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― Truth

 

 郵便受けを開けた咲夜は、そこに不思議なものを見つけ、眉をひそめた。
 「……?」
 かなり分厚い、A4サイズの茶封筒。封もしていないそれは、表に「咲夜ちゃんへ」と書いてあった。クルリとひっくり返してみると、「海原」と書いてある。海原―――心当たりのある人物は、マリリンだ。
 ―――なんで直接来ないのかな。
 ちょっと不審に思ったが、既に時刻は23時近い。マリリンに事情を訊くには遅すぎると判断し、咲夜は茶封筒といくつかのチラシを抱えて、2階へと上がった。

 電気をつけ、荷物をベッドの上に投げ出すと、自分もベッドに身を投げ出した。
 大きくため息をつき、ふと視線をテーブルの方に移すと、花瓶に活けられた紫色の花々が目に入る。拓海からもらった花束―――そして、奏が拾って届けてくれた花束、だ。
 ―――もう、ロンドンには到着してるよね。
 今日の午前中に日本を発った筈の奏を思い、今、向こうは何時頃なんだろう、なんてことをぼんやり考える。
 考えたら―――無意識のうちに、涙が出てきて、自分でも驚いた。
 「……っ、」
 慌てて起き上がり、頭を振る。余裕がなくなってるのかもしれない―――立ち上がった咲夜は、ココアでも作ろうと、キッチンに向かった。


 『最近咲夜ちゃんの歌、ちょっと変わったねぇ』
 今日、“Jonny's Club”でお客さんから言われた言葉を思い出す。
 歌い始めた頃から、特に土曜日にちょくちょく顔を出すお客さんで、まあ1杯飲みな、と3人揃って誘われた。ヨッシーと一成はそれに応じたのだが、まだアルコールは禁じられている咲夜は、夕飯代わりにリゾットをご馳走になった。その席でお客さんから言われたのが、それだ。
 『前から、若いのに情感豊かな歌を歌うな、と思ってたけど―――ここ1、2ヶ月は、こう、大人の女性のしっとりした感じというか色艶というか、そういうのが出てきた感じがするよ、うん。さては恋人でも出来たな?』
 お客の突っ込みに、軽く「ハハハ、それってなんか、セクハラ親父っぽい感想だなー」と笑って誤魔化した咲夜だったが(ちなみに相手は妙齢の女性客である)、昨日の今日だけに、笑い方は相当ぎこちなかったと思う。ヨッシーは黙ってスルーしてくれたが、さすがに一成はそうはいかない。2回目のライブが始まる前、ヨッシーには内緒で、こっそり訊かれてしまった。
 『もしかして、ほんとに彼氏、出来たのか?』
 『…そういう訳じゃ、ないけど』
 『まあ、どちらでもいいけど―――いい風に変わってきてるんだから、今の変化、ネガティブに取るなよ』
 『ネガティブ?』
 『お前、歌が変わったって言われるたびに、凄く複雑そうな顔するから』


 ―――…ネガティブ、かぁ…。
 できあがったココアを冷ましながら、また小さくため息をつく。
 確かに、咲夜の、自分の現状に対する目線は、明らかにネガティブだ。
 ネガティブにならざるを得ない。何故なら―――今、自分が実体験しているような恋を、咲夜はこれまで、ずっと蔑んできたのだから。

 咲夜はずっと、拓海だけが好きだった。
 そこに独占欲はなく、見返りを求める気持ちもない。拓海が自分を「わかり合える存在」として受け入れてくれる、ただそれだけで嬉しかったし、純粋な想いを歌にして昇華していけることに喜びも感じていた。
 けれど、今、咲夜はもう1つの恋をしている。
 その恋を、最初は、ただの錯覚や逃避だと思った。けれど……錯覚ならこんなに苦しい筈はないし、逃避ならもっと楽な方へ逃げる筈だ。どちらも、本物の恋―――少し前まで、絶対あり得ないと思った形の恋を、咲夜は、戸惑いながらも認めた。
 認めて……自己嫌悪に陥った。
 ちゃんと好きな人がいるのに、他の人のことも好きになるなんて―――なんだか、自分が酷く節操のない人間になった気がして、落ち込んだ。
 悩んで、悩んで、人知れず悩み苦しんだ。拓海に対する気持ち、奏に対する気持ち、2つがぶつかり合って、自分でも誰をどう思ってるのかわからなくなって―――…。
 そして、1つの結論を出した。

 今、咲夜が手にしている物。それは唯一、奏との友情だ。
 これまでの奏の言動を見ていると、奏が咲夜を“女”と見ていないのは、あまりにも明白だろうし、それが当然だと咲夜も思う。何故なら咲夜自身が、少し前まで、奏を“男”だなんて考えたことは全くなかったから。
 拓海に対する想いが、この先、どうなろうとも―――それとは無関係に、奏との恋愛はあり得ないな、と咲夜は判断した。一縷の望みにかけてこちらから告白なんてしたら、せっかく手にしている友情が壊れてしまうかもしれない―――それだけは、絶対に嫌だった。
 満たされない恋心がそこにあったとしても……構わない。奏とギクシャクして離れてしまう位なら、親友のままでいた方がいい。
 そう結論づけた咲夜は、以来、拓海を忘れる努力をしながら、奏に対する想いも封じ込めるようにして、日々を過ごしてきた。ただの“親友”の仮面をつけ、恋愛感情なんて微塵もないようなフリをした。自分さえ我慢すれば、何も問題はない―――そう思っていたのだ。

