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― 純情+α ―

 

 「失恋?」
 自分とは無縁の単語を耳にして、蓮は、怪訝そうに目を丸くした。
 「どこから、そんな噂を聞いたんだ?」
 「え…っ、いや、その、噂を聞いた訳じゃないんだ、けど」
 気まずそうにそう言った優也は、バッグのポケットをごそごそと漁り、定期入れを取り出した。当然、蓮も取り出す。改札を通るために、2人の会話は一時中断になった。
 夏休み直前とはいえ、それなりに用事があるのか、駅から大学に向かう学生の姿は結構多い。改札の出口で、急ぎ足の学生と肩がぶつかったりしながらも、蓮と優也は再び並んで歩き出した。
 「噂を聞いたんじゃなければ、どこからそんな話が出てきたんだよ」
 「ん……、実は今朝、ミルクパンの世話してたら、一宮さんと会ったんだ」
 「一宮さん―――ああ、」
 一瞬、どの人だっけ、と迷ったが、比較的あっさり思い出せた。同じ階に住む、ハーフの人だ。
 「穂積、昨日の夜、一宮さんに廊下で会ったって?」
 「…ああ、うん、会った」
 「その時、“彼女をバイクに乗せることある?”、とか、そんなようなこと、訊かれた?」
 「訊かれたけど…」
 心配そうに蓮の表情を窺う優也の目に、蓮の返答も、少々不安げに歯切れが悪くなる。
 「そしたら穂積、“彼女なんていません”って……凄く、不愉快そうに答えたんだって?」
 「いや、不愉快そうに、って……でも、まあ、そう言ったけど?」
 「…そうなんだ」
 「それが、何」
 「…その時は何が気に障ったかわからなかったけど、もしかしたら、失恋したり別れたりしたばっかりだったのかも、って気づいて、まずかったなぁ、と思ってる、って。もしそうなら、ごめん、って謝っといてくれ―――って、一宮さんに、頼まれた」
 「……」
 それで、やっと、最初の話に繋がった。「もしかして穂積、失恋したの?」なんて訊かれて、なんだってそんな話になってるんだ、と面食らったが―――つまりは、昨日のあの会話が原因だった訳だ。
 そんなに不快そうな顔をした覚えはないが……無愛想な顔が災いして、よく「怒ってるの?」などと訊かれる方である蓮は、また誤解されちゃったか、とため息をついた。
 「―――誤解だよ、それは」
 「誤解、って、失恋が?」
 「失恋もだけど、それ以外も、全部」
 「全部?」
 キョトン、とする優也に、蓮は、なんとか上手く説明をしようと思った。が……、不幸なことに、蓮は、あらゆることの中で「自分の気持ちを説明すること」が、一番苦手だった。
 上手く言葉が出てこない、という顔で、蓮は暫し、隣を歩く優也の顔を見つめた。頭の中では、だから、とか、つまり、とか、色々な言葉がぐるぐる回って、それに合わせてもどかしげに手を動かしたりするのだが―――結局、出てきた言葉は、短かった。
 「…とりあえず、誤解だから」
 「???」
 優也には、なんだかよくわからない答えだった。
 けれど、蓮がとても困った様子だったので、これ以上聞いたら気の毒な気がしてきて、優也はそれ以上聞くのはやめておいた。

***

 既に夏休み状態の学生も多い中、2人が大学に足を運んだのは、在籍する「永岡ゼミ」で行われる、4年生・院生と合同の意見交換会に参加するためだ。
 永岡教授は、上下間の交流をとても大事にしている人で、発表会を1年や2年も自由に聞けるよう開放していたり、3年の内容に4年が意見を述べたり、4年の研究に3年が質問したりと、頻繁に意見をやりとりする機会を設けてくれる。実際、蓮と優也にしても、そうした公開授業や発表会を見てこのゼミに決めた口である。
 今日の意見交換会も、講義ではなく、自由参加の会だ。前期も残り今日・明日の2日のみ、という状態で、一体どれだけの人が来るのやら…と危ぶんでいたが、結果は予想通り。在籍する3年生5人のうち、出て来たのは蓮と優也だけだった。
 先輩陣の参加者は、5名。4年生3人に院生2人という構成だ。こちらも、出席率5割といったところか。
 実を言えば、蓮と優也も、はじめは少し迷っていた。が、ある人物に「出席した方がいい」と勧められ、直前で出席を決めたのだ。


