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― 人形の夢と目覚め ―

 

 姫川リカ。1982年9月生まれ。神奈川県出身。
 01年冬、ナルミ・ビューティーコンテスト3位入賞を機にモデル活動を開始。02年夏、糸山奈々子氏の写真集『DOLL』で、人形(ドール)モデルの1人を務め、注目される。
 現在、主にファッション雑誌などで活躍中。


 ―――“人形(ドール)”モデル、ねぇ…。
 略歴の上に印刷された写真を見て、奏は眉をひそめ、ため息をついた。
 糸山某については全然知らないが、想像するに、わざと人間に人形の役をやらせて撮ったような写真集なのだろう。だとすれば、この姫川リカというモデルは、その役にぴったりだ。
 人形役でも何でもない、ただのプロフィール写真でさえも―――姫川リカの顔は、呆れるほどに「お人形」なのだから。

 「あれぇ…? もしかして、一宮さん?」
 半信半疑、といった声が頭上から降ってきた。
 聞き覚えのない声に顔を上げると、そこには、どことなく見覚えのある男が立っていた。誰だっけ―――記憶の底を漁っているうちに、どうやらピンときてないらしいな、と悟った相手の方から、忘れてた記憶を引っ張り出してくれた。
 「ああ、覚えてないかぁ。新年の中森先生のショーでご一緒した、中村ですよ」
 「……あー! もしかして、ヘアメイクの!」
 言われて、思い出した。
 新年早々にあった、中森和泉のファッションショー。奏はモデルとして出演していたのだが、その時のヘアメイク担当が、今目の前にいる中村だった。仕事の時は、髪が邪魔にならないようになのか頭にバンダナを巻いていたのだが、今は彼の頭にバンダナはない。そのせいで印象が変わったために、奏もすんなり思い出すことができなかったのだ。
 「どうも、あの時は、お世話になりました」
 立ち上がり、奏が笑顔でそう言うと、中村の方も、いえいえ、と言って会釈した。
 「でも、よく覚えてましたね、オレの名前。仕事ってあの1回きりでしょう?」
 「いやー、僕自身あんまりモデルさんの名前を覚えられる方じゃないんですけど、一宮さんは異色でしたからね。外見もだし、キャラクターも」
 「ハハハ」
 まあ、そうだろう。ハーフも少なくない業界だが、イギリスから日本に出稼ぎに来ているハーフなんて皆無だし、奏レベルに白人寄りなハーフも珍しい。その上、中身が外見とは相当ギャップのある2枚目半ときているのだから、「異色」と感じるのも無理はない。
 「あれ? でも、今日の撮影は、モデルは1人だったんじゃあ…」
 控え室の中をキョロキョロ見回して、中村が不思議そうな顔をする。苦笑した奏は、違う違う、と首を振った。
 「今日はオレ、メイク担当として来てるんですよ」
 途端、中村は、オーバーなほどに目を見開いた。
 「えー! あの話、冗談じゃなかったんだ。黒川賢治の弟子、って」
 「マジです。ってか、そんなのジョークじゃ言えないでしょ」
 「ま、まあ、そうですけどねぇ……。しかし、アレだなぁ。想像つかないなぁ、一宮さんがブラシとか駆使してる姿」
 「そんなの、想像しなくても、今日実際見れるし。…ただし―――…」
 ちょっと言葉を切った奏は、さっき中村がやったのと同じように、控え室の中をキョロキョロ見回した。
 「―――肝心の主役が来ないと、話にならないんだけど」

 見渡した控え室には、スタイリストがせっせと衣装を整えているばかりで、本日の主役の姿は、まだ、ない。
 けれど―――壁に掛かっている時計の針は、スケジュール表にあった現場入りの時刻を、既に5分、超えていた。

***

 考えてみれば、最初から、なんとなく嫌な予感のする仕事だった。
 瑞樹経由で、突如舞い込んだ、メイクの仕事―――勿論ありがたい話だし、瑞樹と一緒に仕事ができるというだけで、他のマイナスはチャラにしてもいいや、と思える。それでも……奏は何故か、この仕事の話が来たその時から、形容しがたい「嫌な感じ」を覚えていた。
 懸念材料は、何もない筈だ。なのに何故、そんな風に感じるのか、自分でもよくわからなかった。が…、現場入りして、改めて本日のモデルの写真を見ていたら、その理由がなんとなくわかった。
 ああ―――要するに、このモデルそのものに、嫌な予感を覚えてるんだな、と。