 だからこそ、水曜日の夜、奏に突然キスされた時には、どうしようもなく辛かった。
 奏がキスしてきた理由なんて、咲夜には全く想像がつかない。ただの気まぐれなのか、一時的な激情からなのか―――何にせよ、自惚れるには、咲夜の性格はあまりに現実的すぎた。
 やめてよ、と……こっちはこんなに苦しい思いをして友達の顔を保っているのに、それも知らずに不用意な真似をしないでよ、と大声で泣き叫びたかった。二度としないで、と言ってその場を逃げ出すだけで精一杯だった。
 なのに―――…。

 「…あー、もう」
 一口も飲まないうちに、ココアの入ったマグカップを、テーブルに置いてしまった。大きなため息をついた咲夜は、思わずテーブルに突っ伏した。
 誰が、想像できただろう? あの奏が、咲夜に恋愛感情を持っていた、なんて。
 どうして? 一体いつから? 考えれば考えるほど、訳がわからない。単に、拓海から切り離された咲夜に対する同情を、恋愛感情と勘違いしてるだけなんじゃないだろうか。まだその方が理解可能だ。
 嬉しい。そう思う反面―――どうしようもなく、後ろめたい。
 咲夜はまだ、拓海のことを、完全には忘れていない。いや…完全に忘れるなんて、一生無理なのかもしれない。それは奏にとっての蕾夏も同じだと思う。けれど―――まだ、2ヶ月も経っていない。拓海の目的を見抜いた上でその挑発に乗ったのは自分なのだから、自業自得とはわかっているが……あまりに、記憶が鮮明すぎる。
 こんな気持ちのまま、奏の気持ちになんて、応えられない。そんなことは、許されない。
 でも……じゃあ、この先、どうすればいいのだろう? 全ては時間が解決してくれる―――そう考えて、拓海の記憶が薄れるまで、今まで同様の友達の関係を続ければいいのだろうか? …なんだか、それも無理な気がする。
 ―――もう、頭をフル回転させすぎて、クタクタかも…。
 ここ2、3ヶ月で、一生分の考える力を使い果たしたような気分になってくる。駄目だ。一旦休憩しよう―――ムクッ、と頭を起こした咲夜は、ようやく、ココアに口をつけることにした。

 ぐるぐる悩んでるうちに、ココアは適温に下がっていた。マグカップを口に運びながら、咲夜はふと、さっきの茶封筒を思い出した。
 あれって、何だったんだろう―――気になって、ベッドの上に放り出したままだったそれを、引き寄せた。
 ガサガサ音を立てて、茶封筒から紙の束を引き出す。見るとそれは、どうやら小説をプリントアウトしたもののようだった。
 1枚目の右上には、次のようなメモが、ゼムクリップで添付されていた。

 『咲夜ちゃんなら2、3時間で読めると思うから、できれば明日の夜までに、暇を見て読んでおいて下さい。
  是非、咲夜ちゃんの感想が聞きたいから、明日の夕方にでも、そちらに伺います。
  もし出かける用事があるなら、明日は1日家にいるので、一声かけていって下さい。』

 「…感想?」
 なんで、私に?
 どうにも、変な話だ。勿論、咲夜だってある程度本は読むが、意見や感想を求めるなら、はるかに読書量が豊富な優也の方が適任だろうに…。
 でも、まあ―――明日は、確かに暇だ。かといって、遊び歩く気力はないし、ただぼーっと部屋にいると、今は誰もいない隣の部屋のことばかり考えてしまう。
 ―――ちょうどいい時間つぶしの材料を貰った、ってことになるの、かな。
 ひとまず、今夜はもう、活字を読むだけの気力は残っていない。明日、ゆっくり読もう―――そう考えて、咲夜はA4用紙の束を茶封筒の中に戻した。

***

 翌、日曜日。
 いつもより少々寝坊をした咲夜は、果物に牛乳にクッキー、というおやつのような朝食を、随分時間をかけて食べた。
 ―――ほんとにわかるもんなんだなぁ…。
 壁を隔てた隣に意識を向け、以前、奏が言っていたことを実感する。いない―――確かに、気配が完全に消えているのがわかる。具体的に何がどう、とは言えないのだが…直感的に。
 誰でも気づくものなんだろうか。それとも……相手が奏だから、なのだろうか。なんだか後者のような気がして、咲夜は、変に落ち着かない気分になった。
 朝食を終え、そろそろマリリンの小説を読もうかな、と思っていたら、珍しい人物から電話がかかってきた。