 「出て良かったでしょぉ、秋吉君」
 トトト、と駆け寄ってきた人物が、酷くスローテンポな喋り口で、優也に言う。
 そう。この人物が、蓮と優也を誘った張本人―――永岡ゼミの紅一点、4年生の、藤森真琴である。
 普段は、真琴のズレた言動にいまいちついていけない優也だが、今日はちょっと違う。真琴の、どこか得意げな笑みの意味が、優也にもよくわかったから。
 「…やられました。マコ先輩が、卒研に万華鏡を選ぶとは、思ってませんでした…」
 少し恨めしげに優也が言うと、真琴はますます悦に入った様子で笑った。が、笑った、といっても、その笑いはへらへらと脱力した笑いだ。
 「この前秋吉君が、“位相幾何学(トポロジー)で考える万華鏡”に興味ある、って言った時に、あー、この子もそーなんだぁ、と思ったの。でも、同期じゃないし、まっいっかぁ黙っておいてもー、と思って。同期だと、卒研テーマが重なっちゃったら大変だけどねー」
 これだけの言葉を喋る間に、時計の秒針が、270度回転した。
 …このスローテンポが、曲者だ。あまりのスローさに、優也は、ちょっと文句を言うべき場面なのにその気を削がれてしまい、隣で見ている蓮は、イライラを余計募らせた。
 真琴と優也のやりとりに、他の先輩たちも気づき、わらわらと群がってきた。
 「残念だったなぁ、秋吉。マコと同じテーマだなんて、同情するぞ」
 「いや、ものは考えようだ。秋吉には、マコという礎があるってことだぞ。秋吉、マコを踏み台にして、より高い次元を目指すんだ」
 「なーに、どのみち、秋吉がやるのはマコが卒業した後なんだから、気楽にいけよ」

 ―――…マコ先輩って、就職しないで、院に進むんじゃなかったっけ。
 嬉々として優也をからかいまくっている先輩たちを横目で見つつ、蓮は心の中で、そう呟いた。
 勿論、そんなことは、優也も先輩たちも知っている。知ってるからこそ、優也は頭を抱え、先輩たちは面白がってからかうのだ。
 院に進む、ということは、今ここにいる院生のように、来年も真琴はここに顔を出す訳だ。そして優也は、その真琴の目の前で、真琴がやったのと同じ研究について研究することになる。
 …やり難いこと、この上ない。特に―――相手が、真琴では。

 藤森真琴は、喋り方でもわかるとおり、日常生活においては異常なまでにスローな人間である。
 会話がかみ合わないことも多く、強烈な天然ボケをかますことも多い。初顔合わせ時、蓮の顔と頭を見て真琴が放った「随分あっさり顔の外人さんなんですねぇ〜」との感想には、その場の全員がぶっ飛んだ。
 そんな風に、言動全てがトロく、言ってることも非論理的な真琴なのに―――こと、数学に関しては、何故かゼミ中最も優秀な学生なのだ。
 難解な計算式をホワイトボードに凄くゆっくり書き、発表も超スローペース、だけど出て来た答えは正解だし、理論も簡潔で破綻がない。先輩たちの言葉を信じるなら、計算を解くのも一番速いらしい。瞬時に解いているのだが、手を挙げるのも解答を述べるのも遅いため、ノロいと誤解されているのだという。
 そんな真琴と、同じテーマをやりたい訳だ。優也は。
 ただでさえ、去年同じことをやった奴の前で、というのは、やり難いものだろう。その上、相手が真琴―――通常時はともかく、専門分野には天才的なものを持っている人物では、やりにくさ3割増しだ。

 「…ま…まだ3年生ですから。他のテーマも、探します」
 「バカ、弱気になるな、ドーンとぶつかってけ、ドーンと。そしてマコを超えるんだ」
 怖気づく優也に、院生がそう言って発破をかける。
 こうやって先輩たちが優也を構うのは、優也が愛されてるからだ。「卒研テーマとしては、どこいらへん狙ってるの?」と訊かれて正直に答えてしまう素直さと、控え目な性格が好かれているのだろう。それに対し、蓮の方は、おもちゃにもされないが世話を焼かれることもない。外見と無口すぎる点が原因かもしれない。まあ、蓮の性格上、優也の立場になるよりは、適当に放っておかれる方がラクチンなのだが。

