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― 偽りと真実

 

 「え? 取材…、ですか?」
 唐突な電話に、彼女は、僅かに眉をひそめた。
 確かに、ここ半年ほどは、広報を経由して雑誌や新聞の取材依頼が入ることが度々あった。が、対応をしていたのは大抵、彼女ではなく、責任者だ。1、2度、記事の主旨からすると責任者より彼女が答えるべきだろう、ということで彼女が同席して取材を受けたこともあるが、こんな依頼は―――彼女を指名しての依頼は、今回が初めてだ。
 『はい。是非、大原さんにお願いしたいんです』
 電話の主の女性は、戸惑い気味の彼女の声を感じてか、「大原さんに」にアクセントを置いてそう言った。
 『実は今、女性の、社会人になってからの海外留学の記事を書いてまして、様々な業界の、海外留学経験を生かしてキャリアアップされた女性に、体験談やご意見を伺っているんです。先日、別の雑誌のインタビュー記事で、大原さんがパリでデザインの勉強をされたというお話を拝見しまして―――アパレル業界という点でも、留学先がフランスという点でも、これまでお話を聞いてきた方々とは少し違うお話が伺えるかも、と思って、お電話させていただいたんです』
 「ああ…、じゃあ、当社についての取材という訳では…」
 『ええ。申し訳ありませんが、もし取材中の大原さんの言葉をそのまま載せる部分があっても、社名やお名前は出ないんです。アパレル勤務・Aさん、とか、某社デザイナー・Aさん、といった感じで。あとは参考として年齢を掲載させていただくかもしれませんが』
 それを聞いて彼女は、個人的には「何を言っても会社に迷惑はかからない」と考えてホッとし、“G.V.B.”のチーフデザイナー的には「ブランドの宣伝にならない取材を受けていいものか」と少し迷った。
 『どうでしょう? 30分もお時間いただければ、十分だと思うんですけど…』
 「そうですね―――別にお話するのは構いませんけど、社を離れた個人的なご依頼ですと、少なくとも就業時間内は、ちょっと…」
 『ああ、そうですよね。でしたら―――…』
 電話の向こうで、ガサガサと音がする。手帳でスケジュールでも確認しているのだろう。
 『お仕事に支障のないように、定時後、お茶かお食事でもご一緒しながら、というのではどうでしょう?』
 「ええ…、それは、構いませんが」
 『こちらも締め切りが迫っていますので、そうですね―――明日の夜は、ご予定は?』
 「明日は、ええと……19時まで会議がありますので、もし時間を取るのなら、20時以降になりますね。遅い時間になってしまいますけど…」
 『いえ、こちらは結構ですから。では、明日で』
 詳しい時間や場所を打ち合わせしながら、自分も手帳を広げる。明日、28日の欄は、打ち合わせと会議で埋まっていた。半分29日に文字が被るようにしながら、“夜8時半、取材”と書き込んだ。

 では失礼します、と挨拶をし、受話器を置く。
 彼女―――大原香苗は、ほっ、と息をつき、再び机の上のデザイン画に視線を落とした。

***

 翌、水曜日。
 会社近くにある約束したカフェの前に行くと、そこには、電話の声の印象そのままの女性が立っていた。
 「わざわざお時間いただいて、ありがとうございます」
 深々と頭を下げた彼女は、そう言って香苗に名刺を差し出した。

 『World Explorer社“月刊A-Life” 専属ライター 藤井蕾夏』

 「……ああ、」
 昨日、電話で「“月刊A-Life”の藤井」と名乗られた時は、ピンと来なかった。どこにでもある苗字だし、普段、雑誌のライターの名前など、いちいち確認しないからだ。でも香苗は、この人物の下の名前には見覚えがあった。非常に珍しい、特徴的な名前だから。
 「もしかして、毎月最後の方のページに載ってる写真コラムを書いてらっしゃる方ですか」
 香苗が言うと、蕾夏は少し目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
 「読者の方とは知りませんでした…。ええ、そうです。他の記事だと名前が欄外に小さく出るだけですから、あれしか書いてないと思ってる方も多いみたいですけど」
 「わたしもそう思ってました。…あ、こちらも、名刺を」
 香苗もバッグから名刺入れを取り出し、もうすっかり出し慣れた自分の名刺を蕾夏に差し出した。とりあえずの通過儀礼を終えた2人は、では行きましょうか、とカフェに足を踏み入れた。

 「本来ならお食事をご馳走してしかるべきところなんですが……すみません。お話を伺ったら、すぐ社に戻って、続きを仕上げないといけないものですから」
 店の入り口にほど近い席を選んで腰掛けた蕾夏は、そう言って苦笑を香苗に向けた。
 「いえ。わたしも似たようなものですから」
 夜遅くまで、デザイン画と首っ引きになることも多い自分の状況と重ねて、香苗も同様の苦笑を浮かべる。
 水を持ってきたウェイトレスに、それぞれ、紅茶とコーヒーを注文する。
 「では、さっそく始めさせていただいて構いませんか?」
 トートバッグからクリアファイルを取り出した蕾夏の言葉に、香苗は微笑み、「はい」と答えた。