 「おはよーございまーす」
 予定より20分遅れで登場したモデルは、少しも悪びれた様子を見せず、あっけらかんとそう挨拶した。
 「お、遅くなって申し訳ありません。思わぬ渋滞に巻き込まれてしまいまして…」
 1歩遅れてやってきた、マネージャーと思しきスーツ姿の女は、モデル本人とは対象的に、へこへこと頭を何度も下げつつ、誤魔化し笑いとも何ともつかない独特の笑みを、顔の表面に貼り付かせていた。
 「本日のモデルを務めます、姫川リカです」
 「よろしくお願いしまぁす」
 マネージャーに促され、リカは、二コリ、と笑った。軽く会釈したその動きに合わせ、顎のラインで切り揃えられた真っ黒な髪が、軽く跳ねた。
 ―――うーん。動く日本人形だ。
 写真で見たままの容姿が目の前で動くのを見て、奏は、内心そう呟いた。
 黒髪によくマッチする白い顔、勝気そうな大きな目、比較的肉厚な唇―――インパクトの強いその顔は、純然たる日本人形の顔とはほど遠い。だが、こうして動いているのを見ても、お人形、という感じがしてしょうがない。
 同じ色白黒髪ならば、まだ蕾夏の顔の方が本来の日本人形に近い筈だが、蕾夏が人形に見えたことは一度もない。何が違うのだろう、と首を傾げてしまうが、まだ顔を見て1、2分では、その理由などわかる筈もなかった。
 奏や中村たちも、それぞれに一言ずつ挨拶をし終えると、控え室は一気に慌しくなった。
 「えー、時間も押してますので、みなさん急いでお願いします。カメラテストは予定通り、12時から行います」
 そんな担当者の声をそれぞれが背中に聞きつつ、それぞれが、それぞれの作業に取り掛かった。

 「そう言えば、いつものメイクさんって、どうした訳?」
 手にしていたバニティバッグを置き、鏡の前に腰掛けながら、リカが怪訝そうな顔をする。その視線は、鏡越しに奏に向けられていた。
 今日の仕事は、メジャーとは言い難いファッション雑誌の表紙撮影だが、資料によると、リカは1年契約でこの雑誌の表紙を毎号務めているらしい。恐らく、裏方の人間も毎回ほぼ同じなのだろう。リカがいつものメイクとどの程度親しいかは不明だが、事情がメイクのプライベートなことなだけに、無関係な奏が軽々しく明かしていいかどうか、微妙な感じだ。
 「…いや、オレもよく知らないけど、やむを得ない事情があったみたいっすよ」
 適度にぼかして奏が答えると、鏡の中のリカは、さして興味もなさそうな顔で、ふーん、と言った。
 「ま、いいけど。1回仕事蹴ったら、次から切られてもしょうがないよね。向こうからコケてくれるなんて、ラッキー。あのメイクさんて、なんか合わないんだもん」
 「……」
 「あーあ、渋滞でイライラしたから、喉渇いちゃった。梅ちゃぁん、ジュース買って来て」
 梅ちゃん、とはマネージャーのことらしい。どこか気弱そうなマネージャーは、リカのオーダーに、そそくさと廊下へと駆け出して行った。
 「あ、リカちゃん、ちょっと動かないでね」
 中村が横から手を出し、パパパッ、と手際良く前髪や横の髪をクリップで留めていく。メイク前の下準備だ。サンキュ、と中村に小声で礼を言い、奏はさっそく、今リカがしているメイクを落とし始めた。すると、鏡の中のリカの表情が、うんざり顔に変わった。
 「もぉ、中村君ー、やだって言ったじゃない。リカ、もっとちっちゃいクリップでないと、頭痛くなっちゃうんだってば」
 「ごめんごめん。でも、そんなに時間かからないから、ちょっとだけ我慢して」
 慣れているのか、中村はあっさり、そう言ってリカを宥める。が、リカはまだまだ不満顔だ。
 「だったらメイクのあんた、5秒で終わらせてよっ」
 「…んな無茶な」
 思わず、素で返してしまう。そんな奏をフォローするかのように、中村がまたリカを宥めに入る。
 「そ、そりゃあ無理だよ、リカちゃん」
 「じゃあ、他のクリップに替えてやり直してよっ」
 「今日持ってきてる中で、これでも一番小さいクリップなんだよ」
 「えー、何それ、使えないー。だったらクリップなしで何とかしてよ。リカが頭痛くて撮影できなくなってもいいの?」
 「ほら、ちょっと緩めたから。これなら大丈夫でしょ」
 「リカー、お待たせ、買ってきたわよー」
 奏が無言で作業を続け、中村とリカがああだこうだ言い合っている間に、ジュースを買って来たマネージャーが戻ってきた。
 コトン、と置かれた缶ジュースを一瞥したリカは、これまででも十分不満そうだった顔を、更なる不満顔にグレードアップさせた。
 「えぇ? 何よ、オレンジジュースって! リカがジュースって言ったらアップルでしょぉ?」
 「売り切れてたのよ。オレンジも時々飲んでたから、いいでしょう?」
 「売り切れてた、って、廊下の自販機? だったら、コンビニで買ってくりゃいいじゃない。走れば2分でしょ」
 「あ、あのね、リカ。カメラテストまであんまり時間もないから…」
 「もぉ、いいわよっ。オレンジジュース飲む位なら、水の方がマシだもん。緑茶なかった? 緑茶でいいよ、緑茶買ってきてよ」
 「りょ…緑茶ね。おーいお茶、でいい?」
 「うん。…ちょっとぉ、飯田さん。それって今日の衣装? 何それ、センスないなぁ」
 鏡の端にスタイリストが用意した衣装を見つけ、また文句をつける。飯田と呼ばれたスタイリストは、それでも引きつった笑顔をキープした。プロ根性だ。
 「ウィルマの秋の新作なのよ。表紙には新作使うの、リカちゃんも知ってるでしょ」
 「他にも新作あるじゃない。なんでウィルマなのよ、サイテー」
 「…リカちゃん、ウィルマがお気に入りなんじゃなかった?」
 「あのねぇ、好みも流行も、日々変わるもんなのっ。もー、やだなぁ、乗らないよなぁ、今日の仕事」
 「―――…だったら帰れ」

