだ。佐倉の大学時代の親友と組んでジャズ・バーで演奏していただけじゃなく―――佐倉の仕事上の親友と交際していた、なんて事実まで出てきてしまったのだから、当初、奏が感じていたより、知人度は高いのかもしれない。
その割に、拓海の話など、佐倉の口からほとんど出てきたことはない。前にライブに誘った時だって、「あんまりいい噂を聞かないから」と渋い顔をしていた。その言い方は、直接は拓海をほとんど知らないような口ぶりだった。人間関係図ではかなり近い位置にあるらしいが、客観的に見て、あの2人を結びつけるようなエピソードは―――…。
―――ん?
ちょっと、待て。そう言えば……。
「…知らないなら、知らないままにした方が、いいのかな」
あることを思い出しかけた奏は、咲夜の声で、それを遮られた。
咲夜は、まだじっと写真を見つめていた。知ってしまった事実を、自分がどう受け止め、どう行動すればいいか、ひたすら模索しているかのように。
「目だって派手な生活してた訳じゃなかった拓海を、“日替わりランチ”状態に変えちゃったかもしれない相手だよ? それに柳さん、心弱りしてる香苗さんに付け込んだ、ってことは、拓海と別れた香苗さんを、失恋の痛手に乗じて手に入れちゃった、ってことじゃない? そんな奴からの依頼で、しかもその裏に元彼女が絡んでる、なんて知ったら……拓海、ショック受けるかな」
「…もう知ってる可能性だって、あるだろ? それに、知らなかったにしても、もう10年近く前の話だし」
「…10年、かぁ…」
はぁっ、とため息をついた咲夜は、カフェラテを一口飲んだ。
「それだけの長い期間、ずっと忘れられなかった人なら……会わせてあげたいよなぁ」
「……」
「逆に、それだけの長い期間、ずっと憎み続けてる相手なら―――もしそれを承知で、拓海にこの仕事を依頼したんだったら……許せない。絶対許さない。柳さんのことは」
テーブルの上の1点を見つめ、目つきを険しくする咲夜を見て、奏は、僅かに眉を寄せ、気づかれない程度に唇を噛んだ。
―――咲夜…。
お前、どこまでも、あいつの気持ちしか考えないんだな。
どうして自分の気持ちは蔑ろにできるんだ? 同じ10年、あいつだけ見つめ続けた自分の気持ちは、あいつのカナエに対する気持ちの前では、もうどうでもいいのか?
どうでも、よくなる位―――麻生拓海が、好きなのか。
「…なんで…」
「えっ?」
無意識のうちに呟いた言葉は、咲夜にも聞こえてしまったらしい。不思議そうな顔をする咲夜に、奏は僅かに笑みを返し、なんでもない、と言った。
「それで―――咲夜は、どうしたい? 麻生さんにこの記事、見せるか?」
「…まだ、迷ってる。拓海の気持ち次第で、知らない方がマシな可能性と、知った方がいい可能性、両方あるし」
「そうじゃねーよっ」
苛立ったように咲夜の言葉を遮った奏は、邪魔だ、とでも言わんばかりに、テーブルの上の雑誌を横に押しのけた。
「麻生さんの気持ちなんか、どうでもいいんだよ。“お前が”どうしたいか、ってことだよ」
「……」
「知りたいんだろ? 何が麻生さんを変えちまったのか。しかも咲夜は、そのきっかけがこの女なんじゃないか、って思ってるんだろ? いいのかよ、引っかかったまんま、ずーっと麻生さんにも誰にも真相訊かないで―――耐えられるか? そんな状態」
「…でも、私が知っても、どうなるもんでもないよ? ただの興味本位って言われたら、それまでなんじゃない?」
「興味本位で、何が悪いんだよ」
「……」
「訊いていいことか、悪いことかすら、オレたちじゃ判断つかねーことだろ、こんなの。だったら、知りたいなら訊く、でいいだろ。なんでお前が1人で悩まなきゃならないんだよ」
苛立ちも手伝って、酷く大胆不敵な物言いになってしまったが―――それが奏の本音だった。
