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― Miss you crazy ―

 

 本当に、意味なんてなかった。
 少なくとも、最初は。


 「あ、買ったよ、一昨日発売の“EL-EL”。表紙のモデル、イマイチじゃない?」
 「だよね。姫の方が美人なのにさぁ」
 スピーカーの震わせる重低音に半ば掻き消されながらの、いつもの連中の、いつもの言葉。
 けれどリカは、返事もせず、カクテルを飲み続けていた。話は聞こえていたが、いちいち反応するのが、もう面倒になっていたのだ。
 「なんだよ姫、機嫌悪いなー」
 「いや、元気がないよな。どっか具合でも悪いの?」
 「…何でもないわよ」
 ぷい、とそっぽを向き、スプモーニのグラスをくいっ、と傾ける。そんなリカの様子に、隣に座っている女が、意味ありげな含み笑いをした。
 「やっぱ駄目ねぇ、男って。女同士だからピンと来るわよ、アタシには」
 「なんだよ。何がピンと来たんだよ」
 「最近のリカの、この“心ここにあらず”ってなボーッとした顔は、絶対、恋絡んでる。でしょ?」
 「は!!?」
 「えー! なんだよそれ!」
 男性陣営が、一気に色めきたつ。だが、指摘された張本人のリカは、慌てた様子も見せず、多少迷惑そうに眉をひそめただけだった。
 「おいおいおい、ほんとかよ。リカに惚れられる男なんて、この世に実在したのか!?」
 「誰だよ相手はぁ。あ、もしかして、ハルキさんとか!?」
 「―――俺がどうしたって?」
 いきなり入ってきた低い声に、その場が一瞬、静まる。
 座ったまま仰ぎ見ると、今名前が出た晴紀(ハルキ)本人が、そこに立っていた。途端、なんでもないです、と、一同示し合わせたように大人しくなってしまった。
 ぱらぱらと、まるで晴紀から逃げるように、男2人は席を離れ、踊りに行ってしまった。隣に座っている女と斜め向かいで携帯電話ばかり弄っている男女2名は、晴紀を怖がっていない奴らなので、そのまま涼しい顔で座っていた。
 「俺の名前を聞いた気がしたが、気のせいか?」
 少し膝を折り、声が届くようにして、晴紀がリカに訊ねる。長居できない用事でもあるのか、どうやらこのまま席に着く気はないらしい。
 「知らない。勝手な噂話に花咲かしてただけじゃない」
 そっけなくリカが言うと、無責任な憶測を場に持ち出した張本人である隣席の女も、さすがに何も言わなかった。
 晴紀も、晴紀を笑い者にしたり、リカに不愉快な真似をする者など、このグループの中にはいないことを知っている。噂話とやらも、改めて聞く価値などない話と踏んだらしく、ふぅん、と相槌を打っただけで、それ以上の追及はしなかった。
 「ああ、リカ。見たぞ、“EL-EL”」
 さっきも連中が話をしていた、リカがモデルとして出ているファッション雑誌の名前を、晴紀も口にした。
 「アキが、さっそく切り抜いて、スクラップしてたぜ。相変わらずお前に夢中みたいだな」
 「…そう」
 自分の写真が綺麗に切り抜かれスクラップブックに蓄積されていく様を想像し、リカの腕に鳥肌が立った。だが、目の前にいる晴紀にとっては、毎日見慣れた光景なのだろう。スクラップブックの話を口にする晴紀の顔は、その瞬間だけ、別人のように優しい表情になっていた。

 晴紀は、リカの周囲に群がる連中の中では、常に別格の存在―――いわば、ボスである。
 実態はただの大学生だが、トール同様に水商売づいている人物で、今は何の仕事をしているのかリカにもよくわからないが、とにかく相当な金を稼いでいるらしい。裏社会の人間とも何故か顔馴染みだったりするし、趣味でボクシングをやっているから腕っぷしにも自信があるため、おのずとボス的立場となってしまった。以前、リカに言い寄った男をボコボコにしたことからもわかるとおり、リカの信奉者の1人だ。
 いや、晴紀がリカの信奉者、と言うのは、少し語幣がある。
 正しくは、彼の妹―――亜紀(アキ)が、リカの熱狂的な信者なのだ。
 晴紀とリカが知り合ったのは、リカが高3の冬だった。遊び仲間に連れて行かれた店で当時晴紀が働いていて、そこで親しくなったのだ。
 晴紀の妹・亜紀は、偶然にも、リカと同じ高校の1年生だった。そして―――不幸なことに、クラスメイトから執拗な嫌がらせを受け、かなり心を病んでいた。
 秋に行われた学内のミス・コンでリカが優勝した時からのリカの熱狂的なファンだった亜紀は、兄とリカが知り合いになったことに狂喜した。が、極度にシャイな性格なので、ちゃんと口をきいたことはこの3年間で数度しかない。それでも、こういうことはどこかから噂として流れるのだろう―――いつの間にか、リカと亜紀の兄が親しい、ということが知れ渡り、亜紀へのいじめは影を潜めるようになった。高校におけるリカの人気は、絶大だったのだ。
 そんな経緯もあって、晴紀と亜紀のリカに対する感情は、他の取り巻きとは少々違う。亜紀は、相変わらずのシャイぶりでさっぱり顔を見せないが、妹を溺愛している晴紀は「妹をいじめから救ってくれた存在」として、まるで女神のようにリカを崇めているのだ。

