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― ぼくらのみらい ―

 

 ―――あ、辻村 (たかし)の本が出てる。
 ぶらりと立ち寄った本屋で、最近注目している新人作家の本が出ているのを見つけた優也は、思わずそれを手に取った。
 パラパラとめくってみたところ、優也のスピードだと、2時間ちょっとで読めそうなボリュームだ。名古屋から東京まで、新幹線で約2時間―――理想的な「旅のお供」だろう。優也は、その本を買うことにした。


 優也は明日、東京に戻ることにしている。
 正味、10日あまりの帰省―――息子の帰省を楽しみにしていた両親には申し訳ないとは思うが、「ああ、やっと終わる」というのが、優也の本音だ。
 といっても、優也は別に、両親が嫌いな訳じゃない。多分、平均的なこの年齢の子供と同じかそれ以上に、両親を大事に思い、家族として愛している。父や母の元気な顔を見られたのは嬉しかったし、久しぶりの母の手料理はおいしかったし、住み慣れた自分の部屋も居心地が良かった。帰ってきてよかった、というのも、優也の偽らざる本音だ。
 でも―――それだけで終わらないところが、頭の痛いところ。
 毎回、帰省が近づくと、楽しみな反面、気が重くなる。そして、東京に戻る日が近づくと、寂しい反面、ホッとする。そんな自分に、ちょっと自己嫌悪だ。


 本を小脇に抱えて帰宅した優也は、高校生の頃までがそうだったように、呼び鈴を鳴らさず合鍵で玄関を開けた。
 「ただいまぁ」
 在宅中の筈の両親に向けて、そう声を掛けたが―――1時間前とは違う玄関の様子に、優也の顔が、ギクリと強張った。
 出かけた時にはなかった、いくつもの靴。その大半が、明らかに女性モノ。そして、家の奥から聞こえる、賑やかな笑い声―――…。
 「あ、優君、帰ってたの」
 居間から出て来た母の、やたら嬉しそうな笑顔が、優也の嫌な予感を確定づけた。
 「ちょうど良かったわー。おばさんたち、来てるのよ。さ、いらっしゃい」
 「…う…、うん」
 ―――…逃げたい…。
 回れ右して、もう1回買い物に出かけたい衝動に襲われたが、それを実行に移せる優也ではない。諦めたように肩を落とすと、渋々、母の後について行った。