 『お姉ちゃん? あたしー』
 「え…っ、芽衣!? うわ、久しぶりー!」
 最後に電話で話したのは、ここ最近のゴタゴタが起こる前―――3月のはじめ頃だっただろうか。実際に顔を見たのは、2月。父が家にはいそうにない時間に、こっそり、実家に顔を出した時が最後だ。
 育ち盛りの妹と弟は、暫く顔を見ないと、前回よりぐぐっと成長していたりして、びっくりしてしまう。2月に会った時も、急激に背の伸びた亘を見て、なんだか不思議な気がした。咲夜の記憶の中では、足元にじゃれついていた亘の姿だってまだまだ鮮明なのに―――咲夜自身がさほど背丈が変わっていないから余計、亘や芽衣の成長ぶりには、毎回驚かされる。
 「どうしたの、急に? 何かあった?」
 『うん、あのねー。あたし、今度ピアノの発表会があるの』
 「へー」
 『今までは全然自信なかったけど、今回はちょっと自信あるんだ。…ね、お姉ちゃん、聴きに来れない?』
 おお、凄い。
 ちょっと、感動モノだ。妹の芽衣は、言動が結構はっきりしていて、周りからは自信がありそうな子供に見られがちなのだが、実は小さい頃から、密かに「あたし、全然ダメなの」とぐちぐち言うタイプだった。特に音楽に関しては、拓海や咲夜といった「ずっと前を歩いてる大人」が身近にいるせいなのか、上手だよ、と褒めても、なかなか納得してくれなかったのだ。
 その芽衣が、ついに「自信がある」ときた。これは姉として見逃せない事態だ。
 「それって、いつ?」
 『夏休み入って、すぐ。7月最後の土曜日』
 「土曜日、か…。昼間だったら、行けるかも」
 『ほんと? 嬉しいー! じゃあ、ママに頼んで、発表会のパンフレット、コピーしてもらうね』
 「うん」
 本当に嬉しそうな芽衣の声に、咲夜も思わず口元をほころばせたが。
 『あ、拓海叔父さんも来れるかなぁ?』
 「……」
 一瞬、言葉に詰まった。
 「…あー、どう、かな。忙しいだろうから、難しいと思うよ」
 『そうかぁ…そうだよね。ねー、お姉ちゃん、また叔父さんとこ連れてってね。叔父さんのピアノ聴きたいし、あたしのピアノも聴いて欲しいから』
 「うん。そうだね」
 『あ、ママに代わるね』
 無邪気な妹は、咲夜の一瞬の躊躇になど、まるで気づかなかったようだ。相変わらず嬉しそうな声のまま、電話の向こうで母を呼んでいる。向こうが選手交代する間に、咲夜は大きく深呼吸をしておいた。
 息を吐ききったところで、電話の声が変わった。
 『もしもし、咲夜ちゃん?』
 「うん。久しぶり」
 『本当に、久しぶりね。ああ、ありがとうね、芽衣の発表会のこと』
 「ううん。どう? 珍しくあの子、自信あり気っぽかったけど、随分上達した?」
 『ふふ、まあ、親の贔屓目では、ね。もし聴いて悲惨な演奏でも、点数甘めで評価してやってね。落ち込むとすぐ“もう才能ないの、あたし辞めるの”ってなっちゃうから』
 「ハハハ…、うん、了解」
 容易に想像ができてしまい、思わず笑ってしまう。母も笑い声をたてたが―――ふいに、その口調が真剣なものに変わった。
 『…ね、最近、どう? どこか具合悪かったりしない?』
 「ん? 何ともないよ」
 『ちゃんと食べてるでしょうね?』
 タイムリーな質問に、また少し、言葉に詰まりかける。でも―――母は電話では、これは必ずつきものの質問だ。
 どこの親でも、顔の見えない子供の心配はするものなのかもしれないが、母の場合、ちょっと心配しすぎな部分がある。まあ…それも、無理はないのかもしれない。再婚当初の地獄を忘れるのは不可能だろうし、その後再び一緒に暮らし始めてからも、父とトラブルになれば軽い摂食障害をぶり返すわ、歌なんてやってる癖に気管が弱くてすぐ風邪をひくわ―――と、健康面では結構ボロボロな娘だったのだから。
 「…だぁいじょうぶだって。心配ないよ」
 『なら、いいけど―――また近いうち、顔見せに来て? できれば…お父さんの、いる時に』
 「……」
 『咲夜ちゃんの前では意地を張ってるけど、本当はいつも心配してるのよ?』
 「…うん。わかってる」
 勿論…わかっている。前からずっと。
 別に自分は、憎まれている訳じゃない。ただ、歩み寄れないだけ―――わかり合えないだけ、だ。
 「暇を見て、1回、顔出すよ。お父さんにも“心配するな”って言っといて」
 咲夜があっさりそう答えると、頼んだ筈の母の方が、少し驚いたような声音になった。
 『―――どうしたの、咲夜ちゃん。なんだか随分、お父さんに対して優しくなったのね』
 「あはは、別に、そういう訳じゃないよ」
 『そう?』
 「うん。だから、会ったらまた喧嘩になるだろうなぁ…。ちょっと憂鬱。あ、芽衣や亘に、ジャズの話は絶対するな、って釘刺しといてね」

 別に、父に優しくなった訳じゃない。
 父のことは、やっぱり、好きになれない。裏切っただけじゃなく、咲夜の気持ちを蔑ろにした―――同じ「置いて行かれた立場」なのに、自分を哀れむばかりで、咲夜のショックを考えてはくれなかった、そのことは、どうしても許すことができない。それに加えて、拓海とのこと、ジャズのこと、大学のこと―――父と咲夜は、わかり合えない部分が多すぎる。だから、この先も、昔のように父を好きだと思える日は来ないだろう。
 でも、たった1つ、認めることができたことが、あるから。
 母の胎内に、芽衣という命が宿った時―――父が感じたであろう、その命に対する責任は、咲夜も認めることができたから。

 ―――100パーセント、わかり合うことなんて、誰だって無理なんだ。だから……たった1つでも認めることができたなら、上出来だよ。きっと。
 母との電話を終え、受話器を置きながら、咲夜は小さくため息をついた。
 そう…1つ、認められたのだから、上出来だ。それに―――…。
 ―――…私だって、たいして立派な人間でもないし…、ね。
 ふ、と自嘲気味な笑みが、口元に浮かぶ。
 「…あーあ、」
 またネガティブになりかけたところで、重苦しい気分を振り払うように、大きく伸びをした。
 やはり、今必要なのは、気分転換だ。小説、小説―――ベッドにドサリと腰を下ろした咲夜は、傍らに置いてあった茶封筒を手に取り、中身を引っ張り出した。

 「結構あるなぁ…」
 改めて、プリントアウトされた文字の大きさや行間を確認して、ううむ、と唸る。
 でも、マリリンも言うように、読むのは結構早い方だ。それにマリリンの小説は咲夜にとって結構読みやすい文体でもある。まあ、夕方までには読めるだろう―――ベッドの上で体をずらし、壁に背中を預けると、咲夜はタイトルしか書いていない1枚目をパラリとめくった。


