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― La vie en rose(中)

 

 訃報を受けてからの佐倉の行動は、早かった。

 多恵子の両親のもとに駆けつけ、何か手伝えることはないか、と申し出た結果、佐倉は「連絡係」を買って出ることになった。
 付き合いの広い多恵子なだけに、連絡しなくてはいけない相手は多い。学生時代の関係者、複数ある仕事の関係者―――中には簡単に連絡先のわからない者もいたし、下手をすると本名がわからない者までいた。が、佐倉は、知り得る多恵子の知り合いを根気よく辿って行く方法で、手際よく自分の仕事をこなしていった。
 「はい…はい、今夜6時半からになります。葬儀は明後日の正午からです。よろしくお願いします」
 もう何件目かわからない電話を終え、はーっ、と息をついたところで、誰かに背中を叩かれた。
 振り向くとそこに、ダークスーツを着た久保田が立っていた。滅多なことでは疲労の色など見せない彼だが、さすがにその顔は憔悴していた。
 「お疲れ様」
 「佐倉こそ。…悪かったな。徹夜明けだったんだろ?」
 「あたしはヘーキよ。久保田君たちの方が大変でしょ」
 久保田と、その現在の恋人である女性は、昨夜、多恵子が自宅マンションから飛び降りる数時間前まで、多恵子と一緒に飲んでいたのだそうだ。おかげで2人とも、警察で事情を訊かれることとなった。ただでさえショックを受けているところに、死の直前の多恵子の様子などを訊かれたのでは、その心労たるや想像を絶するものだろう。時期が違えば、自分が同じ立場になったかもしれない―――そう考えると、同情を禁じえない。
 「どう、彼女の様子」
 まだ実物は見ていない久保田の恋人を心配して、少し眉をひそめる。そんな佐倉に、久保田はこれまでで一番疲れた表情を見せた。
 「…相当、参ってる。あいつ、母親亡くしてることもあって、人の死には人一倍弱いんだ。それに最近じゃ、俺以上にあいつの方が多恵子と親しかったからな」
 「…みたいね」
 それは、たまに訪れる多恵子のバイト先で、多恵子本人からも聞いていたし、多恵子の近況を訊ねるために、月に1度程度の割合で久保田にかけていた電話でも、漠然とではあるが、聞いていた。
 「全く―――情けなくなるな。5年も友達やってきて、何度も多恵子の自殺未遂を目の当たりにしときながら、最後の最後、見抜くことができないなんて…」
 大きなため息とともに久保田が呟いた言葉に、佐倉はさすがに眉根を寄せた。
 「それは…無理ないわよ。あの多恵子が、ボロを出す筈ないもの」
 ポケットの中に、親しい人それぞれへの遺言書と一緒に、「警察各位」へ宛てて、自分の住所氏名、実家の電話番号、自殺であり事故でも事件でもないこと、メディア報道は可能な限り排除して欲しい、なんてことまで明記した捺印入りメモを残すような多恵子だ。死の1分前でも、そこに多恵子の死を危惧する者がいたら、決してボロは出さなかっただろう。不安定な心の持ち主だったが、そういう部分では用意周到で、天才的に頭のキレる奴だった。
 「ああ…、俺も、そう思う。思うんだが―――…」
 久保田の声の語尾が、掠れる。わかっていてもやはり、何かできたんじゃないか、と後悔するのだろう。…当たり前だ。佐倉は、薄く笑みを作り、久保田の肩を宥めるように叩いた。
 「よく、頑張ったわよ。キミも、彼女も」
 「…いや。結局俺たちも、何もできなかった」
 「それでもよ。よくやったわ」
 ―――あたしとは違って。
 ズキン、と胸が鈍く痛む。佐倉はその痛みを堪えた。
 「だから、もうひと頑張りしましょ。多恵子をちゃんと送り出すまではね」
 「…ああ。そうだな」
 ため息をついた久保田は、バツが悪そうに頭を掻き、佐倉を見下ろして僅かに苦笑を見せた。
 「やっぱりこういう時、佐倉の方が冷静だな。普段は冷静に判断できてるつもりの俺も、いざとなると、慌てふためいてばっかりだ」
 「ふふ…、そうかもね」

