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― スローな関係 ―

 

 新しいバイトかな。
 ステージ上の咲夜の頭に、まずポンと浮かんだのは、そんな推測だった。

 「Can't you hear that pitter pat and that happy tune is your step ....Life can be so sweet on the sunny side of the street」

 これまであまり歌ってこなかった、『On the Sunny Side of the Street』―――そのせいか、他の曲ならポンと気持ち良く出せる高音が、何故か今日はイマイチの出来に感じる。
 でも、この曲は、昔から咲夜が好きなナンバーの1つだ。拓海の部屋に居候していた頃、拓海がよく、この曲を弾いていたからだ。後に、ルイ・アームストロングが演奏するこの曲を聴き、そしてアメリカ時代の拓海の話を聞いて、拓海が何故この曲をよく弾いていたか、なんとなくわかった。ルイ・アームストロングの、土の匂いのするようなあのトランペット―――恐らく、拓海にとってこの曲は、他界した親友・ニッキーとの思い出の曲の1つなのだろう。

 「If I never had a cent I'll be as loaded as old Rockfeller.... With that gold dust 'round my feet.... On the sunny side of the street, On the side, at that side of the street that is sunny」

 ―――あああああ…、ごめん、拓海。思い出の曲がボロボロだよー。
 多分、客の耳には問題ないレベルだろうが、個人的に発音がNG。特に「Rockfeller」なんて、歌の中で出てくることなんてほとんどない名詞だから、言葉が綺麗にリズムに乗っていない。
 1曲目を歌った時と変わらない拍手を浴びながら、咲夜は、自己嫌悪を笑顔で隠し、深々と頭を下げた。普段なら拍手へのお礼の意味だが、今日のお辞儀は完全に「反省」だ。

 よし、次の曲頑張るぞ、と顔を上げて気合を入れ直した時、また、視線を感じた。
 「……」
 ステージから見て、左斜め奥にある、バーカウンター。
 服装からここの店員とわかる、見覚えのない顔。20歳前後、といったところだろうか。特徴は……一言で言うなら「軽そう」。仲間とつるんで女子高生とかをナンパしてそう―――まあ、強面(こわもて)ハードロック調な外見の蓮が、生真面目で賢い大学生だったりするので、中身の方はわからないが、とにかくそういう軽そうな外見だ。
 若い客層でも取り込む気かな、と、彼を雇った店側の思惑にちょっと意識が行った刹那、ちょうど咲夜と目が合った彼が、想像通りの軽薄は笑顔で、軽く手を振った。
 ―――…うーん、中身も軽そうだ。
 手を振り返す訳にもいかない。咲夜は、新しい従業員のアピールを無視し、次のナンバーのためにもう一度マイクを握り直した。

***

 「45点」
 「ほえぇ…自己採点キツイなー、お前」
 「…冗談。これでも甘いよ」
 感心したような呆れたような声を上げるヨッシーを軽く睨み、咲夜は控え室の椅子にストン、と腰掛けた。
 今日も無事、2ステージ終えたものの、咲夜の満足度は極めて低い。45点は、本当に甘い自己採点で、咲夜の本音としては30点だ。言葉が綺麗に音に馴染まない、というのは、歌っていて一番気持ちが悪いのだ。
 「俺はそう悪くないと思ったがなぁ…。一成は、どう思った?」
 ヨッシーに問われ、ちょっと考えた一成は、複雑な表情で咲夜を見下ろした。
 「まあ、俺も許容範囲内だったけど―――ところどころ、歌いにくそうにしてるな、とは思ったな。声が出ないより、発音にしくい、って感じで」
 「そーなんだよねぇ…」
 いつも咲夜は、日本語であれ英語であれフランス語であれ、歌詞を音と一体化して自然と口にできるところまで消化しきらないと、ステージには上がらない。歌詞を思い出しながらとか、不自然な発音になる、なんてのは、絶対NG。曲を聴いて、口を開いたら、頭で考えなくても当たり前のように歌詞が出てこなくては、合格点ではないのだ。
 「そんなに歌い難い歌詞かねぇ…? 明るくて前向きで、“Blue Skies”と方向性は似てるだろ?」
 「うん、ルイ・アームストロングのインストバージョンなんて、中学の頃から選んで聴くほど好きな曲だし、鼻歌で口ずさむこともある位だし…。だから、歌詞が完璧に消化しきれてないのは、好き嫌いじゃなく、完全に私の練習不足―――100パーセントまで持っていけるだけ、歌いこんでないからだよ」
 はぁ、とため息をついた咲夜は、顔を上げ、ちょっと申し訳なさそうな顔でヨッシーと一成を見比べた。
 「…ごめん。今週はこの曲、パスしていい? 日曜に時間作って、目一杯練習してくるから」
 「―――ま…、しょうがないな。咲夜自身が納得してないんじゃ」
 一成がそう言うと、ヨッシーも頷き、バン! と咲夜の背中を叩いた。
 「まあまあ、そう落ち込むな。変に妥協して中途半端なもん聴かせるより、咲夜の志の方が俺たち好みだしな」
 「…ん、ありがと」


