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― La vie en rose(前)

 

 佐倉みなみは、「超」のつくリアリストだ。
 “夢”という言葉も、大多数にとっては漠然とした憧れや目標だが、佐倉にとっては「未来の現実」だ。そこに至る具体的かつ現実的なヴィジョンを持っているから、絵に描いた餅などではない、実現可能な未来と考える。そして実際、そのように佐倉は生きてきた。

 でも、佐倉にはたった1つだけ、少女じみた小さな“夢”がある。

 それは、誰にも見せていない―――いや、たった1人にしか見せていない、ささやかな夢物語だ。


***


 佐倉が初めて“彼”と知り合ったのは、19歳―――大学1年の秋だった。

 「ふーん…真面目にやってるじゃない」
 バージニアスリムに火をつけつつ佐倉が感心したように言うと、隣に座った多恵子も、ラッキーストライクをバッグから取り出し、軽く眉を上げた。
 「あったりまえじゃん。不真面目だったら、2ヶ月ももたないっしょ」
 「そりゃ、まあ、ねぇ…。あたしはてっきり、久保田君がマスターに拝み倒して無理矢理置いてもらってるもんだとばっかり思ってたわ」
 「何それ、失礼なやつーぅ。大体さぁ、親友のバイト先に2ヶ月も顔出さないってどうよ?」
 「おや。そんなこと言いますか。多恵子だって、あたしの写真がバンバン載ってる雑誌、いまだに1冊もお買い上げしてないじゃない。それって親友としてどうよ?」
 「ハハ、まーまー、佐倉。そう多恵子を苛めるなって。多恵子がファッション雑誌買う姿想像すると、かなりの鳥肌もんだぞ」
 カウンター内でグラスを拭いていたバーテンダーが、そう言って苦笑する。大学の同期で、かつ、佐倉と多恵子の共通の友人でもある、久保田だ。
 …確かに、鳥肌モノかもしれない。佐倉は、わざと震え上がってみせた。

 佐倉とて、多恵子がジャズ・バーで歌い始めた、というニュースを全く気にしなかった訳じゃない。多恵子がプロ級の歌唱力の持ち主であることは知っていたから、是非足を運んで聴いてみたい、と思っていた。ただ、この頃の佐倉は、とてつもなく忙しかった。よりハードになったモデルの仕事と大学との両立で、日々フル回転だったのだ。
 初めて聴いた多恵子の本格的なジャズは、ジャズを全く知らない佐倉でも、上手い、とただただ感心してしまうものだった。
 睡眠薬を飲んだり、手首を切ったり、と動機不明の自殺未遂を何度も繰り返している多恵子だが、歌の才能だけは本物らしい。これをきっかけに、バカな真似はやめてくれたら―――それは、佐倉だけじゃなく、ヴォーカリストの欠員を聞きつけて即座に多恵子に話を持ってきた久保田の願いでもあった。
 ―――と言ってもあたしは、今の久保田君みたく、多恵子が死にたがる理由を今更突き止めようとは思わないけど。
 久保田とカウンター越しに話しながらケラケラ笑う多恵子の横顔を流し見、小さくため息をつく。
 多恵子とは高校からの付き合いだ。大学からの久保田とは違い、佐倉は何度も多恵子の瀕死状態を目撃している。最初の頃こそ、今の久保田よろしく、何が原因か、何をすれば止めてくれるか、と眠れなくなるほど悩んだものだったが……知り合って3年ともなると、所詮素人の自分には無理な話だ、という諦めの方が強い。実際、専門家でも、多恵子に本音を語らせることはできなかったのだから。
 自分にできるのは、バカな真似をしないよう観察することと、もし実行してしまったら、速やかに対応すること―――そして、変わらず友人でい続けること位のものだ。リアリストな佐倉は、多恵子の自殺癖に対するスタンスも現実的だった。

 「じゃ、多恵ちゃん、お先」
 ポン、と誰かが多恵子の肩を叩いた。
 多恵子ともども、佐倉も振り向く。そこにいたのは、先ほどまでのジャズライブで、ピアノを弾いていた男だった。
 「あっ、お疲れー、タクさん」
 「留守中はコージと上手いことやっといて」
 「おっけーおっけー」
 任せとけ、といった感じで、多恵子が鷹揚に頷く。タクさん、は、どうやらこの男の愛称らしい。が、コージが何者か、佐倉にはさっぱりわからない。
 タクさん、と呼ばれた男は、去り際、佐倉にもちらっと目を向け、微かに笑みを浮かべて会釈した。佐倉も会釈し返す。が、急いでいるのか、男は佐倉の紹介を求めることなく、足早に店を後にした。
 「…何? コージって」
 男の背中を目で追いながら佐倉が訊ねると、多恵子は煙草を揉み消し、答えた。
 「ああ―――この店のカルテットって、一部、メンバーが固定してないんだよね」
 「固定?」
 「そ。今のタクさんと、ベースやってる徹二さんは、道楽じゃなくプロとして活動してるから、そっちの活動の関係で、店に出られない日も結構あんの。で、タクさん、明日から今年いっぱい位までアメリカ行っちゃうんで、その留守中はピンチヒッターのピアニストが登場って訳」
 「ふぅん…」


 多恵子の言ったことは本当らしく、翌月、時間を作って店を訪れると、多恵子が歌う横でピアノを弾いているのは、タクさんと呼ばれたあの男ではなかった。
 次に同じ顔ぶれに会ったのは、年が明けてから。音楽には疎い佐倉だが、改めて聴いて、自分にはどうやらコージよりタクさんのピアノの方が合っているらしい、と何となく感じた。
 以来、月に2回程度の割合で、佐倉はジャズ・バーに顔を出すようになった。が、多恵子や久保田と談笑する方がメインで、それ以外の店員やバンドメンバーと会話を交わすことはなかった。だから当然、タクさんという男とも、挨拶しかしたことがなかった。
 挨拶以外の言葉を交わしたのは、大学2年になってから。
 しかも、意外なことに―――ジャズ・バーではない場所で、だった。


