←BACKFake! TOPNEXT→




― Give me your love

 

 いくつものライトが、白い空間を照らしていた。
 普段ならその中央に立っている筈の人物が、本日の主役であるモデルの最後の化粧直しをしている様子を、佐倉は、なんとも不思議な気分で眺めていた。
 「あと5分で、撮影始めます」
 カメラマンの声に、スタッフがあちこちから応える。奏も、無事化粧直しを終えたらしい。ハルミに一言、笑顔で声をかけ、ホリゾントから降りた。
 ―――やっぱり、妙な感じよねぇ…。
 所属モデルのポートフォリオ撮影などでメイクを奏に頼んだ時も、佐倉はその場に同席していた。だから、「メイクアップアーティストしている一宮 奏」を見るのは、これが初めてという訳ではない。
 でも、これまでのケースは、いわば事務所の内輪でのこと―――こうした本格的な現場で、1人のプロとして紅筆やブラシを操る奏を見るのは、これが初めてだ。これまで何十人と見てきたメイクさんたちと同じように動く奏を見ていると、ああ、モデルを辞めてメイクになるってのは嘘じゃなかったのね、なんて、今更な驚きを感じる。
 「お疲れ様」
 戻ってきた奏に佐倉が声をかけると、奏はチラリとこちらに目を向けたが、返事はしなかった。無言のまま、壁に寄りかかっている佐倉の隣に収まるが、佐倉と奏との間には、人1人余裕で入りそうな微妙な空間があいていた。
 「……」
 この空間の意味を問うように、奏の横顔を、じっと見据える。が、奏の目は、一向に佐倉の方を見ない。「仕事中ですから」とでも言いたげに、今度は衣装の最終チェックを受けているハルミに向けられている。
 「…あのね。その態度は、ちょっといただけないんじゃない? 一宮君」
 腕組みし、軽く首を傾けて、佐倉が言い放つ。
 それでも前に目を向けたままでいた奏だったが、左から突き刺さる視線に耐えかねたのか、やがて、少々気まずそうな顔を、少しだけ佐倉の方に向けた。
 「―――なんだよ」
 「…なんだよ、は、こっちのセリフでしょ」
 はぁ、とため息をついた佐倉は、周囲のスタッフには聞こえない音量で話せるよう、奏との間合いを少しだけ詰めた。これで、詰められたのと同じだけ距離をあけるようなら、正真正銘、救いようのないガキ、といったところだが、奏も諦めたらしく、その場からじっと動かなかった。
 「何をイライラしてる訳?」
 「……」
 「当然、昨日のことよね。あたしは、ちゃんとお礼を言ったわよ。それじゃ不満?」
 「…別に」
 別に、と言いながら、奏の声は、いつもより3音は低い。怒っている…というより、暗い。落ち込んでいる、ともちょっと違うのだが―――そう。荒れている。そういう感じだ。
 「もしかして、あの後どうなったか、その報告がないから怒ってるとか? それならあたしは、」
 「キョーミない」
 きっぱり。
 聞くのも不快、と言わんばかりに、佐倉の言葉を、中途でスパッとぶった切る。その、あまりの切れ味の良さに、さすがの佐倉も、一瞬怯んでしまった。
 だが、一瞬怯んでも、佐倉は佐倉だ。すぐにいつものペースに戻って片眉をつり上げると、奏の頭をスパーン! と叩いた。
 「っ、てぇっ!!」
 「撮影前よ。静かにしなさい」
 叩かれた頭を押さえた奏は、むっとした顔で佐倉を睨んだ。が、ここが撮影現場であることは忘れていないらしく、それ以上エキサイトすることなく、頭を抱えたまま壁に深く背中を預けた。
 「…本当に、感謝してるのよ?」
 ため息混じりに、もう一度、念を押す。
 不満そうに口を尖らせていた奏は、その言葉にも、表情を変えなかった。ただ、ある程度態度を軟化させる気になったらしく、暫しの沈黙の後、やっと口を開いた。
 「―――別に、佐倉さんに怒ってるとかじゃ、ないから」
 「じゃ、何」
 「…とにかく今、あんたのことも、麻生さんのことも、何も聞きたくない」
 「……」

 “聞きたくない”。
 気にならない筈がない。佐倉がどうなろうが、奏にとってはどうでもいいことだと思うが―――相手が拓海なら、話は別だ。拓海がどうしたか、何を言ったか、これからどうするつもりなのか……確かめたいに、知りたいに決まっている。なのに―――“聞きたくない”。
 ―――…なるほど、ね。
 奏が(すさ)んでいる理由が、漠然とだが、わかった気がする。再び口を閉ざしてしまった奏の横顔を眺め、佐倉も、諦めたように口をつぐんだ。

 正直…佐倉自身だって、平然としてみせてはいるが、内心は複雑な心境だ。
 心は、もう決まっている。決まってはいるが…本当にこれでいいのか、と考えてしまう。でも、そのたびに脳裏に浮かぶのは、自分の頬をひっぱたいた、咲夜の顔だ。偽善者―――きっと咲夜は、今の佐倉の気持ちを知ったら、そう言って蔑む“フリ”をしてみせるだろう。“フリ”であるのがわかっているだけに……一層、気持ちが、乱れる。
 ―――咲夜ちゃんは、知ってるのかしら…。
 撮影の始まった現場を、少し離れた位置から眺めながら―――佐倉は、昨晩のことを思い出していた。

 