 (まさし)は、振り返る。

 結局、僕と菜穂子の恋は、何だったのだろう?
 人を傷つけて、自分も傷ついて、それでも選んだ恋だった。永遠を信じるほど、もう子供ではなかったけれど、それでも―――永遠に近いものを感じ、そうして手を取り合った恋だった。


 「……あれ?」
 出だしからいきなり、引っかかる。
 匡に、菜穂子。その名前に、咲夜は見覚えがあった。そう―――以前、マリリンに借りて読んだ、マリリンの代表作。その作品の主人公とその相手役の名前だ。
 恋愛小説の苦手な咲夜だが、評判も良く、発行部数もマリリンの全作品の中でトップだと聞いたので、念のため読んでおいたのだが―――確かに、いい作品だった。上品で、どこか純文学的な香りのする、セピア色をしたようなラブストーリーだった。
 その作品では、菜穂子は高校生で、登場時点で既に、和人という幼馴染の彼氏がいた。まだ付き合い始めて間もないらしい、初々しいカップルのようだった。
 和人と菜穂子は、ある日、学外のサークル活動で、1つ年上の他校生・匡と知り合う。意気投合した3人は、以降、3人でよく行動するようになるのだが―――菜穂子が匡を意識するようになったり、匡も菜穂子を好きになったり、そんな2人にヤキモキしてるうちに、和人が他の女の子に告白されたり、なんてことが色々起こり……最終的には、匡と菜穂子が結ばれて、ハッピーエンド。大雑把に言えば、そういう話だ。
 咲夜がこういう話を読むと、往々にして菜穂子を「嫌な女だなー」と思ってしまったりするのだが、あの作品に関しては、そういう風にはあまり思わずに済んだ。途中、嫉妬した和人がかなり嫌な男に成り下がっていたし、菜穂子と匡が惹かれあうのも無理ないな、という過程がちゃんと描かれていたので、和人には気の毒だがこの結果は仕方ないよ、と思った。

 匡に、菜穂子―――じゃあ、これは、あの作品の続きということだろうか。
 マリリンの代表作の続きとは、これはまた重大な作品を渡されたものだ。咲夜は、さっきまでより真剣に、プリントアウトされた文字を目で追い始めた。

 そして。
 読み進めていくうちに―――その、思ってもみなかった展開に、思わず目を丸くした。

***

 呼び鈴を鳴らして暫し待つ。
 1日中家にいる、との言葉通り、まもなくドアが開き、マリリンが顔を覗かせた。
 「おや。どうしたの?」
 夕方行くから、とメモに書いてあったのに、咲夜の方から、しかもまだ夕方とは呼び難い時間に、茶封筒持参でやってきたことに驚いたのだろう。マリリンの目が、少しだけ丸くなっている。
 「ん…、もう、読み終わったから」
 「あ、ほんとに? ああ、じゃあ、お茶でも飲みながら中で感想聞きましょうか。さ、どうぞ」
 そう言って、マリリンが更に大きくドアを開ける。お邪魔します、と呟きつつ、咲夜はマリリンの部屋に上がった。
 マリリンは、どうやら執筆中だったらしい。机の上にはノートパソコンが広げられており、辺りに資料らしき本がいくつか転がっていた。既にポットにお湯が沸かしてあったようで、咲夜がテーブルの一角に腰を下ろしてから1、2分というスピードで、マリリンがお茶の入った湯呑みを目の前に置いてくれた。
 「何か、お菓子でもいる?」
 「あー、ううん、お茶だけでいいや」
 咲夜の答えに、そ、と答えたマリリンは、咲夜の正面に腰を下ろし、自分の分の湯呑みをテーブルの上に置いた。そして、頬杖をつくと、意味深長にニンマリと笑った。
 「―――で? 咲夜ちゃんの感想は?」
 「……衝撃的」
 率直な感想。
 マリリンも、予想したとおりだったのだろう。咲夜の感想を聞いて、愉快そうに笑った。
 「アハハハ、衝撃的、ね」
 「…っていうか、マリリンさん、この小説、本当に載せちゃうの? 代表作だよね。編集から文句来るんじゃない?」
 「うん。もう、来た」
 あっさり返され、咲夜の顔が、「は?」という表情になる。
 「もう、来た?」
 「実はね。これ、もう編集さんに見せてボツ食らい済みな訳よ。“冗談でしょう、読者を敵に回す気ですか、やめてください”ってね」
 「……」
 「まあ、ねぇ……他の作品ならそこまでナーバスにならないだろうけど、一番人気のある作品なだけに、そういう反応がくるのは覚悟してたのよねぇ……」

 茶封筒の中身は、咲夜が考えたとおり、マリリンの代表作の続編だった。
 が―――内容は、恐らくは、ファンが期待する「続編」からはほど遠い、むしろ、ファンが口を揃えて「やめろ」と言うような内容だった。
 和人やその他の人々を傷つけつつも、最後には結ばれて終わった、匡と菜穂子。続編はそれから5年後―――大学と短大を卒業し、匡も菜穂子も社会人になっていた。
 そして、この物語は……匡の新しい恋と、菜穂子との決別の話だったのだ。
 匡の新しい相手は、職場の1つ上の先輩。明るくて、言いたいことをズバズバ言う女性で、最初は匡と悉くぶつかっていた。が……匡は、彼女の悲しい秘密を知る。匡が入社する少し前、将来を誓い合った恋人を、自殺という形で失っていたのだ。
 始めは同情し、やがて、それでも逞しく生きる彼女に心惹かれ―――彼女を支えたい、守りたい、と思うようになった匡は、菜穂子との別れを決める。
 この、別れるの別れないのという匡と菜穂子の話は、拓海と香苗の話に匹敵するほどの、壮絶なる泥沼だった。前作で、あんなにも純粋で美しい恋を成就させた2人なのに―――そこにあるのは、未練と意地に縛られた女と、罪悪感と「いい加減にしてくれ」という気持ちの間で疲弊している男がいるだけだった。
 結局、匡と菜穂子は別れ、匡は、新しい恋人と歩み始める。そして、冒頭の匡の独白へと戻る―――菜穂子と自分の恋は、一体何だったのだろう、と。

