←BACKHome. TOPNEXT→




― Rush! -side M- ―

 

 机の上に放り出してあった携帯電話が、何の面白みもない着信音を奏でた。
 文庫本の文面に目を落としていた一成は、反射的に顔を上げ、ストラップを掴んで携帯電話を引き寄せた。
 誰からだろう、と少し眉をひそめ、携帯を開く。すると、液晶画面には咲夜の名前が表示されていた。
 「……?」
 咲夜なら、ここから徒歩20秒のところにいる筈だ。何故、電話なんて―――用があるなら、直接言いに来た方が早いのではないだろうか。不審に思いつつも、一成は本を置き、電話に出た。
 「もしもし」
 『……』
 返事が、ない。
 耳に当てた携帯電話からは、他の雑音に紛れてしまって非常にわかり難いが、微かに『My Favorite Things』らしき音楽が聞こえてきていた。ということは、多分、店内からかけているのだろう。一体どういうことなんだ、と、一成はますます不審げな顔をした。
 「咲夜?」
 もう一度、声をかけてみる。すると、僅かにだが、トールらしき不明瞭な声が、雑音に混じって聞こえてきた。
 何を言ってるのか、全然わからない。それを聞き取ろうと耳を澄ましていると、コン、という大きな音が耳元でした。衝撃を感じるほどの音に、思わず顔を歪め、携帯を耳から離してしまった。
 ―――おかしい。
 どう考えても、おかしい。
 「おい、咲夜? どうした?」
 再び携帯を耳に当て、これまでより切迫した声で訊ねる。が、やはり返事はなかった。
 「……っ!」
 弾かれたように立ち上がった一成は、控え室を飛び出し、店内へと続くドアを勢いよく開けた。
 カウンター席に目をやると、この距離からでもぐったりしているのがわかる咲夜と、驚いた様子でこちらに目を向けているトールがいた。一成がよほど怖い顔をしていたせいか、一成が1歩踏み出すと同時に、もともと青褪めていた顔を余計青褪めさせつつ、1歩後退(あとずさ)った。
 「咲夜」
 急ぎ、2人のもとに駆け寄った一成は、カウンターに置いた腕に半分頭をくっつけてしまっている咲夜の顔を覗き込んだ。
 咲夜の顔色は、さほど普段と変わらない。が、だるそうな表情と視点の定まらない目を見て、これはただごとではないな、と瞬時に察した。当然ながら、一成の目は、何を訊いても答えなんて返ってきそうにない咲夜ではなく、背後でひたすらオロオロしているトールに向けられた。
 「お、おれだって何が何だかわからないんですって!」
 一成が何か言うより早く、トールは首を振り、そう小声で叫んだ。
 「わからない筈あるか! お前に話があるからって言ってたんだぞ、咲夜は」
 「本当ですってっ! ふ、普通に話しながら飲んでたら、いきなりこんな風に……おれも途方に暮れてたとこなんだよ」