 「―――あの2人に、(はか)られちゃった」
 突然現れた佐倉を前にして、珍しい位に目を丸くしている拓海に、佐倉が最初に告げた言葉が、それだった。
 “あの2人”が誰を指すのか、奏が来るものとばかり思っていた拓海には、すぐ理解できたらしい。更に大きく目を見開いた後、参ったな、という風に苦笑した。
 まあ、とりあず中に入ったら、と言われて、実に8年ぶりに拓海の部屋に招かれた。
 記憶の中に霞んでいた部屋は、微妙に昔とは違っている気がする。そんな違和感に8年の歳月を感じながら、佐倉はソファに、拓海と向き合って座った。
 「香苗に、会ったの」
 まずは、そう告げた。
 「…それも、あの2人の画策?」
 「そう。香苗も謀られた口よ。いい歳した女が2人揃って、突然の再会にあたふたしてるのを見られちゃったわ。明日から、あの2人の中でのあたしの格が、相当下がるわね」
 佐倉の言葉に、拓海は、何故か微妙な表情をした。が、詳しい経緯については何も訊ねず、
 「…それで?」
 と短く訊ねた。
 細かいことを、色々言おうと思えば、言えたかもしれない。でも佐倉は、香苗につかれた嘘のことも、柳や香苗の気持ちの変遷も、詳しく語ることはやめた。もう、済んだことだ。言葉を重ねれば重ねるほど、自分を正当化しようとしてるみたいに思えて、自分が嫌いになりそうだ。
 「…いろいろ、引っかかっていたこと、話し合うことができた。お互い、謝るべきところは謝ったし……それに香苗、柳さんとの結婚も決まったみたいだし」
 それは、拓海も初耳だったらしい。少し驚いたような顔をした後、やはりホッとしたように微笑んだ。
 「そうか。やっと落ち着くんだな、あの2人も」
 「ええ。もう迷いはないみたい。目を見て直接話をして…やっと、確信できたわ。香苗にとって、あなたが、やっと“過去”になったんだな、…って」
 「…俺にとっちゃあ、とうの昔に、過去なんだけどなぁ…」
 拓海が、ため息混じりの苦笑とともに、そう呟く。深くソファに沈みこむ様を見て、佐倉は申し訳なさそうに目線を落とした。
 「―――…ごめんなさい」
 「……」
 「あなたにも、自分にも嘘をつき続けてきたのに―――もう一度、初めからやり直したい、なんて言ったら……むしが良すぎる、かな」

 拓海は、なかなか答えようとしなかった。
 長い、長い沈黙の後、やっと口を開いた拓海は、意外なことを佐倉に訊ねた。
 「咲夜は、何か言ってた?」
 「えっ」
 唐突な質問に、思わず顔を上げる。
 拓海は、意図の読み難い表情をしていた。ただ静かな目をして、真っ直ぐに佐倉を見つめていた。
 「俺とみなみに、どうして欲しいか、について―――何か、言ってたか?」
 「…あたしが、麻生さんには咲夜ちゃんの方がふさわしいのかもしれない、ってうっかり言ったら、ひっぱたかれちゃったわ」
 「……」
 「自惚れるな、自分の方がふさわしいのは当たり前だ、それでも麻生さんはあたしの方がいいって言ってるんだから、ありがたく思え、って」
 「―――…ハハ…」
 短く笑った拓海は、大きく息を吐き出し、髪をぐしゃっと掻き上げた。
 「まぁったく……似てるよなぁ、血は繋がってないのに」
 「え…っ」
 「…あいつも、言うんだろうな。俺の幸せのためには、自分はみなみに憎まれる位でちょうどいい、って」
 「……」
 ―――…あいつ“も”。
 さりげない一言に―――佐倉は、察した。拓海も、誰かに言ったのだ。似たようなことを、多分……咲夜に、関して。
 「…俺の答えは、8年前と、何ら変わってないよ」
 そう言った拓海は、髪を掻き上げていた手をどけて、佐倉を見据えた。
 「薔薇の花を贈った数だけ迷ってきて、出した答えだ―――俺は、みなみでないと駄目らしい」
 「…麻生さん…」
 「ただ―――8年待たされた腹いせじゃないけど、今は、待ってくれないか」
 待つ?
 よく意味がわからず、佐倉が少し目を丸くする。そんな佐倉に、拓海は、どこか寂しげな、影を引きずったような笑みを返した。
 「君にもこの8年の間に、俺のことを忘れそうになった恋の1つや2つ、あっただろ?」
 「…ええ」
 「そういう恋が終わって暫くは、それなりに引きずる。たとえ自分から断ち切った場合でも」
 「……ええ……そう、よね」
 考えを巡らせながら、曖昧に相槌を打った佐倉だが―――わかった、気がした。待ってくれないか、の意味が。
 佐倉だってこの8年、拓海だけを想って生きてきた訳じゃない。その中には、奏に救いを求めるほどに自分を見失いかけた恋もあった。あの恋だって、想いを告げることなく、自分から断ち切った恋だったが、整理がつくまで、それなりに時間がかかった。

 誰かと出会い、迷い、自分を選んでくれるたびに、薔薇の花を贈って欲しい―――佐倉が口にした唯一のロマンス。全ての薔薇の花のうち、いくつが、そうなのか。…それは、わからない。けれど。
 ―――贈られた薔薇のいくつかは……麻生さんが、あたしと、あの子の間で揺れていた証なのね。

 「…初めからやり直したい、って言ったでしょ」
 8年間、いろんなことがあった。
 楽しいことも、辛いこともあった。人生の転機もあった。その都度、傍にいれば、また前のように話したい、と思ったけれど…お互い、傍にはいなかったから。
 「とりあえず、8年分、話すことから始めましょ」
 佐倉が微笑んでそう言うと、拓海も、同じように微笑を返した。

 

