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― La vie en rose(後)

 

 佐倉が乗ったタクシーは、今まさに駐車場に入ろうとしている車を追い越す形で、病院の前に止まった。
 お釣りは結構ですから、とお金を運転手に押し付け、ドアが開くのももどかしく、タクシーを降りた。それとほぼ同時に、病院前の駐車場に停まった車の運転席側のドアが開いた。
 「―――…!」
 思わず、足を止める。
 車から降りてきた人物も、佐倉に気づき、ドアを閉めようとした手を止めた。
 「……」
 ―――麻生さん…。
 連絡したのは、佐倉自身だ。会うことは覚悟していたが……それにしても、まさか、こういう形で再会することになろうとは。
 それは、拓海の方も同じだろう。暗がりでお互い顔は見えないが、どちらも、気まずそうな、どういう顔をしていいかわからない顔をしているのが、本能的にわかった。
 数秒、無言のまま、気まずい時間が過ぎる。
 「…とにかく、行こう」
 言いたいことを全て飲み込むようにして、妙にきっぱりと、拓海がそう言う。佐倉も頷き、2人は病院の中に駆け込んだ。


 教えられた病室に2人が駆けつけた時、病室の前では、白衣の医師と誰かが話をしているところだった。
 「よろしくお願いします」
 スーツ姿の男が、医師にそう言って頭を下げる。医師は、頷きながら更に一言彼に何か言い、佐倉たちが立っているのとは反対方向へと去って行った。
 「柳さん」
 佐倉が声をかけると、スーツ姿の男が振り向く。そして、佐倉と、その隣に立つ拓海の顔を確認するや、その顔を険しい、不愉快そうな表情に変えた。
 「香苗は? 香苗は、どうなったのっ」
 ツカツカと詰め寄り、忙しなく問いただす。短い挨拶のために拓海へと向けていた目を佐倉に移した柳は、氷のように冷ややかな表情で、極めて淡々と答えた。
 「…発見が早かったとはいえ、アルコールを大量に飲んでいたところに、かなり強い睡眠薬を、致死量ギリギリまで飲んでましたからね。暫く入院です」
 「それじゃあ、命に別状は?」
 「とりあえず、ないとのことです」
 「……」
 命に、別状はない―――それを聞いて、佐倉の足から、力が抜けた。
 「…よ…良かった…」
 「―――…っ、とと、」
 がくん、と膝を折りそうになったところを、背後から拓海に支えられた。柳の前で、とんだ醜態だ、と思うけれど、体裁をかまっていられるだけの余裕は、今の佐倉にはなかったのだ。
 「よ…かった…。香苗も…香苗も死んじゃったらどうしよう、って、あたし…」
 「……」
 佐倉の脳裏に、多恵子の時のことが過ぎっていたことは、拓海にも伝わっていたのだろう。支えるように肩に回された手に、少し力がこめられる。大丈夫だ、香苗は無事だ、落ち着け―――そう佐倉に言い聞かせるように。
 「…言っておきますが、香苗が無事だったのは、僕が一緒にいたからですよ。彼女1人の部屋で自殺を図っていれば、発見は死んでからになってたでしょうね。もっとも―――…」
 そこで言葉を切った柳は、異様なまでに挑戦的な目を、改めて拓海に向けた。
 「―――あなた方にとっては、その方が好都合だったのかもしれませんが」
 「……」
 涙が滲み始めていた佐倉の目が、信じられない言葉を聞いたかのように、大きく見開かれる。
 実際、信じられない言葉だった。香苗が死んだ方が好都合―――2人にとって香苗が邪魔者、という意味だろう。2人の関係を察しての皮肉だろうが、到底許せる言葉ではない。
 「…酷…い…、なんてこと言うの!? あなたね、人の命を何だと」
 「みなみ、」
 よせ、と拓海が佐倉を制する。そんな2人を見て、柳の口元に、ふ、と皮肉めいた笑いが浮かんだ。
 「さすが―――冷静ですね、麻生拓海さん」
 「…どう皮肉を言われようと、俺は構わない。でも、本気で香苗の命を心配して駆けつけたこの人のことまで侮辱する権利は、君にはない」
 「何言ってるのよ。麻生さんのことだって侮辱する権利なんて、」
 言いかけた佐倉を、再び、拓海が制した。苦々しげな表情をした拓海は、改めて柳に向き直り、怯むことなくその目を見据え返した。
 「動機や経緯はどうあれ、柳さんが香苗の命を救ったことだけは事実だ」
 そう言って、拓海は、丁寧に頭を下げた。
 「…感謝します」
 「……」
 冷静な拓海の対応を目にして、電話を受けて以来、ずっとパニック気味だった佐倉の頭も、急速に落ち着きを取り戻す。
 確かに―――拓海の言う通りだ。さっきのセリフは許せないし、失恋の痛手にでも漬け込んで部屋に誘ったのであろうことが容易に想像できるだけに、とてもじゃないがこの男を好意的に見ることはできない。が……柳がいたから、香苗が助かった。それだけは、紛れもない事実だ。
 佐倉も居ずまいを正し、静かに頭を下げた。
 2人揃って頭を下げてしまったため、柳の反応はわからない。が、あえてそれ以上の皮肉を浴びせてくる様子はなかった。


