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― Connection ―

 

 時々。
 何、やってるのか、わからなくなることが、ある。


 「……おはよ……」
 口に出してみて、そこに、誰もいないことに気づいた。
 しん、と静まり返った、朝のダイニング・キッチン。窓から射すのはまだ午前中の光だけれど、時計の針は、朝食より昼食に近い時間を指している。二日酔い気味の頭が痛む。寝過ごしたのも当然だ。
 ぺたぺたと、裸足のまま、ダイニングに足を踏み入れる。
 ふと見ると、ダイニングテーブルの上には、昨晩、自分が置いておいた雑誌が、その時とは違った場所と角度で置いてあった。そして、雑誌に挟むようにして、正方形のメモが1枚添えられていた。
 「……」
 無感動な表情のまま、メモを引き抜く。

 『今回も可愛く写ってるわね。冷蔵庫に切ったグレープフルーツ入ってるから、起きたら食べてね』

 ―――…今回“も”、ね。
 落胆の笑みと共に、視線を雑誌に戻す。
 自分ではまず買う機会などないだろう、専門誌。その表紙の中で、暖かな色調の螺旋階段に腰かけた自分が、どこか遠くをぼんやり眺めていた。


 …ねえ。
 この写真のあたしって、やっぱり、まだ“いつもの”あたし?


 ズキン、と疼く頭を、押さえる。
 こうしてると、時々―――自分が、何をしてるのか、わからなくなる。


***


 「あ、おはよ」
 咲夜が、階段下の2つの人影に気づいて声をかけると、しゃがみこんでいた2人が振り返り、それぞれのペースで立ち上がった。
 「お、おはようございます」
 「おはようございます」
 面白いのは、こういう時、あまり機敏な方ではない優也の方が真っ先に勢いよく立ち上がり、逆に俊敏そうな蓮の方がのんびり立ち上がるところだ。好対照な2人の様子に、咲夜は朝からちょっと笑ってしまった。
 「おはよ、ミルクパン」
 優也の腕の中にいるミルクパンの喉の辺りを撫でつつ挨拶すると、ミルクパンも、まるで言葉を理解しているみたいに、みゃあ、と返した。それを見て、蓮と優也が、顔を見合わせて笑った。
 「? なに、どうかした?」
 2人の笑いに、なんだか意味深なものを感じて、咲夜がキョトンとした顔をする。すると、優也が説明してくれた。
 「穂積とちょうど話してたんです。ミルクパンて絶対、咲夜さんのこと好きだよね、って」
 「は?」
 「僕らやマリリンさんが声をかけた時と、返事する時の鳴き声が全然違うんですよ。なんだか間延びしてて、甘えてるみたいな声で。やっぱり女の人だからかな」
 「…はーん。こいつも、人間で言えばそろそろ優也君たち位の年齢だしねぇ」
 つんつん、と頬を指でつついてやると、ミルクパンは、嫌がるどころかますます嬉しそうに鳴いた。まさに“猫なで声”だ。そんなミルクパンの反応に、優也は可笑しそうに笑い、蓮は呆れた顔をした。
 「―――ってのは冗談で、多分、拾ったのが私だってこと、覚えてるんじゃないかな」
 「そうかなぁ…。あ、でも、同じ女の人でも、友永さんには逆に威嚇してるなぁ」
 「あの人の場合、向こうも威嚇してるしな」
 どうやら、由香理とミルクパンの関係は、相変わらず良好ではなさそうだ。そんな由香理が、時々キャットフードを差し入れているというのだから面白い。キャットフードを背後に隠し持って気まずそうにしていた由香理を思い出し、咲夜は内心苦笑した。
 「朝からご苦労様。んじゃ、行ってきます」
 「あ、咲夜さん」
 出かけようとした咲夜を、蓮が咄嗟に呼び止めた。その表情は、一瞬前より心もち硬かった。
 「その後……何か、ありましたか」
 「何か、って?」
 「ほら、郵便受けの」
 「……ああ!」
 言われて、思い出した。2週間ほど前にあった、郵便受けのネームプレートの件を。ポン、と手を叩いた咲夜は、バツの悪さに乾いた笑い声を立てた。
 「ハ、ハハハ、ごめん、今言われるまですっかり忘れてたよ」
 「てことは、あれ以来、特に…」
 「うん、全然」
 「―――あの、何かあったの?」
 2人のやり取りを横で見ていた優也が、事情がわからず、困惑した顔をする。そりゃ無理ないな、と思ったが、その後何事もないのに、詳しく説明して要らぬ不安を与えるのも良くないと考えた咲夜は、最低限の説明だけに留めることにした。
 「いや、お盆休みの頃にさ、私んとこの郵便受けがちょっとイタズラされたことがあって―――蓮君、たまたまそれ見つけた時に居合わせたんだよね」
 「ああ…、それで穂積、このところずっと郵便受けをよく注意してたんだ」
 「…まあ、な」
 優也の納得したような声に、蓮がボソリと返す。被害を受けた当事者だというのにスッパリ忘れていた咲夜は、ますます立場が無い。
 「た、多分、近所の子供かなんかのイタズラだと思うよ? 奏からも特に何かあったって話聞かないし、2人んとこも何も異常ないでしょ?」
 焦ったような咲夜のフォローを受け、蓮も優也も頷く。どうやら、あの時1回きりの異常だったらしい。蓮も安堵したように息をついた。
 「良かった…。何もおかしな事が起きてないなら、心配することもないかな」