 ボソリと呟かれた低い声に、場の空気が、一瞬、凍った。
 それと同時に、鏡の中のリカの表情も、凍った。

 声の主が誰なのかは、誰もがわかっていた。
 リカの背後に立つ奏の、ファンデーションのボトルを持つ手が、怒りのあまり、小刻みに震えていたから。
 よくぞここまで我慢した、と、我ながら思う。もう限界だ。プルプル震える手に更に力を込めた奏は、鏡越しにリカを睨み据えた。
 「そこまで不満タラタラなら、とっとと帰れよ」
 「……」
 「こっちはあんたの下僕でも召使いでもないんだし、ギャラを払うのはクライアントであって、あんたじゃないっつーんだよ。どっかのお姫様にでもなったと錯覚するようなおめでたい脳みそしてんのかよ。え?」
 怒りを必死に抑えたような奏の声に、リカの唇が僅かに震えだす。が、お姫様はその程度でしょげかえるほど素直な性格ではなかった。気圧されたような表情は一瞬のことで、すぐにキッ、と眉を上げ、逆に奏を睨み返した。
 「…な…な…何よっ! あんたこそ、何様のつもりよっ! たかがメイクの癖に!」
 「なーにーがー“たかがメイク”だよっ! たかがと思うんなら、テメーでメイクしてみやがれっ!」
 「お、おい、一宮さん、」
 中村が慌てて止めに入るが、時、既に遅し。完璧にぶち切れてしまった奏は、ドン! とファンデーションのボトルを置き、直接リカの顔を睨みつけた。
 「大体、ヘアメイクとかスタイリストとかアシスタントとか、裏方の人間を軽んじるモデルってのは、仕事の上でも碌なもんじゃない、ってのが、モデル業界の定説なんだよ。オレが昔付き合ってたパリコレ常連のモデルなんて、楽屋入りする時、裏方全員に“みんなで食べて下さい”ってクッキー持参してた位なんだからな。本物のプロはそーゆーもんなんだよっ。日本のマイナー雑誌の表紙を飾ってる程度のしょぼいモデルが、勘違いしてふんぞり返ってるなんて、日本モデル業界の恥だぞ、恥!!!」
 「……だ、」
 「もう貴様は動くな! 何も喋るな! これ以上何か言ってみろ、パンダみたいなすさまじいメイクで、カメラの前に立たせるからな!」
 「…………」

 奏以外が全員固まる中、バタン、と控え室のドアが開いた。
 「お待たせー。リカ、ほら、リクエストのお茶よ」
 場違いなマネージャーの声が、空しく控え室に響く。緑茶のペットボトル片手に営業スマイルで飛び込んできたマネージャーは、凍りついた場の空気に気づき、不思議そうに目を丸くした。
 「…ど…、どうか、しましたか?」
 「―――とっととやっちゃいましょう、中村さん」
 憮然として奏が言うと、固まっていた中村も、ハッとしたように、
 「あ…、ああ、やっちゃいましょうかね。さっさと」
 と言って、やりかけの作業に戻った。