 それから暫くの間、3人は、病室の外にあるベンチに座り、気詰まりな時間を過ごした。
 誰も、口を開こうとはしない。拓海に訊きたいことはあったし、拓海の方も佐倉に訊きたいことがあるだろう。が、柳の前で話せるような内容ではない。柳に、今夜のことを色々訊きたい気もしたが、なんとなく訊き難い。そんな感じで、じりじりと、時間は過ぎていった。
 じっと押し黙り、無機質な白い床を見つめながら、佐倉は色々なことを考えた。そのどれもが、胃が痛くなるような内容ばかりだったが―――最後にふと思い出したのは、4日前、香苗の口から聞かされた、あの衝撃的な言葉だった。
 ―――赤ちゃんは…どうなったんだろう?
 香苗は、ちゃんと病院に行っただろうか? 単なる香苗の思い違いだったのか、それとも…やはり、そうだったのか。もし本当に妊娠していたのだとしたら―――今回の自殺未遂は、影響はないだろうか?
 もし。
 もし、香苗が言う通り、香苗のおなかに命が宿っていて……その命が、自殺未遂で、奪われてしまったりしたら―――…。
 「……っ…」
 ゾクッ、と、震えが走る。
 いや。そんな恐ろしいことが起きたのなら、医師からそのことが柳に告げられていた筈だ。なのに、柳はさっき、何も言わなかった。知っていれば、柳のことだから、拓海を痛めつけるためにも絶対口にした筈だ。
 ―――…でも…。


 とその時、病室のドアが開いた。
 ハッ、と、3人が顔を上げる。僅かに開いたドアから顔を覗かせたのは、香苗に付き添っていたらしい、ナースだった。
 「意識が回復しましたよ。今から先生を呼んで来ますが、もう大丈夫ですよ」
 意識を取り戻した―――その言葉に、3人の間にあった言いようのない緊張感が、ようやく緩んだ。3人は立ち上がると、ナースに頭を下げた。
 ナースが立ち去るのを見送った柳は、ほっと息をつき、佐倉と拓海に目を向けた。
 「もう大丈夫なようですから、お引取りいただいて構いませんよ」
 「え…っ」
 思いがけない言葉に、佐倉は目を丸くした。
 「そんな―――香苗の顔を、一目見ないことには、」
 「あなた方に会わせる訳にはいきません」
 佐倉の言葉を遮り、柳は、冷たく言い放った。
 「彼女が死のうとしたのは、あなた方2人のせいなのに―――いきなり会わせられる訳がないでしょう?」
 「……っ」
 まるで、温かい血の代わりに冷水が全身の血管を巡っているみたいに、全身が一気に冷たくなる。
 自分たち2人のせいで、香苗は死のうとした―――確かに、そう言われても仕方ない。佐倉は、何も言い返せず、その場に立ち竦んだ。
 「あなた方が駆けつけてくれたことは、僕から伝えておきますよ。今もここにいると知ったら、香苗が動揺するだけです。お引取り下さい」
 「でも…」
 「わかりました」
 まだ諦めきれない佐倉の隣で、拓海は、あっさりそう告げた。
 意外な反応だったのだろう。柳の目が、驚きに僅かに見開かれる。が、拓海は、極めて冷静に続けた。
 「彼女の容態が心配だったから駆けつけたまでで、元々、顔は見せないつもりだった―――意識が回復したなら、後は柳さんに任せます」
 「……」
 「香苗に、すまないと伝えて下さい。…行こう」
 「麻生さん、」
 「行こう」
 強く、腕を引かれる。
 「よろしくお願いします」と頭を下げた拓海は、佐倉を引っ張るようにして病院を後にした。

***

 時刻は既に、午前3時になっていた。
 この時刻では当然、交通機関は止まっているし、タクシーもそうそう通らない。佐倉と拓海は、流しのタクシーを探すでもなく、なんとなく最寄り駅の方向へと歩き出していた。
 「…香苗に、どう、話をしたの」
 先に口火を切った佐倉が、そう訊ねる。
 隣を歩く拓海は、一旦佐倉に目を向け、それから再び目線を前に戻した。
 「―――去年の秋の終わり頃から、すれ違いが続いてたからな。香苗も、何の話で呼び出されたか、ある程度予見してたみたいだ。もう付き合えない、別れて欲しい、と話しても、驚いてなかったよ。ただ……ひたすら、泣いてた。嫌だ、ってね」
 「……」
 「他に好きな人がいる、なんて話すら、出してない」
 「…でも、香苗は、確かに言ったわ。“拓海を返して”って」
 「…俺は、君に嘘は言わない」
 落ち着いた声で、拓海が、短く断言する。…佐倉も、拓海の言葉を疑ってはいなかった。別れ話が余計複雑になるだけのことを、拓海が口にするとも思えない。
 「じゃあ―――いつ、どうして、わかったのかしら…」
 「…さあな。さっき、柳に言われて初めて、香苗が気づいてるってことがわかった位だ」
 では、答えは、香苗の中にしかないのだろう。考えても仕方ない―――佐倉はため息をつき、疲れたように髪を手ではらった。
 「…それで?」
 「…1週間、待ってくれ、って言われた。俺も焦るつもりはなかったから、了承したよ。で…その翌日に、これだ」
 「……」
 「みなみ。俺は、」
 「―――…香苗のところに、帰ってあげて」
 佐倉の一言に、拓海が、足を止める。佐倉も立ち止まった。
 痛いほど、拓海の視線を感じた。けれど佐倉は、俯いたままの目を上げることはできなかった。
 「あたしは……あなたを失っても、生きていける。1人でも生きていける。でも…香苗は、駄目なのよ。香苗は、あなたがいないと、生きていけないの―――ただの喩えじゃないわ。実際に命を絶とうとしたんだもの。だから…お願い。香苗のところに」
 「俺の意志は、どうなるんだ?」
 拓海は、苛立ったように、声を少し荒げた。
 「香苗さえ満足すれば、俺がどうなろうと構わないのか? 言っただろ、心が離れてしまったのに、元に戻るなんて無理だ、って」
 「…わかってる。でも……あたしには、もう、無理」
 「みなみ」
 「お願い」
 顔を、上げる。
 と同時に、堪えていた涙が、こぼれた。