 ―――…あら?
 珍しくCDショップを訪れた佐倉は、そのジャズ・コーナーに見覚えのある人影を見つけ、少し目を丸くした。
 向こうも、佐倉に気づいたらしい。一瞬目を丸くし、すぐにこちらに歩いてきた。
 「こんにちは」
 「奇遇だね。多恵ちゃんの大学の友達だろ?」
 「ええ。あたしもビックリしました。…どうしたんですか? 今日は」
 佐倉が訊ねると、通称タクさんは、ちょっと気まずそうに苦笑した。
 「いや、実は昨日、俺が参加したジャズCDが発売になったから、ちょっと気になって見に来ただけなんだよな」
 「あー…、お察しします」
 佐倉も苦笑する。佐倉自身、まだ大手の雑誌の仕事など珍しかった頃には、そのファッション誌が店頭に並ぶと、なんとなく落ち着かない気分で本屋に見に行ったりしたものだ。彼も、あれと似た心境なのだろう。
 「そういう君は?」
 「多恵子ご推薦のジャズCDを探しに」
 「ふぅん…多恵ちゃんご推薦か。何てCD?」

 暇だったのか、彼は、件のCDを見つけ出してくれたばかりか、自分の推薦する1枚を景気良くおごってくれた。早い話、その1枚は、発売されたばかりの、彼が参加しているジャズCDだったのだが。
 CDも結構高い。タダで貰ってしまうのも……と思った佐倉は、近くの喫茶店でコーヒーを1杯おごることにした。その席で、佐倉はようやく、通称タクさんの本名を知った。
 麻生拓海―――それが、彼の名前だった。

 「じゃあ、6年もアメリカに?」
 「そう。親父と大喧嘩してねぇ……友達の家転々としながら金貯めて、結局、半年以上かかったかな。渡米まで」
 「渡って、向こうでは?」
 「唯一の頼みの綱が、知り合いの遠縁のおっさんでね。必死に頼み込んで仕事先見つけてもらって―――そりゃもう、何でもやったよ。ストリップクラブの掃除係とか、ジャズクラブの皿洗いとか。店のピアノをこっそり弾いたら、皿の洗いすぎで指先が割れちゃっててね。鍵盤を血染めにして、めちゃくちゃ怒られたりしたよなぁ」
 「あははははは」
 拓海は主に、アメリカ時代の話を語った。
 一方の佐倉は、自分がモデルをやっていることと、その経緯を話した。
 「へーえ…連帯保証人、か」
 「信用してた人だから、夜逃げされた時は、家族全員ボーゼン。あたしの大学進学費用を取り崩せばいい、って申し出たけど、両親とも“それだけは絶対に手をつけたくない”って言い張って―――それで、借金返済のためにこの道に入ったという訳」
 「華やかな職業とは裏腹に、随分苦労人だなぁ…」
 「でも、実家通いで家事負担もほぼゼロ、父の事業が思いのほか早く立て直ったこともあって、今年には全額完済予定だもの。響きよりはずっと楽な生活じゃないかな。それに、好きでやってる仕事だし。完済したら、実家からは独立して、自分の人生歩ませてもらうわ。そのためのプランは、もう立ててあるしね」
 「ハハ…、男の人生歩んでるな、佐倉ちゃんは。将来お嫁さんもらうんじゃない?」

 1時間ほどのコーヒーブレイクだった。
 仕事をしている関係から、多分、他の同年代よりは年上の人間と話す機会は多い方だと思うが、それは飽くまで仕事上のこと。プライベートで8つも年上の人間と親しく話すのは、考えてみるとこれが初めてだったかもしれない。けれど、1時間は瞬く間に過ぎた。拓海が渡米した時、自分はまだ小学生だった、と考えると「もの凄い差」のように思うが……実際、話してみた拓海は、思いのほか年齢差を感じさせない人物だったのだ。
 日本から出たことのない佐倉にとって、拓海から聞くアメリカの話は面白かったし、その語り口も嫌味がなかった。また、佐倉の話を聞く態度も、変に同情の色を見せたり、年上ぶって助言をしたりしなかった。
 要するに、話し相手として、合格。
 ―――なんか、面白い人。
 喫茶店の外で別れ、まるで散歩するみたいな足取りでぶらぶらと歩き去る拓海を見送りながら、佐倉はそう思ってくすっと笑った。


 そんな出来事はあったが、佐倉と拓海が親しくなることはなかった。
 多恵子や久保田がいる店の中では、結局は友人である彼らと語り合う方が優先になってしまうし、忙しい拓海は、ライブが終われば比較的さっさと帰ってしまう。大人数では1、2度飲んだが、あいにく席が離れていた。挨拶よりは多くの言葉を交わすようになったが、それでもやはり、佐倉と拓海の接点は少なかった。
 それが、ちょっとだけ変わったのは、その年の秋。
 ジャズ・バーには似つかわしくない人物が、ぽつん、とカウンター席に座っているのを見つけてからだ。


