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― ボーダー ―

 

 奏は、自他共に認める、直情径行型の人間である。
 頭にくれば素直に怒り、反省すれば素直に謝り、嬉しければ素直に喜び、悲しければ素直に泣く。この、良くも悪くも「わかりやすい性格」は、トラブルの元にもなったが、奏を助けることもあった。28年弱の人生で、その影響は、プラマイすると、若干プラス、という位だろうか。
 性格を改めたい、と思った所で無理な部分もあるので、トラブルになる部分だけは注意して、それ以外は今のままの自分でいいや、というのが、大体の奏のスタンスだ。だから今も、大好きな人には飼い犬よろしく懐いてしまい、関心をはらわれれば嬉しそうにしてしまう。

 そういう自分を、知っているから。
 今の自分に、深く納得する部分と、どうしちゃったんだオレ、と戸惑う部分、両方がある。


 「…何?」
 ぼーっとしていた奏は、咲夜の怪訝そうな声に、ハッと我に返った。
 あと15分もしたら日付が変わる、という時刻の、咲夜の部屋。奏の前には缶ビールが、そしてドクターストップ中の咲夜の前にはホットミルクが置かれている。咲夜が聴き惚れていたオスカー・ピーターソンの名演は既に終わっており、ラジオから流れているのは、ウイスキーのCMだった。
 「どしたの、ぼーっとした顔して。今日の仕事、そんなにハードだった?」
 壁にもたれかかり、ぼんやり咲夜の顔ばかり見ていた奏は、咲夜の目には疲れているか眠そうな顔に見えたらしい。背中を起こした奏は、ははは、と気の抜けたように笑い、真相を曖昧に誤魔化した。
 「んで? 話途中になっちゃったけど、佐倉さんのご機嫌って、結局直ったの?」
 ラジオの音楽で中断していた話を、咲夜が再度口にする。奏は、缶ビールを手にして、少し眉根を寄せた。
 「うーん、それが、まだ根に持ってるっぽいんだよなぁ…。全く、変なとこで執念深いんだから、あの人は」
 「そっか…別に、わざと隠してた訳じゃないのにねぇ」

 佐倉みなみ。奏の、モデル業におけるボスである。
 奏は元々、28歳の誕生日―――10月の終わり頃で、モデル業を辞める予定でいた。それは佐倉も了承済みで、最後の花道を飾る仕事は何がいいだろう? なんてことを、そろそろ話し合ったりしていたのだ。
 が、咲夜の叔父・麻生拓海との恋愛を巡るイザコザの真相を語ろうとしない佐倉に、奏は交換条件を持ち出した。真相を話してくれるのなら、今年一杯まで、引退は先送りする―――拓海を救いたい気持ちと失恋の痛みから、体まで蝕まれてしまった咲夜を想っての、それは捨て身の条件提示だった。
 結局、佐倉はそれを了承し、咲夜は全てを知った。そして―――佐倉と拓海は、今、復縁に向けて関係を回復している最中である。全く、いい歳をして手のかかる連中だ。
 実際、迷惑をかけた、という負い目があるのだろう。佐倉は、奏が出した交換条件を、一旦白紙に戻した。
 …筈、だったのだが。
 先日、拓海から、奏と咲夜が交際を始めたらしい、という話を聞いて、佐倉の態度は一変。
 『どうして麻生さんが知っててあたしが知らないのよっ。あたしが、咲夜ちゃんの今後を人一倍心配してたの、一宮君だって知ってたじゃないの。何度かそれとなく訊いてもみたのに、テキトーに誤魔化してばっかりで……! あー、面白くないっ!』
 ふて腐れまくった佐倉は、白紙に戻した話を、復活させてしまった。男なら潔く自ら言い出した条件を完遂しなさい、と佐倉は言うが―――完遂する覚悟だったのを白紙にしたのは、佐倉の方だ。何故そうなる、と、理不尽さを覚えずにはいられない。

 「なんなら、私から言おうか? 別に故意に黙ってた訳じゃなくて、言うの忘れてただけだ、って」
 残りのホットミルクを飲み干した咲夜が、まだ眉をひそめたままで、そう言う。けれど、奏はその申し出に首を振った。
 「いや。確かに、元々オレが言い出したことだし、それに―――…」
 「それに?」
 奏の言葉が、一瞬、途切れる。
 少し不思議そうな目をして続きを待つ咲夜の様子に、奏は、数秒逡巡し、改めて口を開いた。
 「…それに、引退しても、受けざるを得ない依頼ってのも、入るかもしれないしさ」
 「? 何それ、そんな依頼って、あるの?」
 「んー…、まだ、そういう依頼がある、って具体的に決まった訳じゃないけど―――あるかも、って情報は、ちょっと小耳に挟んだから」
 「へぇ…、そうなんだ」
 咲夜の目が、なんか曰くありげだな、という感じに、奏の目をじっと見つめる。
 …確かに、曰くありの話だ。が―――苦笑した奏は、残ったビールを一気飲みして、トン! と缶をテーブルに置いた。
 「とか言って、オレにオファー来なかったら、ただの笑い話なんだけど。本当にオファーが来たら、咲夜にもちょっと相談するかも。お前がどう思うか、オレも聞いてみたいし」
 「…なんか、複雑そうだね。面倒な筋からの話?」
 「まあ、そんなとこ」
 「ふーん…。じゃ、覚悟して待っとこ」
 あっさりそう言って、咲夜はニッ、と笑った。そして、今の話に何ら未練を見せることなく、空になったマグカップを手に立ち上がり、キッチンに向かった。
 こういう時―――ああ、やっぱりこいつとは合うな、と、奏は改めて思う。
 奏の内側に入ってくるタイミングと、まだ早いかな、と引くタイミングが、驚くほどに心地よい。あれ以上質問を重ねられても、逆に完全に興味を示さずスルーされても、今みたいな安心感は覚えなかっただろう。こういうのは、愛だの恋だのという定義よりも、もっと基本的なもの―――波長が合う、とか表現されるものかもしれない。

