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― ブラック・アウト

 

 その日、奏は、あまり機嫌が良くなかった。

 「どーしたのぉ、奏。ぼーっとしちゃってぇ」
 「…んー…別に」
 別に、と言う割には、奏の表情はぼんやり状態だ。仕事中は気を張っていたので、そのツケが、舞台を下りた後にドッと押し寄せて来たらしい。
 「今日のショーだって、大成功だったのに。あなたって、ショーが一番好きだって言ってなかった?」
 ―――そりゃ、ショーは好きだよ。でもって今日のショーは最高だったよ。でもオレが変なのはショーのせいじゃないんだっつーの。何が原因かって? そんなの、言う義務なんてないだろっ。
 癇に障る。今日のショーを入れて、実に3度も、奏と同じ舞台を踏んだモデルだ。それだけモデルとしては優秀なんだろう。舞台でしか顔を合わせたことのない間柄なのに「奏」と呼び捨てされるのも、別に問題はない。そういう文化の中で生きてきたから。でも……今は、なんだか嫌だ。親しくない奴から変に親しげにされてる感じがして、神経を逆撫でされる気分だ。
 隣の女は、まだ何かを言っているようだが、奏はまるっきり聞いていなかった。
 ため息をひとつつき、ショーの打ち上げパーティーの会場をぐるりと見回す。そして―――壁際で、他のモデルのマネージャーと談笑している佐倉を見つけ、余計苛立った。
 ―――そもそも、あの人が諸悪の根源なんだよな。…ったく…いい歳して、強情にも程があるってんだよ。
 「ねぇ、奏ってば」
 さっぱり関心を示さない奏に焦れて、隣の女が、奏の腕をぐいぐい引っ張る。
 「なんか、嫌なことでもあったの?」
 「…まーね」
 「そういう時こそ、パーっと遊んじゃおうよ、パーっと」
 そう言うと、彼女は身を乗り出して、奏の耳元に小声で囁いた。
 「でさ。パーティー終わったらさ、仕切り直して遊びに行っちゃおうよ。まだ時間早いし」
 「…遊びに、ねぇ…」
 「とりあえず、ハイ、飲んで飲んで」
 綺麗な色のカクテルが入ったグラスが押し付けられる。
 実を言えば、さっきから話もせずに飲んでばかりいたので、あまり酒の強くない奏は、既にそこそこ酔っている。普段なら「あー、明日仕事あるし、もういいや」と断るところだが、今日の奏は、やっぱり普通じゃなかった。
 差し出されたグラスを手に取り、一気にあおる。
 「きゃー、いい飲みっぷり」
 手を叩いてはしゃぐ女に、奏は、ハハハ、とふっきれた笑いを返した。
 「まぁ、そーだよなー。ウジウジぐずぐずしてんのは、オレらしくないよなぁ。やめやめ」
 「そーそー。奏は明るいキャラなんだから、パーティーで沈んでるなんてらしくないよー」

 …明るいキャラ、ね。
 貴様に、オレの何がわかるってんだ。

 内心、そう思いながらも、奏はパーっと派手に遊ぶフリをした。
 フリでも、嘘でもいい―――明るい自分を演じて、一時、本当の自分を忘れたかっただけなのかもしれない。

***

 「―――…で?」
 「…あとは、ご想像通り」
 どん底まで落ち込んだように、奏が答える。
 無感動な目つきで奏を振り返っていた瑞樹は、数秒後、大きなため息とともに首を振った。
 「救いようのないバカだな」
 「…言うなよ…これ以上、落ちるとこない位、落ち込んでんのに…」
 「俺は黙るから、そこにあるクロス、こっちに寄こせ」
 付き合ってられるか、とばかりに、デスクに向き直りながら、瑞樹がそう言う。奏が座っている机の上に、カメラなどを手入れするためのものらしい、黄色いクロスが落ちていた。無言のままそれを手に取った奏は、またレンズの手入れに戻ってしまった瑞樹の傍らに、それを置いておいた。
 「…そりゃ、褒められた話じゃないのは、オレも弁解の余地なく認めるよ。実際、オレ自身、ちょっと思ったし。後腐れない相手なら、一晩遊んで、嫌なこと全部忘れちゃう日があったっていいんじゃない? って。でも、あれだけベロベロに酔っ払ってたのに、オレ、最後の一線だけは守ったんだぜ? 偉いと思わない?」
 「ふーん……相手、怒ってただろ」
 「…“抱かないんなら、不機嫌だった理由を白状して。白状したら許してあげる”って交換条件出されて、渋々条件呑んだから、あんまりゴネられずに済んだ」
 「なるほど」
 手入れの終わったレンズをコトン、と置いて、瑞樹は、相変わらず抑揚のない声で相槌を打ち、頷いた。
 「一線“守った”っつーより、一線“越えられなかった”んだな」
 「……」
 ―――ず…図星…。
 そう。確かにゆうべ、奏は、あのモデルの女の子にめちゃくちゃに酔わされ、彼女の家まで連れて行かれた。酔った勢いで、というより、半ば自棄になってのことだった、が……何故か奏は、いざその段になると、その気がゼロになってしまったのだ。
 急速に冷めていくのを、自分でも止められなかった。結果、奏は、半裸の彼女に平謝りした。明日美の時と同じパターンだ。
 理性で思いとどまった、なんて立派な話じゃない。瑞樹の言う通り、一線を「越えられなかった」のだ。…まさに、図星。気まずさに、奏は目を逸らし、灰皿に置きっぱなしになっていた煙草を摘み上げ、口にくわえた。

 