 たまには飲むか、とヨッシーに誘われ、咲夜も一成も、その誘いに応じた。
 テーブル席が満席になっていたので、仕方なくカウンター席に座る。すると。
 「あ、お疲れ様です」
 ステージ上の3人と気づいて、例の妙に軽そうな新人が笑顔で挨拶してきた。
 近くで見ると、遠くから見た時よりもっと幼い顔に見える。まるで某アイドル事務所の所属タレントみたいな、「可愛いぼうや系」の顔だ。
 「いつからここ入ったの」
 3人分の飲み物とおつまみを注文し、ヨッシーがそう訊ねると、新人君はオーダーを伝票に書き留めながら、口元だけで笑った。
 「あー、昨日からです」
 「へぇ、その割に、随分慣れた感じだなぁ。さっきなんてシェイカー振ってただろ」
 「あ、見てたんですかー。おれ、飲み屋でのバイト経験が結構多いし、この店もランチタイムからバイトに入ってるんで、順応早いんですよ」
 「昼間から? 学校は?」
 「専門学校卒業しちゃったんで、一応社会人ですよ。フリーターってとこかな……あ、お姉さん、アプリコット・クーラーだっけ、アプリコット・サワーだっけ」
 突如砕けた口調になった彼が、咲夜に目を向け、そう訊ねた。飲食店のバイトに慣れてるんじゃなかったのかい、と、3人全員、心の中で突っ込みを入れる。
 「アプリコット・クーラーの方」
 「了解。…でもさぁ、お姉さん」
 咲夜の返事を特に書き留める様子もなく、彼が意味深な笑みを浮かべる。
 「昨日演奏してたバンドの人は、おれが手ぇ振ったら振り返してくれたんだけどなぁ。もうちょい愛想良くしてくれてもいいのに、結構つれないね」
 「……」
 …要するに、これを言いたくて、そのきっかけとしてオーダーの確認をしたらしい。アホか、とでも言いたげに、咲夜は軽く眉を上げた。
 「おあいにく。従業員に愛想振り撒く義理はございません」
 咲夜の冷たい反応に、何故か彼は、あははは、と愉快そうに笑い声をたてた。
 「歌声もだけど、性格も昨日の人よかこっちのお姉さんの方が好みだなぁ。あ、おれ、ふじさきとおる、って名前なんで、気軽にトールって呼んでね」
 「こら。さっさと働けよ、アルバイト」
 オーダーを書き留め終えてもまだその場を動く気配を見せないトールに、ヨッシーが軽く睨みをきかせる。肩を竦めたトールは、悪びれた様子もなく、伝票片手にその場を離れた。
 「…妙な奴だな。ああいうのには気をつけろよ、咲夜」
 一成が、警戒したような声音で低く助言する。だが、一成に言われるまでもないことだ。勿論、とでも言うように咲夜が肩を竦めたその時、咲夜の携帯電話がブルブルと震えた。
 ジーンズのポケットから携帯を引っ張り出し、液晶画面で電話主を確認した咲夜は、その意外な名前に、思わず表情を変えた。
 「……っ、ちょっと、ごめん」
 2人にそう断りを入れ、席を立つ。客の迷惑にならないよう外に出ようと、店の入り口へと早足で向かいながら、咲夜は受話ボタンを押した。

 「―――もしもし」
 店のドアに手をかけるのとほぼ同時に、電話に出た。
 『俺だ。久しぶり』
 久しぶり―――本当に、久しぶりだった。店の外に出た咲夜は、無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
 「…びっくりしたよ。どしたの、拓海」
 あれは、ちょうど2ヶ月ほど前―――奏と親友から1歩進んだことを知らせる意味も込めて、“Jonny's Club”の割引チケットを拓海のところへ持って行ったのが、拓海と会った最後だ。
 海外に行ってしまえば、2ヶ月以上声を聞かないこともあったので、この位「久しぶり」の領域でもないのだが……拓海の方から電話を寄越す、というのは、本当に久しぶりだ。いつ以来なのか、咲夜にも思い出せないほどに。
 「何かあったの?」
 暗に、佐倉と、という意味を込めて訊ねると、電話から苦笑が聞こえた。
 『バカ、そんなんじゃないよ。今年はどうするかと思って電話したんだ』
 「え?」
 『…今度の金曜日だろ、命日』
 「……」
 そう―――明々後日は、咲夜の母の命日だ。
 お盆シーズンの直後であることから、母の親族や父は、お盆休みの間に法事を執り行っているが、咲夜1人が頑なに、命日の当日に母を悼んで墓参りをすることにしている。そして、去年までの咲夜は、墓参りを済ますと必ず、拓海の家へ行っていた。
 一周忌の時、父と一緒の席にいることがどうしても我慢できず、逃げるようにして拓海の部屋に帰ってきて以来―――あの部屋で、たった1人で母のことを想って歌うのが、咲夜流のこの日の過ごし方だったのだ。
 勿論、命日が近づいていることは、咲夜も意識していた。午後から休みを取ってあるし、その穴埋めに余計に仕事をする日もちゃんと会社側と決めてある。ただ……今年、どう過ごすかは、あまり考えていなかった。
 「…とりあえず…お墓参りに行くことしか、特に決めてないけど」
 『じゃあ、今年も、うち来いよ』
 至極当たり前、といった口調で、拓海がそう言う。が、それを聞いて、咲夜の口元に苦い笑みが浮かんだ。
 「んな訳にも、いかないじゃん」
 『なんで』
 「なんで、って…」
 具体的には、そういう訳にもいかない理由なんて、何も、なかったりするのだけれど。
 だから、「なんで」と訊かれると、答えに窮するのだけれど。
 『お前が来たくないんなら、まあ、無理強いはしないけど?』
 「…別に、そういう訳じゃないけど」
 『大体お前、冷たいぞ。彼氏が出来た途端、連絡すら寄越さなくなって』
 「そういう訳でもないんだけどっ」
 そんなこと、拓海だって、百も承知の上だろうに―――承知の上で、そういうことを言う。相変わらず、食えない奴だ。
 『…一宮君やみなみとは関係なく、お前が俺の姪っ子なのは、姉貴たちが離婚でもしない限り、不変の事実だろ?』
 肩透かしを食らわせたと見せかけ、直後、咲夜の本音にあっさり斬り込んでくる。
 『たまには叔父さんに、元気な顔も見せなさい』
 「…うん」
 やっぱり―――どこまでも、食えない奴だ。


