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 「Come on-a my house, my house, I'm gonna give you candy」

 カフェオレを作りつつ、咲夜が口ずさんだ歌は、『Come On-a My House』だった。

 「Come on-a my house, my house, I'm gonna give a you apple a plum and apricot too a......」

 砂糖を入れて、スプーンをマグカップの中でカチャカチャいわせていると、隣の部屋の窓が開く音がした。なかなか絶妙なタイミング―――口元に笑みを浮かべた咲夜は、自らも窓を開けた。
 窓の外には、梅雨もそろそろ終わりの、7月の空。それを見上げて、ふあぁ、とあくびをしていた隣人が、窓から顔を出した咲夜に気づき、こちらに目を向けた。
 明るい色の瞳が、咲夜を見つけて、僅かに細められる。咲夜も、同じように笑い返した。
 「おはよ」
 「おー。おはよ」
 挨拶を交わしたそのタイミングで、眼下を駆けていくランドセルを背負った男の子が、知り合いのおばさんに「おはようございまーす」と挨拶をした。顔も知らないその子の声に、2人は顔を見合わせ、可笑しそうに笑った。
 「晴れてんなぁ、今日。ゆうべは景気良く降ってたのに」
 「だね。今年は梅雨明けも早いかな。天気がいいのは嬉しいけど、本格的に暑さがくると思うと、げんなりするなぁ」
 「マジ暑いよな、日本の夏って。最初の年に、あまりの暑さに1回ダウンしたもんな、このオレが」
 「マリンスポーツ派にとっては、夏らしい夏の方がいいんだろうけどさ。海なんていつ行ったっけ? ってな人種からすれば、冷夏の方がいい位だなぁ」
 「けど、冷夏だと、農家が困るんだろ? 子供の頃、冷害とか言って米不足になった年があった気がするぜ?」
 「あ、それはあるかも。うーん…野菜の高騰は勘弁して欲しいなぁ。意外に高いんだよね、野菜って」
 「一人暮らしだと、安い時買っても、冷蔵庫で腐らせて終わる可能性もあるしな」
 「あるある、葉っぱもんだと特にねー。いっそ、アパート全体で共同購入して、みんなで分ける?」
 「ハハハ、いいな、それ」

 “ベルメゾンみそら”の2階の、201号室と202号室。
 窓枠にもたれて、一方はマグカップを口に運びながら、もう一方は煙草の煙をくゆらせながら、ムードも色気もない会話を、暫し楽しむ。
 毎朝のように繰り返されてきた、日常。そこにはもう1つ、必須アイテムがある。

 「んで? 今日は、何?」
 話が一段落したところで、奏が、煙草の灰を灰皿に落としつつ、首を傾げる。ニッ、と笑った咲夜は、マグカップを置いて、ちょっと背中を伸ばした。
 「そうだなー。お天気いいし、気分いいから、リクエスト聞いちゃうよ。何がいい?」
 「えぇ? オレが決めんの? えーと……じゃあ、せっかく晴れたから、“Blue Skies”で」
 「あ、ビンゴ」
 奏のリクエストを聞いて、咲夜は嬉しそうに目を細めた。
 「今日の空見て、私もそれ、歌おうと思ってたんだ」

 軽い発声練習に続いて、咲夜は、気持ちよさそうに『Blue Skies』を歌い始めた。

 1ヶ月前と、何ら変わることのない光景。
 でも―――本当は、1ヶ月前とは、まるで違っている。そのことを、咲夜の歌声に思わず目を上げる道行く人々の誰一人、知る筈もなかった。

***

 「おや、おはよう、お二人さん」
 2階から下りてきた奏と咲夜を見つけ、階段下にいたマリリンが晴れやかな笑みを見せる。その腕には、ミルクパンが抱かれていた。
 「素晴らしくグッド・タイミングだこと」
 「は? グッド・タイミング?」
 きょとん、と目を丸くする奏に、マリリンは目だけを背後の廊下の先へと向けた。
 「今さっき、優也と話してたところなんだけど―――明日、引っ越して来るんですって。新しい住人君が」
 ああ、その話か。
 奏と咲夜は、全く同じタイミングで「へーえ」と相槌を打った。

 “ベルメゾンみそら”。単身者向け・全8戸。
 オーナーの親族が時々泊まるために確保しているのか、104号室だけは常に空き部屋だが、それ以外の7戸は、つい最近まで全て埋まっていた。が―――5月に、204号室の住人が引っ越してしまったため、現在住人は6人と1匹、空き部屋2(実質1)という状態である。
 このアパートは、住宅情報誌や不動産屋では入居者を募集せず、住人やその知人による紹介制、という独特のシステムをとっている。いわば、元住人が一種の「身元保証人」になっている訳で、その方がトラブルが少ない、というのがオーナーの考えのようである。よって、1部屋空いたところで、どこかに入居者の募集をかけることはしなかった。
 出て行った住人が代わりの住人を紹介できれば良かったのだろうが、残念ながら適当な人物もいなかったらしい。誰か部屋を探している人、いたかな、とそれぞれの住人が自分の人脈の中で考えていたところ―――新たな住人は、あっさり現れた。
 103号室の住人・優也の、大学の友達である。