 止まっていた時間が、流れ始める。
 動くな、喋るな、と言われたせいではないだろうが、リカはその後、ピクリとも動かなかった。棒でも飲み込んだような顔で、ただ黙って、スツールに腰かけたままでいた。おかげで、奏のメイクは手際よく進み、同時進行で行われた中村のヘアメイクも実に順調に進んだ。
 「……ちょっと、訊いてもいいかな」
 メイクも終盤に差し掛かった頃、無事髪を内巻きに仕上げた中村が、こそっと奏の耳元に囁いた。
 「パリコレ常連モデルと付き合ってた、って…本当?」
 「……」
 ぶちキレたせいで、余計なことまで言ってしまったらしい。変な汗がじわりと滲むのを感じつつ、奏は、不自然な笑みを作った。
 「…一応は。1週間で、別れたけど」
 「も、もったいない…」
 「彼女の徹底した自己管理ぶりに、ついてけなくなったんで。午後9時就寝義務の女とは、生活パターン合わないっすよ…」
 「…確かに」
 傍目には頂上に君臨し、優雅な生活を送っているように見えている者でも……いや、そういう立場の者だからこそ、駆け出しの新人以上に周囲に気配りし、自制した生活を送るものなのだ。地位にふんぞり返っていれば、あっという間にその場から転げ落ちる。トップを維持するには、努力が必要なのだ。
 そんなことも、こいつは全然わかってないんだろうな―――紅筆を走らせながら、奏はうんざりした気分で、目の前にある顔をチラリと見た。

 黙って座っているだけのリカは、先ほどの挨拶の時とは違い、人形めいては見えない。わがまま放題言っていた時などは、人形どころか、奏をキレさせるほどに「しょーもない奴」だった。
 何故、あの最初の笑顔だけ、異様に「お人形」に見えたのだろう?
 本心を隠して無理矢理作った笑顔だったから? 確かに、作り笑いというのは、誰しも不自然になってしまうものだが……そういうレベルじゃなく、あの時のリカは、作り物めいていた。

 ―――営業スマイル1つ、満足に作れないような奴が、カメラの前で自然な表情なんて作れんのかよ…。
 っつーか、ハタチ超えて自分で自分を「リカ」って呼んでる時点で、キャラ的に痛すぎだろ。

 この撮影、大丈夫なんだろうか―――写真を見た時以上の嫌な予感に、奏は内心、ため息をついた。

***

 結局、撮影は、予定より10分ほど遅れて始まった。

 撮影現場を見た奏の感想は、一言、悪趣味だ、だった。
 リカが今着ているのは、ゴスロリ、と呼ぶには中途半端な、けれど日常服とは到底思えない、フリフリヒラヒラのダークな色合いの重ね着ルックだった。耳上の髪を留めているピンにしろ、アクセサリーにしろ、その全てが非日常的―――そう、まるで、18世紀、19世紀の西洋人形みたいな格好なのだ。
 そして、グレーのグラデーションのホリゾントの中央には、アンティーク調のデザインの椅子が、1脚。しかも、その背もたれには、これまたレースのカバーがついたクッションまで置かれている。あまりのヒラヒラさに、眩暈がしてきそうだ。
 このテイストそのものが、奏の感覚からするとあり得ない世界なのだが―――何より悪趣味なのは、そのモデルが、リカであること。
 人形チックな外見のモデルに、人形チックな服を着せるとは……なんだか、リアル着せ替えみたいで、キモチワルイ。
 「…この雑誌を読むのって、どういう客なんだろう」
 壁際に立ってポツリと奏が呟くと、隣で待機していた中村が、こっそり教えてくれた。
 「ああいうファッションで街中歩く子、結構いますよ。そういう子が読むのと、あとは、ああいう格好に“萌え”てる一部のマニア、かな」
 「局部的にメジャーなのか…」
 こんな特殊趣味の仕事、よく成田がOKしたな―――カメラの最終チェックをしている瑞樹を眺め、奏は感心したように息をついた。
 実際のところ、奏にこの話が来た時点で、既に撮影コンテは出来上がっていたし、当日着る服も確認済みだった。つまり、瑞樹は、こういうコンセプトと承知の上で了解した訳だ。
 瑞樹曰く、今回、クライアントと揉めてしまったカメラマンが「以前世話になった人だから」とのことらしいが―――ファッション業界にいる奏ですら引きまくりのこの状態に、人一倍こういう甘いテイストが大嫌いな瑞樹じゃ、今頃、全身鳥肌だらけに違いない。どれだけ世話になった相手だか知らないが、断った方が賢明だったのではないだろうか。