***


 「まあ、若干の衣装変更はあったけど、基本的な路線は同じだから、メイクも同じで大丈夫でしょう」
 佐倉は、そう言って、手にしていた書類をテーブルの上に置いた。それでもまだ、奏は書類から目を離さなかった。
 ―――熱心だこと。
 そんな奏の様子を見て、少し眉をひそめる。
 今話し合っていたのは、明日の仕事―――この事務所のモデル・ハルミのスチール撮影のこと。奏にとっては、氷室の代役で花嫁にメイクを施した時を除いては、これが初めてとなる個人的なメイクの仕事である。
 正直、昨夜奏から「直接、最終確認したいから。明日、店終わってから事務所で付き合ってもらっていいかな」と電話をもらった時は、多少の違和感を覚えなくもなかった。明日の仕事のことは、これまで、十分打ち合わせやテストを重ねてきた。今更、顔を見て話し合うようなことは何もない。タイムスケジュールのことなどは、それこそ電話で十分だ。
 でも、まあ、さすがの奏も初仕事にはナーバスになっているのかもしれない。少々ひっかかりはするものの、佐倉はそんな風に一応納得した。
 「あと、明日のことで、何か確認しておくこと、ある?」
 佐倉が訊ねると、真剣な眼差しでレジュメを睨んでいた奏は、そのまま佐倉を見ずに首を横に振った。
 「いや、特には」
 「そ。じゃあ、今日はこれでおしまい。一宮君の雑誌撮影の件は、この前から特に進展ないみたいだから、また日を改めて―――…」
 そう言いかけた時、テーブルの上に置いた奏の携帯電話が鳴った。
 紙面に釘づけだった奏の視線が、携帯電話に向く。奏は、紙の束をぽん、とテーブルに投げ出すと、携帯を手に取った。
 「はい」
 電話に出た奏は、すぐに、僅かに表情を変えた。
 「ああ…、お疲れ。……ん? 今? 今は事務所寄ってる。…そう、佐倉さんと一緒」
 関係ない電話と思っていたところに、いきなり自分の名前が出て、佐倉は思わず目を見張った。
 何事? と少し緊張する佐倉の前で、奏は暫し相槌のようなものを電話主に返し、やがて「ちょっと待って」と告げると、佐倉に目を向けた。
 「佐倉さん」
 「え、」
 「咲夜から」
 携帯電話を、差し出される。咲夜―――土曜日の夜のことを思い出し、佐倉の鼓動が僅かに乱れた。
 あの話に対する咲夜の反応は、佐倉には今ひとつ読み難かった。拓海を拒むのも無理ないな、という諦めの反応なのか、自分が恋した男性の恋愛遍歴を聞かされて不愉快になっていたのか、それとも、そんなことで何年も引きずってるなんて、と呆れていたのか―――珍しく言葉少なな反応しかなかっただけに、少々気になっている。が、奏も何も言わないし、改めてその話題に触れるのも嫌なので、「咲夜ちゃん、何か言ってた?」なんて訊くことは、佐倉もしていない。
 何の用だろう―――奏から携帯電話を受け取った佐倉は、少し警戒しながら電話を耳にあてた。
 「…もしもし」
 『佐倉さん? 私』
 「ええ…。どう? 具合の方は」
 『んー、まぁ、なんとか』
 わかり難い、曖昧な返事が返ってくる。が、その声の調子は、明るくはないが、特に暗いとか気まずそうとかいう感じではない。
 『あのさ。今から、ちょっと会えないかな』
 「え?」
 『話したいこと、あるんだ。…拓海のことで』
 「……」
 『…この話しないと、私も、なんか胸のつかえが取れない気がしてさ。食欲ないのも、そのせいかもしれない、と思って―――ごめん、急で。でも、電話じゃなく、顔見てちゃんと話したいから』
 遠慮がちな言葉を選んではいるが、佐倉に選択の余地を与えない内容だ。佐倉の性格上、拓海のこと、と言われて、その話が気になって体調を崩している、とまで言われたら、たとえこの後予定があっても、全て断ってでも行かずにはいられないのだから。
 チラリと、奏の顔を見やる。
 咲夜の用件は、電話を佐倉に渡す前に把握していたらしい。既に資料の類を片付け始めていた奏は、佐倉と目が合うと、
 「オレも行くよ」
 と小声で返した。咲夜に友情以外の感情も抱いているらしい奏にとっても、心穏やかならざる事態だろう。佐倉は、携帯を握り直し、はっきりと返した。
 「―――わかったわ。それで、咲夜ちゃんは今、どこに?」


***


 ―――ほぼ9時ちょうど、か。
 携帯電話で時間を確認した奏は、目的地まであと1分という位置で、内心ホッと胸を撫で下ろした。
 多分蕾夏は、そろそろ取材を終える頃だろう。姿を見せるまで適当に話を伸ばす、とは言っていたが、そもそも、蕾夏の取材は、確かに奏が頼んだことがきっかけではあるが、ちゃんとした記事のための正規の取材だ。世間話などで長引かせるにも限界があるだろう。あまり予定より遅く着きすぎると、蕾夏が疑われてしまう。それだけは、絶対にまずかった。
 でも、これなら、怖い位に計画通り―――この先どうなるかわからないが、幸先は良さそうだ。

 咲夜は、約束した店の入り口に立っていた。
 「おおい」
 奏が手を挙げると、キョロキョロしていた咲夜も気づき、微かに笑って手を挙げる。そして、奏の斜め後ろにいる佐倉にも目を向け、軽く会釈をした。
 「待たせたか?」
 病み上がり、というかまだ病の真っ只中の咲夜を心配して言うと、咲夜はニッと笑って、首を振った。
 「ううん、大丈夫。ごめんね、佐倉さん。急に呼びつけて」
 「あたしは、いいけど―――本当に大丈夫?」
 「うん。ほんのちょっとだけど、多少はモノを食べるようになったし」
 心配顔の佐倉にもそう答えた咲夜は、さっそく、目の前の自動ドアを目で示した。
 「食事しながら、とも思ったけど、私はまだ外食無理だし、混んでると落ち着いて話もできなそうだから―――ここで、いいかな」
 「ええ」
 佐倉の返事を受け、咲夜が先に立ち、自動ドアを抜けて店内に入る。佐倉と奏が、それに続いた。