 最後の方になるにつれて、弱々しく曖昧になるトールの言葉に、余計疑念が増す。更に問い詰めようと、一成が一歩踏み出した時、咲夜の手が一成のシャツの端を掴んだ。
 「…だ…いじょうぶ、だから、」
 「え?」
 「ちょっと、」
 グラグラと不安定な頭をもたげた咲夜は、うつろな笑みを一成に向けた。
 「ちょっと、アルコール、キツすぎた、っぽいだけ、だから」
 「…いや、でも」
 咲夜が控え室を出てから、まだ15分かそこらだ。普段の咲夜のペースから見て、カウンターに乗っかっているグラスは、多分まだ1杯目のカクテルだろう。しかも、まだ半分近くが残っている。
 「つ、疲れてたか、かなー。トール、くん。やっぱ、このカクテル、失敗っぽいよ、ハハ…」
 やけに間延びした口調でそう言った咲夜は、カクテルグラスに手を伸ばした。が、手元もおぼつかないらしく、グラスは咲夜の手の中であっさり傾き、倒れてしまった。
 「わあぁっ!」
 「お、おい! 何やってんだよ!」
 こぼれたカクテルがカウンターの上に放置されていた咲夜の携帯電話に迫るのを見て、一成が慌ててそれを取り上げ、咲夜のジーンズのポケットに突っ込む。トールも、カウンターの端に置いてあったおしぼりを掴み、慌しくカウンターを拭き始めた。
 「あはは…、ごめんごめん」
 「…お前、いくら酔ってるからって、酒を服で拭くなよ」
 カクテルをかぶってしまった手を、自分のシャツの裾で拭う咲夜に、一成が呆れ声で呟く。別にいいじゃん、と緩慢な口調で返した咲夜は、一成のシャツを掴んだ手にぐっと力をこめて、立ち上がろうとした。
 「だ、大丈夫か、咲夜」
 「…だい、じょーぶ」
 なんとか立ち上がるが、すぐによろけて、一成にぶつかってしまう。慌てて抱きとめた一成のシャツを、咲夜は更にぐい、と引っ張った。
 「だいじょーぶ、だから。早く行こ」
 「でも、」
 歩くのは無理なのでは、と戸惑った一成だったが、おもむろに顔を上げた咲夜が、一瞬こちらに向けた目を見て、思わず息を呑んだ。
 1秒前の、完全に酔っ払った間延びした声とは対極にある、鋭くて、厳しい目。まるで、一瞬だけ正気に戻ったみたいなその目は―――つかの間忘れていた、咲夜からの電話を受けた時に感じたあの嫌な緊張感を、一成に思い出させた。
 だが、その目も、すぐにまた力を失くし、トロンと眠そうな目に変わった。
 「トールくん」
 カウンターの片付けに夢中になっていたトールは、一瞬事態を忘れたような顔で、咲夜を振り返った。
 「店、の、メーワクになるから、もうかえる」
 「え…っ」
 「い…一成に、送ってもらうから。ごめん、ともだちには、テキトーに言っといて」
 「あ、ああ、うん」
 友達、という単語に、トールは引きつった笑みを返し、一成は意味がよくわからず眉をひそめた。
 が、咲夜が「ほら」と促すように一成のシャツをまた引っ張ったので、咲夜を抱きかかえた一成は、客に不審に思われない程度に体裁を装いつつ、控え室へと向かった。