 不機嫌の理由。それは、昨日の朝起きた、ちょっとした出来事だった。
 奏は以前から、ショーのある日は、テンションを上げるためと体を完全に目覚めさせるために、いつもより若干早起きして近所を軽くウォーキングしたりジョギングしたりする。昨日もそれまでの習慣通り、そうした。
 30分ほどその辺を回ってきて戻ってきた奏は、アパートの入り口で、ちょうど家を出てきたばかりの咲夜と、偶然鉢合わせになった。

 「あ、そうか。今日ってショーがあるんだったね」
 普段なら家を出る位の時間に、逆に外から戻ってきた奏を見て、咲夜は事情を察して、納得したように頷いた。
 「お前の方は、ちょっと早いんじゃない?」
 「うん。昨日回れなかったお客さんとこ、今朝一番で回る約束入れてるから」
 「そっか」
 極々自然な様子でそう話す咲夜を見下ろし、奏は、その様子を注意深く観察していた。
 ジャズ・フェスタが終わってから、ほぼ10日―――咲夜は一見、それまでとは何ら変わらないように見える。ほぼ毎朝、短いながらも発声練習をし、これまで通り“Jonny's Club”で歌を歌い……その歌声も、拓海との件がある前と、何ら変わらないところまで回復していた。一度、心配になって店に見に行ったのだが、舞台に立つ咲夜は、これまで以上の拍手を客からもらっていて、奏もホッとした。
 とはいえ……いくら見た目や歌が以前通りになったと言っても、10年越しの大失恋だ。すっぱり立ち直ってる訳がないこと位、楽天家の奏だってわかっている。その証拠に、咲夜は、訊いてしかるべきことを、いまだに奏に訊ねずにいる。「佐倉さんは拓海について、どう言ってるの?」―――咲夜なら絶対、気になっている筈なのに。
 そして、ちょっと気になる点が、もう1点。
 「…なんかお前、最近、妙に早起きじゃない?」
 奏が言うと、咲夜は、キョトンと目を丸くした。
 「そぉ?」
 「朝、顔合わす時、もうメイク済みだろ」
 そうなのだ。
 窓越しに朝一番の挨拶を交わす時、この前までの咲夜は、髪は大抵、寝癖で跳ねてしまっていたし、顔は完全にすっぴんだった。なのに……ここ数日、前と同じ時間にも係わらず、咲夜はちゃんとメイクをして顔を出すのだ。相変わらず「どこをいじったんだ?」と言いたくなるほどのナチュラルメイクで、人によってはノーメイクだと誤解しかねない顔だが、一応プロである奏の目を誤魔化せる筈もない。
 「ああ、そのこと…。別に早起きになったからじゃないんだけどな」
 奏の指摘を受けて、咲夜は困ったように笑った。
 「じゃ、何で」
 「うーん、別に、理由はないんだけど。いいじゃん。むしろ喜ばしいことでしょ?」
 「…まあ、そうなんだけど」
 早起きはいいことだし、隣人とはいえ家人以外と顔を合わせるのに身だしなみを整えるのもマナーの一種だ。いいことだろう。
 でも―――…と、奏が眉をひそめた時。
 「あ、おはよー、友永さん」
 咲夜が、奏の背後に目をやって、そう挨拶した。
 振り返ると、ちょうど由香理が出てきたところだった。咲夜の挨拶を受け、軽く微笑む。
 「おはよう」
 「……」
 あれ? 意外にフレンドリー?
 前は、咲夜と見ればツンケンツンケンしていた由香理の変化に、奏はちょっと驚いた。
 ―――昨日、友永さんが話してた失恋話の時、咲夜と仲良くなるようなことが、何かあったのかな…。
 などと思っていたら、咲夜に向けられていた由香理の視線が、おもむろに奏の方に向いた。
 ひょこっ、と奏が軽く会釈すると、由香理も同じように会釈し、一言付け加えた。
 「ゆうべは、ごちそうさまでした」
 「へ?」
 思わず、間の抜けた返事を返す。
 で、思い出した。ああ、そういえば―――店がひけた後、1杯だけおごったんだった、と。2秒後、奏は笑顔になり、いやいや、と手を振った。
 「ハハ…、お礼言われるほどのもんじゃないから、かえって参るなぁ」
 「一応、けじめだから」
 くすっと笑ってそう言うと、由香理は、2人の横を通り過ぎ、駅の方へと歩き去った。相変わらず、ツカツカとヒールの音を立てながらの気を張ったような歩き方だが、表情や口調のせいか、その音も、前よりも多少柔らかくなった気がする。
 失恋とはまた辛い出来事だが、ああいう風にいい形に変われるのなら、そう悪い出来事でもないのかもしれない―――そう思いながら由香理を見送っていた奏は、ふと視線を感じ、咲夜の方に目を向けた。
 「……」
 斜め下から、咲夜が、じっ、と見ていた。
 睨んでいる訳ではないが、今のってどういう意味? という目なのは明らかで、そういう目でじっ、と見られると、後ろめたいことは何もない筈なのに、なんだかやたらと焦りを覚える。
 「え、ええと…友永さん、昨日、店に来てさ。1年ぶり位に」
 その焦りに急かされる形で、奏はちょっと引きつったような笑顔で、早口気味に説明しだした。
 「ほら、星さんの送別会で、お前がめちゃくちゃ酔っ払った時あっただろ。あの時、ちょうどこの辺で友永さんに偶然会って、オレが“なんか顔が変わった”って言ったのを覚えてたみたいで―――なんか、失恋とか、いろいろあったらしいな、あの人。咲夜の店にも行ったって聞いたし…。それで、自分の顔がどう変わったか確かめたくて来たみたいでさ。最後の客だったし、せっかくメイクしたから1杯飲みに行かないかって誘われたんだよ。飯食う時間帯に酒1杯? って思ったけど、確かに性格合わなそうだから1杯で正解だったかも…。だから、誘われて行っただけで、オレが誘ったわけじゃ―――いや、でも、いくら誘われたからって、カクテル1杯を割り勘させるのも、男としてどうかと…」
 「―――何、一生懸命釈明してんの?」
 いまいち脈絡のない奏の説明を、咲夜の、やたら冷静な声が遮る。
 「友永さんが店に来て、1杯飲もうって誘われたから、1杯だけつきあって、ついでにおごってやった―――要約すると、そういうことでしょ?」
 「…う…、ま、まあ」
 気まずそうに奏が頷くと、咲夜の目が、呆れたような表情になる。
 「変なやつぅ…。それだけのことで、何そんな必死そうな顔になる訳?」
 「…いや、別に必死になった訳じゃ」
 「ってか、奏、ちょっとヤバイんじゃない?」
 「は?」
 眉をひそめる奏をよそに、咲夜は涼しい顔で、サラリと答えた。
 「だってほら、テンちゃんが失恋した時も付き合ったし、今回の友永さんもそうだし…。私の件にしてもさ。最近、そんなんばっかじゃん。奏は誰にでも優しいから、放っておけないんだろうけど」
 「……」
 「あんまり失恋してる女にばっかり関わってると、恋愛運落ちるよ、奏」
 邪気のない口調でそう言った咲夜は、腕時計を確認すると、
 「うわ、電車乗り遅れる! もう行かなきゃ」
 慌ててバッグを肩に掛けなおし、笑顔で奏の腕をポン、と叩いた。
 「じゃーね。今日のショー、頑張ってよ」
 「…あ、ああ」
 曖昧に返事する奏を置いて、咲夜は、アパートを後にした。ちょっと急ぎ足で駅へと向かっている。本当に時間が危なかったのだろう。
 けれど、残された奏は、ふつふつと湧いてくる感情を持て余していた。