 洒落た内装の店内は、広々としていて、少し落とし気味な照明とイージーリスニングのBGMが、いいムードを演出している。
 18時以降は「この時間はご自由にお席をお選び下さい」という案内看板が入り口に立っているのも、下見段階で確認済みだ。奏は、入ってきた人間にとっては一番の死角―――入り口に一番近い席に、目を向けた。
 途端―――いいタイミングで、こちら側を向いて座っている蕾夏と、目が合った。
 向かい側の人物と話をしていた蕾夏は、こちらに目を向けた一瞬、「えっ」という感じに、少し驚いた目をした。が、すぐに何でもない表情に戻り、視線も向かい側の相手に戻した。
 ―――まあ…、佐倉さん、てのは、予想外だったのかな。
 瑞樹にも蕾夏にも、ことの詳細は話していない。ただ、“G.V.B.”のチーフデザイナー・大原香苗に、どうしても会わせたい人物がいる、けれどその人物を香苗は避けている、としか説明していない。香苗のプロフィールだけで、「今やってる取材にぴったりだから」と蕾夏が気軽に引き受けてくれたから良かったが、もし「事情を詳しく聞かないと協力はできない」と言われてしまったら、この計画は実現できなかっただろう。さすがに、佐倉の知人である彼らに明かせる内容ではないから。
 咲夜も、蕾夏のいる席はすぐに確認したようだ。迷うことなく、彼女らの席のすぐ横を通り過ぎた。佐倉もそれに続き、奏が更に佐倉の後ろに続いた。
 入り口に背を向ける形で座っている、蕾夏の向かい側の人物を、すれ違いざま確認する。写真でしか見たことがないが、斜め上から見た顔は、確かに、あの大原香苗のようだ。会話の中身までは確認できなかったが、一瞬聞こえた「わざわざありがとうございました」という蕾夏のセリフから、どうやら取材は無事終わったらしい、と奏は悟った。
 咲夜が、さりげなく、香苗と同じく入り口に背を向ける方向の席を選んで、先に腰掛ける。自然、佐倉は、その向かいの席に腰掛けることになった。
 そして、椅子に座って顔を上げた、数秒後。
 佐倉の視線が、咲夜を通り越した隣の席に向けられ―――固まった。

 「―――…」
 佐倉の目が、1点を見つめ、大きく見開かれたまま、凍りつく。
 その視線を追うように、奏と咲夜も、隣の席に目を向けた。するとそこには、佐倉そっくりな目をして―――いや、佐倉以上に凍りついている香苗の、僅かに蒼褪めた顔があった。

 香苗の異変に、蕾夏が、こちらを振り返る。そして、2つの結び合わさった視線を確認して、
 「…お知り合いですか?」
 と香苗に問いかけた。
 素直な疑問系な声に、佐倉と香苗が、同時に我に返る。問われた香苗は、上手く笑えないのを無理して笑おうとしているみたいな笑顔を、顔の表面に貼り付けた。
 「え…、ええ。ちょっと」
 「あ、でしたら、ご遠慮なく―――ちょうど取材も終わったところですし」
 蕾夏はそう言って、伝票を手に立ち上がった。
 「私は、これで失礼します。本当にありがとうございました」
 「…いえ」
 深々とお辞儀する蕾夏と、自分に集まる3つの視線で、香苗は身動きが取れない様子だ。蕾夏と一緒に店を出る訳にもいかず、かといって引き止めることもできず、ぎこちない笑みでお辞儀し返すのが精一杯らしい。
 顔を上げた蕾夏は、去り際、こちらを振り返り、佐倉に向かって「失礼します」といった感じで軽く頭を下げた。そして、ちょっとだけ奏に目を向け、僅かに口の端を上げた。何だかわからないけど、上手くいくといいね―――ほんの一瞬だけ向けられた笑みが、そう言っているように、奏には見えた。

 蕾夏が立ち去り、店を出るのを見送った奏と咲夜は、それぞれの視線を佐倉と香苗に向けた。2人とも、まだ蒼褪めた顔で、お互いの顔を凝視している。突然の再会に、まだ気持ちが追いついていないのだろう。
 まだ席に着かず立ったままの奏を、咲夜が一瞬、見上げる。奏が軽く頷くのを確認すると、咲夜は席を立ち、香苗の前へと進み出た。
 「―――はじめまして。大原、香苗さん」
 しずしずと頭を下げた咲夜は、座ったままの香苗を見下ろし、少し緊張したように唇を一度引き結んだ。
 「咲夜、です。…麻生拓海の、姪の」
 「…あ……」
 香苗の目が、少し丸くなる。どうやら、咲夜の存在は知ってはいたが、その容姿まではしっかりと把握していなかったらしい。
 「すみません。さっき、たまたまこの店に入ろうとしたら、香苗さんの姿を見つけてしまって―――佐倉さんに連絡をして、来てもらったんです。お二人が直接話し合う必要があると思って」
 「……」
 「佐倉さんと、話してもらえませんか」
 強張った表情で咲夜を見上げていた香苗の目が、ぎこちなく、再び佐倉の方に向けられる。
 その視線を受け止めると同時に、佐倉は、耐えかねたように、いきなり席を立った。
 「い、いいのよ、咲夜ちゃん。あたし、帰るわ」
 「えっ? ちょ、佐倉さん」
 バッグを掴み、逃げるように奏の横をすり抜けようとする佐倉を、慌てて制止する。思ってもみない行動だったので、動作が若干遅れ、腕を掴むつもりがジャケットの袖を掴む形になってしまった。
 「何言ってんだよ。何度も会いたいってオファーしてたの、あんたの方だろ?」
 「それは、そうだけど―――突然すぎるわよ。香苗だけじゃなく、あたしだって心の準備が…」
 「んな悠長なこと言ってたら、次会うまで、また何年もかかるぞ。いいのかよ」
 「…と…、とにかく、今日はもう、帰るから」
 佐倉はそう言って、佐倉らしからぬ動揺しきった様子で、奏の手を振り払った。そして、焦りと動揺を目いっぱい露わにした目で、咲夜に不自然な笑みを向けた。
 「ごめんね、咲夜ちゃん。わざわざ連絡してくれたけど、あたし、帰るわ。じゃあ、また」
 早口に宣言した佐倉は、咲夜の返事を待たずして、咲夜と香苗の横を突っ切ろうとしたが。