 控え室に着くなり、咲夜はいきなり、がくん、と床に膝をついた。
 「!! おい、咲夜!」
 「……いったぁ……」
 いかにも痛そうな声を上げた咲夜は、ロッカーの角に頭を預けるようにして、打ってしまった膝をのろのろとさすった。
 「今、水持ってくるから」
 何を飲んだか知らないが、少しでもアルコールを薄めなければ―――そう思って一成が言うと、咲夜は緩慢に、ぶんぶん、と首を振った。
 「い…、いい。ごめん、タクシー捕まえるから、一緒に来て」
 「それはいいけど、お前、まだその状態じゃ動けないだろ」
 「早く、」
 頭がグラグラするのか、頭を手で押さえる。
 「早く…帰りたい」
 「……」
 「…あ…あんまり長居すると、また、トール君が様子見に来たりして、面倒じゃん。大、丈夫。見た目ほど、頭はイカレてない、から」
 「…わかった」
 なんだか納得し難い部分もあるが、トールが様子を見に来て「おれが送る」などと言い出す事態は、一成も避けたい。言いたいこと、訊きたいことはまた日を改めることにした。
 一成が自分と咲夜の荷物を手早くまとめている間に、咲夜は、ロッカーに掴まりながら、ヨロヨロと立ち上がった。単なる感覚の問題じゃなく、実際に頭がグラグラと動いているため、傍から見ていても、今にも倒れそうに危なっかしい。タクシーに乗せるのはいいとして、あんな状態で果たしてちゃんと降りられるんだろうか―――と一成が心配した、その刹那。
 「…っふ…」
 「?」
 「…く…っ、くっくっ、あ、あはははは…」
 いきなり笑い出した咲夜に、ギョッとした一成は、思わずその場に固まってしまった。
 ロッカーに背中を預けた咲夜は、片手で頭を押さえ、俯いた状態のまま、実に楽しそうに笑っていた。酒に酔っても、さほど陽気になるタイプではない筈の咲夜なのに―――その異様さに、一成は、なかなか声が出てこなかった。
 「あ…あはははは、ご、ごめん。な、なんか、可笑しくて」
 「…は??」
 「わ、笑えるようになった分、ちょっと、気分マシかも…。ハハハハハ」
 「……」
 ―――傍目には、今の方がヤバいぞ。
 一体、どんなカクテルを飲んだら、こういう状態になるのやら―――酒以外の変な物でも飲まされたんじゃないのか、と心配になってくる。
 だが、一成のそんな心配をよそに、咲夜はフラフラと歩き出し、控え室のドアを開けた。
 「ほら、一成、帰ろ」
 酔っていても、咲夜は咲夜だ。こういう強引な態度に出る時は、何を言っても絶対に真相など話さないことを、一成はよく知っていた。諦めた一成は、2人分の荷物と共に、控え室を後にした。