 1時間前までは、父と母しかいなかった筈の居間には、計4人の親戚が顔を並べていた。
 「あらー、優也君! 久しぶりねぇ!」
 「こ…こんにちは」
 少々怯えつつ、優也はなんとか笑みを作った。
 集まった親戚は、父の妹2人と、母の弟夫婦の、4人である。一般的に考えて、母方と父方の親族が一緒に訪ねて来るなんて珍しい話なのだろうが、母の弟の妻は、父の妹の片方と同級生で、結構仲がいい。だからこうして、誘い合って遊びに来ることも多いのだ。
 「明日には東京に戻っちゃうんだって?」
 「まだまだ夏休みはあるだろうに。急いで戻らないで、もっと家でノンビリしたらいいのに」
 「そうよぉ。夏休み終わるまでいればいいのにねぇ」
 「ほら、優君、早く座って座って。水羊羹いただいてたとこなのよ」
 矢継ぎ早に話しかけられ、1つも返事を返せないうちに、いわゆる“お誕生日席”に座らされてしまった。
 左斜め前の席に座る父が、無言のうちに水羊羹の乗った皿を優也の前に押し出し、背後から母がおしぼりと麦茶を出してくれる。…なんだか、逃げ道を封鎖されたような気分になり、優也の表情はますます硬くなった。
 「でも優ちゃん、全然変わらないわねー。おばさん、ホッとしちゃったわ」
 行儀良くおしぼりで手を拭き、麦茶の入ったグラスに手を伸ばす優也を見て、父の妹その1が嬉しそうにそう言った。
 「美代子ちゃんなんて、東京で一人暮らし始めた途端、別人みたいに派手になっちゃったものねぇ」
 「そうそう。兄さんが抜き打ちで様子見に行ったら、男の人が部屋にいて大騒ぎになったって話よね」
 美代子、というのは、父の兄―――つまり秋吉家長男のところの娘で、今年の春から、東京の女子大に通っている。優也が記憶している美代子は、優也同様に度のきつい眼鏡をかけた地味なタイプの少女だ。一体どんな風に派手になったのだろう? 知りたいような、知りたくないような、複雑な気分だ。
 「大体、女の子なんだもの、何も東京に行かせないでも、ねえ?」
 「でもほら、兄さんのとこは、上の子が失敗しちゃったから。その分、出来の良かった美代子ちゃんで、優ちゃんと張り合いたかったんでしょ」
 「ああ、兄さんて昔から負けず嫌いだったもんねぇ。ケン兄さんにも、ライバル心むき出しで」
 「ねー。ケン兄さんが自分よりいい大学入ったのが悔しかったから、子供こそは負けるもんか、と思ったのに、よりによってケン兄さんとこに生まれたのが、この優君だもの。足掻くだけ無駄だってのに、相変わらず見栄っ張りよねぇ」
 ―――また、この話か…。
 父の妹2人は、長男の悪口になると、面白いほどに意気投合する。性格的に難のある伯父であることは優也も実体験から知っているが、さして被害に遭ってもいない叔母らが何故こうも悪口を言うのか、優也にはいまひとつわからなかった。ただ、伯父の家で親族が集まった時、どうやら理由は伯父本人より伯父の妻だな、ということだけは、なんとなく察した。伯父の妻と叔母2人は、もの凄く仲が悪いのだ。
 「長男さんのとこは、なまじ歳が近いから難しいのかもねぇ。うちはまだ中1と中2だから気楽なもんよ」
 母の義妹が、のんびりとそう言う。父の妹たちも、それぞれに家庭を持ち、その片方には高1の娘がいるが、叔母は「頭はバカだけど器量よしだからいいのよ」という考えだ。伯父と父は、年齢も1つ違いで、子供たちの年齢も2歳差でひしめいているため、叔母の言う通り「難しい」らしい。優也としては、勝手に競争されて、いい迷惑だ。
 「それで優也君、大学の方は、どうだい?」
 母の弟が、ついに優也に話を振ってきた。
 ちょうど水羊羹を口に運んでいた優也は、危うくそれを喉に詰まらせそうになり、ちょっとむせてしまった。慌ててフォークを皿に置き、ぎくしゃくと笑顔を作った。
 「た…っ、楽しい、です」
 「3年からゼミに所属するんだよね、確か。どう、ゼミ仲間は、やっぱりみんな優秀かい?」
 「…は、あ…。先輩の発表聞いてるとみんな凄いし、友達も博識で…」
 「そうか。やっぱり凄いんだなぁ。教授はどんな人?」
 「教授は……なんていうか、面白い人です」
 「面白い?」
 「優君の話だと、世界的に有名な専門誌にも何度か投稿してる、その分野じゃ名の知れた先生だそうなのよ。ね? 優君」
 優也の言葉足らずをフォローした母が、妙に嬉しそうな声で、優也に同意を求める。実際、その通りなので、優也もこくんと頷いておいた。
 「そりゃ、いい先生選んだねぇ、優ちゃん」
 「そうだよ。どの教授につくかで、優君の数学者人生が大きく変わってくるんだから」
 「……」
 当然のように発せられた言葉に、優也の心臓が、軽く跳ねた。
 「でも、大学院まで、ってなると、学費も大変なんじゃないの、お義姉(ねえ)さん」
 「あら、大丈夫よ。うちは優君1人ですもの。ね、あなた」
 「そうさ。それに、くだらない遊びで浪費するのは馬鹿馬鹿しいが、子供の教育費にかける金は、未来への貴重な投資だ。親の財力と子供の能力次第で、子供の将来は大きく開ける。だったら、できる限りのことはしたいじゃないか」
 「まあ、優也君ほど優秀なら、姉さんや義兄(にい)さんが張り切る気持ちも、よくわかるよ。親孝行だな、優也君は」
 叔父にガシガシと頭を撫でられ、優也は、どんな顔をしていいかわからず、曖昧に笑った。