 「え、麻生さんの姪?」
 「そういうこと」
 「…いくつ?」
 「中1」
 「……」
 ―――いいの? こんなとこ連れてきて。
 カウンターで、ライブを終えた多恵子と楽しそうに話している少女を、ちょっと心配そうに流し見る。
 彼女は、名を咲夜という。拓海が短く説明したところによると、拓海の姉の再婚相手の連れ子で、現在、事情があって拓海が預かっているらしい。サラリと流されたので詳細は不明だが、多感な年頃での親の再婚なだけに、複雑な心境もあるのかもしれない、と佐倉は思った。
 「1回、冗談半分で連れてきたら、多恵ちゃんの歌にはまっちゃってね。今、本気でジャズ・シンガー目指してるんだよ」
 「あらら…じゃあ、将来は歌手? うーん…でも、手足も長いし首も細いし、あれで背が順調に伸びれば、理想的なのよねぇ―――ああ、将来、あたしがモデル事務所開いた時のために、キープしときたいわ」
 「まさか、モデルにスカウトする気か? 気ぃ長いなぁ…」
 呆れたような声を漏らす拓海を、佐倉は軽く睨んだ。
 「とんでもない。モデルの旬は短いのよ。将来性見極めるためには、早めに目をつけとかないと」
 「せめて事務所が実際に出来てりゃ、ご高説、大人しく拝聴するんですけどね、お嬢さん」
 からかうように言われて、佐倉はむっとしつつも、自信ありげに口の端を吊り上げた。
 「ご心配なく。事務所は“開きたい”じゃなく、“確実に開く”の。このあたしが決めた以上は、実現しない訳がないわ」
 「ハハハ、凄い自信だなー」
 じゃあ、お手並み拝見といきますか。
 そう言って、拓海は愉快そうに笑った。


 それ以来、佐倉は時折、多恵子や久保田抜きでも、拓海と言葉を交わすようになった。
 と言っても、回数もそれほど多くなく、しかも短い時間。むしろ、将来の金の卵と目をつけた咲夜の方に、親密になるべく話しかけることの方が多かった位だ。やはり、2人の関係は「多恵子を挟んだ知り合い」以上のものにはなり得なかったし、それ以上になりたいとも思わなかった。そして、それは拓海も同じなようだった。

 大学3年の春、佐倉は一人暮らしを始めた。
 実家の家計は安定したものの、まだ4つ下の弟の受験と進学がある。佐倉は、より効率のいい、高いギャラのもらえる仕事を選ぶように心がけた。それができるレベルのモデルには、既になっていたのだ。
 夏に、多恵子がまた自殺を図り、多恵子の保護者的役割をしていた久保田と、なんだかんだ言ってやっぱり多恵子が好きな佐倉は、これまでで一番疲弊した夏を過ごした。元々、互いに興味のある同士だったのもあるが、やはりこの騒動が引き金を引いた形になったのだろう―――この年の秋、佐倉は、久保田と付き合い始めた。
 これをきっかけに、佐倉は、一時、ジャズ・バーには全く顔を出さなくなった。2人の交際は、多恵子も知ってはいたものの……やはり、多恵子の前であまり親しげにするのは、気が引けたのだ。
 正直、佐倉にしろ久保田にしろ、お互いより多恵子の方が―――というか多恵子の命の方が―――大事だ。変な刺激を与えないよう、2人は「多恵子優先」という奇妙なルールのもと、非常に静かな交際を続けた。
 が、あまり、続かなかった。

 「…なんか、あたしと久保田君が一緒にいると、男が2人いるみたいよね」
 「…だなぁ。似すぎてるんだろうな、俺たち」
 多恵子を放っておけない性格だけが似てるのかと思ったが、どうやらそれ以外も―――やたら前向きな考え方も、長期計画をきっちり立て、それに向かって攻めの姿勢で突き進むところも、2人は似ていた。似ているからこそ、そこに友情が芽生えて、互いに居心地がいいとも思えたのだが……似ているからこそ、あまり近くなりすぎると、衝突も多かった。
 そんな訳で、クリスマスを前に、2人は別れた。「別れた方がよくないか?」「そうよね、あたしもそう思ってた」という、実に円満な別れ方だった。
 別れて、なんだかホッとした。佐倉と久保田は、また前のように、多恵子を両脇から支える「同志」となった。
 そして、僅か2ヶ月の交際の果てに、佐倉はつくづく思った。ああ―――麻生さんの言う通り、あたしって男の人生を歩む運命にあるのかもしれないな、と。


 そして、奇しくも、それとほぼ同じ頃だった。

 佐倉の、もう1人の親友―――大原香苗が、恋に落ちたのは。


***


 「えぇ!? ほ、ほんとに!?」
 「…うん。ほんとに」
 少し頬を染める香苗を、佐倉は思わずまじまじと見つめてしまった。
 週に1度、一緒に通っているスポーツジム。エアロビのハードなエクササイズが終わり、運動後の1杯、とばかりにスポーツドリンクをドリンクコーナーで飲んでいたところに、いきなりこのビッグ・ニュースだ。多少のことでは驚かない佐倉も、さすがに身を乗り出してしまう。
 「いつから?」
 「先週から」
 「……」
 「…ほんとはね。もうちょっと前に知り合ってはいたんだけど―――思い切ってこの前、気持ちを伝えてみたの。そしたら、付き合ってもいい、って」
 「ってことは、香苗の方から交際申し込んだ、ってこと?」
 「…そういうこと」
 感心したように、ほうっ、と息をついた佐倉は、カウンターに肘をつき、体を仰け反らせた。
 「さては相手の男、ハリウッド級の超美男子か何か?」
 「うーん……普通だと思うわよ? 少なくとも、うちの事務所と契約してる男性モデルの域には全然到達してないんじゃないかしら。極普通の人よ」
 「…香苗って、面食いだって言ってなかった?」
 「やだわ。それは中学生までの話よ」
 コロコロと笑う香苗の様子は、決して「先週から付き合いだした男」について謙遜している訳ではなさそうだ。だから多分、香苗の言う通り、極普通の男なのだろう。ピンとこない―――というか、信じられない。理解不能、という顔で、佐倉は首を振った。