 拓海を、愛している。
 “自分”のことなら、どれだけ犠牲にしても構わない。拓海と一緒にいるためになら、どんな代償だって払う。…そう思う位、拓海が好きだ。けれど。

 「…あたしは…“誰か”を犠牲にしてまで、恋愛はできない」
 「……」
 「命を絶つほどの傷を負った香苗を踏み台にしてまで、あなたを愛せない。…罪悪感や後悔や後ろめたさを引きずった恋になんて、生きられないの」
 「…誰も傷つかない恋なんて、夢物語なんじゃないか?」
 拓海の呟きに、佐倉は唇を噛み、首を振った。
 「ただの傷じゃ、ない。…命、よ。重すぎるわ」
 「……」
 「恋愛は、綺麗事だけじゃないって、わかってる。わかってても……あたしは……」
 佐倉はとうとう、顔を両手で覆い、泣き崩れた。

 本当は、言ってしまいたかった。
 命という、重たい、重たい存在―――それは、今回の香苗の自殺未遂のことだけを言ってる訳じゃない。香苗が、嬉しそうに口にした、あの言葉……拓海との間に生まれるかもしれない命のことも言っているのだ、と。
 でも―――佐倉には、到底、言えなかった。
 事実かどうかも、確認が取れていないことだ。しかも、今、どうなっているかもわからない状態―――下手をしたら、自分たちのせいで、その子の命は奪われてしまったかもしれないのだ。そんなことになっていたら……どんなに悔いても、取り返しがつかない。
 こんな話……黙っているのが辛いからといって、自分が軽々しく口にしていい話とは、佐倉にはどうしても思えなかった。

 拓海は、顔を覆って泣く佐倉を、暫し、途方に暮れたように見下ろしていた。
 が、やがて、大きなため息をつくと、うなだれたままの佐倉に告げた。
 「俺は、香苗は選ばない」
 「……」
 「君が言う通り、命は、重いものだ。その重いものを、恋愛の手札として使った香苗を、俺は許せない。だから、君がどうしようが、俺が香苗のところに戻ることは、絶対にない。…それでも―――俺とは、無理なのか?」
 「―――…」

 佐倉の脳裏には、あの日見た香苗の、幸せそうな笑顔があった。
 ほんの少し先にある、絵に描いたような幸せ―――それを、微塵も疑うことなく夢見ていた香苗の微笑み。その微笑に、電話口から聞こえた「拓海を返して」という叫びが、オーバーラップする。美しい笑顔と、絶望しきった心の叫びが、佐倉を責め続けていた。

 長い、長い、沈黙の後。
 佐倉は、たった一言―――「ごめんなさい」としか、言えなかった。


***


 それから3ヶ月は、ひたすら、香苗を捜し求める日々だった。

 香苗が運ばれた病院は、柳が非常に顔を利かせている病院で、スタッフは柳に忠実だった。佐倉は、何度香苗に会いに行っても、顔を見ることは勿論、容態を訊ねることもできずに、あっさり追い返された。
 10日後、「退院しました」と言われて、驚いて香苗のアパートを訪ねたところ、既に引っ越した後―――職場に行くと、一身上の都合により、退職していた。
 香苗は、佐倉の前から、姿を完全に消してしまったのだ。
 当然、佐倉は、香苗を探し回った。柳のもとへも押しかけ、香苗の行き先を問い詰めた。が……柳から返ってきた答えは、氷のように冷たい言葉だった。

 「もう、香苗のことはいいでしょう? 麻生さんだって、手紙を1通寄越したきり、一度も会いに来ませんよ。邪魔者はいなくなって万々歳じゃないですか。さっさと麻生さんと幸せになってはどうです」
 今の香苗は、廃人も同然ですよ。
 当然です。「全て」を失ったんですから―――あなた方のせいで、ね。

 辛辣すぎる言葉を、あっさり聞き流せるような性分ではない佐倉は、ますます自分を責め、やはり拓海とは結ばれる訳にはいかない、と思いつめた。
 結果……事件後、辛うじて出ていた拓海からの電話にも、完全に出なくなった。

 やっと、香苗の姿を見つけることができたのは、7月になってから。
 香苗から、1通の手紙が届いた。差出人の住所には、東京ではない住所が書いてあった。恐らく、香苗の実家の住所だろう。それで、香苗が暫く郷里に戻っていたらしいことを佐倉は悟った。
 手紙の中身は、1枚の写真だった。
 6月下旬の日付が入った写真には、以前より痩せた印象の香苗が写っていた。スーツケースを傍らに置き、あまり表情のない顔で、真っ直ぐにカメラを見据えている―――その写真の裏には、たった一言「暫く日本を離れます」とだけ書いてあった。
 香苗が、どういうつもりでその写真を送ってきたか、佐倉にはわからなかった。ただ、細身のワンピースを優雅に着こなした香苗の姿から、ある事実だけを汲み取った。
 香苗の体の中で育まれていた筈の命が、もう、そこには存在していない、という事実。
 はじめから、いなかったのか。それとも―――…。
 確かめる術は、もう、ない。それに…確かめるのが、怖かった。佐倉は、香苗の写真を封印し、罪の意識から逃げるかのように、ひたすら仕事に没頭した。

 8月に入った頃、香苗の大学の同期から、「香苗はデザインの勉強のためにパリへ留学している」と聞いた。
 以来、仕事で偶然、柳と再会するまでの数年間―――佐倉は、香苗を見失ったままだった。