***


 ―――予定より時間食ったな。ついてない…。
 ついさっきまで、今度のライブの打ち合わせをしていた拓海は、普段より気持ち焦り気味で、愛車を自宅へと走らせていた。
 話によると、咲夜は午後までコーヒーデリバリーの仕事を続け、3時位には会社を出るとのことだった。その後墓参りに行き、その足で拓海の部屋に来るとしたら―――多分、5時には家に着いている筈。なのに愛車のデジタル時計は5時を大幅に過ぎた時刻を表示している。
 待ちくたびれて帰られてしまっては、元も子もない。急いでるというのに、地味に発生する細かな渋滞に、拓海は少々苛立った。

 『私には、抱きしめたい人が、2人いるけど―――抱きしめられたい人は、1人しかいない』

 迷いの消えた目で、咲夜がそう伝えに来た時、一回り細く小さくなった咲夜の体に、正直ショックを受けた。そして、その原因が自分に―――かつて同じ病を発症した時には咲夜を救う側の立場だった筈の自分にあると察して、胸が痛んだ。
 咲夜と会ったのは、割引チケットを渡しに来た時、僅か3分間顔を見せたのが最後だ。あれ以来、咲夜はさっぱり連絡も寄越さないし、家に来る様子もない。その気持ちは、反対側の立場の拓海にもなんとなくわかるが…それにしても、ここまで徹底しなくてもいいだろ、という位の徹底振りだ。
 拓海が心配すること位、咲夜だって承知の上だろうに―――承知の上で、徹底的に背を向ける。相変わらず、意地っ張りな奴だ。


 やっと自宅に着き、呼び鈴を鳴らしてみると、間もなく鍵の開く音がして、ドアが内側から開いた。
 「おかえり」
 まるで、気まずさなんて微塵も感じていないような、こうして迎え出るのが当たり前みたいな顔で、咲夜が出てくる。
 やっぱり―――どこまでも、意地っ張りな奴だ。
 「…ただいま」
 相変わらずな咲夜に、どことなくホッとしたものを感じつつ、拓海は小さく笑った。そんな拓海を見て、変な奴、と眉をひそめつつ、咲夜は奥へと引っ込んだ。
 「悪かったな、遅くなって」
 「そうでもないよ、ちょうど良かった」
 何がちょうど良かったのか、と疑問に思った拓海だが、その答えは、間もなくわかった。
 リビングに続くドアを開けた途端、ふわりと漂ってくる、シチューの香り――― 一瞬、呆然と立ち尽くした拓海は、呆れ顔で咲夜の方を見た。
 「おい…、宅配ディナーでいい、って電話では言ってただろ」
 「いいじゃん、別に。あ、私、今生活費がかなりピンチなんて、材料代は貰うからね。フランスパン含めて総額3千円弱」
 さっそくパンを焼く気らしく、細長いバケットを袋から取り出した咲夜は、振り返って悪戯っぽく笑った。
 「なんなら、佐倉さんに伝授しよっか? 特製ビーフシチュー。結婚したら、好きな時に作ってもらえるように」
 「…バカ言え。あいつのどこに、そんなもん優雅に作ってるような時間があるってんだ」
 拓海の返答に、面白そうにハハハと笑った咲夜は、バケット片手にキッチンに向かってしまった。
 今日は、咲夜がゲストであり、拓海がホストの側の筈なのに、全く……ため息をついた拓海は、それでも好物を目の前にしては文句も言えず、大人しく着替えることにした。

 ―――結婚、ねぇ…。
 自分の部屋に向かおうと、リビングのドアを開けかけた拓海は、複雑な心境でチラリと振り返った。
 結婚だなんて、そんなはるか彼方のことを出されても、さっぱりイメージが湧かない。最近になって、ようやく週1ペースで会う時間を作れるようにはなったが、お互いに仕事が趣味のような人間なので、その関係の進み方は実にスローだ。
 年齢から言えば、どちらも完全に、適齢期オーバー。「あんたは男の人生を歩む宿命なんでしょう」と平然と言う親を持つ佐倉だから、この歳になったからといって、結婚をせかす人間も特にいない。多分、自分たちの中で「その時」が来るまでは、こんな関係が続くのだろうし、その方が自分たちらしいと、拓海自身も、そして佐倉も思っている。
 だから、むしろ―――結婚、なんて話が出てくるのは、咲夜たちの方が早いんじゃないか、と。
 奏はあのとおりの性格だし、咲夜もこうと決めれば行動が早いタイプだ。しかも、壁に仕切られているとはいえ、隣同士で住んでいる。いっそ一緒に住んでしまえ、だったらいっそ結婚してしまえ、とトントン拍子に進んでも、全く不思議ではない。

 …こういうのを、娘を嫁にやる男親の心境、と呼ぶのだろうか。
 一瞬、奏の胸倉を掴んで「咲夜を泣かせたら、俺が承知しないからな」と脅している自分が頭に浮かんで、ちょっとげんなりした。
 実の父を差し置いて、一足先にそんなことを考えてしまった拓海は、ヒステリックに咲夜と自分を引き離そうとしていた咲夜の父を思い出し、その気持ちがちょっとだけわかった気がした。