 「―――…っ!」
 咲夜の伸ばした手が、佐倉の腕を、素早く掴んだ。
 ぐい、と腕を引く咲夜の力は、病人とは思えないほど、強い。引き戻された佐倉は、その勢いで、1歩、後ろによろけた。
 驚きに、佐倉が、目を丸くして咲夜の顔を凝視する。そんな佐倉を見返す咲夜の目に―――佐倉のみならず、見ていた奏も、一瞬、ゾクリとした。
 「…“また”逃げるの、佐倉さん」
 「……」
 咲夜の目も、声も、冷ややかだった。
 古い知り合いとして佐倉をそれなりに慕っている筈の咲夜のものとは、到底思えないほどに。
 「土曜日、話聞いた時から、なんとなく感じてた―――佐倉さん、香苗さんに会いたい、話が聞きたい、って言いながら、どこかでそれを避けてるんじゃないか、って。だって、佐倉さんほどの行動力の持ち主が本気で望むなら、どんな手段を使ってでも、香苗さんと会った筈だもの。待ち伏せるなり、今住んでる所を調べ上げて押しかけるなり、なりふり構わなければ方法はいくらでもあるんじゃない?」
 「……」
 佐倉は、答えなかった。…図星、なのだろう。
 無言の佐倉の返答を察知した咲夜は、佐倉の腕を掴んだまま、ふ、と笑い、冷たく言い放った。
 「…偽善者」
 「……」
 佐倉が息を呑み、香苗は目を見開く。おい、いくらなんでも言いすぎだろ、と、奏も思わず1歩前に出て言いそうになった。が、奏が言葉を挟む隙も与えず、咲夜は更に続けた。
 「いつだって、そう。自分が大切な人と同じ人を好きになると、いつも身を引いちゃう佐倉さんは、優しいんじゃない、大好きな人たちにとっての“いい人”であり続けたいだけ。“いい人”であり続けたい佐倉さんには、自分が犠牲を払う方が、人から憎まれるより楽なんだ」
 「おい、咲夜、」
 「でもさ」
 奏の制止の声を振りはらうかのように、咲夜は間髪入れず、言い放った。
 「佐倉さんは、拓海に犠牲を払わせてるじゃない」
 「……っ、」
 佐倉の顔が、これまで以上に強張った。
 「香苗さんに決定的に恨まれるのを恐れて、何年も拓海を拒み続けてる。拓海の、佐倉さんに対する“想い”を犠牲にしてる。誰も犠牲にしたくない、どころか、一番大事な人に、最大の犠牲を強いてるんだよ? それでよく、誰かを犠牲にしての幸せに耐えられない、なんて言えるね。拓海の幸せを考えてもやれないで、何が“耐え忍ぶ愛”? 笑わせないでよ。結局、ただ誰にでもいい顔がしたいだけの偽善者じゃん」
 「咲夜!」
 いくらヒートアップしてるとしても、あまりにも辛辣すぎる。さすがに見かねて、奏は思わず、咲夜の肩を掴んだ。
 が、一瞬、牽制するかのように奏を仰ぎ見た咲夜の目を見て―――掴んだ肩を、離してしまった。
 挑発するかのような、辛辣で一方的なセリフをぽんぽん口にしているのに―――咲夜がこちらに向けたその目は、いたって冷静な、理性を保った目だったから。
 「…私が、佐倉さんなら―――拓海に求められてて、自分も拓海を本当に愛してるなら、誰に嫌われても、誰を傷つけても、拓海と一緒にいることを選ぶ。自分の欲を満たすためじゃないよ。拓海のために―――私を求めてくれる拓海の望みを叶えるために、悪役でも憎まれ役でも買って出る。どんな醜態だって晒してやるよ」
 「……」
 「悔しいなら、」
 咲夜は、更に佐倉の腕を引き、自分より高い位置にある佐倉の目を睨み据えた。
 「言われっぱなしで悔しいなら―――自分が可愛いだけじゃない、って反論したいなら、その証拠を見せて」
 「咲夜ちゃん…」
 「大体、佐倉さんも香苗さんも、2人揃って情けないよ。いい歳した大人の女が、年下にお膳立てされなきゃ、仲直りも喧嘩もまともにできない訳? バカにされるのが悔しけりゃ、お友達ごっこなんてやめて、今すぐ決着つけてみせなよ」
 「―――…」

 蒼白になった佐倉が、ぎこちなく首を動かし、香苗の方を見た。
 香苗も、佐倉と似た、どこか怯えたような表情で佐倉を見つめ返し―――そして、力なくうなだれた。


***


 8年ぶりに向きあった“元親友”同士は、暫く、無言のままだった。
 運ばれてきたコーヒーに、ミルクと砂糖を入れてかき混ぜながら、佐倉はそっと背後を窺った。少し離れた席で、やはり無言のまま向き合って座っている奏と咲夜が、辛うじて視界に入る。聞きたいことは、後で佐倉さんから聞くから―――そう言って、2人は佐倉と香苗を2人きりにしてくれたのだ。
 ―――確かに…つくづく、情けないわね。
 咲夜のセリフを思い出し、小さくため息をつく。
 考えてみれば、ある程度の年齢になった時から常に、強い立場でいた。有言実行、実力で困難を克服し、大切な人を守り、みんなから慕われる。そういう自分を信じていたし、そうあるべきだと思って生きてきた。だから、弱い自分や蔑まれる自分、こうありたいという理想を実現できない自分、なんて、許せない、認めたくない―――佐倉は、己に負ける苦い痛みに、とことん免疫のない人間なのだ。
 自分を悪者にできない、偽善者……咲夜の言う通りかもしれない。佐倉は唇を噛み、少し離れた場所に座る咲夜から、目を逸らした。

 向かいの席に座る香苗は、目を伏せ気味にしたまま、こちらを見ようとしない。
 かつての春の女神みたいな優しいオーラは、若干色あせてしまっているように見えるが、人の目を釘付けにする愛らしい美貌は相変わらずだ。仕事の忙しさは想像がつくが、それでも手を抜くことなく綺麗に整えられた香苗の指先に、佐倉は少しだけ表情を和らげた。
 「…元気、だった?」
 やっと、その一言が口にできた。
 佐倉の問いかけに、香苗がようやく、目を上げる。僅かに戸惑いを見せながらも、小さく頷いた。
 「みなみは?」
 「あたしは、元気よ、いつだって。風邪ひとつひかなかったじゃない、昔から」
 「……」
 「…今って、どうしてるの」
 訊ねてから、随分と曖昧な質問だな、と少し後悔する。が、香苗はその質問に、ゆっくりと口を開いた。
 「…“G.V.B.”の企画がスタートしてからは、もう仕事一辺倒の生活。結構大変だけど…楽しいわ。柳の恋人ってことで、ずっと社内でも色眼鏡で見られ続けてたけど、“G.V.B.”のおかげで、認めてもらえたし」
 「そう―――良かった」
 「…この前、柳から聞いたわ。みなみがバックアップしてくれてたって」
 唐突に告げられた言葉に、佐倉は思わず目を見開いた。
 「みなみの事務所に干渉するのを許す代わりに、柳に約束させたんでしょう? 頓挫しかかってた“G.V.B.”の企画を、社長権限でもっと押してやれ、って。あの人、社長になったばかりで、先代の時からの重役連中の目ばっかり気にして、仕事上ではわたしを随分邪険にしてたから」
 「……」
 「…お礼、言わないとね」
 「そんな―――やめてよ、お礼なんて」
 別に、感謝されたくてやった訳じゃない。それに、自分がしたことは、単に柳に、重役連中を丸め込む知恵を授けた程度のことだ。佐倉は、とんでもない、といった風に、首を振った。