 ―――あたしが、しっかりしないと。
 いつだって、そうしてきた。あたしが、しっかりしなきゃいけない。

 心の中でそう呟き、佐倉はもう一度、久保田を元気づけるように肩を叩いた。

***

 最後まで連絡のつかない1人にかまけているうちに、通夜は始まってしまい、佐倉が会場に到着したのは随分遅くなってしまった。
 「佐倉さん…っ!」
 到着早々、見知った顔が2名、泣きはらした目をして駆け寄ってきた。大学時代、多恵子がよく顔を出していた軽音楽部の同期と後輩だ。
 佐倉の方は彼らをあまりよく知らないが、佐倉は、モデルをやっていたこともあり―――いや、それ以上に、「あの多恵子の親友」ということで、大学では大半の人間に名前を知られている。佐倉は、何て名前だっけこの子たち、と頭の片隅で考えつつ、そつない微笑を浮かべた。
 「遅くなっちゃって……2人とも、もう多恵子には会った?」
 「うん。私もう、ショックでショックで……。ねぇ、多恵子は、どうして」
 「あの、ごめんなさい。あたしもまだ、ご焼香済ませてないから」
 入り口に入る前に足止めを食らいそうになるのを、なんとか遮る。佐倉は、当たり障りのない言葉を2人にかけ、やっと会場のドアを開けることができた。
 そして、会場正面に、あまりにも明るい笑顔を見つけ―――心臓が、止まりそうになった。
 それは、多恵子の昔の写真だった。
 髪型から察するに、多分、大学1年の頃の写真だろう。真っ白な祭壇の真ん中に、多恵子が、いたずらっ子のような明るい顔で笑っている。遅いよ佐倉、何してんの―――今にもそう言いそうな顔に、佐倉は、僅か10秒前の冷静な対応も忘れて、一瞬、その場にへたりこみそうになった。
 ―――多…恵子…。
 脚が、動かない。
 今日1日、忙しく走り回っていたからこそ、この現実と向き合わずに済んでいた部分があった。理性では多恵子の死を理解していたが、感情がそれを受け止めてはいなかったのだろう。動くことのない二次元の幻影となってしまった多恵子と向き合って初めて、実感する―――多恵子は、もう、いないのだと。
 落ち着かなくては―――大きく息を吸い、祭壇の脇に座る多恵子の両親に目を向けると、どことなく多恵子と似た多恵子の母は泣き腫らした目にハンカチを当てて俯いており、厳格そうな多恵子の父は気が抜けたような表情であらぬ方向を見ていた。確か久保田たちが彼らに付き添っていた筈だが、姿は見えなかった。警察で事情を訊かれた後も、通夜の準備や明日の葬儀の手配を、茫然自失状態の両親を助けつつやっていたので、さすがに疲れて休んでいるのだろう。
 ―――あたしが、しっかりしないと。
 もう一度、自分に言い聞かせ、佐倉はやっと一歩、踏み出した。

 多恵子の両親に深々と頭を下げた佐倉は、手順通り焼香を行った。一瞬、最後に顔をちゃんと見ておいた方がいいのだろうか、と考えたが…さすがにそれは、平静を保てそうにない。諦めて、写真の笑顔だけにお別れを告げた。
 「佐倉さんには、本当にご迷惑をおかけして…」
 多恵子の母が、涙声で頭を下げる。父親の方は、俯くばかりで、無言のままだ。
 「どうか、お気遣いなさらずに―――葬儀の日もお手伝いに伺いますから」
 佐倉が言うと、多恵子の母は涙をハンカチで押さえ、佐倉を見上げて、僅かに微笑んだ。
 「今日だけじゃなく、これまでも、何度も何度も……それでも多恵子を見捨てずに……こんなにいいお友達に恵まれて、あの子もきっと幸せだった筈なのに、ね。…こんな結果になってしまって、本当にごめんなさいね」
 「……」

 ―――違うんです…。
 違うんです。久保田君はそうかもしれない。でも、あたしは……あたしは、違うんです。

 罪悪感に、胸が締め付けられる。それでも佐倉は、なんとか微笑を保ち、首を振った。
 「とんでもありません。…じゃあ、今日はこれで失礼します」
 「ありがとうございました」
 両親が、頭を下げる。佐倉も丁寧に頭を下げ、踵を返した。さすがは現役モデル、その立ち居振る舞いは、内心の動揺など微塵も感じさせない、毅然とした優美な動きだった。

 そのまま、その場を立ち去ろうとした佐倉だったが―――その時、会場に入ってきた人物に気づき、思わず足を止めた。
 「……」
 それは、多分、今の佐倉の苦悩を唯一知っているであろう人物―――麻生拓海だった。

***

 少し待ってて、と拓海に言われ、結局佐倉は、拓海の焼香が終わるまで待ち、一緒に斎場を後にすることになった。
 斎場を出て、駅へと向かって歩きながら、佐倉も、拓海も、何も言わなかった。何かを喋るようなムードじゃないし、そういう気分でもない。佐倉はただただ、早く家に帰って、ばったり倒れたいと思った。
 そうやって、5分近くも、無言でいただろうか。
 「―――ごめんな、佐倉ちゃん」
 唐突に、拓海が呟いた。
 驚いた佐倉は、思わず足を止め、隣を歩く拓海をまじまじと見つめた。
 「…どうして?」
 何故麻生さんが、という声音で佐倉が問うと、拓海も足を止め、影のある微かな笑みを返した。
 「後悔でいっぱいの顔、してるから」
 「……」
 「あんな話、しなきゃよかったかな」
 多分、ニッキーのことを言っているのだろう。佐倉は少しだけ口元をほころばせ、首を振った。
 「多恵子と距離を置いたのは、あたしの選択だから。それに―――もし、あたしが久保田君のように今も多恵子と親密に付き合っていたとしても、やっぱり、多恵子を止められなかったと思うし」
 「…止められなくても、最後まで見捨てなかった、っていう自己満足は残るだろ?」
 静かに挟まれた言葉に、心臓が、ヒヤリと冷たくなった。その冷たさに、佐倉の表情も凍りついた。
 自己満足―――冷たい言葉。…でも、結局、佐倉が欲しがっていたのは、それだったのかもしれない。たとえ何もできなくても、最後まで傍にいた、やれるだけのことはやった―――そういう言葉で、自分を満足させたいだけ。よく頑張った、と自分を褒めることで、多恵子を止められなかった罪悪感を、少しでも減らしたいだけ。あれだけ尽くしたのだから、多恵子が死んでも、自分に(とが)はない……そう、思いたいだけだ。
 「俺は別に、自己満足を“くだらない”とか“勝手だ”とか言うつもりはないよ。むしろ、佐倉ちゃんには、傍にいてボロボロになってでも、その自己満足が必要だったのかもしれないな、と思って……背中押したこと、後悔してる」
 そう言うと、拓海は、ぽん、と佐倉の頭の上に手を乗せた。
 「…そんなに、頑張ろうとするなよ」
 「……っ」
 「後悔するのも、罪悪感を覚えるのも当然だ。…だったら、素直に泣けよ。君が頑張らなくたって、その分、誰かがその穴を埋めるさ。そういう風にできてんだよ、世の中は」