***

 「で、墓参りには、無事行けたのか?」
 フランスパンをちぎりつつ、拓海は、咲夜の背後の壁に掛けられているものに僅かに目を向けた。
 ハンガーに掛けられた、ブラックフォーマル。命日に、そしてちゃんとフォーマルを着て、というのが、咲夜なりのこだわりなのだ。さすがに料理を作る時に着ている訳にもいかず着替えたようだが。
 「ん…、ちゃんと、行ってきた。親戚とかがお墓参りしたのが10日近く前だから、もうお花とかなくなってた。お参りした日が命日と近いと、花活けが占領されてて、私の分供える場所なくて困るんだけどね」
 「ああ…、確かに、そうだな」
 「―――今年はさ、蛍子さんにちょっと、言われちゃった」
 姉の名前が出てきて、スプーンを握った拓海の手が、ちょっと止まる。
 「なんて?」
 「父娘2人揃って顔を見せてやった方が、天国のお母さんも喜ぶんじゃないか、って。6月の終わりに、家に顔出した時に」
 「…そうか」
 昨年13回忌を迎え、咲夜の“母”としての立場は、亡くなった咲夜の実の母と、拓海の姉、双方同じ年数になった。そして今年は、姉の方が1年長くなったことになる。これまで、前妻のことについては一切口出ししなかった姉が、何故今年に限って意見してきたのか―――それには多分、咲夜の“母”としての年数が前妻を上回るまでは、という、姉なりの線引きだったのだろう。
 拓海から見ても、姉と咲夜の関係は極めて良好なものだ。でも……こと、このことに関しては、何年経とうと姉には入り込めない問題のような気がする。単に他界した母の問題ではなく、父が―――今も生きていて、そして姉の夫でもある父が、絡んでいる問題だから。
 「ま、どっちかがもっと温厚にならないと、かえって親不孝になりそうだな」
 「あはは、私も似たようなこと言った」
 そう言って愉快そうに笑う咲夜は、少し安堵したような様子だった。これでいい、と思いながらも、亡き母の心情に触れられると、迷う部分があったのだろう。拓海までもが姉と同じことを言ったら、多分、大いに落ち込んでいたに違いない。
 「…このメニューだと、赤ワイン欲しくなるな」
 あまり深刻な話を引きずるのもまずいと思い、立ち上がる。
 「え、いいよ、私取ってくるから。どれ?」
 「いいから、お前は座っとけ」
 慌てたようにガタン、と席を立つ咲夜を、拓海は片手で制し、窓際のキャビネットを開けた。確か貰い物の赤ワインが眠ってた筈だ、と記憶していたが、その記憶通り、赤ワインのボトルが手つかずの状態で置いてあった。
 「…っと、ああ、でも、咲夜送ってくんなら、酒はまずいか」
 キャビネット上段を開けてグラスを取り出そうとしたところで、車の運転をする可能性に気づき、その手を止める。が、その懸念は、咲夜の一言で払拭された。
 「あ、ごめん、言い忘れてた。送ってくれなくていいよ。奏が迎えに来るから」
 「え?」
 唐突な言葉に、思わず素で驚いた顔をしてしまう。キョトンとした顔で振り向いた拓海に、咲夜は曖昧な表情で説明を付け加えた。
 「仕事終わって、大体8時半から9時の間になると思う、って。その時間なら1人でも帰れるんだけどさ、なんか、何がなんでも迎えに行くぞ、って感じで力説するから、じゃあお願い、って頼んだ訳」
 「…なるほど」
 ―――こりゃあ、信用されてないな。
 殴りこみに来た時の奏を思い出し、内心、苦笑する。勿論、そんなことが拓海と奏の間であったなんて、咲夜本人は全然知らないのだろうけれど―――奏にとって拓海は、こうなった今もなお、油断することのできない相手らしい。
 「じゃ、遠慮なく飲ませてもらうことにしよう」
 「うん。…あ、私もちょっと貰おうかな」
 「…大丈夫か、酒なんて飲んで」
 眉をひそめる拓海に、咲夜は、少しばかり自慢げにピースサインをしてみせた。
 「ふふーん。月曜に、先生から“刺激物OK”の許可出たもんねー。もうなんでも飲み食いできるよ」
 「ほんとか」
 拓海が一番気にしていた点だ。見た目からではいまいち判断がつかず迷っていたのだが、医者から太鼓判を押されたのなら、もう安心ということだろう。さすがに、無意識のうちに張っていた気が緩む。
 だが。
 「月曜の夜は、祝杯だー、って奏とビール飲みまくって、2人して撃沈しちゃったよ」
 「……バカ」
 キャビネットをピシリと閉め、咲夜を睨む。
 「解禁になった当日に、酔いつぶれるほど飲むバカが、どこにいるんだ、え?」
 「ここに」
 「バカかお前はっ!」
 「…バカバカ言わないでよ。次の日の朝に、奏にもガミガミ言われて、反省してんだから。まあ、奏が前後不覚になってからも飲み続けて、結局奏と同じ本数行っちゃったのは、私の責任だけどさー…」
 「…解禁1日目の奴が、健康な奴と同じ本数飲むなよ…」
 本当ならその場にいて止めなかった奏も責任追及されるべきなのかもしれないが、酔いつぶれた後に追いつかれてるなんて、さすがに想像の範囲外だったに違いない。翌朝、空になった缶ビールの本数を数えて、奏はさぞかし青褪めただろう。グラス2個とワインを手にテーブルに戻ってきた拓海は、席に着くと同時に、はあ、と大きなため息をついた。
 「…お前な。自分の体のこと、もうちょっとよく考えろ」
 「考えてるよ、失礼な…。第一、神経性のものが一番の原因で、実際に胃が強烈にいかれてるとか、そういう訳じゃないじゃん。前の時のこと、拓海が一番知ってるんだから、そんなに心配しなくても」
 「一番知ってるから心配するんだろうが」
 拗ねたように唇を尖らせる咲夜に、拓海は呆れたような視線を返し、ワインのコルクにコルク抜きを捻じ込み始めた。
 「お前、当時の身長と体重、覚えてるか? 平均身長よりはるかに高い癖に、体重は平均以下だったんだからな。挙句に、睡眠障害は起こすわ、高熱出してぶっ倒れるわ―――1年も生理が止まった日には、俺たち男にはわからない分野なだけに、本気で途方に暮れたぞ」
 「……」
 憤慨したような口調の拓海の愚痴に、咲夜は何故か、キョトン、と目を丸くした。
 反論もせず、暫し、コルクを抜く拓海の手元を、丸くした目でじっと見つめる。やがて、僅かに眉をひそめた咲夜は、手にしていたスプーンを置き、指を折って何やら数を数え始めた。
 コルクが抜けたところで、拓海も、咲夜のその様子に気づいた。
 「? どうした」
 「んー…? いや、今、気づいたから」
 「何が」
 「そう言えば、全然来てないや」
 「……」
 「毎回結構生理痛が辛いから、快適に生活できてラクチン、位にしか思ってなかったけど……そっか、そう言えば前もそうだったね。忘れてた。ハハハ」
 変に納得したように明るく笑う咲夜を、拓海は、血の気が引いた顔で凝視した。
 慌てて、ワインボトルとコルク抜きをテーブルに置く。一度唾を飲み込むと、拓海は、半ば身を乗り出すようにして口を開いた。
 「…それ、いつからの話だ?」
 「え? えーと…ここ3ヶ月ほど、かな。ちょうど摂食障害起こしてた期間と一緒」
 「病院、行ったんだろうな」
 「行く訳ないじゃん、今気づいたんだから」
 「行け」
 「えー!? やだよ、産婦人科なんて!」
 「バカ! それだけ止まってて行かない奴の方がおかしいぞ!」
 「だって、前だって、普通な食生活に戻ったら、普通に始まったじゃん。今回だって大丈夫だよ。ダイエットしてる子なんて止まりまくりなんだから、全然問題ないって」
 病院嫌さのあまりか、徹底的に希望的観測ばかり述べる咲夜に、拓海は、深い深いため息をひとつつき、頼むから察してくれ、という表情で、咲夜を恨めしそうに見た。
 「…問題、ありだろ。お前、大事なこと忘れてないか?」
 「は?」
 「来るべきものが来ない、って場合―――栄養不足より、妊娠疑うだろ、普通」
 拓海からしたら、極々当たり前の言葉。
 けれど、咲夜はその言葉に、何それ、という顔をした。
 「普通、って言われても……それって、身に覚えのある女限定の“普通”でしょ」
 「お前もあるだろ」
 当然のように拓海がそう言うと、咲夜は涼しい顔で答えた。
 「ないよ?」
 「……」
 「…ああ、何、もしかして拓海、自分のこと心配してんの? 大丈夫、ジャズ・フェスタ終わったらすぐ来て、いつも以上の頭痛と吐き気で散々な目に遭ったから」