 「ハルキさん、飲まないの?」
 立ったままでいる晴紀を訝り、隣の女が訊ねる。すると晴紀は、開いた襟から覗くネックレスを鬱陶しそうに弄りながら、渋い顔をした。
 「いや、すぐ戻らないと。ちょっとトールが来てねぇか見に来たんだ」
 「え、トールに何か用事あるの?」
 「あいつに金貸してるんだよ。今月中に返すって言ってたのに、ちっとも顔出しやがらねぇ」
 「―――トールなら、まだバイト中の時間よ」
 リカが、短く答える。すると、隣の女だけじゃなく、晴紀も意外そうな顔をした。
 「なんでリカがあいつのスケジュールなんて知ってるんだ」
 「リカが紹介したバイト先だからよ」
 「…へえ。知らなかったな。いつの間に」
 「先月のお盆休み明けくらい。次のバイト先見つからない、ってまだ騒いでたから、たまたま知ってる店教えてあげたの」
 「珍しいな。リカが、人のバイトの世話するなんて」
 「…ただの、気まぐれよ」

 そう。ただの、気まぐれ。
 意味なんて、なかった、何も。少なくとも―――あの時は。

 

 『ごめんリカ。この前借りた2万、まだ当分返せそうにないや』
 トールが手を合わせて申し訳なさそうにそう言ってきた時、リカは、2ヶ月ほど前に貸した2万のことなど、すっかり忘れていた。
 『いいわよ、別に。でも、珍しいじゃない? トールって、いつ見ても羽振りが良さそうだったのに』
 『いやー、それがさー、まだ次の仕事が見つかんなくて』
 『え? トールって、いつの間にバイト辞めてたの?』
 『…この前集まった時も、散々言ったんだけどなー、おれ。バイト先潰れた、って』
 聞いてなかったのね、と恨めしそうな顔をするトールに、そんなの知らないわよ、という表情を返す。
 大体リカは、自分の取り巻き連中の話など、ほとんどまともに聞いていない。話している奴らもそれを承知で話しているのだから、そう重要な話が飛び交っている訳でもない。だから、トールが仕事にあぶれた話なんてのがその中に紛れ込んでいるとは、リカだって思わなかったのだ。
 『一応、コンビニで働いてもみたんだけどさぁ…、おれって根っからの水商売向きみたい。ダメ、あんな仕事。もーだるくってだるくって、2日でギブアップした』
 『そうね。トールにはコンビニ店員は似合わなそう』
 想像して、そのあまりのアンバランスさに、ちょっと苦笑してしまった。
 リカは、トールのことを、そこそこ気に入っている。単に群れるのが好きなだけで、リカに変な興味を持っていないし、リカのファンでもリカに何かを期待している訳でもないので、見え透いたお世辞を言ったりしないからだ。
 実際には同い年だが、持っているムードやアイドルっぽい外見のせいか、リカがトールに抱く感情は「可愛い」が一番近い。その「可愛さ」を武器に女を釣るのをライフワークにしているようなトールが、コンビニでレジを打ってる姿なんて、どうにもミスマッチだ。
 『なあ、どっかいい店、知らない? おれ、ハルキさんからも金借りてるから、いい加減ちゃんと働きたいのよ』
 『リカ、ホストクラブとか行かないし』
 『ホストじゃなくていいよ。シェイカーとか振れるしさ、バーテンダーとかもいけるよ、おれ』
 『バーテンダー…』
 最近、その言葉をどこかで見たな、と記憶を辿ったリカは、それがどこかを思い出し、一気に陰鬱な気分になった。
 “Jonny's Club”―――奏の恋人だという女がジャズ・ナンバーを歌っていた、あの店。10日ほど前行ったその店のレジの横に、バーテンダー急募の貼り紙がしてあったのを、リカは偶然覚えていた。
 『…バーテンダーなら、急募してるとこ、リカ知ってるかも』
 『えっ、ほんと!? うわ、マジ、紹介して、そこ』
 『…うーん…』

 その時。
 どうしてそんなことが頭に浮かんだのか、今も、リカには、よくわからない。
 ただ、“Jonny's Club”のことを思い出した時、リカの脳裏に浮かんでいたのは―――数日前の朝、目撃した光景だった。