 「ところでお前ら、今日、この後の予定は空けてあるんだろうな」
 突如、優也を羽交い絞めにしてからかっていた4年の先輩が、何故か蓮の方を見て、そう言う。
 まるで事前に空けるよう言われていたかのような先輩の言葉に、全く覚えのない蓮は、怪訝そうな顔をした。
 「え…、この後、ですか」
 「マコから言われただろ? 意見交換会の後、剣持ゼミとのコンパをやるぞ、って」
 「コンパ!?」
 聞いてない。全然聞いてない。慌てて優也に目を向けたが、優也だって聞いていないのは同じだ。なんですかそれは、という風に、眼鏡の向こうの目を丸くしている。
 そんな中、ノホホンとした真琴の声が、横から入ってきた。
 「あぁ、ごめぇん。2人に言うの、忘れちゃったよ〜」
 「えー、なんだよ」
 「でも、大丈夫なのです」
 何故か丁寧語になると、真琴は、へらっ、と笑った。
 「ユーたちの行動パターンは、ばっちり調査済みなのです」
 「……ユーたち……」
 「…って俺たちのこと?」
 どうしてそこだけ英語なんだ、という疑問を置き去りにして、真琴は自慢げに胸を張った。
 「穂積君も秋吉君も、今日はバイトがないのです。そして穂積君は、大学にはバイクで来ないのです。飲酒運転を理由に断ることは不可能なのです。そしてそして、密かにホモ疑惑をかけられている事実を知れば、その疑いを晴らすべく、参加するしかないのです〜」
 「えっ」
 「ホモ疑惑!!!??」
 どこの誰が、そんな疑惑を―――慌てて2人して研究室中を見渡すが、先輩各位の反応は薄かった。
 「なんだよ穂積、知らなかったのか?」
 「そうだよ、結構有名だぞ」
 「お前らいっつも一緒にいて、サークルにも入ってないし、コンパの類にもまるっきり参加しないし、女の子連れてる様子もゼロだし―――こりゃあの2人はデキてるな、って、思われても仕方ないだろ」
 「……」
 あんまりだ。サークルの類は面倒だから入っていないだけだし、酒の入ったどんちゃん騒ぎが好きじゃないからコンパに行かないだけだし、彼女持ちでもないのに女連れなのはおかしな話だし―――友人同士2人でいるだけで、なんでホモ扱いされなくてはいけないのだ。
 ということを訴えたかったが、あまりのことに、2人とも声が出なかった。
 「剣持ゼミは、参加メンバー7名中、なんと4名様が3年生なのです。ユーたちが来ないと、永岡ゼミは“新人のいない廃れ行くゼミ”に見えてしまうのです。よってユーたちは、永岡ゼミの名誉のためにも、参加するしかないのですぅ〜」
 「……」
 「おっ、なんだ穂積、その、いかにも“参加したくない”という目つきは」
 嫌そうに渋い顔をした蓮に、優也を羽交い絞めにしている先輩が、すかさずそう牽制球を投げる。そして、優也が絶対逃げられないよう、羽交い絞めにした腕をよりしっかり固定した。
 「ま、秋吉はこのとおり確保したし、なんならお前、帰ってもいいよ」
 「……」
 脱出不可能になった優也が、見捨てないでくれ、という目を蓮に向ける。背後の先輩は、してやったり、とほくそえんでいる。
 ―――畜生、性格見抜いてやがるな…。
 見た目では誤解されやすいが、ホモ疑惑までかけられている苦手な宴席に、こんな優也をたった1人で放り込めるほど、蓮は冷酷非情ではないのだ。


 かくして。
 蓮と優也は、強制的に、コンパに連行された。


***


 剣持ゼミ、とやらに全く興味のなかった蓮は(いや、勿論優也も)知らなかったのだが。

 「ねぇ、秋吉君って、どうして眼鏡やめてコンタクトにしないの?」
 「えー、何よ、穂積君全然飲んでないじゃないの。バイクじゃないんでしょ? 遠慮しないでガンガンいっちゃおうよ」

 右からも、左からも、自分たちの声より高い声が、ひっきりなしに飛んでくる。
 剣持ゼミからのコンパ参加者、計7名。うち4名様が3年生、とのことだが―――全員、女だった。それどころか、3年生以外のうちの1名までもが、女。真琴以外男だらけの永岡ゼミとは逆に、剣持ゼミは、女だらけのゼミだったのだ。
 ―――聞いてないっすよ、先輩。
 主犯格である4年生、および真琴を、蓮がギロリと睨む。だが、2人からすれば、何故に蓮がそこまで機嫌を損ねるのか、さっぱりわからない。
 「なんだよ。日頃、女っ気のない生活送ってる2人には、貴重な場だろ? 俺は感謝されこそすれ、恨まれる覚えはないぞ」
 「…はあ…」
 確かに女っ気のない生活なので、優也は微妙な表情ながらも、気弱にそう相槌を打った。が、蓮の方は不機嫌顔のままだ。
 「穂積君、そんな顔してると、ケーサツに捕まっちゃうよ?」
 枝豆をもぐもぐ食べながら、真琴がノホホンと口を挟む。そこまで凶悪な顔じゃないぞ、と思ったが、反論するのも面倒になった。大きなため息をついた蓮は、仕方なくビールを口に運んだ。