 ―――おかしな事なら、起きてるけどね。
 と言っても、ここの話じゃないけど。

 目下、咲夜の頭を悩ませている珍事を思い出し、咲夜はまた、ちょっと陰鬱な気分になった。

***

 「なあ、まだ気ぃ変わんない?」
 「……」
 ―――…出た。悩みの種が。
 はあぁ、とため息をついた咲夜は、ロッカーを開けかけた手を止め、控え室のドアの方に目を向けた。
 「…永遠に、変わんないんですけど」
 「じゃ、ドライブデート1回、お試しでどう?」
 人懐っこい笑顔で、トールが人差し指1本を立てて見せる。
 「おれ、運転テクにはちょっと自信あるのよ。房総の方に、海が見えるいい店あるから」
 「そーゆーのに興味ないし、あってもトール君と行く気はございません」
 これ以上ないほどはっきりと拒絶する。
 なのに、トールはまるでダメージを受ける様子がない。いや、表面上はダメージを受けたような様子を見せるが、その目は完全に笑ったままだ。
 「うっわ、傷つくなぁ。金払ってでもおれとデートしたがる女もいるのに、それって酷くない?」
 「…はいはい。酷いですよ。だから酷い奴なんか誘わずに他を当たりなって」
 「何も取って食おうってんじゃないのにさぁ…。友達とドライブに行くこと位、彼氏持ちでもあるだろ? なんなら、目的地の店までの往復オンリーで、一切寄り道なし、信号機と渋滞以外の停車もなし、って条件でもいいよ?」
 「……」
 ちなみに、ライブ終了後である。当然ながら、ヨッシーも一成も控え室にいる。2人の視線を痛いほど感じるが、この状況でそちらに目を向ける度胸は、さすがの咲夜にもなかった。
 全くもう―――バン! と半開きだったロッカーのドアを乱暴に閉めた咲夜は、早足でトールのもとに歩み寄り、その腕を掴んで廊下に出た。
 店の外へと続く通用口のドアの所まで、トールを半ば引きずるようにして連れて行く。それでも、大声を出せば控え室に筒抜けなので、咲夜は極力声のボリュームを絞った。
 「…あのね。いい加減にしないと、怒るよ? ってか、もう9割がた怒ってるんですけどっ」
 「だからぁ、何度言ったらわかるかな」
 生意気にも、トールの方もため息をつく。
 「彼氏持ちなのもわかったし、二股かけられる性格じゃないのもわかったから、まずはお友達からはじめましょ、って言ってんじゃん。おれはただ、仕事離れて、咲夜さんと遊びに行きたいだけなのよ。店だと、休憩時間っきゃ話できないしさ。同性でも、相手に興味持てば話したいって思うじゃん。それの何がいけない訳?」
 「それは―――別に、いけない訳じゃないけどさ」
 「それとも何、咲夜さんの彼氏って、たとえ友達でも男と飲みに行ったり遊びに行ったりするのはNG! っつって、自分の女を縛るようなタイプの男だったりする?」
 「だから、そういう話じゃなくて!」
 まずい。意外にまともな路線から論破にかかってくる。ちょっと押され気味になった咲夜だが、ぐっ、と踏みとどまり、反撃に出た。
 「…彼氏がいるとかいないとか、そういう問題じゃなく、私はトール君と店以外で会う気になれないんだってば」
 「なんで? おれのこと、嫌い?」
 「こういう、しつこい真似する奴は、正直好きじゃない」
 「おれ、日頃は、別にしつこくないよ? しつこくするのは、それだけ咲夜さんに興味あるからじゃん」
 ―――っつーか、まずはそれ、やめてくんないかな。
 拗ねたような顔で、咲夜の髪を指にくるくる巻きつけるトールを、うんざりした目で睨む。が、トールがその目に怯む気配は、微塵もなかった。

 トールが「付き合わない?」などと言い出してから、既に1週間。
 この間、顔を会わせるたびにこの調子なのだから、本気で疲れる。
 ただ、トールが言っていた「年上にモテる」という話は、この1週間のトールを見ていて、本当の話なんだろうな、とは思った。アイドル並の可愛い顔で、かまってかまって、と甘えてくるトールに「しょうがない子ねぇ」などとデレデレになってしまう女性は、結構多い気がする。ホスト時代にトールに金を落とした女は、大抵、この子犬のような甘え上手に落ちたのだろう。
 でも、残念ながら、咲夜にこの手は効果なしだ。
 咲夜には、かまって欲しくて尻尾をぶんぶん振るタイプに対する、強力な免疫がある。そう―――隣に住んでいる“彼氏”が、実に絶妙な加減の「かまってタイプ」なのだ。
 リードをくわえて「散歩、散歩」と騒ぐところまでは同じでも、「今忙しいから後で!」と一蹴されてもなお甘えてくるトールに対し、奏の方は、しゅんと意気消沈し、部屋の隅っこでうな垂れてしまうタイプだ。結果、なんだか可哀想になって散歩に連れて行ってしまう咲夜は、完全に奏に負けている。あの天才的「かまって」加減に比べたら、トールの陥落テクニックなんて小学生レベルだ。というか、計算が働いている時点で、素で犬型な奏に敵う筈もない。

 ―――それに…なーんか引っかかるんだよねぇ、この子。
 相変わらず拗ねた様子のトールを、じっ、と見据える。咲夜のその意味あり気な目に気づき、トールが不思議そうな顔をした。
 「何?」
 「…別に」
 「なんだよ、気になるじゃん」
 「そろそろ休憩、終わるんじゃない? 早く仕事に戻った方がいいよ」
 さり気なく、髪に触っているトールの手を払いのけ、そっけなく告げる。えー、と不満そうな声を上げるトールをよそに、咲夜は控え室に戻りかけた。
 が―――気を変えて、一旦足を止め、振り返った。
 「ちょっと、訊くけどさ」
 「え?」
 「トール君、私の“何”に、興味持ってる訳?」
 トールの表情が、一瞬、変わる。
 戸惑ったような、けれど、どこか隙を突かれたような、微妙な表情。その変化を見逃さなかった咲夜は、ニッ、と口の端を吊り上げた。
 「私、昔から、女より男との方が付き合い多くてね。さすがにホストはいなかったけど、ゲーム感覚で女の子ナンパしてるような奴とも知り合いだった訳。だから、なーんとなくわかるんだよね。その手の男が今見せてる顔が、本気の顔か、それともゲームに興じてる顔か」
 「…酷いなぁ。おれ、真剣に咲夜さんのこと、気に入ってんのに」
 いつものトールらしくない、僅かに引きつったような笑みを浮かべる。
 このまま、洗いざらい吐かせる、という手もあるにはあるが―――これでゲーム終了と悟って引っ込むなら、別に問題はない。とりあえず釘は刺せたな、と判断した咲夜は、深追いせず、踵を返して控え室に戻った。