 熱射病を起こして倒れた奏に付き添い、予定外に訪問する羽目になった、彼の家。
 イギリスから単身で日本に来ている、と聞いていたから、奏には日本に家族がいないのだと、リカは思っていた。そして、その考えは間違っていなかった。が……半分、間違っていた。
 まさか、あんな風に出迎える人がいるなんて、考えてもみなかった。
 咲夜のことは、“Jonny's Club”で見たから、知っていた。恋人同士だということも聞いていた。でも……まさか、隣に住んでいて、まるで家族かのように密接な生活を送っていたなんて。異国で1人きりで体調を崩したら心細いだろう、と考えて付き添ったというのに、こんな風に出迎えてくれる人がいるのなら、心配して付き添って損したな、とあの時、ちょっと思った。
 咲夜がついてるなら、自分が心配する必要もないか―――そう思い、翌日はいつも通りに過ごしたリカだったが、夜中になって、ふと、奏の体調が心配になった。
 日頃、人の心配などしないリカだが、今回はなんだか気になって仕方なかった。自分が無理な仕事で奏の貴重な休日を潰してしまった、という罪悪感もあったし、最後に見た時の奏が、まだ意識が朦朧とした状態だったから、もっと深刻な事態になっているかも、という嫌な想像もあった。
 ひと目、奏の元気な姿を見て安心したかった。それでリカは、翌朝、柄にもなく早起きし、奏の住むアパートへと出向いたのだ。

 少し離れた所からアパートの様子を窺っていたら、運良く、奏が出勤するところを見ることができた。
 奏は、元気そうだった。
 いや、むしろ―――もの凄く、嬉しそうで、楽しそうだった。
 そんな奏の隣には、奏の話すことに、可笑しそうに声をたてて笑っている、咲夜の姿があった。
 楽しそうな、幸せそうな、1枚の絵。その絵に―――リカは、無性に、苛立った。

 『…ねえ、トール』
 それは、ふと思いついた、ちょっとしたゲーム。
 『賭け、しない?』
 『賭け?』
 『そ、賭け。もしトールが勝ったら、貸してる2万円、チャラにしてあげてもいいよ?』

 

 「―――まあ、いい。リカももしトールに会ったら、金返せ、って催促しといてくれるか」
 晴紀に言われ、リカは薄く笑って、頷いてみせた。
 本当にトールに用事があっただけらしく、晴紀はそれで、その場を後にしようとしたのだが。
 「…ん? 何だ、それ」
 「え?」
 晴紀の視線を追うと、晴紀の言う「それ」の正体がわかった。
 テーブルの上に、ぽつん、と転がっている、1本の口紅―――他にメイク道具が一切置かれていない中、グラスや皿の間に紛れないよう、不自然に離して置いてあるそれは、確かにこの場では浮いて見えた。
 「借り物なのよ」
 「…へえ」
 「何、何、新色か何か?」
 それまで口紅の存在に気づいてなかったのか、隣の女が目を輝かせ、口紅を手に取ろうとした。だが、女の手が口紅に触れるより早く、リカはパッとそれを掴み、膝の横に置いたバニティバッグの中に戻してしまった。
 「えぇー、ちょっと見る位いいじゃないー」
 「ダメ。リカだから貸してもらってるんだもん」
 本当は、リカ自身にも、これを持つ資格はないのだけれど―――そんなことは微塵も口にも表情にも出さず、リカはバッグのファスナーを閉め、何食わぬ顔で再びカクテルグラスを手に取った。

 ―――撮影があったのが、5日……先週の金曜日、か。
 あれからもう、1週間以上経つ。なのに、奏からは何の連絡もない。
 仕事で使うものの筈なのに―――気づいていないのだろうか? それとも、気づいているけれど、別に失くしても困らない物だったのだろうか。全く、誤算も誤算だ。
 奏のメイク道具の中から、こっそり拝借してきた、鮮やかな色のルージュ―――どうしようかな、と、グラスに口をつけながら、リカは暫し思案した。


***


 「備品を失くしても1週間以上も音沙汰なし、って、メイクアップアーティストとしてどうなの?」
 「―――…」
 リカが、まるで鬼の首でも取ったかのような表情で、奏の目の前に突き出しているもの。それは、先日の撮影を最後に行方不明になっていた、人気の色合いの口紅だった。
 またいきなり“Studio K.K.”に現れたリカの、あまりにも予想外な訪問理由に、いまいち頭がうまく働かない。奏は、どこかポカンとした口調で、リカに訊ねた。
 「…えーと、それ、どこにあった?」
 「あの日持って行ったバニティバッグの中に紛れ込んでたの。ちょっと前に気づいたけど、そっちから事務所に問い合わせもないから、もうこのまま貰っちゃおうかと半分思ってたんだから」
 「おいおい、そりゃちょっと―――でも変だな。なんでリカのバッグの中に入ったんだ? リカの荷物は、マネージャーがきっちり管理してた筈なのに」
 少なくとも、奏がメイクの作業をしていた時、その周囲にリカの荷物はなかった。何がどうなってリカのバッグの中に入ってしまったのか、辻褄が合うよう考えようと試みたが、ちょっと無理だった。
 「別にいいじゃない。実際、入ってて、こうしてリカが持ってきてあげたんだから」
 「まあ、そうなんだけど」
 実を言えば、個人的に請けているオファーなどリカの撮影しかないから、この口紅がなくても、全然困っていなかったのだが―――でも、リカが恩着せがましくやたら威張った態度を取るので、適当に合わせておいた方が無難か、と奏は判断した。
 「サンキュ。新しくもう1本買い直す覚悟してたんだ。助かったよ」
 口紅を受け取りつつ、微笑を作ってそう礼を言う。だが、リカの顔は、まだまだ不満そうだ。
 「わざわざ届けに来させたからには、カクテルの1杯もおごってくれるんでしょうね」
 「は!?」
 「当たり前でしょ? リカは一宮さんから見たら“お客様”なのに、わざわざ足を運んであげたのよ? 客にご足労願っておいて、お礼の一言でおしまい?」
 「……」
 ―――って、別に頼んでねーよっ。
 親切の押し売りをしておいて、お礼の強要って―――リカの無茶苦茶な言い分に、激しく脱力する。
 が、“お客様”にご足労願う結果となったのは、一応事実だ。はあぁ、とため息をついた奏は、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ、壁にかかった時計を確認した。
 「…オレ、あと30分はかかるんだけど」
 「なんで? もうお店、終わりでしょ?」
 「後片付けがあるんだって。悪いけど、またの機会に」
 「いいわよ、30分待ってあげる」
 「……“あげる”……」
 「何か言った?」
 もう、反論する気も失せた。観念した奏は、半強制的なお礼の1杯を承諾した。