 大原香苗は、佐倉と同じ事務所に所属するモデルである。
 年齢は佐倉より1つ上だが、この業界に入ったのは、佐倉より1年ばかり遅い。大学進学で上京し、その大学で読者モデルをしている子と仲良くなったのがきっかけで、事務所からスカウトされたのだ。
 贅沢なたちではないから、親の仕送りでなんとか暮らしていけるし、特にモデルに憧れている訳でもなかった香苗は、最初は断ろうと思ったのだそうだ。でも、友達の撮影現場を見ていたら結構面白そうだったので、すぐ辞めればいいんだし、とアルバイト感覚で始めた。
 はっきり言って、香苗のルックスは最高ランクだ。スタイルも良く、美貌と愛らしさを兼ね備えた、非常に魅力的な顔をしている。が、その実績は、ルックスとは裏腹に、あまり華々しくない。理由は、外見ではなく、香苗の内面にあった。
 香苗は元来、目立つのがあまり好きではない。この美貌だから、きっと子供の頃から自然と目立ってしまい、いつも人の視線を感じていたからなのかもしれない。使ってもらおうとしのぎを削りあうモデルの中で、香苗はあまりに控えめすぎるモデルだった。
 それに、現場でのセクハラに、どうしても我慢ができないタイプでもあった。「一晩付き合ってくれたら、次の仕事でも推薦してあげるよ」などと言う代理店やカメラマンの冗談を、佐倉なら笑顔でかわしてみせるが、香苗には無理だった。打ち合わせ段階で少しでも色目を使われると、事務所に泣きついてキャンセルしてもらっていたほどだ。結果―――事務所側もあまり香苗に期待しなくなり、決まった雑誌の仕事以外、積極的には取ってこなくなった。
 アルバイト感覚で始めたモデル業も、もう4年目―――香苗も来年は大学卒業だ。既に某アパレルメーカーへの就職が決まっているので、当然、モデルは大学と一緒に卒業することになる。これほどの素材なのに、もったいない―――本人の意向なのだから仕方ない、とわかってはいるが、佐倉はついため息をついてしまう。

 多分、香苗は、恵まれすぎていたのだ。
 大金持ちではないが、上京した娘が困らない程度の仕送りが出来るだけの両親がいたこと。他人をライバル視する必要が微塵もないほど、誰よりも優れた容姿であったこと。その容姿故に他から敵視されても不思議ではないのに、そうならずに済むほど、内気で控え目な性格であったこと。そして、就職活動をしてすぐ内定が貰えたこと―――ハングリーになることも、誰かと競い合って自分を高めることも、香苗にはなかった。だから、これほどの資質を持っていても、モデルとして大成しなかったのだろう。

 先輩格である佐倉は、「わたしはいいの」と遠慮する香苗の腕を引っ張り、セクハラ親父なクライアントに香苗の代わりに嫌味の一言も言い、小さなことでクヨクヨ悩む香苗の相談によく乗った。1つ年下ながら、佐倉は香苗の姉のような存在だろう。
 けれど、佐倉は逆に、香苗に癒されていた。
 マイペースで、争いごとが嫌いで、欲がなくて―――ライバルだらけのこの世界で、香苗はオアシスみたいな存在だ。根っからの姉御肌である佐倉は、そのオアシスを守るべく、香苗の世話をあれこれ焼いていた。
 だからこそ、心配になる。


 「…変な男に騙されてるとか、そういうことは、ないでしょうね?」
 眉をひそめて佐倉が言うと、香苗は苦笑し、首を横に振った。
 「大丈夫よ。みなみが心配するような人じゃないもの」
 「じゃあ、どういう人よ。具体的に」
 「音楽関係の人で、とっても大人なの。なんていうか…懐が深い、っていうのかな。わたしって、自分自身があんまりしっかりしてないから、頼れる男の人が理想だったの」
 「…はいはい」
 ―――何訊いても無駄ね。「恋する乙女フィルター」がかかっちゃってるわ。
 どんな男か知らないが、香苗がその男に夢中なのだけはよくわかった。外見の割に(いや、だからこそ、なのか)交際経験がさほどない香苗が、なんと自分からアタックしたような恋なのだ。たとえ佐倉の目には人外生物にしか映らなくても、香苗にとっては理想の王子様なのに違いない。
 「それにね。柳さんの猛攻撃をかわすのも、彼氏が出来れば楽になると思うの」
 「ああ、あのボンボン、まだ諦めてないの。懲りないわねぇ」
 2ヶ月ほど前から香苗につきまとっている男の顔を思い出し、思わず眉間に皺を寄せる。「柳さんに強引に夕食に誘われた、どうしよう」と香苗から電話を貰い、大慌てで駆けつけ、計3人でディナーの席を囲んだ経験を持つ佐倉だ。嫌がる女をしつこく口説く男なんてサイテーよね、と、柳に対して内心毒づいた。
 「ま…、ともかく、良かったじゃない。理想の彼氏で」
 再びスポーツドリンクをあおりつつ、佐倉はそう締めくくった。すると香苗は、まるでバラの蕾がほころぶような笑みを浮かべた。
 「フフ…、ありがとう。恋愛なんて久しぶりだし、みなみに彼氏が出来ちゃって、ちょっと寂しいな、と思ってたところだから、本当に良かったわ」
 「えっ」
 「ね、みなみ。これからはどんどん、わたしにノロケちゃってね、彼氏のこと。わたしもノロケさせてもらうから」
 「……」
 ―――タ…タイミング、最悪。
 佐倉は、少々笑顔を引きつらせつつ、答えた。
 「あ、ああ、それだけど、実は―――別れたのよね」
 「え?」
 「やっぱりあたし、男の人生歩むタイプみたい。お嫁さん探す方が現実的かも」
 香苗の顔も、引きつる。申し訳なさそうな顔になった香苗は、ものすごく小さな声で「ごめんなさい」と謝った。
 「じゃ、じゃあ…ノロケは、控えておいた方が良さそうね」
 「…そうね。できればその方向でお願い」
 円満な別れ方で、今もいい友達同士だ、と言っても、それなりに落ち込んだし、人のノロケを聞けば聞くほど、「女としてダメな自分」を見せ付けられる気がしてもっと落ち込みそうだ。苦笑した佐倉は、そう返事して、残りのスポーツドリンクを飲み干した。


