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― Rush! -side W- ―

 

 「Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see.....」

 その日の空は、咲夜が歌う十八番には似つかわしくなく、鬱陶しい曇り空だった。
 夜中のうちにちょっと雨が降ったせいか、今年の夏以降では一番涼しい朝となった。適度な湿度で、喉の調子も良さそうだ。

 「Blue birds, singing a song, Nothing but blue birds, all day long.....」

 そこで、隣の窓が開いた。
 「おはよ」
 歌を中断して、咲夜がにこやかにそう言うと、隣の窓から顔を出した奏は、ふあぁ、とあくびをした。
 「……はよ」
 「眠そうじゃん。寝過ごした?」
 「…うー…、ちょっとだけな」
 そう言いつつだるそうに首を回した奏は、手にしていた煙草の箱から煙草を1本取り出し、口にくわえた。
 「アルコール入ってるから、即、意識落ちると思ってたのに、なんかゆうべは、なかなか寝付けなくて」
 「ああ…、昨日、いつもより帰って来る音するの遅いな、と思ったけど、飲みに行ってたんだ?」
 咲夜が何げなく口にした言葉に、ライターを持つ奏の手が、ピクリ、と止まる。が、極力何とも思っていない風を装い、奏はそのまま煙草に火をつけた。
 「…まーな。行きたくなかったんだけど、仕方なく」
 「仕方なく?」
 付け足された妙な言葉に、咲夜が少し眉をひそめる。余計な一言だったことに気づいて、奏の顔が僅かに引きつった。
 「あ、いや―――ほら、この前の撮影で、口紅が1本どっかに消えた、って言ってただろ? あれ、リカの荷物に間違って紛れ込んでたらしくて、昨日、わざわざ店まで持ってきてくれてさ」
 「へー、そうなんだ」
 「客にわざわざ足を運ばせたんだから、カクテルの1杯もおごれ、って居座られて……で、しょうがないから、店の近所の飲み屋に行ったんだけど、」
 と話がそこまで進んだところで昨夜の憤りを思い出した奏は、それまでのどこか気まずそうな表情を一変させ、憤慨したような顔で咲夜の方に向き直った。
 「そうそう、リカのやつ。あいつ、テンといい勝負の酒癖の悪さだぞ、マジで。何がカクテル1杯だよ。オレが1杯も飲まないうちに、みるみるうちにスゲー度数のカクテルをほいほい空けやがって―――最終的には7杯だぞ、7杯! 挙句に、金持ってるから自分の分はちゃんと払うとかほざいた癖に、いざ勘定の段階になったら、酔っ払ってて“伝票って何のこと?”状態で、結局オレが全部払う羽目になったんだからな」
 「あはは…そりゃ、悲惨な目に遭ったね。ってか、止めなよ、そこまで酔っ払う前にさ」
 「いやー、それが、本人も強いって豪語してたし、実際、顔色が全然変わらないんだよなぁ。多分本当に強いんだろうけど、結局あんなに酔っ払うんじゃ―――…」
 うんざりした顔で、そう言いかけて。
 まるでストップボタンでも押されたみたいに、奏の愚痴が止まった。
 「……」
 「? どうかした?」
 その静止ぶりがあまりに唐突だったので、さすがの咲夜も、思わず訝しげに首を傾げる。すると奏は、少々ぎこちない様子でフリーズを解除し、何かを誤魔化すみたいに嘘っぽく笑った。
 「ハ、ハハ、いや、なんでもないない。Nothing」
 「…そのリアクションを“Nothing”と解釈するのは、万国共通で無理だと思うけど」
 咲夜の冷静な反応に、奏の嘘笑いは脆くも消えた。なんて素直な顔―――飽きないなあ、と、咲夜は不覚にも苦笑してしまいそうになった。
 「…いや、ほんと、Nothingだって…。ただ、ちょっと…酔っ払ったリカに、ベタベタくっつかれたから、さ」
 「ふぅん。役得だったじゃん」
 軽い調子で咲夜がそう言うと、奏は一瞬、大きく目を見開き、そしてすぐにムッとしたような顔をした。
 「なんだよ、その余裕のコメント…」
 「余裕?」
 「…なんでもねーよっ」
 ぷい、とそっぽを向いた奏は、イライラと煙草をやたらふかした。そんな奏の様子を見て、咲夜は、ある種の確信めいたものを感じた。
 ―――ふーん…、そっか。
 心が、波立つ。
 が、その小さな波は、咲夜の表情には表れなかったし、たとえ表れたとしても、そっぽを向いていた奏には見えなかった。
 「じゃあ、二日酔いの奏のために、発声練習は遠慮しとこっかな」
 うーん、と伸びをしながら咲夜が言うと、それまでそっぽを向いていた奏が、弾かれたようにこちらを向いた。
 「幸い、喉の調子も問題なさそーだし。じゃ、そろそろ仕事行く準備するから」
 「え…っ、お、おい、咲夜、」
 焦ったように呼び止める奏に、軽く首を傾げて応える。
 「なに?」
 「…いや、別に、用がある訳じゃないけど…」
 そう言いつつも、奏は何か言いたげな、けれど何を言うべきかわからず困惑しているような、実に複雑な目をしていた。「けど」の続きを言いたいのに、出てこない―――そんな顔をしている奏に、咲夜は微かに笑ってみせた。
 「ごめん。私もゆっくり話したいんだけどさ、今日は、奏と同じ時間までノンビリしてられないんだ」
 「そ、そっか」
 「じゃ、ね」
 咲夜がヒラヒラと手を振ってみせると、奏も少し安堵したように笑みを返した。奏が片手を挙げてみせるのを確認してから、咲夜は部屋に引っ込み、窓を閉めた。