 本当に、大切で、失いたくない、存在。
 だからこそ―――どうしたらいいか、時々、わからなくなる。

 「あ、もしかしてそれ、空になったー?」
 マグカップを洗いながら、咲夜が振り返り、テーブルの上の缶ビールに目を向ける。それとほぼ同じタイミングで、ラジオから、午前0時を告げる音が流れた。
 一瞬、また考え事に陥りかけていた奏は、その2つにまた我に返った。
 「え? あ…ああ、うん」
 「どうする? もう1本飲む? 買い置きが2、3本、ずーっと冷蔵庫に眠ってるんだけど、医者のOK出ないと出番がないもんだから、毎日毎日、冷蔵庫開けるたびに目障りで」
 自分だって飲みたいんだ、とでも言いたげな不服そうな声で、咲夜がぼやく。が、落ち着かなく視線を彷徨わせた奏は、空き缶を握り締めると、おもむろに立ち上がった。
 「あー…、いや、オレ、そろそろ帰るし」
 「え?」
 少し驚いた様子の咲夜をよそに、空き缶を握りつぶして、ジーンズのバックポケットに無理矢理押し込む。早くも玄関に向かいかけている奏を見て、水を止めた咲夜は、小走りに奏のもとへと駆け寄った。
 「ちょ…、何? どうかした訳?」
 「い、いや、別に?」
 「でも、なんか、随分急じゃん。何かあった?」
 「いや、何もない、けど……ただ、疲れてるとこにビール飲んだら、ちょっと酔いが回ったみたいで―――このままだと、部屋帰れなくなりそうだから、ダウンする前に帰っとこうかと」
 それは、半分本当だった。さっきからぼーっとしてしまうのも、昼間の激務にしては、ビールを飲むペースが早すぎたせいだ。もう1本飲んでもいいかな、というのが本音だが…飲んだら、間違いなくダウンする。いや、ダウンするだけならまだしも―――…。
 「そ…っか。疲れてるんじゃ、無理も言えないね」
 奏の言葉を信じてか、咲夜がそう呟く。その表情は、明らかに残念そうなのだが―――少しだけホッとしているように見えてしまうのは、奏の被害妄想だろうか。
 でも、多分、奏も今、同じ顔をしている。
 そんな自覚があるから―――ますます、どうしていいか、わからない。
 「……」
 双方、無言のまま、様子を窺うように相手の顔を見る。
 けれど、今の自分の気持ちを上手く表す言葉が、見つからなくて……結局、奏は咲夜の頬に手を伸ばし、咲夜は奏の腕に軽く手を置いた。
 奏からも、咲夜からも、1歩相手に歩み寄るようにして、口づける。
 この3週間あまりで、ようやく慣れてきた感のある、軽いキス―――夜会った時、別れ間際に交わすこのキスだけが、2人の関係が変わったことを示す唯一の儀式かもしれない。
 けれど、唇が離れた途端、甘いムードを引きずるのが気恥ずかしくなってくる。その気恥ずかしさを誤魔化すように、2人は体を離し、ハハハ、と軽く笑った。
 「じゃ、また明日」
 「ん、おやすみー」
 そんな挨拶を交わすと、スニーカーに足先だけ突っ込んで、奏は咲夜の部屋を後にした。


 自分の部屋に戻り、バタン、とドアを閉める。
 と同時に―――奏は、その場に、がくりと膝をついてしまった。
 「……オレのバカヤロウ……」
 一体何回、同じことを繰り返してるんだ―――奏は、なんだか自分が、遊具の車輪の中をぐるぐる回っているハムスターにでもなったような気分だった。