 佐倉はこの時のことを、約2年後、後悔することになる。
 小さなことを気にするタイプの香苗は、初めて恋愛のことで落ち込んでいる様子だった佐倉を見て、佐倉の前で恋愛話はご法度だ、と考えたらしい。そのため、佐倉がそれ以降、香苗から“彼氏”についての詳しい話を聞くことはほとんどなかったのだ。
 聞いていれば、気づけたかもしれないのに。
 香苗の言う“彼氏”が、佐倉自身も知る人物であったことに。


***


 あの店に行くこともなくなっていた佐倉が、また拓海と会ったのは、年も明け、4年生になる直前の、3月―――場所はなんと、大学だった。
 佐倉の大学では、毎年、卒業生を送り出す「卒業生追い出し会」というのを、学生主導のもと開催する。その実行委員となった久保田が、会の催し物の1つとして、多恵子とその仲間によるジャズ・ライブ、というのを計画したのだ。
 平日ということもあり、参加するのは、会社員の2人を除いた2名―――つまり、拓海と徹二ということになった。久保田同様、実行委員の1人でもあった佐倉は、当日、ライブのために駆けつけた拓海と、数ヶ月ぶりに再会した。

 「でも…麻生さんも徹二さんも、仮にもプロでしょ。ノーギャラでよく出る気になったわね」
 少々呆れ顔をする佐倉に、拓海は、そんなこと微塵も気にしてません、という顔で笑った。
 「たまにはいいでしょ、こういうのも」
 「…いいの?」
 「ようは、楽しけりゃ何だっていいってこと」
 「あっは…、なんとなく、麻生さんっぽい」
 思わず、笑ってしまった。楽しけりゃ何でもいい―――まさに、佐倉がイメージする拓海そのもののセリフだったから。

 何度か言葉を交わす中で、佐倉は拓海を、「自分とは対極の人間」と感じていた。
 目標を設定し、それに向かって計画を立て、人脈を作り力を蓄え、着実に歩みを進めていく。そんな自分とは正反対―――渡米した経緯も“勢い”であり、何年行くかも決めていなかった。異国の地でどう生計を立てるかも、完全に「行ってみりゃ何とかなるさ」方式。ピアノが好きだ、音楽が好きだ、その想いだけで、本能の赴くままに目標に向かって突き進む。それが、麻生拓海だ。
 採算とか損得も、おそらく拓海の思考パターンの中にはない単語だろう。面白いからやる、やりたいからやる―――勿論、趣味とは違い、今はピアノが仕事だ。歯噛みする思いで、不本意な仕事も請け負うらしいが、基本的に拓海は、こういう思考のようだ。
 そういう拓海の破天荒な生き方は、香苗に感じる癒しとはまた別の意味で、佐倉をなんとなくホッとさせてくれる。
 肩肘張って生きるばかりが能じゃない、時にはこうやって流されるのも悪くはないもんだ―――そんな風に思わせてくれる人間の、典型例。それが佐倉から見た拓海だったのだ。

 「卒業生追い出し会」の席で、佐倉は初めて、狭い店内ではない、広い会場で演奏する拓海を見た。
 多恵子も、徹二も、こちらが圧倒されるほど上手かった。が―――その中でも拓海のピアノは、格段に輝いて見えた。
 音楽にそれほど明るい訳ではないが、多恵子や久保田の影響で、それなりにジャズは聴いている。その佐倉の耳にも、拓海の演奏はすさまじかった。拓海が奏でる力強いバラードは、彼が不遇の時代を過ごしたというアメリカの匂いがするような気がした。
 ―――本物のプロの演奏って、きっと、こういう“空気”や“匂い”を感じさせる演奏なんだろうな…。
 初めて、拓海に尊敬の念を抱いた瞬間だった。


 これを機に、佐倉はまた時々、ジャズ・バーを訪れるようになった。
 この頃、咲夜は既に拓海の手を離れ、再婚した両親や弟妹が暮らす実家に戻っていた。そのせいもあるのか、以前より顔を見せなくなった、と多恵子がぼやく。それは、将来のモデルの卵として咲夜に目をつけていた佐倉にしても、少々残念な話だった。
 拓海は、この1年で日本での活動がかなり軌道に乗ってきたらしく、他のメンバーがピアノを務めることが多くなってきていた。佐倉は別に、拓海のピアノ目当てで店に行っていた訳ではないが、行ってみてピアノ担当が拓海じゃなかったりすると、正直、少しがっかりしたものだ。ファン、と自称するほどではないが―――追い出し会のライブをきっかけに、佐倉は、拓海のピアノに心惹かれていた。

 夏休みも過ぎると、卒業研究が本格的になり、店からまた足が遠のき始めた。
 そして、秋―――拓海たちのカルテットは、解散した。


 「徹二さんもタクさんも、もうああいうマイナーな店で演奏できる立場じゃないしね」
 解散の原因は、メンバーのスケジュールが全然合わなくなってきたため、らしい。勿論、ジャズ・バーでのライブも終了。多恵子は、歌う場所を失った。仕方ないさ、と多恵子は肩を竦めた。
 「じゃあ、多恵子は、どうするのよ」
 「こっちだって卒研忙しいからね。卒業までは、そっちに専念する」
 「そう…」
 「タクさん、顔広いからさ。いい話あったら、また持ってきてくれるって約束してくれてんだ。ま、何とかなるんじゃない」
 「……」
 ―――本当に、見つかるといいんだけど。新しい場所が。
 密かに、真剣にそう願う。
 3年生の夏に生死の境を彷徨うほどの自殺未遂を起こして以降、多恵子は、自殺未遂と断言できるほどの問題行動は起こしていない。比較的安定している、と言ってもいいだろう。その裏には、人との出会いや別れなど、色々な要素があるのを、佐倉は知っているが―――歌も、多恵子を安定させている要素のひとつだと、佐倉は感じていた。
 就職する気のなさそうな多恵子は、卒業後、アルバイトで食いつないでいく、と言っている。佐倉はいよいよ、生活のほぼ全てをモデル業に使うことになるだろう。あの店でのバイトもなくなってしまった今、大学という接点を失えば、多恵子と佐倉の生活はまるっきり切り離されることになる。
 不安だった。
 心の中に、誰にもわからない爆弾を抱える多恵子が、卒業後、自分の知らないどこかで爆発してしまうのではないかと―――佐倉は、怖かったのだ。