咲夜には、興味本位であれ何であれ、訊く権利がある。拓海が変わってしまったことで、一番心を痛め続けたのは、間違いなく咲夜だ。自分の気持ちを秘めている分、痛みをも隠さねばならず、一番辛い思いをした筈だ。だから、拓海を変えた女について、咲夜は訊く権利がある―――拓海にでも、この女にでも、誰にでも。それが、奏の考えだ。
奏の考え方に、暫し呆気にとられたような顔をしていた咲夜だったが、ある程度、同意できる部分もあったのだろう。カフェラテのカップをじっと見つめた後、ゆっくりと目を上げ、口を開いた。
「拓海は、もしかしたら、話したがらないかも。もしそうだったら…」
曖昧に消えた言葉の続きは、奏にも、わかっていた。
偽善かもしれない。ある意味滑稽だと、自分でも思う。けれど―――奏はニッ、と笑ってみせた。
「―――任せろ。オレが一緒に訊いてやるよ、佐倉さんに」
***
そろそろ深夜と呼べる時間帯だ。非常識なのはわかっているが、その気になっているうちに行動に移さなくては、また拓海の気持ちをあれこれ考えて、足を引っ込めてしまうかもしれない。咲夜は、即、行動に移した。
呼び鈴を鳴らし、暫く待つ。
「……」
―――留守かな。
拓海の部屋から、人の気配は感じられない。もう1回、呼び鈴を押してみたが、反応はなかった。
「…どうする?」
不在、という結果は想定外だったのか、奏が、ちょっと困ったような顔で咲夜を見下ろした。
咲夜だって、不在ならどうするか、というところまで、頭は回っていなかった。どうしよう―――暫し考えこんだ咲夜は、いいことを思いついた。
バッグの中から、折り畳んだ楽譜のコピーを取り出し、その1枚の裏側にボールペンで字を綴る。
『拓海へ
どうしても気になる記事を見つけてしまったので、問題の雑誌を置いていきます。
この大原香苗さんて、拓海の昔の恋人だよね?
ごめん。ずっと黙ってたけど、1回だけ見たことあるんだ。高校1年の時、2人で歩いてるところを。
元恋人がチーフデザイナー務めてるブランドのCM曲を担当するなんて、なんか偶然とは思えなくて。
柳さんが何故拓海に依頼したのか、拓海もこのことを了解した上なのか、心配になって伝えに
来たけど、拓海、留守みたいだから、帰ります。
もしこの件で気を悪くしたら、ごめん。ひとまず、この手紙読んだら、昼間でもいいので電話下さい。
4.27 22:50 咲夜』
「いいのか? その楽譜」
「うん。もう、とっくの昔に暗譜してるけど、念のために持ち歩いてるだけだから」
そう言って咲夜は、楽譜を問題の記事のページに挟み、雑誌を本屋の袋に戻して、ドアノブに掛けておいた。
「よし…と。じゃ、帰ろう」
「ああ。…でも、電話してくるかな。麻生さん」
踵を返しつつも、ドアを振り返り、奏がボソリと呟く。
「んー…、どうだろうね」
これがどうでもいい話なら笑いながら電話してくるだろうし、これが深刻なニュースなら…電話、してこない気がする。
「でも、連絡の有無も、リアクションの一種だから。ボールはこっちから投げた。あとは―――拓海に託すしかないよ」
咲夜が、比較的あっさりした口調でそう言うと、奏は微かに笑みを見せ、「そうだな」と言ってくれた。
奏がいてくれてよかった―――帰り道を一緒に歩きながら、咲夜は心から、そう思った。
拓海のことになると、咲夜はどうしても臆病になる。どんなに気になっていても、貪欲に真実を求めるだけの勇気が持てない。多分奏がああやってきっぱり言ってくれなければ、今もまだ、中途半端に知ってしまった情報のせいで、うじうじと悩んでいただろう。
真実は、やっぱりわからないままかもしれない。でも―――少なくとも、記事のことを拓海に知らせることだけは、できた。それを拓海がどう感じるかは、別として……隠していていいんだろうか、黙っていていいんだろうか、という迷いや罪悪感は持たずにすんだ。それで、ひとまずは十分だ。
いつだって拓海は、気楽そうに生きていた。
たくさんの女の間を、自由気ままに渡り歩いて……時にはそれを楽しんでいるようにすら見えた。咲夜も昔は、そう思っていた。