***


 「写真だけで、ぶっつけ本番、いけそうか?」
 「……んー…」
 奏の気のない返事に、書類に向いていた瑞樹の視線が、やっと奏の方を向いた。
 そして、手元の写真などまるっきり見ないで、ぼーっとあらぬ方向を見ている奏をそこに見つけ―――その表情が、険悪なものに変わった。
 「…現場入りは、11時」
 「うん」
 「終わりは、早くて3時。それでいいな?」
 「うん」
 「で、お前は、ギャラなしだから」
 「うん。……は!!!!?」
 奏が腰かけていた事務机が、ガタン、と音を立てる。「ギャラなし」の一言に現実に戻った奏は、冗談だろ、という顔で瑞樹の顔を凝視した。
 勿論、冗談だ。ようやくこちらを向いた奏の目を、瑞樹は、呆れたように睨み返した。
 「―――やる気がねーなら、他当たるぞ」
 「…ハ…ハハハハハ、いや、そんなとんでもない」
 引きつった笑いを見せた奏は、慌てて机から降り、キャスター付の椅子を引き寄せた。そんな奏を呆れたように一瞥した瑞樹は、バサリと書類を机に置き、事務所の奥にある冷蔵庫へと向かってしまった。
 「ふーん、なんか日本人形みたいな子じゃん。三流紙の表紙にはもったいないな。新人?」
 「今更熱心そうなフリしても、遅い」
 「……ごめん」
 本来、もの凄く感謝してしかるべきことなのに、ぼんやり考え事をしていたのは、奏自身だ。さすがに、言い訳はできない。しゅん、となった奏は、気まずそうに書類や写真を傍らの机の上に置いた。

 時田事務所―――奏の叔父・時田郁夫が、日本に所有しているオフィスを遊ばせるのも馬鹿馬鹿しいから、と、若手カメラマンらに貸しているオフィスは、瑞樹を含め、大体10人前後のカメラマンやデザイナーなどが、活動拠点として利用している。
 事の発端は、その時田事務所を利用している仲間の1人―――瑞樹から見れば先輩カメラマンにあたる人物からの依頼だった。ギャラ問題でクライアントともめて、1週間後に迫っている仕事を知り合いがキャンセルしてしまった、その代役を頼めないか、というのが、瑞樹に持ってこられた依頼である。
 瑞樹は、その依頼を引き受けた。が、無事代役が決まり、やれやれ、と思っていたところに―――今度は、メイク担当者が、仕事を降りたいと言い出したのだ。
 こちらの事情は、ちょっと気の毒だった。郷里にいる父親が突如倒れたとの連絡があり、すぐに戻らなくてはいけなくなったのだ。最悪の事態になれば、撮影の日に東京に戻れないかもしれない、申し訳ないが他の人に代わってくれ―――そう言って何度も頭を下げるメイクに、「親なんぞ知るか、仕事が優先だ」と言えるだけの人物は、さすがにいなかった。
 で……その代役が、瑞樹経由で、奏に回ってきた訳だ。

 「だれた仕事ぶりだったら、その場で降ろすからな。まだマネージャーにでもやらせた方がマシだ」
 「…んなこと、絶対しないって。ほんと、ごめん。やる気ないんじゃなくて、ちょっとほかの事に気ぃ取られてただけだから」
 うなだれ気味に謝る奏に、瑞樹はため息をつきつつ、冷蔵庫からボルヴィックのペットボトルを取り出した。
 「―――さっきから、妙に人の顔ジロジロ見てたのも、その“ほかの事”とやらのせいか」
 「…えっ」
 思わぬセリフに、奏は顔を上げ、少し目を丸くした。
 「オレ、あんたの顔、そんなにジロジロ見てた?」
 「見てた」
 「うっわ、ごめん!」
 「…てことは、やっぱり俺のことで、何か考えてた、ってことか」
 「……」
 反射的に謝ってしまったせいで、気を取られていたことの一端に瑞樹のこともある、とあっさりバレてしまった。あまりにも正直すぎる自分の反応が、心底恨めしい。奏は、落ち込んだようにがくん、とまたうな垂れた。
 「何なんだ。気持ち悪いから、言いたいことあるなら、さっさと言え」
 ボルヴィックを一口あおり、再び蓋を閉めながら、瑞樹がそっけなく命じる。うな垂れていた奏は、苛立ったように髪を掻き毟ると、大きなため息と共に顔を上げた。
 「…成田さぁ」
 「何、」
 「付き合い始めてからどの位で、蕾夏に手ぇ出した?」
 「―――…」
 冷蔵庫を開けようとしていた瑞樹の手が、ピタリと止まった。
 酷くゆっくり振り返った瑞樹は、何言い出すんだお前は、という顔で、奏の顔を凝視した。が、奏の顔は、冗談を言っている顔でも、瑞樹を困らせようとしている顔でもなかった。
 妙に寒々しい沈黙が、2人の間に流れる。ゆうに30秒以上絶句した瑞樹は、微かに眉をひそめ、やっと口を開いた。
 「……は?」
 「だから。元々親友として付き合ってたあんたたちが、恋愛感情アリって確認しあってから、大体何日とか、何週間とか」
 「ちょっと、待て」
 ドン、とボルヴィックを冷蔵庫の上に置くと、瑞樹はつかつかと奏の所へ戻って来た。そして、やや乱暴に近くの椅子を引っ張ってくると、それに腰を下ろし、奏を見据えた。
 「…お前、仕事の話しながら、そんなこと考えて、俺の顔見てたのか?」
 「い…、いや、そればっかりじゃ、ないけど。…っつーか、オレは、あんたが“話せ”って言うから正直に…」
 ぶつぶつと口の中で文句を言う奏に、瑞樹は、呆れ返ったように深い深いため息をついた。ぐしゃっ、と前髪を掻き上げ、少し疲れたような目を、再び奏に向ける。
 「……で?」
 やけになったような、一言。どうやら、話だけは聞いてやる、という意味らしい。ホッとした奏は、改めて瑞樹に向き直った。
 「…実は、ここ2週間、めちゃくちゃ葛藤してる」
 「葛藤?」
 「咲夜に、今すぐ手ぇ出すか、それともまだ暫くは、今まで通りで行くか」
 「……」
 意味がよくわからない、という風に、瑞樹が少し難しい顔をする。暫し考え、改めて奏に問い直した。
 「お前、今、どういう付き合いしてるんだ?」
 「…だから、キス止まり」
 「付き合い始めたのって、」
 「1ヶ月くらい前」
 「……」
 「…なんだよ、その疑いの眼差し…。嘘なんかついてねーよっ」