 「…大丈夫か、咲夜」
 控え室に戻るとすぐ、一成が、心配げに声をかけてきた。
 ヨッシーの方は、完全に呆れ返ってしまい、咲夜の心配をする次元にもないようだ。淡々と帰り支度を進めており、既に後は部屋を出るだけになっていた。
 一成に向かって、ノープロブレム、という意味を込めて笑みを返した咲夜は、自分も帰り支度をすべく、先ほど閉めたロッカーを再び開けた。そして、支度を始めればやっぱり、考えは1つのことに戻ってしまう。
 ―――やっぱり、引っかかるよなぁ…。
 手強い女がツボ、というトールの言葉は、あながち完全な嘘でもないだろう。ゲームだって、適度な難易度で比較的クリアしやすいものを選ぶ者がいる一方で、難攻不落のボスキャラほど腕が鳴る者も結構いる。攻略が難しいからこそ落としてみたくなる、というサガが、あの手の男にあってもおかしくはない。おかしくはない、が……やはり、引っかかる。
 ゲーム感覚にしては、しつこすぎるのだ。トールは。
 それに、あそこまでするほど、自分があの手の輩にとって魅力的な獲物ではないことも、咲夜は重々承知している。落としたところで、自慢にもならなければ、特別いい思いができそうでもない。こんなレベルの女に時間をかける位なら、さっさと次のターゲットに移る方が生産的だ。
 となると、考えられる可能性は、1つ。
 つまり、咲夜を攻略するのは主目的じゃない可能性―――他の目的のために、咲夜を落とそうと躍起になっている、という可能性だ。
 「あんまりしつこいようなら、店に言った方が良くないか?」
 咲夜の笑みだけでは心配は払拭できなかったらしく、一成が、なおも気遣うように声をかける。
 「…ん、一応釘は刺したから、暫く様子見るよ」
 このまま、大人しく引き下がってくれればいいけど―――そう願いつつ、咲夜はため息をついた。


***


 「はい、オッケーです。お疲れ様でしたー」
 終了の合図に、現場の空気がホッと和む。奏も、無意識のうちに詰めていた息を吐き出し、周囲のスタッフと「お疲れ様でした」と挨拶しあった。

 今日は、例の、熱射病になってぶっ倒れた日に打ち合わせをしていた、成人式用着物の撮影だった。
 リカのメイクを担当するのはこれが3回目だが、和服用の、しかも若い女性用のメイクというのは、今回が初めての経験だった。しかも、新進の着物デザイナーの店頭用ポスターなのだから、店で2、3回経験している実用和装メイクではなく、方向性は「モード系」ときている。
 ―――まあ、そこそこ満足のいく出来だったかな。
 完全な手探りに近かったが、自分の仕事ぶりを振り返り、75点以上85点未満、と採点してみる。黒川が聞いたら「甘い!」と言いそうだが、氷室辺りならこの採点でも許してくれるだろう。
 時計を見ると、撮影時間は予定より30分ほどオーバーしていた。のんびりしてられないな、と、奏は足元に置いてあったメイク道具を片付け始めた。

 「一宮さんっ」
 アルミケースをパチン、と閉めたところで、パタパタという、耳慣れない足音が近づいてきた。
 顔を上げると、藍色と朱色を大胆にあしらった振袖を着たリカが、小走りに走ってきた。
 「ねえ、どうだった? 今日の撮影」
 慣れない服装で、走りにくかったのだろう。少し息を弾ませながら、リカが訊ねる。その顔に、今までの撮影では見られなかった類の笑みがはっきりと浮かんでいるのを見て、奏も僅かに笑みを浮かべた。
 「前にも言ったろ。オレがどうこうより、リカ自身がどう思うかが問題だ、って」
 「そうだけどっ! それでも、人の意見も訊きたいんじゃないの。ね、どうだった?」
 「なかなか、良かったんじゃない?」
 実際、そう思ったので、そのまま答えた。その答えに、リカの表情が、より明るくなった。
 「ほんと?」
 「リカだって、手応えあったんだろ? 顔に書いてある」
 「…ん、少しだけ、だけど」
 「この前言ったこと、実践したんだよな」
 身にまとった商品を、いかに客に売り込むかを考えて、動く。
 先日、撮影を見学に来たリカに、奏が話した基本中の基本―――むしろ、こんなことすらリカの事務所は教えてやっていないのか、と驚いたほどだ。佐倉のセリフじゃないが、リカの問題の多くは事務所の怠慢が原因だと奏も思っている。
 今日の撮影は、この前の奏の撮影と同様に、何もない背景で、ただ着物を“魅せる”だけの撮影だった。そして、カメラの前に立ったリカは、まとっている着物の柄が一番美しく見えるポーズを、賢明に取ろうとした。
 表情はまだ素人っぽくて、笑うかクールに決めるかはっきりしろよ、といった感じだった。ポーズもまだまだで、せっかくの襟のラインをもっと綺麗に見せればいいのに、と思うシーンも多々あった。
 それでも―――拙いながらも、今日のリカは、ちゃんと「モデル」だった。ただカメラの前に置かれた「人形」ではなく、商品の魅力を伝えようとする「モデル」になっていた。
 「リカは、イメージモデルより、こういう、純粋に服や小物を“魅せる”モデルに向いてるかもな」
 奏が言うと、リカは、僅かに苦笑を滲ませながら、小さく頷いた。
 「この前の建築雑誌の表紙みたいなのは、一宮さんの言う“演じる”ってことが難しくて、自分でやっててもホントにこれでいいの? 今どんな顔してるのか全然わかんないのに、って……退屈はしないけど、最後まで不安だらけで、ちょっと嫌だったの。でも今日のは、自信持って“この角度の柄が凄くお勧め”って言える気分。ほら、着物って、洋服より柄も面白くて、ポーズによって全然見え方も違うし」
 「まだまだポーズの改善が必要っぽかったけど、いい感じで見せてたと思うよ、オレも」
 奏が言うと、リカは、ふふふ、と嬉しそうに笑った。