 ―――…いや、そうじゃなくて…。
 俺じゃなくて、もっと可能性のある奴、いるだろうが。すぐ隣に。

 どうにも、話が噛み合わない。が―――噛み合うケースが、1つだけある。拓海が全く想定していなかったケースが。
 「何、ぼーっとした顔しちゃって」
 再びスプーンを手にした咲夜が、不思議そうな目を向ける。
 誤解を解きたい気持ちと、真相を聞いてみたい気持ちもあったが…さすがに、訊き難い。気まずさに軽く咳払いした拓海は、ワインを注ぐべく、グラスを手前に引き寄せた。
 「…いや、なんでもない。とにかく、病院には一度行っておけよ」
 「…気が向いたらね」
 多分、行かないんだろうな―――モロに気の乗らない顔の咲夜を見て、そう思う。母親を病院で亡くしているせいか、自身が昔から何度も強制的に病院に行かされたせいか、咲夜は平均以上の病院嫌いなのだ。いや、そんなことより―――…。
 ―――…一体、どんな付き合い方してるんだ? あいつと咲夜は。
 思いがけず知ってしまった2人の関係に、拓海は内心、首を傾げてしまった。

***

 夕食も終わり、奏が迎えに来るまでの時間は、毎年恒例、ジャズの時間だった。

 「何がいい?」
 鍵盤の蓋を開けつつ、拓海が訊ねると、少し迷った末、咲夜は定番の曲名を口にした。
 「…今年は、“What's New”、かな」
 「了解」
 拓海にとっても、馴染みの曲だ。小さく息を吐き出し、鍵盤を叩き始める。前奏に続き、久々の咲夜の歌声が響いた。

 「What's new?... How is the world, treating you?.... You haven't changed a bit..... Handsome as ever, I must admit.....」