 そうなのだ。
 瑞樹だけじゃない。奏と咲夜の間に恋愛感情があると知っている人間は―――マリリンや“Studio K.K.”の連中、更には叔父や弟……下手をしたら、母も―――恐らく、2人がまだキスまでの関係だとは思っていないだろう。全員、奏の性格を、よく知っているから。
 直情径行型。“待ち”よりは圧倒的に“攻め”。それは、仕事においてもプライベートにおいても同じだ。“親友”という言葉に縛られていた時ならいざ知らず、向こうも奏を男として好いていてくれる、そして奏を受け入れてくれる、と確認できたのなら、もう欲しいものを手に入れるのに何ら障害はない。奏なら絶対、即座に行動する筈だ―――周囲の誰もが、そう考えている。
 いや、周囲だけではない。奏自身だって、そうなると思っていた。
 咲夜が拓海を想って泣いていた時でさえ、それを無視して実力行使することを、何度も考えた。考えただけじゃなく、咲夜が拓海を庇うことに苛立ってその唇を無理矢理奪ったことだってあった。咲夜の気持ちを知る前ですら、奏は限界ギリギリのものを、辛うじて押さえ込んでいる状態だった。だから、もう抑える必要がなくなれば、その日のうちにでも……、と思っていたのだ。

 なのに―――実際には、この状態。
 自分でも、半分信じられない思いなのだ。瑞樹が信じられなくても、仕方ないだろう。

 「…なんでまた」
 瑞樹の一言に、奏は、はあぁ、とため息をついて、困ったようにまた頭を掻き毟った。
 「それが……一言じゃ、説明できないんだよな。色々事情があって」
 「色々?」
 「…付き合い出した時は、ちょうど咲夜が体壊してて……まともに物も食えない状態だったんだよ。普段のあいつは、もう元気そうだったけど、ぶっ倒れて顔面蒼白になってるあいつ、実際に見ちゃった直後だっただけに……なんか、医者から“もう大丈夫”って言われるまでは、無茶はさせられないよなー、とか」
 「…どんだけ無茶なことさせる気だよ、お前」
 「そーゆー意味じゃないっつーの!」
 奏がやや睨むと、瑞樹は涼しい顔で「真に受けるんじゃねぇよ」と言った。…相変わらず、どこまで本気で、どこからがからかってるのか、よくわからない奴だ。
 「とにかく! …とにかく、出だしはそんな感じで、咲夜が元気になること優先、と思ってたし―――なんていうか、気持ちを隠さなくて済むようになった分、手に入らないことに変な苛立ちとか焦りを感じなくなった、っていうのかな。嘘じゃなく、1、2週間位は、そんなこと考えることすらなかった。…けど…」
 「けど?」
 「…今、足踏み状態でいるのは、全然別」
 「別、って、何」
 先を促され、奏は、チラリと瑞樹の顔を見た。が……すぐに、ふい、と視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
 「―――どうすりゃいいか、わからない」
 「…は?」
 「今まで通り、お互いバカ言い合ったり、悩み事言ったり聞いたり、そういう関係が続いてる中で、さ。どういうきっかけ作れば“そこ”に持ち込めるのか―――いざ実行しようとすると、わからない、ってこと。な、なんか…照れるし、そういうムードにもならないし」
 「……」
 「ここんとこ、毎日1回はそんなこと考えてるもんだから―――成田の顔見て、そう言えば成田たちも親友同士から恋人になったんだよな、と頭に浮かんだら、つい、こいつらん時はどうだったのかなぁ、と……」

 若干顔を紅潮させて、ぽつぽつとそう答える奏を、瑞樹は、あっけに取られたような顔で凝視していた。
 余裕で1分、黙って奏の顔をまじまじ見続けた瑞樹は、大きく息を吸い、何かを抑えたような低い声で、訊ねた。