 ―――それにしても、やることがいちいち、唐突だよなぁ…。
 返してもらった口紅をポケットに突っ込み、また小さくため息をつく。
 大体、今週の土曜日には、例のゴスロリ雑誌の撮影があるのだ。1週間以上経った月曜に返す位なら、土曜まで待って返したって構わなかったんじゃないか、と思わずにはいられない。実際、そうしてもらって全然問題はなかったのだ。リカ程度の頭があるなら、少し考えれば、そういう選択もできた筈なのに―――…。

 「ふーん、また来たんや、あの子」
 ふいに、斜め下から、低く抑えた声がした。
 見れば、さっきまで接客していたテンが、ソファに座って週刊誌を読み始めているリカを流し見ていた。その冷ややかな目つきを見て、奏は、熱射病で倒れた奏の様子を気にしてリカが店まで来てくれた時のことを思い出した。
 あの時もテンは、酷く冷ややかな目つきで、奏を睨んでいた。どうやら、リカに対していい印象を持っていないらしい。
 「…失くしたと思ってた口紅を届けてくれたんだよ。親切で来てくれたのに、そういう目つきはないだろ、お前」
 「ふぅん、へえぇ、2、3回一緒に仕事しただけのモデルが、わざわざ届けに、ねぇ。ほおおおぉ」
 「何だよ、気持ち悪い相槌打つなよっ」
 含みを持たせたような、嫌味ったらしいテンの口調に、さすがにイラつく。けれどテンは、この前と同じような冷たい目線を、今度は奏の方に向けてきた。
 「どうでもええけど、店をプライベートの逢引に使わんといてや。感じ悪いわ」
 「はぁ? 何だよそれ。プライベートでも逢引でもねーよっ。お前の方が感じ悪いぞ」
 「ほら、さっさと仕事しろよ、2人とも」
 険悪な空気になる2人の背中を、氷室がそう言って順に叩いた。まだ気分は悪かったが、確かに氷室の言う通りなので、奏もテンもそれ以上の衝突は避け、それぞれの仕事に戻った。
 ―――なんだよ、テンの奴…。
 何がプライベートだ。百歩譲って仕事じゃないとしても、逢引という言い草は、あんまりだ。フリーの人間に対してでもあまり感じの良くない言い方だが、奏には咲夜がいることを承知の上での発言なのだから、余計酷い。全く、何の恨みがあって、ああいうことを言うんだか―――もしかして、山之内と上手くいっていなくて、その八つ当たりでもしているんだろうか。そう思うと更にムカつく。
 でも……テンの言い草は無茶苦茶にしても、店に、店とは無関係な用事でたびたび来られる、というのは、奏からしてもちょっと迷惑だ。
 もう今週末でリカとの仕事も終わるが…一応、一言言っておいた方がいいのかもしれない、と奏は初めて思った。