***


 予定よりちょっと遅くなっちゃったな、と、改札を抜けた蓮は、腕時計を見てため息をついた。
 別にこの後に予定がある訳でもないが、本来バイトを終える時間に上がることができなかった理由が、自分以外のスタッフと客のトラブルに巻き込まれていたから、という部分が、なんとなく釈然としない気分にさせる。
 完全に客の言いがかりで、見るからに気の弱いスタッフが好き勝手に詰られている状況――― 一介のアルバイトにすぎない蓮がどうこうできる話でもない筈なのに、周囲から「お前が行け」と背中を押され、なんだかわからないうちにトラブル対応に行かされてしまった。なんで俺が、と思った蓮だったが、蓮が対応した途端、客のそれまでの高飛車な態度が一変したのを見て、その理由がなんとなくわかった。
 ―――つまり、俺の見た目が“怒らせたらヤバそう”だから、だな。
 全く…好きでキツい目つきに生まれた訳ではないのに。こういう時ばかり重宝されて、非常に迷惑だ。どうにも面白くない気分に、蓮は、そろそろ散髪に行かないとまずいな、と思っている髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。

 夕食は、冷蔵庫に入ってる昨日のカレーでいいや、と考えた蓮は、寄り道することもなく、駅から真っ直ぐアパートへと向かったのだが。
 「……?」
 アパートまであと3分、というところで、道端に誰かがうずくまっているのに気づき、思わず足を止めた。
 たまたま街灯と街灯の間で、ちょうど薄暗くなっている場所だったため、それが誰なのかはすぐにはわからなかった。が、眉根を寄せてまじまじとその人物を見つめた蓮は、ある人物の顔が頭に浮かび、思わず顔色を変えた。
 「…咲夜、さん?」
 蓮が呼びかけると、コンクリートの壁にすがるようにしていた人影が、ピクリと動いた。
 ノロノロと、顔が上げられる。薄暗がりの中でその顔の造作をはっきりと確認した蓮は、慌てて駆け寄った。
 「咲夜さん!」
 「……あー…、蓮君かぁ…」
 自分の目の前に膝をついた人物の顔を確認し、咲夜はそう言って、気だるそうに笑った。
 「どうしたんですか、こんな所で」
 「…うー…、実は、タクシーで帰ってきたんだけどさー、失敗した」
 「失敗?」
 「ごめん、ちょっと、手ぇ貸してくれる?」
 咲夜の手が、蓮の肩にかかる。瞬間、ドキン、と心臓が鳴ったが、立ち上がるのもやっとの様子の咲夜を見て、蓮は慌てて咲夜の体を支えた。
 掴んだ腕のあまりの細さに、下手な扱いをしたら折れてしまうんじゃないか、と本気で心配になる。だが、そんな蓮の心配をよそに、咲夜はよいしょ、という掛け声とともに、蓮を支えにして立ち上がった。辛うじて手に持っていたトートバッグを、かなり苦労しながら再び肩に掛けようとしているのを見て、蓮はバッグの持ち手を掴み、咲夜の肩まで持ち上げてやった。
 「あー…、サンキュ」
 「…こんなんじゃ、歩けないんじゃ…」
 「駅からここまでは、なんとか歩いてきたんだけどねぇ…。少々、予測が甘かったかな」
 「え? でも、タクシーで帰ってきた、って…」
 蓮が不思議そうに問うと、咲夜は苦笑を浮かべ、1歩、足を踏み出した。
 それと同時に、咲夜の体が微妙に傾ぐ。こりゃ危ないな、と判断した蓮は、咲夜の背中に腕を回し、支えて歩くことにした。
 ―――うわ、これ、結構緊張するかも…。
 大体、理由は何であれ、女性に触れること自体が、徹底的に女性を避け続けている蓮にとっては相当に久しぶりのことだ。酔っ払った男の同級生を介抱した経験はあるが、あれと同じ感覚で伸ばした腕は、やたら心もとない重さしかない咲夜の背中に、少々戸惑ってしまった。
 「酔っ払ってフラフラで、仕方なくタクシーにしたはいいけど、今にも眠っちゃいそうでさ。アパート名言ったって、運転手が知ってる訳ないじゃん。目が覚めなかったら説明が大変だと思って、アパートまでじゃなく駅までにしてもらった訳よ」
 「ああ…、それで、駅でタクシーを降りたのか…」
 そして、駅で無事降りたはいいが、駅からアパートまでが歩けなかった、という訳か――― 一体どれだけ飲んだんだ、と呆れそうになった蓮だったが、その時、あることに気づいて、怪訝そうに眉をひそめた。
 「…一体、何飲んだんですか?」
 「え?」
 「いや、歩けないほど酔ってる割に、アルコールの匂い、あんまりしないんで」
 「……」
 一瞬、咲夜が、返答に詰まったような気がした。けれど。
 「…いやー、うん、そんなに飲んではいないんだけど、ね。疲れてるとこに、いきなり、かなりキツイの飲んだせい、かなー」
 ―――そう…かな。それにしても、こうはならないんじゃ…。
 もしかして、熱があるんじゃないだろうか。ふいに、そんなことが頭をよぎる。
 実際、薄い生地1枚を通して伝わってくる体温は、やたら熱く感じられる。確かにアルコールが入っても体温は上がるし、蓮が知らないだけで、女性は大体が男性より体温が高いものなのかもしれない。でも―――もし咲夜が体調不良で熱を出しているなら、フラフラしている理由も、その割にアルコールの匂いがほとんどしないのも、辻褄が合う。
 だけど、一度は蓮の追及をかわしてしまった咲夜だ。もう一度訊いたところで、今更本当のことを言うとは思えない。
 そう考えた蓮は、まだ少し戸惑い気味だった腕をもう少し伸ばし、咲夜の二の腕を掴んでしっかり支えた。咲夜がどんなにグラついても、決して倒れたりしないように。

 ―――こんな場面…秋吉には、見られたくないな。
 純粋な人助けとわかっていても、やはり落ち着かない。咲夜の様子を気遣いつつも、蓮は、アパートまでの数分の道のりが、やたら長く感じられた。