 「この小説ね。実は、咲夜ちゃんがアタシに相談事してきた日に、書き始めたのよね」
 「えっ」
 「覚えてる? 雑誌返すついでに、相談してったでしょうが、大事な大事な友達のことを」
 「……」
 ああ―――思い出した。その後、あまりに色々なことが起こりすぎて、すっかり忘れていた。咲夜は、覚えてる、という意味で、軽く頷いてみせた。
 「あの時咲夜ちゃん、誰かを好きなうちは、絶対他の人なんか好きになりたくない、って言ってたでしょ? それに、日頃からよく言ってるフレーズ―――“恋は一生に一度でいい”、“恋愛小説は嫌い”。そんなセリフを聞いてね、前から書いてみたかったこの話を、ちょっと書いてみるか、って思い立った訳」
 「…書いてみたかったの? これを」
 「そーよ。長年の夢だったんだから」
 「…なんで?」
 眉をひそめる咲夜に、マリリンは、テーブルの下から、例の代表作の文庫本を取り出し、テーブルの上に置いた。
 「ちょっと、照れるから、一人称変えさせてもらおうかな」
 「は?」
 「白状するとね。この話のベースは、僕の、高校時代の恋愛」
 突如飛び出した発言と、いつもよりちょっと低めの声と慣れない一人称に、咲夜の目が、大きく見開かれる。
 「…え?」
 「勿論、全部事実な訳じゃなく、随分脚色してて、原型留めてないけどね。でも、文芸サークルの3人組の中で、三角関係やってたのは事実」
 そう言うと、今度は、テーブルの上の茶封筒を指差した。
 「でもって、そっちは―――僕と、梨花さんの話」
 「!!」
 「そっちも、多少の脚色はしてるけど―――梨花さんの過去も、高校から付き合ってた彼女と泥沼の展開の末に別れたのも、事実」

 事実―――…。
 唖然、とするしか、ない。咲夜は、大きく目を見開いたまま、完全に言葉を失くした。
 まさか―――いや、でも、常に完璧に“マリリン”を演じきっている海原真理が、照れるから、と素の喋り方に戻してしまうのは……やはり、自身のプライベートな事実を口にするのは気まずいから、なのだろう。信じたくない気持ちもあるが、あのマリリンが“僕”と言った時点で、咲夜は信じるしかなかった。これが、事実だと。

 「…咲夜ちゃんが、恋愛小説はキライ、って言うの、本音を言うと、ちょっとわかる」
 まだ目を丸くしたままの咲夜にくすっと笑い、マリリンは、自分の湯呑みを口に運んだ。
 「恋愛小説って、大抵は主人公とヒロインが結ばれてハッピーエンドになるでしょ? 読む人はさ、きっとその2人がこの先ずーっと仲良くしている絵しか、思い描いてないんだよね。多少の波風はあるだろうけど、いずれは結婚して、当たり前みたいに子供が生まれて―――微塵も疑うことなく、信じてる。というより、それ以外の未来なんて想像もできないと思う。咲夜ちゃんも、そうじゃない?」
 「…う…、ん」
 「ま、それで正解でしょう。だから、恋愛小説に“ハッピーエンドの続編どんでん返し”は御法度。アタシの知り合いに、ある1つの高校を舞台とした学園モノを大量生産してる小説家の卵がいて、同人誌では若い子に結構人気なんだけど―――大変よー。なにせ、主人公がみんな高校生でしょ。ファンの要望で“続編書いて”なんて言われると、結局はその高校生カップルが5年後、10年後に結婚する話になっちゃう訳よ。だから、その人の書く小説の舞台になってる高校、同窓生や生徒・先生での結婚が、現実ではあり得ないほどの確率で起きてるの。要望があるから書いてるけど、本人、裏でボヤいてるわよー。“あり得ないよ”って」
 それは―――確かに、作者がボヤくのも無理はない。もし現実にそんな高校があったら、同窓会を開くとあっちもこっちも夫婦、ということになってしまいそうだ。
 「正直なところ、15、16で付き合ってた人と本当に結婚した人が、既婚者の何割を占めてるか、アタシも知らないけど―――早い結婚でない限り、高校での恋愛は“通過点”と考えるのが、普通だと思う。でも、恋愛小説では、それはNG。王子様とお姫様は、それからも末永く、幸せに暮らしました―――シンデレラの時代から、そう決まってる」
 そこで小さく息をつくと、マリリンは、茶封筒をトントン、と指で叩いた。
 「でも、現実は、こっち」
 「……」
 「当たり前なハッピーエンド。絵に描いたような展開。主人公の恋を盛り上げるために、使い捨てにされた脇役たち―――全部全部、それは、その場限りのもの。それが最後の恋になる保証なんて、どこにもない。前の恋では勝者だった者が、次の恋では敗者になったりする。…それが、現実」
 「……」
 「かと言って、恋愛小説を、全部“絵空事”とバカにしてたんじゃ、恋愛小説は書けないでしょ。だからアタシは、いつも自分に言い聞かせてる」
 「―――なんて?」
 咲夜が訊ねると、マリリンは、にっ、と笑った。
 「この話は、この主人公が一生に何度も経験した恋愛の中で、一番ドラマチックな1つを切り取っただけだ―――ってね」
 「……」
 「ねえ、咲夜ちゃん」
 「―――…何、」
 「人間には明日が、明後日が、ずっと続いていく―――背が伸びたり、生活環境が変わったり、誰ひとり、前日と同じ自分でいる人間はいない。だったら、恋だって変化して当たり前だ、って思わない?」
 恋が―――変化、する?
 「静かな恋が燃え上がったり、熱病のような恋が冷めたり、苦しい恋が悟りに変わったり―――友情が、恋に変わったり」
 「……っ、」
 核心をつく言葉に、咲夜の肩が強張る。けれど、マリリンは、特にそのことに固執したりはしなかった。少し苦笑し、大丈夫、と頷いてみせると、マリリンはしっかりと咲夜を見据えた。
 「生身の人間に、エンドマークは、死以外にない。…そうでしょ?」
 「…うん」
 「1人の人間の人生は、いくつもの恋愛小説で出来てる―――ある時は恋を勝ち取る役、ある時は恋を諦める役……それは、傍から見れば、誰かの素敵な恋の脇役でしかないかもしれない。使い捨てのキャラクターに過ぎない時だってあるかもしれない。でも、本人から見れば、どれも、自分自身の人生だから、自分が“主人公”―――僕は、そう思って、小説を書いてる」