***

 夏が終わる頃、絵はがきが1枚、佐倉のもとに届いた。
 自由の女神が微笑む、エアメール―――差出人は、麻生拓海。でも、そこには、何のメッセージも綴られていなかった。
 アメリカからの無言の絵はがきは、それから半年の間に、合計3枚、届いた。どういうつもりだろう―――その真意を測りかねているうちに、絵はがきは来なくなった。

 拓海に再会したのは、香苗の自殺未遂から1年以上経った、翌年の秋だった。
 とあるパーティーの席で、拓海は、見知らぬ女性にしなだれかかられ、明らかに営業用とわかる笑顔でその女性をエスコートしていた。
 笑顔を作れず、その場に凍りつく佐倉に、拓海はその笑顔のまま、「やあ、久しぶり、佐倉ちゃん」と言った。
 その場で、他の女性から、拓海の噂を初めて聞いた。
 「昔はああいう遊びはしない人だった気がするんだけど―――暫くアメリカいってる間に、何かあったのかしらね。佐倉さんも、興味があるなら、声かけてみれば?」
 「…好みじゃ、ないから」
 涼しい顔で答えながら―――佐倉の心の中は、ズタズタだった。
 でも―――拓海に非はないのに、拒絶したのは、自分の方だ。拓海がああなったのは、半分は香苗のせいかもしれないが、残り半分は佐倉のせいなのだ。
 理不尽な嫉妬を覚えてしまうのも、拓海の態度に寂しさを覚えるのも、全部自業自得だ。佐倉は、心臓を抉られるような痛みを、ただひたすら耐えた。


 その翌日。
 佐倉の所属事務所に、佐倉宛てのプレゼントが届いた。
 それは、薔薇の花束だった。
 紅い、紅い―――血潮のような真紅をした、薔薇の花。そこには、1枚のカードが添えられており、携帯電話の番号と、短いメッセージが綴られていた。

 『“La vie en rose”を覚えているか? “選べない”ではなく“嫌い”になった時は、送り返してくれ』

 1本の真紅の薔薇を差し出された日、拓海が弾いた『La vie en rose』は、1年以上経った今も、まだ耳に残っていた。
 佐倉は―――真紅の薔薇を、送り返すことができなかった。


 その日から、今日まで―――色々なことがあった。
 佐倉は、モデルからモデル事務所社長になり、拓海は、無名のジャズピアニストから中堅のジャズピアニストになった。何度も再会し、その都度、そつない友人同士の会話を交わした。
 いくつかの恋もした。
 その中には、アバンチュールに近い軽い恋もあれば、まだ自分にもこんな恋ができたのか、と思うような、切なくて純粋な恋もあった。その1つ1つが本気だったし、小さな喜びを感じたり、痛みに涙を流したりした。それは、本当だ。

 けれど―――佐倉は、まだ一度も、真紅の薔薇を送り返していない。
 花束を手にするたび、悩み、苦しむ。拓海と香苗は、佐倉の中では切り離せない存在だ。拓海の想いを感じて幸せを覚えれば、条件反射のように、香苗に対する罪悪感を思い出す。忘れたい。香苗の悲痛な叫びも、失われたかもしれない命のことも、忘れたい。そう思って、何度も薔薇の花を捨ててやろうとした。なのに……捨てることすら、佐倉には、できなかった。
 香苗のことが消えない限り、拓海の気持ちに応えるのも、無理だと思った。拓海だって、もうとっくに落ち着いて家庭を持っている年齢だ。だから今すぐ、他の女を見つけて、と伝えればいい。嫌いになった、と、薔薇の花を送り返せばいい―――そう思うのに、それもできない。どうしても消えない想いが、未練がましく、佐倉を縛り付ける。結局……佐倉は、ただ黙って花束を受け取ること以外、何もできなかった。

 忘れかけた頃になると、事務所に、もしくは自宅に贈られる、真紅の薔薇―――そのたびに、1本だけ抜き取り、ドライフラワーにして残す。数えてみたら、既に50本を超えていた。
 拓海は、あきれ返るほどの、ロマンチストだ。本気で、100回、求愛するつもりなのかもしれない。

 …嫌いになれる筈など、なかった。
 誰を好きになっても、誰に愛されても―――いつも、佐倉の心の片隅には、真紅の薔薇がひっそりと咲いていた。

 

***

 

 病室に、沈黙が流れた。

 長い―――長い、話だった。言わば、佐倉がこれまで見つめてきた「生と死」の歴史の話だ。
 咲夜は、終始、無言のままだった。青白い顔で、真剣に話を聞いていた。そんな咲夜の様子を心配しながら、奏も真剣に話を聞いた。そして―――拓海を拒絶し続ける佐倉の気持ちが、わかったような、わからないような、複雑な心境になった。
 香苗の自殺がショックだった。…これは、わかる。
 もしかしたら、香苗が妊娠していて、その自殺が理由で駄目になってしまったかもしれない。…この不安も、わかる。
 今も求愛し続けている拓海に、素直に気持ちをぶつけられないのも、ちょっと、わかる。多分、香苗の問題以上に、1年のブランクを経て再会した時からの、2人の関係の問題だろう。拓海は他の女に走り、佐倉もいくつかの恋を経験し―――裏では、互いの恋愛感情を察していながらも、表面上はそんなものを忘れたフリをしてきた。だから、素直になるタイミングを逸してしまう―――そういうのは、あるかもしれないな、と奏も思う。
 でも……それでも、やっぱり、腑に落ちない。