***


 呼び鈴が鳴ったので、てっきり、咲夜かと思った。
 なのに、レンズから外の様子を窺った時、そこに映ったのは、予想外な人物だった。
 「……っ!」
 慌てて奏がドアを開けると、廊下にぽつんと立っていたリカは、一瞬、その大きな瞳をグラつかせた。が、呆気にとられている奏の顔を真っ直ぐに見据えると、お手本にでもなりそうな完璧な笑みをその顔に浮かべてみせた。
 「こんばんは」
 ―――いや、こんばんは、じゃないだろ。
 すぐには、頭がついていかない。昨日、“Studio K.K.”に現れた時も、相当頭がついていかなかったが、今日のこの事態はますます頭がついていかない。
 「…何してんだ? こんなとこで」
 唖然とした声で奏が訊ねると、リカは、落ち着かない様子で目をちょっと逸らし、体の前で組んでいた手を後ろで組み直した。
 「こ…ここのアパートって、猫、飼ってるのね」
 「は?」
 「来たはいいけど、急に、やっぱりやめとこうかな、って迷っちゃって…下で、猫見てたの。5分くらい」
 「…それ、質問の答えに全然なってないんだけど」
 当たり前すぎる奏の指摘に、リカは気まずそうにチラリと奏の顔を見た。そして、観念したのか、小さく息をついて、再び奏を真っ直ぐに見据えた。
 「あの―――昨日、の」
 「昨日?」
 「昨日の、カクテル代。…リカ、払ってないでしょ。だから…」
 「…まさか、返しに来た訳? 昨日の飲み代を」
 奏が確かめると、リカはコクッ、と頷いた。
 …これは、さすがに、予想外。あれだけ酔っていたし、リカの普段の言動からすると、数千円の飲食代など踏み倒しても平然としているかと思った―――いや、それ以前に、男におごらせて当たり前という感覚でいるかと、半ば本気で思っていたのに。
 「…っつーか、それならそれで、なんで店に電話してこないんだよ? 昨日言っただろ、用があるなら、次からは店にまず電話しろ、って」
 「だって…なんか、カッコ悪いじゃない。店先でお金を渡したり受け取ったり」
 「だからって、何もこんな時間に、わざわざ家まで来なくても…」
 「もぉーっ、別にいいでしょ何でもっ!」
 イライラしたようにそう言うと、リカは両手を腰に当て、奏をキッ、と睨み上げた。
 「それで、いくらなのよっ。昨日の飲み代はっ」
 「覚えてる訳ないだろ、そんなの」
 「たった1日前のことじゃないの、なんで覚えてないのよっ」
 「総額は覚えてるけど、内訳まで覚えてねーってことだよっ。オレが飲み食いした分だって入ってんだから、当たり前だろっ」
 リカにつられて、奏までイライラしてくる。不機嫌そうな声で奏が投げやりに言うと、リカは一旦ぐっ、と言葉に詰まった。
 「…じゃあ、リカが何杯カクテル飲んだかだけ、教えて」
 「……7杯」
 事実をそのまま伝えると、自分でもある程度の数を覚悟していたのか、リカは「やっぱり」という顔で目を伏せ、はーっ、と大きなため息をついた。
 伏せた目を上げないまま、バッグを開け、中から財布を取り出す。札入れから1万円札1枚を抜き取ったリカは、それを奏に突きつけた。昨日、レジで支払った総額を上回る金額に、奏は眉をひそめた。
 「いや、1万は、払い過ぎだろ…」
 「…今、千円札2枚と1万円札しかないの。だから、これにしといて」
 「じゃあお釣りを、」
 「お釣りもいらない」
 奏の言葉を遮るようにキッパリと言うと、リカは、伏せていた目を上げ、気まずそうに付け加えた。
 「…お詫び代、込みだから。その―――キス、の」
 「―――…ああ」
 奏の声が、一段、低くなる。ついでに、表情も陰鬱なものに変わった。
 勿論、昨日のリカの暴挙を思い出したせいもあるが、それ以上に―――今、奏の脳裏を過ぎったのは、今朝の咲夜の反応だった。

 仮にも、自分が付き合っている男が、酔っ払った女にベタベタされた、と聞かされたのだ。面白くない、と思うのが当然だ。少なくとも咲夜が酔った男にベタベタされたら、奏はもの凄く面白くない。目前でそんなシーンを見たら速攻で男をぶん殴るし、事後報告を受けても相当苛立つのは間違いない。
 なのに、咲夜の反応は、実にあっさりしたものだった。いや、それどころか、「役得だったね」と茶化してみせるほどの余裕の態度だった。
 こっちに下心も何もない以上、変に勘繰られたり疑われたりするのも勘弁して欲しいが―――だからこそ、今朝も最初は、自分にはやましいところは何もないぞ、と、釘を刺すつもりで話し始めたのだが―――逆に、あまりに余裕の反応を見せられると、それはそれで納得がいかない。勝手な話かもしれないが、少しぐらい、拗ねたり不安がってくれてもいいんじゃないか、なんて思ってしまう。
 一瞬、リカに突然キスされた話もしてしまおうか、と思ったが……さすがに、やめた。奏としては、もう忘れたいほど最低な出来事だし、それに―――…。
 ―――それに、それでも咲夜の反応が全然変わらなかったら……オレ、立ち直れないかもしれないし。
 こいつは、オレが誰とベタベタしようがキスしようが全然ショックじゃないのか、その程度にしか好きじゃないってことなのか―――そう思って、本気で落ち込みそうだ。咲夜がどんな反応を示すか、実際に言ってみて試すだけの勇気は、とてもじゃないが奏は持ち合わせていなかった。
 おかげで、変に弁解するような真似をしたかと思えば、咲夜の態度に拗ねてしまったり、不安になって呼び止めてしまったり、と朝っぱらから随分と情けない醜態を晒してしまうことになった。