***

 こうして、慌しく店の片づけを終え、リカと一緒に近くの小洒落た店に飲みに行った奏だったが。

 「あー、おいしい。この店ってカクテル豊富なのね。ほんと目移りしちゃう」
 「……」
 ―――何が“カクテル1杯”だ。
 嘘をつけ、という目をする奏の目の前で、リカは、既に5杯目となるカクテルを口にしていた。
 「…おい、いい加減にしろよ。飲みすぎだろ」
 「大丈夫ー、リカ、お酒強いもーん」
 「強い弱いの問題じゃねーっつーの! おごるのがオレだってこと、忘れてないか、ってことだろっ!」
 「うるさいなぁ。一宮さんは1杯分だけ払えばいいでしょ。残りは自分で払うわよ。リカ、そこそこお金持ちだもん」
 「……」
 ていうか、お前、一体何しに来た?
 口紅を返しに来たついでに1杯おごってもらおう、という魂胆の割に、最初からハイペースでカクテルを注文しまくっているリカの様子に、少々引く。実は、口紅を返すのなんてどうでもよくて、最初から奏を相手に酒を飲むのが目的だったのではないか、と疑いたくなってしまう。
 「それよりホラ、早く」
 いまだ1杯目を飲んでいる途中である奏に、リカはテーブルをトントンと指で叩き、焦れたように催促した。
 「答え言ってよ、答え。あの彼女さんて、一宮さんの何人目の彼女?」
 「…そーゆー興味本位な質問には、たとえクライアントであっても、お答えできません」
 不愉快です、というムードを顔全体に滲ませ、冷たく答える。途端、リカが面白くなさそうに膨れた。
 「えぇー、何よ、ケチ。参考に聞かせてくれたっていいじゃない」
 「何の参考だよ、何の」
 「リカ、男の人と付き合ったこと、ないもん」
 「え、」
 これは―――さすがに、意外だ。ただうんざり一辺倒だった奏の表情が、ちょっとだけ変わった。
 「でも…リカほどの容姿持ってたら、モテるだろ」
 「モテる、イコール、彼氏作り放題、って訳じゃないもん。そんなの、リカ以上にモテそうな一宮さんなら、よく知ってるんじゃない?」
 「…まあ…そりゃ、そうだけど」
 「あーあ。リカって、こんなのばっかり」
 盛大なため息をついたリカは、5杯目のカクテルグラスを置き、テーブルに頬杖をついた。
 「どーでもいい奴にばっかり、まとわりつかれて。でも、仲良くしたいな、って人には、いつも距離置かれて。…贅沢だ、って周りは言うし、手の中にはいろんな物がぎゅうぎゅうに詰まってるのに―――望むものは、いつも手に入らないの。恋愛だけじゃなく、仕事も、友達も、それに……」
 「…それに?」
 恋愛、仕事、友達。それ以外、何かあったっけ、と奏は内心首を傾げた。
 だが、リカは、その続きを言うことなく、突然黙り込んでしまった。
 頬杖をつき、目の前のカクテルグラスの中身をじっと見つめたまま―――1分近くも、1ミリたりとも動かず、黙っていた。一体どうしたのか、と訝った奏が、何か一言声をかけようとした時、それまで人形のように動かなかったリカが、顔をこちらに向けた。
 「ねえ、」
 「ん?」
 「この人に愛されたい、って感じた人から、確実に愛される方法って、ある?」
 急に黙り込んだと思ったら―――また、凄いことを訊く。思わず、苦笑した。
 「そんな方法、あるんだったら、オレが知りたいよ」
 「だって、一宮さんは、手に入れてるじゃない。愛されたいと思った人を」
 「…毎回毎回、上手くいってる訳じゃないよ、オレだって」
 忘れかけていた痛みを思い出し、奏は、久々に皮肉な笑みを浮かべてしまった。
 「もがいて、あがいて、情けない醜態をいっぱい晒して―――もう、死にたくなるほど自分が嫌いになったことも、何度もある。思い出したくない位、バカなこともしたし……それでも、上手くいかないこともあるし、労せず手に入る場合だってある。正解なんて、1つもないよ。ケース・バイ・ケースだろ、人生なんて」
 「……」
 「何、誰かに、片想いでもしてる訳?」
 「…別に、恋じゃ、ないけど…」
 呟くようにそう答えると、リカは目を伏せ、少しうな垂れた。
 「―――時々…寂しいの」
 「……」
 「周りに、人がいっぱいいて、でもその中に、リカが本当に必要としてる人は、1人もいなくて―――大勢の人といるのに、寂しいの。だから、必要としている人に、愛されたくて、認められたくて、ずっと一緒にいて欲しくて……もう、どうしようもなくなるの」
 「……」
 「…なのに…リカが必要としてる人は、いつも、リカのこと必要としてないの。ううん、本当にリカを必要としてる人なんて、誰もいない―――リカを愛してる人なんて、誰もいないのよ、本当は」
 「そんな訳、ないだろ?」
 よっぽど、自信喪失するような目にでも遭ったのだろうか。あまりに卑下したことを言うリカに、奏はちょっとため息をつき、その頭をぽんぽん、と叩いた。
 「オレも、似たこと感じてた時期あったけどさ。でも、思い返してみると、本音で付き合ってる奴も、その頃から多少はいたしさ。それに、親は―――両親のことは、どんなに捻くれてた頃でも、信じられたし」
 「……」
 「見た目だけで、中身が空っぽだったら、そんなに大勢の人間を惹きつけられる訳、ないだろ。寂しい、なんて言ってないで、誰かに本音でぶつかって行けばいいのに」
 「……ふ……」
 うな垂れたまま、リカが、小さく笑った。
 と、その小さな笑いをきっかけに、リカの肩が、笑いを堪えてるみたいに、小さく震えだした。それは、やがて、くっくっ、という押し殺した笑い声に変わり―――…。
 最終的には、リカは、カウンターに半ば突っ伏すようにして笑い出した。
 「…っふ、あ、あはははは…、や、やだ、おかしー、っくくくく…」
 「……」
 ―――おい。何だ、それは。
 落ち込んだ様子だったから、真面目にコメントしてやったというのに―――まるで笑い上戸の如く笑い転げるリカに、奏は、こめかみの辺りがひくつくのを感じた。
 「そ、そう、なんだー。本音でぶつかれば、必要としてる人、手に入っちゃうんだ。ふううぅん、凄ぉい。あははは」
 「バカ。んなこと、言ってないだろ。ぶつかってみなきゃ、相手が自分をどう思ってるかわからないだろ、ってことだよ。駄目と決めてかかるから」
 ムッとしたように奏が言うと、リカは、突っ伏していた頭をむくっ、と起こして、可笑しそうな顔を奏に向けた。
 「だあって、駄目なのが間違いない人もいるじゃない? リカのこと凄く嫌ってる人とか、リカよりずーっと大事なものあって、リカのことなんてその辺歩いてる蟻レベルにしか関心ない人とか」
 「…まあ、そういうのも、あるにはある、け、ど―――…っ!!!??」
 リカが、目の前のグラスを手に取った。
 と思ったら、残りのカクテルを一気に飲み干すのを見て、奏は思わず目を見開いた。
 「っ、お、おいっ! 何一気飲みしてんだよっ!」
 「あ、すみませーん。これと同じの、もう1杯」
 完全無視。
 さっきの殊勝な態度はどこへ行ったんだ、と言いたくなるほど、絶好調で飛ばしまくるリカの様子に、奏は唖然とした。もしかして、今言った孤独に関する悩みも、アルコールのせいでぶっ飛んだ頭が言わせた、事実とは異なる話なんだろうか。
 「ああー、なんか、悲しくなったり面白くなったり、へーんな感じぃ。おかしいなぁ、リカ、お酒強い筈なんだけど、なんで5杯で酔っ払っちゃうんだろうー」
 「…お前、アルコール度数、ちゃんと見てるか?」
 「あるこーるどすう? 何それ。カクテルはカクテルでいいじゃなーい」
 「……」
 ―――やっぱり、アルコールのせいかよ…。
 さっきからリカが頼んでいたのは、奏なら2杯が限度、という、かなり度数の高いシロモノばかりだった。顔色が変わらないし、本人も強いと言うので、それを信じて強く反対はしなかったが……こんなことなら止めておけばよかった。
 「ねえ。それでー? 今の彼女は、何人目なのー?」
 「―――…」