 ―――香苗の存在ばかり気にかけてたけど……あたしの本当のライバルは、咲夜ちゃんだった訳か。
 昨夜の会話に思いを馳せていた佐倉は、小さくため息をつき、そして隣の人物の横顔をそっと窺った。
 奏は、いよいよ撮影本番の始まった現場を、厳しい表情で見つめている。仕事に没頭しているから、なのか、それとも他にこんな表情をする理由があるからなのか―――ちょっと、判断が難しい。
 感謝している、と言ったのは、嘘じゃない。佐倉は、昨日のことを、本当に感謝している。香苗の気持ちも、拓海の気持ちも確認できた。そして何より……自分の気持ちを確認できた。それは、奏と咲夜が、チャンスを作ってくれたからだ。
 けれど、その感謝の気持ちと同じ分だけ―――いや、それ以上に……心苦しい。
 咲夜の気持ちを考えると、苦しい。同じ「身を引く」行為でも、真正面から向き合わずに逃げた自分と、自分の身を削るようにして拓海の望みを叶えようとする咲夜では、まるで意味が違う。どんな思いで、過激な言葉の数々を口にしていたのだろう、と思うと…痛々しくて仕方なかった。
 それに―――奏も。
 確かに奏は、心を病むほどに拓海のことを想う咲夜のために、親友として協力したのだろう。だから、きっと、昨日のことも後悔はしていないと思う。
 でも、咲夜は、奏にとって、“親友”だけではない。
 普段、滅多に物事に熱くならない咲夜が、拓海のために、と佐倉に挑みかかる姿を、奏は一体、どんな気持ちで見ていただろう? それが、自分にとっても好都合な目的のため―――佐倉と拓海を結びつけて、咲夜に拓海をすっぱり忘れさせる、というためのものであったとしても―――きっと、辛かっただろう。

 拓海の本音を知った分、本当に自分でいいのか、と……今からでも咲夜を選んだ方がいいんじゃないか、なんて考えてみたり。
 でも、いつもいつも、手に入らない恋にもがき、喘いでいる奏を見てきたから、今度こそ奏の恋が実ってくれたら、なんて思ってみたり。

 「…偽善者、か」
 すぐ隣の奏にも聞こえないほど小さく、呟く。
 案外、佐倉が思うほどには、誰も佐倉の力など必要としていないのかもしれない。
 香苗だって、拓海だって、自分の力であのことを過去に変えていっていた。多恵子が死んだことにしたって、佐倉が傍にいるかどうかなんて、何の影響もなかっただろう。そして多分、奏や咲夜も……佐倉1人の力でなんとかなる、なんて考える方が、(おご)りというところだろう。
 あたしが何とかしなきゃ、なんて肩肘張っても、ただのおせっかいに過ぎない。今の自分にできることは、ただ1つ―――拓海と、もう一度、やり直すことだけだ。

 ―――うん。人生に1つ位、こういうのがあったっていいのかもね。
 誰を傷つけるとか、未来がどうなるか、なんて何も考えないで、自分の無力さを噛み締めながら、自分本位に―――自分の気持ちだけに正直に生きることが、人生に1つ位、あってもいいのかもしれない。
 そう考えたら、なんだか、心が軽くなった。佐倉は再び視線を前に向け、無意識のうちに口元をほころばせた。


***


 咲夜が“Jonny's Club”のライブに復帰したのは、倒れてから1週間以上経った、6月最初の火曜日からだった。
 本当は、その前の土曜日には復帰する、と咲夜は宣言していたのだが、
 「土曜? それって31日だろ? 5月の最後の日に復帰って、なんか収まりが悪くて変な感じじゃないか。もう1回休んで、6月から復帰にしろ」
 という、よくわからない理論で、ヨッシーが強引に6月復帰にしてしまったのだ。
 復帰した咲夜は、まだ万全の体調ではないものの、それを感じさせない歌声を披露した。明るく透明な高音を、躊躇うことなく響かせる―――絶好調の時の声量にはまだ及ばないが、客も、ヨッシーや一成も、咲夜の歌声には合格点をつけた。
 下手をすると、誰もが、咲夜が倒れたことを忘れてしまいそうだった。ただ―――多少は事情を知る一成だけは、1度だけ、心配してこっそり咲夜に訊ねた。
 「もう、大丈夫なのか?」
 気まずそうに訊く一成に、咲夜は、キョトンと目を丸くしてみせた。
 「胃潰瘍なら、薬ちゃんと飲んでるから、治ってきてると思うよ?」
 「いや、胃じゃなくて―――食えなくなるほど悩んでることが、何かあったんだろ?」
 「んー…、あったには、あったけど、ねぇ…」
 軽く首を傾け、言葉を濁す。が、最後にはニッ、と咲夜らしい飄々とした笑みを一成に返す。
 「あんまり長いこと悩んでられるほど、我慢強い脳みそ、してないから」
 一成も、その笑顔に、諦める。信じた訳では決してない。こうなってしまった咲夜の口を割らせるのは無理だと、経験から学んでいるからだ。
 「とにかく、ちゃんと食べてるんだろうな」
 「だぁいじょうぶ。奏の厳しい監視のもと、無理せずきちんと食べてます」
 「そうか…。良かったな、いい友達が、すぐ隣に住んでてくれて」
 ―――…“いい友達”…。
 その言葉に、咲夜は無言のまま、笑みを返した。

 

 「あ、そういえば―――なんとかいうライブハウスに出るのって、もうすぐだよな」
 咲夜の部屋の床に腰を下ろしながら奏が言うと、キッチンに立つ咲夜が、ちょっとだけ振り向いて、頷いた。
 「うん。来週の水曜日」
 「今日って、金曜だから……げ、もう4日しかない。練習とかしてんのかよ」
 「…してる訳、ないじゃん。復帰したのがこの前の火曜日だよ?」
 唇を尖らせてそう言った咲夜は、食器の乗ったトレーを手に、奏の向かいに戻ってきた。
 「日曜日にお店を使わせてもらうことになってるんだ。まあ、ジャズ・フェスタん時と同じ演目だから、結構自信もあるしね」
 「同じ、って……だったら、3曲だけ?」
 「セッションだからね。3組出る予定の1組が出られなくなって、そのピンチヒッターだから、私たち」
 「ああ、なるほど。ふーん、合同ライブ、か。まだチケット余ってるかな」
 「来るの?」
 じっ、と咲夜に見つめられた奏は、少し考え、同じように咲夜の顔をじっ、と見つめた。
 「…ちなみに、いくら?」
 「ワンドリンク付きで、2500円。まだ若干余裕あり」
 「よっしゃ、行く」
 「やった。よし、張り切って歌うために、体力つけるぞー。いただきまーす」
 嬉しそうに笑った咲夜は、さっそく箸を手にした。いかにも熱そうなおかゆをふーふーと冷ましつつ、咲夜はちまちまと、箸を口に運び始めた。