 口々に、優也を褒める、親戚たち。
 そんな言葉を聞いて、やたら嬉しそうにしている、母。優也の将来を決めてかかっている、父。

 ―――これだから…、
 これだから、気が重くなるんだ。

 家族に囲まれ、温かく迎えられながら―――優也は、なんだか迷子になったような心細さを覚えていた。

***

 「優君」
 コンコン、とドアがノックされ、母が顔を出した。
 帰り支度を終えて、ベッドに寝転がっていた優也は、慌てて起き上がり、外していた眼鏡をかけた。
 「なに?」
 「これ、持っていきなさい」
 少し小声でそう言って、母は、何やら封筒らしきものを優也の手の中に捻じ込んだ。
 何だろう、と思い、中身を確認すると、1万円札が3枚入っていた。驚いた優也は、焦ったようにそれを母に突っ返した。
 「い、いいよ、こんなの…! ちゃんと毎月、仕送り貰ってるんだし」
 「いいからいいから。お母さんの会社、今期は成績が良くて、夏のボーナスが去年より多く出たのよ。仕送りの日には間に合わなかったから、優君帰ってきた時に渡そうと思って取っておいたの」
 「それなら、お父さんと2人で、何かおいしいものでも食べてよ。僕は十分足りてるから」
 「嘘おっしゃい。美代子ちゃんとこより、うちの方が仕送り少ない上に、優君は男の子なのよ? 優君の方がたくさん食べなきゃいけないのに、足りてる訳ないでしょう?」
 どうやら母は、同じく東京で一人暮らしを始めた美代子の懐具合を噂に聞いて、不安になったらしい。急にこんなことを何故、と訝った優也も、美代子の名が出て、少し納得した。が……。
 ―――そ…それは、美代子ちゃんが贅沢してるだけなんじゃない?
 実際、優也はお金に困っていない。バイトもしているし、合コンだ飲み会だと遊び歩くタイプではないせいもあって、生活には余裕がある方だ。美代子がどれほど派手になったか知らないが、その内訳も知らずに「東京暮らしの学生」という共通項だけで収支計算されては困る。
 「…多分、美代子ちゃんは外食が多いんだよ…。僕はなるべく自炊してるし、バイト代もあるから、本当に十分足りてるんだ」
 ため息混じりに優也がそう説明しても、母は心配そうな顔で、優也の頬を触った。
 「でも、ねぇ…。優君、ほんとに痩せたわよ? 自炊って、一体どんなもの食べてるの。栄養のバランスとか、ちゃんと考えてるんでしょうね?」
 「ちゃんとやってるってば…。だからこのお金は、お母さんたちが」
 「自分の食費を削って、あの猫のためのキャットフードを買い込んだりしてないでしょうね?」
 母の目が、猫、の一文字に、いきなり険しくなる。
 「まだ飼ってるんでしょ? あの黒猫。あの猫のために節約するなんて、やめてちょうだいよ。そんなもののために仕送りしてるんじゃないんですからね」
 「せ…節約じゃなく、普通に食事してるってば、本当にっ」
 さりげなくキャットフードのことには触れず、そう否定する。
 動物嫌いの母は、ミルクパンを目の敵にしている。当初足しげく優也の部屋に通っていたのが、だんだん間遠になっていったのは、別にミルクパンのせいばかりではないのだが、それでも長居をしなくなった理由の何パーセントかは、ミルクパンがいるからに違いない。
 「とにかく! このお金は、本当に、いいから!」
 ぐい、と母に封筒を押し付ける。
 「でも優君」
 「い…一緒のアパートに住んでる友達なんて、食費を全部、自分のバイト代で稼いでるんだよ? 2階に住んでる人が学生の時も、家賃と生活費の半分を完全に自分で賄ってたって話だし―――だから、僕のことはいいから、自分たちのために使ってよ。もうすぐ20歳になるのに、お小遣い貰うなんて、恥ずかしいよ」
 「…やあねぇ…、お小遣い貰ってる大学生なんて、いくらでもいるわよ? 生活費稼いでる苦学生なんて、ほんの一握りでしょうに…」
 そこまで言うと、母は、何故かハッとしたように表情を変え、真剣な眼差しで優也の両肩を掴んだ。
 「ちょっと、優君? あなた、おかしな人と付き合ってたりしないでしょうね?」
 「え?」
 「そのお友達、ちゃんとしたおうちの人? 家出してきてたり、親に内緒で何かしてたりしてない? そういう子とは、付き合っちゃ駄目よ。昔からお母さん、そう言ってたでしょう?」
 「……」

 …なんだか、侮辱された気がした。
 誰が? 自分が? それとも蓮が? わからない、けれど―――かつて何度となく言われたこのセリフが、その都度従順に受け入れていたセリフが、今は無性に腹立たしい。