 ―――なるほど。
 ホントに、何かあった、ってことか。

 窓を閉めたままのポーズで、暫し、波立った心が静まるのを待つ。
 奏のリアクションを総合すると、出てくる答えは、“Nothing”と言う程度のことしかなかったけれど「役得だったね」と軽く流せないレベルのことはあった、ということ―――それを具体的に想像するのは、趣味が悪いし愉快なことでもないので、やめておいた。
 ある程度、覚悟はしていたが……黙って成り行きを見守るしかない、というのも、なかなかにキツイ。
 窓に額をつけた咲夜は、はぁ、と、無意識のうちに詰めていた息を吐いた。


***


 ―――天井が、グルグル回ってる……。
 目が覚めて暫くしても、リカは全く動くことができなかった。
 カーテン越しに感じる外の光の具合からすると、時刻はもう昼近い―――いや、下手をすると昼を過ぎている。いくら飲みすぎたとはいえ、アルコールはほぼ抜けきっている筈だ。なのに、今のリカには、指先を動かすことすら至難の業だった。
 ―――…あたし、昨日、どうしたんだっけ…。
 回らない頭で、少しずつ、記憶を辿る。
 “Studio K.K.”に行って、奏に会って……思惑通り、2人で飲みに行くことになって。
 カクテル1杯だけ、なんて、勿論口から出まかせだった。その程度で帰る気なんて微塵もなかった。家を出た時から、奏に会ったらあれを訊こう、これを話そう、と、色々なことが頭を巡っていたから―――そしてそれは、到底、カクテル1杯じゃ終わらない量だったから。だから、多分……結構、飲んでしまったのだろう。でも、何杯飲んだか、リカは全く覚えていなかった。
 色々考えていた割に、大したことは聞けなかったし、大した話もできなかった気がする。
 …いや…最初から、話なんてどうでも良かったような気もする。
 とにかく、大した話もしないうちに、いつになくペースが上がってしまい―――払う、と言った勘定も払わず、まともに歩けない状態で奏に支えられながら店を出て―――…。
 「…なんだ」
 晴紀だ。
 昨夜の記憶の最後に残っているのは、奏ではなく、晴紀だった。電話で晴紀に迎えに来てもらって、家まで送り届けてもらったのだ。なんだ、つまんない―――がっかりしかけた時、ふいに、その少し前の記憶が、いきなり鮮明に蘇ってきた。

 『次から、用事あったら、まず店に電話しろよ? まあ、土曜の仕事が終われば、もう用事も起きようがないだろうけどさ』

 「……!」
 あれほど動かなかった指先が、ビクリ、と動いた。
 ガバッ、と跳ね起きたリカは、両手で口を覆い、ただでさえ大きな目を更に見開いた。
 ―――…あ…、あたし…っ…。
 あれは夢だった、と思おうとした。…が、無理だった。
 奏に告げられた言葉と、その言葉に感じた寂しさと苛立ちは、リカの脳裏にはっきりと残っている。だから―――その寂しさと苛立ちをぶつけた「あの行動」も、リカにとっては、鮮やかすぎるほどに、現実だ。
 奏に、自分の方から、キスをした―――その事実を認めた途端、顔がカーッと一気に熱くなった。

 …どうしよう。
 どうしよう、そんなつもり、全然なかったのに。
 「……そんなんじゃ……」
 …絶対に…ない、のに。

 「―――…」
 暫し、リカは両手で頬を押さえ、じっと動かずにいた。
 1分が経ち、2分が経った。そして3分経とうかというところで、リカは大きく息を吐き出し、ベッドを抜け出した。喉が、渇いた―――その本能だけに従って、ネグリジェ姿のまま、キッチンに向かった。

 当然といえば当然だが、家の中には誰もいなかった。
 誰もいないのは、リカが寝過ごしてしまったせいではない。昨日から誰もいない―――家人の不在を、リカは、数日前から知らされていた。
 昨日、家に誰かいたのなら、“Studio K.K.”に自ら足を運んだりはしなかった。週末の撮影の時にでも、大々的に恩着せがましく返していただろう。そして、最後の撮影なのだし、他のスタッフたちの目もあるのだから、カクテル1杯どころでは済まない「お礼」を奏に迫っていた筈だ。
 もし、昨日でなければ。
 もし、誰か家にいてくれれば。
 1年にたった1度しかない、誕生日―――その日を、この家で、ひとりぼっちで過ごすことに、耐えられなかった。…ただ、それだけのことだったのだ。本当は。