 「…佐倉さんがこだわってること、オレにも、なんとなくわかるけど…」
 沈黙を破って口を開いた奏は、佐倉を見据え、少し眉を寄せた。
 「わかるけど―――わかんねぇ、ってやっぱり思う。確かに、命は重たいけどさ……時間だって、重たいだろ」
 「時間?」
 「上手く言えないけど……なんか、麻生さんも香苗さんも“過去のこと”にしちゃってる問題を、佐倉さんが1人で引きずってるように見える」
 「……」
 「香苗さん、立派にデザイナーになって、バリバリ活躍してるんだろ? 柳っていう恋人もいて、順風満帆なんだろ? …だったら、もういいんじゃないか?」
 「…確かに、ね」
 当たり前すぎるほど当たり前な、奏の指摘に、佐倉は苦笑をもらした。
 「一宮君が言うみたいに思うことができれば……多分、あたしも、全部“過去のこと”にできるんだと思うわ」
 「…思えないのかよ」
 佐倉は目を伏せ、小さくため息をついた。
 「―――柳と再会して、香苗が“YANAGI”にいることを知ってから、ね。あたし、何度も香苗に“一度会いたい”って伝えてるの。会って、訊きたいことがいっぱいあるし……謝りたいこともあるから。でも―――香苗に会えたことは、一度もない。あらゆる手は尽くしたけど…無理だったわ。あたしの名前が出ると、香苗の顔色が変わるんですって。そう……例の“G.V.B.”のパーティーに、チーフデザイナーでありながら、出席しなかった時みたいに、ね」
 「……」
 「…柳があたしに執着してることも、香苗がいまだに、麻生さんを忘れていないことの証拠よ。完全に自分の方を向いてもらえない怒りが、歪んだ形で、麻生さんに向けられてるの。昔、あたしに辛辣なことを言ったのも、案外そういう動機だったのかも―――…とにかく、」
 そこで息をつくと、佐倉は目を上げ、奏と、まだ無言のままの咲夜の顔を、順に見つめた。
 「まだ、“過去のこと”には、なってないの。あたしだけじゃなく―――香苗の中でも」

 執念、という単語を連想し、奏の背中に、ゾクリとした寒気が走った。
 本気の自殺を図ったことにしても、そうだ。奏だって、失恋した時は、本気で「死んでしまいたい」と思った。でも、「死んでしまいたい」と思うことと、本当に自殺を図るのとでは、天と地ほどの差がある。似ているようで、全然次元の違う話だ。

 ―――そ…っか…。
 わかった、気がする。佐倉さんが、何を考えてんのか。

 それは、咲夜も同じだったらしい。ずっと口をつぐんでいた咲夜が、ゆっくりと、口を開いたのだ。
 「…佐倉さんは、やっぱり、赤ちゃんのことが引っかかってるの?」
 「……」
 「香苗さんが、そこまで頑なに佐倉さんを拒絶しているのも、こんなに長い間、柳さんに支えられながら、まだ拓海に想いを残しているのも―――拓海に捨てられたからでも、拓海の相手が自分の親友だったからでもなく、大切なものを失ったから……赤ちゃんを失ったから、なんじゃないか、と思ってる。…そうでしょ?」
 佐倉は、答えなかった。
 けれど、奏にも、咲夜にもわかった―――答えは、イエス、だと。
 「…案外、あたしって、意気地なしなのよ」
 そう言って、佐倉は苦笑を浮かべた。
 「二度と好きにならない、なんて残酷な啖呵を切っておきながら、麻生さんに薔薇の花を送り返すだけの勇気が、あたしには、ないの。…なりふり構わず、香苗に罵倒されることも厭わず、無理やり真実を訊き出すだけの勇気も、ね」

***

 佐倉のためにタクシーを呼び、送り出した時点で、時刻は真夜中の2時過ぎだった。
 「…奏も、帰りなよ」
 長い話を聞いて疲れたのか、咲夜が、眠気を帯びたような声でそう言う。
 「ってか、今って夜中だよね。…いいのかな、病院で、こんな時間にべらべら喋ってて」
 「あー…、だよなぁ。まあ、いいんじゃない? ボリューム、相当下げてたし。何度も看護師が外通ったけど、文句言われなかっただろ」
 「そうだね」
 咲夜が、小さく笑う。奏も、なんとなくホッとして、少し声を立てて笑った。
 改めて、ベッドの傍らに置かれた椅子に腰掛け、咲夜の顔を見つめる。…やはり、青白い顔をしている。佐倉が話している間に点滴が終わり、看護師を呼んで外してもらったが、あれだけの点滴では全然足りていないのではないか、と感じ、奏は眉をひそめた。
 「気分……どう?」
 「…ん、悪くない。薬が効いてるのかな…胃も、痛くないし」
 「そっか」
 「…だから、奏、帰っていいよ」
 「―――いや。なんか、部屋戻っても、こっちのことが気になって眠れそうにないから」
 バカ、と、咲夜が、声には出さず唇の動きだけで言う。でも、咲夜は、うっすらと笑みを浮かべていた。奏も笑いながら、どうせバカですよ、と声に出さずに返した。

 なんだか、酷く、空気が穏やかだ。
 あんな話を聞いた後なのに―――いつ以来だろう、と思うほど、2人の間にある空気は、穏やかで、自然だった。
 多分、2人とも、ホッとしていたのだろう。
 奏を心配させてはいけない、と強がっていた咲夜も、咲夜に頼ってもらえない、と苛立っていた奏も―――咲夜が倒れたことで、張り詰めていた緊張の糸が、切れたから。
 口に出せないこと、もどかしい想い、それぞれに、まだまだたくさん抱えていても……とりあえず1つ、もう無理をせずに済むようになった。そのことに、奏も、咲夜も、やっと安堵していた。