 いつの間にか地の声に変わったマリリンが、そう締めくくる。
 その言葉は、確かに―――さっき読んだ小説の最後に、主人公の匡が締めくくる言葉と、どこか重なるものだった。


 結局、僕と菜穂子の恋は、何だったのだろう?
 ただの通過点? 若い日の錯覚? あれほど愛した人なのに―――それとも、恋そのものが、ただの幻想に過ぎなかったのだろうか。

 …いや。
 あれもまた、恋だった。
 幼い日の初恋も、青春をかけた情熱的な恋も、そしてまた、静かにその人を包み込みたいというこの想いも―――その1つ1つが、大切で、真剣で、何にも代えがたい恋だった。たとえそこに憎しみや裏切りが存在しようとも……やっぱり、恋だった。
 間違いの恋や偽物の恋なんて、1つもなかった。全ての恋が、その瞬間、その瞬間の「真実」だった。
 でも、「真実」が、永遠に「真実」とは限らない。
 だから人は、何度失恋しても、また恋をするのかもしれない。新しい「真実」を―――“今”そこにある「真実」を手に入れるために。


 ―――…“今”、そこにある「真実」…。

 さっき読んだ時には、それほど心を動かされなかったその言葉が、胸の奥に響いた。
 マリリンの目を見つめ返しながら、咲夜は無意識に、考えた。それが―――“今”の自分にとっての「真実」が、どこにあるのかを。
 「一生、1人の人を愛し続ける主人公も、カッコイイけど」
 咲夜の表情を見て、マリリンはくすっと笑った。
 「アタシは、どんな変化をも恐れない勇敢な主人公も、カッコイイと思うわよ」

 

 その日、咲夜は真夜中までずっと、考えた。
 考えて、考えて―――そして翌日、1本の電話をかけた。

 「―――…拓海?」
 『…どうした?』
 咲夜からの電話だとわかっても、ちゃんと電話を取ってくれたことに、少し安堵する。
 ベッドの上で膝を抱えた咲夜は、大きく息を吸い込み、思い切って、口を開いた。
 「会って、欲しいの。…今夜か明日、時間、とれる?」


***


 玄関のドアを開け、そこに立つ咲夜の顔を見た時、拓海は、咲夜の申し入れを聞き入れてしまったことを、ほんの少しだけ後悔した。
 「…こんばんは」
 そう言ってニッ、と笑う咲夜に、拓海も一応笑みを返した。
 ―――多分、俺以外が見たら、何とも思わないんだろうな…。
 そう思わせるほど、極自然な咲夜の笑顔。けれど、長年近くで見てきた拓海は、気づいてしまう。不自然に力の入った肩や、目が合った瞬間に、微かに怯えた色を見せた瞳に。
 できることなら、もっと記憶が薄れて、もっと気まずさを感じずに済む頃に、再会したかった―――けれど。
 「とりあえず―――どうぞ」
 「あ…、うん」
 拓海が勧めると、咲夜は、少し遠慮した様子を見せつつも、部屋に上がった。

 『―――もう来るな、でしょう?』
 『…いつでも、来て構わないよ。俺より好きな男を見つけたら、な』

 あの言葉を、咲夜が忘れる訳がない。
 なのに咲夜は、ここに来た。けれど、拓海より好きな男が見つかった、とも言わなかった。
 約束だけ考えたら突っぱねるべきなのかもしれないが……拓海は、あえて受け入れた。咲夜は、約束を平気で破るような人間ではないし、未練がましい態度を取るタイプでもない。その咲夜が、それでも来たいと言うからには、それ相応の理由があるに違いない―――そしてその理由は、拓海も納得できる理由である筈だ。…そう思ったのだ。
 ―――もしかして…一宮君のこと、かな。
 居間に続くドアを抜けつつ、チラリと背後を窺う。
 根拠など、ないに等しい。が……拓海以外のことで咲夜が動くことがあるとすれば、それは、家族を除けば、奏以外いない気がした。表面の親しさとは裏腹に、誰も信用しなくなった咲夜が、唯一、“親友”と呼んだ男―――彼に関することなら、咲夜が約束を反故にしてでも動く可能性はあるかもしれない。
 とにかく、全ては、咲夜の話を聞いてからだ。
 そう思い、拓海はソファに腰掛けようとしたのだが。