 咲夜は、相変わらず食欲はいまひとつ戻りきっていないが、こうしておかゆ位はまともに食べられるようになっていた。
 胃が良くなってきているせいもあるが、それだけではないだろう。拓海と佐倉がすれ違っている理由を知ることができて、そのために何かができて―――少しは、自分を納得させられたからだろう、と奏は思っている。
 奏は、咲夜が倒れて以来、できるだけ咲夜の夕食に付き合うようにしている。もっとも最初の頃は、咲夜が唯一口にできるものが、自分が淹れた紅茶と少量のクッキーだったので、必然的に奏がいないと話にならなかったのだが―――それ以外のものを食べるようになってからも、咲夜の夕飯には同席している。
 勿論、健康な成人男性の奏が、半病人な咲夜と同じものを食べる筈もないので、奏が先に夕食を済ませて、お茶やビールを飲みながら咲夜の夕食に付き合うことになる。それでも、たった1人で食事をするよりは、2人で色々話したり冗談を言ったりしながらの方が、食欲も湧くものらしい(これも千里からの情報だ)。そう考えると、咲夜が回復しつつあることに一役買っているのかもしれない、と思って、ちょっと嬉しくなったりもする。

 「…いつも思うけど、おかゆを箸で、って、食べにくくないのかよ」
 「どーだろ。特に不便じゃないけど」
 「オレなら、全部ボロボロこぼしそうだよなぁ…」
 「あっは、奏はお箸、苦手そうだもんね」
 …確かに。勿論、箸もちゃんと使えるが、あずきを箸でつまんで移動させられるか、と言われたら、かなり自信がない。と言っても、それは奏がイギリス人であることとは関係がないだろう。弟の累は、日本人と比較しても、箸の持ち方が綺麗な方なのだから。
 「ガキの頃、落ち着きがなかったからなぁ、オレ…。箸だとイライラして、ついフォークとかスプーンに頼ってたんだよな」
 「…その言い方だと、今は落ち着きがあるみたいじゃん」
 「―――元気になってくると、途端に毒舌が冴え渡るな」
 「おかげさまで」
 機嫌よく笑う咲夜を軽く睨んだ奏は、ミックスナッツを放り投げ、口でキャッチした。睨んでみせてはいるものの―――こんな軽口を叩き合えるようになったことが、内心、嬉しかった。
 「あ。話、戻るけど―――奏って、ライブなんて来てる時間、あんの?」
 梅干に箸を伸ばしつつ、咲夜が訊ねる。
 「来週の土曜でしょ、イギリス戻るの」
 「ああ、うん」
 来週の土曜日、奏は、累の結婚式に出席するため、イギリスに一時帰国する。留守にするのは1週間弱だが、まとまって店を休むことになるので、今、その分、シフトを目いっぱいで組んでいるのだ。
 「前日に休みとるスタッフがいて、その穴埋めをオレがすることになってるんだ。夜のライブなら、ギリギリ間に合うように上がらせてもらうのは可能だと思う。幸か不幸か、まだオレを指名してる客が行列成してるほどじゃないし」
 「うーん…何気に寂しい話だね、それ」
 「ハハ、お前んとこに来る依頼が、単独ライブじゃなく合同ばっかなのと同じだよな」
 「…そっちこそ、毒舌が冴え渡ってんじゃん」
 むっ、としたように眉を上げ、咲夜は、わざと体の向きを30度ほど斜めに向け、そっぽを向いてしまった。そんな咲夜を見てくすくす笑った奏は、壁に背中を預け、缶ビールを口に運んだ。

 そこで。
 何故か急に、沈黙が訪れた。
 そっぽを向いたことで、咲夜が食べることに集中してしまったせいもあるが―――それだけじゃ、多分、ない。

 一見、以前と何ら変わりのない付き合いをしている2人だけれど……最近、時々、こんな風に沈黙してしまうことがある。
 いつからだろう? 咲夜が倒れてから? それとも、拓海と佐倉が言い争ってるのを偶然聞いてしまった時から? …いや、もっと前から。
 ―――あの時、からだ。

 缶ビールを握る手の指先で、無意識に、唇に触れる。それとほぼ同時に、そっぽを向いていた咲夜が、恨みがましい目をこちらに向けた。
 「…なんか、食べ難いんですけど、それ」
 「え?」
 ビール飲んでただけなのに、なんで?
 素で不思議そうな顔を奏がすると、咲夜は、ますます気まずそうな顔をして、ぽつりと呟いた。
 「…視線が、突き刺さって」
 「……」
 「そんな、心配してじーっと見てなくても、ちゃんと食べるってば」
 ―――やばい…。
 焦った奏は、さっき咲夜がやったのと同じように、くるん、と体の向きを変えた。
 別に、そういうつもりで見ていた訳ではない。でも、咲夜がそう解釈したのなら、その方が好都合だ。変に乱れる鼓動を自覚しながら、奏は誤魔化すように、ビールを一気にあおった。
 けれど、ビールを飲んで、ほっ、と息をつくと―――奏の視線は、咲夜には気づかれない程度に、また咲夜に向けられた。

 箸を置き、湯呑みを握る手が、指が、奏の視線を捉える。
 伏せられたまつげに、目を奪われる。
 湯呑みにそっとつけられた唇を、見つめる。
 見つめながら、また無意識に自分の唇に触れていることに気づき―――目を、逸らした。