 「結構即決だったね。下見に来るって話してたの、ついこの前じゃない?」
 7月に入ってすぐ、そんな話を優也から聞いたように思う。咲夜が指を折って数えてみると、あれからまだ10日も経っていなかった。
 「転勤とか大学入学とかの事情なら別だけど、それ以外の事情で移り住む人の大半は、決めてから引っ越して来るまでは短かったわよ? もっとも、一宮さんみたいに“下見に来た翌日”ってのは稀だけど」
 「…どーせ稀ですよ」
 マリリンの指摘に、奏がむっと口を尖らせる。その反応に笑ったマリリンは、改めて2人の顔を見比べた。
 「それで、よ。その友達、先月の終わりに誕生日迎えたばかりなんだって。優也、そのことを昨日初めて知って、お祝いもできなかった、って落ち込んでるのよね。だから、アタシから提案した訳よ。誕生祝い兼ねて、歓迎会を開いたらどうか、って」
 「歓迎会、か…。いいんじゃない? やるんなら、オレも出るよ」
 「私も出たいけど……優也の誕生日の時、マリリンさんの部屋に4人集まったけど、あれでも結構厳しかったよね。どうすんの?」
 「そーなのよ。だから、グッド・タイミング」
 咲夜のセリフに、マリリンはにんまりと笑った。
 「ものは相談だけど―――咲夜ちゃんとこの店で、やれないかな」
 「えっ、うちの店?」
 咲夜の店、といっても、当然、咲夜が店を持っている訳ではない。咲夜が2日に1度ジャズ・ライブを行っている、いわば「勤め先」のジャズ・バーのことだ。
 「考えてみたら、アタシも行ったことないのよね、咲夜ちゃんの歌ってる店。優也も、割引券貰ったけど友永さんにあげちゃった、って言ってたし…。いい機会だと思うんだけど、どぉ? 格安パーティープランとか、セッティングできないかな」
 「うーん…パーティープランかぁ」
 「確かに、咲夜んとこなら、オレらだけじゃなく、住人全員集まっても余裕だよな」
 ぽつりと奏が呟いた言葉に、腕組みして考えていた咲夜の表情が、ちょっと変わった。
 「…木戸さんはどうだか知らないけど―――友永さん呼んだら、少なくとも優也君は、喜びそうだよね」
 まだ部屋にいるであろう優也を気遣い、咲夜がこそっと小声で言う。
 当然ながら、奏もマリリンも、うんうん、と頷いた。
 「―――よし。ちょっと頑張って交渉してみる」
 咲夜のその一言と同時に、3人の顔に、同じような笑みが浮かんだ。


 ひとまず、いきなり明日というのは難しいので、歓迎会は今週末の土曜日にしよう、とだけ決め、奏と咲夜はマリリンと別れて駅へと急いだ。
 「今日って、遅いんだっけ?」
 若干早足になっているので、奏を仰ぎ見つつ訊ねる咲夜の声も、多少息が上がっている。
 「いや、今日はフツー。店だけだから。お前も今日は早いだろ?」
 「一応ね。さっきの話をしに、会社帰りに店に寄るから、いつもよりはちょっと遅めだけど」
 「ふーん」
 チラリ、と、お互いの顔を流し見る。
 相手の目をじっ、と見つめた2人は、おもむろに右手を出し、声には出さずに「最初はグー」と唇の動きだけでいった。
 じゃんけんの結果、あいこ、あいこ、と続いて、3度目でグーとチョキで、咲夜の勝ち。
 「やぁった、勝利!」
 「っ、あああ! ちっくしょー、負けたー」
 2人が平日、夕飯時に揃って帰宅できる日というのは、そう頻繁にある訳ではない。先日、久々にその滅多にない機会に恵まれた2人は、「負けた方が夕飯をおごるか、手料理をふるまう」というルールでじゃんけんをした。
 その時は、咲夜が負けて手料理をご馳走した。リベンジを宣言していた咲夜だが、それ以来、なかなか双方帰宅が早いという機会に恵まれず―――そして今日、その機会がついに巡ってきて、見事リベンジを果たした、という訳だ。
 「どうする? どーしますか、奏君? 私は外食でも一宮 奏シェフの豪華ディナーでも、どっちでもいいですよー?」
 「バカヤロ、豪華ディナーなんて出てくる訳ないし、出てきてもお前、まだ食えないだろっつーの」
 面白くなさそうに奏が睨むと、咲夜はくすくす笑い、奏の腕を軽く叩いた。
 「冗談だってば。じゃあ、駅前のカフェのリゾット希望でよろしく」
 「…はいはい。ありがたくおごらせていただきます」
 ご満悦の表情の咲夜に、奏は、その肩に手を置き、耳元に囁いた。
 「ついでに、食後のデザートもおごらせていただきますので―――ちょっと今、サービスしてくれない?」
 「サービス?」
 咲夜が少し目を丸くすると、奏は、僅かに眉根を寄せた。
 「ここ3日、朝しか会えなかったし」
 「……」
 ―――この顔って、反則だと思うよなぁ…。
 冷たいと思えるほどに整った顔をしている癖に、まるで、寂しがりの子犬が、なかなか散歩に連れて行ってくれない飼い主に向かって拗ねているような、そんな表情をしてみせるなんて。公衆の面前だ、という焦り半分と、思わず吹き出してしまいそうな気分半分で、咲夜はくすっと笑った。