 「―――奏」
 「ん?」
 「お前、誕生日、いつだった?」
 唐突な質問に、奏の目が、ちょっと丸くなる。逸らしていた目を瑞樹に向け、奏は、条件反射的に答えた。
 「10月27日」
 「今度の誕生日で、いくつだ?」
 「28」
 「28年弱の人生で、お前、何回女と付き合った?」
 「? それって、寝た数じゃないよな」
 「当たり前だろ」
 「ええと―――…」
 奏の視線が、記憶を辿るように、斜め上を向く。所在無げに膝に置いていた右手をユラリと起こし、親指を折った。
 人差し指が折られ、中指が折られる。その様を黙って見ていた瑞樹だったが―――小指まで折られ、再び小指と薬指が起こされた時点で、瑞樹の右手が、奏の頭をバシッ、と叩いた。
 「! ってえええぇ!!!」
 何すんだ、と頭を抑えて涙目で瑞樹を睨む奏に、瑞樹は冷ややかな目を向けた。
 「バカかお前。それだけ恋愛繰り返してきた癖に、何小学生みたいなこと言ってんだ」
 「…っ、小学生は言いすぎだろっ。小学生でこんなこと悩んでるようじゃ、そのうち日本滅びるぞっ」
 方向違いな文句をぶつけた奏は、叩かれた頭をさすりつつ、背後の机に肘を乗せ、ふて腐れたように脚を組んだ。
 「そりゃあ……成田の言う通り、付き合った女はいっぱいいるし、その時は全然悩まなかったよ。女と付き合うのにセックスは不可欠要素だったし、実際、どの女とも、割合付き合ってすぐ、そうなってた。別に盛ってた訳じゃなくて、それが好き合ってる同士の自然な欲求だろ?」
 「まあ、なぁ…」
 「でも―――咲夜みたいに、元々親友って呼べるほどの付き合いをしてた女なんて、1人もいなかったから。最初から恋愛モードで深く付き合うのと、元々“男女感覚抜き”だった同士が男と女になるのとでは、全然違うだろ? 少なくとも、オレの豊富な経験は、咲夜に関してはまるっきり役立たずだ」
 「…なるほど」
 それでも多少の応用は効くんじゃないのか、という意見を、瑞樹はあえて口にはしなかった。やれやれ、と息をつくと、席を立ち、のんびりした足取りでボルヴィックを置きっぱなしの冷蔵庫へと向かった。
 「まあ―――奏の言い分は、わかった。でも、俺と蕾夏は、お前の参考にはならねーと思うから、諦めろ」
 「なんで」
 「女を嫌悪しきってる男と、まともに男と接することが出来ない女―――どう考えても見本には向かないだろ。もっと健康そうな組み合わせの方が参考になるんじゃねーの」
 「健康、って……」
 まるで、自分たちが病気なようなことを言う。でも…多くの事情を抱えていた2人なだけに、本当にそう思ってるのかもしれないな、と、奏は頭の片隅で思った。
 「ま…、焦ることもないし、下手にきっかけを“作る”なんて真似しても、上手くいくとも思えねーし―――自制のし過ぎで爆発してキレない程度に、現状維持しとけ」
 「…実にオレにピッタリのお言葉、感謝いたします」
 特に、爆発してキレない程度に、という部分は、大いに納得だ。まさに、このままだとそうなってしまいそうなのが、今の奏の一番の懸念事項なのだから。
 「それにしても、やっぱり双子だな」
 冷蔵庫を開けつつ、瑞樹が、唐突に言う。
 「え?」
 「累の奴も、カレンと付き合い始めた頃、似たようなこと言ってたらしいから、蕾夏に」
 「……」
 その一言に―――奏は、さーっと血の気が引くのを感じた。
 「に、似たこと、って?」
 「長年、妹みたいに思ってきた相手だから、どうやって恋人同士っぽくなればいいか、よくわからない、とか何とか」
 「…ふーん…、そう、なんだ」
 努めて冷静な声を出そうとするが、あまり上手くいかなかった。案の定、冷蔵庫を閉めた瑞樹が、怪訝そうな顔をして振り返る。
 「どうかしたか?」
 「い、いや。……あの、成田、オレがこーゆー相談したこと、絶対累にだけは……」
 「? 言う機会もねーし」
 「…だよ、な。ちょっと、兄貴としては、あんまり知られたくないことなんで」

 いや、それだけじゃない。
 奏には、今の話を、累に絶対知られたくない事情がある。
 瑞樹の話は、交際スタート間もない頃の話だったが―――恋愛未経験の累は、それより後も、カレンとの間に何かあるたび、悩んだり迷ったり困ったりしていた。そして、何かというと、「奏は経験豊富だろ?」と言って、兄である奏に意見を求めてばかりいた。
 そんな累が、今回の奏と全く同じ悩みを奏に打ち明けたのは、交際開始から、2、3ヶ月経った頃だろうか。
 心底悩んでいる顔をしていた累に、奏が出した回答は―――「難しく考えるな。決めたんなら、さっさと部屋に連れ込んで、有無を言わさず押し倒せ」、だった。