 「あ! ちょっと、待って」
 突如、咲夜に止められ、拓海は、ソファの背もたれに手をかけたまま振り返った。
 咲夜は、部屋の入り口から少し入った所に立っていた。拓海と目が合い、一瞬、躊躇うような表情がその顔に浮かんだが、怪訝そうな拓海の表情に、すぐに言葉を続けた。
 「待って―――ちょっと、拓海にお願いしたいことがあるから、座ってもらっちゃ困るんだ」
 「お願いしたいこと?」
 「うん」
 「…何?」
 咲夜の目が、僅かに揺れる。が、一度唇を引き結ぶと、思い切ったように告げた。
 「あの、さ。…一度、私のこと―――抱きしめてみてもらえない、かな」
 「―――…」
 さすがに、絶句した。
 つまりは―――抱きしめて欲しい、ということ、なのだろうか? その割に、咲夜の表情は、甘えた様子もすがる様子もない。なんだか、ピンと気を張り詰めて何かを見極めようとしているような―――甘さとは対極にある表情をしている。言っていることとムードが、まるっきりかみ合っていない。
 「……は?」
 拓海が、意味が理解できない、とでもいうように短く訊ね返すと、咲夜は、更に覚悟を決めたように、もう一度言った。
 「抱きしめてみて欲しいの、拓海に」
 「……」
 「大丈夫、変な意味じゃないよ。ただ―――確かめたいの」
 「……」

 ―――何を?
 肝心のそれについては、まだ咲夜は、口にしてはくれない。
 けれど―――咲夜が確かめたい「何か」は、今の咲夜にはとても重要なことらしい、ということだけは、ひしひしと伝わってくる。そしてそれは、咲夜にとっては、前に進むために必要なものなのではないか、と拓海は感じた。
 …それならば。

 ソファから手を離し、咲夜に向き直る。
 それを見て、拓海が了承してくれた、とわかったのだろう。咲夜も拓海の方へと、1歩踏み出した。
 手を、咲夜の背中に回す。腕に抱いた瞬間、以前より華奢になった気がする肩に、軽く驚く。自分のせいなのかもしれない―――鈍く痛む胸を無視して、拓海は、咲夜を抱きしめた。

 「―――…」

 咲夜は、身じろぎひとつ、しなかった。
 拓海の胸に右の頬を押し当てるようにして、ただ大人しく、拓海に抱きしめられていた。
 双方、無言のまま、10秒経ち、20秒経ち―――1分が経ち、2分が経った。咲夜は一体、何を確かめているのだろう? と拓海が眉をひそめたちょうどその時、おもむろに、咲夜が口を開いた。

 「―――ニッキーの、話」
 咲夜の背中に回した拓海の手が、一瞬、その言葉に反応して、動いた。
 「佐倉さんから、聞いたよ。多恵子さんが自殺した時、拓海が話してくれた、って」
 「…そ…、か」
 「ただし―――微妙に、省かれてる部分が、あったけど」
 拓海の心臓が、僅かに跳ねる。
 腕の中の咲夜が、少しだけ顔を上げ、目だけで拓海を見上げてくる。その表情は、静かで、冷静だった。
 「―――どっちが、本当のこと?」
 「……」
 本当の、こと―――…。
 蘇ってきた痛みに、拓海は思わず顔を歪めた。

 ニッキーの死は、仲間から聞いたのではない。
 その場に―――ニッキーが大量の薬物を飲んだ直後の現場に、拓海はいた。部屋を出て行ってはみたものの、どうしても気になって仕方がないので、様子を見に行って……その瞬間に立ち会う羽目になったのだ。

 ―――“お前に見捨てられたら、もう俺には、拠り所なんてないんだよ。”
 “いずれ見捨てるなら、半端に優しくなんかしてくれなきゃよかったのに。”

 それが、救急車が到着するまでの時間に聞いた、ニッキーの最期のセリフ。服用しすぎの事故ではなく―――自殺、だったのだ。これこそが、拓海がニッキーのことに関して硬く口を閉ざす、本当の理由だ。
 ニッキーの事件を境に、拓海は自分自身をも信じられなくなった。そして、友情とか絆というものの脆さを痛感して、誰のことも友達だなんて言えなくなった。
 咲夜もまた、信頼していた友人に裏では噂を流され、ズタズタに傷つけられて、友情を信じられなくなった。そういう者同士だからこそ、真相を言えたのだ。
 …言えない。あの時の佐倉に、その事実だけは絶対言えなかった。話せば余計、佐倉は自分を責め、苦しんだに違いないから。

 拓海の表情に、真相を感じ取ったのだろう。咲夜は、どこか悲しげな笑みを微かに浮かべると、答えなくていいよ、という意味を込めて首を横に振った。
 「ごめん…、辛いこと、思い出させて」
 「―――いや」
 答える声が、少し、掠れる。それでも拓海は、僅かな笑みを咲夜に返した。それにしても、何故急にそんな話をするのだろう―――咲夜の意図が読めず、困惑してしまう。
 すると咲夜は、思いがけないことを言った。
 「私も、話さなくて正解だった、って思う。でも―――いつか、話してあげて」
 「…え?」
 「今の佐倉さんなら、絶対、大丈夫だから」
 「……」
 眉をひそめる拓海に、咲夜はくすっと笑うと、拓海の胸を軽く手で押して、僅かに体を離した。そして、今度はしっかりと拓海を見上げ、その目をまっすぐに見据えた。