 ―――もう…、限界かも、しれない。
 もう何度目かわからない感覚に襲われて、奏は、一度逸らした視線を、なかなか咲夜に戻すことができなかった。

***

 「成田たちも来られれば良かったのにな」
 ぶらぶらと歩きながら、そう言って、背後を振り返る。と、そのタイミングで、微かなシャッター音が響いた。
 「仕事入ってるし、内輪な結婚式に出るほどの親密さでもないだろ」
 「んー…、累の方は、そうは思ってないかもよ? あいつがカレンと付き合うようになったきっかけくれたのは、蕾夏だし。それに―――本人たちより、親が、さ」
 瑞樹と蕾夏を「日本にいる第2の息子と娘」と豪語している母を思い出し、くすっ、と笑う。その笑みにも、シャッター音が重なった。

 日曜日の目抜き通りは、そこそこ賑わっている。
 かなり先にある雑貨店の店先には、中を興味津々で覗き込んでいる蕾夏の姿があった。ぶらぶら歩く奏と、そんな奏を撮影している瑞樹の歩調は普段の半分くらいのスピードだが、あの分だと、2人が追いついてもまだ、蕾夏はあの場所から離れないだろう。
 正直、奏自身も、なんでこんなことになっているのか、いまひとつ理解していない。
 『蕾夏に迷惑をかけないなら、俺は反対しない。ただ……その代わり、って訳じゃないけど、ちょっと頼みたいことがある』
 佐倉と香苗を会わせる計画を立てた時、瑞樹が、唐突に提示してきた、交換条件。それが、今日のこの奇妙な撮影会だ。
 街中をぶらぶらと歩きながら、素の一宮 奏の表情を、切り取っていく。ポートフォリオでも作るのか、と訊ねたが、まあな、としか答えてもらえなかった。どういう事情があるのか、奏にはさっぱりわからないが―――瑞樹に撮られるのは、嫌じゃない。というより、頼み込んででも撮って欲しい位だ。当然ながら、ふたつ返事でOKした。

 「なあ。あんた、なんかこの写真で狙ってる仕事でもあんの?」
 奏が首を傾けるようにして訊ねると、カメラを下ろした瑞樹は、少し考えるような目をした。
 「…いや、狙ってる訳じゃねーし」
 「? なんか、よくわかんねぇ」
 「…ま、深く考えるな。これが仕事に繋がれば、お前だって満足だろ」
 「そりゃ、まあ」
 瑞樹が撮った写真から仕事に繋がる、ということは、イコール、瑞樹と仕事ができるということだ。瑞樹と同じ現場で、一緒に仕事がしたい―――その思いは、どれだけ時間が経っても、奏の変わらない希望だ。
 と、そこでふと心配になって、奏は足を止めた。
 「―――あの、さ。この前、蕾夏に協力してもらったことについては…」
 言い難そうに奏が切り出すと、一瞬、何のことだ? という目をした瑞樹は、すぐに意味を察して、苦笑した。
 「ああ…、佐倉さんが出てきて驚いた、って蕾夏が言ってたな」
 「…ごめん。詳しいことは…」
 「言えない、だろ。俺も別に聞きたくないから、気にするな」
 「気に、ならないのかよ」
 「佐倉さんには、興味ねーから」
 …はい、そうですか。
 佐倉の方は、結構瑞樹を気に入っていると思うのだが―――瑞樹は、興味のない人間に関しては、ばっさりと実に気持ちよく切り捨てる。興味を持った人間には温かく優しい男だが、それ以外には相変わらずつれない男だ。
 ―――佐倉さんから見たら、羨ましいだろうなぁ、成田みたいな性格…。
 多分、瑞樹が嫌われることを恐れる人間なんて、蕾夏くらいのものだろう。奏もどちらかというと、佐倉同様、誰からも嫌われたくないタイプだ。だから、瑞樹みたいに信念のぶれない奴、孤独に耐える力を持っている奴は、やっぱり羨ましい。

 と、その時。
 通りかかったCDショップから、聴き覚えのあるメロディが流れてきた。
 「―――…」
 思わず、視線を向ける。勿論、そこには、人が出入りしたせいで半開きになった自動ドアがあるだけで、本人はもとより、ポスターすら見当たらないのだが―――それでも、一瞬聞こえたメロディラインに、奏の表情が僅かに強張った。
 「どうかしたか?」
 「…いや」
 瑞樹に不審がられ、奏は気持ちを切り替え、ちょっとだけ笑顔を見せた。
 「いつの間にか発売されてたんだな、と思って。ほら、成田がジャケット撮った、麻生拓海のCD」
 「ああ―――“La vie en rose”か」
 ニューアルバム『La vie en rose』には、例の“G.V.B.”のCMに使われている曲も入っている。今流れていたのもその曲だ。アルバムの売り上げは知らないが、CMで御馴染みの曲なので、店でも流していたのだろう。
 「そういえば、例の歌姫は、どうなった?」
 再び歩き出した途端、さりげなくそう訊かれ、奏の心臓が軽く跳ねた。
 どうなった、の意味は、わかる。詳細は話していないが、言い回しから、この前の一件は、奏自身より咲夜の意向だったことは、瑞樹や蕾夏にならバレていただろうから。
 「…あ、ああ。おかげで、随分落ち着いた。心配事が1つ片付いて、あいつもホッとしてるみたいだし」
 「そうか。良かったな」
 ―――まだ、100パーセント、ハッピーエンドじゃないけど。
 その思いから、奏の表情が、複雑なものになる。そんな奏の様子に、瑞樹は、ふ、と微かに笑った。
 「迷うなよ」
 「……」
 「今度は、本物だから」
 「…どうして、わかるんだよ」
 「お前が、あの歌姫を助けるために協力してくれ、と“蕾夏に”頼んだから」
 「……」

 奏が、咲夜を助けるために、蕾夏に協力を求めたから。
 それまで、絶対不動の地位にいた蕾夏より、咲夜を優先したから。蕾夏に面倒をかけてでもいいから、咲夜を救いたい―――そう、思ったから。
 ……いつ、優先順位が入れ替わったのだろう?
 瑞樹と蕾夏の絆の深さに、胸の痛みをあまり覚えなくなったのは、いつだろう?
 記憶を、遡る。けれど…はっきりとは、思い出せなかった。ただ、奏は、瑞樹の言葉で確信した。
 見つけた―――本当に、見つけられた。ずっと探していたものを。