 ―――ぜ…絶対、あいつにだけは、バレたらまずい。
 真剣な恋愛という意味では、いまや奏を追い抜いて結婚までしてしまっている累が、今の奏を見たら、絶対大笑いするだろう。近く電話をすることになっているが、咲夜の話が出たら、さり気なく話題を逸らしておこう―――背中を伝う冷や汗を感じつつ、奏は固く心に誓った。

***

 瑞樹とはその後、仕事の打ち合わせの続きを真面目に行い、別れた。


 ―――それにしてもなぁ……。
 駅からアパートまでを、ちょっとゆっくり目に歩きながら、奏は小さくため息をついた。
 瑞樹と蕾夏が“病気”であるならば、自分も結構、病気かもしれない―――瑞樹のセリフを思い出しつつ、そんなことを、つらつらと思う。
 あの場では口にしなかったが―――奏には、もう1つ、咲夜と一線を越えられずにいる理由があるのだ。

 咲夜と過去に付き合った女たちの違いは、単に、関係の始まり方の違いだけではない。もっと大きな違いがある。
 何人もと、付き合ってきた。けれど……奏は、本当の意味で「欲しい」と思った相手とは、付き合ったことがなかった。
 いいな、好きだな、と思ったし、抱きたいとも思った。けれど、その女でなければ駄目だ、とまでは、思わなかった気がする。好き合ったから付き合ったけれど、もし何かの事情で相手に嫌われたら、勿論悲しいけど、次探せばいいか、と思えた気がする。
 代わりが効かない、どうしても彼女でなければ―――そう思った女と付き合った経験が、奏には、ない。
 今回が……咲夜が、初めてだ。

 …怖い。
 漠然とした恐怖が、奏の中に、ある。

 どうしても欲しかった、女性(ひと)―――気が違うほどに求めて止まなかった人は、過去に、もう1人、いた。
 欲しくて、欲しくて、他の女じゃどうしてもダメで―――そして奏は、己の衝動に負け、彼女を傷つけた。…あのことは、3人の関係が変わっても、咲夜を好きになっても、奏の中に、重い過去として残り続けている。
 あの時は、許されない相手だった。でも、今回は違う。それは、奏だってわかっている。
 それでも…奏は、あの時の自分が忘れられない。そして、あの時の自分に再びなってしまうことを考えると……息もできないほど、苦しくて、怖くなる。

 まだ咲夜は、拓海を、完全には忘れていないだろう。
 奏を好きでいてくれることを疑ってはいないが、奏と同じだけの激しさで想ってくれている自信は、正直、全くない。
 そんな咲夜に対して、もし、また蕾夏の時のように歯止めが効かなくなったら―――それを思うと、たまらなく、自分の衝動の激しさが、怖い。
 他の女なら、むしろ、前の男を忘れさせてやる、位のことは考えたかもしれない。多少強引でもモノにしてしまった方が勝ちだ、と思えたかもしれない。
 けれど…咲夜には、そうは出来ない。そんなことをして、万が一、咲夜を傷つける結果になったら―――奏は、咲夜を失ってしまう。それは、奏にとって最悪の恐怖だ。

 次の1歩を踏み出すきっかけが掴めないのも、事実。そんな自分に苛立ち、満たされない欲求を持て余しているのも、事実だ。
 けれど―――何事もなく1日が終わるたび、奏が感じるのは、不満だけじゃない。
 何事もなくて良かった、という、己の欲求とは相反する“安堵”も感じているのだ。


 ―――…なぁんて話は、さすがに、成田には出来なかったなぁ…。
 瑞樹にとっても、あまり触れたくない話題だろう。言わなくて正解だったな、と、奏は、郵便受けからDMやチラシを引っ張り出しつつ、思った。
 それにしても、27にもなって、それなりに恋愛もしてきたというのに……これほど自分が臆病な人間だったとは知らなかった。自分では恋愛向きな性格と思い、周りからもそのように言われてきたが…案外、自分は人より恋愛下手なのかもしれない。