でも―――時々、拓海は、苦しそうだったから。バレンタインデーの日、眠れないと言ってすがってきた時のように、時々……苦しくて、苦しくて、何かから逃げたがってるみたいに、咲夜には見えていたから。だから……見過ごしには、できない。大原香苗と、“G.V.B.”の繋がりは。
今、拓海にとって香苗が、一番美しい思い出であっても、逆に心に影を落とす最悪の記憶であっても―――香苗の関与を知らずに“G.V.B.”の仕事を引き受けたのなら、やっぱり、教えて正解のような気がする。柳が、何も知らない拓海を眺めてひとりほくそえんでる姿を想像したら、強烈に腹が立つし、絶対許せないと思うから。
―――まあ、拓海を変えちゃったのが香苗さんだって証拠は、どこにもないんだけどさ。
これで、香苗が拓海にとって、記憶の片隅にしか残っていないレベルの存在だったら、結構お笑いものだ。でも……それならそれで、構わない。どうなんだろう、と気を揉み続けるよりは。
「もし連絡なかったら、とりあえず明日の夜、佐倉さんとこに行ってみるか」
信号待ちで立ち止まった時、そう言って奏が咲夜を見下ろした。
「うん。…ごめん。奏にまで、こんなことで迷惑かけて」
「謝るなよ。オレが好きでやってんだから」
「じゃあ―――ありがとう」
咲夜が一言、そう礼を述べると―――奏は、ちょっと落ち着かない様子で視線を泳がせ、そっぽを向いてしまった。照れているのだろうか、その様子に、咲夜は微笑ましくなってくすっと笑った。
くすっと笑いながら―――目だけ、少し悲しげに細めた。
奏の友情に、咲夜は、心から感謝している。それは、嘘ではない。
でも…友情に感謝する一方で―――友情に、胸が、痛んだ。奏の友情を感じれば感じるほどに、それを逸脱しつつある自分を、責めずにはいられなくて。
航太郎とのことを疑われた時より、一成とのことで苦しんだ時より―――咲夜は、今ほど、自分が女であることを呪ったことはなかった。
***
結局、翌日の夕方まで待っても、拓海から咲夜へ連絡は来なかった。
全てのライブスケジュールが簡単に把握できてしまう拓海の立場では、昨日も今日も東京にいるのは、咲夜にもわかっていた。外泊したとしても、絶対に一度は部屋に戻ってくる拓海なので、あの雑誌を見ていない、ということは考え難かった。
どうやら拓海は、咲夜に話す気はないらしい―――そう判断した2人は、佐倉のもとを訪ねることにした。
これで何もわからなかったら、諦めよう。香苗はただの元カノで、咲夜が感じたようなことは何も―――香苗のことを拓海が引きずっているとか、拓海が自暴自棄な生活を始めてしまったのは香苗が原因だとか、そういうことは何もなかったのだ、と思うことにしよう。…そういう覚悟で。
「お前んとこ、オフィス相手の仕事なのに、今日も休みじゃないんだな」
日曜日と“みどりの日”に挟まれた月曜日だ。大企業なんてみんな連休にしているのではなかろうか。商売相手がいないんじゃ、営業してる意味あるのか? と疑問に思った奏だが、現実はそうでもないらしい。
「意外とゴールデンウィークはカレンダー通り、って会社、多いんだよね。だからうちも、カレンダー通り。ジャズ・フェスタが、連休前提の平日じゃなくて、ホント良かったよ」
「だよなぁ…」
かく言う奏も、ゴールデンウィークだからといって、ずっと休みな訳ではない。それどころか、シフトを組んで店は通常営業、普段の週と変わらず日曜だけが休みだ。奏は、このところモデル業の方の打ち合わせや何やで休日が何度も潰れたので、明日と土曜は休みにしてもらっているが、一番働き者のテンなど、「ウチ、彼氏もおらんしずーっと出勤でええよ」と太っ腹なところを見せ、完全に通常勤務である。
休みに関するささやかな文句を言っているうちに、佐倉の事務所が入っているビルに到着した。
「佐倉さんて、この時間でも、事務所にいるの?」
軽く夕食を食べたので、現在の時刻は、9時を回っている。咲夜が少し眉をひそめて訊ねると、奏は自信あり気に頷いた。