 そんな不安を抱えていた、クリスマス前。
 佐倉はまた偶然にも、拓海と遭遇した。

***

 「あれ…、佐倉ちゃん?」
 「え?」
 事務所そばの喫茶店で声をかけられ、佐倉は驚いて振り向いた。
 そこには、革のジャケットを着込んだ拓海が、少し驚いた様子で立っていた。今、ちょうど店に着いたばかりらしい。
 「えぇ、麻生さん?」
 「奇遇だなぁ。なんでここに?」
 「あたしの所属事務所、ここから徒歩5分だから。麻生さんこそ、どうしてこんな所に?」
 「俺はちょっと、人と待ち合わせ。―――まだ随分時間あるな。暫くそこ、いいかな」
 佐倉の向かい側の席を目で指し示して、拓海が軽く首を傾ける。佐倉の方は単なる休憩で、誰かが来る予定など全くない。どうぞ、という意味を込めて、佐倉は微笑み、テーブルの上の物を自分の側へと移動させた。
 向かい側に座った拓海は、コーヒーを注文し、煙草をポケットから取り出した。喫煙してもいいか佐倉に訊ねかけたが、佐倉の傍らに置かれたバージニアスリムの箱とライターに目を留め、訊くのをやめた。
 「咲夜ちゃん、元気にしてる?」
 「ん? ああ、元気だよ」
 パチン、とジッポーの蓋を閉め、煙を吐き出しながら、拓海は答えた。
 「高校受験真っ只中で、ストレス貯めまくってるけどな。週に2、3度、うちに来てさえずってるよ」
 「…いよいよ、ジャズ・シンガーの道まっしぐらね。残念だわ」
 半ば本気で、ため息をつく。そんな佐倉を見て、拓海は愉快そうに笑った。
 「相変わらずだねぇ、佐倉ちゃんは」
 「ええ。有言実行、目標には日々着実に近づいてるもの」
 事実、佐倉は、着実に去年よりランクアップしていた。
 来月、世界的にも結構名のある広告カメラマンと初めて仕事することが決まっているが、そのギャラは、佐倉のモデル人生で過去最高額―――佐倉のモデルとしての価値がこの1年でかなり上がったことを意味する。
 大学卒業までにはこの額を超えるぞ、と密かに目標としていた額を、佐倉は無事、クリアできた。計画は順調。この分なら、30歳頃にはモデル事務所を構える、という当面の最大目標も、無事叶うだろう。その自信も確信も、佐倉にはある。
 「あ…、そう言えば、麻生さんが秋に出したアルバム、購入させていただきました」
 コーヒーが運ばれてきて、会話が一時中断したのを機に、佐倉はそう拓海に告げた。
 拓海は、少し目を丸くしたものの、すぐににんまりと笑い、慇懃無礼っぽく頭を下げた。
 「へえ。お買い上げ、ありがとうございます」
 「久保田君や多恵子に訊いたら、オリジナル曲がほとんどだ、って。麻生さんって作曲もやるのね。知らなかった」
 「ああ、一応ね。そっちも独学で、俺が書いてるおたまじゃくしが正しいかどうかは、いささか怪しかったりもするんだけど」
 そう言いつつ、コーヒーカップを口に運んだ拓海だったが―――名前が出て、思い出したのだろうか。カチャン、とカップを置き、唐突に佐倉に訊ねた。
 「多恵ちゃん、といえば―――その後、どう? 様子は」
 問われて、一瞬、佐倉の心臓が軽く跳ねた。
 が、何ともないようなフリをして、佐倉は曖昧な笑いを拓海に返した。
 「え…、ええ、元気よ。卒業レポートがまとまらなくて、ああだこうだ、毎日唸ってるみたい。でも、こと勉強に関しちゃ“できる奴”だから、年明けには楽勝で仕上げてるんじゃないかな」
 「ふーん…」
 佐倉の微妙な反応に、拓海も気づいてしまったらしい。拓海の方も、何か含みのある、何かを考えながらのような曖昧な相槌を打った。
 「何か、あった?」
 「……」
 「またやっちゃったか、アレ」
 そう言って、手首を切る真似をしてみせる拓海に、佐倉は疲れた苦笑いを返し、首を振った。
 「―――絶対卒業する、って約束した相手がいるから、意地でも卒業する、って本気で頑張ってる。多恵子は安定してるわよ。不安定なのは……あたしの方」
 「佐倉ちゃんが?」
 …不思議だ。
 久保田にだって、この本音は、決して口には出来なかった。なのに何故、大した知り合いでもない拓海に、今、その本音を晒そうとしているのだろう?
 いや、久保田だからこそ―――自分同様、多恵子を支えてきた久保田だからこそ、とても言えなかったのかもしれない。それに比べると拓海は、多恵子の仲間ではあるが、そんなに近しい間柄ではないので、言いやすいのかもしれない。
 「…心配なのよ。多恵子が」
 苦い思いが、口調にも滲み出る。眉を寄せた佐倉は、小さくため息をついた。
 「今は、卒業って目標に向かって走ってるけど……卒業してからも走り続けるかどうか。緊張の糸が切れたら、また自殺願望が頭をもたげて、バカな真似をしでかすんじゃないか、って―――本気で心配してるのよ。大学卒業したら、日常的に多恵子に会うことは、ほとんどなくなる訳だし。だから、心配なら、自分から動いて多恵子に会うようにしなきゃ、あの世に逃げ出そうとする多恵子をあたしが捕まえなきゃ、って思う。…それは、本当」