 正直、女だらけの席とわかっていれば、何が何でも拒否した。
 この年代の男が、全員、彼女が欲しくて欲しくて仕方ない状態だと先輩が思っているのだとしたら、それは大間違いだ、と大声で言いたい。恋愛に全然興味がない、むしろ邪魔だと思っている奴だっているのだ。そう―――まさしく、蓮のような奴が。
 でも、どうやら自分の方が特殊らしいことは、蓮だって自覚している。
 今日コンパに参加している永岡ゼミの面々でも、彼女持ちが3人もいるし(主犯格の先輩もその1人だ)、片想いでため息をついてる先輩もいる。この優也にしたって、隣に住むOLに想いを寄せてたりする。7名中5名が、一方通行を含め、何らかの恋愛をしている訳だ。5対2―――圧倒的マイノリティだ。
 ―――いや、マコ先輩だって、ああ見えて、口には出さないだけで誰か好きなのかもしれないしなぁ…。
 もしそうだと、7名中、自分1人が非恋愛状態ということだ。やだなぁ、とは思うが、しょうがない。

 「あっれー、眼鏡取った方が断然いいじゃない!」
 「ほんとほんと。ねぇ、コンタクトにしてみたら? イメージ変わるよ?」
 賑やかな声に、視線を隣の優也に向けると、優也はまた先輩に捕まって、眼鏡を取り上げられていた。
 「み、見えないんですってば…! 返して下さいよ、先輩っ」
 わたわた、と手探りで眼鏡を探す優也を、剣持ゼミの女の子のうち2名ほどが、可愛いー、などと言って笑っている。
 実際、眼鏡をかけているとのび太君っぽい優也だが、眼鏡を取ると、ハンサムではないけど、なんとなく可愛い顔に見える。可愛い、と言ってもアイドル歌手などの可愛さではなく、頼りなげで、年上の女が「しょうがない坊やねぇ」などと世話を焼きたがりそうな可愛さだが。
 優也の想い人も、かなり年上だ。が、優也の話では、既に振られ済みとのこと―――でも、由香理がそういう「年下を構ってやるタイプ」であるなら、優也の恋路は意外と明るいものになったかもしれない。
 考えてみれば、優也は自分たち3年生より、実年齢は1つ年下だ。目の前の剣持ゼミの女供は、全員優也より「お姉さん」な訳だ。振られてもまだ由香理を忘れられていない様子の優也には、確かに今日のコンパは、いい出会いの場かもしれない。
 ―――…まあ、秋吉のために参加したと思えば、いいか。
 そう考えると、不本意なものに参加させられた苛立ちが、幾分収まった。蓮は、直前までよりは少しはマシな気分で、ビールを味わった。