「昼間、“もしかしたら9時か10時位に、そっち寄るかも”って念のため電話入れたら、佐倉さんもその位まではいるから、連休明けの仕事に関して何かあればその時に、って言われた」
「用意周到だね、珍しく」
「なんだよ、珍しくって」
お互い、軽く小突きあいつつ、2人は佐倉の事務所へと向かった。
ビル内は、連休の谷間のせいか、普段のこの時間より静かだった。小さな事務所がいくつも入っているビルだが、佐倉の事務所と同じフロアにある会社の中で、この時間でも灯りの点いている所はほとんどなさそうだ。
あまりに静かだと、こちらまで声をたててはいけない気がしてくる。奏も咲夜も、無言のまま、廊下を進んだ。
だが―――…。
「……!」
何か、女性の声が、聞こえた。
思わず立ち止まった2人は、ハッと息を詰めた。あと佐倉の事務所まで、10歩ほど―――そして声は、まさに10歩ほど先から聞こえたような気がしたから。
顔を見合わせた2人は、再びドアの方に目を向けた。ほんの少しだけ、内側に向かって開いたドア。その隙間からは、確かに灯りが漏れている。佐倉がまだ居残っている証拠だ。
電話でもしているのだろうか―――そう思いつつ、2人揃って、更に数歩近づく。が、まるでそれを制するように、鋭い佐倉の声が聞こえた。
「あなたには関係ないでしょう…!?」
苛立ったような、佐倉らしくないヒステリックな語調に、また2人は足を止めてしまった。そして、続いて聞こえた声は……男の声だった。
「関係ないですまされるか! 説明しろよ、どういうことか」
「……っ、」
ビクッ、と、咲夜の肩が跳ねる。
それに気づいた奏が、目だけを動かして咲夜の横顔を確認すると、咲夜の顔は僅かに蒼褪め、驚いたように目を大きく見開いていた。
奏自身も、まさか、と思ったのだが……咲夜のその表情で、確信した。
これは、拓海の声だ。
「説明することなんて、何もないわよ。あたしは招待されたから行っただけ。招待した理由なら、柳さんに訊いて頂戴」
「…いいや。君がパーティーに行ったのは、それが香苗が絡んだブランドの発表会だからだ」
「……」
「まさか香苗が立ち上げたブランドだなんて知らなかったから、想像もできなかった。でも、この記事を見て、やっと全部のからくりが読めた。最初から―――この事務所を作る時に、柳からの資金提供を受けた時から、全部決まってたんだろう? 交換条件として」
「……」
「自分の事務所に柳を介入させることと引き換えに―――香苗に“G.V.B.”を任せることを、柳に約束させたんだろ? それとも逆に、柳から持ちかけられた交換条件か」
―――な…んだよ、それ。
思わぬ方向に転がった話に、奏もゴクリと唾を飲む。
確かに以前から、あれほど嫌っている柳からの資金を、何故佐倉が甘んじて受け入れているのか、不思議で仕方なかったが―――その疑問をぶつけた時、佐倉が言った「自分にもメリットがあるから」という言葉については、半信半疑だった。何か弱みでも握られているのではないか、と心配していた。
でも、まさか―――資金を受け入れ続ける条件が、佐倉自身とは無関係な“G.V.B.”だったなんて。
おかしな話だ。辻褄が合わない。けれど……佐倉の沈黙は、拓海の言葉が図星であることを意味していた。
「…何が、悪いのよ」
長い沈黙の後、佐倉がようやく、反撃に出た。
「柳も納得して、あたしも了解したことよ。むしろ、あたしの方は何のデメリットもないわ。資金提供も受けられて、香苗の手助けもできる―――いいこと尽くめじゃないの」
「…本気で言ってるのか、それ」
「本気よ」
「俺に対する対抗心だけで君に執着し続けるような奴に、借りを作ることの、どこがメリットだ?」
「メリットよ」
佐倉は、妙にきっぱりと言い張った。
「香苗が幸せになるなら、どんなことだって、メリットだわ」
「……」