 また少し、双方、黙り込む。
 訊きたいことも、話したいこともあるのに……8年は、長すぎる。あまりに分厚い壁に、どこから手をかければいいか、さすがの佐倉も途方に暮れてしまう。記憶を遡り、なんとか会話の糸口を探そうとした佐倉は、結局、一番最後の香苗との接点へと考えが行き着いた。
 「―――ねえ、香苗。その……パリに発つ前、あたしに送ってきた写真、だけど……」
 佐倉が切り出すと、また視線を落としていた香苗の肩が、僅かにピクリと動いた。
 「あれって、どういう意味、だったの」
 「……」
 ゆらり、と、香苗が頭を起こす。佐倉を見つめる、まるで能面のような感情の読めないその表情は、なんだか、異様に落ち着いた―――何かを覚悟したみたいな、不思議な静けさがあった。
 「みなみは、どう思ったの?」
 「え…っ」
 「あの写真を見て、何を思った?」
 「……」
 ―――何、って。
 とりあえず、香苗が一命を取り留めたという話が事実だったことに安堵し、海外に出られる程度には回復したらしいことにも安堵し、そして―――…。
 佐倉の瞳が、微かに揺れる。それを見て、佐倉の心理を読んだかのように表情を硬くした香苗は、無言のまま、ティーカップを口に運んだ。
 カチャン、と、ティーカップを置く音がする。それを合図にしたかのように、香苗は、意を決したような目を佐倉に向けた。

 「…みなみが、何を考えてるか……わたしには、よくわかるの」
 「……」
 「4年間、親友として、みなみの傍にい続けたんだもの―――わたしね、みなみが考えてるよりずっと、みなみのことを、よく知ってるのよ」
 「…どういう…意味…?」
 「―――知ってたの」
 香苗の目が、翳りを帯びる。
 「わたし―――知ってたの」
 「……え?」
 「みなみと、拓海が、ずっと前からの知り合いだってこと―――知ってて、みなみに拓海を紹介したの」
 「―――…」
 あまりの驚きに、佐倉は、目を大きく見開いた。

 2人が知り合いだと知って、興奮したように頬を紅潮させていた香苗を、思い出す。
 混乱、する。では香苗は、あの時初めて2人が知り合いであることを知った訳ではなかった、ということなのだろうか? びっくりして、はしゃいでみせていたのは……全部、演技、だった……?

 「…みなみが、高校時代からの大親友が自殺した、って言って、凄く落ち込んで電話してきたこと、覚えてる?」
 言葉もなく目を見開いている佐倉に、香苗は淡々と告げた。
 「その電話を受けた次の日、拓海と会ったの。何日か前、会う約束をしていたのを、拓海の急用でキャンセルしたから、その代わりに…。急用って何だったの? って訊いたら、返ってきた答えは、どこかで聞いたような話だった―――知り合いが自殺して、そのお通夜に行って来た、って」
 「……」
 「…どちらも、ジャズを歌ってる女の子で、自殺で、全く同じ日にお通夜。…同じ人、って考えて当然よね」
 ―――な…んてこと…。
 佐倉は、あまり多恵子の話を、香苗にはしなかった。単なる友人ではなく、自殺癖を持つ友人なだけに、ちょっと言い難かったから。でも……死んだ時は、さすがに辛くて、香苗にも電話で少しだけ弱音を吐いてしまった。多分、多恵子がジャズを歌っていたことも、その電話で話したのが初めてだ。
 まさか、それが、こんな形で結びつくなんて……なんてことだろう。皮肉な話だ。
 「…わたしと、拓海、ね。その何ヶ月か前から、なんだか上手くいってなかったの。拓海も仕事が軌道に乗ってきて、会社勤めのわたしとじゃ、なかなかスケジュールが合わなくて―――でも、会えなくても彼の方は、ちっとも寂しそうじゃないの。…そういう彼を見てると、不安で仕方なかった。わたしの方から始めた恋だから、愛されてる自信が、すぐなくなっちゃうの……。だからつい、彼を責めるようなことばかり言ってしまう―――本当に仕事なの? わたしに飽きたんじゃないの? 次はいつ会えるの? どうして電話をくれないの? …本当に、わたしを、愛してるの?」
 「…麻生さんは…」
 本当に、香苗のことを。
 そう言いかけた佐倉に、香苗は寂しげな笑みを返した。わかってる―――それでも、疑ってしまった。痛々しい香苗の笑みは、そう言っていた。
 「…仕事で行き詰ってたのも、悪かったのかも。初めて、デザイナーっていう、なりたい自分を見つけたのに、それが随分難しいことだってわかって……みなみから見たら、最低よね。仕事が上手くいかないからって、手っ取り早く結婚に逃げたがるなんて。ちゃんと誇りを持って仕事をするようになって、あの時の自分が恥ずかしくなったわ。でも…本音よ。あの頃のわたし、結婚願望と、拓海とのすれ違いに対する不安が重なって、いつもピリピリしてたの」
 「―――…知らなかった…」
 思わず、呆然とした口調で、呟く。それを聞いて、香苗は自嘲気味な、疲れたような笑いを見せた。
 「知られないように、演じてたもの―――優しくて、穏やかで、いつも春風みたいな大原香苗を」
 「……」
 「2人が知り合い同士らしい、って気づいてからも―――会っている時の拓海が心ここにあらずな様子を見せるのに気づいた時も、久しぶりに会ったみなみが凄く綺麗に女らしくなっているのに驚いた時も、みなみが“この日は会えない”って言った同じ日に、拓海も“この日は約束がある”って断ったことに、なんとなく嫌な予感を覚えた時も―――わたしは、何も気づいてないフリをして、いつも笑ってたの。疑ってる様子なんて、微塵も見せずに」
 本当に―――知らなかった。
 多恵子が自殺してから、香苗から拓海を紹介されるまで、4ヶ月と少し。その間、香苗が、そんな風に少しずつ、少しずつ疑いを強めていっていたことなど、想像したことすらなかった。あの女神みたいな笑顔の裏に、そんな感情が隠されていることに、佐倉ですら―――香苗を誰よりも理解していると勝手に自負していた佐倉ですら、気づけなかった。
 「…みなみに拓海を紹介する半月くらい前から、何度か、拓海から別れ話を切り出されそうになって―――そのたびに、とぼけて誤魔化して、なんとかかわして。拓海も優しいから、気づいていないフリをわたしがすると、それ以上突っ込んだ話はしないでくれた。だからね、」
 言葉を切った香苗は、鋭く息を吸い込み、強張った顔で佐倉を見つめた。
 「だから、みなみに拓海を会わせたのよ」
 「えっ」
 「みなみの性格なら、拓海がわたしの恋人だって知ったら、絶対身を引く―――それがわかってたから」
 「…か―――…」
 香苗。
 短い名前が、喉の奥で、貼りつく。信じられない、という思いで、佐倉は香苗の顔を凝視した。
 そんな佐倉の反応に、香苗は再び、ティーカップを手にした。震えているらしく、カップがカタカタと細かな音を立てる。が、なんとか一口紅茶を飲み、静かにカップを置いた。
 「みなみ。最後に会った日のこと、覚えてる?」
 「…え…っ、ええ」
 「あの日の昼間ね、拓海と、数日後に会う約束をしたばっかりだったの。…口調で、わかった。ああ、今度こそ、何があっても別れる気なんだな、って。嫌だ、絶対嫌だ―――そう思ったら、いつの間にか、みなみに会いに行ってた」
 「…どうして…」
 「―――…嘘、なの」
 眉をひそめる佐倉に、香苗は、震えを辛うじて抑えながら、一言一言区切るようにして、告げた。
 「妊娠のこと―――嘘なの」
 「……」