 枕元のライトを小さな電球1つにすると、間もなく、咲夜が小さな寝息をたて始めた。
 規則正しい呼吸を聞きながら―――奏も、いつの間にか眠りに落ちた。


***


 結局咲夜は、翌日曜日を、丸々病院で過ごした。一旦は家に戻った奏だったが、結局この日も、夜には咲夜の病室に居座り、そのまま夜明かししてしまった。
 明けて、月曜日。当然、咲夜も、奏も、仕事がある。午後には退院していい、と言われた咲夜は、「じゃあ、1日休むだけで済むかな」と呟いて、医者に叱られた。
 「冗談じゃないですよ、あなた。本当は暫く閉じ込めて点滴三昧の毎日を送った方がいいんですから。最低3日間は、仕事なんて駄目です。通勤電車で、またひっくり返りますよ」
 冗談じゃない、は咲夜の方のセリフだ。そんなに休んでられるか、と思ったが、うっかり口に出したら本気で病院に閉じ込められそうなので、大人しく黙っておいた。
 椅子に座ったまま熟睡した奏は、なんと、そのまま病院から店に直行した。
 「頼む! 土曜日のオレの早番と、今日のテンの早番、交代させてくれっ!」
 「はあぁ? なんで? まあ、ええけど」
 というありがたい同僚を持ったおかげで、無事、午後3時で仕事を切り上げ、咲夜が退院する前に病院に駆けつけることができた。付き添いなんて要らないのに、と咲夜は半ば迷惑そうな顔をしていたが、ちょっと気を抜くとまだ足元が怪しい状態の咲夜を見て、奏は、やっぱり駆けつけて正解だった、と思った。


 「何か食いたいもん、ある?」
 アパート近くのコンビニ前で奏が訊くと、咲夜は少し考え込み、首を振った。
 「…全然」
 「好物とか」
 「…うーん…」
 「ないかぁ…。実は今朝、うちの親に電話してさ。咲夜のこと、軽く相談したんだ」
 それを聞いて、咲夜の目が丸くなった。
 「って、え…っ、わざわざ国際電話!?」
 「手っ取り早いだろ。日本に知り合いのカウンセラーなんていないし。メンタル関係の質問は、子供の頃から母親に訊いてたよ、オレ」
 「はー…。うちなら、あり得ないなぁ」
 感心したように息をつく咲夜を見て、奏は少し、眉をひそめた。
 誰にも頼らず、本音を語らず、平然とした笑顔で人の目を眩ますことに慣れきっている咲夜を見ていると、親にもこういう顔で接していたんじゃないか、という気がしてくる。入退院を繰り返す母を持ち、そんな妻最優先で必死に働く父を見て育ったから、親に気軽に悩み事を相談する、なんてことはなかったのかもしれない。いや、それ以上に、母と死別してからは、親は一番信用できない人間だったのかも…。
 ―――自己解決の癖がついてるこいつから見たら、すぐ泣きの入るオレなんて、相当弱い人間に見えるんだろうなぁ…。
 軽く落ち込みかけたが、落ち込んでる場合じゃないな、と思い直し、奏は改めて、話の続きに戻った。
 「…でさ。うちの親曰く、こういう時は、好きなもん食べるのが一番いいらしいんだ」

 『つまり、ダイエットが高じて拒食症になってる訳でも、ストレスから過食してる訳でもない、“落ち込んで食欲のない状態が続きすぎた状態”な訳ね? うーん…誰でもそういう時はあるけど、倒れるところまで行くのは、まずいわね。栄養が入っていかなけりゃ、体は絶対悲鳴をあげてる筈なのよ。でも、その信号を自覚できない状態―――回線ストップ、の状態ね。過去に拒食症の経験があるなら、その時苦しんだことがトラウマになって、余計、吐いちゃうことを恐れて食べられなくなる、ってのもあると思うわ。でも“食べなきゃ”って自覚してるってことは、まだ軽症よ。一番いいのは、ストレスが解消されて、本人が“おなかが空いた”って自覚できることだけど、胃腸が相当弱ってるから、もし空腹を訴えても、まともな食事はNG。おかゆの類にしときなさい。で、空腹の自覚がない場合は…そうね、とにかく、好きなものを食べさせること。本人がちょっとでも“食べてみようかな”と言ったら、少量でいいから食べさせてあげて。食に興味を持たせないことには始まらないから』

 相変わらずテキパキと、もの凄い勢いで説明されたので、特にメモの類を持ち合わせていなかった奏は、最後の「好きなものを食べさせる」だけが、一番印象的なアドバイスとして頭に残っていた。「それって脂っこいものとかでもいいのかよ」と不安になったが、最後に「好きだからって好きなだけ与えるのはタブーよ。少量ね、欲張っちゃだめよ」と言われて、少し納得した。
 「栄養なくてもいいから、あ、これうまそう、って思うもんを、ちょっとだけ食えばいいって」
 「ふぅん…。でも、思い浮かばないなぁ」
 「だからとりあえず、見てみようぜ、実際に」
 そう言って、咲夜の腕を引く。なるほど、という顔をした咲夜は、奏に連れられて、コンビニに足を踏み入れた。
 店内に入った2人は、陳列棚の間を、適当にぶらぶらと歩き回った。近所のコンビニは、そこそこ品揃えが豊富な方だ。菓子類も、有名どころや新製品が所狭しと並んでいるが、咲夜の表情はいまいち冴えない。
 「これなんか、結構好きな筈なんだけど……想像すると、胃がむかむかしてくる」
 「うーん…難しいんだな」
 「このプリンも、好きでよく食べてたし胃に優しそうだから、何日か前に食べたんだ。でも、ダメだった。自分の体なのになぁ…何を求めてるんだか、さっぱりわかんないよ」
 困ったような顔をした咲夜だったが、ふと、ある物に目を止め、ついでに足も止めた。
 「……」
 何だろう、と思って、咲夜の視線を追う。そこには、ハンドメイドらしき、袋に入ったクッキーが並べられていた。
 暫し、そのクッキーを見つめた咲夜は、奏を見上げると、思いがけないことを言った。
 「食べたい、っていうか、飲みたい」
 「え?」
 「奏が淹れてくれた、紅茶が」