 「…穂積は、お兄さんが結婚して実家で同居をするから、お兄さんたちに遠慮して、独立したんだよ」
 言いながら、ごめん、と心の中で蓮に謝る。本当は、蓮の個人的な事情など、勝手に話したくなかったのに……母に誤解されないためには、仕方ない。
 「あら、お兄さんが結婚されるの。そうねぇ…、年頃だし、同じ家に住むのは気まずいのかもしれないわねぇ…」
 「…僕と同じで、お酒飲んで騒いだりするのが凄く苦手な、寡黙で落ち着いた奴なんだ。お母さんが思ってるような“おかしな子”じゃないよ」
 「その、穂積君、て子のお兄さんって、どちらにお勤めなの?」
 「知らないよ、そんなの…っ!!」
 自分でも驚くほど、激しい声だった。
 自分で自分の声にびっくりして、固まる。顔を上げると、母も驚いた顔で息を呑んでいた。
 「……あ……っ、ご、ごめん」
 つい、謝ってしまう。でも今回ばかりは、本当は謝るようなことじゃないんだ、と強く自覚している自分がいる。優也は、大きく息をつき、またいつもの優也らしい口調で付け加えた。
 「でも―――お、お母さんも、友達と付き合う時、相手の親が何やってるから駄目とか、どこの会社に勤めてるから嫌とか…そんなこと、考えないんじゃない? そんなことで、友達選ぶの、お母さんは」
 母の目が、僅かに揺れる。直後、母は、取り繕うように笑みを見せた。
 「そ…そうね。ごめんなさいね。でもお母さん、悪気があって言ったんじゃないのよ? 自分のことなら自分で責任取るけど、子供の―――優君のことだから、お母さん心配で」
 「…うん、わかってる」
 わかってるけど―――もどかしさに、優也は唇を噛んだ。
 「とにかく、このお金は、優君が持っておいて。家計の足しにしてもいいし、いざという時のために取っておいてもいいし…次、帰省する時の新幹線代にしてもいいし。ね?」
 「……」
 再度、手の中に捻じ込まれた封筒を、優也は、再び突っ返すことはできなかった。

***

 駅まで送っていくぞ、と父に言われ、一瞬、迷った。
 けれど、家の中では、母が常に喋り通しで、父とサシで話すことなど、ほとんどない。ちょっと怖いけれど、これは神様がくれた機会なのかもしれない、と考え、優也は頷いた。

 「一人暮らしも大変だろう。上手くいってるのか?」
 優也がシートベルトを締めるとほぼ同時に、父がそう訊ねた。
 「うん…、料理も、前よりはちょっと上手になったと思う」
 「そうか。父さんはずっと、一人暮らしは経験しないままだったからな―――単身赴任経験もないから、男1人で生活する自信が、今でもないな」
 「……」
 ―――なんだか…雰囲気変わった、かな?
 エンジンをスタートさせつつ苦笑する父の横顔に、優也は、大学入学前には見られなかった和やかさを感じ、不思議な気分になった。大学入学後も、成績をキープしろ、1つ年下だからといってナメられないようにしろ、と厳しく言っていたのに……3年目になって、少しは優也を信用するようになった、ということだろうか。
 父は、中部圏ではトップクラスの大学に進学し、岐阜の自宅から通っていたという。成績優秀で、師事した教授からも「残ってみてはどうか」と打診されたほどだったのに、経済的事情から、大学院へ進むことを断念したのだそうだ。
 数学者になりたかった―――それが、父の昔からの口癖だ。幼い頃から優也は、「父さんは諦めたが、お前は絶対になるんだぞ」と言われ続けてきた。勉強せず遊んでいると容赦なく罰を与えられ、成績が落ちるとお説教が待っていた。そんな父に怯えつつも、会社においても若くして重要な位置に着き、言動も常に堂々として立派な父を、優也は尊敬していた。
 父は師であり、憧れであり、目標であり、絶対に越えられない壁だった。
 その父が、「自信がない」―――そんなセリフを口にするなんて、優也にとっては驚きだ。
 「昨日、おばさんたちにも言ったが…」
 ふいに、父がそう切り出した。
 「学費のことにしろ、一人暮らしのことにしろ、金の心配はするなよ」
 「……」
 「いくら大きくなっても、お前は子供なんだから、心配せず親の庇護下にいていいんだ。それに、母さんも言ったとおり、うちは優也1人しかいないんだから。伯父さんとこは、2人大学にやっただろう?」
 2人大学に行かせる金額と、1人大学院まで行かせる金額を比較したら、確かに父の言うことにも一理あるのかもしれない。特に、美代子が行った女子大は、入学金も授業料もバカ高いと噂されている大学だ。単純にお金で比較するなら、伯父家族の方が教育費は上だろう。
 でも、そういう問題じゃない―――優也は、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、口を開いた。
 「…お父さん、」
 「ん?」
 「…僕、迷ってるんだ。大学院、行くかどうか」
 運転中の父が、一瞬、怪訝そうな視線をこちらに向ける。何を迷うことがあるんだ、というその視線を感じつつ、優也は続けた。
 「勉強は、楽しいよ。もっと深く、色々知りたいって思う。でも―――今はそれより、勉強したことを活かせる仕事に就いて、ちゃんと働きたいなぁ、って…」
 「大学の助手や助教授だって、ちゃんとした仕事だろう?」
 「……」
 「それに、勉強したことを仕事で活かしたい、と考えるなら、研究の現場以上の場所はないと思うぞ?」
 ちょうど信号が赤になった。ブレーキをかけ、父は困ったような笑みをこちらに向け、優也の頭をぐしゃっと撫でた。
 「どうした。何を焦ってるんだ? 叔父さんたちも言ってただろう? お前は人より1年早くステップアップしてるんだから、人より余裕持って社会人になればいいんだ。そうだろう?」
 「―――…」