 「……」
 「でも……いい機会だから、距離を置いた方がいい、って思う、卑怯な自分もいるのよ」
 「…卑怯、か」
 「6年―――高校から大学の6年をかけて、あたしが何言ったってあの子の考えが変わることがない、ってことを、嫌ってほど悟っちゃったから。無駄なのに、それだけの力もないのに、多恵子の手を引っ張り続けていることに、ちょっと疲れちゃったのかも。…情けないわよね。親友だってのに」
 「―――いや、そんなこと、ないんじゃない?」
 あっさりと、拓海はそう返した。
 どうして、という目で佐倉が眉根を寄せる。が、拓海の表情は、淡々としていた。少し、何かを考えるように黙ってコーヒーを口に運んだ拓海は、やがて、ゆっくりと口を開いた。
 「これは、まだ誰にも話したことない、トップ・シークレットだけど」
 「トップ・シークレット?」
 「アメリカ時代。あちこち転々とした俺が、最後に流れ着いたニューヨークで、俺は1人の黒人トランペッターとルームシェアしてたんだ。ニッキーって名前の、陽気な奴でね。同じジャズ・クラブで、バンドマンとして働いてた。明るい、優しい奴だったよ―――最後の半年を除いては、ね」
 「…え?」
 「ある日、ニッキーは、酔った客と喧嘩になって、ジャズ・クラブをクビになった。どう考えても客に非があるように俺には思えた。人種差別のヤジを飛ばしたんだからね。必死に“クビにしないでくれ”って頼むニッキーと一緒に、俺も頭を下げたよ。こいつのトランペットでないと、俺も、他の連中も、最高の演奏はできない、ノーギャラで2日間演奏するから、許してやってくれ、ってね。でも―――店主の答えは、ノーだ。頭に血ぃ上って、俺も辞めてやる、と一瞬思ったけど……まぁ、無理だよな。俺にとっても、やっと掴んだ仕事だ。あの国じゃ圧倒的マイノリティの俺が、一流店での仕事を蹴って、次の店で雇われる可能性はほぼゼロだ。仕方なく、俺はそのまま店に残り、ニッキーは店を去った―――…」
 そこまで言うと、拓海は当時を思い出してか、深いため息をついた。
 「…ニッキーは、攻めには強い男だったが、守りには弱かった。ニューヨークでも有数の有名店の仕事を、たった1回のイザコザで失ってしまった後悔と屈辱は、あいつの姿勢を攻めから守りに変えてたんだろうな。たまたま運悪く、メンバーの空きのある店がなくて、奴の次の仕事はなかなか見つからなかった。今までのあいつなら、諦めなかっただろうが……1ヶ月で、絶望した。元々、スランプがあると、マリファナや怪しげなドラッグの世話にちょくちょくなってたらしい。俺が気づいた時には、時既に遅し―――立派なジャンキーのできあがり」
 「……」
 「止めさせようと、必死になったさ。更生施設に入れ、と金を渡したりもした。その金で酒とドラッグ買った時には、マジ切れしてぶん殴ったけど……俺は、助けたかったよ、本気で。だってあいつは、国籍も人種も違う俺を“Brother”とまで呼んでくれたんだから」
 「…助けられたの?」
 話の流れからして、その答えが「イエス」である確率は、絶望的だ。案の定、拓海から返ってきたのは、暗い苦笑いだった。
 「―――この国の白人(ホワイトピッグ)は、黒人(ニガー)より黄色人種(イエローモンキー)を優遇するらしいな。お前が黒人だったら、俺の肩持った時点で、あの時一緒にクビ切られてたぜ。……唯一、正気になった時のニッキーのセリフが、これだぜ? ハハ…、友情はどこへやら―――もう無理だ、このままじゃ俺まで壊れる、と悟って、俺は部屋を出て行った」
 「……」
 「その1ヵ月後、ニッキーが、一度に大量のドラッグを飲んだせいで死んだ、と他のバンド仲間から聞いた。…で、俺は日本に戻ることにした」
 はぁ、と息を吐き出した拓海は、コーヒーカップを手に取り、肩を竦めた。
 「以上、“麻生拓海がアメリカを捨てた訳”の巻、おしまい」
 「―――…救いのない話ね」
 ニッキーを立ち直らせることができれば、それが一番良かったに決まっている。でも……自分が拓海の立場でも、やっぱり何もできなかったような気がする。苦い思いに、佐倉は唇を噛み、俯いた。
 「…人間、誰かを支える力には、限界があるよな」
 「……」
 「自分には無理だ、支えきれない、と悟ったら―――自分が壊れないために、憎み合わないために、距離を置いても罪にはならないと、俺は思う。だから、佐倉ちゃんが多恵ちゃんと距離を置くようになっても、俺は責めないよ」
 責める資格もないしな―――と、辛うじて聞こえるほどの声で、小さく付け足す。
 いつも余裕ありげな拓海にしては珍しいその口調が、彼が見た地獄を物語っている気がした。