 ピン、と張り詰めていた緊張が、一瞬で緩んだ。
 ずっと忘れたフリをしていた涙が、一気に溢れてくる。佐倉は、手で口元を覆うと、声を殺して嗚咽した。
 額が、拓海のスーツの胸元に触れる。無意識に、支えを必要としたのかもしれない。そんな佐倉に、拓海は黙って胸を貸してくれた。


 その日、2人は、一晩飲みながら語り明かした。

 「―――…あたしの父の話、前にしたでしょう?」
 「連帯保証人の件?」
 「そう。友達の連帯保証人になったら、その友達が一家で夜逃げしちゃった、って。…あの話ね、本当は、誰にも言ってない続きがあるの」
 「続き?」
 「…その友達ね。夜逃げから1ヵ月後、遺体で発見されたの」
 「……」
 「…許せなかったわ。父や母に全てを押し付けて、1人だけ逃げ出して―――何故あの人のためにうちの家族が苦労しなきゃいけないの、ハンコ1つのことで、親族でもないあたしたちが、何故苦しまなきゃならないの、って」
 「…確かにね」
 「でも―――お通夜の席で、残された奥さんと子供を見たら……何も、言えなくなった。夫の言うままに夜逃げして、見知らぬ土地で夫が行方不明……方々探して、その結果が“自殺”。…奥さん、放心状態だった。あたしたちが見捨てたら、この人が自殺したあの人の責任を全部かぶるのか、そう思ったら…何も、言えなかったのよ」
 家族ぐるみの付き合いのあった人だった。
 あまりの結末に、父や母の精神状態がギリギリまで追い詰められているのが、16歳の佐倉にもわかった。弟はまだ幼い。残された家族はこの有様だ。
 「あたしが、頑張らなきゃ―――あたしがしっかりしなきゃ、って思ったの」
 「……」
 「でも……考えてみたら、傲慢な考えよね。あたしが全責任負える筈もないのに、1人で強がって、ほかの人の分も背負い込もうとして―――…」
 「それでも、佐倉ちゃんが強がった分、佐倉ちゃん以外の人間が、少しは楽になったのは事実だろ」
 「…そうかしら」
 「ああ。まるごと1人、背負うことはできなくても―――誰かの重荷が少し減ったり、みんなの気持ちが少しずつ軽くなったりした筈だ。その時も……今日も、ね」
 「―――…ねえ、麻生さん」
 「ん?」
 「1つ、訊いていい?」
 「どうぞ?」
 「…ニッキーが死んだ時……泣いた?」
 その問いに、拓海は悲しげに目を細めた。
 「ああ―――日本に帰る飛行機の中で、な」
 「……」
 「仲間はみんな、ニッキーを嘲笑ってた。負け犬だ、いずれこうなる奴だった―――タクミ、お前が見捨てるのも無理はない。気に病むなよ。……俺は、その場で泣く資格はないと思った」
 「…そ…う」
 「…みんな、友達だった筈なのに…な。あんな風に裏切られるなら―――誰も友達なんて呼びたくない気分だ」
 そう言う拓海に、佐倉は苦い笑みを返した。
 「あたしは…その人たちもきっと、どこかで、ニッキーを悼んで泣いたと思うわ」
 「……」
 「負け犬だ、って言葉も本音。でも…救えなかった自分が悔しいのも、本音。…きっと人前では、強がって、悪態つくしかできないのよ―――あたしが、強がって、泣いてないフリしちゃうのと同じでね」
 「…君は、クールに見えるけど、情が深いんだな」
 君の考え方には、救われる―――そう言って、拓海は口元にだけ微かな笑みを浮かべた。


 生と死についてとか、友情についてとか、人間の表裏についてとか……なんだかいろいろ、脈絡もなく話し続けて。
 最後に2人は、互いの電話番号を交換した。

 また、話がしたい―――ただ、それだけだった。


***


 世の中がクリスマス一色で浮かれる頃、2人は初めて連絡を取り合い、偶然じゃない形で会った。
 会って、食事をしたり飲んだりしながら、他愛もない話をする。旧友と語り合うようなその時間は、とても穏やかで、静かな時間だった。
 お互い、忙しい身だ。年内は結局、その1度しか会えなかった。が、年末にアメリカへ行った拓海が、新年早々国際電話をかけてきたのには、かなり驚いた。アメリカの仲間とやった年越しライブのあれこれを聞きながら、佐倉はひたすら電話代が気になっていたのだが、あまりに話が面白かったため、最終的には電話代のことは頭になくなっていた。
 拓海が帰国して間もない1月半ば、また約束をして会った。拓海からはアメリカの土産話を聞き、佐倉からは最近聴くようになったジャズのCDのことを話した。そして、この日の帰り初めて、「次に会う日の約束」を交わした。
 次は、月末。その次は、その翌週―――気づけば、多恵子の死以来、拓海と会う回数は加速度的に増えていっていて、2月が終わる頃には、週に1度は会うのが習慣となってしまっていた。
 会うのが、楽しみになっていた。
 そして―――別れるのが、辛くなっていた。