 昔より艶の増した歌声で、切々と歌い上げる。
 咲夜は毎年、この日には「悲しい歌」を選ぶことが多い。明るい楽しい歌で感傷を吹き飛ばすより、ノスタルジーにどっぷり浸るのが、咲夜流のこの日の過ごし方なのだ。意地っ張りで、考えていることを表に出さない咲夜だが、歌に関してはどこまでも素直で正直だ。

 実際に涙を流さない分、母への想いの全てを込めるかのように、咲夜は丁寧に、情感たっぷりに歌った。
 ピアノの余韻の音が消えると同時に大きく息をついた咲夜は、直後、思いがけないことを言い出した。
 「あの、さ。連続で悪いんだけど……もう1曲、いいかな」
 「いいよ。何?」
 「うん―――“On the Sunny Side of the Street”」
 意外な曲名に、思わず、拓海の目が丸くなる。
 「また随分と明るい曲を持ってきたな」
 「ああー、違うんだ。実は、今週歌う予定になってた曲なんだ、これ」
 「予定?」
 「…私の練習不足で、1日歌ったきり、延期にしてもらった」
 咲夜の表情が、少し気まずそうなものに変わる。どういうことだ、と眉をひそめる拓海の視線を避けるように、咲夜はピアノの傍を離れ、テーブルの上に置いておいた水の入ったグラスを手に取った。
 「歌っては、いるんだよね、毎朝。“On the Sunny Side of the Street”も、昔から口ずさむ程度には歌ってたし、今度これやるぞ、って決まってからは、夜中にヘッドホンして、小声で繰り返し歌ってきたし。けど―――なんて言うのかなぁ、こう、舞台で歌うみたいな歌い方は、家では出来ないじゃん。スタジオ借りるのはお金かかるし、公園とかじゃ近所迷惑だし…」
 「…つまり、本格的に腹筋使っての歌いこみが足りてない訳だな」
 「まあ、そんなとこ」
 やっぱり―――予感的中。ため息をついた拓海は、ピアノの端を指でコツコツと叩いた。
 「ここ使えばいいだろ、前みたいに」
 「……」
 水をコクリ、と飲み込んだ咲夜が、拓海に目を向ける。
 一瞬、読めない表情をした咲夜だったが、すぐに、ふ、と苦笑めいた笑みを浮かべた。
 「とりあえず、他当たるから、いいよ」
 「…まあ、咲夜がそう言うなら、いいけど」
 他に当たる所なんてあるのか、と心の中で突っ込みを入れつつ、視線を逸らす。
 「でも、一応言っておくと―――避けてるのがバレバレな距離の置き方ってのは、逆に意識してるのがバレバレだぞ」
 「…ふぅん」
 気のない相槌を打った咲夜は、グラスを置き、再びピアノの横に戻ってきた。
 「じゃあ、私も一応言っておくと―――別に避けてる訳じゃないのに“避けてる”と解釈されるのも、逆の意味で意識してるのがバレバレなんですけど」
 「……」
 逸らしていた視線を再び向けると、咲夜の静かな笑みがそこにあった。
 「…今、自分で自分を試してるとこなんだ。今まで、安易に拓海を頼りすぎてたから―――自分自身で、どこまでやっていけるか。避けてるんじゃなく、拓海を頼りたくなった時、他の道を探す努力をしてるだけ。拓海と会うのが気まずいからでも、拓海と会うと気持ちがグラつくからでもないよ」
 「…そう、か」
 「うん」
 きっぱりと、頷く。あまりにもきっぱりしていたので、拓海もその言葉を信じることにして、笑みを返した。
 拓海にわかってもらえたと察し、咲夜もくすっと笑う。が、その表情が、少し迷うようなものに、一瞬変わった。
 「ただ―――…」
 「? ただ?」
 ただ……何だろう? 続きの言葉を待ったが、咲夜はすぐに迷いの表情を消し、笑顔で首を振った。
 「ううん、とりあえず、いいや。それより、お願いしていい? “On the Sunny Side of the Street”」
 「あ? ああ」
 そうだった。『On the Sunny Side of the Street』の伴奏を頼まれていたのだ。咲夜が何を言いかけたのかが気になったが、拓海はひとまずそれを忘れ、再びピアノに向き直った。