 「じゃ、始めます」
 スタッフ一同に瑞樹が合図を送ると、場が一気に緊張した。奏も、僅かに緊張したように背筋を伸ばすと、セット中央に立つリカの姿を見据えた。
 あまりノリの良くない音楽が流れる中、リカはまず、置いてあった椅子に腰掛けた。
 どうするのかな、と見守っていると―――なんとリカは、そのままだらん、と体の力を抜いて背もたれに体を預けると、まるで本物の人形よろしく、全くの無表情でカメラの方を見つめた。
 「―――…」
 完全に、等身大のアンティーク人形だ。
 若干、右に傾げられた首も、軽く結ばれた唇も、黒色のガラス球かのような目も―――造形としては、実に美しい。思わずため息をつくほどの美だ。そのままガラスケースに入れて保管したい、と思うコレクターが出てきても、おかしくないほどの。
 でも、これは、人形じゃない。
 リカは、人形じゃない。血の通った、生身の人間だ。
 ―――…マジかよ。
 リカは、物体になりきるつもりで、ああしたポーズを取り、ああした表情を作っているのだろうか。だとしたら上手いとは思うが……余計、悪趣味だ。
 ファインダーを覗き込む瑞樹の背中も、少なからず、戸惑っているように見える。当然だ。成田瑞樹は、特に、生身の人間を撮ることに強いこだわりのあるカメラマンなのだから。
 それでも、一応数度、シャッターが切られる。その間、リカは、瞬きすらしていないように見えた。
 更にポーズを変える。僅かに斜め座わりにして、背もたれに手を掛けたポーズだ。さっきよりは人形っぽくはないが、やはりその表情は、こいつ本当に息してるのか? と疑いたくなるほど、1ミリも動かない無表情だ。
 「……ちょっと、笑ってみて」
 数度シャッターを切った後、短く瑞樹が命じる。するとリカは、そのポーズのまま、静かに口の端を上げた。
 その笑みを見た瞬間―――奏は、ゾクリとしたものが背筋に走るのを感じた。

 人形が、微笑む。
 精巧に作られた、計算し尽された微笑。息遣いも、鼓動も感じさせない、酷く作り物めいた……けれど美しい、微笑。

 『だったら、お前そっくりのマネキンかロボットでも作って服着せりゃ済む話だろ。生身の人間がいらねぇんだったら、お前撮る意味なんてあるか?』

 …同じ、だ。
 瑞樹が構えるカメラの前に初めて立った時、瑞樹が、奏に放った言葉―――同じだ。“Frosty Beauty”と呼ばれていた頃の奏と、まるっきり同じだ。
 勿論、笑顔の質も、そのレベルも、まるで違っている。が、モデルではなくマネキンと化しているその姿は、かつての自分を連想させる。まさか、こんなところで、こんなものを見る羽目になるとは―――思わぬ事態に、奏の視線が、ぐらぐらと揺れた。

 「―――…ちょっと、すみません」
 ファインダーから目を離し、おもむろに顔を上げた瑞樹は、離れた場所で撮影を見守っていた雑誌社の人間に目を向けた。
 「いつもこんな感じですか」
 「はっ?」
 「表紙です」
 「? ええ、いつもこんな感じですよ?」
 瑞樹の質問の意図がまるでわからないのか、担当者は、ニコニコと笑い、むしろ悦に入ったように続けた。
 「綺麗でしょう、リカちゃんは。糸山先生の“DOLL”見て、うちの編集長が一発で気に入ったんですよ。変にロリータに走らず、けれどアンティーク・ドール風の服装がこれほどマッチするキャラというのも、なかなかないですからねぇ」
 「…そうですか」
 ストン、と、瑞樹の声がニュートラルに入るのを感じた。
 かつて、奏に向かって「撮る価値なし」とばかりに意見をぶつけてきた瑞樹とは違い、今の瑞樹は「職人として撮る」ことを知っている。いかに納得のいかない撮影でも、それがクライアントの求めるものであるなら―――“人形”ではなく“人間”を撮っても、その差を理解するだけの感性を相手が持ち合わせていない、と悟ってしまったら、求められるものを撮るのが仕事だ、と割り切って撮る術を身につけている。
 小さく息をついた瑞樹は、邪魔そうに前髪を掻き上げると、再びファインダーを覗きこんだ。
 「じゃあ、好きなように、どんどん動いて」
 「ハイ」
 リカの方も、仕事は仕事と割り切っているのか、実に従順に返事を返しす。背もたれのクッションを掴むと、それを胸に抱き、両足を前に投げ出した。
 ―――ますます、お人形になってるし…。
 奏が呆れると同時に、こちらも「撮影マシン」と化した瑞樹が、連続でシャッターを切った。