 「そうねぇ…確かに、男の方がロマンチストかも」
 「だろ? なのに、現実主義な女の口から“ムードがない”だの“夢がない”だの言われるのは、少々心外だ」
 「しょうがないわよ。現実的にならざるを得ない役割なんだもの、女って。…あ、でもね。超現実主義なあたしにも、1つだけ、ロマンチックな夢があるのよね」
 「へぇ…、どんな?」
 興味津々、といった目をする拓海に、佐倉はニッ、と笑い、答えた。
 「バ・ラ・の・は・な」
 「薔薇?」
 「そ。真紅の薔薇は、情熱の愛の証って言うでしょ。だから、求愛は絶対、真紅の薔薇持参で」
 「…ベタだな」
 「いいのよ、ベタで。でも、軽々しいのはイヤ。本当に好きなのかな、別の人の方がいいんじゃないかな、って何度も迷って、やっぱり佐倉みなみでなきゃ! と思うたびに、真紅の薔薇を贈るの。100回迷って、100回薔薇の花を贈ってくれたら、相手がどんな男でも、絶対求愛に答えちゃうな」
 「どんな男でも?」
 「どんな男でも」
 「…ふーん」
 カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。拓海は、にやりと笑い、さりげなく一言呟いた。
 「いいこと聞いたな」
 「……」
 その目を、真っ直ぐ見返すことはできなかった。佐倉は視線を逸らし、グラスに口をつけた。


 佐倉は、自分が怖かった。
 最初はただ、拓海と話をするのが楽しいだけだった。自分とは異なる視点で物事を語ってくれる拓海に、時に救われ、時に刺激を受けた。そこにあるのは、ある種の尊敬と敬愛……それだけだった。
 でも、会う回数を重ねるにつれ、それだけではない自分に気づき始めて…怖くなる。
 煙草に火をつける仕草や、まるで子供にするみたいに頭をポンポンと撫でる仕草に、胸をときめかす自分を自覚して、怖くなる。頼れる女、強い女と思われ、自分でもそう思っているのに、拓海の前では、年齢差相応の未熟な弱さを曝け出してしまうのを自覚して……怖くなる。
 …恐ろしい。
 まるで坂道を転がり落ちるように、どんどん深みに嵌っていくのが、自分でもわかって、恐ろしかった。
 何故なら―――過去の会話の中で、佐倉は、なんとなく悟っていたから。拓海に、交際している女性がいるらしい、ということを。

 

 「…なんか、綺麗になったわね、みなみ」
 向かいの席に座る香苗に言われ、佐倉は、手にしていたフォークとナイフを落としそうになった。
 「は? あたしが?」
 「うん。なーんかこう、前にはなかった色気、っていうのかなぁ…そういうのが出てきた感じ」
 頬杖をついた香苗は、面白がるように、フフフ、と笑った。
 「もしかして、久々に彼氏でもできた?」
 「―――そんなんじゃないわよ」
 ちょっと迷惑そうな声で、そう返してしまう。
 香苗に、拓海のことは話していない。というか―――最近、香苗に会うこと自体、あまりなかった。この前会ったのは、年明け間もない頃だろうか。大学を卒業して以来、仕事量が一気に増え、週に1度のエアロビ通いも、香苗と一緒に、とはいかなくなったのだ。もっとも……以前と同じように会っていても、果たして拓海のことを話したかどうかは、怪しいところだが。
 佐倉は否定したのに、香苗はそれを言葉通りは受け取っていないらしい。ふーん、と相槌を打った香苗は、ワインを一口飲むと、小さなため息をついた。
 「あーあ、いいなぁ…。みなみってば、楽しそう」
 「…何か、あったの?」
 香苗の口調が、珍しくマイナスの感情を伴っているような気がして、思わず訊ねる。すると香苗は、苦笑とも自嘲の笑みともつかない、曖昧な笑みを微かに浮かべた。
 「ん……ちょっと、ね。彼のことで」
 「喧嘩でもした?」
 「ううん。喧嘩なんて、一度もしたことないわ。ただ―――最近、ちょっとしつこくしちゃったかな…」
 語尾になるにつれ、声が小さくなり、消える。香苗は、窓の外に目をやり、そこに映る夜景をぼんやり眺めた。
 「…デザイナー、かぁ…。憧れるけど、遠い夢ね」
 「……」
 モデルを辞め、アパレルメーカーに勤めるようになってから、香苗は「デザイナーになりたい」と時々口にするようになっていた。その夢と、付き合っている彼氏と、どういう関係があるのだろう? よくわからず、佐倉は眉をひそめた。
 が、香苗がその疑問に答えることはなかった。何かを振り切るように大きく息をつくと、いつものように柔らかい笑顔を佐倉に向けた。
 「近いうちに、紹介するわね、彼のこと」
 「え、」
 「みなみも、なんか幸せになってきたみたいだし。そろそろわたしにもノロケさせてよ」
 「…なんだ。ノロケたがる位に上手くいってる訳ね。はいはい」
 苦笑する佐倉に、香苗もふふっ、と小さく笑った。


***


 3月半ば。佐倉は初めて、拓海の部屋に招待された。
 軽率すぎるかな、と思いつつも、拓海のプライベートに対する興味の方が勝った。佐倉は、上等なワインを片手に、拓海の家を訪れた。