 冷蔵庫からアップルジュースのパックを取り出し、グラスに注ぐ。半分ほどでやめておき、それを一気に飲み干した。
 再びパックを戻した冷蔵庫の中には、食べ物らしい食べ物がほとんど入っていない。この家では、食事と言ったら朝食くらいのもので、昼食や夕食をここで食べる者など誰もいない。全員外食だ。いつ見ても閑散とした冷蔵庫―――いっそコンセントを抜いちゃった方がいいんじゃないの、などと考えて、リカは皮肉っぽい笑みを微かに浮かべた。
 それでも―――両親がリカの誕生日を忘れた訳ではないこと位、リカにも、一応はわかっていた。
 昨日の朝、身支度に忙しい母がリカに渡したのは、封筒にすら入っていない1万円札3枚だった。誕生日プレゼントは、現金3万円―――多分、世間的に見たら、そこそこ高額なプレゼントだろう。リカも素直に、ありがとう、とお礼を言った。
 …けれど―――…。

 「……っ…」
 目の前が、霞む。
 冷蔵庫の扉に手をついたまま、リカは、その場に崩れ落ちた。


 寂しい。
 寂しい、寂しい、寂しい。
 いて欲しいのに、傍にいて欲しいのに、傍にいて欲しい人ほど、傍にいない。
 褒めそやされ、まるで女王様のように扱われ……大勢の人達に囲まれていても、リカが本当に求めている人は、そこに1人もいない。
 欲しいものは、いつだって望めば買い与えられてきた。お金で買うことのできるものなら、手に入らなくて困ったことなど一度もなかった。でも、一番欲しいものは、いつだってお金で買えないものばかり。お金で買えないものを手に入れるには、どうすればいいのか―――わからない。誰も教えてくれなかった。こんな時、どうすればいいのか。

 教えてくれたのは―――こちらを見てくれたのは、奏、だけだ。


 大きく息を吐き出し、いつの間にか溢れ出していた涙を、手の甲で拭う。
 「…バカみたい…」
 今、考えるべきことは、この家のことなんかじゃない。昨日の失態を、どう繕うか―――そっちの方が、今は重要だ。立ち上がったリカは、グラスをテーブルに置き、自分の部屋へと向かった。

 トールにしろ、晴紀にしろ、リカの奏に対する行動の数々を「恋愛」と結び付けている。だが、少なくともリカ自身は、そうは思っていなかった。
 もしかしたら、元からあった満たされない思いを、唯一、自分をちゃんと見てくれている奏で満たそうとしているのかもしれないが……リカの欲求は、もっと会いたい、会って話がしたい、という、極めて単純なものだ。抱きしめられたいとか、キスして欲しいとか、そんな風に思ったことは一度もなかった。
 だから、昨日のあのキスも、そういう意味じゃ―――「恋愛」のキスじゃ、なかった。

 ただ、壊してやりたい、という衝動が、抑えられなかっただけで。
 バラバラにしたい、めちゃくちゃにしたい―――信じ、信じられ、愛し、愛され、傍にいて欲しい人に、傍にいてもらえる幸せを。今、リカを苛んでいるこの苦しみとは無縁な、眩しすぎる、穏やかすぎる世界を。
 トールに心を奪われて、咲夜が奏にどんどん関心を払わなくなればいい。あのキスに動揺して、奏がもっとリカのことを気にするようになればいい。
 あの2人を引き裂くことができたら、奏は、リカと同じひとりぼっちになる。そうすれば―――もっともっと、奏と会うことができる。話すことができる。奏と時間を共有することで、今感じている孤独を満たすことができる。
 傷つけたいとか、憎いとか、そんなんじゃない。愛してるとか、愛されたいとか、そんなのでもない。
 奏に会いたい、奏を独占したい―――その欲求を阻むものを、壊してやりたい。それだけだ。