 そんな風に、ビールを飲んだり、おつまみをつまんだりしながら、主に質問攻めにあっている優也を眺めていた蓮だったが。
 「……退屈してる?」
 優也とは反対側の隣の席から、そんな声が聞こえた。
 最初、それが自分に対する質問だとは、わからなかった。何か今、隣から聞こえなかったっけ、という感じで隣に目を向けたら、隣の人とばっちり目が合ったので、今のって俺に言ったのか、と初めて気づいた。
 隣は、剣持ゼミの、3年生だった。
 顔を見るのは、初めてではない。が、知り合いでもない。多分、1年か2年の何かの講義が一緒だったのだと思うが、どの講義だったかすらわからない。
 ―――いや、それより……この子、最初から俺の隣だったっけ?
 確か隣には、剣持ゼミのマイノリティである男性が座っていた気がするのだが―――いつの間に席を替わったのだろう? 不思議に思って辺りを見渡すと、隣にいるものと思っていた男性は、真琴と何やら話し込んでいた。表情から察するに、酒の席には似つかわしくない、しち面倒くさい話題らしい。
 「…なんか、言った?」
 何と言ったかよく聞いていなかったので、とりあえず、そう訊ねる。すると彼女は、蓮の表情を窺うような上目遣いの目で、もう一度訊ねた。
 「退屈してる? って、訊いたの。なんだか、暇そうにしてたから」
 「…まあ、実際、暇にしてるけど」
 「じゃあ、少し、お話してもいい?」
 「……」
 改まって、お話、と言われても―――さあお話しましょう、なんてセッティングをして話したことなど一度もない蓮なので、どう答えていいやら、困る。
 が、困る必要などなかった。蓮が何も言わなかったのを「いいよ」という意味に解釈したのか、彼女は、ホッとしたような笑顔になると、自分の方から話題を振ってきた。
 「私ね、前から穂積君に訊いてみたいことがあったの」
 「何?」
 「穂積君、うちの学生では珍しいファッションしてるでしょう? 何かポリシーでもあるのかな、と思って」
 確かに―――名門高校出身者が多く、男女を問わずファッションは若干大人しめなこの大学では、蓮の格好は少々浮いている。服装自体はさほどでもないが、やはり、金髪にピアス、というのは「不良の象徴」っぽくて、ウケないのだ。
 とはいえ、何かポリシーがあるのか、と訊かれると……あるような、ないような。強いて言うならば―――…。
 「…髪黒い俺のままだと、兄貴の大学時代と、あんまり区別つかないから、かな」
 ぽつり、と呟くと、彼女は少し目を丸くした。
 「お兄さん、穂積君と似てるの?」
 「もうちょい、温厚な顔してるけど。背格好は似てるかな」
 「へーえ…。私にもお姉ちゃんがいて、結構私と似てるけど、別に何とも思わないなぁ…。お兄さんと区別つかないと、嫌なの?」
 「嫌な訳じゃ、ないけど」
 「ないけど……、何?」
 「…悪い。なんか、自分でもよくわからない」
 面倒な話に、これ以上突っ込まれたくない。それに、本当に自分でもよくわからない部分があった。もっと理由を聞きたそうな彼女に、蓮は、話を打ち切るようにそう言い、手元のコップを口に運んだ。
 「ふぅん……、で、でも、どういう理由でも、穂積君に似合ってるから、いいね」
 蓮が機嫌を損ねたとでも思ったのか、彼女は慌てたようにそうフォローを入れた。
 「あ……っ、そうだ。ね、穂積君て、バイクが趣味なんでしょう?」
 「ああ、まあ」
 「大学に乗って来ないの? 一度見てみたいなぁ、っていつも思ってるんだけど、その機会がないのが残念で」
 ―――いつも、って…。
 一体、いつからそんな事を思ってたのだろう? 知り合いでもないのに変なことを言う奴だな、と、蓮は少し眉をひそめた。
 「…大学、安心してバイク停めるとこ、ないし」
 「あー、そっかぁ…、駅から凄く近いから、車とかで来る人も少ないもんね、うちって」

 そんな感じで、その後も彼女は、あれやこれやと質問してきた。
 服装はハードロックっぽいけれど、好きな音楽もそうなのか、とか。
 永岡ゼミの講義は面白いのか、とか。
 かなりの読書家だという噂を聞いたが、どういった本を読むのか、とか。
 なんでそんなに色々知りたいんだろう? と不思議に思いつつも、他にやることもないので、適当に答えていた蓮だったが―――最後の質問は、思いがけないものだった。

 「……穂積君って、彼女、いるの?」
 退屈してる? と訊いてきた時とよく似た、蓮の表情を窺うような目をして、彼女が訊ねる。
 「…いないけど」
 その答えに、彼女は、どこか落ち着かない様子で、
 「そ、そうなんだ」
 という曖昧な相槌を打った。

***

 彼女の質問攻めに付き合っているうちに、居酒屋を押さえていた2時間が過ぎ、会はお開きとなった。
 「どうするー? カラオケに流れよっか」
 「あ、いいねー」
 どうやら、会の主導権は、剣持ゼミの4年生女子が握ってしまっているようだ。彼女が言い出したカラオケ案に、永岡ゼミの一部と剣持ゼミの大半が賛同した。
 「ワタシは帰るなりよ〜。音痴だから騒音にしかならないから〜」
 いい気分で酔っ払っているらしい真琴は、そう言って、早くもその場から離脱してしまった。送る者が名乗り出る暇も、引き止める者が声をかける暇もないほど、その撤退振りは素早かった。にしても、「〜なりよ」という妙な語尾は、今日初めて聞いた。日中に聞いた「ユーたち」もそうだが、一体どういう事情でああいう不可解な言葉遣いになるのだろう?
 「秋吉君は、行くでしょー?」
 すっかり剣持ゼミ女性陣のおもちゃ化してしまった優也は、1人の女の子に腕を引っ張られていた。が、カラオケなんて、優也からすれば究極の地獄だ。人前で話すのもキツイのに、歌うなんて拷問だ。
 「あ…あの、僕も、カラオケはパスで…」
 「ええ、なんでぇぇぇ?」
 「穂積君、行くでしょ? 穂積君行くなら秋吉君も行くよね」
 1人が蓮にそう言う。が、よくぞ2時間耐えた、と自分を褒めたい位なのに、カラオケなんて冗談じゃない。蓮は即座に答えた。
 「いや、俺も、もう帰るんで」
 「…えっ、帰っちゃうの?」
 蓮の返答に、さっきまで蓮を質問攻めにしてたあの子が、そんな、という声を上げた。
 「ほらー、ヨシミだって残念がってるじゃない」
 「穂積君も行こうよ、カラオケ」
 どうやら質問ばかりしていた子の名前は、ヨシミだったらしい。こんな別れ際でわかるというのも、変な感じだ。
 その後も、あちこちから、途中離脱は許さん、といった声が上がったが、何と言われようと嫌なものは嫌だ。明日早朝から用事があるから、と、ありもしない用事を理由にして、蓮は優也の腕を引っ張って、その場を後にした。
 ―――ところが。