 足を止め、ちょっと背伸びする。
 軽く触れるだけの、キス。時間にして、僅か1秒。

 たったこれだけで、奏は、嬉しそうな、というより、どこか安堵したような笑みを見せる。
 そんな奏を見て、咲夜も、ホッとしたように、口元ををほころばせた。


 2人の気持ちが重なり合ってから、まだ3週間あまり。
 奏と咲夜の新しい恋は、ちょっと不器用で、手探りな恋らしい。


***


 「なあ。本当にいいって、歓迎会なんて」
 半分迷惑そうに、眉を顰める。
 けれど、のほほんとした笑顔がどうにも憎めない彼の友人は、彼を振り返り、ちょっと困ったような顔をした。
 「でも、もうお店まで来ちゃったんだし…」
 「……」
 「1食浮くと思って、軽い気持ちで出てくれればいい、って、マリリンさんも言ってたし。みんな面白い人だから、話聞いてるだけでも、退屈はしないよ?」
 「…まあ、いいけど」
 正直、こういうのは、苦手だ。
 参ったな―――蓮は、面倒くさそうに髪を掻き毟った。が、友人が言う通り、既に店の前まで来ているのだし、歓迎会などと言っても単に食事をして自己紹介をしあうだけだ。どのみち友人と一緒に夕飯を食べるつもりでいたのだから、そのついでと思えば、そう面倒な話でもないのかもしれない。
 結局、頑なに拒否するほどのものでもないか、と思い直した蓮は、友人に従い、初めて来る店のドアを開けたのだった。


 “Jonny's Club”―――それが、蓮が連れてこられた店の名前だった。
 ジャズ・バーだよ、とは聞いていたが、そういう類の店に来たことのなかった彼には、今ひとつイメージがしにくかった。が、ドアを開けて5秒後、なるほど、これがジャズ・バーってやつか、と納得した。
 店内は、ファミレスなどに比べると、かなり照明が落としてある。大学のコンパで一度行ったことがあるお洒落な居酒屋と、ちょうど似た照明の具合かもしれない。詳しいことはわからないが、とにかく、印象は「洒落てるな」という感じだ。
 BGMは、予想通り、ジャズだ。でも、ジャズをBGMにしている店など珍しくない。ジャズ・バーがジャズ・バーである所以(ゆえん)―――それは勿論、店の奥にある、小さなライブスペースだろう。アップライトピアノとウッドベースが、まだついていないスポットライト群の下に、ひっそりと置かれている。どうやら、特定の時間になると、生演奏が聴ける店らしい。
 「僕も、来るのは初めてなんだ」
 友人が、振り返ってそう言う。…まあ、そうだろうな、と思う。友人にこういう店は、あまりにミスマッチだ。
 「なかなか洒落てるな」
 「うん、なんかこう、大人の世界、って感じだよね」
 物珍しげにキョロキョロする友人を見て、吹き出してしまいそうになる。蓮自身、世間から見ると遊んでいない大学生だと思うが、この友人はそれに輪をかけて、世間ずれしていないのだ。呆れたりバカにする奴もいるが、友人のこういうすれていないところは、とても微笑ましくで好ましい、と蓮は思っている。

 「おーい、優也」
 2人が店の入り口で所在無げにしていると、店の壁際の方から、誰かが友人の名を呼んだ。
 そちらに目を向けた蓮は、友人に向かって手を振っている男を見つけ、その男の容姿に、うわ、と声を出してしまいそうになった。
 いわゆる茶髪よりまだ明るい、ブラウンの髪。それと対を成す、明るい褐色の目。
 一見、白人のようだ。けれど、その顔立ちを白人と断定するのは、かなり難しい。恐らくはハーフ―――しかも、寒気がするほどの美形だ。
 一体何者だ、と思わず1歩足を引いてしまう蓮の横で、男に呼ばれた優也は、気後れすることなくニコニコ笑って手を振り返した。そして、「行こ」と蓮を促し、先に立って男のいる方へと歩き出してしまった。事態がいまいち飲み込めない蓮も、仕方なく優也について行った。
 「すみません、遅くなって」
 「お待ちしてたわよー」
 美形ハーフのいる席には、更に2人いた。「お待ちしてたわよ」と笑顔でのたまった人物は、引越しの日に既に顔を合わせた人物。もう1人は、初めて見る女性だ。
 ―――ってことは、このハーフっぽい人も、うちの住人なのか…。
 似合わない。どう考えても似合わない。この外見で2階建てアパートに住んでるなんて、もの凄く変だ。
 「とりあえず座って座って」
 既知の人物―――101号室の住人に促され、2人して、空いている席に腰を下ろす。その際、優也は、隣の席になった女性に「こんばんは」と、どこか照れたような顔をして挨拶し、彼女の方も、僅かに口の端を上げ「こんばんは」と返した。