 ―――…嘘?

 予想だにしなかった言葉に、佐倉の頭の中が、真っ白になった。
 嘘―――間違いだった、ではなく、嘘。つまり、それは―――…。
 「…そんな兆候もないのに、妊娠した、って嘘ついたの?」
 呆然としたままの佐倉の一言に、香苗がビクリ、と体を震わす。が……覚悟は、していたのだろう。形の良い唇を引き結ぶと、コクリと頷いた。
 「…取られたく、なかった」
 「……」
 「みなみにだけは、取られたくなかった。みなみと拓海が結ばれてしまったら、わたし―――恋人と親友、一度に失ってしまう、って思ったから。悲しくて……悲しくて、悲しくて、どうしていいかわからなかったの。だから……」
 だから、嘘をついた。
 佐倉がショックを受けることを承知で、何を言われても拓海を拒絶するだろうことを見越して……嘘を、ついた。拓海から佐倉を引き離すために。
 「…酷いわ…」
 まだ現実を受け入れられていない、怒りを微塵も含まない声で、佐倉が呟く。ショックで―――ただただ、ショックで、無意識に口にしていた。酷い、と。
 そんな佐倉に、香苗は、完全に強張った顔のまま、暫し黙り込んだ。が……こくん、と唾を飲み込み、もう一度口を開いた。
 「―――自殺を図った時……本気で死ぬつもりだった。それは、嘘じゃないわ。でも…どこかで期待してた。拓海が同情してくれるんじゃないか、どれだけ自分を必要としてるかを思い知って、とどまってくれるんじゃないか、なんて」
 「……」
 「自殺した何日か後に、柳を介して、拓海から手紙を貰ったの。…もう元には戻れない、ってことが、切々と書いてあったわ。落ち着いて、それを何度も読み返して……やっと、正気に戻れたの。自分が、何をしてきたか」
 「……」
 「…みなみに、謝らなきゃいけない、って思ったわ。でも…怖かったの。最低な自分をみなみに晒すのも、みなみの顔を見て、まだ断ち切れてない拓海への想いがまた増えてしまうのも。…だから、写真を送ったの。あの写真を見れば、赤ちゃんができたかもしれない、って言ったのは、わたしの嘘か勘違いだった、って、みなみならわかってくれると思って。もう1つの可能性に―――赤ちゃんが駄目になったと思うかもしれない、っていう可能性に気づいたのは、パリに着いてからだった。…でも…みなみが、どう解釈したかを確認する勇気は、わたしにはなかったの」
 一気にそこまで言うと、香苗は後悔しきった目で佐倉を真っ直ぐに見つめ―――頭を下げた。
 「―――…ごめんなさい」
 「……」
 「8年間……みなみに会えずにいたのは、みなみを恨んでたからじゃない。わたしがついた嘘をみなみに知られるのが、怖かったからなの。…ごめんなさい…」


 そのまま、暫く時間が過ぎた。
 香苗は、うなだれたままだった。そんな香苗を、佐倉は、放心状態で眺めていた。
 いろんな感情が複雑に絡み合って、今の佐倉の気持ちは、到底一言では言い表せない。ゆっくり、ゆっくり、混乱した頭を整理していく。そうして、どれほどの沈黙が続いただろうか―――ようやく佐倉は、言うべき言葉を見つけた。

 「…あたしも、悪かったわ」
 その言葉に、香苗は驚いたように顔を上げた。
 「―――ど…、どうして、みなみが、」
 「あたしも、香苗と同じ、意気地なしだったから」
 香苗が、眉をひそめる。そんな香苗に、佐倉は微かな苦笑を返した。
 「あの時……麻生さんが香苗の恋人だってわかった時、全てを麻生さんに託すんじゃなく、本当はあたしが香苗と向き合うべきだったのよ。香苗に憎まれてもいいから、麻生さんを好きだって……麻生さんと好き合ってる、って、自分の口で言うべきだった。なのにあたしは、香苗に嫌われたくない一心で、自分は関係ないフリをした―――別れ話の時も、麻生さん、あたしの名前出さなかったでしょう?」
 「……」
 「香苗が何を考えて、どんな嘘をついてたにしても―――自殺するほど追い詰められた一因は、あたしにある。それだけは、事実だと思う。香苗の恋人と知ってて、好きになった訳じゃない。けれど……ごめんなさい。苦しめて」