 「…でも、付き合っている彼女に、なんだか悪いわ」
 佐倉が呟くと、ワインを受け取った拓海の表情が、少しだけ変わった。
 2人の間で、恋愛関係の話題が全くゼロだった訳ではない。幼い頃の初恋の話、苦い失恋の思い出―――そんな話も時にはした。が、唯一、決して口にしなかったのは、「今」のこと。「今」の、それぞれの恋愛話だ。
 お互い、取り決めを交わした訳ではないが、察していた。その話題は、タブーであると。そして、あえてその話題を避ける空気は、お互いの間の空気が変わるにつれ、より色濃くなっていっていた。
 「―――そういう話を、このシーンでするのは、ヤボってもんでしょう」
 肩を竦めた拓海は、少し冗談めかした口調でそう言って、先に部屋の奥へと進んだ。
 「最近、咲夜もあんまり来なくなったし、俺自身もそんなにマメな方じゃないんで、片付いてない部分も結構あるけど、見逃してくれると助かるな」
 「あはは…、了解」
 ―――彼女は、この部屋に来たりしないのかしら。
 単なる勘違いで、実は交際している女性などいない、なんて考えられるほど、佐倉は楽観的でも注意力散漫でもない。バレンタインデーやクリスマスイブといったイベントの話が出れば、恋人の有無位想像がつくし、大学卒業前のクリスマスイブには、多恵子の口から「タクさんは彼女とデートだって」と聞いているから、まず間違いないだろう。
 よくわからないが…恋人の気配のする部屋ではないらしいことに、とりあえず佐倉は安堵した。

 部屋は、飾り気はないものの、なかなか趣味のいい家具で揃えられていた。そして、ピアニストの部屋らしく、大きなピアノが部屋の真ん中を占拠していた。
 ワイングラスにも、チーズをのせた小皿にも、なんとなく拓海の趣味が見て取れる。より拓海の素の部分に触れられた気がして、佐倉は少しばかりの落ち着かなさと、くすぐったいような嬉しさを感じた。
 「せっかくだから、1曲弾くよ。何がいい?」
 ワインを片手にいつものように話していた合間に、拓海がふいに、そう言い出した。
 何か、1曲―――迷った末に、佐倉は、いまだ聴いたことのなかった1曲を試しに口にしてみた。
 「シャンソンだけど、ジャズでも弾くのかしら」
 「ものにもよるけど、何?」
 「“バラ色の人生”―――エディット・ピアフの」
 そのリクエストに、拓海は少し眉を上げ、それから何故か苦笑を漏らした。
 「? 変なリクエストだった?」
 「いや―――こっちの話。“La vie en rose”、ね。弾けるよ、幸いにも」
 くっくっ、と押し殺した笑いに肩を揺らしながら、拓海は立ち上がり、ピアノの前に座った。佐倉もそれに続き、ピアノの傍らに歩み寄った。
 長調の和音が、ポロ…ン、と奏でられる。やがて、耳に馴染みのあるメロディが流れてきた。
 初めて聴く、ピアノで歌い上げられる『La vie en rose』は、壮大なる愛の歌、というより、どこか切なさを滲ませたラブ・ソングのようだった。オーケストラ演奏などでしか聴いたことのない佐倉にとっては、なんとなく新鮮な響きだ。
 『La vie en rose』のメロディに酔いしれながら、佐倉は、重たそうな鍵盤を鮮やかに叩く拓海の指に見惚れていた。最後の1音が消える瞬間まで、その手元から目が離せなかった。
 そして、最後の音の余韻が消えた時。
 突然、目の前に、何かが差し出された。

 「……」
 真紅の薔薇の花が、1本。

 「―――これが、さっき笑った理由」
 くすっ、と笑った拓海は、そう言って、佐倉が呆然と見ている薔薇の花をピアノの上に置き、立ち上がった。
 「薔薇の花を用意しているところに、まさか、それと被る曲をリクエストされるとはね」
 「…ずるいわ」
 なんだか、泣きそうになった。
 わかっていた。言葉にしなくても―――多分、お互いに。でも、言葉にしないことで、危うい均衡を保ってきたのだ。こんなことをされたら……二度と引き返せなくなる。
 「だって…あなた、付き合ってる人、いるじゃないの」
 「…別れられるまでなんて、待てない。……なんて言ったら、信用できない?」
 そう言った拓海の声は、冗談もからかいも含んでいなかった。真剣に悩み、真剣に答えを出した、まだその苦さを多分に残している声だった。
 まだ完全に恋人と切れた訳ではないのに、こんなことは許されないのかもしれない。でも―――…。

 頬に、手のひらが触れる。
 佐倉は、涙の浮かんだ目で、やっと拓海の目を見つめ返した。
 「―――みなみ」
 「……」
 気持ちを確かめるように、初めて、名前を呼ばれる。佐倉は、拓海の腕に手を置き、ゆっくり目を閉じた。
 重ねられた唇に―――もう逃げることはできない、と、思った。


 不思議な、感覚だった。
 佐倉だって、それなりに恋愛遍歴を重ねてきた。その中には、肌を合わせた相手だっていた。夢中になった恋もあったし、逆に夢中になられた恋もあった。でも……これは。
 手のひらも、指先も、唇も―――触れた全てが、そうして触れるのが自然なことのような、ぴったりと合わさることが初めから決まっていたかのような、感覚。そこに、激しい交わりも、情熱的な言葉も、一切ない。なのに……満たされる。ずっと求めていたものに出会えたかのように、心から安らげる。

 運命を、感じた。
 どれだけ言葉を重ねるより、どれほど長い時間を共に過ごすより、早く、確実に―――悟った。この人でなければ駄目だ、と。


***


 香苗から呼び出されたのは、それから1週間後のことだった。

 『5分でいいの、明日、時間もらえる? 彼と会うから、みなみにも紹介したいの』
 断る理由も、特になかった。佐倉は、スケジュール帳の隙間を見つけ、香苗との約束を取り付けた。
 そして、翌日。
 あまりの現実の残酷さに―――運命を呪った。