 幼い頃の記憶とは別人かと思うほど、柔和で穏やかになった父。
 けれど―――そんな父に、優也はこの日も、最終的には何も言い返せなくなっていた。


***


 「お帰り」
 駅で、優也の姿を見つけた蓮が、そう言って微かに笑みを見せた。
 たった10日だったのに、随分留守にしていたような気がする。張り詰めていたものが緩むのを感じながら、優也も笑みを返した。
 アパートの最寄り駅に着いた時点で、既に辺りは暗くなっていた。少し早めではあるが、適当に食べて帰るか、ということになり、2人は駅前の定食屋に入った。
 できるだけ自炊している、と言った優也だが、駅前にこの店が出来てからは、結構ここをよく利用する。定食屋、といっても、棚に並んでいるおかずやご飯を好きなように組み合わせて取り、トレーに乗せてレジで会計をする、というセルフサービス式の安い店なので、下手をすると、自炊するよりこちらの方が安上がりなメニューもあるからだ。

 「で、どうだった? 久しぶりの実家は」
 窓際の席を選び、それぞれの夕飯が乗ったトレーを置いて間もなく、蓮がそう訊ねた。
 「ん…なんていうか…」
 味噌汁に箸をつけ、暫し、言葉を選ぶ。色々考えた結果―――優也の感想は、一言に集約された。
 「重かった」
 「……」
 ため息混じりに呟かれた一言に、蓮は少し目を丸くし、向かいの席の優也の顔をじっと見つめた。説明を待つように、黙って自分の顔を見つめている蓮をチラリと見た優也は、今度ははっきりと、深いため息をついた。
 「…穂積は、大学卒業したら、どうするの?」
 「え、俺?」
 いきなり話を振られ、少々戸惑う。が、蓮はすぐに平静になり、軽く首を傾げるようにしながら、焼き魚の身をほぐし始めた。
 「俺は……就職することは決めてるけど、業種まではまだ決めてない」
 「…やっぱり、就職だよね…」
 「秋吉は、大学院だろ? 数学者になるのが夢だ、って言ってたから」
 当然のように蓮がそう言うと、優也は余計表情を暗くし、視線を落とした。
 「…僕の夢は、ほんとに、数学者なのかな」
 「……」
 「お父さんに、小さい頃から言われてたんだ。お父さんが歩めなかった道を、お前が歩いてくれ―――数学者になれ、って。だから僕は数学者にならなきゃ、お父さんの期待に答えなきゃ……そう思ってきたけど、それって…僕の夢、なのかな」
 「なりたくないのか、数学者」
 軽く眉をひそめるようにして、蓮が訊ねる。
 「…そういう訳じゃ、ないけど」
 「秋吉は、どうしたいの」