***

 玄関に現れた咲夜は、まだ濡れた髪をしていて、タオルを手に持っていた。
 「何分もドライヤー持つのが、だるくて」
 「…納得」
 自然乾燥派の奏は、短い髪が幸いして、既にほとんど乾いた状態だ。どうぞ、と促すと、咲夜は、なんだかいつもより遠慮した様子で、奏の部屋に上がりこんだ。
 シャワーを浴びたばかりの、ルージュもひいていない咲夜の顔は、やっぱりいつもより青白い。濡れた髪の貼りついた細い首がやけに艶かしく感じて、奏は妙な居心地の悪さに、思わず視線を逸らした。
 「そこにあるクッキー、出しといてくれるか」
 「うん」
 ぺたん、と座り込む咲夜を振り返りつつ、コンロの火をつける。父の半強制的な紅茶教授を、今ほどありがたく思ったことはない。奏は、慣れた手つきで、紅茶の準備を始めた。
 「なんか……凄く、久しぶりな気がする。奏の部屋」
 「確か…ジャズ・フェスタのメイクした時以来じゃないか?」
 「マチルダ、元気そうだね。良かった」
 窓際のサボテンに目をやって、咲夜がくすっと笑う。奏もつられて、少し笑った。
 ジャズ・フェスタから、まだ1ヶ月も経っていない。なのに―――咲夜の言う通り、随分前のことのように感じる。奏自身も、やっぱり余裕を失くしてたのだろう。勿論今だって、それほど余裕がある訳ではない。が……事態が少し動いた分、この先のことを冷静に考えなければ、と思える程度には、落ち着いている。
 ―――マチルダに目が行く位だから、咲夜もそこそこ、落ち着いたみたいだな。
 マチルダを眺めて微笑む咲夜を肩越しにそっと見やり、奏はホッと安堵した。

 2人分の紅茶を淹れ、テーブルの上にティーカップを置く。
 「はい、どうぞ」
 「…いただきます」
 改まったようにそう言った咲夜は、恐る恐る、といった感じでティーカップを手に取った。
 ミルクも砂糖も入れず、そのまま、口に運ぶ。その方が、香りがそのまま感じられるからだ。ふわりと広がった優しい香りに、少し口元をほころばせた咲夜は、ゆっくりとティーカップに口をつけた。
 「―――…」
 「…どう?」
 「……おいしい……」
 「…そっか」
 良かった―――奏も笑みを見せ、自分も紅茶を飲み始めた。
 咲夜は続いてクッキーも口にした。奏も食べてみたが、口どけの良い、なかなかおいしいクッキーだった。
 「うん。大丈夫。これはおいしいって感じる」
 「おいしくても、セーブしろよ。胃の中、何も入ってないんだから」
 奏が釘を刺すまでもなかったようで、咲夜は、普段なら一口で食べてしまうようなクッキーを、倍の時間をかけて食べた。ちまちまとした食べ方だが、それでも、おいしい、という久々の感覚を取り戻した咲夜は、とても嬉しそうだった。
 「奏のおかげで、やっと少しだけ、まともに物がたべられそう。ありがとう」
 「…いや、オレはその、紅茶だけだし」
 「でも、奏の紅茶がなかったら、クッキーも食べようと思わなかったよ、きっと」
 こちらが照れるほどストレートに感謝されると、ちょっと、調子が狂う。奏は、変にぶっきらぼうな口調で「そっか」と言い、誤魔化すようにティーカップを口に運んだ。