 長方形のテーブルを囲んだのは、これで計、5人。まずは飲み物を、ということになり、2人はビールを注文した。
 「やっぱり木戸さんは無理だったんですか」
 ビールが来るまでの間に優也が訊ねると、ハーフらしき男が、おつまみのナッツを口に放り込みながら頷いた。
 「週末は家族んとこに帰るからな、あの人。隣なのに、ここんとこ帰るの遅くて挨拶もしてない、って結構気にしてた」
 蓮が入居した部屋は、一番端の部屋だ。当然、隣は1軒しかない。そう言えば、一昨日も昨日も、挨拶をしようと呼び鈴を鳴らしたが応答がなかった。一番会っておきたい人物だったが、仕方ない、また改めて挨拶に行くか、と蓮は思った。
 そこに、早くもビールが運ばれてきて、隣人氏の話はそれでおしまいになってしまった。
 「一応、乾杯しときましょうか。では―――“ベルメゾンみそら”にようこそ」
 101号室の音頭で、5つのグラスが音を立てる。日頃、バイクに乗るためほとんどアルコールをとらない体には、たかがビールが結構パンチのある酒に感じられた。


 まずは自己紹介を、ということになったが、何故か主役である蓮本人は後回しにされた。
 「え、でも…」
 「まあまあ。ちょっと事情があるのよ。では、僭越ながら、部屋番号にのっとって、ワタクシから」
 戸惑う蓮をあっさり丸め込み、101号室はコホン、と改まってみせた。
 「えー、101号室の、海原真理(まり)、通称マリリン。小説家です。家を職場にしている職業なので、半分、うちのアパートの管理人状態。近隣トラブル、部屋の破損等々、何かあればひとまず101号室へどうぞ」
 「…どうも」
 ひょこっ、と頭を下げた蓮は、更に一言、付け加えた。
 「噂は前から伺ってます」
 途端、彼女―――いや、“彼”の顔が、僅かに引きつった。
 「あ…あははははー、いやーねー、優也ったらどんな噂をしてたのかしらーぁ」
 「…いきなり会って勘違いしたり驚いたりされてもまずいでしょう?」
 何言ってるんですか、という顔で優也が言うと、残り2人も大いに頷いた。
 「実際、1年近く、ずーっと女だと勘違いしたまんまだった奴もいるしな」
 「無理もないわよ。私も、はじめの頃は女の人だと思ってたもの」
 「もー、いやだわー、そんなに褒めないでよ」
 「褒めてねぇよっ」
 ハーフらしき男が、開き直って笑うマリリンを、呆れたように睨む。
 そう。この海原真理―――世間的には“女流作家”で通っている人物であり、実際、こうして見るとその服装もメイクも女としか思えないが、実際の性別は“男”だ。
 といっても、性同一性障害だとか、女装趣味があるとか、そういう訳ではないのだという。真理、という名前が混乱を呼び、不幸にも女性と間違われたまま作家デビューしてしまったのだが、海原真理(まさみち)という男自身は、極ノーマルな嗜好の、妻子までいる男性である。この服装もメイクも、世間を欺くためのかりそめの姿なのだ。
 でも、半分趣味が入っちゃってるような気もするけどね―――というのが、優也が蓮にもらした本音だ。…まあ、それはマリリン本人には言わない方がいいのだろう。「アパートで一番お世話になっている人」と説明した優也からすれば、マリリンには秘して隠している本音なのだろうから。
 「まあ、アタシに関しては、そんなもんで。…さ、次。友永さんどうぞ」
 マリリンの言葉を受け、優也の向こうに座っている女が、優也越しにこちらを見た。
 「ええと…、102号室の、友永由香理です。丸の内にある商社に勤めてます」
 「…どうも」
 軽く会釈する蓮に、彼女は更に言葉を続けた。
 「私、筋金入りの猫嫌いだから、私が通ったら、あの飼ってる猫、絶対近づけないでね。日頃、この人たちとの付き合いはほぼゼロだけど、よろしく」
 「……」
 取り付く島、なし。
 どこにも取っ掛かりのない由香理の言いように、ちょっと唖然とする。マリリンと優也の顔も揃って引きつる中、ハーフっぽい男のみ、余裕の笑顔で腕組みをした。
 「えらい言いようだけど、だったら何で今日参加してんの? 友永さん」
 指摘に、うっ、と言葉に詰まった由香理は、バツが悪そうに優也の方を見ると、ボソボソと呟いた。
 「…だって、優也君が、“是非”って言うから…」
 「えっ」
 優也の顔が、青くなる。焦ったようにビールの入ったコップを置くと、優也は恐縮しきった態度で由香理に謝った。
 「あ、す、す、すみませんっ、ご無理を言ってっ」
 「え? あ、いえ……別に、嫌だった訳じゃないから。ただ、優也君には色々お世話になったから、お返しに出ないと、と…」
 「…そ…そんな、お、お、お世話、なんて」
 ―――ああ。なんだ、この人だったのか。
 赤くなったり青くなったりと忙しない優也を見て、蓮は、遅ればせながら友永由香理の正体を正しく理解した。これまでに2、3回、優也の話の中に登場したことのある、優也の片想いの相手―――同じアパートの人とは聞いていなかったが、年上とは聞いていた。既に振られ済みらしいが……こうして見る限り、それでも気まずくならず、良好な隣人関係を保っているらしい。立派なことだ。
 改めて、由香理の容姿を確認する。が、残念ながら、優也が彼女のどこに惚れたのか、蓮には理解不能だった。確かに、パッと見、コンパ受けしそうなタイプではあるが、特別美女でも性格が良さそうでもない。優也なら、もっと清楚な女性を好むと思っていた蓮は、友人の意外な好みに少し驚いた。
 「さて、次は―――優也は、自己紹介省略でいいかしら?」
 マリリンに言われ、蓮と優也は、苦笑しつつ頷いた。
 秋吉優也―――この春、ゼミの下見で知り合い、現在では同じゼミに所属している、蓮の友人だ。
 2人とも大学3年生だが、実際には、優也は蓮より1つ年下である。優也は、高校の課程を2年で終え、本来なら高3の筈の年齢で大学に入学したという“天才少年”なのだ。
 大学内でも有名な存在だったらしいが、世俗に疎いのか、大学内の事情に無関心なのか、蓮はずっと優也の存在を知らずにいた。友達になってから、他の友達に優也の名前を出したら「えっ、あの飛び級で入学した天才か!」と驚かれて初めて、その事実を知ったほどだ。
 天才だの秀才だのと言われているが、実物の秋吉優也は、気弱だけれど優しくほがらかな、タイプで言うなら「癒し系」だ。眼鏡がまずいのか、裏では「のび太君」なんてあだ名をつけられているらしいが、それを「そう、僕ってのび太キャラなんですよね」と言えてしまうおおらかさが、優也の凄いところかもしれない。
 「じゃ、優也は省略して、オレってことで」
 最後に残った、例のハーフっぽい男が、カクテルグラスを置いて蓮に向き直った。
 「202号室の、一宮 奏。メイクアップアーティストの修行しながら、モデルをやってます。見てのとおりハーフで、国籍もイギリスだけど、英語より日本語の方が得意なんで、会話は日本語でよろしく」
 「…あ…、どうも、よろしく」
 同性とはいえ、向けられた笑顔に、ちょっと見惚れそうになる。
 第一印象では、背筋が寒くなるほどの美形、と表現した奏の容姿だが、こうやってすぐ傍で見ていると、奏のキャラクターは、その美貌とはかけ離れた、いわゆる「やんちゃ坊主系」らしい。よろしく、と向けられた笑顔も、美しい笑みというより、人懐こい笑みだ。
 やんちゃな笑顔も、男の目にも実に魅力的に映る。モデルと聞いて、大いに納得した。そっち方面には疎いが、案外有名なモデルなのかもしれない。