 ―――そりゃ、オレが必死に弁解するようなことは、何もないけど…。
 何必死になってんの、と、あまりにサラリと言われてしまうと、なんだか、自分と咲夜の間にある温度差を見せつけられたようで……少々、落ち込む。
 もっとはっきり言うなら―――恋愛感情の有無の違いを、改めて思い知らされた気分だ。
 誰にでも優しい、と言ったその中に、テンや由香理に混じって、咲夜自身のことが入ってしまっていたが、奏からすれば、彼女らと咲夜を同列で語れる筈もない。それは、同僚やただの知り合いと“親友”の違いなんかじゃない―――相手に対して恋愛感情があるか、ないか、の違いなのに、咲夜はそれに気づく素振りもない。
 なくて、当たり前だ。
 こんな風に憤りながら―――奏自身、咲夜の前では、恋愛感情なんて微塵も見せていないのだから。

 

 「なぁんでオレ、面倒な人間ばっか、好きになるんだろ…」
 煙草をもみ消しながら、奏はため息をついて、そう呟いた。
 すると瑞樹は、ずっと開けずに置いてあった缶コーヒーを手に取りながら、やっと振り返った。
 「隣の歌姫のことか?」
 当然のように瑞樹が口にしたセリフに、奏の目が、ぎょっとしたように大きく見開かれた。確かに、好きな奴ができた、その関係で落ち込むことがあって、それで昨日は1日機嫌が悪かった、とは言ったが―――咲夜のことなど、何ひとつ出していないのに。
 「な…っ、なんで…!!」
 「…ふーん、やっぱりそうか」
 奏の反応を見て、瑞樹が、ふ、と笑う。
 「お前、ほんと、素になると演技下手だな。ポーカーフェイスで“違う”って一言言やぁ済むのに」
 「……」
 ―――は…はめられた…。
 いや、単に自分が馬鹿正直だっただけだ。ガクリ、とうなだれた奏は、改めて自分の脳に忠実すぎる顔を恨んだ。
 「そんなに面倒な相手か? あの子」
 「…面倒、っていうか…」
 観念したように答えた奏は、はぁ、と息をつき、顔を上げた。
 「他にもいろいろ、事情はあるけど、一番問題なのは―――オレたちが、親友だから」
 「だから?」
 「なまじ友情が満たされちゃってるから、告白とかして振られた時、今まであった友情まで失くしそうで…親友のままでいたい自分と、それだけじゃもう満足できない自分の間で、身動き取れない」
 「……」
 「でも、なぁ…。オレ、一旦そーゆー目であいつのこと見ちゃうと、もう他の目じゃ見られないんだよなぁ。昨日のモデルとのことだって、咲夜なら笑い飛ばすかもしれないけど、もし咲夜が同じことしたら、オレの方は完全ブチ切れて嫉妬しまくる気する。咲夜の恋愛を邪魔することはあっても、もう応援は無理かも…」
 「…まあ、そうだろうな」
 奏の心中を想像してか、瑞樹も少し眉根を寄せる。
 「このままじゃオレ、行動に出ようが出まいが、親友としても失格になりそう。…あーあ…親友なんか好きになるもんじゃないよなぁ…」
 下ろしていた膝を引き上げ、両腕で抱え込みながら奏が言うと、瑞樹は少し考えた後、静かに答えた。
 「―――俺は、とてつもないラッキーだと思うけどな」
 「……」

 ラッキー?
 親友に恋愛感情を持つ羽目になったのが…とてつもなく幸運なこと…?