 大量のDMやチラシを抱え、2階に上がろうとした奏だったが、ふと、慣れない気配を1階の廊下に感じ、なんだろう、と足を止めた。
 1歩、足を引き、廊下を覗き込む。すると、無人の104号室の前でごそごそと動いている人影があった。
 ―――ああ…、新入り君か。
 先週の土曜日、咲夜の歌で歓迎した人物を思い出す。穂積 蓮―――優也の大学の友達だ。
 蓮は、1階の廊下の一番奥に、綺麗に磨きこまれた1台のバイクを停めていた。駐車場のないこのアパートで、そこが最も安全な駐輪スペースだったので、バイク持ちである蓮にオーナーが場所を提供してくれたのだ。
 廊下の端にある金属製の柱に、厳重にチェーンを巻きつけ終えた蓮は、ほっ、と息を吐き出し。踵を返した。そして、階段の下でこちらを見ている奏に気づき、あ、という顔をした。
 「…どうも、こんばんは」
 ひょこ、と、蓮が頭を下げる。奏もそれに応え、微かな笑みを作って会釈した。
 ―――…にしても…優也のやつ、よくこいつと友達になろうと思ったな。
 蓮と改めて向き合い、初対面時に思ったことを、再び思う。
 いかにも秀才君、という風貌の優也とは違い、蓮は、2人が通う超有名大学のイメージからは、相当逸脱した人物だ。髪は奏の髪以上に薄い色にブリーチされていて、片方の耳には2つのピアス、ぴったりとしたブラックジーンズに、書きなぐったような英語のロゴがプリントされた、黒のTシャツ―――かつて咲夜が見かけた時には、上下とも、革のライダースーツを着ていたという。イメージとしては、明らかにハードロックだ。
 そして何より、この目―――切れ長の二重なのは結構だが、どうにも目つきが鋭すぎる。鋭すぎて、いわゆる三白眼に見えてしまう。奏個人としては、顔立ちも悪くないし、なかなか格好いいじゃん、と思えるが……優也なら、友達になるどころか、「怖い」と言って逃げ出しそうだ。
 「大学帰り?」
 無言でいるのも何なので、そう話しかけてみる。すると蓮は、いえ、と首を振った。
 「大学は、駐輪場が整備されてなくてバイクの盗難も多いから、電車です」
 「ふーん。じゃ、今日は?」
 「ちょっと、お台場方面に、走りに行ってたんで」
 「へぇ」
 ―――…つか、言葉は丁寧なんだよな。
 外見がこんなだし、表情も相当に無愛想なのだが、言葉は思いのほか礼儀正しい。この前の歓迎会でもほとんど口をきかなかった蓮だが、一体どういうパーソナリティなのだろう、と、ちょっと興味が湧いてくる。
 「いいよなぁ、バイク。オレもイギリスにいた頃、時々友達に借りて乗ってたんだ」
 「免許、持ってるんですか」
 「イギリスのは、ね。友達はよく、付き合ってる彼女を後ろに乗っけて走ってたけど、あれは怖くて出来なかったよなぁ…」
 「はあ…」
 「穂積君は? 彼女とか乗せること、ある?」
 軽い気持ちで奏がそう訊くと、無愛想な蓮の顔が、無愛想を通り越して、険悪な表情に変わった。
 あれ、と戸惑う奏に、蓮は、心底不愉快だ、とでもいうような顔で、低く答えた。
 「…いませんよ、彼女なんて」
 「……」
 「じゃあ、おやすみなさい」
 再び、ひょこ、と頭を下げると、蓮は奏を追い越し、先に階段を上がって行ってしまった。

 「……何、なんだ」
 一体、あの質問の何が、彼を不愉快にさせたのか、よくわからないが。
 いまだ、由香理の前ではあがりまくってる優也といい、失恋をまだ引きずっているらしい由香理といい―――そして、自分たち2人といい…。
 ―――もしかして、うちのアパートって、恋愛下手率、高すぎ?
 なんてことを、チラリと思った。