 結局、その後の時間は全て『On the Sunny Side of the Street』の歌いこみに当てられてしまった。
 細かな箇所の繰り返し繰り返し、で、双方かなり疲れてきたところに、まるで天の助けの如く、玄関の呼び鈴が鳴った。
 「うわ! やばい、洗い物、まだ終わってないよ」
 練習に夢中で、その後食べたケーキの皿やコーヒーカップが投げ出したままだったのだ。拓海出といてー、と言いながらキッチンに向かう咲夜に、拓海は苦笑を浮かべ、奏を出迎えるべく玄関に向かった。
 念のため覗き込んだ魚眼レンズの中で、ドアの外に立つ奏は、どことなく憮然とした表情をしていた。つくづく信用がないな―――肩を竦めた拓海は、鍵を開け、ドアを押し開いた。
 「久しぶり」
 にっこりと拓海が愛想笑いをしてみせると、奏は憮然とした表情のまま、軽く会釈を返した。
 「…どうも、お久しぶりです」
 敵意がびしびし突き刺さるような挨拶だ。ははは、と乾いた笑い声を立てた拓海は、まあ入れよ、と奏を促した。
 「咲夜ー、一宮君来たぞー」
 「ごめーん! もうちょい待ってて!」
 居間に続くドアの向こうから、咲夜の返事が返ってくる。警戒心丸出しでスニーカーを脱いでる最中の奏を振り返り、拓海は軽く肩を竦めた。
 「片付け物やってるから、少し待っててやってくれるかな」
 「……つか、何、客に片付けさせてんだよ、あんた」
 …ごもっとも。反論しても突っ込みどころ満載になりそうなので、拓海は笑って誤魔化し、もうこの件には触れないことにした。
 「じゃ、お邪魔します」
 「…っと、ちょっと、一宮君」
 さっそく部屋に上がり込もうとした奏を、拓海は腕を掴んで制した。
 「その前に、1つ、訊きたいことあるんだ」
 「訊きたいこと?」
 咲夜には聞こえないよう声をひそめる拓海に合わせ、訝しげな顔をした奏の声も若干小さくなっていた。どう訊いたらいいかな、と少し迷った拓海だったが、結局、ストレートに訊くことにした。
 「いや、その―――なんでも、随分と清らかな交際してるみたいだから」
 「…は…?」
 「直情的な一宮君のことだから、とっくに手を出してるもんだとばかり思ってたよ。意外に硬派なんだなぁ」
 「……っ!!」
 奏の顔が、目に見えて紅潮した。一気にうろたえた表情になった奏は、拓海の背後にある居間に続くドアに一旦目を向け、また再び拓海の顔を見た。
 「あ、あいつ、そんなこと言った!?」
 「言った…訳、じゃ、ないか。全然関係ない話の中で、それが偶然わかっただけで」
 「……」
 「…もしかして、俺とのことが、原因か?」
 拓海の顔が、幾分真剣味を増す。焦るばかりだった奏は、その意味するところを察し、はっとしたように表情を変えた。
 一度きりとはいえ、咲夜は、ずっと好きだった男と……拓海と、関係を結んだ。その出来事に、奏は激しくショックを受けたし、嫉妬もした―――そのことを、拓海は、殴りこみに来た奏本人の口から、はっきりと聞いている。奏があの出来事をまだ引きずっている可能性は、どうしても頭から消し去れなかった。
 「俺に体許した咲夜のことは、抱く気になれない?」
 「まさか! そんなんじゃ…」
 とんでもない、というように首を振った奏は、気まずそうに視線を若干落とした。
 「…そういうんじゃ、なくて。ただ、まだ時期じゃないだけで」
 「時期?」
 「…麻生さんには多分、わかんねーよ、多分」
 「……」
 「オレも、咲夜も、“親友”の距離を“恋人”に近づけるのに、ちょっと時間要るんだよ」
 そう言うと、奏は目を上げ、今度は焦りも気まずさもなく、真っ直ぐに拓海を見据えた。
 「“親友”としての時間が、本当に大事だったから―――その居心地の良さに浸っていたい、って気持ちの方が、欲しい、触れたい、って気持ちより、まだ少し大きいんだと思う。いつか絶対、その比重が変わるから、それまでは焦らないことに決めた」
 「…確かに、俺にはわからない話だな、そりゃ」
 わからない、けれど。
 でも―――羨ましい話だな、と、拓海は思った。
 傍から見ていてももどかしいし、本人も辛い部分があるだろうけれど……それを補って余りあるほど、羨ましい話だ。そんなにも大切にしたい友情を感じている相手が、ただの“親友”だけじゃなく、“恋人”だなんて。
 100パーセント、それだけが理由ではないのだろうし、気まずそうに視線を逸らした奏を見る限り、理由の中にやはり拓海の存在も多少はあるのだろうが―――それでも、奏の真っ直ぐな目に、今語った理由こそが一番大きな要因だと悟り、拓海はふっ、と微笑んだ。
 「案外、自制のきく方だったんだな。見直したよ」
 「…そう言われると、正直、あんまり自信ないんだけど」
 バツが悪そうに、奏が髪をせわしなく掻き上げる。どうやら、奏の中の比重は、相当微妙なレベルに来ているらしい。まあまあ、と拓海は奏の背中を軽く叩いた。
 「まあ、ガキの頃から咲夜を見てる叔父からアドバイスさせてもらうと、だ。あいつ、恋愛に関しては、もの凄く懐疑的で臆病で控え目すぎで信じるのを怖がるタイプだから、一宮君が多少強引な位で、ちょうどいいかもしれないな」
 「強引…」
 「咲夜を不安がらせる位なら、しつこい位に愛情ぶつける方がいい、ってことだ。あいつ、すぐ、自分が愛されてる自信なくすから」
 「……」
 奏は、拓海の言葉に、なんとも微妙な表情をした。
 それは、どことなく面白くないような表情でもあり、でも、少し納得しているような表情でもあり―――上手く言葉にはできないが、奏のその表情ひとつで、今、奏が拓海に対して感じているコンプレックスのようなものがビシビシ伝わってくる。全く……この男は、つくづく、心の内を見事に顔に表してくれる。
 「…じゃあ、オレの方からも、一言」
 対抗するように、奏は、憮然とした声で返してきた。
 「麻生さんこそ、佐倉さんオンリーって態度をアピールしまくらないと、変に気ぃ回されて、また捨てられるよ。佐倉さん、咲夜の存在をめちゃくちゃ気にしてるから」
 「―――…」
 こ……これは、痛い。
 実際、佐倉は、何かにつけ咲夜のことを気にする。咲夜を差し置いて自分が拓海と結ばれていいものか、なんてことを、奏と咲夜が付き合った今でもまだ考えていたりするのだ。もうあれは、佐倉の性癖としか言いようがない。あまりにも的確な指摘に、拓海は1歩後ろによろけ、奏は勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
 「すぐに人に譲りたがる女に惚れちゃった宿命だな、気の毒に」
 「…言ってくれるね、君も」
 「終わったよー、お待たせー」
 タイミングよく、キッチンから咲夜の声が飛んできた。休戦協定を結んだ男2人は、揃ってリビングに向かった。