 不思議そうな目で、奏は、瑞樹の顔を凝視した。
 コーヒー缶のプルトップを引き、一口飲んだ瑞樹は、その視線を感じてか、更に言葉を付け加えた。
 「…心と心で結びつき合える仲、ってのは、稀有な存在だと思う。それに、どうしてもこいつでなきゃ、って思えるほどの“欲”を感じられる相手ってのも、なかなか見つかるもんじゃないと思う」
 「……」
 「心で繋がりあえるだけでも大変なことなのに―――その上、女としての魅力も感じられる。そんな女に会えたのって、奇跡に近い幸運だと思うぜ、俺は」
 「……」

 この先、どうなるか、ってこと以前に……そういう相手と「出会えた」、それだけで幸運。
 ―――…そういう考え方も、あるのか。
 人間的にはいい奴だけど、女としては惹かれない。女としては最高に魅力的だけど、本音で繋がっていくことはできそうにない。そのどちらかが大半な世の中で―――人間としても女としても求められる相手、というのが現れるのは、奇跡と呼べるほどの幸運なのか。

 別々だったらどんなに良かったことか、とばかり思っていた奏は、考えてもみなかった解釈に、目から鱗の落ちる気分だった。
 そして、瑞樹にこんなセリフを言わしめているのは、彼と蕾夏が歩んできた道のりなのだろう、と察して……なんだか、これまでとは違った、不思議な気分になった。

 胸は、痛まなかった。
 奇跡と呼べるほど深い、2人の結びつきを思い知らされても、胸が痛まない―――その事実に、奏は少し、驚いていた。


***


 「ちょっと急な話だけど、水曜だから、ここのライブとは重なってない。出演に問題はないと思う。…どうする?」
 一成に問われ、咲夜は、書類から目を上げて、ニッ、と笑った。
 「請けるに決まってんじゃん」
 「そう来ないとな」
 一成もニヤリと笑う。横で聞いていたヨッシーも、満足そうに頷いた。
 「やっぱりジャズ・フェスタに前座でも出たのは大きかったな。パンフレットにも名前が出た分、関係者に名前が売れたし」
 「…あのな、ヨッシー。そうは言うけど、出るだけじゃ意味ないんだからな、ああいうのは」
 「はいはい。お前と咲夜のパフォーマンスが良かったからこそ、って言いたいんだろ? その通りでございます」
 一成とヨッシーのやりとりを見ながら、咲夜は楽しげに笑った。
 笑いながら、手にしていたゼリータイプのカロリーメイトを口に運ぶ。が、半分ほど食べたところで、止めてしまった。この手の食べ物は、あまり好きではないのだ。止むを得ない事情のある時以外、口にしようとはまず思わないだろう。

 ゴールデンウィーク終盤に行われたジャズ・フェスタは、大変好評のうちに幕を閉じた。
 かなり競争率の高いチケットなだけに、客の中には素人じゃない人―――つまり、ライブハウスなどの関係者も結構混じっていたらしい。ジャズ・フェスタを終えて間もなく、「うちで出てみないか」と声をかけてきた某ライブハウスの支配人も、今日話を持ってきた人物も、ジャズ・ライブで一成と咲夜の演奏を初めて聴いた口だった。
 無名の2人にとって、あの大きなライブに、前座とはいえ名前もしっかり出された形で出場したのは、ヨッシーの言う通り、非常に大きなことだった、ということだろう。
 あれ以来、2人に対するオファーは、これで2件目―――活動の幅を広げていく足がかりができたことを、一成も、咲夜も実感せざるを得ない。

 「でも、あんまり曲選んでる余裕ないよね」
 「ああ…そうだよなぁ」
 咲夜の指摘を受けて、一成はもう一度書類を見下ろし、眉をひそめた。
 「今日が24日で、来月11日っていうと―――2週間ちょっとしかないのか」
 「まあ、出演予定の奴がキャンセルしたから急遽、って話だから、仕方ないけど……どうする? 何やろっか」
 「無難な路線で考えるなら―――ジャズ・フェスタと同じ演目、か」
 「いいんじゃないか? お前らのあのステージを見て依頼してきたんなら、文句のない選曲だろ」
 ヨッシーはそう言って、腕組みをした。
 「特に、最後の“Let it be”は、絶品だったからなぁ…。低迷期脱したと思ったら、人間っぽさに磨きがかかったな、咲夜」
 「ハハ、何それ」
 あの歌にこめた想いが想いなだけに、嫌な汗が、じわりと浮かんでくる。照れと焦りが入り混じった気持ちで、咲夜は乾いた笑い声をたてた。
 「でも、声の力が、最近ちょっと落ちてる気がする」
 「えっ」
 一成がボソリと呟いた言葉に、咲夜の嘘笑いが、少し強張る。
 「ほんと?」
 「お前の本来の声じゃないな、って感じてる。ここ1週間ほど。もしかして、体調が万全じゃないだろ」
 「…あー…、うん。まぁ、ね。バレちゃったらしょーがないけど」
 「え、そうなのか? 大丈夫か」
 ヨッシーはあまり気づいていなかったらしい。途端、心配そうな顔になる。
 「大丈夫だって」
 「いいや。咲夜は無理するとこがあるからな。どれ、熱は」
 「ないないない。ないってば。それよりほら、そろそろ行かないとまずいよ」
 伸ばされたヨッシーの手から逃げつつ、咲夜は自分の腕時計をトントンと指で叩いて訴えた。
 実際、そろそろ行く準備をしなくてはまずい時間だった。それぞれに時計を確認した3人は、本日2回目の舞台に出るべく、準備を始めた。
 ―――…全く…やっぱり一成の耳は特別、か。
 苦々しく思いつつ、スチール椅子を蹴って立ち上がる。咲夜は、鏡の前に陣取ると、いつもより明るめのルージュをバッグから取り出した。そのことを不思議に思うものは、ここには誰もいなかった。