「柳が、あたしを無理矢理ものにしようと画策してるとしても、そんなの別に構わないとさえ思ってる。1回寝れば、それであの男の歪んだ対抗意識も満足するでしょうよ。それで落ち着いて香苗を大事に守ってくれるんなら、あたしは」
「いい加減にしろ」
怒りを押し殺したような拓海の声に、佐倉ではなく、隣にいる咲夜の方の表情が強張った。
瞬きすら忘れたように息を詰める咲夜の肩が、微かに、震えている。奏は、咲夜を支えるように、その腕をぐい、と掴んだ。
「自己犠牲か? 自分の身を人質として差し出して、香苗が柳のもとで贅沢三昧の暮らしができれば、それで大満足、ってことか。ハ…ッ! 俺から見たら、自己陶酔もいいとこだ」
「…何とでも言って」
コツコツ、というハイヒールの音が聞こえ始めた。
もしかして、廊下に出てくる気なのだろうか―――咲夜は、呼吸さえ気づかせるのを恐れるように口元に手を置き、奏は咲夜の腕を掴む手に、更に力を込めた。
「“G.V.B.”が軌道に乗れば、あたしからすれば柳はもう用なしよ。この2年で、色々と柳の弱みも握ったことだし、柳の力が社内で絶大になって、“社長の一声”で“G.V.B.”を潰せるようになる前に、うちに入れてる資金は強制的に引き上げさせるわ」
「おい、」
「どっちにしろ、あたしと柳さんのビジネスの問題よ。もう口出ししないで」
「みなみ!!」
突然、鋭く放たれた名前。
その名前に、奏も、そして咲夜も、目を見開いた。
みなみ―――佐倉の、ファーストネーム。拓海は、佐倉をファーストネームで呼ぶほど、親しかっただろうか?
「お前と柳の問題じゃないから、口出しをしてるんだ」
「……」
「柳だって結局は、振り回されてるも同然だ。…なんで気づかないんだ? いや、なんで認めようとしない? 香苗だろ。みんな、香苗に振り回されてるだけだ」
「…違うわ」
「みなみ……もう、香苗には構うな。香苗のことは忘れて、」
「忘れられる訳がないでしょう!?」
佐倉の声が、感情的に昂ぶる。
「どうして忘れられるのよ! あ…あなたのために、命まで捨てようとしたのよ、香苗は! あの香苗が―――優しくて、控え目で、大それた真似なんて絶対できないタイプの香苗が、あなたを引き止めるために、死のうとまでしたのよ!? なのに、なんで忘れられるの…!?」
「……っ、」
ぐらり、と、咲夜の足元がふらつく。慌てて奏は、咲夜の背中に腕を回し、支えた。
後ろから抱きかかえた咲夜の体は、さっきよりもはっきりと、震えていた。前に回った奏の腕を縋るように掴む、その手も。
「…多恵子が…多恵子が何も言わずに死んだ時、あたし、後悔して、後悔して―――なんで生きている間にもっと理由を突き止めようとしなかったんだろう、なんでもっと多恵子を理解しようとしなかったんだろう、って…責めて…責めて…」
「……」
「そんなあたしが、また香苗に…親友に、自殺を図られたのよ? しかも、“あなた”が原因で! あの時のあたしの気持ち、麻生さんにわかる!? あんな思いしたあたしが、あなたを好きになれる筈ないじゃない!」
「…みなみ…」
「あたしは、あなただけは、絶対好きにならない」
涙を飲み込んだような声で、佐倉はきっぱりと、言い放った。
「香苗は今も、あなたを愛してるのよ。会わなくたってわかる―――そうよ。柳は、まだあなたに未練がある香苗に振り回されてるのよ。振り回されてる柳を見れば、香苗がまだどれほどあなたに心を残してるのか、よくわかる。だから……もう二度と、あなたのことは好きにならない」
長い沈黙が、流れた。
事務所の中の気配は、動かない。奏と咲夜も、身じろぎひとつせず、息を詰めていた。その沈黙を破ったのは、拓海の声だった。
「…お前はいつも、俺より香苗を選ぶんだな」
さっきまでの気遣うような声とは違う、冷ややかな、怒りを含んだ声。
「自分の命を楯に取って、もう心の離れてる男をがんじがらめにするような女が、そんなに好きか」
「……」