 「穂積君……!」
 もう最寄り駅に着こうかというところで、突如、背後から高い声が追ってきた。
 優也と2人して、驚いて振り向くと、声の主は、さっき他の連中と一緒にカラオケ店へ向かった筈の、ヨシミだった。
 「あ…あれ? カラオケは?」
 優也が訊ねると、彼女は、曖昧な笑みを優也に向けて、「ちょっと、ね」と答えた。
 チラッと蓮の方を見、それから再び優也に目を向けた彼女は、思いがけないことを言い出した。
 「…あの、秋吉君。ちょっとだけ、穂積君借りてもいい?」
 「え?」
 優也だけじゃなく、蓮の目も丸くなる。
 でも、なんで俺が、と状況が把握できずにいる蓮とは違い、優也の方は、すぐに何かを悟ったような表情になった。笑顔になると、ヨシミに軽く頷いた。
 「いいよ」
 「えっ」
 この「えっ」は、ヨシミではない。蓮の声だ。
 「じゃあ穂積、僕、改札のところで待ってるから」
 「お、おい、秋吉」
 ―――なんだよ、人を勝手に貸し出すなよっ。
 1人、事態を理解したような顔をして笑顔で去って行く友人に、蓮は呆然と立ち尽くした。だが、呆然としている時間は、あまりなかった。
 「ご…ごめん、ね。急に、こんなとこで呼び止めて」
 ヨシミが、気まずそうな声で、そう謝る。まだ呆然としている蓮は、それに、リアクションらしいリアクションを返せなかった。
 とりあえず、もう駅前の雑踏に紛れてしまった優也の背中から、ヨシミの方に視線を移す。蓮と目が合ったヨシミは、声同様気まずそうな顔を少し赤らめ、目線を僅かに下に向けて、焦ったように喋りだした。
 「あ…っ、あの、ね。実は、ね。今日のコンパ、みんなが、私のために企画してくれたようなものなの」
 「は?」
 「そ…っ、その、他のみんなが、私の気持ち知ってて、それで……」
 「気持ち?」
 って、何?
 蓮が眉をひそめると、更に顔を赤く染めた彼女は、ソロソロと顔を上げ、また上目遣いに蓮を見上げた。
 その表情を見て、遅ればせながら、蓮も事情を多少理解した。
 そしてヨシミは、想像したとおりの事情を、消え入りそうな声で口にした。
 「……わた、し……前から、穂積君が、好きだったの」
 「……」
 「…彼女、いない、って言ってたよね。…あ…あの、もし―――もし今、好きな人とかいないんだったら、私と……付き合って、もらえない?」