 この日も、店は、ほぼ満員だった。
 平日とは違い、土曜日の“Jonny's Club”は、スーツ姿がほとんどいない。結構おしゃれな格好をした中年男性などが目立つ。こういう日は、洒落た曲やクールな曲より、ホッと和める往年の名曲の方が心地よい。

 「Falling in love with love is falling for make believe... Falling in love with love is playing the fool...」

 ―――ライトが、眩しいなぁ…。
 クラクラ、目が眩む。
 手を添えているだけだったマイクを、しっかりと握る。金属的な冷たさが掌に伝わり、ちょっと眩暈がおさまった気がした。咲夜は、全身の力を使い切る位の気持ちで、精一杯の声を張り上げた。

 もっと。
 もっと、声を。
 日頃、押さえ込んでいるものを、全て―――解き放つ。ここでは絶対に、嘘はつかない。いや、嘘をつかなくて済む。だから、もっと…もっともっと、声を。

 「I fell in love with love with love everlasting... But love fell out with me...」

 舞台から見る店内の客の表情は、みな優しくて、穏やかだ。そんな顔を順々に見ながら、咲夜も笑みを浮かべていた。


 「ありがとうございましたー」
 最後の1曲も終え、拍手の中、客に向かってお辞儀をする。
 一成やヨッシーも、それぞれに会釈したところで、舞台を照らしていたライトが消え、逆に店内の照明が徐々に明るくなっていった。
 途端―――眩暈が、一気に襲ってきた。
 「……っ」
 足元が、グラつきかける。咲夜は、両手をぎゅっと握り締め、踏み出した足を辛うじて保った。
 ―――だ…駄目…。まだ、店内、なんだから。
 グラつく頭をなんとか水平に保とうと、奥歯を噛み締める。咲夜は、いつもよりゆっくりした足取りで、舞台を降りた。
 “STAFF ONLY”の扉までが、やたら遠い。1歩、1歩、祈るような気持ちで踏み出す。前を歩く一成の背中だけを見つめて、1歩、1歩―――…。

 「…咲夜?」
 前を行く一成の声がした。
 今、自分は、ドアまであとどの位のところを歩いているんだろう―――咲夜には、もう、よくわからなかった。
 直後、誰かに、腕を掴まれ、ぐい、と引かれた。
 よろけるように、数歩、前に進む。誰かに抱きとめられた咲夜の背後で、ドアが閉まる音がした。

 瞬間。
 世界は、闇に包まれた。


***


 「じゃあ、6月のスケジュールは、このとおりってことで」
 「了解」
 最終確認を終えた奏と佐倉は、それぞれに資料をトントンと揃え、席を立った。
 店が終わってからの、短時間のみのスケジュール確認作業だったが、このスタイルに慣れている2人にとっては十分だ。それに、6月は、奏がイギリスに戻る分、普段より仕事をセーブしている。話し合う事項は少なくて済んだ。むしろ―――7月から、引退を決めている誕生日のある10月までの方が問題な位だ。
 「成田の仕事か、ド派手なファッションショーが取れれば、引退の花道としては最高なんだけどねぇ…。そう上手いこと問屋が卸すかどうか…」
 「……」
 書類をバッグにしまいながらの佐倉の言葉に、奏は冷ややかな無言しか返さなかった。
 不審に思った佐倉が目を上げると、そこには、もの言いたげな顔をした奏が、憮然として立っていた。その意味がわかるので、佐倉は大きな、大きなため息をついて、腰に手を当てた。
 「…あのねぇ。しつこいわよ、キミは。あの件は、あたしのプライベートなの。キミには全く関係なし。OK?」
 「…だから。オレの方も、全く無関係とは言えない事情があるんだって」
 「じゃあ先に、そっちの事情から話してちょうだい。そうしたら、あたしも話すわ」
 ―――言えたら苦労しないっつーの。
 口では言わず、ただ眉を顰めるだけに止める。言える筈もない。咲夜と拓海の関係は勿論のこと―――自分の、咲夜に対する感情も。
 2人が揉めている内容は、当然ながら、ここ1ヶ月近く続いている件について。
 何故、そうも拓海を頑なに拒むのか―――両想いでありながら、残酷なまでに拓海に背を向ける、その理由は何なのか。…ただ、それ1点のみだ。
 「…言っただろ。オレは、あんた達の煮え切らない恋愛のせいで傷ついた奴を知ってる、って。そいつのために、事実が知りたいだけだよ。あんたが麻生さんを拒否するのは、誰の目にも仕方のない事情があるからなのか、それとも……あんたがただ意地になってるだけとか、麻生さんに関して何か誤解があって拒否ってるのか。その位、知らせてやったっていいだろ?」
 「知れば、その人の傷が癒えるとでも?」
 佐倉が、ちょっと不愉快そうに眉を顰めた。加害者的な扱いをされて、気分を害しているのだろう。
 「第一、誰なのよ、一宮君が言う、あたし達のせいで傷ついたっていう人は」
 「……」
 いっそ、バラしてしまおうか―――なんてことが、頭をよぎった時。
 奏の携帯電話の着信音が、狭いオフィスに響いた。
 「…っと、」
 一時、中断。奏は佐倉に背を向けると、携帯電話をバックポケットから引っ張り出した。都合の悪い話が中断したことにホッとしたのか、佐倉はこれ幸いと、再び帰り支度を始めた。
 液晶画面に表示された文字を見て、奏はちょっと目を見張った。
 ―――咲夜から?
 珍しい。一体何だろう? ちょと眉をひそめ、受話ボタンを押した。
 「もしもし?」
 直後、携帯から聞こえてきた声は、意外な声だった。
 『一宮か?』
 「え……っ、藤堂?」
 何故、咲夜の携帯から、一成が電話してきているのだろう? 一瞬、混乱する。
 『今、どこにいる』
 「…仕事場。モデル事務所の方」
 『もう仕事終わってるのか』
 「? 今ちょうど終わったところだけど」
 『…じゃあ、今すぐ来てくれ』
 一成の声は、酷く硬かった。
 『―――咲夜が、倒れたんだ』