 それもこれも、全部、こいつのせい。
 こいつが、あんな暴挙に出なければ、あんな思いはせずに済んだのに―――瞬時に蘇った不愉快さに、リカを見る奏の目は、一気に険悪さを増した。
 「…ま、確かに。あれを込みにするなら、1万でも安すぎる位だよな」
 「……」
 リカの手からパッ、と1万円札を抜き取ると、奏はそれをポケットに捻じ込んだ。
 「これで、貸しも借りもなし、でいいだろ」
 少々投げやりな奏のセリフに、リカは目を逸らしたまま、小さく頷いた。心細そうなその横顔を見て、こうしてきちんと謝ってきたのに、いつまでもきつい態度を取るのも大人気ないか、と考えた奏は、軽くため息をつき、表情を少しだけ緩めた。
 「…貸し借りなしだから、もう、そういう顔しなくていいって」
 「……」
 ちらっ、と目だけ奏の方に向けたリカは、奏の怒ったような目が幾分和らいでいるのを確認したのか、少しホッとしたような表情になった。そして、手にしていた財布をごそごそとバッグの中に戻すと、改めて奏に向き直った。
 「晴紀のことなら、心配しないでね。あいつ、リカの不利になるようなことは、絶対口外しない筈だから」
 言われて初めて、あの場面の唯一の目撃者の存在を思い出した。ああ、そんなのもいたな、と奏は軽く眉を上げた。
 「リカのためを思って足代わりから守秘義務まで、つくづくありがたいファンだな」
 「…別に、リカのためを思ってる訳じゃないもん、晴紀は」
 「そんなことないだろ。大事にしてるじゃないか、リカのこと」
 「表面的にはね」
 どことなく皮肉っぽい笑みとともにそう言うと、リカは、視線をどこか遠くへ向けた。
 「でも…本当にリカのことを考えてる訳じゃない。むしろ、その逆」
 「逆?」
 「―――ねえ、一宮さん」
 遠くに向けられていた目が、再び、奏を捉える。
 その目が、つい数秒前よりやたら真摯な色をしていることに、奏は思わず反射的に身構えてしまった。
 「な…、なんだよ」
 「…昨日、本当は―――…」