 あまりにも突然な、告白。
 蓮は、優也に貸し出されてしまった時以上の唖然とした表情で、彼女を見下ろした。


***


 「おーい」
 蓮が声をかけると、優也は、びっくりしたような顔で振り返った。
 優也が、蓮と彼女を置いて駅へと消えてから、まだ5分ほどしか経っていない。優也の目が、もう1人の人影を探すように、あちこちを彷徨う。が、ヨシミの姿は、どこにもなかった。
 「え…っ、も、もう話、終わっちゃったの?」
 「うん、終わった」
 蓮はあっさりそう答え、早くも定期券を取り出した。慌てて優也も定期券を出し、2人して改札をくぐった。
 電車がちょうど行ってしまったところらしく、電車を降りた客が、向かいから次々に歩いてくる。その流れが切れた頃合を見計らって、優也は、少し先を歩いていた蓮に追いつき、恐る恐る訊ねた。
 「―――…あの、さっきの子の用事って……告白、じゃなかった?」
 あまりにも早く蓮が戻ってきたので、もしかして自分の勘違いだったんだろうか、と思ったらしい。内心苦笑した蓮は、ボソリと、
 「…ん、まあな」
 と答えた。
 「ず…随分早く、終わっちゃったね」
 「…そうかな」
 「……ええと…、で、結果って、どうなったの?」
 「断った」
 即答。
 あまりにキッパリした返答に、優也は暫し、目を見張り、言葉を失った。が―――やがて、落ち込んだような表情になると、僅かにうな垂れた。
 「そ…っかあ…。可愛い子だったのになぁ…」
 「なんだ、秋吉の好みだったのか、ああいう子」
 「いや、僕の好みとかそういうんじゃなくて―――今日来てた子の中では、一番可愛い顔してたと思うよ? 他の女の子からも、ヨシミちゃんは結構モテる、って聞いたし」
 自分がヨシミの質問攻めに遭っている間に、優也と他の女の子たちがそんな話をしていたとは―――考えてもみなかった優也のセリフに、蓮は、参るよなぁ、とため息をついた。
 電車が行ってしまったばかりのホームは、閑散としていた。ベンチも空いていたので、2人は並んで座った。
 「穂積、なんで断っちゃったの?」
 妙に残念そうな目で蓮を見て、優也が問う。そんな目をされても困る、と蓮は僅かに眉根を寄せた。
 「なんで、って……その気がないから、としか言いようがないよ」
 「好みじゃなかった、ってこと?」
 「好み云々じゃなく―――俺、誰とも付き合う気ないから」
 「え?」
 「あの子とも、それ以外とも、相手が誰であれ付き合う気ないんだ」
 「……」
 その言葉に、優也はキョトン、と目を丸くした。
 目を丸くしたまま、暫し、考える。そして、彼なりの答えをはじき出したのか、探るような目つきになり、声を少しひそめた。
 「―――もしかして穂積、やっぱり最近、失恋した?」
 「…あのな。その話なら、今朝きっぱり否定しただろ?」
 「だって―――じゃあ、なんで? 別れた彼女が忘れられないから、とか、そんなんじゃないの?」
 「ちーがーうって。第一、女と付き合ったことないのに、どうやって“彼女と別れる”んだよ」
 むっとしたように蓮が言うと、優也の目が、さっきより更に大きく見開かれた。
 「えっ!! ほ、穂積、女の子と付き合ったこと、ないの!?」
 「…なんでそんなに驚くんだよ」
 「だ、だって……なんとなく、今はいなくても、過去には何人かいただろうと思ってた。…あの、ほんとに?」
 「…なんだよ、悪いか? そう言う秋吉はどうだよ。誰かと付き合ったこと、あるのか?」
 「…ないよ。僕はなくて当然だよ。平均以下だし、自分から行動起こさないし―――こんなんで彼女いたら、奇跡だよ」
 そう卑下するほどの外見じゃないと、蓮は思うのだが……行動云々は、確かに頷ける。同性に対してすら臆してしまう優也には、女性に自分の気持ちを伝えるような真似は、なかなか難しいだろう。
 「でも、穂積は意外だよなぁ…。結構モテそうだし、僕と違って行動派なのに、なんで?」
 「なんで、って言われても…」
 困ったような顔になった蓮は、ベンチの背もたれに寄りかかり、はぁ、と息をついた。
 「まあ、なんていうか―――俺、恋愛に興味、ないし」
 「……」
 前のめり気味に座っていた優也が、その言葉に、驚いたように隣の蓮を見る。ベンチの奥行き分だけ、蓮を振り返るような形になった優也は、不可解な言葉でも聞いたような顔をしていた。
 「興味、ない?」
 「ない。そもそも俺、女って生き物があんまり好きじゃないし。だから、言い寄られて、ちょっとは“いいな”と思っても、そう経たないうちに、嫌になる」
 「…え? え? あ、あの、穂積、今まで女の子好きになったこと、ないの?」
 「いや、むかーしは、あるよ。小学生の頃とか。でも、思春期に“女って嫌な生き物だな”って感じてからは、ない」
 「……」
 「なんか、女って、恋愛絡むと嫌な面が多くて。友達ならいい奴いっぱいいるのに、愛だ恋だ言い出すと、急に猫被ったり、他の女牽制したり―――そうじゃないのもいると思うけど、俺の周りは、そういうのが多かったから」
 「…お…女運が、なかったのかな…」
 優也の顔が、若干引きつる。どうやら優也は、そういう女を見たことがないらしい。見ない方が幸運だぞ、と蓮は思った。
 「で、でもさ。中高生位だと、男子の間で、その……猥談で盛り上がったりするよね。好きな子がいるとか、女の子の性格がどうこう、じゃなく、なんていうか―――異性、っていうのに、興味があるというか、何というか…」
 はっきり言うのが恥ずかしいのか、優也がごにょごにょと、そんなことを言う。今度は蓮の方が、ちょっと目を丸くした。
 「へぇ。秋吉でも、そういう猥談することって、あるんだ」
 「い、いや、僕はただ巻き込まれて聞いてるだけだったけど……でも、興味がなかった訳じゃない、し。…というか、誰でも興味持つのは自然なことだし。穂積だって、そうじゃない?」
 「…まあ、そりゃ、雑誌とかでそういう写真見れば、当然興奮もするけど…」
 ううむ、と唸ると、蓮は、少し首を傾けた。
 「その興奮を、実際に女と付き合って発散するよりは、バイクで高速ぶっ飛ばして発散する方が、俺好みかも」
 「…ごめん。僕にはそれ、よくわかんない」
 「だよ、な。…でも俺は、女、女って騒いでた周りの連中の気持ちの方が、わからないよなぁ…。そんなにいいもんかな、女って」
 「うーん……僕も、高校の頃に騒いでた連中の気持ちは、あんまりわからなかったけど…」
 そこで言葉を切った優也は、少し遠くを見るような目で、ふわりと微笑んだ。
 「…でも、好きな人と触れ合えるのって、そういう欲求とはまた別次元でも、凄く幸せな気分だったけどなぁ…」
 「―――…」