***

 その後も撮影は順調に進んだ。
 中の特集記事用の写真も含め、2着の衣装を着こなしたリカは、終始、精巧に作られた人形のような表情で、カメラの前に立ち続けた。
 「いやー、今月も良かったよ、リカちゃん!」
 撮影終了と同時に、担当者がホクホク顔でリカに歩み寄った。
 「ありがとうございますぅ」
 対するリカは、最初の自己紹介の時とそっくりな、計算し尽された営業スマイルで、それに応じている。そんなリカを横目で見て、撮影を終えたばかりの瑞樹は、げんなりした表情をした。
 ―――そりゃ、げんなりもするよな。
 いくら仕事と割り切ることに慣れたとはいえ、やっぱり瑞樹は瑞樹だ。今日の撮影が、彼にとって到底納得のいくものでないことは、明白すぎるほど明白だ。
 中村やスタイリストは、撮影後にモデルから回収しなくてはいけない服やアクセサリーがあるため、リカとともに控え室へと戻ってしまった。クライアントも別室に移動してしまった。少々手持ち無沙汰になってしまった奏は、カメラの撤収作業に入っている瑞樹の所へと、ぶらぶら歩いていった。
 「成田、お疲れ」
 「……ああ、お疲れ」
 顔を上げた瑞樹が、本当に疲れたような声で返す。苦笑した奏は、瑞樹の隣に並んで、まだ撮影時のまま手付かずの現場を眺めた。
 「成田は、どう思った? あの子」
 「―――どうもこうもあるか」
 「…だよな」
 「糸山さんの影響で、本物の人形になっちまったんじゃねぇの」
 さすがに同業者だけのことはある。瑞樹は、例の『DOLL』を知っているらしい。
 「でもさ、裏じゃまるっきり逆で、超勘違い系のタカビーなお姫様だったよ。裏方を見下してわがまま放題言うから、オレ、ぶちキレて怒鳴っちまった位」
 「ふぅん…、なら、化けの皮剥がしてやりゃあ良かったな。そのほうがまだ撮る気になる」
 「ハハハ」
 でも、実際に化けの皮を剥がしたら、クライアントが黙ってはいないだろうし、撮影は完全に頓挫していただろう。しょうがないよな、と思いつつも、奏はひとつだけ、気になって仕方ないことがあった。

 リカ自身は、自分のこういう扱いを、どう思っているのだろう?
 自分でも満足していて、この先も「お人形さん」扱いに甘んじ続ける気でいるのだろうか。それとも―――かつての奏のように、表面上「これでいい」と納得したフリをしながら、内心ではうんざりしているのだろうか。
 もし後者だとしたら、あの傍若無人なわがままぶりは、リカなりの鬱積した気持ちの表れなのかもしれない。…なんだか、そんな気がした。
 ―――オレに、蕾夏や成田がビシッと言ってくれたように、あの子にも、そういう人がいりゃいいんだろうけど。
 腫れ物に触るみたいなオドオドした態度のマネージャーと、何を言われても適当に宥めてる中村ら常連さん、そして褒めちぎる雑誌担当者……当分無理だろうな、と奏はため息をついた。

 「奏」
 ぼんやりしていた奏は、瑞樹の声に、我に返った。
 「何?」
 「そこ、立ってみろよ」
 「え、」
 そこ、とは、撮影セットのことだ。キョトンと目を丸くする奏に、瑞樹は、手にした一眼レフに新しいフィルムを1本入れつつ、肩を竦めた。
 「せっかくなら、気分良く終わりたいからな」
 「えー…、いいのかよ、勝手に撮ったりして」
 「撮影終わってんだし、いいだろ。ただし、あと5分位で撤去作業始まるから」
 ―――5分、か。
 軽く見渡すと、みんな、自分のことで精一杯そうだ。それに、スタジオで瑞樹に撮ってもらうチャンスなんて、次、いつあるかわからない。いや…引退までの残り時間を考えれば、二度とないかもしれない。
 「…オッケー。上手く撮れたら、ポートフォリオに追加させてもらっていい?」
 「ご自由に」
 そうと決まれば、行動は素早かった。あっという間にホリゾントの前に駆け寄った奏は、とりあえず、絶対やめてくれ、としか言いようのないヒラヒラレースのクッションを、フレームから外れる場所に撤去した。
 アンティーク調の椅子に反対向きに座った奏が、さあ撮ってみろ、と言わんばかりの表情で背もたれに頬杖をつくと、すかさず瑞樹がシャッターを切った。
 「全く…、モデル次第で、同じ景色も別世界だな」
 瑞樹の呆れたような口調に、奏も苦笑めいた笑みを返した。
 「でもさ。やっぱ、成田もプロになって変わったよな。オレを初めて撮った時は、“それで真面目にやってんのか、ふざけるな”とか言った癖に、今日は随分大人な対応だったじゃん」
 「…やっぱりお前、あの時のこと考えてたんだな」
 シャッターを切りつつ、瑞樹が呟いた。と同時に、奏が、少し表情を変えた。
 ファインダーから目を離した瑞樹は、直接奏を見据えると、ふっと微かに笑った。
 「お互い、運がなかったな、今回は」
 「―――…だよなぁ…」
 力ない笑いを浮かべた奏は、えい、と勢いをつけて立ち上がり、椅子の背もたれを持ったまま、くるりと身を翻した。