***

 もう夜遅い、しかも土曜日だ。当然ながら、通常の入り口など閉まっている。夜間用の入り口から入った病院は、不気味なほど静まり返っていた。
 「藤堂っ!」
 遠くに見えた一成の姿に思わず大声を上げると、近くにいたナースに睨まれた。が、声の張本人である奏は、それに気づかなかった。代わりに、奏の後ろから駆け込んできた佐倉が、すみませんすみません、と申し訳なさそうに頭を下げておいた。
 奏が到着したことに気づいた一成は、ベンチから立ち上がり、ジャケットの裾を引っ張って居ずまいを正した。一成以外の人影は見えない。一番近いドアの上には「処置室」の札が掲げられていた。
 「早かったな、一宮」
 「ああ、事務所からここ、近かったから―――咲夜は?」
 半ば肩で息をしながら奏が訊ねると、一成は目だけで処置室を指し示した。
 「今は、点滴を受けながら、精密検査をしてる」
 「……」
 「俺は、店以外での咲夜のことはほとんどわからないし、何かあった時、俺より隣に住んでる一宮の方が対応しやすいと思って、呼んだんだ」
 「……」
 声も出せず呆然とする奏の背後で、佐倉が心配げに眉をひそめた。一成も佐倉に気づき、ちょっと怪訝そうな顔をした。
 「…1、2度お会いしてると思うけど―――佐倉です。咲夜ちゃんとは古い知り合いで……一宮君のモデル事務所の社長をやっている」
 「ああ…、お久しぶりです」
 「ちょうど一宮君と仕事の打ち合わせをしていたところだったので…」
 「…なんで…」
 挨拶を交わす2人のことなど全く目に入らない様子で、ようやく奏が呟く。
 わからない。咲夜が、何故? 今朝だって、普通に歌っていたし、笑顔で話していた。数日前、奏を落ち込ませたあの件の時だって、電車に乗り遅れる、と言って去っていった咲夜は、小走りに走っていた位だった。どこかを病んでいる様子は特に見えなかったが―――…。
 と思い返して、ある可能性に気づき、奏の心臓が軽く跳ねた。

 唯一の、異変。朝早い時間から、妙にきちんとメイクをしていたこと。
 あれがもし―――顔色を誤魔化すためのものだとしたら?

 その時、処置室のドアが開き、白衣の男性が出てきた。
 3人の目が、一斉に医師に向けられる。ドアを閉めた医師は、3人が咲夜の関係者と察して、軽く会釈をした。3人も医師に会釈をすると、医師は、極めて冷静な口調で告げた。
 「もう遅い時間ですし、一晩泊まってもらうことにしました」
 「…あの、どこが悪いんでしょう?」
 年齢順、という訳ではないが、佐倉が代表して訊ねる。返ってきた答えは、少々驚きの内容だった。
 「栄養不良と、胃潰瘍ですね」
 「えっ」
 「血液検査の結果、貧血があまりにも酷いので、潰瘍からの大量出血を疑ったんですが―――見つかった潰瘍は、まだ小さなものでした。まだ出来て間もないものでしょうね。これなら手術や入院の必要はありません。投薬で直るでしょう。ただ…」
 「ただ?」
 「点滴前に、僅かな時間ではありますが、意識が戻られたので、ここ最近の食生活について伺ったんですが……そちらの方が深刻です。早急に改善しなくてはなりません」
 「…あの…彼女は、何て」
 「ほとんど、食べていないようです」
 「……」
 「というよりも―――食べてはいるんですよ、一応。食欲はなくても、食べなければ死んでしまう、という知識はあるので、無理をして食べようとした、と言っていました。ただ……その大半を、30分もしないうちに、全部吐いてしまうそうですが」
 「…摂食障害、ですか」
 奏の口から、覚えのある単語が飛び出す。医師も、渋い顔で頷いた。
 「胃潰瘍の原因は、それです。食べては吐く、吐いてもまた無理をして食べる―――その繰り返しで、胃が悲鳴を上げてるんですよ」
 「……」
 「他に異常は見当たらないので、食欲不振や嘔吐は、胃腸が原因ではないでしょう。もっとも、元々あまり丈夫な方ではないようですので、精神的なものが一番弱い箇所に出た、と言う方が正しいのかもしれません。胃潰瘍は治せても、摂食障害の原因を解決しないことには、また同じことになります」

 原因を―――…。

 その原因を知っているのは―――奏だけだった。

***

 咲夜は、ちょうど眠っているとのことで、寝たまま病室に運ばれた。
 2人部屋だが、幸い、もう1つのベッドは空だ。明日も仕事だという一成を先に返し、奏と佐倉は、咲夜に付き添うことにした。