 ―――案外、純然たるファッションモデルとしては、悪くない線いくかもしれないな。
 あまりモデル向きではない、と考えた奏だが、一部撤回する気分になった。
 演じる、なりきる、といった能力は圧倒的に欠けているリカには、奏が得意とする「表現するモデル」は、やっぱり向かないだろう。以前奏がやったMP3プレーヤーのイメージ写真などは、その最たるものだ。最低限の布だけをまとい、表情やポーズから空気や性別、企業が伝えたい商品イメージを、見る者に伝える―――超一流と呼ばれるモデルは、その存在感だけで、凄まじいメッセージ性を持っていたりする。だが……リカが、この分野で成功するのは、絶望的だと思う。
 だが、リカは、勘自体は悪くないし、与えられた指示には思いのほか忠実で、真面目な面もある。これまで何もできなかったのは、誰も正しい指示を与えなかったから―――リカの見た目があまりに整い過ぎていて、カメラマンなどもそれに引きずられ過ぎていたせいだ。何をすべきかがわかれば、リカにだって、ちゃんとモデルとして動くことができるのだ。
 「服を上手に見せるモデル」は、重宝はされるが、インパクトが弱い分、大成はしないかもしれない。でも、テレビ出演などの目立つ活動を一切拒否しているリカに、有名になりたいとか人気者になりたいという野望はなさそうだ。ならば、リカにはちょうどいいポジションなのかもしれない。

 「マネージャーに、もっとファッション雑誌の仕事がしたい、って言ってみれば?」
 「でも…リカは、見た目がアクが強すぎるから、普通のファッション雑誌だと、他のモデルとバランス取り難い、って梅ちゃん言ってた。今時流行の顔だちじゃないし」
 「まあ、それは、回数こなして“こういうのが1人入ってても面白い”って思われるようになるしかないよな」
 「うーん…」
 こういう話をしているというのに、肝心のリカのマネージャーが、この場にいない。着物デザイナーと、何やら話しこんでしまっているのだ。つくづく使えない―――あれこれ考えるより、むしろ、まともな事務所に移籍する方が手っ取り早いんじゃないだろうか。
 ―――っと、まずい。話し込んでると、遅れるな。
 あまり時間がないことを思い出した奏は、置いてあったメイク道具の入ったケースを再び持ち上げた。
 「悪い、オレ、そろそろ行かないと」
 「えっ」
 慌しく撮影現場を去ろうとする奏に、リカは、ちょっと驚いたような顔をし、奏のシャツのわき腹の辺りを掴んだ。
 「まさか、これからまた仕事? もう5時じゃない」
 「あー、いや、仕事じゃないけど」
 「じゃ…デート?」
 「残念。それも、微妙にはずれ。咲夜のライブ、聴きに行くんだ」
 「え…、でも、今日って金曜日じゃない?」」
 咲夜のライブ予定を覚えているのか、リカは不審げな顔をした。確かに、今日は金曜日で、咲夜たちの出演する曜日ではない。不思議に思うのも無理はない。
 「いや、“Jonny's Club”じゃなく、別のライブハウスの。ピアノの奴が、仲間と一緒にセッションライブやって、そこに咲夜も参加して2曲ほど歌うんだ」
 「へぇ…、そんな活動もしてるの、あの人」
 「たまーに、な。本人、結構緊張してたぜ、今朝も」
 練習不足だー、と頭を抱えつつも、きっちり朝から2曲熱唱していた咲夜を思い出し、苦笑する。今回は内輪なライブということでメイクの依頼はなかったが、早く着いたら軽く手を加えてやろうかな、と奏は考えていたのだが―――この時間だと、それもどうやら無理そうだ。
 「ま、そんな訳なんで―――さっきの件、マネージャーと真剣に話し合った方がいいぞ、マジで」
 ポン、と肩を叩いて奏が言うと、何故か微妙な表情をしていたリカも、僅かに笑みを作り、小さく頷いた。が、何かを思い出したように「あ、そうだ」と言うと、ゼスチャーで奏に少し待つよう頼み、壁際の作業台へと小走りに走って行った。
 マネージャーの持ち物が置かれた辺りから、何かを掴んで戻ってきたリカは、それを奏に差し出した。
 「これ。前回の仕事の雑誌」
 「あー、これ! もう出たのか、早いな」
 ちょうど1ヶ月前に撮影した、建築デザイナー向け専門誌だ。表紙には、見覚えのある螺旋階段と、どこか遠くを眺めているリカが収まっている。
 「…どう思う? これ」
 リカが、いやに真剣な面持ちで問う。が、受け取った雑誌の表紙に見入っていた奏は、その表情に気づかなかった。
 「んー…、結構いい感じに撮れてるんじゃない? リカの、いい意味での子供っぽさが、いいバランスで出てる気がする」
 「……」
 「少なくとも、最初に撮影に付き合った、あのゴスロリ雑誌の表紙に比べたら、雲泥の差だな」
 そう言って、顔を上げた奏が雑誌を差し出して笑うと、リカは少し目を泳がせ、まるでひったくるようにして雑誌を奏から受け取った。
 「じ…自分では、他との差がよくわかんなかったけど……お世辞でも、ありがと」
 別にお世辞じゃないんだけどな、と苦笑した奏は、もう一度時間を確認し、さすがにもうこれ以上の足止めを食らうのはまずいと判断した。
 「えーと、じゃあ、次って20日だよな。またあのゴスロリの撮影だろ?」
 「うん」
 「じゃ、また20日に」
 奏がそう言って手を挙げると、雑誌を胸に抱きしめたリカも、着物姿の分、控え目に手を挙げ返した。
 ヒラヒラで人形じみたドレスなんかより、こっちの方がよっぽど似合うのに―――やっぱり事務所を変わる方が話が早いのかもな、と、奏は改めて思った。