 

 「みなみ!」
 モデル事務所に戻った佐倉は、待ちかねたような声を耳にして、目を丸くした。
 「香苗…」
 「もー、待ったわよ。どこ行ってたのよ」
 「どこ、って…休憩だけど。え、なんで香苗がいるの?」
 香苗がモデルを完全に辞めてからも、佐倉と香苗は、今まで通り一緒に週1回のエクササイズに通っている。だから、香苗に会うのは、そう久しぶりという訳でもない。が……事務所で、というのは、これが初めてだ。
 第一、今日は平日だ。確かに、既に一般的な会社なら定時を過ぎる頃だが、香苗の会社はここから離れている。定時後に寄ったのだとしたら、ワープでもしてこない限り、無理な話だ。
 すると香苗は、相変わらず美しい顔に、珍しい位にいたずらめいた笑みを浮かべた。
 「ふふっ、実は、仕事でこの近くに来てたのよ。しかも上司から“直帰していいよ”ってお許しも出ちゃったから、みなみの顔見てから帰ろうかな、と思って」
 「…そ…、そう」
 「…なぁんて言いながら、この後、彼と待ち合わせなんだけど。あ、でも、みなみの顔が見たかったのは本当―――…」

 言いかけて。
 香苗は、目を大きく見開き、息を呑んだ。
 佐倉の目に、涙が浮かんでいたのだ。

 「―――…っ…」
 佐倉自身、どうして涙が出てくるのか、わからなかった。
 拓海に話してしまったからなのか、それとも、突然香苗の顔を見たからなのか……きっかけすら、よく、わからない。6年間、多恵子が自殺を図るたびに、男の久保田以上に気丈に、冷静に対処してきた自分なのに―――いや、だからこそ、ここにきてとうとう涙が出てきたのだろうか。
 口元を押さえた佐倉は、声を殺し、必死に涙を堪えようとした。が、無理だった。堰を切った涙は、頬を伝い、口元を覆う手の甲に落ちた。
 「…みなみ…」
 戸惑ったように、香苗が佐倉の名を呼ぶ。けれど、佐倉は何も返せなかった。
 何か言わなくては、香苗を心配させないようにしなければ―――そう思った次の瞬間、佐倉の肩と背中が、ふわりと暖かくなった。
 香苗、だった。
 香苗が、慰めるように、佐倉の肩を抱いてくれていた。
 「…泣かないで…」
 「……」
 「…大好きよ、みなみ―――泣かないで。私はずっと、一緒にいるから」
 春風のような、優しい声だった。
 その、優しい声に、佐倉は少しだけ、癒された気がした。


***


 拓海と佐倉は、不可思議な縁で結ばれているのかもしれない。
 卒業後、多恵子は以前言っていたとおり、拓海の紹介で、新たな六本木のジャズ・バーで歌を歌い始めた。少し距離を置いてみよう、と決めた佐倉だったが、多恵子がちゃんと生活しているか―――はっきり言うなら“生きているか”―――を確認するためにも、2ヶ月に1度ほど、思い立って、その店に足を運んだ。
 そして、驚いた。
 1度目も、2度目も、何故かそこで、拓海とはちあわせになったのだ。

 「…佐倉ちゃん。もしかして俺が来る日に合わせてる?」
 「そんな訳ないでしょ。第一、あ、行こう、って思い立ったのが今朝なのよ?」
 「俺だって今日の昼だよ」
 「―――変な縁があるらしいね、お二人さん」
 多恵子が呆れるのも無理はない。佐倉同様、拓海だって、その店を訪れるのは2ヶ月に1度程度のことだというのだから。他の場では全く接点がない同士なのに―――少々オカルトめいた偶然さに、佐倉はちょっと身震いした。

 そんな偶然のおかげで、佐倉は、また拓海と話をする機会を得られた。
 話すことといえば、仕事のことや音楽のこと、そして人生観などの、ちょっと哲学じみた話。そして、これも不思議な偶然だが―――1度目の時は佐倉が、2度目の時は拓海が、仕事上のちょっとした悩みを抱えていて、その悩みのことなどを、お互い話したりした。
 そして、気づいた。感情と本能が先行する拓海と、ヴィジョンと理論が先行する佐倉は、お互い、いい相談相手になれるらしい……ということに。
 自分の視点では絶対に出てこなかったような考え方が、相手からはポンと飛び出してくる。その一言で、なんだか妙に気が楽になったり、背中を押されたような気になったりする。家族、先生、友達、仕事の関係者―――様々な人と、様々な関係を築いてきた佐倉だが、拓海のように、その意見を素直に聞ける相手は珍しかった。
 会った回数は少ないものの、そんな風に小さな悩みを解決しあったことや、クリスマス前にお互いに語った、人にはあまり晒せない苦い想いのことなどもあり、佐倉の中の拓海の存在感は、以前よりかなり大きくなっていた。親友―――とはさすがにいかないが、かなりいい線いってる友達、位には言えるかもしれない。
 でも何故か2人は、電話番号を訊くとか、次に会う約束をする、といった類のことを、どちらもしなかった。
 日頃、その存在をほとんど忘れているのに、何かに引かれるように偶然会う。会って話をすると、信頼感や友情が増し、少し大きくなった存在感を抱えて、また別れる―――その、繰り返し。多恵子の言う通り、変な縁でもあるのかもしれない。自分でも首を傾げてしまうが、佐倉はそんな拓海との関係を、こういうのも悪くないよね、とあっさり考えていた。


 そんな日々が、半年以上続いただろうか。
 運命の日―――12月のその日が、突然、やってきた。


***


 その前日、佐倉は夜中までかかって撮影をこなし、仮眠後に打ち合わせを1件終わらせ、帰宅したのは昼近くなってからだった。
 疲労困憊の目に映ったのは、点滅している、留守番電話のランプ。
 別に、珍しいこともない。あくびをしながら、佐倉は留守番電話のボタンを押した。

 『メッセージは、2件です』

 1件目は、仕事の関係者からの連絡電話。既に先ほどの打ち合わせで直接聞いた内容だった。コートを脱ぎ、部屋に暖房を入れながら、佐倉はそれを聞き流した。
 そして、2件目。
 留守電が告げた時刻は、まだ30分ほど前の時刻だった。

 『…佐倉。俺だ。久保田』

 思わず、電話を振り返る。
 卒業後も、多恵子のことを気にして、時折連絡を取り合ってはいるが―――今日は、平日だ。激務続きの新人会社員である久保田が、平日の午前中に佐倉に電話だなんて、少々妙な話だ。
 形容し難い予感が、胸にせり上がる。その予感にダメ押しをするように、録音された久保田の沈痛な声が、事実を端的に佐倉に伝えた。

 『いいか、佐倉。落ち着いて聞いてくれ。…さっき連絡があって、今、警察にいる。多恵子が―――多恵子が、マンションの屋上から飛び降りて、死んだ』


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