 ―――…でも…。
 部屋に戻り、ベッドの縁に腰を下ろしたリカは、複雑な気分で、自らの唇に触れた。
 奏を動揺させたくてしたにすぎない、あのキス―――いくら「恋愛じゃない」とリカが言い張っても、その行為は、普通、恋愛感情を伴ってすることだ。
 それに、リカももう、友達が持っているおもちゃを欲しがって駄々を捏ねるような年齢ではない。時々、その衝動にブレーキが効かなくなる時もあるが、日頃は、奏と咲夜の仲を邪魔しないよう自制している。そういう「まともな頭」の時のリカからすれば、昨日のあれは、酒の力を借りていたとはいえ、明らかにやりすぎだ。
 そして、もう1つ、気づいたこと。
 ―――あたし…昨日の飲み代、もしかして、1円も払ってないんじゃない? 何杯飲んだか覚えてないけど…最低でも3杯、ううん、もしかしたらその倍近く…。
 取り巻き連中には平気でおごらせるし、マネージャーのことは顎で使うリカだが、それは、彼らがリカの上っ面ばかり見ているから、リカもそれ相応の扱いしかしないに過ぎない。そうではない、真剣にリカと向き合ってくれている人に対する礼儀は、リカだってそれなりに持ち合わせている。そして、リカなりの価値基準からすると、奏に、かなりの額の飲食代を一方的に負担させ、挙句にベロベロに酔っ払って迷惑をかけまくる行為は、明らかに「無礼」だ。
 奏に、嫌われたかもしれない―――その想像は、どんな想像より、リカの心臓を締め付けた。
 「…どうしよう…」
 途方に暮れたように呟いたリカは、暫し考えた末、傍に置いてあった携帯電話を手に取った。
 リダイヤルを押すと、記憶通り、晴紀の名前が表示された。そのまま発信すると、この時間帯にしては運良く、晴紀の携帯電話は留守番電話にならず、そのまま繋がった。
 3コールしたところで、晴紀が電話に出た。
 『はい』
 「晴紀? リカだけど」
 『ああ、なに?』
 「あのね、ちょっと頼みたいことがあるの」
 挨拶もそこそこにリカが本題を切り出すと、晴紀は何故か、意味不明なことを返してきた。
 『何、例の女のこと?』
 「おんな?」
 リカの目が、キョトン、と丸くなる。
 「何? 例の女って」
 『なんだよ、昨日話しただろ、俺も参戦してやろうか、って』
 「……何のこと?」
 『―――ははぁ…、覚えてないか。なら、いいや。で、何?』
 ちょっと笑いを含んだ声で、晴紀はそう言って、リカにはわからない女の話を横に置いてしまった。なんだか気になったが、とりあえずリカも、その話はスルーした。
 「あのね。今夜リカ、エリィと約束してるの。晴紀も知ってるでしょ」
 キャバクラに勤めている取り巻きの1人の名を出すと、晴紀は、すぐにその約束の内容を思い出してくれた。
 『ああ…、エリィを贔屓にしてる客がリカの大ファンで、リカも含めて何人かで飯食いに行く、って話だろ』
 「そう。でもね、実は今夜、他の予定が入っちゃって―――エリィだけならドタキャンでもいいけど、客も絡んでるから、まずいでしょ。特に、アパレル関係の会社の人だって言うし…。だから晴紀、彼女と一緒に出てくれない?」
 晴紀の彼女は、駆け出しのグラビアアイドルで、リカとは全く違うタイプだが、肉感的で妖艶な美人だ。リカのファンだという客も彼女が来るならある程度満足してくれる筈だし、気に入ればCM起用などの可能性もあるのだから、晴紀の彼女にとっても悪くない話だろう。
 『ふぅん、アパレルか…。悪くないな。わかった。俺はちょっと行けないけど、あいつは行かせるよ。エリィと面識あるから、1人でも大丈夫だろ』
 「ほんと? 良かった。じゃ、お願い」
 『じゃ、後はエリィに連絡して、こっちでやっとくから。またな』
 急いでいるのか、晴紀はそう言って、早々に電話を切ってしまった。慌しいな、と、携帯電話を軽く睨んでしまったリカだが、大体晴紀という人間はいつもこんな感じなので、あまり気にも留めなかった。
 いや、それより何より、今は、ほかのことで頭がいっぱいだった。

 昨日使っていたバッグを引き寄せ、中から財布を取り出す。奏に支払わせたであろう金額を返すには十分な現金が入っているのを確認したリカは、ホッと息をつき、時計を見た。
 まだ、昼過ぎ―――奏は現在、仕事中の筈。でも、事前に電話をしろ、と言われた以上、店にアポなしで押しかけるのは、NGだ。
 かといって、リカは、口紅を自ら持ち去り「届けてあげるわよ」という口実を作らないと、奏に会いに行くことすらできない人間だ。「会っていい?」という態度を取って「駄目」と言われるのを、常に恐れているが故の、行動パターン―――そういうリカに、電話口で断られる可能性大のこの状況で、電話などできる筈もなかった。
 「…夜、自宅に行くしかない、よね」
 誰もいないのに、まるで誰かに確認を求めるみたいに、呟く。
 うん、それしかない。リカは、見えない誰かから許可をもらったような気になって、ホッと息をついた。
 そうしないと、申し訳ない、という気持ちの裏にある、醜い本音を誤魔化せなかった。
 お金を返すことを口実に、また、奏に会いに行ける―――そう思って喜んでいる自分を、リカは、はっきりと感じていたのだ。


***


 拍手を受け、笑顔で頭を下げる。
 再び顔を上げた時、咲夜の目の前に、1枚の紙がそっと差し出された。
 「……」
 客に配られる、リクエストカード。その紙を差し出しているのは―――何故か、トールだった。
 ―――あんたはカウンターが定位置でしょうが。
 ぴっ、と紙をトールの手から受け取りながら、客には気取られないよう、軽くトールを睨む。が、トールの方は、その程度ではびくともしない。にっこりと営業スマイルを返すと、何事もなかったかのように、カウンターの方へと引き上げて行った。
 全く、いつの間に、あんな役目までやるようになったのだろう―――少々呆れながら、受け取ったリクエストカードを表に返した咲夜は、そこに書かれているのが曲名ではないことにすぐ気づき、眉をひそめた。
 「―――…」
 「咲夜」
 左斜め後ろから、ヨッシーが声をかける。右斜め後ろからは、一成の視線も感じた。
 多分、とんでもないリクエストを貰って、咲夜が困惑していると思ったのだろう。2人の方をそれぞれに振り返った咲夜は、軽く笑みを浮かべ、「予定通りで」と小声で返した。
 床を軽く蹴り、ヨッシーがカウントを取る。そして流れてきたのは、ここ最近のステージではラスト・ナンバーとしてほぼ定着してきた感のある、いつもの曲―――ビートルズの『Let It Be』だった。リクエストカードを素早く折りたたみ、それをジーンズのバックポケットに押し込んだ咲夜は、今書いてあった内容を一旦忘れ、歌の世界に没頭することにした。