 それから間もなく、咲夜は、奏と一緒に帰って行った。
 ―――…お見事。
 あの短時間でよくここまで綺麗にしたな、と感心するほど、咲夜が片付けていったキッチンはピカピカになっていた。男所帯がいかに汚れていたかを痛感させられる。
 客だった筈なのに、料理を作らせ、キッチンを磨き上げさせたのでは、奏が非難するのも当然だろう。だが、長年こういう関係だったから、今更咲夜がゲスト然としていられる筈もない。こっちが頼んだ訳じゃないのに非難されるなんて、困ったもんだな―――苦笑した拓海は、キッチンの電気を切り、またピアノの前に戻った。
 そして、そこで初めて、さっきまではなかった筈のものに気づいた。

 「……」
 ピアノの上に置かれた、1枚のメモと、鍵。
 一目で、わかる―――それは、咲夜に長年渡しっぱなしにしていた、この部屋の合鍵だ。
 少し目を丸くした拓海は、鍵を除け、その下に2つ折りされていたメモを手に取った。そこには、見覚えのある字が並んでいた。

 『私が佐倉さんなら、自分以外の女が拓海の部屋の合鍵持ってるのって、あんまり気分良くないと思う。
 ずっと返すチャンスがなかったけど、ちょうどいいから、返すね。
 長い間、ありがとう。次からは、ここで歌いたかったら拓海に電話してスケジュール聞くから、よろしく』

 ―――さっき言いかけてたのは、これか…。
 ただ、と言いかけていた咲夜を思い出し、なんとなく納得した。咲夜は、ずっとこの合鍵のことを気にしていたんだな、と。

 緩やかに、移ろいゆく。
 奏と咲夜の恋も、拓海と佐倉の恋も、そして……拓海と咲夜の関係も。
 寂しい、と少し感じてしまう分、むしろ自分の方が引きずっているのかもしれないな―――合鍵を握り締め、拓海は苦い笑みを浮かべた。


***


 「拓海と何、喋ってたの」
 エレベーターを下りながらの咲夜の質問に、奏は、一瞬言葉に詰まった。
 ―――言える訳、ないだろ。なんでさっさと手ぇ出さないか訊かれて、その理由を説明してた、なんて。
 「…別に? 挨拶の延長線みたいなことばっかで、中身なんてなかった」
 「ふーん。すぐ来ると思ったのに、片付け終わってもまだ入ってこないから、何か深刻な話でもしてるのかと思ってた」
 「どんな話だよ、麻生さんとオレがする深刻な話、って…」
 「そう言われると、想像つかないけどさ。…あ、それよりさ」
 そう言うと、咲夜は、手に持っていた小さな紙袋を掲げ、奏を見上げた。
 「これ、奏の分のビーフシチュー。奏の好みに合わせて、拓海バージョンより若干甘めに仕上げてあるから」
 「お、サンキュー。気が利くなぁ」
 当然ながら、まだ夕飯にはありついていないので、大歓迎だ。拓海と何を話していたかにも、もう突っ込んで来そうにない。内心かなりホッとしつつ、奏は機嫌良く紙袋を受け取った。

 表通りに出て、駅へと並んで歩きながら、咲夜は墓参りのことや拓海の伴奏で歌った曲のことなどをぽつぽつ報告した。
 「じゃあ、思ったより自然に過ごせた、ってところか…」
 「…うん。鍵も返せたし、ね。行って良かったと思ってる」
 「そっか…」
 本音を言うなら、拓海の部屋になど二度と行って欲しくなかったのだが―――拓海は、今も咲夜の叔父だ。そして、咲夜には奏がいるし、拓海には佐倉がいる。心配する自分がおかしいとは思うが……こういう感情は、理屈でどうなるものでもない。案外、咲夜より自分の方が、2人の間にあった事を引きずっているのかもしれないな、と奏は思った。
 「じゃあ、来年も行くのか、麻生さんとこに」
 「そんな1年も先のこと、考えられないよ。1年経った時、拓海と佐倉さんがどうなってるかもわかんないしさ」
 苦笑した咲夜は、そこでふと、あることを思い出し、奏を見上げた。
 「そうそう。今日さ、私、もの凄いことに気づいちゃったよ」
 「もの凄いこと?」
 何? という目をする奏に、咲夜はニンマリと笑って答えた。
 「もしさ、拓海と佐倉さんが結婚、なんてことになったら―――佐倉さん、私の“叔母さん”になるんだよね」
 「……」
 「当たり前なんだけど、今日初めて気づいたよ。ねえ、想像すると、なんか凄くない?」
 「…す……凄い、よな……」

 何がどう凄いのか、説明はできないが―――なんだか、凄い。奏もそう思ったが、相槌を打つ奏の心臓は、変な風に乱れていた。
 もし、拓海と佐倉が結婚したら。
 そのシチュエーションを考えた、その流れのままに、つい、想像してしまったのだ。

 ―――もし、その上、オレと咲夜が結婚、なんてことになったら……オレの叔母さんが佐倉さん、ってことになる、のか?

 考えたのは、本当に、僅か1秒。
 けれど、その1秒の想像に、奏はいろんな意味で冷や汗が噴き出してくるのを感じた。


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