 こうして、質問は、1回転した。
 こりゃ、テンといい勝負だな―――酒には強いが酒癖が悪そうなリカに、奏は、今日の誘いに乗ってしまったことを激しく後悔した。

***

 結局、リカは、都合7杯ものカクテルを飲んだところで、「もう飲めな〜い」とギブアップを宣言した。

 「おい…しっかり歩けって」
 まるで蛸の如くふにゃふにゃになっているリカを、なんとか店から引きずり出す。
 ―――っつーか、いくら金持ってても、この状態じゃ払えないだろ、バカ。
 伝票を見ても「なんのことかわかんな〜い」ときたから、もうどうしようもない。案の定、奏が払う羽目になった。全く、踏んだり蹴ったりもいいところだ。
 奏に腕を掴まれたリカは、辛うじて歩いてはいる。が、この状態で普通に電車に乗れるとは思えない。
 「おい、リカ。タクシー捕まえるから、自分で払えよ」
 「んんー…、イヤ、タクシーなんて乗らないもん」
 「…あのな。こんな状態で電車乗れるか? 無理だろ」
 「いーやー」
 まるで駄々を捏ねる子供みたいに、リカはいやいやと首を振って、奏の腕に抱きついた。
 「まだ帰らないんだからー、リカは。一宮さんとこ行くのぉ」
 「はぁ? そんな訳いくかよ」
 「やなのぉー。家になんて帰らなーい」
 「おい、」
 「あんな家、帰りたくないもぉん」
 それまでと同じ、酔った時独特の間延びした口調で放たれた一言に、奏の表情が、僅かに変わった。
 見下ろすと、リカは、奏の腕にぎゅうぎゅうにしがみついたまま、まさにへべれけという状態の顔をしていた。
 「帰ったってー、リカ1人だもん。つまんなーい。一宮さんとこ、連れてってよぉ」
 「……」
 ―――なんか…あったのかな。やっぱり。
 アルコールのせいで支離滅裂になってるだけ、と思ったが……支離滅裂ながら、酒に酔ったリカの言ってることは、終始「寂しい」だ。
 寂しい、寂しい、寂しい―――孤独、なんて単語じゃなく、もっと子供じみた、本能的な感情。日頃、高慢な表情で覆い隠されている「寂しさ」が、酒のせいで抑制が外れ、一気に噴出してきたみたいだ。
 なんだか、帰っちゃヤダ、と抱きつく子供を無理矢理引き剥がすみたいで、ちょっと可哀想な気もしたが―――こんな公道のど真ん中で立ち往生しっぱなし、というのも困る。はぁ、と息をついた奏は、少し離れろ、とリカの肩を押した。
 「…おい、リカ。確か、お前の取り巻きの中に、電話1本で確実に駆けつける、奇特な奴がいたよな?」
 「えぇー…、ハルキのことぉ?」
 「名前は知らないけどさ。そいつに電話しろよ。で、迎えに来てもらえ」
 「ハルキは、妹命だもん。ほんとはリカのことなんてどーでもいいんだもん」
 「あああ、もー、じゃあタクシー捕まえるぞ。いいな?」
 「いやー、一宮さんとこ行くー」
 誰か、なんとかしてくれ。
 本気で、その辺に放り出して帰りたくなる。半分泣きが入りそうになったところで、ようやく、リカが折れてくれた。
 「ん、もー、しょうがないなぁー」
 ごそごそと、バッグから携帯電話を取り出し、おもむろに電話をかけ始めたリカは、奏が言ったとおり、ちゃんとハルキとやらに電話をしたようだ。
 「…あ、ハルキー? リカでぇーす。あのね、酔っ払っちゃったからー、迎えに来てぇー。え、場所? 場所ってなぁに?」
 「…駅までは、オレが連れてくから」
 駅から徒歩5分の位置を、今のリカに説明できるとは思えない。奏が言うと、リカは最寄り駅の名前をちゃんと言い、じゃあねぇ、と電話を切った。
 「ふふ、よかったぁ。割と近くにいるんだってー。10分で着くって」
 「…そうか」
 良かった―――見ず知らずの奴だが、ハルキとやらに、奏は深く感謝した。