 リカとトールが、どうやら裏で繋がっているらしいことを察してから、ちょうど10日になる。
 トールの猛アタックは相変わらずだが、一時期のようなしつこさは幾分なりを潜めている。その代わり、少々、路線変更をしてきた。
 ライブ終了後、トールは毎回、先日咲夜が買ったのと同じウーロン茶を片手に控え室にやって来て、咲夜にそれを差し入れる。ついでに、勝手に隣に座り、ヨッシーと一成が思い切り引くほどの色気攻撃で、咲夜をデートに誘ったり口説いたりする。どうやら、無邪気な弟キャラでは落ちない、と踏んだらしい。
 さすが元ホスト。色気路線もなかなか上手い。が、咲夜はいたってクールだ。当たり前だ。その裏にあるものが、ある程度想像がついているのだから。
 いっそ、リカの名を出して、ゲームオーバーにしてしまおうか、とも思った。が……やめた。迷惑といっても、1日おきの、僅か10分ちょっとの話だ。今週末、つまり、あと4日で、奏はリカと一旦縁が切れる。それまでは、この程度の迷惑で済んでいるなら、下手に動かない方が無難だと咲夜は踏んだ。
 なのに。


 『咲夜さんにだけ、話したいことあるんだ。
  すごく大事な話だし、他の人に聞かれたくないから、ほんとは店の外で話したいんだけど…無理だよね。
  だから、今日、ライブ終わったら、カウンターに飲みに来てくれない?
  そんなに時間取らせないから、必ず来て』

 ―――…ふーん…、向こうから動いてきたか。

 「リクエストじゃなかったのか? それ」
 突然、頭上から降ってきた声に、文面を見つめていた咲夜は、ハッとして顔を上げた。
 見れば、タオルを首に掛けた一成が、表情を読もうとするかのような目つきで、じっと咲夜を見ていた。やはり、これを受け取った時の態度で、何らかの異常を感じていたのだろう。文面を見たがっているのはわかったが、咲夜はそれに気づかないフリをして、再び手にしていた紙を折りたたんだ。
 「うん。トール君の新兵器」
 「新兵器?」
 「口で言ってもなかなか落ちないから、ラブレターでチャレンジしたんじゃない?」
 「…リクエストカードを、何に使ってるんだよ、あいつは」
 一成の顔が、一気に呆れ顔になる。全くだ、と咲夜も苦笑を返した。
 「しかし、咲夜も、トールのあしらい方が上手くなった、というか、随分余裕かますようになってきたな。一時期、あんなにピリピリして、ノイローゼになりかけてたのに」
 早くも帰り支度をほぼ終えたヨッシーが、そう言ってからかうように笑う。
 確かに、ここ最近の咲夜は、トールが何を言ってきても、常に涼しい表情で、余裕を持ってあしらっている。が…、その余裕が、実はトールとリカの繋がりを察したことから生まれたことなど、ヨッシーも一成も全く知らない。理由を訊かれたこともないし、もし訊かれても話すつもりなどなかった。
 「まあ…相手もそろそろ苦しくなってきてるっぽいから、ゲームオーバーも時間の問題じゃない?」
 「だといいんだがなぁ。あのむず痒くなるような色気100パーセントオーバーの目つきを毎回見せられるのも、いい加減厳しいぞ」
 「…ま、なるべく早く、撃退するから」
 多分、来週には、と心の中でだけ付け足しておいた。
 頼むぞ、と苦笑混じりに言ったヨッシーは、じゃあお先に、と急いで帰って行った。昨夜熱を出したという子供のことが心配でしょうがないのだろう。それでも演奏に乱れがなかったあたり、さすがはプロだ。
 ヨッシーを見送った一成も、再び帰り支度を始めた。咲夜も、ステージ用の若干濃い色合いの口紅を落とし、普段使いのものに塗り直す。「直接塗るなー!」という奏の厳しいチェックのもと、紅筆で塗るのにも、大分慣れてきた。
 ―――さて…、どうするかな。
 靴を履き替え、いよいよ帰り支度終了となった咲夜は、ロッカーの扉に手をかけたまま、暫し迷った。
 大切な話がある―――文面にあったこの言葉を、咲夜は、ほとんど信用してはいない。そしてトールも、こんな言葉を咲夜が信じるとは思っていないだろう。重要なのは、いつもとは違い、リクエストカードを使ってきたこと―――何かある、と咲夜に思わせることこそがトールの狙いだろう。
 さて。こうなると、可能性は2つ。
 そう思わせるだけが狙いで、本当は何もないか。それとも……実際に、何か、あるか。どちらが正解かは、行ってみないことには、わからない。
 ―――こうなったら、一か八か…。
 唇を引き結んだ咲夜は、バッグの中から携帯電話を取り出し、それをジーンズのポケットに押し込んだ。バタン、とロッカーの扉を閉めると、咲夜は、何食わぬ顔で一成を振り返った。
 「一成。私、トール君とこ行ってくるから」
 「え?」
 あとは帰るばかり、といった状態で咲夜の支度が終わるのを待っていた一成は、思わぬ咲夜のセリフに目を丸くした。
 「ちょっと、話したいことあるからさ」
 「…なら、俺も一緒に行くよ」
 相手がトールなので、警戒しているのだろう。当然だ。でも、最悪、リカや奏の話が出てこないとも限らない。一成に来てもらっては困る。
 「ごめん、ナイショの話だから」
 「……」
 「10分か15分で済むと思うよ。どうする? 先帰る?」
 ナイショの話、というのが少々引っかかるのか、一成は、眉間にしわを寄せて、難しい顔をした。が、ごり押しもまずいと判断したらしく、すぐにいつもの表情に戻り、手近にあったスチール椅子に腰を下ろした。
 「―――いや。ちょうど読みたい本もあるから、暫くここで時間潰す」
 ほぼ、予想通りの一成の返答に、ほっと息をつく。まあ、トールはここの従業員で、周りには他の従業員や客の目がある。何が起きる筈もないが―――万が一にも何か起きたとしても、咲夜がなかなか戻らなければ、一成が気にして様子を見に来る筈だ。
 「ありがと。じゃ、なるべく早く戻るね」
 努めて平然とした風を装いつつ、一成にそう言った咲夜は、控え室を後にした。