 瑞樹が、カメラを構える。
 ファインダー越しに、瑞樹と目が合う。その視線を受け止め―――シャッター音に、耳を澄ませた。


***


 合同ライブ当日。
 結構名の知れたライブハウスだというその店は、超有名アーティストのライブ、という訳でもないのに、ほぼ満席になっていた。
 ―――結構いるんだな、根っからのジャズ好きって。
 チケットについていたワンドリンク・コインでカクテルを作ってもらいつつ、奏はぐるりと店内を見回した。年齢はバラバラ、性別は…若干、男が多め、だろうか。どのみち、国籍不詳っぽい奏は、どこに行ってもこの国では浮いている。もう慣れたので、いっぱしのジャズ・ファンの顔をして、綺麗な色をしたカクテルを笑顔で受け取った。
 軽食もいけるとのことで、ついでに、聴きながら軽くつまめるものも注文し、席に着く。2色刷り2つ折のシンプルなパンフレットに目を通すと、どうやら咲夜と一成の出番は、3組中の真ん中らしい。やっぱり最後に出てくる奴らが一番格が上なのかな、なんて考えているうちに、真っ暗だった舞台をライトが照らした。
 さて、お手並み拝見―――咲夜たちのライバルであろう連中の演奏を聴くべく、奏は、舞台に向き直った。


 1組目は、女性がピアノを担当する、ヴォーカルのいないジャズ・クインテットだった。
 拓海と比べても、一成と比べても、どことなく線が細く繊細なイメージのするピアノの音を聴きながら、奏が無意識に考えてしまうのは、やっぱり咲夜のことだった。
 多分、傍から見れば、今はチャンスなんだろうな、と思う。
 奏の気持ちに気づいている佐倉などは、「何やってんのよ、じれったい」と思ってるかもしれない。奏だって、これが自分の話でなければ、そう言うと思う。さっさと行動に出ろ、絶好のチャンスだろ、と。
 でも―――まだ踏み切れない。
 踏み切れないのには、いろんな理由がある。咲夜がまだ完全には元気になっていない現状で、また新たな悩みの種を与えたくない、というのもあるし、結果によってはせっかく築いてきた友情まで失いかねない、という不安もあるし、それに―――…。

 『いっちゃんて誰にでも親身で優しいから、結構罪作りやと思うわ。叶のお嬢様にも、ウチにも。好きなだけ泣かしてくれるし、本気で心配してくれるし。弱ってる時やと、つい、自分の気持ちまで勘違いしてしまいそうになるわ』
 『うん―――そうや。勘違いしたら、アカンねんな』

 ―――勘違いでもいいから、とは、思えないんだよな……咲夜には。
 失恋の痛手につけ込んで、勘違いさせたくはない。拓海の代わりにされるのは、どうしても嫌だった。それは、自分が明日美を蕾夏の代わりにしてしまった経験からくる、個人的なこだわりなのかもしれないけれど。
 もう、少し……あと少しだけ、咲夜が元気になるまで。
 あと少しだけ、咲夜の心が、拓海から離れるまで。
 …でも……耐えられるんだろうか? 今でさえ、何かきっかけがあれば、すぐにでも暴発しそうな爆弾を抱えている状態だというのに―――あとどれだけ、物わかりのいい親友のフリをし続けられるだろう?


 「こんばんは。“BAL-BOA”さんのピンチヒッターで、急遽飛び入り参加しました、藤堂一成と如月咲夜です」
 突如、咲夜の声が奏の頭の中に割って入った。
 慌てて顔を上げると、舞台中央にはスタンドマイクを握った咲夜が、その傍らのピアノの前には一成がスタンバイしていた。いつの間に、1組目の演奏は終わったのだろう? どうやら、大音量の演奏も、割れんばかりの拍手も、奏の耳は全部スルーしていたらしい。
 咲夜も一成も、ジーンズにシャツという、いつものとおり飾らない服装だ。前のクインテットの女性ピアニストが、シンプルながらもドレスという格好をしていただけに、突如空気がラフな方向へと一気に変わった感じがする。
 「もうすぐ梅雨の季節だけど、憂鬱な天気を吹き飛ばす勢いで、1曲目、いきます」
 という曲紹介に続いて始まったのは、咲夜の十八番、『Blue Skies』だった。奏は、頬杖をついていた手を下ろし、その歌声に聴き入った。

 ゴールデンウィークにあったジャズ・フェスタと同じ演目だ、と咲夜が言っていたとおり、『Blue Skies』に続いて披露されたのは、『What's New』だった。
 ―――なんか…上手くなった気がする。
 1ヶ月ぶりの歌声に、奏は、少し驚いていた。
 病気をした関係から、練習量は以前より落ちていた筈だ。なのに……上手く表現できないが、何かが変わった気がする。いや、声楽の専門家でも何でもないので、根拠も自信もないけれど、でも―――ジャズ・フェスタで聴いた『What's New』より、今歌い上げられる『What's New』の方が、胸が苦しくなるような切なさを、より感じる。
 失恋が、表現者としての咲夜を成長させた、ということだろうか。それとも―――…。
 「……」
 ふと、頭を過ぎった不愉快な想像に、奏は思わず、眉をしかめた。考えたくもない。拓海に抱かれて、より大人の恋を知ったから、だなんて。こみ上げてきた憤りを振り払うべく、奏は、ほとんど口をつけていなかったカクテルを、一気に半分近くまで飲んだ。

 2曲目も終わり、後は3曲目の『Let it be』だけかな、と思った奏だったが、続いて咲夜が歌ったのは、予想外の曲だった。
 そして、奏にとってみれば、思いがけない咲夜からのプレゼントだった。