***


 あーあーあーあーあー。
 低音から高音へ、はスムーズに行くが、高音から下がってきた時、最低音がいまいち潰れ気味だ。げほげほ、とむせた咲夜は、テーブルの上の飴を1つ手に取った。
 「うー…、昨日、張り切り過ぎたかなー…」
 「グッさんが盛り上げまくったからな。俺も疲れが残ってる」
 「…お前ら、よそのライブではしゃいで、本業の方でコケるなよ?」
 今ひとつ本調子じゃなさそうな一成と咲夜を眺めて、1人安泰なヨッシーが呆れ顔になる。
 前日金曜日のライブは、一成が懇意にしているドラマーの、グッさんこと山口の発案で行われた、究極のプライベートライブだった。集まった客は全部身内。小さなライブハウスを貸切にして、日頃バラバラに活動しているジャズ・メンが10人も集まり、思い思いの演奏を披露したのだ。
 とあるミュージシャンのアルバムでベーシストを担当しているヨッシーは、レコーディングと重なってしまったため、欠席。一成と咲夜だけが参加したのだが―――少々、羽目を外しすぎたようだ。きちんと演奏したのは2曲だが、ライブの最後の方は、古きよき時代の「歌声喫茶」よろしく、客も交えて全員で歌を歌いまくりになってしまった。日頃絶対歌わない一成まで歌わされたし、客の1人として当然奏も歌っていた。ライブ終了時には、素人の客は全員ガラガラ声だ。今朝の奏の第一声は「喉イテー」だった。
 「でも、面白かったー。さすがグッさん、芸達者だわ」
 「ネットラジオでDJやってるだけあって、喋りも上手いしな。顔も広いから、ああいうイベントには強い人だよ」
 口の中でカラカラと飴を転がしつつ咲夜が唸った一言に、一成も同意する。が、顔が広い、という部分に、咲夜はあることを思い出し、少し身を乗り出した。
 「…ねえ。グッさんに頼めばよかったかな」
 「え?」
 「岡田さんたちの代わりにやるバンド、探すのを」
 「……」
 月水金に演奏するバンドがいなくなるかもしれない、という、“Jonny's Club”最大の危機―――アマチュアとも交流の深い山口なら、演奏の場を求めているアマチュアバンドを知っているかもしれない。
 だが、咲夜の問いかけには、一成が答えるより先に、ヨッシーが答えた。
 「…いや。岡田さんたち自身に見つけてもらった方がいい」
 「でも…」
 「岡田さんたちがこのまま続投する、って道を、俺たちが断つ手伝いする訳にもいかないだろ」
 「……」
 確かに、そうかもしれない。後釜がいないうちは、岡田たちが残るという道は辛うじて繋がっているが―――もし自分たちが後釜を見つけてきたりしたら、それは岡田たちに「もう代わりはいるから辞めていいよ」と言ってしまうようなものだ。
 「そうだな…。不安だけど、俺たちは黙って見てるべきなのかもしれない」
 「…うん」
 一成と咲夜も、苦々しい表情ながらも、やはり頷いた。
 そう。物事には、不安でも黙ってやり過ごした方がいい時期、というのもある。そして、岡田たちの件に関しては、今はその黙って見ているべき時期なのだろう―――たとえ、ただ黙っているだけ、というのが精神的に一番キツイ選択だとしても。
 「よし。そろそろ行くぞ。気合い入れろよ」
 場の空気を区切るかのように、パン、と手を叩いてヨッシーが立ち上がる。2人もそれに続き、立ち上がった。


 出だしは少々不調と思われたこの日のライブだが、さすがは慣れた舞台、咲夜の歌声も、一成のピアノも、始まってしまえばいつもの調子をちゃんと取り戻していた。
 ―――うん、なかなか、いい調子じゃん。
 昨日のライブの余韻を引きずってか、咲夜は幾分、上機嫌気味だった。特に、この日のナンバーに十八番の『Blue Skies』が入っているので、余計にノリが良かった。9月に入ったとはいえ、まだまだ外は蒸し暑い。その湿気を吹き飛ばす位の勢いで、咲夜は伸びやかな声で青空を歌い上げた。
 だから、一瞬、忘れてしまっていた。
 ここ最近、咲夜を悩ませていた、何か裏のありそうなあの甘ったれな子犬の存在を。


 コン、コン。
 「……」
 2回のライブの後、お決まりのように響いてきたノックの音で、咲夜は、一瞬忘れていたその存在を思い出した。
 途端―――澄み切った青空が、一気に曇天に変わった。
 ガチャリ、とドアが開き、案の定、トールが顔を覗かせる。自分の方を見る、呆れたような6つの目に、トールは少しも怯むことなく、咲夜にだけ笑いかけた。
 「お疲れ様でーす」
 「―――…今、この瞬間に、一気に疲れた」
 一昨日、きっちり「ゲームなのは見抜いてるよ」と釘を刺しておいた筈なのに……これはどう考えても、ゲームオーバーという顔ではない。参ったな―――大きく息を吐き出した咲夜は、思わず額を手で押さえた。
 「咲夜さん、ちょっと出てこない?」
 悪びれた様子もないトールのセリフに、咲夜は、額を押さえた手をずらし、トールを軽く睨んだ。だが、トールは、笑顔を1ミリも崩さない。
 「変な用事じゃないよ。自販機まで一緒に行くだけ。好きな飲み物おごるからさ」
 「……」
 「あ、そ。わかった。じゃ、トール君オリジナル“マンハッタンのナイチンゲール”を今すぐ作ってくるから、ちょっと待ってて」
 「…ウーロン茶買ってくる」
 財布を掴み、立ち上がる。刹那、相手にするな、と言いたげな一成の目に気づいたが、大丈夫、というように一瞬笑みを返した。
 トールを無視して、目の前を横切って廊下に出た咲夜は、そのまま廊下を突っ切り、通用口を出た。予想はしていたが、当然のようにトールもくっついてきた。
 通用口を出たすぐ横の自販機前で、咲夜が財布を開けて100円玉を探していると、すかさずトールが背後から手を伸ばしてきて、100円玉と50円玉を、コイン投入口に突っ込んだ。
 「……」
 トールの指が、ウーロン茶のボタンを押す。ゴトン、と音を立てて落ちてきたウーロン茶を掴んだトールは、それを咲夜に差し出し、にんまりと笑った。
 「はい。これ、おれのおごりね」
 「…自分で飲んだら」
 「おれ、お茶は緑茶派なの」
 「…あ、そ」
 ―――まあ、1から10まで全部拒否しまくって変な恨みを買うよりは、許容範囲内で呑める条件は呑んでおいた方が、賢いかな。
 そう考えた咲夜は、トールからウーロン茶の缶を受け取った。満足げに笑ったトールは、更にコインを入れ、自分用に緑茶のペットボトルを買った。
 「あーあ。ま、ここも一応、“店の外”は“外”だよなぁ。おれがイメージしてるデートはこういう意味の“外”じゃないんだけど、まあ、第一段階クリアとしては、こんなもんかぁ」
 ペットボトルの蓋を捻りつつ、トールがおどけた様子でそう言う。先にプルトップを引いていた咲夜は、ウーロン茶を一口飲み、はぁ、と小さく息をついた。
 「…第一も何も、これが最上段だと思うけど」
 「そうかな。1歩前進したってことは、2歩、3歩と進む可能性だってゼロじゃないっしょ」
 「っていうか、目的は、何?」
 普段より少し低い声で咲夜が訊くと、トールの眉が、一瞬ピクリと動いた。
 「どっちが先に私を落とすか、誰かと賭けでもした? それとも、トール君自身が賭けの対象? “デートに連れ出せる”に千円、“肘鉄食らって終わり”に千円、とかさ」
 「……ハ…、そんな風に考えてたんだ?」
 「この前、言ったでしょうが。本気とゲームの見分けはついてる、って」
 これでもし、万が一にもトールが本気で咲夜を好きなのだとしたら、相当酷い態度を取っていることになる。が……証拠はなくとも、確信がある。
 シェイカーから移したカクテルを、女性客に差し出す時の、トールの目。その目と、咲夜にウーロン茶を差し出した時のトールの目は、まるで同じだった。そこに、恋の気配も、愛の香りも、微塵もない―――この目は、咲夜に恋している目ではない。
 なのにトールは、まだ折れなかった。やれやれ、といった様子でため息をつくと、困ったように咲夜を流し見る。
 「おれも反論したよね。本気なのに、って。どうすりゃ信じてもらえるのかな」
 「無理。諦めて」
 「そっちこそ諦めてよ。そういう変な疑いかけて、おれの本気を茶化そうとするのは」
 「…あー…、もう、やめよ。延々、平行線な主張繰り返してるなんて、時間の無駄だから」
 どうあっても、本気の2文字で押し通す気らしい。こりゃ意外に口が堅いな―――今ここで目的を話させるのは無理だと悟り、咲夜は話を切り上げることにした。
 「ひとまず、ウーロン茶、ご馳走様。じゃあね」
 ひらひらと手を振り、通用口のドアを再び開ける。すると。
 「―――けどさ、咲夜さん」
 控え室に戻ろうと、廊下に1歩足を踏み入れたところで、背後からトールの声が追いかけてきた。
 「たとえば、咲夜さんが言うように、最初は単なるゲームのつもりでも、さ。それが本気に変わることだって、世の中、いくらでもあるんじゃない?」
 ―――なるほど、そうきたか。
 ドアを押さえたまま、振り返る。そこに佇むトールは、一見、人懐こそうな笑顔を浮かべていたが、咲夜にはそれが計算づくの冷静な笑顔に見えた。
 「ホスト時代の仲間でも、客に本気になっちゃって、店の規約を破って客と付き合ってた奴、いたよ? それでも、おれの本気、信じられない?」
 「…残念ながら」
 「なんで?」
 「鏡、見れば、わかるんじゃない?」
 咲夜の答えに、トールは、キョトンと狐につままれたような顔をした。本当に、意味がわからないのだろう。
 まあ、説明する気も、ないけれど―――くすっ、と笑った咲夜は、もう一度手を振り、今度こそ通用口のドアを閉めた。