 これで、蓮以外4人の紹介が終わったのだが―――ここにきて、ふとあることに気づき、蓮は眉をひそめた。
 「…あれ? 201の人は?」
 203号室の木戸は、今回欠席と聞いているが……201号室については、何も聞いていない。空き部屋なのだろうか?
 すると、住人を代表するかのように、マリリンが「ごもっとも」という笑顔で頷いた。
 「そう。その、201号室が、さっきアタシが言った“事情”よ」
 「え?」
 どういう意味だろう、と思っていると、急に、店内に流れているBGMが小さくなり、照明も少し暗くなった。
 「お、すげー、ベスト・タイミング」
 奏が、そう言って口笛を吹く。何がベスト・タイミングなのか、と、まだ事態を飲み込めずにいるうちに、店のあちこちからパチパチと拍手が起こり始めた。
 「始まるんですか?」
 自身も初めてここに来たという優也が、小声で奏に訊ねる。頷く奏を見て、優也だけじゃなくマリリンも、これから何が起こるかを察して、視線をミニステージの方に向けた。どうやら、マリリンも今夜が初来店らしい。

 完全にBGMが消えると同時に、ミニステージの頭上に並んでいたスポットライトが、ぱっ、とついた。
 そんな中、3人の男女が、ミニステージに上がる。ぱらぱらと起きていただけだった拍手が、今度ははっきりと、店全体から上がった。
 ああ、生演奏が始まるのか―――ようやく事態が理解できた蓮だったが、優也に耳打ちされた言葉に、思わず目を丸くした。
 「ほら。今、マイクスタンドを動かしてる人。あの人が、201号室の人だよ」
 「……」
 マイクスタンドを動かしている人物。確認してみると、それは、女性だった。
 ピアノの前には、既に男が座っており、ウッドベースも、随分体格の良い男がちゃんと構えている。一方、マイクを握る中央の女性は、楽器らしきものを何も持っていない。どうやらヴォーカル担当らしい。
 ―――へぇ…、201は、歌手なんだ。
 思ってもみなかった職業だ。同じアパートの住人だ、と聞いては、無関係なバンドの生演奏を聴くのとは、やはりちょっと思い入れが違う。無意識のうちに、蓮は居住まいを正し、きちんとステージの方へと体を向けた。