***

 「…何、このカウンターの閑散ぶり」
 トールが働くようになってから、常に女性客が1人か2人は座っていた筈のカウンター席は、今日に限って誰も座っていなかった。
 勿論、それ以外の席には、平日のこの時間帯にこれだけ入ってるなら十分合格点だな、という程度に埋まっている。でも、カウンター席にも1人位はいるだろう、と踏んでいた咲夜からすれば、これは少々計算外だ。
 何かやったんじゃないの、という目で咲夜が見ると、トールは悪びれた風もなく、シェイカーを振りながら首を傾げてみせた。
 「うーん、どうしたんだろうね、今日は」
 「…おおよそ、予約席の札の不正使用でもしたんじゃないの」
 「あ、鋭いね」
 ―――まんまですか。
 他の連中には内緒ね、と、口の前に指を立ててみせるトールに、しょっぱなから大いに脱力させられる。はあぁ、とため息をついた咲夜は、仕方なくカウンターの端っこの席に腰かけた。
 「いくら若い女性客が増えたところでさ。そーゆー真似してると、そのうちクビになるよ?」
 「ご心配なく。おれ、女の客の件抜かしても、けっこー優秀なスタッフなのよ。ねー、ヨシモトさん? おれって使えるでしょ?」
 ちょうどオーダーを取って戻ってきたばかりのフロアスタッフに、トールが無邪気そうに声をかける。咲夜よりちょっと年上、という位の年代の彼は、トールのそのセリフに、ははは、と陽気に笑った。
 「まあ、なあ。女癖悪そうだけど、トールが作るオリジナルカクテルは、結構いけるからな。うちのメニューにも1つ加わったし。…あ、トール、シンガポールスリング1つ」
 「え、ほんとに?」
 店のメニューなんて全然見ない咲夜には、全くの初耳だ。思わず目の前のドリンクメニューを手に取ると、カクテルの欄のオリジナルの項目の一番下に、別紙を貼る形で、1行追加されていた。
 「…マンハッタン・ナイチンゲール…」
 「そ。おかげさまで、正式採用となりました」
 シェイカーの中身をカクテルグラスに移しつつ、トールは得意げに、にっこりと笑った。
 ということは、真相はどうあれ、一応「咲夜をイメージして」と称して作られたカクテルが、こうしてメニューとして追加されてしまった訳だ。勘弁して―――メニューを放り出した咲夜は、本気でカウンターに突っ伏してしまいそうになった。
 「それにさ。リザーブ席の札だって、半分は咲夜さんの言う通り不正使用っぽいけど、もう半分はあながち嘘でもないし」
 「え?」
 「ま、とりあえず、これどうぞ」
 そう言ってトールがカウンターの上に置いたのは、今作り終えたばかりのカクテルだった。例のカクテルとはまた別の、ピンク色をした可愛らしい系統のカクテルだ。
 「何、これ」
 「また新作。まだ名前決めてないけど。マンハッタン・ナイチンゲールがメニュー入りしたお祝いに、最初に咲夜さんに飲ませてあげる」
 「…あげる、って、恩着せがましく言われても、ねぇ…」
 「とりあえず、飲んでみてよ」
 そんなことより本題はどうなったんだ、と思った咲夜だが、肝心のトールはオーダーされたシンガポールスリングを作り始めてしまった。店の仕事の邪魔をする訳にもいかないので、諦めて、大人しくカクテルグラスを口に運んだ。
 「―――…」
 「どう?」
 トールに感想を訊かれた咲夜は、僅かに眉をひそめ、微妙な表情をした。
 「悪くないけど……なんか、変な苦味あるね、これ」
 「苦味、かぁ。ちょっとトニックソーダがきつかったかな」
 グラスの中身をマドラーでカラカラとかき混ぜながら、トールはそう言って、うーん、と唸った。でもまあ、飲めない味ではない。咲夜はグラスに再び口をつけた。
 慣れた手つきでシンガポールスリングをあっという間に作り上げたトールは、それを先ほどのスタッフに渡し、ほっと息をついた。この時間帯は、そこそこオーダーも落ち着いているらしい。話を聞くなら今だな、と考えた咲夜は、グラスを置き、少し気を引き締めた。
 「それで? 話って、何」
 「ああ、うん」
 トールの目が、一瞬、落ち着きをなくす。気まずそうなその目を見て、話なんて何もないってオチかな、という推測に一旦傾きかけたのだが。
 「実は―――話、っていうより、会って欲しい奴がいるんだよね」
 「え?」
 「今さっき、言っただろ? リザーブ席は、半分は嘘だけど、半分は本当だ、って。実は今夜、友達が来る約束になってるんだ」
 「……」
 “友達”―――咲夜の表情が、僅かに緊張した。
 「会って欲しい、って、なんで?」
 「うん、まあ、理由はいろいろあるんだけど」
 じっ、と見据える咲夜の視線を避けるかのように、トールは落ち着かない様子で、目を逸らした。
 「一番は多分、おれが咲夜さんの話したから、かな? ほら、おれって、年上相手には今までほぼ勝率10割だっただろ? そいつもそれ、よく知っててさ。1ヶ月かけても落ちない女ってどんな奴だよ、って興味津々で…」
 「…それが“人には聞かれたくない大事な話”?」
 「いや、そうじゃなくて―――実は、さ。続きがあるんだよ」
 「続き?」
 「そいつが、言うんだよ。おれで落ちないんなら、自分が口説いてみせる、って」
 「……は?」
 咲夜の目が、キョトン、と見開かれる。
 トールの言う“友達”を、てっきりリカのことかと―――とうとう対峙させられるってことか、と半分覚悟していた咲夜だったが、リカが咲夜を口説く図、というのは、どう考えても倒錯の世界だ。
 「実はおれ、そいつに金借りてるんだ。で…、今日会って、もし咲夜さんが落ちたら、おれの負け。約束通り借金返しておしまい。でも―――もし咲夜さんをそいつも落とせなかったら、借金チャラにしてやってもいいぞ、って」
 「はぁっ!?」
 さすがに、声が少々大きくなってしまった。焦った様子で、しーっ、と指を立てるトールに、咲夜も慌てて口を閉じ、ボリュームを最大限絞った。
 「な…何、それっ。なんでトール君の借金の行方が私に委ねられちゃう訳?」
 「ご、ごめん。おれ、そいつにマジ頭が上がんないのよ。色々面倒みてもらったことあるし…。な? 他人に聞かれたくないって書いた意味、わかっただろ?」
 わかった、けど―――なんだかなぁ、と、咲夜は疲れたようにため息をついた。
 「あと10分かそこらで来ることになってるからさ。借金の話は本気か冗談かわかんないけど―――頼む、ちょっとだけ、協力してよ」
 「…でもなぁ…」
 「1杯付き合ってくれたら、それでいいよ。どうせあいつも、単に“珍しい女”に会いたいだけだろうと思うし」