 「麻生拓海さん。ジャズ・ピアニストなの。拓海、こちらが佐倉みなみさん。時々、話してたでしょ? わたしの大事な友達よ」
 笑顔の香苗に紹介を受けた拓海は、目の前の現実が信じられないかのような表情をしていた。そう……多分、今の佐倉自身の表情、そっくりな。
 お互いのその表情で、お互いが理解した。
 拓海の恋人が、佐倉の親友が、大原香苗―――その事実は、お互いにとって、今この瞬間まで考えたことすらなかった事実であった、ということを。
 実際、佐倉は、香苗の交際相手を「音楽関係者」としか聞いておらず、その後も具体的なことは聞いていない。呼び名は「彼」だ。それだけのヒントで、拓海に辿り着くのは不可能だった。
 また、拓海にしてもそれは同じことだった。目立つことを好まない香苗が、有名人の知り合いや活躍するモデルの友人を、彼氏に自慢する筈もなく―――佐倉のことも、「モデル時代からの友達」とか「例の友達」としか言わなかった。しかもそれは、みな過去の、モデル時代の話ばかり。モデルを引退し、接点の少なくなった現在の佐倉のことなど、恋人同士の間で話題に持ち上がる訳がなかった。
 「拓海? どうしたの?」
 さすがに、2人の異変は感じたのだろう。香苗が怪訝そうな顔をする。
 やっと我に返った拓海は、ぎこちない笑顔を香苗に向けた。
 「い、いや―――実は、知り合いなんだ、彼女と」
 「え、そうなの?」
 そうだ。認めてしまった方が、変に初対面を装うよりマシだ。佐倉も笑みを作り、拓海の言葉を繋いだ。
 「そうなのよ。と言っても、あたしの友達を挟んだ知り合いなんだけど―――驚いちゃったわよ、いきなり見知った顔が出てくるから」
 不自然な笑顔になっていないだろうか。それだけが気がかりだった。
 でも、香苗は、佐倉と拓海のセリフに目を丸くして、少し興奮したように頬を紅潮させた。
 「えぇ、本当に!? 凄い…! ねぇ、凄いわ。これって運命的じゃない?」
 ―――運命的。
 皮肉な言葉に、香苗を除く2人は、どんな顔をしていいのかわからない顔になった。

***

 「…無理よ…」
 呻くように呟き、佐倉は首を振った。
 「無理よ。やっぱり、あたしにはできない」
 「みなみ…」
 「だって、香苗よ?」
 訴えかけるように佐倉が言うと、拓海の方も、辛そうに眉根を寄せた。
 「香苗は…香苗は、大事な友達なのよ。いつもあたしを癒してくれた、大切な存在だったのよ。いくらモデルを辞めて会うことも少なくなったって言っても……あたしのために、恋人と別れさせるなんて」
 「俺より、香苗を選ぶのか?」
 佐倉の言葉を遮るように、拓海が低く呻く。
 「運命を感じたのは―――俺だけか、みなみ」
 「……」
 「みなみ」
 痛い位に、両肩を掴まれる。
 「信じてくれ」
 「…麻生さ…」
 「絶対、君の名前は出さない。出さずに、香苗とは別れる」
 「…無理…よ…」
 「…君が、香苗を大事に思ってるのは、わかってる。でも―――離れてしまった心を、無理に元に戻すのは、不可能だ」
 それは―――確かに、拓海の言う通りだ。この先、自分と拓海がどうなろうと、拓海の心が香苗から離れているのであれば、「香苗と付き合い続ける」という選択肢は、拓海にとっては絶対無理なことだろう。
 「少しは…時間が、かかるかもしれない。でも、信じて待っててくれ」
 「……」

 この時、ただ信じて待つ以外、佐倉に何ができただろう?
 佐倉は―――待つことにした。


***


 衝撃の事実を知り、拓海から「待っていてくれ」と言われた日から、数日が過ぎた。
 カレンダーが4月になるのを待っていたかのように、突然、香苗がモデル事務所に現れた。