***

 ―――ったく…しまったなぁ。
 30分ほど前に歩いた道を、今度は逆方向に向かってせかせかと歩きつつ、咲夜は内心、自分自身に舌打ちをした。
 電車に乗り、1駅過ぎたところで初めて、どうやら家の鍵を控え室のロッカー内に落としたらしいことに気づくなんて―――あの時、のど飴を舐めようとバッグを開けなかったら、帰宅して鍵を開けようとするまで気づかなかったかもしれない。全く、久々の大ドジだ。
 他の物なら、日曜月曜と放置しておいて火曜日に持ち帰ればいいか、と思えるが、さすがに家の鍵は困る。結果、咲夜は2駅目で電車を降り、逆向きの電車に乗って引き返し、また“Jonny's Club”に向かっている訳だ。

 店の裏手にある通用口に回った咲夜は、さっき閉めたドアを開け、廊下に足を踏み入れた。
 廊下を挟んで控え室と反対側には、厨房に繋がるドアのない大きな入り口がある。この時間帯でもフードメニューのオーダーは結構あるらしく、廊下にもカチャカチャという食器類の音や調理人の声が響いていた。
 ―――ありゃ、控え室の電気、つけっぱなしになってるよ。
 本来、誰も使っていない時は消灯していなくてはいけない筈の控え室は、ドアにはまったすりガラス越しに、煌々と灯りがついているのがここからもわかる。トールとのごたごたのせいで、色々と注意力散漫になっていたらしい。
 急ぎ、控え室の中に入った咲夜は、まずはバッグからロッカーの鍵を取り出し、今日使っていたロッカーを開けた。鍵、鍵、とロッカーの中を探し回った結果、目的の物は、ステージ用に置きっ放しにしてあるパンプスの中から発見された。
 やれやれ、と息をつき、ロッカーを元通り閉める。パチン、と部屋の電気を消した咲夜は、控え室を後にしようと、控え室のドアを開けかけた。が―――ドアノブに手をかけると同時に、店内へと続く“STAFF ONLY”のドアが勢い良く開く音がして、思わず反射的に手を止めてしまった。
 ―――って、何やってんだ、私。
 単に忘れ物を取りに来ただけなのだから、本当はビクビクする必要なんてないのだが―――予定外の時間に、予定外の人間が居る、というのは、なんだか気まずい。誰かスタッフが休憩にでも入ったのかな、と息を詰めた咲夜だったが。

 「もしもし? うん、オッケー。今、場所変わったから」

 「……っ、」
 ドアの向こうから聞こえた声は、間違いなく…トール、だった。
 幸いにして、トールが控え室に入ってくる様子はない。が、ドアの外に居座ったまま、どく様子もない。どうやら携帯電話で誰かと話をしているらしい。
 ―――ちょ…ちょっと、勘弁してよ。
 さっさと帰りたいのに―――出るに出られず、また動くに動けず、咲夜は、ドアにはまったすりガラスに姿が映らないよう、1歩ドアから離れた位置で、さっき以上に息を殺した。

 「えー? だから、真面目にバイト中よ。だからあんまり長居できないよ。……うん、そこんとこはオッケー。でも、珍しいじゃん、そっちから電話してくるなんて」
 どうやら、仕事中に携帯に電話がかかってきてしまったため、慌てて出て来た、ということのようだ。接客中も携帯を持ち歩いていたとは知らなかった。他の従業員もそうなのだろうか。
 「……ああ、その話? 何、一昨日も話したじゃん。そう、進展なし。いやー、あれはマジで手強いよ。おれ、いろんな客相手にしてきたけど、ああいう女って初めて」
 ドキン、と心臓が鳴る。
 進展なし、手強い女―――どう考えてもこれは、自分の話をしているとしか思えない。自然、咲夜の肩に、力が入った。
 「なんかもう、ほんと、難しいよなー。年上の女には結構自信あったのに、落ちない落ちない…。しかもありゃ、何か勘付いてるよ。落とせるかどうかの賭けでもしてるのか、って言われたし、今日」
 ―――ってことは、勘付かれる“何か”があるってことじゃん、やっぱり。
 直感通り、何か裏がある、ということだ。ほらみろ、と、咲夜の眉が上がる。
 「まあ、元々ああいう攻略意欲掻き立ててくれる女ってツボだし、何よりあの歌声にはまったから、また次の手考えてトライしてみるわ。……え? ……いや、それは、バレてないっしょ。おれ、名前出したこともないし。つか、何、あの人、リカのこと知ってんの?」

 ―――…え?