***


 「ふぅん…、随分急で大変そうだけど、良かったじゃん。成田さんと仕事で」
 「まあな」
 それは、奏も同意らしい。咲夜の言葉に、奏は少し嬉しそうな笑みを見せた。
 瑞樹に急遽頼まれたというメイクの仕事は、22日が本番だという。まだ1週間近い猶予があるが、店とのスケジュール調整がまだだと言うのだから、あまり余裕があるとは言えないだろう。
 それでも、奏は、結構嬉しそうだ。無名の駆け出しメイクアップ・アーティストには、指名してくれる馴染みのモデルもいなければ、懇意にしているモデル事務所もない。店以外での経験を積めるチャンスは、喉から手が出るほど欲しい筈だ。しかも、カメラマンが瑞樹ときているなら、奏にとっては天国のような仕事なのだろう―――聞いた限りでは、ギャラは、とんでもなく安そうだが。
 「どんなモデル? やっぱ、女の人?」
 「女、っていうか、女の子だった。なんか、日本人形みたいな子だったよなぁ…。色白で目がでかくて、真っ黒い髪をパツン、とこの辺で切りそろえてて」
 そう言って、奏は、顎のラインを手で示した。なるほど…確かに、日本人形チックな風貌だ。けれど。
 ―――…色白で、黒髪か。
 「…なんか、奏の好みっぽそう」
 「―――…っ!!!!」
 咲夜の一言に、ビールを飲もうとしていた奏が、思わずむせた。
 「うわ、大丈夫?」
 「…っ、ば、ばかやろ、大丈夫じゃねーよっ!」
 ゲホゲホゲホ、とむせこみながら、奏がギロリと睨む。さして深く考えずに言ったセリフが、思わぬ結果を招いてしまい、さすがの咲夜も、愛想笑いのひとつも作るしかなかった。
 「ごめんごめん。冗談だって。テンちゃんとか氷室さんが、前に、奏は黒髪フェチだ、って言ってたから、つい」
 「……黒髪フェチじゃないっつーの。少なくとも、今回のモデルは、オレの好みからは激しく外れてるぞ。ああいうお人形っぽい顔は、もの凄く苦手だ」
 「お人形っぽい?」
 「写真だけだけど、作り物っぽくて好きじゃない。可愛いとか綺麗とかは思うけど…そこ止まりで、むしろ避けるな、きっと」
 心底、苦手、という感じで、奏が眉間にしわを寄せる。
 咲夜は、その写真を見ていないから、何とも言えないが―――人形っぽい、と奏が感じたのなら、奏が苦手と言う理由は、なんとなくわかる。きっと、“Frosty Beauty”と呼ばれた頃の自分を思い出して、嫌なのだろう。
 「全くもう―――ただでさえ成田と話してどっと疲れたってのに、変なこと言って余計疲れさせんなよ」
 ぐったり、と壁に背中を預け、奏が愚痴る。何故瑞樹と話すと疲れるのか、その辺はいまいちわからないが、奏があまりにぐったりしているので、咲夜はくすくす笑いながら、もう一度「ごめん」と謝っておいた。
 とその時、ベッドの上に投げ出していた咲夜の携帯が、鳴った。
 「あれ、誰だろ?」
 膝歩きでベッドに向かい、手を伸ばす。携帯を手にとって見ると、液晶画面に、一成の名が表示されていた。
 こんな時間に、何の用だろう―――不審に思いつつ、電話を取る。誰からの電話だろう、とこちらの様子を窺っている奏と目が合ったので、咲夜は「いっせい」と声に出さずに答えた。
 「もしもし」
 『ああ、咲夜? 俺、一成』
 「どうしたの、こんな時間に」
 『いや、実は今、グッさんたちと会ってて、近いうち、一緒にライブ出ないか、なんて話になってるんだ』
 「え、そーなの?」
 一成が親しくしているドラマーの名前を聞き、咲夜は、ちょっと顔を輝かせた。
 「それで? どういう話になってんの?」
 『それがさ―――あ、今って、大丈夫か? 5分くらい』
 「あー、ちょっと、待って」
 まさか奏が一緒にいるという想定で一成が気を遣った訳ではないだろうが―――携帯のマイク部分を指で押さえると、咲夜は奏の方を見た。
 「ライブの話みたい」
 「ふーん、良かったじゃん」
 気にせず続けろよ、という感じで笑い返すと、奏は再び缶ビールを手にした。それを確認した咲夜は、マイクを押さえていた指をはずし、また一成との電話に戻った。


 そして、予定を少しオーバーして、7分後。

 「うん、じゃ、グッさんによろしく。おやすみー」
 一通りの話を終え、電話を切る。
 携帯を放り出し、うーん、と伸びをした咲夜は、それまで肘をついていたベッドから体を起こし、背後を振り返った。
 「あのさー、一成が山口さんてドラムの人と―――…」
 奏に電話の内容を伝えようと、そう、言いかけた咲夜だったが―――奏の様子を見て、続きの言葉が、止まってしまった。

 「……」
 奏は、壁に寄りかかったまま、ぐーぐー寝ていた。
 片方の膝を立て、その膝に片腕をだらん、と預けたその姿は、上手くすると、何かのポスターのように見えそうだ。が……奏は、完全に熟睡状態。がくん、と傾いている頭が、奏の熟睡度を表していた。
 電話していた時間は、10分もなかったのに…また随分とあっさり、眠りに落ちてしまったものだ。
 いや、そんなことより。

 ―――彼女の部屋に、夜、2人だけでいて、この寝つきの良さって、どうよ?

 …ちょっと、複雑な心境、かもしれない。けれど。
 「……奏、」
 声をかけてみる。ピクリとも動かない寝顔を眺めて―――咲夜は、微かに、笑った。
 ベッドからタオルケットをずるずると引っ張り降ろすと、咲夜はそれを持って、奏の隣に腰を下ろした。
 季節は、夏。掛けるものなど要らないかもしれないが、念のためだ。ばさっ、と広げたタオルケットを、咲夜は、自分と奏の膝に掛けた。そして、奏に寄り添うように頭を傾け、目を閉じた。


 どうしていいかわからなくて、戸惑っている自分がいる。
 足りなくて…でも、1歩踏み出すきっかけを、見失っていて。離れてしまう体温にちょっと落胆しながら、それを引き止めない自分の意気地のなさに、いつも落ち込んでしまう。
 …けれど。

 何事もなく1日が終わるたび、咲夜が感じるのは、物足りなさだけではない。
 何事もなくて、良かった―――そう思って安堵している自分がいることにも、咲夜は、気づいていた。


 ―――もう、少しだけ…こういう優しい関係でいたい、なんて言ったら……わがまま、かな。

 奏の体温を、すぐ隣に感じながら、咲夜もいつしか、眠りについていた。


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