 「みなみが、今日顔出すって、トガちゃんに聞いたから」
 事務所の事務員の名前を出して、香苗はいたずらっぽく笑った。
 正直―――今、香苗の顔を見るのは、辛い。いつもなら嬉しいサプライズだが、今回ばかりは、笑い返す佐倉の顔も少々戸惑い気味だった。
 お茶しに行きましょうよ、と誘われ、佐倉は香苗と共に喫茶店へ行った。
 ローズがかったベージュのスーツに身を包んだ香苗は、現役のモデルである佐倉より、喫茶店中の視線を集めた。特に、季節は春―――香苗は、春が一番よく似合う、と佐倉は思う。まるで春の女神みたいに輝いている香苗を、佐倉は憧憬の念を持って眺めた。
 2人揃って紅茶を注文し、差し障りのない世間話や近況報告を、30分ほど話しただろうか。
 「そうそう、最近ねぇ…柳さんに色々、相談に乗ってもらってるの」
 何の話の流れか、香苗が唐突にそう言った。
 「柳、って……あの、柳?」
 思わず、眉をひそめる。香苗が断っても、しつこく誘いをかけていた、“YANAGI”の社長の息子だ。名うてのプレーボーイが、唯一付き合うのを断った女である香苗に、いつまでも興味を持ち続けているのだろう。1度しか会ったことがないが、佐倉はどうにも好きになれない相手だ。
 「相談って、何の相談よ」
 「デザイナーの夢の、よ。わたし、会社じゃ目をつけられてて、社内の人間に相談することできないじゃない? だから、たまたま柳さんに会った時、デザイナーの仕事についてとか、どういう道を辿るのが早いのか、とか、色々訊いたの。親切に教えてくれるわよ」
 「…やめなさいよ。あの男、絶対下心持ってるわよ」
 声を険しくする佐倉に、香苗はくすくすと笑い、ティーカップを置いた。
 「やだわ、ちゃんとわかってるわよ。大丈夫、デザイナーとしてうちで採用してあげるから、なんて言われても、絶対わたしは乗らないから。だって、わたしには拓海がいるもの」
 「……」
 ズキン、と胸が痛む。紹介されたのだから、ある程度は覚悟していたが……やはり、香苗の口から拓海の名前が出ると、平静を保つのは難しい。
 「柳さんにも拓海のことは話してあるし―――ああ、でも、話しちゃったのは失敗だったかしら。あんまりわたしが“拓海一筋”って感じの話をするもんだから、なんか、妙に敵視しちゃってるみたいなの、拓海のこと」
 「敵視、って…」
 どうリアクションをすればいいか、わからない。困ったような笑みを返すのが精一杯だ。
 「いつの間にか拓海のアルバム買っててね、“日本人のジャズは、やっぱり本場アメリカのジャズには敵わないよ”なんて批評してるの。拓海はそのアメリカ仕込みのジャズピアノなのにね。笑っちゃうでしょ」
 「…そんな嫌な奴なら、もう相談なんてするの、やめなさいって」
 つい、剣呑な口調になってしまう。そんな佐倉のムードに気づいたのか、香苗はハッとしたように口を閉ざした。
 「―――ごめんね。人の悪口なんて、みっともないわよね」
 気まずそうに、香苗が言う。小さくため息をついた佐倉は、いいわよ、という風に首を振ってみせた。
 「とにかく―――デザイナーの相談なら、あたしが乗るから。これでも、アパレル業界には顔が利くから、どの服飾専門学校の出身者が多いか、とか、どこがお給料がいいか、なんて話も、ある程度は仕入れてこれるわよ」
 「ほんと? じゃあ、本格的に決心したら、お願い」
 拝むように手を合わせる香苗に、佐倉は苦笑し、はいはい、と返した。
 「みなみって、やっぱり頼りになるわね。誰かに支えられてばっかりのわたしなんかとは、ぜんぜん違うわ。やっぱり凄い」
 「…そんなこと…」
 また、胸が、痛む。
 なんだか、香苗には拓海が必要だけれど、強い自分には必要ない―――そんな風に断じられたような気分になり、佐倉は陰鬱に眉を寄せた。


 「急に押しかけちゃって、ごめんね」
 喫茶店を出ると、香苗は済まなそうにそう言った。
 「いいわよ。打ち合わせも終わった後だったし」
 「そう? 良かった」
 ふわりと微笑んだ香苗は、「じゃあね」と言って、その場を後にしようとした。
 が―――何を思いついたのか、一旦佐倉に背を向けたのを、突然踵を返した。
 「?」
 目を丸くする佐倉のもとに、軽やかな足取りで駆け寄った香苗は、内緒話をする子供みたいに声をひそめた。
 「あのね、ここだけの話なんだけど…」
 「なに?」
 「わたし、近々、結婚するかも」
 「……」
 危うく、「誰と?」と訊きそうになった。
 目を大きく見開く佐倉に、香苗は、はにかんだような笑みを見せ、ますます声を小さくした。
 「まだ、拓海には言ってないけど―――できたみたいなの。赤ちゃん」
 「……」

 一瞬。
 視界が、本当にグラリと揺れた気がした。

 「もう、ねぇ。まだ病院とか行ってないんだけどね、嬉しくて嬉しくて、誰かに言いたかったの」
 「…そ…っ、そう」
 ―――他に、どう、相槌を打てと?
 鼓動が、誤作動を起こしたみたいに、激しく乱れる。目の前の、春の日差しのような笑みが、恐ろしく思える。良かったわね、と言ってあげたくても、そんなこと、佐倉には到底不可能だ。
 「拓海にもすぐ報告したいんだけど、ぬか喜びさせちゃったら悪いから、ちゃんと病院行ってから…ね。だからみなみも、もし拓海と偶然会っても、このこと、絶対言わないでね」
 「……」
 「みなみ?」
 「…え…、ええ」
 笑顔を作るのが、これほど難しいこととは、この瞬間まで知らなかった。
 佐倉は、全力で、笑みを作った。が……上手く笑えている自信は、微塵もなかった。

***

 電話をすると、留守番電話になっていた。
 『ただいま、留守にしております。御用の方は、ピーという音に続けて、お名前とご用件をお話下さい』
 まだ帰宅していないのだろう―――かえって、好都合かもしれない。電話機に初期設定されたままの、女性の音声を最後まで聞いた佐倉は、ピー、という音を聞きながら、大きく息を吸った。
 「―――…もしもし、」
 佐倉です、と名乗りかけて……やめる。万が一、香苗がこの留守番電話を聞くようなことがあったら、と考えると、名前だけは絶対に聞かれてはまずい。内容も穏やかではないが…名前だけは伏せる必要があった。
 「…まだ、お仕事中? お疲れ様です。…あの、この前の件ですけど―――ごめんなさい。あたし、やっぱり」
 喉が、ひくつく。
 喉元を手で押さえ、佐倉はもう一度、言い直した。
 「…あたし、やっぱり―――無理、です。ごめんなさい」

 だって。
 もう、問題は、自分たち2人…いや、3人だけの問題じゃない。
 まだ芽生えたばかりであっても、命だ。大切な、大切な―――香苗と拓海の間の命だ。まだ確実じゃない、と言いながらも、香苗の表情は、その存在を確信していた。
 無視なんて、できない。
 神様が授けた命を捨ててまで、自分たちだけ幸せになろうなんて、できない。

 「…力になってくれて、いろんなもの、たくさんくれて、本当に感謝してます。でも―――…」
 それ以上、言うべき言葉が、見つからなかった。
 「―――…もう、会いません。さよなら」