 一瞬、そのままスルーしそうになって。
 でも、その意味に気づいて―――蓮は、固まった。

 「…………え?」
 蓮が、不自然なほど長い間のあと、そう言うと、優也は、またキョトンとした顔になって、蓮の顔を見た。
 「何? どうかした?」
 「…凄く、幸せな気分―――“だった”?」
 「? う、うん…。変?」
 「……」
 切れ長の目を丸くしている蓮を、優也は、暫し不思議そうに見つめた。
 そして、蓮が固まってしまっている理由が、どうやら「幸せな気分」じゃなく「だった」という過去形にあるらしいと気づき―――この表情の意味も、理解した。
 途端、優也の顔が、かあっ、と赤くなった。
 「あ…っ、あ、あの、そそそそそれは、あの、1度きりだし、事故みたいなもんで、ええと」
 「…まさか、あの隣のOL?」
 うっ、と優也が言葉につまる。…ビンゴだ。
 「で…っ、でも、経験1回の僕が言うのも変だけど、それに近い感覚って、あるんじゃないかなぁ? 穂積も、ただの欲求発散だけじゃない、嬉しいとか楽しいって感じを覚えた相手、1人くらい、いなかった?」
 慌てふためいたように、優也がそう訊ねる。
 が、蓮の方は、目を丸くして固まったまま、一言も発しない。まるで、史上最大のショックを受けたような顔で、ずっと優也の顔を凝視している。
 その様子に、あれ? と違和感を覚えた優也だったが。
 数秒後―――ある可能性に行き当たり、冷や汗が体中から吹き出してくるのを感じた。
 「……」
 「…………」
 双方、無言のまま、暫く時間が過ぎる。その沈黙は、次の電車の到着を告げるアナウンスによって破られた。
 「…き…来た、みたいだね」
 「……」
 「…行こっか」
 気まずさに耐えられず、優也が先にベンチから立ち上がる。少し遅れて、フリーズ解除となった蓮も、立ち上がった。

 「―――念のために、訊くけど、」
 斜め後ろから、蓮が優也に、低く訊ねる。
 「俺って、そんなに、遊んでるように見えるかな」
 ああ、やっぱり―――吹き出す汗にますます焦りつつ、優也は、ぶんぶん首を振った。
 「そ……そうじゃなくて、な、なんか……穂積って、モテそうな外見だし、日頃の態度も、いろんな事に慣れてそうっていうか、他の3年より余裕あり気、っていうか…」
 「…そっか」
 「ご…ごめん」
 蓮のことを、絶対経験アリ、と思い込んでいた優也が謝ると、
 「……いや、俺の方こそ、ごめん」
 優也のことを、絶対自分と同類、と思い込んでいた蓮も、謝った。


 ―――やっぱり、人間は、外見で判断しちゃいけないよな。
 この日、蓮と優也は、それぞれの胸中で、全く同じことを思った。


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