 マイクの位置を歌いやすい位置に直し終えた舞台中央の女性は、前髪をさっと掻き上げると、顔を上げた。
 ジャズ・シンガー、というと、漠然と「口が大きくて派手な顔立ちの人」のイメージがあった蓮だが(理由は、蓮自身にもわからない)、彼女はそれとはまるで違う顔立ちだった。あっさりした顔立ちで、ショートヘアをそのまま伸ばしたような肩につく位の髪も、カラーリングもブリーチもしていない黒髪だ。ジーンズにシャツという服装も、なんだかジャズ・シンガーという名称にそぐわない。蓮からすれば、色々と―――総合的に、「意外」だ。
 スタンドマイクに手を添えた彼女は、にっこりと微笑み、
 「こんばんは。“Jonny's Club”にようこそ」
 と挨拶をした。
 多分、美声の部類に入る声―――R&Bを歌う女性ヴォーカリストに多いハスキー・ヴォイスとは、かなり趣が違う声だ。さほどジャズに詳しくはないが、ジャズというとパンチの効いた中性的なアルトな声、というイメージを持っていた蓮は、外見に続いて声でも「意外」と感じた。
 ―――ほんとにジャズ? 実はシャンソンとかクラシックとか、そういうオチだったりして…。
 などと疑いさえした蓮だったが……その考えは、その30秒後、打ち砕かれた。

 「You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire... While the breeze on night, Sang a lullaby, You'd be all my heart could desire―――…」

 初めて聴く曲だった。
 程よいテンポで歌い上げられるその歌に―――蓮は、全身が総毛立つのを感じた。
 高校時代は、友人がロックバンドをやっていたせいもあり、生演奏を耳にすることもそれなりにあった。結構上手い連中だったので、聴きに行くたび、凄いな、とは思っていた。
 けれど……彼女の声は、まるで別物だった。
 ロックとジャズの違いもあるのだろうが、なんというか―――まるで、楽器だ。自由自在に、高い音も低い音も奏でる、伸びやかな音色の楽器。そう、喩えるなら、バイオリンかもしれない。
 オペラ歌手の美声とも違うし、R&Bの凄みのある声とも違うが……とにかく。