 やっぱり1人ではまともに歩けないリカは、駅までの道のりを、奏の腕に抱きついたまま歩いた。
 「……フフ…フ…」
 「…なんだよ、気持ち悪いな」
 千鳥足で変な笑い方をするリカを見下ろし、ちょっと眉をひそめる。だが、リカはいたって上機嫌だ。
 「ねー、この姿って、傍から見たら恋人同士に見えない?」
 「はぁ?」
 「こーゆー場面、偶然彼女さんが見てたりしたら、面白いことになるなー。どっかで見てないかなー」
 「…悪趣味だな、それ」
 「だあって、頭くるほど、幸せそうなんだもん」
 ふにゃっ、とした声とは似つかわしくない内容に、奏は思わず、目を見張った。
 「自分が欲しいもの持ってる人ってぇ、なぁーんか、頭にこない?」
 「……」
 「…なぁんて、ね」
 少し顔を上げたリカは、上目遣いに奏を見上げ、ふふっ、とまた笑った。
 「う、そ。本気にした?」
 「―――…あのなぁ…」
 再び、その辺に放り出したくなったその刹那、2人の背後で、クラクションが2回鳴らされた。
 振り返ると、高そうな外車がすーっと追いついてきて、2人の横に停車した。音もなく運転席の窓が開き、そこから、浅黒い顔をした男が顔を出した。
 「リカ」
 「…あー、ハルキだー」
 どうやら、これがハルキらしい。駅へ向かう途中、先にリカを見つけてしまったのだろう。
 安堵の笑みを浮かべて奏が会釈すると、ハルキも薄く笑みを浮かべ、車の中で会釈した。それにしても、よく後姿だけでわかったものだ。さすが、熱狂的ファンだ。
 「良かったな。迎えに来てもらえて」
 「…リカは、一宮さんとこ行きたかったんだけどなー」
 「駄目。何時だと思ってんだよ」
 「ケチ」
 離れろ、というように奏が腕を動かすと、リカは不服そうな顔で、しがみついていた腕を解いた。が、まだ手で奏の腕を軽く掴んだままでいた。
 「ああ、それと―――次から、用事あったら、まず店に電話しろよ? いきなり店に来るのは、NGだから」
 「……」
 「そういう不満そうな目、すんなって。まあ、土曜の仕事が終われば、もう用事も起きようがないだろうけどさ」
 「…そうね」
 妙にきつい語調で、リカが相槌を打つ。
 と、次の瞬間。

 「―――…っ、」
 リカの手が、奏の腕を引く。
 その予想外の力に、危うくバランスを崩しそうになった奏の肩を、リカの片手が押さえた。え、と思った、その直後、異様に熱い吐息が、奏の唇を掠めた。
 完全なる不意打ち―――押し付けられたリカの唇に、奏は、一瞬思考停止に陥った。その思考停止を逆手に取るかのように、奏の腕を掴んでいた筈の手は、奏の頭に回り、奏を更に自分の方に引き寄せていた。

 ―――ちょ…、
 ちょっと、待て、おい。

 思考停止、解除。
 慌ててリカを引き剥がそうとした奏だったが、コンマ1秒の差で、リカの方から先に唇を離した。そして、目を丸くしている奏に向かって、悪びれもせず笑ってみせた。
 「ふふふー。これで、浮気成立?」
 「…っ、じょ、冗談っ! おい、リカ、お前、」
 「咲夜さんには、秘密にしといてあげる。じゃ、おやすみなさーい」
 「はぁ!!!?」
 あまりのことに、奏が新たな反論もできずにいるうちに、リカはフラフラとハルキの車の助手席に回りこみ、車に乗ってしまった。
 ハルキの反応は、既に窓が閉められてしまっていて、全くわからなかった。何がどうなってるんだ、と混乱する奏を置いて、リカを乗せた車は、あっという間に走り去ってしまった。

 ―――な…なんだよ秘密って…!
 勝手に秘密の押し売りしてくなよ、おい…!!