 案外―――瑞樹には、バレてしまったのかもしれない。撮影が始まってからずっと、奏が、リカに昔の自分を重ねては、苦い思いや感傷に浸り、少々落ち込んでいたことが。
 この突然の撮影会も、そんな奏に気づいていたからかもしれない。
 ほら、今のお前は、カメラの前で自由に呼吸してるじゃないか―――そう伝えるために。


 椅子を道具に使って、座ったり立ったり乗っかったり、と色々なポーズをとった奏を、瑞樹は、フィルム1本分、撮り終えた。
 そこで、ぴったりタイムアップ。場を離れていたスタジオスタッフが戻ってきたので、奏は慌ててセットから退散した。
 「仕事のと混じるとやばいから、自分で現像に出せ」
 奏を撮ったフィルムをポン、と奏に放って渡すと、瑞樹は本格的に撤収作業に入った。受け取ったフィルムをバックポケットに突っ込んだ奏は、サンキュ、と言いつつ、手を振ってその場を離れた。
 が―――そこで、思わぬ人物に出くわし、思わず足を止めた。
 「……」
 スタジオから控え室に続くドアの所に立っていたのは、とっくに控え室に戻ったとばかり思っていた、リカだった。
 撮影時の衣装のまま、アクセサリーの類もつけたままで、ドアからスタジオの中に1歩入った場所で、ぽつん、と立っている。マネージャーらの姿は、その周囲には見当たらなかった。
 奏と目が合ったリカは、気まずそうに目を逸らした。何故スタジオに戻ってきたのか、その理由は不明だが、どうやら奏の撮影風景を見ていたらしい。
 「お疲れさん」
 歩み寄りつつ奏が声をかけたが、リカは憮然とした顔で目を逸らしたまま、会釈すらしようとはしなかった。
 …可愛くない。人形状態の時も可愛いなんて微塵も思わなかったが、素に戻ったわがままお姫様状態も、可愛くない。むしろ、相当憎たらしいキャラクターだ。ため息をついた奏は、リカに負けないほど憮然とした顔で、腕組みをした。
 「なんか、忘れ物?」
 奏が問うと、リカは、面白くなさそうにそっぽを向いたまま、ぽつりと呟いた。
 「……口紅、」
 「は?」
 そんなもん、ここに忘れたのか?
 怪訝そうに奏が眉をひそめる。と、おもむろに奏の方に顔を向けたリカは、なんだか怒ってるような口調で、もう一度言った。
 「口紅。今日の、1着目のメイクで使ったやつ。あれ、貸して」
 「1着目? ああ…、ピンクのグロスのやつか。何、気に入った?」
 憮然としたまま、リカがこくりと頷く。…まあ、1回分私用で使われたところで、減り方などたかが知れている。
 「控え室の、コスメバッグの中にあるから、好きに使えば?」
 「…そ。ありがと」
 またちょっと視線を外し、リカは、つん、とすました様子でそう言った。が、まだ動く気配はなく、そこに佇んだままでいる。
 ―――何なんだよ?
 出入り口に立たれては、はっきり言って、邪魔だ。もう無視して先に控え室に戻るか、と奏が半分本気で思い始めた時。
 「…ねえ」
 突如、リカが、鋭く奏を見上げてきた。
 「あんた、一体、何者?」
 「は? 何者、って?」
 「見たわよ、今の。…あんた、ただのメイクさんじゃないでしょ」
 「…おい。“ただの”って何だよ、“ただの”って。“ただの何々”って言い方、その職業の人間に失礼だろ」
 「別にバカにして言った訳じゃないわよっ。それより、どうなのよっ」
 苛立ったように、リカの語調が荒くなる。ああ面倒くせぇ、と髪を掻き毟った奏は、半ば投げやりに答えた。
 「―――元々は、モデル。っつーか、今もモデルやってる」
 「え…っ」
 「現役でモデル続けながら、黒川賢治が作ったメイクアップスタジオで、メイクの修行してんだよ。成田とは個人的に親しくしてるし、何度かモデルとカメラマンて形で仕事もしたから、ちょっとあのセットで撮ってみるか、ってなっただけだけど―――…」

 そこで言葉を切る。
 息を継いだら、すっ、と頭が冷静になった。
 考えてみれば―――リカだって、まあ褒められたレベルにはないが、一応、プロのモデルだ。そして、モデルにとって一番直接的な仕事相手であるカメラマンは、というか、カメラマンからの評価は、結構重要な意味を持つ。周囲に対してではない。自己評価の意味で、だ。
 リカが相当鈍い奴なら別だが、今日の撮影に瑞樹が納得していないことは、うすうすでも感づいている筈だ。その瑞樹が、“たかが”メイクを自発的に撮っているのを見て―――ショックを受けない訳がない。奏がリカの立場でもショックだろうし、リカは高慢なタイプなだけに、そのショックは奏以上に大きい気がする。
 ―――まさか戻ってくるなんて思ってなかったとはいえ…ちょっと、可哀想なことしちゃったかな。
 冷静になった頭で、瞬時にそのことに思い至った奏は、憮然としていた表情を改め、ちょっと気まずそうな顔になった。