 凄いのが住んでるな、あのアパート。

 それが、蓮の、一番わかりやすい感想だった。

***

 「あー! 君だったんだ、新入り君って!」
 舞台を終え、蓮たちの席へとやってきた201号室の歌姫は、蓮の顔を見るや、そう言って目を大きく見開いた。
 「なんだ、知り合いかよ」
 奏が訝しげに眉をひそめると、彼女は、違う違う、と手を振り、視線を優也に向けた。
 「ほら、前に1度、あったじゃん。友達が迎えに来るの待ってる優也君と、アパートの入り口で偶然会ったこと。あの時、バイクで優也君を迎えに来た子でしょ、この子」
 「…ああ、そうか。そんなことありましたよね」
 「話はしなかったけど、一応、会釈だけはお互いにしたんだけどなぁ。君、覚えてない?」
 「…なんとなく」
 確かに―――まだ優也と知り合って間もない頃、優也を迎えに“ベルメゾンみそら”までバイクで行ったことがある。当然、その頃は、まさかそのアパートに自分が住むことになるとは夢にも思っていなかったので、いまひとつ記憶が不鮮明だが……この人物だったかどうかは定かではないが、優也以外にも誰かいて、軽く頭を下げたような気がしないでもない。
 「ほらほら、立ち話もなんだから、まずは座って、自己紹介」
 マリリンがそう言って、彼女の背中を軽く叩く。はいはい、と返事をした彼女は、空いている席に腰を下ろした。
 「えー、201号室の、如月咲夜です。仕事は、見てのとおりなんだけど―――これだけじゃまだ食べていけないんで、普段は宅配コーヒーサービス“カフェストック”の社員やってます。よろしく」
 「…どうも、よろしく」
 初対面時同様、そう言って、お互い軽く会釈する。あんな凄い歌を歌えても、歌だけでは食べていけないのか―――メイクアップ・アーティストの修行をしている、という奏といい、なかなか大変な生活をしているんだな、と、学生の身の蓮は感心した。
 「はい。無事全員揃ったし、じゃあ最後に主役さん、自己紹介をどうぞ」
 咲夜の自己紹介が終わったと見て、マリリンが、蓮をそう促した。
 改めてそう指示されると、元来口下手な蓮は、少々緊張してしまう。変な汗を背中の辺りに感じつつ、蓮は、咲夜の方に向けていた体を、真正面に戻した。
 「…ええと…、穂積、蓮です。大学で、秋吉と同じゼミに所属してます」
 よろしく、と頭を下げると、他の全員も、つられたように軽く頭を下げた。優也まで頭を下げているのを見て、お前とは4ヶ月も付き合ってるだろ、と心の中でだけ突っ込みを入れる。
 「よし、それじゃあ、自己紹介も終わったことだし、食べるものも運んできてもらいましょうか」
 パン、とマリリンが手を叩くと、どうやらこのパーティーをセッティングしたらしい咲夜が、はいよ、と言って手を挙げた。
 「あ、すみませーん。頼んだもの、持ってきて下さい。それとビ―――…」
 ビール、と言いかけた咲夜の口を、突如、横から伸びてきた手が塞ぐ。ギョッとして目を向けると、それは奏の手だった。
 「こいつには、ウーロン茶お願いします」
 手の中でもごもご言う咲夜に代わり、奏がウェイターにそうオーダーした。いかにも営業スマイル、という笑顔でウェイターを見送った奏だが、その姿が十分遠ざかったと見ると、やっと手を離し、咲夜を軽く睨んだ。
 「おーまーえー。酒頼もうとしただろ」
 「…いいじゃん、お祝いなんだしさぁ」
 「バカ、刺激物と酒は、まだ医者に止められてるだろ」
 「え…、如月さん、どうかしたの?」
 穏やかじゃない話に、由香理が眉をひそめ、訊ねる。蓮は勿論のことだが、表情を見る限り、どうやら優也も知らない話だったようだ。
 周囲から一斉に心配げな目を向けられてしまった咲夜は、バツの悪そうな表情になり、ちょっとため息をついて奏を流し見た。
 「―――ほら。みんなに要らぬ心配かけちゃったじゃん」
 「ど、どうかしたんですか、咲夜さん」
 一番心配そうな顔をする優也に、咲夜は安心させるつもりか、妙にあっけらかんとした笑みを返した。
 「そーんな顔するようなことじゃないって。この前、ちょっと胃をやられちゃってさ、今も週1で医者に通ってんだけど、まだ“刺激物禁止命令”が解除されてない訳」
 「えぇ、大丈夫なんですか?」
 「ふぅん…、如月さんでも、胃を痛めることってあるんだ」
 優也のセリフと、由香理のセリフが被る。そして、被った由香理のセリフの方に、咲夜の眉がピクリと動いた。
 「悪うござんしたね。あちこちから同じセリフ言われる割に、人並みな胃袋しか持ち合わせてなくて」
 「あら、やっぱりあちこちで言われてるのね。無理もないわよねぇ、神経図太そうだもの、普段の如月さん」
 「ハハハ、まあねー。いつもの友永さんには負けるけど」
 2人の女の間に飛び交う冷笑に、それ以外の男性陣の背筋が凍る。
 こういう時、間に入るより沈黙を選んでしまうのは、蓮だけじゃなかったらしい。結局、誰一人止める者はおらず、4人とも無言で、それぞれのグラスを口に運んだ。