 さよなら。
 佐倉は唇を噛むと、受話器を静かに置いた。


***


 そのまま、3日が過ぎた。
 毎日、留守番電話が入っていた。が、佐倉は、それらを一切聞かずに消去した。仕事の電話もあったかもしれないが、構わなかった。もし、拓海だったら―――声を聞けば、決心が鈍りそうな気がして、どうしても聞く気にはなれなかった。

 そして、4日目。
 留守番電話は、入っていなかった。
 ホッとしたような、けれど裏腹に寂しいような複雑な心境で、佐倉は1人、部屋でワインを飲んだ。
 今夜はどれだけ飲んでも酔えそうにないな―――なんて思いながら、いつの間にかうとうとしていたのだが、そのうたた寝は、電話の音で破られた。
 「……っ」
 びくっ、として、目を開ける。
 ゆっくりと、背後の電話を振り返る。薄闇の中、ボタンのバックライトだけが点滅を繰り返す。その様を、佐倉は息を詰めて見つめた。
 電話は、しつこく、いつまでもいつまでも鳴り響いた。もう10回を超え、20回に突入しようかというしつこさだ。
 ―――麻生さん……じゃ、ない……?
 拓海は、こういう手は使わないと、何故か確信があった。じゃあ、誰?―――眉をひそめた佐倉は、席を立ち、恐る恐る電話口へと向かった。
 カチャ、という受話器を持ち上げる音と同時に、電話が静かになった。
 「…もしもし。佐倉ですが」
 『―――…みなみ…?』
 受話器から聞こえたのは、意外な声だった。
 「か…、香苗?」
 『……うん…、わたし…』
 妙に緩慢な、間延びした声。それに、変にエコーがかかって聞こえる。が…、声は間違いなく、香苗だ。
 「ど…どうしたの? こんな時間に」
 時計に目をやると、既に日付も変わった午前1時前だ。人並みの常識を兼ね備えた香苗は、こんな時間に電話などしてこない。こんなことは初めてだ。
 それに―――背後に聞こえる妙な音は、何だろう? サーサー、という、雨でも降っているかのような音が、絶え間なく微かに受話器から聞こえる。単なる電話のノイズとは思えない音だ。
 『今、ね。柳さんの部屋に、いるの』
 「…え?」
 柳? こんな時間に? いや、時間の問題じゃなく。
 「どういうこと?」
 声が、鋭くなる。が、香苗の声は、ますます緩慢に、だるそうな声色になっていく。
 『さっきまで、ねぇ、お酒、飲んでてねぇ、行こう、って言われて、ついて来たの。柳さんの部屋、凄いのよー。シャワールームに、電話ついてるの。今ね、シャワールームにいるの、わたし』
 「ちょ…っ、ちょっと、待ちなさい、香苗!」
 『あ。やだ、わたし1人よ? 何考えてるのぉ、みなみ』
 ふふふふふ。
 どう考えても、まともじゃない笑い。どう考えても、まともじゃない行動。佐倉の背筋に、冷たい汗が流れた。事態がさっぱり飲み込めない分、焦りがどんどん募る。
 『先にねぇ、シャワー浴びさせて、って言ったらねぇ、どうぞって使わせてくれたの。だからわたし、鍵閉めて閉じこもっちゃった。ふふふ……だぁって、ねぇ』
 そこで、香苗の言葉が一旦途切れる。代わりに、シャワーの音が一層大きくなった。その音に混じって、何やらごそごそと音がしたが、それも10秒ほどのことで、またシャワー音が遠ざかり、香苗の声が戻ってきた。
 『だぁって……やっぱり、わたし、拓海が好きなんだもの』
 「…じゃあ…早く、帰りなさい」
 『―――もぉ…帰れないの…』
 香苗の声が、涙声に変わる。
 泣き声に、エコーがかかる。シャワールームに反響する。佐倉は、受話器を握り締めたまま、必死に視線を巡らせて、あるものを探した。
 ―――あった、電話帳!
 思い切り手を伸ばし、電話帳を掴む。ばさっ、と床にそれを広げると、佐倉は、震える手で「や」のページを探した。柳の自宅の電話番号を調べるために。
 『ねぇ、みなみ』
 「な…、何…っ?」
 『みなみ、なんでしょ』
 ページをめくる手が、止まった。
 心臓が、凍りつく。呼吸も、瞬きも、全てが凍りついた。
 「―――…え?」
 『返して』
 舌足らずに、香苗が訴える。
 『拓海を、返して。ねぇ、返して』
 「…か…」
 『駄目なの。わたし、拓海でなきゃ、駄目なの。だからね』
 酔っ払ったような舌足らずな口調のまま、香苗は、抑揚なく告げた。
 『さっき、わたし、飲んだの』
 「のんだ?」
 『睡眠薬』

 カラン、と、微かな音が、受話器からした。
 それは、ちょうど、空き瓶がタイルの床に転がったような音だった。

 全身が、総毛立つ。かつて、多恵子が大量の睡眠薬を飲んで意識不明になった時の映像が、フラッシュバックのように、佐倉の脳裏に蘇った。
 「香苗―――…!!!」
 電話に向かって絶叫する佐倉の耳に、受話器から、ドンドンドン、という音が聞こえた。
 かなえ、と、受話器の中の誰かも叫んでいる。かなえ、あけろ―――多分、シャワー室を開けようとしている、柳の声だろう。
 「香苗! 返事して、香苗!」

 バン! という、大きな音が、受話器の中で響いた。
 それとほぼ同時に、佐倉の指が、柳の自宅の電話番号を引き当てた。


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