 佐倉も、頭を下げた。
 そんな佐倉を、香苗は、驚きに目を見張り、見つめていた。が……やがて、その目には、涙が浮かび始めた。
 再び、佐倉が顔を上げると、2人の視線が、真っ直ぐにぶつかった。
 「……」
 目が合って、互いに微かな笑みを交わせた時―――佐倉と香苗の中で、遠い日の痛みは、やっと“過去”になった。


 それから2人は、最近のことを、ぽつりぽつりと、言葉少なに話した。
 「本当を言うとね。1年くらい前までは、まだ拓海のことを引きずってたの」
 そう白状した香苗は、でも、続けて自信ありげにこう言った。
 「でも、もう大丈夫よ」
 「…本当に?」
 「ええ。今度は、嘘じゃないから」
 「え?」
 そう言うと、香苗は、少し照れた笑みを見せ、自分のおなかに手を当てた。
 「―――先週、わかったの。2ヶ月って」
 「……」
 「まだ、誰にも秘密だけどね。…柳は、おなかが目立つ前に式を挙げよう、って。これから忙しくなりそう」
 ああ―――だから。
 柳が、“G.V.B.”の立ち上げに佐倉が絡んでいることを何故香苗に話したのか、やっとわかった。香苗との間に、子供ができたから―――それを香苗から告げられたから、話したのだ。やっと香苗を、完全に手に入れたから。
 「おめでとう」
 「うん…、ありがとう」
 佐倉のお祝いの言葉に素直に返した香苗だったが、ふいに表情を曇らせ、少し眉を寄せた。
 「柳のこと、責めないでね」
 「えっ」
 「こうなったから、正直に言うけど―――わたしがこの8年、拓海と柳の間で揺れてたのと同じように……柳も、揺れてたの。わたしと、みなみの間で」
 「……」
 「色々やってたみたいだけど、みなみの関心を惹きたかっただけよ。…親にろくに構われずに育った、寂しい子供のままなの、そういうところが」
 それは―――本当のことを言うと、少し、察してはいた。
 意味不明な脅しやおかしな勧誘ばかりしてくる柳を見ていて、最初はその意図がわからなかった。けれど…それが度重なるにつれ、その行動が、かつて香苗に対してとっていた態度と奇妙に重なることに気づいた。それで、なんとなくわかった。柳がやたら自分に干渉しようとするのは、香苗や拓海の件を越えた部分で、自分に興味を持っているからだ、と。
 でも、香苗という、安住の地を得ることができたから―――もう柳も、自分の本音を見失うことはないだろう。たとえ揺れていたとはいえ、香苗を8年もの間支え続けた柳の愛情は、表現の仕方こそ歪んでいても、間違いなく本物だ。
 「幸せに、なってよね」
 佐倉が言うと、香苗はふわりと、優しく微笑んだ。
 「みなみも、ね」
 「……」
 佐倉も、微笑み返したが―――直後、無意識のうちに、背後を振り返った。
 そこには、やっぱり会話の弾まない様子の、奏と咲夜がいる。
 気だるそうな表情で、窓の外を眺める、咲夜の横顔に―――佐倉は、複雑な心境になった。