 「それにしても、また中途半端な時期に一人暮らしを始めたもんねぇ。家の都合か何か?」
 料理も運ばれてきて、場が再び動き始めると、ほどなくマリリンが、そう蓮に訊ねた。
 「…まあ、家の都合、っていうか、何ていうか」
 必ず出る質問だろう、と前もって覚悟していたとはいえ、やはり、ほんの僅かな動揺は隠し切れなかったらしい。引っかかるような蓮の返事を聞いたマリリンは、慌てて付け加えた。
 「あ、別に、ちょっと不思議に思っただけで、無理に説明しろって訳じゃあないから」
 「いや、特に隠すような事情でもないんで…」
 気遣うマリリンにそう言うと、蓮は小さく息をつき、視線を、テーブルの上のサラダの辺りに落とした。
 「―――…その、兄貴がこの秋、結婚して、うちの両親と同居することになって。やっぱり兄貴とはいえ、新婚と一緒に暮らすのは嫌だな、と…」
 「ああ、なるほど…」
 その居心地の悪さは、男女問わず、ある程度想像ができるらしい。全員、そりゃちょっと嫌かもなぁ、という表情をする。
 「いい機会だから、一人暮らしを始めようかな、と思っているところに、ちょうど秋吉から、アパートに空き部屋ができた、って聞いたんで…」
 「うん、実際、秋まで待ってたら埋まってたかもしんないよ、あの部屋」
 ね、と咲夜が言うと、マリリンも頷く。
 「オーナーが、顔の広い人でね。住人の繋がり以外に、オーナーに直接頼みに来る人、ってのが、結構定期的にいるのよね。案外人気あるのよ、“ベルメゾンみそら”」
 「へぇ…、そうなんですか」
 「南向きだし、立地の割に家賃も抑えてあるしね」
 「いい部屋だよな、確かに」
 「うん、そんなに古くないし」
 「あれでもう少し、広ければねぇ…」
 唯一不満があるらしい由香理が、ため息と共に呟いた。
 「服入れる場所が、足りないのよねぇ…。如月さん、よく収まってるわね、あの小さなクローゼットに」
 「そもそも数が全然違うんじゃないの。シーズンオフの服、どっかに預ければ? 今、あるじゃん、レンタルボックスとか」
 「そんなの借りる余裕、ある訳ないでしょ」
 「じゃあ、服減らせば?」
 「服減らす位ならベッド捨てるわよ」
 「じゃあ、ベッド捨てれば?」
 「ベッド捨てるほどなら、引っ越すわよ」
 「じゃあ引っ越せば?」
 「それが嫌だから困ってるんじゃないのっ」
 むっとしたように由香理が放った一言に、それまで黙って見ていた全員が、一斉に吹き出した。中でも、一番ウケたのは、一番面白そうに2人のやり取りを見ていた奏だった。
 「お、おもしれー。お前ら、いつの間にそんなボケ突っ込みコンビになってたの?」
 「…コンビになった覚えなんてないわよ」
 「そうだよねぇ。私が友永さんのおちょくり方をマスターしただけだよねぇ」
 不服顔の由香理をよそに、涼しい顔で咲夜が言い放つ。面白がってんじゃないわよ、と更に挑発に乗る気配を見せる由香理に、奏はますます可笑しそうに笑った。
 さっきのイヤミの応酬しかり、今のやりとりしかり……どうやらこの女性2人組、仲が悪い、という訳ではないらしい。どうにも不可思議な関係だ。
 「にしても、狭いとか猫が嫌いとか言いつつも、やっぱり“引っ越すのは嫌”なのねぇ、友永さんでも」
 そう言うマリリンの声も、笑いを堪えていたせいで、ちょっと震えている。その言葉を受けて、唯一平然としたままの咲夜が、ニッ、と我が意を得たり、といった笑い方をした。
 「確かに、もうちょっと広いといいな、とか、もう少し綺麗だといいな、とか思う部分もあるけどさ。やっぱりあのアパートって、なーんかいいよね。建物とか部屋もだし、ご近所づきあいも含めて。私が住んだのも偶然だけど、いまや“ベルメゾンみそら”こそが、我らが“Home Sweet Home”って感じ」
 「ほーむ・すいーと・ほーむ?」
 優也が、初めて聞く言葉に、少し不思議そうな目をする。が、蓮は、幸運にもその言葉を知っていた。
 「…“埴生(はにゅう)の宿”、ですね」
 蓮が言うと、優也同様、今ひとつピンと来ない、という顔だった由香理も、ああ、という顔になった。だが、博学な優也にしては珍しく、それでもまだ何のことかわからないらしい。
 「…なんでしたっけ、“はにゅうのやど”って」
 「日本語で“埴生の宿”、原題が“Home Sweet Home”―――優也君も、学校で1度位は歌った筈だけどな。知らない? こんな歌」
 そう言うと、咲夜は、周囲の客を気にしつつ、小さめな声で歌った。

 埴生の宿も我が宿 玉の装い(うらや)まじ
 のどかなりや春の空 花はあるじ鳥は友
 おお我が宿よ  楽しとも たのもしや

 「―――粗末な家だけど、素晴らしい装飾品も豪華な床も羨ましくない、この家こそが楽しい我が家……ってな歌。確か元々は、イギリスの民謡だよね?」
 咲夜に目を向けられ、奏も、どこか懐かしそうに口元をほころばせた。
 「そうそう。日本の小学校で“埴生の宿”習ってさ、イギリス戻ってから、高校ですっかり同じ曲を何かの時に歌うことになって、“え、これってイギリスの曲だったのか”って、その時初めて知った」
 「母国の民謡なのに…」
 「うるせー。どうせ変なイギリス人だよ」
 口を尖らす奏をよそに、歌まで聴かせてもらった優也は、それでもまだ記憶に引っかからないのか、
 「なんで僕だけ知らないんだろう…」
 と、多少ショックを受けたような顔で呟いていた。


 ―――…なんというか。

 『みんな面白い人だから、話聞いてるだけでも、退屈はしないよ?』

 優也のセリフが脳裏に蘇り、妙に納得する。
 面白い、と言っても、面白おかしい話をするとか、一芸を披露してくれるとか、そういう話ではない。それならば、「ひとり落ち研」と呼ばれている大学の同期の方が、よほど面白い。しかも、そう呼ばれる面白男が、実際の落語研究会には所属していないあたりも、相当面白い。
 でも―――優也の言う通り、ここの住人は、また別の意味で、面白い。
 たった7人しか住んでいないアパート。その小さな空間の中なのに、このバラエティさ―――年齢も性別も職業もバラバラ、多種多様。なんと日本人じゃない人までいる。いずれも、これまでの蓮の行動範囲では、絶対知ることの出来なかった類の人々だ。
 大体、今は21世紀で平成で、“ベルメゾンみそら”があるのは、人の出入りの多い典型的な都会の住宅地だ。昭和でもなければ、長屋の連なる下町でもない。当然、隣の人の顔もよくわからない、といった暮らしになるのだろう、と蓮は漠然と考えていた。なのに……実際は、これだ。都会にある単身者用アパートとしては、かなり特殊なコミュニティだろう。


 ただ、あの家から逃げたかっただけなのだけれど。
 人との出会いも、新しい発見も、何ひとつ期待などしていなかったし、求めてもいなかったのだけれど。

 ―――俺、ここの住人に加われて、ラッキーだったのかもしれないな。

 蓮は、そう思った。


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