 どうしたいか。
 訊くのは、簡単。けれど―――答えるのは、とてつもなく難しい質問。

 「…どうしたいか、まだ、よくわからないんだ…」
 暫し黙って考えた結果、優也は、呟くほど小さな声で、そう答えた。
 「…両親も、親戚も、僕が大学院に行くと決めてかかってるんだ。誰も反対なんかしない、みんな応援してくれる―――お金のことも、子供である僕は心配なんかする必要ない、って。子供にかけるお金は“将来への投資”だ、無理に切り詰めたりバイトで足しにしようなんて考えずに、100パーセントの力を勉強につぎ込め、って。…ありがたいと思う。恵まれすぎな位、恵まれてると思う。感謝はしてるんだ。それは、本当に。でも―――…」
 「…でも?」
 「―――…そう言われれば言われるほど…重いんだ」
 「……」
 「“投資”って言葉も、そういう意味じゃないのはわかってても、つい…“投資した分だけはきっちり返せ”ってプレッシャーに感じちゃって…。もし、両親や周りが望むような形で返さなかったら、恩知らず、とか、親不孝者、とか言われるのかな、とか思うと……僕が数学者を目指すのは、それを両親が期待して“投資”しているからで、僕自身の希望かどうか、だんだん、わからなくなってきたんだ」
 「……」
 「確かに、研究に一生を捧げる、って人生に憧れてる部分もあるけど、でも……そう思う一方で僕は、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して―――歴史的発見とも賞とも無関係な、普通の人生にも憧れてる。自分の希望が何なのか……本当はどうしたいのか、自分でも、よくわからない。わかってれば、僕はこうしたい、って親を説得する気にもなれるけど……わかってないから、反論も、できなくて……」
 「…それだけ、親からの期待が重い、ってことか…」
 大きく息を吐き出しつつ、蓮が呟く。
 優也も、吐き出したかった本音を全て口にし終えて、ホッと息を吐く。それから暫く、2人とも無言のまま、それぞれの夕食に手をつけた。

 蓮が、今の話について何か意見を述べようとしているのは、なんとなく優也にもわかった。が、蓮は、なかなか口を開こうとはしなかった。難しい問題になると、こうしてよく考えを練ってからでないと意見を述べない蓮なので、彼にとっても色々と考えることの多い話なんだろうな、と優也は思った。
 結局、定食の半分ほどまで食べ終えたところで、蓮がゆっくりと切り出した。
 「―――俺は、親からあまり期待されてないけど……秋吉の感じる“重さ”は、なんとなくわかる」
 「えっ」
 ちょっと、意外だった。
 理系では日本でトップを争う大学に、ストレートで合格しているのだ。優也の親は極端にしても、似たような期待を、蓮の親も口にしているものと思っていたのに。
 「期待…されて、ないの?」
 「うちは、そういう役、兄貴がやってるから」
 そう言って、蓮は、苦笑のような弱い笑みを浮かべた。
 考えてみれば、蓮が兄の話をしたのは、一人暮らしを始めた理由を述べた、あの時だけだ。年内に結婚し実家に同居する、ということ以外、優也ですら何も知らない。なんだか、より蓮の奥深い部分に足を踏み込んだ気がして、優也はちょっとドキリとした。
 「兄貴、うちの大学のOBなんだ。政経だけど」
 「え……っ」
 「俺みたいに一夜漬けが得意でまぐれで受かった奴とは違って、兄貴は地道な努力家なんだ。そう―――秋吉に自信と社交性をプラスして、謙虚さと柔軟さをマイナスしたようなタイプ」
 ―――そ…それって、どんなタイプなんだろ…???
 想像してみようと試みたが、無理だった。でも、自信と社交性は、優也が一番欲しいと思っている資質なので、羨ましいなぁ、と思ってしまう。
 「兄貴は、将来の仕事は“士業”って、子供の頃から考えてたらしい。高校時代に公認会計士に目標を定めて、そのために政経を選んだ。で、今は、望み通りの仕事に就いている。俺の6つ年上」
 「へ…え…、凄いね」
 子供の頃からなりたいものがあり、そのために、1歩1歩前に進んで行く。そして、その通り実現する。文句のつけようのない完璧さだ。
 「うち、母親が、税理士なんだ。で、父親は、食品メーカーに勤めてるサラリーマン。…歳、離れててよく知らないけど、子供の頃の兄貴、母さんに成績について色々言われたらしい。期待されてたんだろうな」
 そこで言葉を切ると、蓮は頬杖をつき、どことなく遠い目をした。
 「…昔さ。兄貴に訊いたことがあるんだ。兄貴が“士業”にこだわるのは、親の影響? って」
 「……」
 「兄貴の答えは…わからない、だった。ただ―――両親の職業聞いた時の周囲の反応が、夫と妻の立場逆転、夫が惨め、って感じだ、と、子供時代の兄貴は感じてたらしい。漠然と、ああいう男の立場にはなりたくないな、って思ったのが、兄貴が“士業”にこだわった、第一歩。だから、親の影響と言えば、そうかもしれない。…でも、数ある“士業”の中で公認会計士を選んだ理由を両親に説明した時の兄貴は、自分の言葉でちゃんと語ってた、と、俺は、思う。公認会計士になろうと思ったのは、親の影響と受け売りの部分があったかもしれないけど……あの時点で、兄貴自身の夢になってたと思う」
 「……」
 「秋吉も、同じじゃないかな」
 視線を優也に向け、蓮は、そう言って僅かに目を細めた。
 「何がきっかけであれ、今、秋吉がトポロジーの研究を続けたい、って思ってるなら、それが秋吉の夢なんじゃないか?」
 「…僕の…」
 「親の押し付けで、何かを始めることはできても、興味を維持はできないだろ。だから、普通に就職したい、って希望も、数学者になりたい、って希望も、秋吉自身の夢、なんじゃないかな」