 「Amazing grace, How sweet the sound... That saved a wretch like me.....」

 そう。思い出の曲―――『Amazing Grace』だったのだ。

 「I once was lost, But now I'm found... Was blind but now I see....」

 伴奏もなく、完全なアカペラで、1フレーズだけ。
 天使の歌声の『Amazing Grace』を導入部として、一成のピアノが、『Let it be』の前奏を奏でる。それは、涙が出るほどに、美しくて、ドラマチックな趣向だった。
 最初から決まっていたことなのか、それとも、奏も聴きに来ると知って、後から決めた趣向なのかは、わからない。けれど。
 ―――…やっぱり…、咲夜が、好きだ。
 奏は、改めてそう思った。

***

 ライブ後、約束通りライブハウスの裏口付近で待っていると、咲夜は一成と一緒に出てきた。
 「お待たせー」
 「おー。お疲れ」
 健闘を讃えるように、咲夜の手と、パン、と手を合わせる。咲夜より数歩遅れてやってきた一成にも「お疲れ」と声をかけると、一成も笑みを返した。
 「一宮が来るって聞いて、絶対にジャズ・フェスタの時より下手な演奏はできない、って咲夜と意気込んでたんだぞ」
 「ハハ、そうだったのか。知らなかった」
 「咲夜、上手くなっただろ」
 「ああ。ちょっと驚いた」
 「…なぁんで一成が、自分のこと自慢するみたいに言うかな」
 咲夜がそう言って、一成の腕を軽く小突く。はいはい、と苦笑した一成は、ほっと息をつき、咲夜と奏の顔を見比べた。
 「本当は打ち上げといきたいところだけど―――咲夜はまだ飲めそうにないし、俺も仲間が聴きに来てたから、そいつらに付き合わないといけないんだ」
 「ん…、また店行った時にでも、改めて飲むか」
 「そうだな。じゃ、咲夜、お疲れ様」
 「うん、お疲れ様」
 手を挙げる咲夜に、一成も軽く手を挙げ返す。一成はそのまま、路地を抜けて表通りへと去って行った。
 ―――あいつも、いい男なんだよなぁ…。
 いくら割り切ったとはいえ、人間は0か1しかないコンピューターとは違う。まだ少しは、咲夜に対する恋愛感情も残っているだろうに―――それを感じさせない一成に、大したもんだ、と感心する。もし自分が一成なら、咲夜に振られた後もデュオを組み続けていけるか、正直自信がない。
 「ね、どうだった? “Amazing Grace”と“Let it be”のコラボレーション」
 斜め下からの期待したような声に、一成を見送っていた奏は、咲夜の方に目を向けた。
 勿論、答えは1つだ。期待に応えるように、ニッ、と笑ってみせた。
 「すっげー、感動した」
 「ホント?」
 「ほんと。“Amazing Grace”はオレ、ちょっと思い入れあるから、余計に」
 「やった。奏が来るって決まった時にさ、神がかり的に浮かんだんだよね、あのアイディアが。一成も面白いって言ってくれたし、自信はあったんだけどさ」
 嬉しそうに言う咲夜に、奏の顔もほころぶ。が―――その時になって初めて、ある物に気づき、奏は少し目を丸くした。
 「それ、どうした?」
 「え?」
 「その花束」
 咲夜の手には、片手で持てる位の、小さなブーケが握られていたのだ。
 「あ……ああ、これ?」
 奏が指摘した途端、咲夜の嬉しそうな笑顔が、急速に消えていく。明らかに、触れて欲しくなかった話題だったのだとわかり、奏の表情も、僅かに険しいものに変わった。
 無造作に持っていたブーケを、きちんと持ち直す。よく見たら、上品な紫系統のグラデーションに統一された、なかなかにセンスのいいブーケだった。花の種類はよく知らないが、マーガレットのような形をした可憐な花を中心に、どれも、なんとなく咲夜のイメージに―――本当の咲夜のイメージに合う花のように、奏には思えた。
 「ライブ終わって楽屋に戻ったら、届いてたんだ」
 「…誰から?」
 ブーケの詳細を確認した時から、予感はしていた。その予感をあえて口にせず奏が訊ねると、気まずそうな顔をした咲夜は、奏に1枚のカードを差し出した。
 2つ折の、シンプルなカード。多分、このブーケに添えられていたのだろう。読んでいいのか? と目で咲夜に確認を取り、奏は、カードをそっと開いてみた。

 『本格的なデュオ活動のスタートを記念して。
  いつの日か、また同じ舞台に立てることを楽しみにしています』

 「―――…」
 名前は、どこにもない。
 必要ない。誰からのメッセージか、一目でわかるのだから。
 カードの文面を見つめる奏の目が、次第に険しさを増していく。気を抜けば、カードを持つ手が、憤りに震えそうだ。
 「…多分、さ。マネージャーさんから聞いたんだよ。情報通だから。出演できなかった“BAL-BOA”も、超有名、って訳じゃないけど、業界じゃ密かに注目されてるトリオだしね」
 まるで、文面に書かれてはいない部分を補足するみたいに、咲夜がそう付け加える。その言葉にさえ苛立って、奏は顔を上げ、カードを咲夜に突っ返した。
 「何、咲夜が麻生さんのフォローしてるんだよ」
 「え?」
 ぐい、と押し付けられたカードを反射的に受け取りながら、咲夜は、突然の奏の変わりように、戸惑ったような顔をした。
 「なんで今更、こんなもん贈ってくるんだよ、あの人は」
 「なんで、って…」
 「咲夜を切り捨てたんだろ?」
 鋭い一言に、咲夜の顔が、僅かに歪む。
 何やってんだ、咲夜を傷つけるようなセリフを言って―――奏の中の冷静な部分が、感情に任せる奏をたしなめる。けれど今は、理性より感情が勝った。
 どうしようもなく、苛立つ。
 コントロールの効かない、得体の知れない感情が、体の奥底から滲み出し、体中を支配し始める。
 「麻生さんは、咲夜より佐倉さんを選んだんだろ? もう来るな、って、お前をあの部屋から追い出したんだろ? なのに、なんで今更、こんなもん贈ってくるんだよ。こんな―――せっかく忘れようとしてるもんを、咲夜に思い出させるようなもん贈ってきて、咲夜をまた迷わせて」
 「拓海は、そんなつもりじゃないよ、きっと」
 奏の言葉を遮るようにそう言って、咲夜は、上手く笑えないみたいな、力ない笑みを微かに浮かべた。
 「多分―――“女”としては完璧切り捨てたけど、別に私そのものを完全に見切った訳じゃないってことを伝えたくて、贈ってきたんだよ」
 「……」
 「姪として、と、ミュージシャンとして、なら、今も応援してるし、今も見守っている―――だから安心して歌え、って言ってくれてるんだと思う」
 そこで言葉を切ると、咲夜は小さく息をつき、手の中のブーケを見下ろした。
 「…うん。きっとそうだよ」
 「……」
 「佐倉さんとも話し合えて、落ち着いたから、それを伝えられるだけの余裕が出てきたんだよ、拓海も。ハハ…、良かった。私が罵詈雑言並べ立てて佐倉さんを挑発したのも、無駄にはならなかったってことだよね」