***


 「―――やっぱ一発、ぶん殴っておけばよかった」
 歩きながら、咲夜が低く呟いた物騒な一言に、奏と佐倉が顔を引きつらせた。
 時計は、既に午後10時―――香苗は既に帰り、簡単な事情説明を佐倉から受けているうちに、カフェが閉店してしまった。追い出されるようにして店を出たが、やはり3人の空気はどこかぎこちない。そんな中で飛び出した発言なだけに、うすら寒い空気が、余計寒々としてしまった。
 咲夜が「殴っておけばよかった」と言っているのは、当然、香苗のことだ。
 佐倉を―――というより、咲夜からすれば、拓海を、だろう―――8年も苦しめる原因となった言葉が、嘘だった、という結末に、咲夜は顔色を変えるほどに怒った。勿論、奏だって、なんだよそりゃ、と憤ったが、咲夜のあまりの立腹ぶりに、「香苗の追い詰められた気持ちもわかる」と元親友を擁護する佐倉との間に入って、あまり怒りを露わにすることもできなかった。
 「…お前がぶん殴るより先に、佐倉さんや麻生さんがぶん殴るのが筋だろ」
 奏が、少々ポイントのずれた言葉でそう宥めると、咲夜は視線を奏に向け、くすっ、と小さく笑った。
 「なかなかいいとこ突いてくるね、奏」
 「まあな。オレの場合、過去に散々、怒りの赴くままに相手をぶちのめしてきた後悔があるし」
 「あははは、納得」
 「…納得するなよ」
 そんな2人のやりとりに、1歩遅れて歩く佐倉の口元にも、自然、笑みがこぼれた。が―――もう何度目かもわからない複雑な気持ちに襲われて、せっかく浮かんだ笑みも、すぐに消えてしまった。
 「? 大丈夫、佐倉さん。友達と和解した割に、元気ないじゃん」
 さっきからほとんど喋ろうとしない佐倉に気づき、咲夜が振り返って訊ねる。それに応えて、一瞬だけ笑みを浮かべた佐倉だったが、また少し気落ちしたような顔になり、小さなため息をついた。
 「ごめんね。ちょっと……自己嫌悪に陥ってるだけよ」
 「自己嫌悪?」
 奏も、佐倉を振り返る。2人して振り返ってしまったので、都合、その場に足を止めることになってしまった。
 「なんで佐倉さんが、自己嫌悪?」
 奏が訊くと、佐倉は苦笑を浮かべ、額にかかった髪を掻き上げた。
 「ん……、なんていうか―――今日の咲夜ちゃん見てて、ちょっと、ショック受けちゃって」
 「私?」
 目を丸くする咲夜を、佐倉はじっと見つめた。
 「あたしが、ちっぽけなこだわりで何年も手にできなかった真相を、あんな捨て身で、あたしに食ってかかってまで手に入れようとした咲夜ちゃんを見ちゃうと、ああ、あたしには真似できないな、と思って…」
 「……」
 「あそこまでしたのは、全部、麻生さんのためなんだろうな、って思うと、あたしより咲夜ちゃんの方が、」
 佐倉の言葉が、そこで途切れた。
 代わりに、パン! という乾いた音が、夜の歩道に響いた。
 「―――…っ!」
 頬を押さえ、佐倉が驚いたように目を見張る。咲夜が、佐倉をひっぱたいたのだ。さすがに、奏もギョッとして、固まった。
 佐倉を見上げる咲夜の目は、怒りを湛えていた。握り締めた拳が、憤りで、微かに震えてさえいる。
 「……香苗さんの次は、私?」
 微かに震えながら、咲夜が佐倉に言い放つ。
 「一体、何様のつもり? 結局は、拓海の気持ちより、人に拓海を譲って被害者面したいだけなんじゃない、佐倉さんは」
 「…っ、ち、違うわよ咲夜ちゃん! あたしは、」
 「私の方が拓海にふさわしい、って!? そんなこと知ってるよ、当たり前でしょ!」
 ―――おい、ちょっと待て。
 とんでもないセリフに、奏は慌てて、咲夜の腕を引いた。が、その程度では、ブレーキにはならない。
 「佐倉さんより頭や容姿では劣っても、こと、拓海に関しちゃ、私の方が上に決まってるじゃない。私の方が拓海を理解してるし、拓海を幸せにする自信もあるよ。一瞬でも自分の方が上だと思ってた訳? ご冗談。私の方が、拓海にふさわしいに決まってる。自惚れないでよ」
 「…さ、咲夜ちゃ…」
 「でもさ。ふさわしくなくても、拓海は、佐倉さんがいいんだって」
 そう言うと、咲夜は、トン、と佐倉の胸元を押した。半ば呆気に取られていた佐倉は、ちょっと押しただけなのに、簡単に1歩後ろによろめいた。
 「わかったら、大人しく拓海んとこ行けば?」
 「……」
 「8年も苦しめて、まだ好きでいてもらえただけでもありがたいのに―――身の程もわきまえずに、今更、拓海以外の男を選んだりしたら……許さないよ」
 言い捨てて。
 最後に鋭く佐倉を見据えると、咲夜はくるりと踵を返し、足早に歩き去った。
 「…っ、おい、咲夜!」
 ―――バカ、まだ用が残ってるだろっ。
 咲夜を追いかけようとした奏は、すんでのところで足を止め、呆然としている佐倉を振り返った。
 「佐倉さん。ちょっと、急いだ方がいいかも」
 「…えっ?」
 「この後、麻生さんの家に行く約束してるんだ。話したいことがあるから、会ってくれ、って」
 佐倉の目が、丸くなる。
 「絶対あいつ、家で待ってる。佐倉さんが咲夜の呼び出しに応じない訳にはいかなかったのと同じで、あいつも、オレが“話をさせろ”と言えば、会わざるを得ないから」
 「一宮君…」
 「10時半で約束してるから、適当にタクシー拾ってよ。じゃ」
 ちゃんとタクシーに乗るのを確認すべきなのかもしれないが、奏にとっては、咲夜の方が大事だ。軽く手を挙げ、佐倉に別れを告げると、奏は急ぎ、咲夜の後を追った。


 途中で角を曲がったこともあり、咲夜との距離は、思いのほか開いていた。
 「咲夜」
 追いつき、咲夜の肩をポンと叩く。と、憤慨したような勢いでずんずん歩いていた咲夜が、ぴたりと足を止めた。
 「―――佐倉さんは?」
 奏を見上げ、少し不安そうに訊ねる咲夜の顔には、つい2、3分前の、あの皮肉めいた表情など、微塵もなかった。はぁ、とため息をついた奏は、ぽんぽん、と咲夜の頭を軽く叩いた。
 「…大丈夫。麻生さんとこ行くように、ちゃんと伝えた。タクシー拾って行け、って言ったから、今頃流しのタクシーでも探してるだろ」
 「…そっか」
 少し安心したように、息をつく。髪を掻き上げた咲夜は、奏を見上げ、苦笑をもらした。
 「奏、笑ったんじゃない?」
 「え?」
 「誰よりも臆病で、不毛な片想いを10年も続けてきた挙句、他の女との仲を取り持とうとしてる最大の偽善者が、偉そうに何言ってやがる、って」
 「……」
 ―――…咲夜…。
 奏は、唇を引き結び、ゆっくりと首を振った。
 「…いや。最初は驚いたけど―――気づいた、から」
 挑発するような言葉とは程遠い、冷静な目に。
 「佐倉さんを動かすために―――麻生さんのために、あえて悪役を演じてるお前見てて……ちょっと、辛かった」
 「……」
 その言葉に―――咲夜は、ふっ、と、寂しげな笑みを浮かべた。
 「…佐倉さんが、私に、下手に同情したり気を遣ったりしたら―――また、拓海が、待たされるばっかりだから」
 「……」
 「私は、佐倉さんに憎まれる位で、ちょうどいいんだよ」

 『―――そのためには、俺は、憎まれる位でちょうどいい』

 …何の、皮肉だろう。この場面で咲夜が呟いた言葉が、あの日、咲夜のことを思って、拓海が呟いた一言と、全く同じセリフだなんて。
 耐え切れず―――奏は、咲夜の背中に腕を回し、ぎゅっ、と抱きしめた。

 悔しいけれど。
 そこまでして、拓海の望みを叶えてやろうとする、咲夜の、拓海への想いが、悔しくて仕方ないけれど。
 痛々しくて……決して嫌いではない人を、心にもない辛辣な言葉で傷つける罪悪感と戦っていた咲夜が、痛々しくて。愛した人と他の人を結び付けなくてはいけない痛みなんて、微塵も感じていないフリをしていた咲夜が……あまりにも、痛々しくて。

 「…泣けよ」
 「……」
 「もう、終わったから―――オレの前では、平気なフリなんて、するな」
 「……っ……」
 以前より更に華奢になった肩が、小刻みに震えだす。
 奏が、宥めるように背中を叩くと―――咲夜はやっと、奏にしがみついて泣き出した。


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