 ―――そうだろうか。
 薄っぺらい笑顔を貼り付かせて両手を合わせてみせているトールを、チラリと流し見る。
 咲夜は、トールの話を、何故かほとんど信用できなかった。
 何故、そう感じるのか、その理由はよくわからないが―――トールが咲夜に言い寄ってきた時と同じ違和感を、トールの今の話にも感じた。本当の目的は全く別のところにあって、その目的を隠すために、軽薄な連中“らしい”理由を口にしている……そんな気がしてならない。
 リカと繋がっているらしい、トール。他の仲間の存在らしきものも、この前の電話からは感じ取れる。となると、恐らくは…リカが話していた「熱狂的ファン」や「取り巻き」の中の1人、と考えてもいいだろう。ならば、今から来るという男も、その中の1人という可能性はある。
 …だとしたら。
 奏と咲夜の関係を面白く思っていないリカのために、トールやその男が動いているのだとしたら―――トールでも落ちない“珍しい女”の顔を拝みに来る、という偽りの目的の裏に隠れた、本当の目的は、なんだろう?
 アホらしい、と、この席を蹴ってしまった場合、どうなる?
 そして、このまま、大人しくこの席に座っていた場合は、一体、何を―――…。

 ―――っていうか、あれから何分経った?
 ふと、控え室で待っている筈の一成のことが気になった。カクテルを更に一口飲んだ咲夜は、グラスを置き、腕時計を確認した。
 と、その刹那。

 「…………っ…!」

 時計の文字盤が、歪む。
 ぐらっ、と、頭の芯が揺らぐ。まるで、目の奥に何かが入り込んで、頭の中をかき混ぜようとしてるみたいな、強烈な眩暈―――時計から外れた咲夜の視線は、どちらに向けていいかわからず、カウンターテーブルの上を意味もなく滑った。
 がたん、と、咲夜が座っている椅子が音を立てた。
 「咲夜さん?」
 少し驚いたような、トールの声。すぐ目の前にいる筈なのに、その声は、なんだかエコーがかかっているように聞こえた。
 何、これ―――ぐらり、と傾ぐ自分の頭の重さに耐え切れず、咲夜の体は斜めに倒れかけた。
 「え…っ、ちょっ、さ、咲夜さんっ?」
 「……っつ…う…」
 ―――う…うるさ、い。
 トールの一声が、わんわんと、耳の中に反響する。斜めに傾ぐ自分の体を支えるべく、咄嗟にカウンターに肘をついた。ガツン、と、かなりの勢いで肘をついた筈だが、その痛みなど全く感じなかった。