 一瞬、聞こえた名前が、異様に耳に残る。
 ありふれた名前―――なのに、何故か、そこだけ別の音で聞かされたみたいに、妙に耳に残った。

 「……なんだよー、また秘密かよー。ま、いいや。とにかく、まだ少しかかりそう。リカだって、ダメモトって言ってたじゃん。……だろ? なんだよ、リカのが弱気じゃん。ハハハ。あー、さては、そっちも難航してんだ? …なーんだよ、そんなんじゃない、って。んな訳ある―――はいはいはい。姫には逆らいませんです、ハイ」
 「……」
 「あっ、明日ってリカも来る? …おー、おっけー、姫君来ないと、テンション上がんない奴多すぎだしな。新参者は特にミーハーだし。…あ、ほんとだ。じゃ、おれ仕事戻るわ。うん。じゃ」
 どうやら、時間を指摘されたらしい。慌しく電話を切ると、トールはまた、店内へと戻って行った。

 「―――…」
 電気の消えた控え室の中、息をひそめていた咲夜は、トールの気配が消えてもなお、息を吐き出す気にはなれなかった。

 バラバラの、点と、点。
 それが、今―――意外な形で、結ばれた気がした。

***

 「なんか、微妙に遅くない? 今日」
 「…あー…、まあ、ね」
 曖昧な咲夜の返事に、奏は、ちょっと怪訝そうな顔をした。
 が、大の大人が、1時間弱いつもより遅く帰ったからといって、何をしていたんだと追及するのも、あまりに過干渉だろう。奏は、特に何も問うことなく、まあ入れよ、と咲夜を促した。

 奏の部屋は、なんだか、いつもより雑然としていた。
 その理由が最初はわからなかったが、床に座り込んだ奏が、首を捻りながらメイク道具の入ったケースをひっくり返しているのを見て、わかった。普段、ちゃんとケースに収まっているメイク道具が、床にバラバラに散らばっていたのだ。
 「何、探し物?」
 「んー…。昨日の撮影には持ってったんだけど、ないんだよな。結構人気色のルージュだし、まだ半分位しか使ってないから、失くしたんだとしたらもったいねー」
 「私物? 店のもんじゃなくて?」
 「一応買い取り。咲夜にも使ったやつ。…ま、いいけどさ。どうしても見つからなきゃ、それでも」
 一通り、思いつく場所は探し終えてしまったらしい。物に関しては諦めの早い奏は、既に、半分口紅を諦めてしまった顔をしている。後で片付ければいいや、とばかりに散らばっていたメイク道具をごっそりケースの中に放り込むと、壁際に押しやってしまった。
 「えーっと…ビールでも飲むか」
 「あ、いいよ、座ってて」
 勝手知ったる他人の部屋だ。立とうとする奏を手で制した咲夜は、ビールを取りにキッチンに向かった。

 ―――どうしようかな…。
 冷蔵庫を開けながら、少し、眉をひそめる。
 電車の中で、このことについて色々考えていた時は、黙っていた方がいいんじゃないか、という方に考えが傾いていた。トールの言う“リカ”があのリカと同一人物だという確証はないし、もし同一人物だとしても、だからどうした、と言われればそれまでだ。偶然耳にしたこと、トールの不可解な言動……そんなことを奏に話しても、奏だって困るだけだろう。話さない方がいい―――咲夜は、そう考えていた。
 けれど、駅に着き、アパートまで歩いている間に、その考えはまた反対方向に転がった。
 トールは“姫”という言葉も使っていた。リカ、姫―――姫川リカ。偶然の一致にしては、出来すぎだ。それに、リカは咲夜を知っているし、咲夜があの店で歌っていることも知っている。そして―――咲夜と奏が、隣同士という極めて近い位置に住んでいる、恋人同士だということも。
 たとえば。もし、リカが、奏と咲夜の関係を面白くないと思っていたら―――さっきの電話の会話も、ある程度、筋が通ってしまう。悲しいことに。
 あれが、本当に姫川リカのことなら…奏に黙っているのは、フェアじゃないかもしれない。リカである可能性が否定できない以上、確証はなくても、話すべきなんだろうか―――…。