 押し付けでは、興味は維持できない―――…。
 なんだか、その一言に、混乱していた頭がすっきりと整理された気がした。
 そうだ―――数学の道を選んだ理由は確かに父だが、今、トポロジーを面白いと感じ、万華鏡の研究をしたいと感じているこの好奇心は、優也自身のものだ。
 なんだ、そうだったのか―――いつの間にか力んでいた優也は、体からすっと力が抜けていくのを感じた。

 「…穂積って、凄いねぇ…」
 感心したように優也が呟くと、蓮は驚いたように目を見開き、何故かキョロキョロと辺りを見回した。
 「お、俺が? なんで?」
 「僕には全然見つけられなかった答え、たった10分かそこらで、すぐ見つけてみせたじゃない。凄いよ」
 「…別に…」
 何やらもごもごと反論した蓮だったが、気まずいのか、その声はフェードアウトしてしまった。不器用な蓮らしい反応に、優也はくすっと笑った。
 「ああー…、でも、迷うことに変わりはないし、プレッシャーも減らないなぁ…」
 ため息をついて優也がそう愚痴ると、再び箸を手にした蓮は、ふっ、と微かな笑みを浮かべた。
 「俺は、迷うほどの夢も、特にないよ。迷える分、秋吉の方が先歩いてるんじゃないか?」
 「……そ…、かな」
 今度は、優也が照れてしまう番だった。ちょっと赤くなって俯く優也を見て、先ほどの優也同様、今度は蓮がくすっと笑った。

***

 「…あ、そうだ」
 夕食を終え、店を出てアパートに向かいながら、優也はふと思い出したように、隣を歩く蓮の方を見た。
 「ほら、この前話した、辻村 喬。新刊出てたから、買ってきた」
 「ああ…、かなりシビアな話書く新人だっけ」
 優也が帰省前に話したことを思い出し、蓮がそう相槌を打つ。
 「で、どうだった?」
 「うん―――なんか、やっぱり結構厳しい話だった。でも、そこがいいんだよね……綺麗事で終わってなくて、でもこう、しみじみした温かさもあって」
 「へえ…。俺も読んでみようかな」
 「僕、もう読み終わったから貸すよ。ついでに、マリリンさんの本も貸そうか?」
 「…いや、あの人のは…」
 蓮も、優也に勝るとも劣らない読書家だが、恋愛小説などの甘いテイストのものは苦手なのだ。その中でもマリリンのは社会派だ、と教えてやったのだが、それでも“恋愛”が絡んでる時点でダメらしい。優也の申し出に、蓮の表情が目に見えて渋くなった。
 「ほんとに、恋愛関係、苦手なんだね…穂積って」
 「…どうにも、なぁ…。リアルでもダメだし、フィクションでも勘弁して欲しい」
 「…なんか、ちょっと寂しくない? それ」
 「俺自身は別段寂しくないけど、周りがよくそう言うよな」
 ―――よほど、女の人に失望するような経験したのかなぁ…。
 全く迷惑だよな、という顔をする蓮の横顔を見て、優也は内心、首を傾げた。
 恋愛経験には乏しい優也だが、その乏しい経験と何冊も読んだ恋愛小説から、世の中には「勘弁して欲しいな」というタイプの女性がいる一方で、「こんな人の傍にいられたら…」と憧れるような女性もいることを知っているし、恋愛が甘いばかりではないことも知っている。その結果、恋愛っていいものだな、と感じているし、恋愛小説も人の心の機微が最もストレートに出ていて面白いと感じている。
 思春期の蓮に、一体何があったのかは、優也もまだ知らない。でも……蓮の中の恋愛観・女性観を根底から破壊するほどのショッキングな出来事だったのだろう。
 もったいない―――優也の悩みを、あれほど鮮やかに解いてみせる蓮だ。きっと素晴らしい中身の女性をちゃんと探し当てられるだろうし、相手を本当の意味で大事にする、素敵な恋愛をするだろうに…。
 「それより、大学院の話だけど」
 恋愛の話が嫌だったのか、蓮が再び話を元に戻した。
 「夏休み終わったら、一度、マコ先輩に話聞いてみたらいいんじゃないか?」
 「え、マコ先輩に?」
 「マコ先輩、実家離れて一人暮らしだし、来年から大学院だろ? 親の期待のほどは知らないけど、立場としては、秋吉の参考ケースそのものだと思うけど」
 思ってもみなかった名前が出てきて、一瞬キョトンとした優也だったが、確かに蓮の言う通りだ。
 「そうか…マコ先輩か…。気がつかなかった。ちょっと聞いてみようかな」
 「また天然な答えが返ってくるかもしれないけどな」
 「あはは、言えてる」
 自分たちには予想のつかないことを言う真琴のことだ。多分、相談しても、一筋縄ではいかない回答が返ってくるだろう。2人は顔を見合わせ、苦笑した。