 「…随分華奢な手、してるのね」
 点滴のため、布団の上に出された咲夜の腕を見て、佐倉が、痛々しそうに目を細める。
 …違う。確かに咲夜は細身ではあったが、もう少し肉がついていたように思う。その違いは、1ヶ月程度なので大したものではないが…それでも、確実に痩せている。痩せて当然だ。栄養を取れていないのだから。
 ―――なんで、もっと早く気づかなかったんだ…。
 咲夜の寝顔を見下ろしながら、悔しさに唇を噛む。
 聞いていたのに。母を亡くし、2ヶ月しか経たないうちに父の裏切りを知り―――その現実を前に、咲夜がどうなったか、ちゃんと聞いていたのに。拓海が咲夜を預かることになった経緯を、もうずっと前に聞かされていたのに。
 ゴールデンウィークが明けてからというもの、お互い、酷く忙しかった。時間が合わず、前のように食事をしたり飲んだりする機会も持てずにいた。それでも、毎朝ちゃんと顔を合わせ、話もしていたので、自分ばかり寂しがるのも情けないよな、と、あえて気にしないフリをしていた。バカな意地など張らずに、1度でいいから食事なり飲みになり行っていれば、気づけたかもしれないのに…。

 原因を解決しなくては、同じことになる…。
 原因。それは―――拓海のことだ。奏だけが、それを全て知っている。

 「…佐倉さん」
 拳を固く握りしめ、奏は、隣のスチール椅子に座る佐倉に目を向けた。
 「さっきの話の、続きだ」
 「え?」
 「…教えろよ。どうしてあんたが、麻生さんに背を向け続けてるのか」
 奏のセリフに、佐倉は一瞬目を丸くし、それからうんざり顔でため息をついた。
 「―――ちょっと。一宮君、ここがどこか、今がどういう状況かわかってるの? 今は、咲夜ちゃんのことを考えるべきでしょ? あたし達のことは、全然関係」
 「あるんだよ」
 佐倉の言葉尻を捉え、告げる。その、きっぱりとした口調に、佐倉も思わず言葉を飲み込んだ。
 「…あるんだよ」
 「……」
 「咲夜が倒れたのと、あんたたちの問題とは、関係があるんだよ。というより―――あの日聞いたことが、直接原因なんだよ」
 佐倉の顔色が、変わった。
 でも、そうとしか思えない。今思えば、咲夜の顔色は、ジャズ・フェスタ前から悪かった。あの時既に、摂食障害を起こしていたのだろう。だとしたら……まさに、あの日を境に、ということだろう。
 「―――…咲夜ちゃん、なの?」
 大体の事情を察し、恐る恐る、佐倉が訊ねる。
 どれだけのことを、咲夜ではない自分が明かしてしまっていいのか、一瞬悩む。が……暫しの間の後、奏はゆっくりと頷いた。
 「…あんたに背を向けられて、自暴自棄になった麻生さんを、咲夜はずっと、一番近くで見てた。初めて恋した男が、自分以外の女たちと1度限りのゲームに興じてるのを、責めもせずに、ずっと見てたんだ。何年も、何年も」
 「……」
 「もし、麻生さんが誰も愛せなくなってるんだとしたら、可哀想だ。そうじゃなかったとしても、もし、どうしても手に入らない人をずっと想い続けて、その寂しさからいろんな女の人に逃げてるんだとしたら―――自分と結ばれなくていい、その人と幸せになって欲しい、って言ってたよ。こいつ」
 それほどに、拓海を、愛して、愛して―――愛し続けていたのに。
 「…なのにあの日、あんな話を聞いたせいで……心配して、麻生さんを追いかけていったせいで、咲夜の気持ちは麻生さんにバレた。片想いなら永遠に続けられても…本人にピリオド打たれちゃ、もう無理だよな。あれ以来、咲夜は、麻生さんと連絡すら取ってない。捨てろと言われた想いを、必死に捨てようとして……それで、このザマだよ」
 そこまで言うと、奏は椅子ごと、青褪めた顔をした佐倉の方ににじり寄った。本気の怒りを辛うじて押さえ込みながら。
 「言えよ、理由を」
 「…一宮、君…」
 「原因が、誰にあってもいい。麻生さんの気持ちに本当に応える気がないんなら、その理由を咲夜にだけは教えろよ。咲夜には、その権利がある。麻生さんの隣で、何年も辛い思いしてた咲夜には」
 「……」

 佐倉の瞳が、大きく揺れる。
 視線を逸らした佐倉は、青白い顔のまま、いまだ眠ったままの咲夜の顔を、じっと見つめた。
 佐倉は、迷っているようだった。それほど言い難いことなのか、それとも…他人に言えない事情があるのか。追い詰められたようなその横顔からは、佐倉の本心を推し測れなかった。
 「…でも…かえって、咲夜ちゃんを傷つけることになるかもしれないわ」
 いまだ結論が出てはいない様子で、佐倉がポツリともらす。
 咲夜が、傷つく―――奏にとっては、弱い言葉だ。けれど、奏は退くことは考えなかった。たとえ傷つくような内容でも、咲夜は絶対、知る方を選ぶだろう。真実を知って……必ず、乗り越える。
 …それが「拓海のため」であるならば。
 胸が、鈍い痛みを訴える。その痛みを無視して、奏は改めて、口を開いた。
 「―――話してくれないなら、7月以降の契約、切らせてもらう」
 佐倉の肩が、ピクッ、と動いた。
 咲夜に向けていた視線を、奏に移す。びっくりしたように目を見開いた佐倉は、思わず眉をひそめた。
 「一宮君の、契約を?」
 「ああ。でも、誕生日までモデルを引退する気はないからな。他の大手事務所と契約結んで、あんたが狙いそうな仕事、片っ端からオレがいただく。どんな汚い手使ってでも」
 「…あたしを、脅すの」
 佐倉の目が、険しくなる。不興を買うのは、承知の上だ。奏は、怯まず続けた。
 「その代わり―――話してくれるんなら、今年いっぱいまで、引退は延ばす」
 「…えっ?」
 「わがままは言わない。佐倉さんが、事務所維持のためには必要だ、と思う仕事なら、がんがんオレに回せよ。話してくれる代償は、オレ自身だ」
 「……」
 唖然、という顔で、佐倉が奏の顔を凝視する。
 そして、奏がこれほどまでに必死になる、その本当の理由を察して―――佐倉は、悲しげに目を細めた。
 「―――キミはキミで、戦ってるのね。“彼”と」
 「……」
 「全てを知ることで、彼女に、気持ちの区切りをつけて欲しい―――新しい1歩のために。そのためなら、なりふり構わない、自分を売ることも厭わない、…ってことね」
 奏は、答えなかった。ただ……痛々しい笑みを、僅かに口元に浮かべた。それが、答えだった。
 「…あたしには、そういう、なりふり構わないところが足りなかったのね、きっと」
 そう、呟いて―――佐倉は再び、咲夜の寝顔を見つめた。