 心臓が、どくん、どくん、騒いでる。
 目の前が、ぐるぐる、回る。
 店内に流れるBGMは、皮肉なことに、咲夜も大好きな『My Favorite Things』―――ジョン・コルトレーンの奏でるサックスの調べが、二重三重になって、耳の中を駆け巡る。まるで……まるで、トンネルか何かの中で、ジョンの演奏を聴いてるみたいだ。
 ―――トンネルの中で演奏…? ハハ、あり得ない。
 なんだか、可笑しい。可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
 なんでもないことが、妙に、可笑しい。可笑しくて笑いたいのに、全然笑えない。笑うための神経までもが、何かの毒で麻痺してしまったみたいだ。

 何が、起こったのか。
 今、自分の身に、何が起きているのか。
 思考が、空回りする。空回りを止めようと必死にカウンターにすがる。カウンターの縁を、咲夜の手がぎゅっ、と握る。随分と苦労してここまで来た気がしたが、実際には、咲夜が最初の眩暈を覚えてからカウンターの縁を握るまで、10秒もかかっていなかった。

 「うわ、咲夜さんっ!?」
 トールの手が、咲夜の頭を支えようとするみたいに、慌てた様子で伸びる。
 いらない、とでもいうように、トールの手を拒もうとした咲夜は、緩慢な動きで、腕で辛うじて支えていた頭を、気力で持ち上げた。トールの方に目を向けたが、トールの慌てふためいた顔だけはなんとか認識できたが、その背後にあるグラスやリキュールのボトルは、周囲の風景の中に完全に溶けてしまい、咲夜の目には全く映らなかった。
 「ど、どうしたんだよ、おい!?」
 「……バ…ッ、カ、知る訳…」
 咲夜が、知る訳がない。知る訳もないのに咲夜に訊いているトールが、可笑しかった。だが、やっぱりまだ笑えない。襲ってくる眩暈に、咲夜の視線は、またトール以外のあらぬ方向へと向いてしまった。
 「ちょ…ちょっと、待てよ。マジかよ。あの程度で、こんな」
 「……」
 「そ、そうだ、ハルキに電話―――…」
 「…………」
 ―――“あの…程度で、こんな…”?
 混乱した頭の中でも、トールのその言葉だけが、やたらはっきりと咲夜の脳に届いた。
 空回りばかり続けていた頭が、ようやく、ほんの少しだけまともに働く。体が意のままにならない咲夜は、目だけを動かし、カウンターの上に置かれたグラスに目をやった。

 あの、独特の苦味のある、トールが作ったカクテル。
 そこで、初めて、思い至った。睡眠薬か、ドラッグか―――何かを、あのカクテルに混ぜられたのかもしれない、という可能性に。

 「…ったく、何やってんだよ、あいつっ…」
 苛立ったような、トールの声。
 視線をトールに向けると、携帯電話を耳に当てていたトールが、舌打ちをして携帯を切っているところだった。どうやら誰かに連絡を取ろうとして、それが上手くいかなかったらしい。
 ―――や…ばい…。
 時間がない―――唇をきつく引き結んだ咲夜は、カウンター下でだらんと下げられたままだった右手を、必死の思いで動かした。
 …動け。
 動け、早く。
 ジーンズの縫い目を辿るように、右手がもどかしい速度で動く。じりじりと動いた右手は、やがて、ジーンズのポケットへと辿り着いた。

 「咲夜さん」
 いつの間にかカウンターから出て来たトールが、腰を落として、咲夜の顔を覗き込んだ。
 「大丈夫?」
 「…こ…れが、大丈夫、に、見……」
 「…見えない、よな」
 参ったな、とまた舌打ちしたトールは、暫し考えた末、立ち上がった。
 軽く辺りの様子を窺い、まだ誰も不審がっていないと判断すると、まだ半ばカウンターに突っ伏したままの咲夜の背中に手を回す。
 「あ、あの…、と、とりあえず、外、出ようか? ほら、客に変に思われるとまずいし」
 「……」
 「そろそろ、約束した友達も来るしさ。そしたら、」

 …コトン。

 トールの言葉は、カウンターを何かが叩く音で、途切れた。
 それは、咲夜が気力を振り絞って、カウンターの上に何かを置いた音だった。頭をもたげた咲夜は、はぁ、と息をつき、ゆっくりとカウンターの上の手をどけた。
 カウンターの上に、ぽつん、と取り残されたのは、開いた携帯電話だった。
 『おい、咲夜? どうした?』
 通話中の状態になっている携帯から、微かに一成の声が聞こえる。
 その声を聞きながら、ぽかん、とトールが携帯を見下ろしていると、携帯からバン、とドアを開けるような音がした。
 弾かれたように、トールが「STAFF ONLY」と書かれたドアの方を見る。すると、それとほぼ同時にドアが開き、携帯電話を片手にした一成が現れた。
 「―――…ゲーム、セット」
 呆気に取られているトールの横顔に、咲夜はやっとの思いでそう呟き、ニッ、と笑った。


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