 アパートに着き、郵便受けを開けてみると、留守中に投函された大量のチラシ類がどさどさ出て来た。
 「うわぁ…、10日でこんなになるのか。迷惑だなぁ…」
 苦労してチラシを引っ張り出した優也は、ふと、蓮のいつもとは違う様子に気づき、顔を上げた。
 蓮は、何故かやたら真面目な顔をして、8個並んだ郵便受けを順々に見ていた。まるで、何かをチェックしているかのような表情だ。
 「……どうしたの、穂積」
 優也に問われ、蓮の視線が、郵便受けを外れて優也に向けられる。
 「え?」
 「郵便受けが、どうかした?」
 「……ああ、」
 優也の「どうしたの」の意味を理解し、蓮は、その説明をしようとするかのように、何かを言いかけた。
 が―――思い直したのか、小さく息をつき、微かな笑みを返した。
 「いや、なんでもないよ」
 「? でも、」
 「盆休みも終わりだから、そろそろみんな戻って来たかな、と思っただけだよ」
 「……」
 本当だろうか。なんだか、そんな感じではなかったのだが。
 でも、蓮自身にそう言われてしまっては、しつこく突っ込む訳にもいかない。諦めた優也は、「そう」とだけ返し、抱え込んだチラシの中に封書や葉書が混じってないか、軽くチェックした。
 すると。
 「―――あれ?」
 「…っ、何かあったのか?」
 優也があげた声に、蓮が、妙に緊張した声で訊ねる。
 しかし、優也の声の原因は、そんな深刻なものではなかった。ちょっと可笑しそうに笑いながら、優也は、見つけた1枚の葉書を摘み上げ、蓮に向かって差し出した。
 「見てよ、これ」
 「?」
 眉をひそめた蓮は、それを受け取った。上に向けられていたのは、あて先の書かれた面―――そして、優也の笑いの意味を理解し、蓮も笑った。
 「ハハ、なんだよ、これ」
 「まあ、同じアパートだから、気持ちはわかるけど」
 それは、今ちょうど噂していた、真琴からだった。
 あて先には、“ベルメゾンみそら”の住所が書かれていたのだが―――それに続けて書かれていたものが、いかにも真琴っぽい。

 『103号室 秋吉優也様 ならびに 204号室 穂積 蓮様』

 「ケチってんなぁ、マコ先輩…」
 「マコ先輩って、今、実家だよね。なんだろ……」
 暑中見舞いかな、と、葉書を裏返す。だが、裏面には、妙な写真が印刷されていた。
 葉書半分のスペースが、ほぼ、濃い灰色1色。いや―――濃い灰色、というか、ほとんど黒。地面に敷き詰められるコールタールの黒だ。
 多分、地元のアスファルトをデジカメで撮ったのだろう。僅かに黄色い線の入った地面のど真ん中に、スニーカーだろうか、足の形に綺麗にくぼんだ箇所があった。

 『今年の夏初めての、私の足型ナリ〜。名古屋の夏は、アスファルトが融けるほど暑いナリよ〜』

 「……マコ先輩に相談するの、やめようかな」
 どんなアドバイスが返ってくるか、もの凄く不安だ。
 葉書を片手に、どうリアクションしていいやら、と困り果てる優也を見て、蓮は可笑しそうに笑い声を立てた。


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