***


 夢を、いくつか見ていた気がする。
 その夢の中で、たくさん、泣いた気がする。その余韻が、僅かに覚め始めた頃……声が、した。


 「―――…咲夜ちゃん…」

 目を開けると同時に、涙が一筋、目じりからこめかみへと流れた。
 「……」
 …薄暗い。それに、見慣れない壁や天井だ。
 「一宮君。咲夜ちゃん、目を覚ましたわよ」
 誰かの声が、奏の名を呼ぶのを聞き、急速に目が覚めた。咲夜は、首を回し、声の主を探した。
 すると―――ベッドサイドに、佐倉が座っていた。その隣には、資料らしき紙から目を上げ、少し身を乗り出している奏も。
 「咲夜! 大丈夫か?」
 「…ああ、そっか…」
 店で倒れて、運ばれたんだった。病院に。
 一瞬混乱していた記憶が、やっと一本線に繋がる。はあっ、と息を吐き出した咲夜は、布団の上に投げ出していた腕に目をやった。相変わらず、点滴の針が無情に刺さっている。
 「…ザマないね、ほんと」
 「…バカ。倒れる前に、弱音吐けってんだよ」
 憤りをなんとか抑えたような声で、奏が呻く。咲夜は、奏に目を向け、微かに微笑んだ。
 「ご…めん…」
 「―――許さねぇ」
 「ハハ…、厳しいなー…」
 いつもの軽口みたいなやりとりに、心が、少し和む。手を伸ばした咲夜は、奏の膝の上にある手を、ポンポン、と軽く叩いた。
 「でも、何で佐倉さんが?」
 「え? ああ……打ち合わせ終わったところに、藤堂から電話が入ったから」
 「そっか…。佐倉さんも、ごめん。心配かけて」
 「…バカね」
 少し辛そうな顔をすると、佐倉は、咲夜の額にかかってる前髪を指ではらった。額に佐倉の指先が触れる感触は、なんだかくすぐったくて、咲夜は落ち着かない気分だった。
 「…謝るのは、あたしの方よ」
 「え?」
 「…あたし達の、せいなんでしょ? 咲夜ちゃんが、摂食障害起こすほど追い詰められた、原因は」
 「……」
 咲夜の目が、僅かに見開かれる。
 なんで、それを―――そう思って、あることに気づいた咲夜は、奏の方をチラリと見た。案の定、奏は、少し気まずそうな顔をしていた。
 「―――片想いしてたことだけは、話した」
 「……」
 正直―――あまり、知られたくはなかった。
 でも、知られたのは、かえって好都合かもしれない。これで、部外者だから訊くこともできない、と遠慮していたことを、堂々と訊ける。
 何故、拓海じゃ駄目なのか―――咲夜は、訊かずにはいられないから。
 拓海をあれほど苦しめたのが、佐倉なのか、香苗なのか、それとも柳なのか―――誰でもない、拓海自身の自業自得なのか。その事実を確かめない限り、誰を憎めばいいのか、誰を恨めばいいのか、自分でもわからない。そうやって、自分を納得させないと―――終わらない気がする。
 「…佐倉さん」
 再び佐倉を見、咲夜は少し、眉を寄せた。
 「どうしても、拓海じゃダメ?」
 「……」
 「嫌いだ、って本気で言うんなら、仕方ないと思う。佐倉さんの心に、命令はできないから。でも―――あの日、外で聞いてて、私、佐倉さんは今もまだ拓海が好きなんじゃないか、って思った。…違う?」
 佐倉は、黙ったまま、少し瞳を揺らした。…否定、とは、思い難い。
 「好きなのに、なんであんなこと言うの」
 「…咲夜ちゃん…」
 「香苗さんが自殺図ったのが、そんなにショックだった? …香苗さんには、もう柳さんもいて、一流デザイナーとしてバリバリ働いているのに、まだ拓海が許せないの?」
 「―――…違うのよ…」

 掠れた声で、そう呟いて。
 佐倉は、大きなため息をついて、額を手で押さえた。
 一瞬、泣いているのかと思ってドキッとしたが、違うようだ。まだ最後の逡巡をしているのかもしれないし、苦い記憶と戦っているのかもしれない。
 その格好のまま、暫し、じっと動かずにいた佐倉は、やがて顔を上げると、意を決したように、咲夜と奏の顔を順に見た。

 「…本音を、言うわ」
 「……」
 「あたしは、麻生さんを本気で憎んだことは、1度もないわ。そう……香苗が自殺を図った、あの時でも」
 「えっ」
 「…あたしは、怖かったのよ」
 そう言うと、佐倉は唇を噛み、俯いた。
 「…もし、香苗の言っていたことが、本当だったら―――あたし達は、取り返しのつかない罪を、背負ってしまってるかもしれない。…それを確かめるのが、怖かったのよ」


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