 「なぁんか、まだ喉が痛い気するよなぁ…。結構響くなー、歌って」
 咲夜の考えを遮るように、奏が全然別方向のことを呟く。
 答えの出ないまま、冷蔵庫を閉める。小さく息をついた咲夜は、缶ビールを手に、奏のもとへ戻った。
 「無理もないよ。なんでジャズ・ライブなのにシャウトが入るんだ、ってなカオス状態のライブだったもの。一成も相当参ってた」
 「やっぱり。けど、面白かったよな、ああいうのも。あの主宰者の人のキャラの成せる業かもな」
 「あー、そうやっておだてると、また調子に乗って変なイベント開きたがるよ、あの人」
 缶ビールを開けながら、2人して笑う。が……ビールを一口飲んで一息ついた咲夜は、ふとベッドの方に目をやり、ある物を見つけてしまった。
 「……」
 「ん? 何?」
 咲夜の目が、自分を通り越して背後のベッドに向いているのに気づいた奏が、軽く首を傾げる。
 「あ、うん…、あの雑誌の表紙って、もしかして例のリカちゃんかな、と思って」
 「雑誌? ああ、」
 その雑誌の存在を忘れていたのか、そう言えば、といった様子で、奏は背後を振り返った。
 「そうそう。これが例の、成田とオレをげんなりさせた、ゴスロリ雑誌。参考に買ってきたけど、買う時勇気要ったぜ、ほんと」
 腕を伸ばし、雑誌を引き寄せた奏は、ほい、とそれを咲夜に渡した。
 紫背景に黒や赤や白が踊っている、独特の表紙。その中央には、まるで西洋のアンティーク人形よろしく、何の感情もないお人形のような顔で椅子に座っている、ヒラヒラドレス姿のリカがいた。確かに……これは、買うのに勇気が要る。どう考えても、一般消費者向けとは思い難い、特殊趣味の人専用っぽい表紙だ。
 「これって、奏がメイクして、成田さんが撮ったの?」
 「そ。撮影してる間中、成田がぶちキレて現場が血の海になりゃしないか、って、見ててヒヤヒヤした」
 「…よく我慢したね、成田さん…」
 瑞樹の趣味はよく知らないが、彼の恋人のシンプルさを見る限り、こういったヒラヒラキラキラ系には鳥肌が立つタイプのような気がする。それに、過去の瑞樹の作品を何点か知っているが、陰影を上手く利用した、動きのある作品が多かったように思う。こんな骨董屋のショーケースみたいな写真、彼からすれば不本意極まりない仕事だろう。
 「成田はこれ1回限りだけど、オレはまたやらなきゃいけないんだよなぁ…」
 はあぁ、と奏がため息をつく。
 「これを良しとしてる雑誌なだけに、クライアントも納得して、その上リカ自身も納得できるようにするにはどうすりゃいいか、オレにもよくわかんないんだよな」
 「……」
 「せっかくリカも、方向性掴みかけてるってのに―――昨日の撮影なんか、かなりいい線いってただけに、こういうのやらせるのは、惜しいよなぁ…」
 「…いつ、だっけ。次の撮影」
 「20日」
 「……」
 今日は、6日。ということは…あと、2週間。
 ―――2週間…か…。
 何の気なしに、雑誌をパラパラめくる。勿論、中身なんて見ていない。ただのポーズだ。
 「確か次の撮影が、リカちゃんが依頼してきた、最後の仕事だったよね」
 「ん? ああ、次で終わりだな」
 「終わったら、その先は? また引き続き、リカちゃんのメイク担当するの?」
 「あー、いや、そういう話もリカのマネージャーから出たけど、断った」
 「断った?」
 ちょっと、意外だった。顔を上げ、不思議そうな目で咲夜が見ると、奏は難しい表情で、邪魔そうに髪を掻き上げた。
 「ん…、リカの仕事請けた関係で、8月が相当無理なスケジュールになっただろ。今月もなんだかバタバタと過ぎて行きそうだし―――10月は、落ち着いて、店の仕事とモデル業の2本に絞って活動したいと思ってるんだ。リカの仕事を入れられなくもないけど、モデルとしての残り時間考えると…、な」
 「そっか…、そうだよね」
 「だから余計、オレのアドバイスなしでも、リカが自信持ってカメラの前に立てるように、最後の仕事は納得のいくもんにしたいんだけど―――それが、コレだからなぁ…」
 「なんか、奏がリカちゃんのマネージャーみたいだね」
 「バカ。こんな懇切丁寧なマネージャーなんていないぞ。こういうアドバイスは、事務所側がしてったり、先輩モデルがやったりするもんなんだよ。基礎中の基礎も大して教えてない事務所の怠慢だろ。全く…辞めてやりゃいいのに、あんな事務所」
 「…佐倉さんに話してみれば? 引き抜いてもらえないか、って」
 口にして、ちょっと後悔する。提案しておいて、もし、実際にそういう運びになったら―――咲夜としては、かなり心中複雑だ。
 けれど、奏は咲夜の提案に、ニヤリと意味深な笑いを見せた。
 「同じ身長なら、佐倉さんなら絶対、リカよりか咲夜を引き抜くな」
 「げ、冗談でしょ」
 「マジで。オレも、今なら、佐倉さんが咲夜に目ぇつけた理由、よくわかるから」
 「…なんか、よくわかんないんだけど」
 「早い話、リカより咲夜の方が、モデルに向いてる、ってこと」
 そう言うと、奏は、少し寂しげな顔になり、咲夜の手元の雑誌に目を向けた。
 「…リカは、モデルとして、あんまり長生きしない気がする」
 「……」
 「オレは、飽きられて使い捨てられる前に、“Frosty Beauty”の仮面を捨てることができたから―――短いモデル人生でもさ、あいつにも、使い捨てられるだけの人形で、終わって欲しくないよな」
 「……そっか」
 僅かに、目を細める。
 薄く笑みを浮かべた咲夜は、パタン、と雑誌を閉じ、雑誌に目を向けていたせいで若干低くなっていた奏の頭を、くしゃくしゃと撫でた。
 「…っ、な、何だよ、急に」
 「ん…、別に」
 「?」
 「なんとなく、こうしたく、なっただけ」
 「???」
 訳がわからない、という顔の奏をよそに、咲夜は、大きく息を吐き出すと、いきなり立ち上がった。
 「あー、なんか、おなか空いてきた。ね、コンビニに、何か食べるもの買いに行かない?」
 「は!? 今からかよ!」
 時計は既に、午前零時になろうかという時刻を指している。けれど咲夜は、そんな時間など気にする様子もなく、悪戯っぽい笑いを奏に向けた。
 「いいじゃん。この時間なら結構涼しいし、明日は休みの日だから、夜の散歩を楽しむのも悪くないよ?」
 「…夜の散歩、か」
 唐突すぎる咲夜の提案に、ちょっと疑問を感じないでもなかったが―――夜風に当たりながら2人で歩く、というのも、なかなか魅力的な話だった。ニッ、と笑った奏は、その誘いに乗るべく、立ち上がった。


 ―――奏には、黙っておこう。
 少なくとも、20日の、最後の仕事が終わるまでは……あの電話の相手がリカでも、そうじゃなくても、黙っていよう。
 今、この話をするのは、奏にとってもリカにとっても、いいことは何ひとつない。今は黙って、この先の成り行きを見守っていよう。

 その夜、夜風に吹かれ、奏と並んでのんびりと歩きながら、咲夜はそう心に決めた。
 物事には、不安でも黙ってやり過ごした方がいい時期、というのもあるのだ。そう―――たとえ、ただ黙っているだけ、というのが精神的に一番キツイ選択だとしても。


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