 酔っていたせいとはいえ…あんまりだ。奏は、わなわなと怒りに震えたまま、車が走り去った方角を暫し睨み続けた。


***


 「また珍しい位に酔っ払ったなぁ」
 煙草に火をつけながら、晴紀がくつくつと笑う。
 窓ガラスに頭をくっつけた姿勢で、リカは目だけで、そんな晴紀を流し見た。
 「どういう関係? さっきのあの男は」
 「えぇー…、仕事相手よー?」
 「ふうん? リカが仕事相手にキスするなんて、初めて聞いたな」
 「うん、初めてしたもん」
 「俺は別に、リカに男が出来ることに、反対はしないぜ? リカの方がマジなら、協力してやるしな」
 「また、もー」
 うんざり、という声で唸り、リカは頭を起こした。
 「そんなんじゃ、ないもん」
 「違う?」
 「ただ、一宮さんと話してるとぉ、諦めてたこと、もしかしたらできるかなぁ、ってー、なんかそんな気分になれて、嬉しいだけだもん。ばかやろー、って怒鳴ったと思ったら、すっごい親身になってくれたりして、なんか他の人と違ってて、楽しいだけだもん。なのにぃ、すぐそーやって、愛とか恋とかに話をくっつけたがるんだからぁ。晴紀もトールも、安直すぎてイヤ」
 「トール…」
 思いがけず出て来た名前に、晴紀の眉が僅かに動いた。
 「もしかして、さっきの奴、トールが落とそうと躍起になってる女の、男か?」
 「あれぇ…? どぉして晴紀が、そんな話知ってるのぉ?」
 「昨日、あの後、トールから電話かかってきたんだよ。で、リカからバイト先紹介された経緯を聞いたからさ。トールのバイト先で歌うたってる女落としたら、2万円チャラだって?」
 「そぉ。でもねぇ、ぜぇんぜん、意味なかったみたいー」
 あはは、と乾いた笑い声をたてたリカは、まだ朦朧とした頭のまま、ほとんど何も考えずに、ペラペラと喋りだした。
 「トールに色目使われてちょっとグラグラする位なら、まだ可愛げあるのにねー。そこら辺の歌手よりすごぉい歌、歌うのに、あーんなチンケな店で下積みなんかもしちゃっててぇ。その上、あーんなハイレベルな彼氏持ってても、平然とした顔しちゃっててぇ。なぁんか、変にカッコイイの。カッコイイ女なんて、なんか、反則技って感じぃー」
 「…ふぅん」
 「一宮さんてばねー、咲夜さんの前では、まるで甘えん坊の子供なのぉ。リカには全然寄りかからなかったくせに、咲夜さんには100パー体重預けちゃうし―――歌声聴きながら、すーっごい安心しきった顔で眠っちゃうし、ねぇ。仕事のことも相談できちゃうし、会いたければ隣に住んでるし、仕事が終わった後に、わざわざ彼女のライブに行っちゃったりするんだから。ね、イヤミな位、素敵でしょー」
 「…そりゃあ、リカの恋路は厳しそうだな」
 「だぁかぁらぁ。恋路とか、そういうんじゃないのー」
 「だったら何で、トールにあんな賭け、持ちかけたんだよ」
 「羨ましくてー」
 「……」
 「すごく、すごぉく、うらやましくてぇ」


 ―――…羨ましくて。

 カメラの前で、まるで宝石のようにキラキラと輝ける、あの人が。
 リカには見ることのできない眩しすぎる世界を、当たり前のように持っている、あの人が。
 リカが、欲しくて、欲しくて、ずっと欲しくて仕方なかった、全てを委ねられる“居場所”を持っている、あの人が。

 そして―――そんなあの人の“居場所”となれている、彼女が。

 羨ましくて。
 羨ましくて、羨ましくて―――妬ましい。


 「…いつもいつも、」
 アルコールで、頭が霞んで。
 小さくあくびをしたリカは、再び窓ガラスに頭を預け、目を閉じた。
 「いっつも……憎らしい位に、幸せそう―――…」

 その3秒後。
 助手席からは、くーくーという寝息が聞こえ始めた。
 目だけを動かして、リカが眠ってしまったことを確認した晴紀は、短くなった煙草を灰皿に突っ込み、最後の煙を吐き出した。

 「…ふぅん…」
 なるほど、ねぇ。

 極々短いその相槌に込められた意味など、眠ってしまったリカは、全く知るよしもなかった。


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