「一度好きになった女は、死ぬまで好きなままでいなきゃいけないのか? 出会うのが遅かったってだけで、本当に欲しい相手は諦めるしかないのか? 世の中、毎日、男と女がくっついたり離れたりしてるのに―――香苗と別れる道を選んだ俺は、そんなに酷い男か」
「…酷い男よ」
「なんで」
「……」
「…結局、またそこでだんまりか」
拓海の深いため息が、聞こえた気がした。
直後、事務所の中の人の気配が、動いた。ハイヒールとは違う、もっと重い音―――拓海の足音だ。
はっ、とした奏は、咲夜を抱える腕を解き、咲夜の腕を引いた。鉢合わせしないよう、どこか身を潜める場所はないか―――焦りながら周囲を探したが、見つからなかった。
そうこうしている内に、事務所のドアが、開いた。
「―――…!!」
出てきた拓海の視線が、奏と咲夜を捉え、凍りついた。
「麻生さ…」
何か言い足りないことがあったのか、拓海を追うように出てきた佐倉も―――2人に気づき、その切れ長の涼やかな目を大きく見開いた。
時が止まったみたいに、誰も、動かない。全員が、衝撃を受けたように目を見張り、強張った顔で互いを見ていた。
そんな中、多分、一番動揺が激しかった佐倉が、一番最初に動いた。まるでその場から逃げるみたいに、事務所のドアの内側へと滑り込み、素早くドアを閉めた。バタン! という音の大きさが、佐倉の心情を表しているかのように。
その音で、ピンと張り詰めていた3人の緊張が、パチン、と切れた。
「…拓、海…」
咲夜が、ほとんど無意識で名前を呼ぶと、拓海の瞳が僅かに揺れた。
そして、ふ、と寂しそうに、けれどどこか自嘲気味に笑うと―――目を逸らした。
拓海は、奏と咲夜の横をすり抜け、速い足取りで廊下を歩き去った。あっという間にその背中は遠ざかり、階段を下りて行ってしまった。
「拓海…っ」
「咲夜!」
後を追うように駆け出そうとする咲夜を、奏は反射的に、引き止めた。掴んでいた腕を更に強く握り、引き戻す。
振り返った咲夜の目が、明らかに、自分を引き止める奏を責めていた。その目に、一瞬怯みそうになったが、奏は辛うじて咲夜を睨み返した。
「やめとけって…! 聞いただろ、今の話。お前が追いかけて行っても、何も解決しないって」
「でも…!」
「お前が傷つくだけだろ!」
ぐい、と咲夜の腕を引き、声を荒げる。
「追って、どうするんだ? あいつの口から、佐倉さんをどう思ってるのか、改めて聞くのか。いつから、どの位、あいつが佐倉さんを想ってたかを、咲夜が聞くのかよ!? よりによって、ずっとあいつを想い続けてきた咲夜が!」
「…奏…」
「行くなよ」
「……」
「行くな…咲夜」
祈るような思いで引き止める奏を、咲夜は、僅かに眉を寄せた悲痛な表情で見上げていた。が―――ふいに、その表情が変わった。
咲夜は、微笑んだ。真っ直ぐに奏の目を見据え、悲しげな色合いは残したまま。
その、消え入りそうな、儚い微笑を―――奏は初めて、綺麗だと思った。
「…ありがと。でも―――拓海を、放っておけない」
「……」
「必要とされてるのが、私じゃなくても……私は、拓海を、放ってはおけないよ、奏」
腕を掴んでいた手が、スルリと解かれた。
くるっと身を翻すと、咲夜は、拓海を追って走り出した。そして、一度も振り向かないまま、階段の向こうへと消えた。
動けなかった。
引き止めたかったのに。解かれた手でもう一度腕を掴み、引き止めたかったのに……動けなかった。
自分のことなど、相手は必要としていないのに。
相手の目は、いつだって自分ではない誰かを見つめているのに。
結局、傷つくのは、自分の方なのに。
「―――…なんで……」
何故、咲夜は。
…いや。何故、オレは。
何故、オレたちは―――いつも、手に入らないものばかり、追いかけてしまうんだろう―――…。
一人、取り残された廊下で、唇を噛んだ奏は、下ろした拳を、きつく握り締めた。
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