 「ねえ、拓海」
 「ん?」
 「私には、抱きしめたい人が、2人いるんだ」
 「……」
 「…ずっと、迷ってた。悩んでた。私は1人しかいなくて、だから、1人しか抱きしめられないのに―――抱きしめたい人が、2人いる。どうすればいいかわからなくて、ずっと苦しんでた。でも……やっと、答えが出た」
 そう言うと、咲夜は、意志の強そうな笑みを、拓海に向けた。
 「私には、抱きしめたい人が、2人いるけど―――抱きしめられたい人は、1人しかいない」
 「……」
 「拓海のことは、ただ黙って見つめていることができた。心さえ繋がっていればいい、抱きしめてもらえなくても、それで構わなかった。でも―――…」

 ―――奏は、違う。
 触れて欲しいと、抱きしめて欲しいと、望んでしまう。心だけじゃ足りない―――本能が、そう訴えている。

 言葉にはしなくても、拓海には、通じた。
 通じた言葉に―――拓海は、納得した。ああ、だから咲夜は、抱きしめてみて欲しい、と頼んだんだな―――理屈じゃなく、本能が誰を求めているかを確かめていたんだな、と。
 納得して……自然と、笑みが、口元に浮かんだ。
 「拓海」
 「…何?」
 「もう、拓海も、ひとりじゃ―――孤独じゃ、ないよね?」
 「―――ああ」
 「…良かった」
 そう言うと、咲夜は、拓海の肩に手を置き、ちょっと背伸びをした。

 一瞬、まるで羽根のように軽く唇に触れた、咲夜の唇。
 その感触に少し驚き、思わず息を呑む。
 僅か1秒、拓海にキスをした咲夜は、少し目を丸くしている拓海を見上げ、目を細めた。
 「…好きだよ、拓海」
 「……」
 「きっと、これからもずっと―――この世で2番目に、拓海が好き」

 その言葉と同時に、軽やかに拓海の手から離れる。
 最後に綺麗に口の端を上げて笑った咲夜は、拓海が笑い返すのを確認して、くるりときびすを返した。そして―――出て行った。


 ―――…参ったな…。
 咲夜が玄関のドアを開けて出て行く音を聞きながら、拓海は、降参したように苦笑した。
 参った―――まさか咲夜が、自分と同じ結論に達するなんて。
 そう。拓海も、同じだった。抱きしめたい相手は2人いる、でも―――抱きしめて欲しい、と思ったのは、佐倉だけだったのだ。

 手の中から飛び立っていった、1羽のカナリア。
 きっとこれからは、幸せな愛の歌を―――拓海では歌わせてやることができなかった歌を、さえずるのだろう。

 咲夜と、同じ舞台で顔を合わせる日は、思いのほか近いのかもしれない―――そんなことを考えて、拓海は、口元をほころばせた。


***


 「―――…」

 電車を降りた奏は、予想だにしなかった光景に、たっぷり1分、呆然とした。

 ロンドンを飛び立った時からずっと、考えていた。
 帰ったらすぐ、咲夜に会いに行った方がいいんだろうか。それとも止めておいた方が無難だろうか―――会ったら最初に何て言えばいいんだろう? 答えは保留で構わないと言ったのは自分だが、保留の間、一体どんな顔をしていればいいんだろう?
 日本に着き、交通機関を乗り継ぐにつれ、少し緊張もしてきた。
 でも、車内放送で降りる駅の駅名が告げられた瞬間に、やっと覚悟が決まった。よし、やっぱり帰ったらすぐ、咲夜に会いに行こう。ただいま、だけでもいいじゃないか―――答えが何であれ、友達であることに変わりはないんだから。
 そう決まると、今度は気が急く。早く、会いたい。そう思いながら、電車を降りた。

 そして、降りた途端―――これ、だ。

 「―――…なんて顔、してんの」
 駅のベンチに座り、足を組んでいた咲夜が、あまりの奏の茫然自失ぶりに苦笑を浮かべる。
 完全に、想定外。
 あらゆる想像を巡らせてきたというのに―――咲夜が駅のホームで待っている、なんてパターンは、まるっきり頭に浮かばなかった。
 「な…っ、なんで…」
 やっと出てきたのは、思い切り動揺しているのがバレバレなセリフだった。そんな奏を眺めて小さく息をついた咲夜は、ベンチから立ち上がり、奏のもとへと歩いてきた。
 「飛行機の時間、聞いてたから。到着時刻から計算して、成田エキスプレス乗ってー、電車乗り換えてー、あ、途中で夕飯食べたら30分位ずれるかな? とか考えてさ。結局、待ったの15分で済んだよ。どう? いい勘してるでしょ」
 「……」
 いたずらが大成功したみたいな笑みを見せる咲夜を、奏は、やっぱり呆然といった顔で眺めることしかできない。
 そんな奏の様子に―――咲夜はくすっ、と笑い、もう1歩、間合いを詰めた。

 咲夜の腕が、奏の首の後ろに回る。
 ぎゅ、と、奏を抱きしめる―――いや、抱きつく。奏の耳元に唇を寄せると、咲夜は、やっと心から安堵したような笑みを浮かべた。
 「―――…おかえり」
 「……」

 おかえりなさい。
 その言葉と、抱きついている咲夜の体温に―――奏は、咲夜の出した答えを感じ取った。
 答えを、感じて……嬉しさが、体の奥から、ゆっくりと全身に広がっていくような気がした。

 ボストンバッグを落とし、咲夜の体を抱きしめ返す。
 「…ただいま」
 嬉しくて、嬉しくて、仕方なかった。奏は、その嬉しさをぶつけるみたいに、咲夜をもっときつく抱きしめた。
 耳元で、咲夜が、小さく笑う。奏も、思わず笑った。
 2人して、やっと満たされた、という喜びに浸るように―――笑顔のまま、飽きることなく抱きしめあった。


 やっと、見つけた。
 “今”の自分の、ほんとうの気持ち―――“真実(truth)”を。


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