 のんびりとしたティータイムが、暫し続く。
 クッキーを3枚ほど食べたところで、咲夜が、突然口を開いた。
 「…ねえ、奏」
 「ん?」
 「奏は、どう思った? 佐倉さんの話」
 「……」
 別に、避けていた訳ではなかったが―――佐倉が帰ってから、この話が出たのは、これが初めてだ。
 実を言えば、そのことについては、ずっと考えを巡らせてはいた。きっと咲夜も、口に出さずに、色々考えていたのだろう。
 「…佐倉さんも、迷ってるんだろうな、と思った…かな」
 ティーカップを置き、そう言う。
 「あの時は、二度と好きにならない、なんて言ってたけど……それを真に受けて、麻生さんが二度と薔薇の花贈ってこなくなったら、それはそれで、多分辛いんだろうな、と思う。本当は好きなんだから、当然だよな。でも―――今のままじゃ、麻生さんを受け入れるふんぎりもつかないし。麻生さんも、もういい歳だから、辛くてもきっぱり“ゲーム・オーバー”宣言した方がいいんじゃないか、って迷ってる感じがした」
 「…ゲーム・オーバー…か」
 「咲夜は、どう思った?」
 訊ねると、咲夜は暫し黙り込み、やがて、ポツリと呟いた。
 「―――拓海が、可哀想だ、って思った」
 「……」
 「…拓海は、私と似てるから。多分、楽しそうに人生送ってるように見えると思うけど……今、凄く孤独だと思う。自惚れるつもりはないけど―――私も、いないし」
 それは、多分―――咲夜より奏の方が、その事実を知っている。
 一見わからないが、麻生拓海は、孤独な人間だ。その全てを知ることはできないが、彼は人生の中で、人間の汚い部分を色々見すぎたのではないか、と奏は思う。裏切り、妬み、策略―――それで、あまり人を信用できなくなった。彼が誰かを本当の意味で頼りにすることは、多分、ほとんどないだろう。
 そんな中で、咲夜は唯一、拓海が信じた人間だ。ずっと支えだった、と拓海は奏に言った。その支えを、自分の意思とはいえ、拓海は手放した―――今、拓海は、完全な孤独の中にいるだろう。
 「1人で、佐倉さんのいない孤独に耐えてる拓海を想像すると……苦しい」
 「……」
 「でも、佐倉さんが、香苗さんのことを“過去のこと”にできない気持ちも……ちょっと、わかる」
 そう言うと、咲夜はため息をつき、落し気味にしていた視線を奏に向けた。
 「あの話聞いてさ。なんか、芽衣のこと、思い出したんだ」
 「芽衣……って、妹の?」
 咲夜の妹、芽衣。それは、咲夜にとって、ある種の象徴だ。死の淵を彷徨っていた母を裏切って、父が、他の女性との間に作った子供―――それが、芽衣なのだから。
 「佐倉さんの話聞いて、香苗さんのおなかの中にいた赤ちゃんを芽衣に重ねた時……怖く、なった」
 「怖い?」
 「…もし、だよ。もし、お母さんが生きてたら―――芽衣は、死んでたかもしれない、って思って」
 「……」
 「世間体を重んじるお父さんのことだから、中絶させてたかもしれない。…それって、私たち家族で芽衣を殺したことになるのかもしれない。そう考えたら……佐倉さんの気持ち、わかる気がした。自分の存在が、香苗さんの赤ちゃんを殺したんじゃないか、なんて思ったら……無理、だよ。殺した赤ちゃんの“父親”と、その子を殺した自分が、幸せになるなんて」
 なるほど―――考えつかなかった。「殺す」という考え方は。
 でも、芽衣という、実際に生まれてきた子供の存在を考えると、たとえ生まれてきていなくても、「殺す」という表現は確かに使えるのかもしれない。人の生や死に敏感な佐倉が、そのように考えていても、不思議ではない。
 「…でも、大体、真相がわかってないだろ」
 根本に立ち返り、奏が呟いた。
 「実は香苗さんの勘違いで、妊娠なんて最初からしてなかった、ってオチだったら、どうなるんだよ」
 「うん…」
 落ち込んだように、咲夜が小さく相槌を打つ。その様子に、奏は、少し眉をひそめた。
 暫し、沈黙が流れる。テーブルの上の1点を見つめていた咲夜は、やがて、ポツリと呟いた。
 「―――何か、できないかな」
 「……」
 「拓海に、佐倉さんを返してあげるために…何か、私にできること、ないかな」
 「…咲夜…」

 複雑な感情が、入り混じる。
 自分が愛した男が、他の女とくっつくための手助けがしたい、という咲夜に、それって本音か? と疑いつつ、こいつならそう言うのかもしれない、とも思う。自分なら絶対無理だと思うけれど……咲夜なら、それが拓海の望みなら、と本気でやるかもしれない、と。
 それほどの深い愛情を持っている咲夜を、凄いな、と思う。
 けれど―――その対象が拓海であることに、どうしようもない憤りを覚える。

 湧き上がってくる醜い感情と、暫し葛藤する。その中で、ふと、あることに気づき―――奏はやっと冷静さを取り戻し、大きく息を吸った。
 「…なあ」
 「…何」
 「お前の望みは、佐倉さんが麻生さんを受け入れること、だよな」
 「…うん」
 「―――あの2人が上手くいけば、お前は、楽になるのか?」
 奏の言葉に、咲夜が、目を上げる。
 少し戸惑っているのか、咲夜の瞳が、僅かに揺れる。が―――しっかりと奏の目を見つめた咲夜は、
 「うん」
 と、きっぱりとした声で答えた。
 それで、確信した。
 咲夜が、倒れるほどに苦しんでいた要因のひとつに、「拓海がひとりぼっちでいること」があったのだ、ということを。
 失恋や、拓海を忘れられない苦しみも、当然ある。でも……咲夜はちゃんと気づいていた。拓海にとって自分が、手放すのが辛い存在だ、ということを。咲夜は、自分という支えを失ってもなお、まだ佐倉を1人で想い続けているであろう拓海の心中を思って―――苦しんでいたのだ。救ってやれない、支えてやれないことを。

 咲夜の拓海を想う気持ちを考えると、正直、勝手にやれ、と投げ出したくなる部分もある。でも……咲夜を拓海に縛り付けているものが、少しでも減るのなら。
 …いや。本当は、そんなこと、どうでもいい。
 咲夜が、拓海を助けられなくて苦しいのと、同じだ。
 奏は、ただ、咲夜の――― 一番大切な人の力になりたいだけだ。
 「…わかった」
 短く答えた奏は、少し、考えた。

 奏のことは、柳を通じて、香苗も知っている気がする。モデルである以上、顔を知られている可能性も高い。奏自ら香苗にアクションを起こすのは、ちょっと無理そうだ。
 咲夜も、まずい。香苗が咲夜の存在を知っている確率は、かなり高い。柳という、少々行き過ぎた部分のある男がバックについているだけに、拓海の部屋に頻繁に出入りする女、としてマークされている可能性だってあるのだ。顔を知られていることも覚悟した方がいいだろう。
 つまり、佐倉と会おうとしない香苗に、自分たちが直接話を訊きに行くのは、NG。第一、「はい、これが真相でした」と正解を出すことに、本当はあまり意味がないこと位、奏もわかっている。

 佐倉と香苗が、実際に話し合い、2人の間で終止符を打たなくては、意味がない。
 そのためには―――…。

 その時。
 ある考えが、ポン、と奏の頭にひらめいた。

 ―――そうか。その手があったか。

 時計を見ると、午後6時過ぎだ。
 一瞬迷った挙句、奏は意を決し、携帯電話を手に取った。


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