 「…気を悪くしたんなら、悪かったよ」
 奏が、それまでより弱い声でそう言うと、それまで少し目を丸くしていたリカが、驚いたように目を見開いた。
 「え?」
 「いや、その、君が見てると思ってやった訳じゃないけど……オレなら、多分ムカつくだろうな、と思ったから。今日の主役としちゃ、面白くなかったよな」
 「……」
 パチパチと目を瞬いたリカは、暫し、呆然としたように奏を見上げていた。
 が、奏からすれば、何にリカがそれほど驚いているのか、さっぱりわからない。何か変なこと言ったかな、と内心首を傾げる。
 ―――っつか、いい加減、どいてくれよ。控え室に戻れないじゃないか。
 「ねえ、」
 もう横を突っ切ってしまおうか、と思いかけた時、リカが突然、口を開いた。
 その顔から、驚いたような表情は消えていた。が、さっきまでの高慢な顔とも違った。とはいえ、愛想は全然ない。一言で言うなら、憎たらしくはないが可愛げも微塵もない表情―――せっかくの造作が台無しだが、奏から言わせれば、人形めいた笑顔よりは数十倍マシだ。
 「あなたの目から見て、さっきの撮影、どうだった?」
 「どう、って?」
 「正直に言ってくれていいわよ。サイテーでもサイコーでもフツーでも。担当さんは満面の笑みだもん、それ以外がどう感じようと、リカはどうでもいい」
 「…だったら、何で訊く訳?」
 当然すぎる奏の質問に、リカは、口を噤んだ。
 その反応で、確信した。ああ―――自分の直感は、正しかったな、と。
 「正直、サイテーだった」
 奏がきっぱり言うと、リカの表情が、僅かに歪んだ。
 「“DOLL”とかいう写真集、オレ、まだ見てないけど―――その写真集に出たせいで、メディアが求める“姫川リカ像”が“お人形さん”になったんだとしたら…気の毒だな、と思った。あれなら、君そっくりな人形作って椅子に座らせとくのと、大した違いがないだろ」
 「…周りの人間全員が、いいよいいよ、って褒めてくれても、意味がない?」
 「ないよ」
 「どうして」
 「君自身が、それに満足してるとは思えないから」
 「満足してるわよ」
 「―――オレも、そう言ってたよ。昔は」
 意味がわからず、リカの眉が訝しげにひそめられる。奏は、自嘲気味な笑みを口元に浮かべ、吐き捨てるように言った。
 「これが、みんなが求めてるオレなんだ。ただ綺麗に微笑んでりゃ、高いギャラは入るし、女も寄ってくる。所詮、どいつもこいつも外側しか見ちゃいない―――それでいい、オレは満足だ。…そう言ってたよ。あまりに言い慣れて、それが自分の本音なんじゃないか、って錯覚するほどにね」
 「……」
 「カメラの前の姫川リカは、何年か前までのオレみたいだった。だから―――さっきの撮影見てる間ずっと、サイテーの気分だった」
 そう言いきると、奏は視線を落とし、小さく呟いた。
 「…受けるんじゃなかった、こんな仕事」

 ―――棘、が。
 日頃、忘れているのに……胸の奥に刺さったまま抜けない、小さな小さな、棘。それが、チクリと疼く。
 リカの撮影を見ている間、奏が感じた「サイテーな気分」は、過去の自分を思い出したから、だけではない。
 かつての自分と、あまりに似た目をした、伝説のモデル―――DNAで結ばれただけの女を思い出したせいだ。

 唇を噛んだ奏は、リカの横をすり抜けるようにして、スタジオを出た。
 奏の様子に呑まれてしまったのか、リカが奏の後に続く様子はない。が、撮影中の最悪の気分を思い出してしまった奏には、リカのことを気遣うだけの余裕などなかった。
 控え室に戻ると、帰り支度を始めていた中村が、ちょっと不思議そうな顔をして、奏の背後を覗き込んだ。
 「あれ、一宮さん。リカちゃん見ませんでした?」
 「…スタジオにいましたよ」
 表情の硬い奏を不審に思ってか、中村が僅かに眉をひそめる。が、奏は、そのことにも気づかずに、さっさとメイク道具を片付け、立ち上がった。
 「じゃ、お先、失礼します」
 「…あー…、お疲れ様ー…」


 結局、奏は、リカに口紅を貸すのを忘れてしまった。
 そして、この日から数日後―――再びリカと顔を合わせるまで、奏がその事実を思い出すことはなかった。


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