 ―――…咲夜…。

 ブーケを見下ろす咲夜の、寂しげとも切なげともつかない、形容しがたい目を、見ていたら。
 何かが―――奏の中で、リミットを超えた。

 頭の芯が、焼け付くように、熱い。
 その熱に狂わされたように―――奏は、憤りに任せて、咲夜の肩を掴んだ。
 「……っ!」
 驚いて、咲夜が顔を上げる。その見開かれた目を見ても、止まらない。奏は、掴んだ肩を力任せに押すと、咲夜の体を路地裏の壁に押しつけた。
 ほんの1、2秒の出来事。咲夜が抵抗できる筈もない。無理矢理顔を上げさせるように後頭部を掴まれた咲夜の目に、一瞬、怯えたような色が浮かんだような気がしたが―――無視、した。
 無視して、何か言いかけた唇に、強引に自分の唇を押しつけた。

 再び触れた唇は、熱を帯びたように、熱かった。
 唇の上に微かに残っていた記憶が、現実となって、何十倍、何百倍の凶暴さで襲ってくる。それを掴み取ろうとするように、貪る。もっと―――もっと、欲しい。これじゃ足りない。まだ足りない。
 「……っ…、や、……!」
 ほんの一瞬、唇が離れた隙に、咲夜が抵抗するような声を上げる。でも、今度も無視した。押さえつけてきたもの全てをぶつけるように、更に唇を重ねる。咲夜の手が何度も腕や胸を叩いたが、痛みなど感じない。重なり合った唇以外、何も感じなかった。


 ―――なんで、まだそんな目ができるんだ?
 想って、想って―――嫉妬や独占欲を殺すことに慣れきってしまうほどに、何年も何年もただひたすら想って―――その想いを「捨てろ」と言った男のために、どうしてそんな目ができるんだ!? そんなに、あいつが好きなのかよ―――…!


 貪欲に、咲夜の唇を求め続けながら、奏は半ば自棄になっていた。嫌われたかもな―――と、まだ残っている理性が、痛みを覚えた。
 どうにでもなればいい。
 幻滅するなら、すればいい。罵りたければ、思う存分罵ればいい。今は、考えない。考えたくない。考えられない。
 そう考えて、完全な自暴自棄に陥りかけた時。

 「―――…」

 ―――…え…?

 何かに違和感を覚え、奏の理性が、少し、引き戻された。
 何、だろう? その「何か」を探して、意識が彷徨う。そして―――気づいた。

 抵抗していた筈の咲夜の手が、奏の服の胸元を、握り締めていた。
 強張り、逃れようとあがいていた筈の肩が、柔らかく奏の手に重みを預けていた。
 ―――…咲、夜?
 少し戸惑い、一度、唇を離す。が、咲夜が顔を背けようとしたので、すぐにまた唇を押しつけた。でも、今度は乱暴にじゃなく…少し、優しく。
 咲夜は、逃げなかった。
 いや。
 奏の気のせいでなければ―――…。

 と、その時、どこかでガタン! と音がした。
 「……っ、」
 咲夜の肩が、驚いたように跳ねる。奏も、反射的に唇を離した。
 息をつめ、周囲の気配を窺う。が、割って入った音は、2人には関係ない、どこか遠い所の音だったようだ。そのことにホッとした奏の胸を、咲夜の手が、弱々しく押した。
 咲夜は、俯いていた。
 奏を遠ざけるように、奏の胸を、もう一度押す。その手は、微かに震えていた。
 「…咲、夜…」
 「―――…もう…」
 顔を上げることなく、咲夜が呟く。
 「…友達、に……こんなキス、二度と、しないで」
 「……」
 三たび、咲夜の手が、奏を押しのけた。大した力じゃないのに、奏は1歩、後ろに退いた。
 呆然とする奏の腕を逃れて、咲夜は、最初はふらつきながら歩き出し、やがて、その足を速めながら、表通りへと消えた。

 動けなかった。
 咲夜の後姿を呆然と見送った奏は、ぎこちなく首を動かし、地面に目を向けた。そこには、いつの間に咲夜の手を離れてしまったのか―――拓海が贈ったブーケだけが落ちていた。

 「―――…」
 さっきのは。
 オレの自惚れじゃないんなら……さっきのは、オレのキスに、応えてたんじゃないか?
 なのに、最後に告げた言葉が―――「二度とするな」?

 まるで愛しい恋人とくちづけを交わすかのように、奏の唇を受け入れていた咲夜を思い出し、今更ながら、顔が熱くなる。けれど、奏の頭は、ますます混乱するばかりだった。

 オレは、受け入れられたんだろうか。
 それとも―――振られたのか?

 それすらわからず、奏は暫し、誰もいない路地裏に呆然と立ち尽くした。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22