 何かを、言いかけて。
 けれど、ふいに階段の方から聞こえてきた足音に、奏だけじゃなく、リカも気づいた。

 はっ、としたように、2人揃って階段の方に目を向ける。それとほぼ同時に、廊下の端から現れたのは―――咲夜と蓮だった。
 「―――…」
 自分たちの方を見ている奏とリカを見て、咲夜と蓮が、足を止める。予定外な対峙に、蓮が切れ長の目を僅かに丸くする一方、咲夜の方も、少し驚いたような顔をした。だが、その2人以上に驚いた顔になってしまったのは、むしろ奏の方だった。
 咲夜と蓮が一緒に現れたこと自体は、別にいい。帰りがたまたま一緒になることだってあるだろうし、2人とも2階の住人だ。別段不自然ではない。
 けれど―――蓮が咲夜を抱きかかえているのは、何故なのか。その理由が、瞬時には思いつかない。
 見ようによっては、恋人か何かに肩を抱かれているように見えなくもない図に、憤るより不快感を覚えるより先に、奏の思考は完全にストップしてしまっていた。
 と、その時、蓮の腕の中で、咲夜の体が僅かに傾いだ。
 「……っ、」
 慌てて蓮が、肩を抱く手を更に引いて、倒れそうになった咲夜の体を支えた。
 「だ、大丈夫ですか?」
 「ハ…ハハ、ごめん。ちょっと、気ぃ抜けたみたい」
 心配そうな顔をする蓮に、咲夜が、どことなく気だるい笑みを返したところで、やっと奏のフリーズ状態が解けた。
 一瞬、血が逆流するような感覚に襲われた奏は、押さえていたドアを無造作に閉めると、リカの目の前をすり抜け、咲夜と蓮のもとへ駆け寄った。
 「咲夜…!」
 何やってんだよお前、という声で奏が名前を呼ぶと、咲夜は、蓮の胸に手をついて体を起こし、奏を見上げて何食わぬ顔で笑った。
 「あー…、ただいま」
 「た…ただいま、じゃねーよっ! どうしたんだよ、一体…!」
 「ちょっ、奏、声大きい」
 奏の怒鳴り声の大きさに、咲夜は僅かに顔を顰め、唇の前で人差し指を立ててみせた。すると、まるでそのセリフを後追いするかのように、廊下に新たなドアが開く音が響いた。
 奏が振り返ると、203号室の木戸が、半分ほどドアを開けて、その隙間から顔を覗かせていた。
 多分、またいつものトレーニング中だったのだろう。木戸は、頭にタオルをはちまきのように巻き、相変わらずのランニング姿だった。なんだか外がうるさいな、と感じたのか、その表情は、木戸にしては珍しい怪訝そうなものだった。
 「あのー、喧嘩かなんかですかね」
 のんびりした木戸の口調が、緊張しきっていた場の空気を緩ませる。多少引きつり気味な笑みを作った奏は、いえ、と木戸の言葉を否定した。
 「す…すみません、うるさくして」
 「いやぁ、別に構わんですけどね。こっちはこっちで、日頃からご迷惑かけとるし、喧嘩だったら止めなきゃいかんな、と思って、お節介で顔出しただけなんで」
 「はあ…」
 「あ、遠慮なく、どうぞ続き、やって下さい。ははははは」
 変な気の遣い方をした木戸は、豪快な笑いを残して、再びドアを閉めてしまった。バタン、という音と同時に、なんだか寒々しい空気が、2階の廊下全体に流れた。
 気まずそうに髪を掻き上げた奏が、咲夜と蓮の方にまた目を向ける。
 まだ蓮に肩を抱かれたままの咲夜に、奏の苛立ちが一気にピークに達しそうになった時、それまで部外者然としていたリカが、おもむろに口を挟んだ。
 「…あの、一宮さん」
 苛立った表情のまま振り返った奏に、リカも思わず怯んだ。
 「何?」
 「リカ、そろそろ帰るから」
 「…ああ」
 もう話も終わったしな、と、奏が頷く。が、リカが来た用事もどの程度話が済んだかも知らない咲夜は、自分が来たせいで話の邪魔をしてしまったか、と考えてか、奏の相槌に被るように、慌てて言った。
 「あ…、私ならいいよ、ご遠慮なく」
 「……」
 ―――よくねーよっ!!
 リカの方を向きつつも、背後の咲夜のセリフに、奏の表情が更に険悪なものになる。そんな奏の顔を見て、リカはちょっと複雑な顔をし、咲夜に向かって首を振ってみせた。
 「もう、用事は終わったから」
 「…ほんとに?」
 リカのあっさりした返事に、咲夜は何故か、何かを探るかのように、そう訊ねた。が、事実、用事は終わってしまっていたリカは、少し不思議そうな顔をしつつ、またコクリと頷いた。
 「じゃあ…、おやすみなさい」
 ニコッ、と作り笑いを見せるリカに、奏も一旦はイライラを抑え、業務用の笑みを作った。
 「土曜の撮影、今度は遅刻するなよ」
 「はぁい」
 やけに素直な返事を返したリカは、そのまま、3人の横をすり抜けて、階段を下りて行った。その足音が次第に遠ざかり、やがて完全に消えるまで、残った3人は、ずっと無言のままだった。
 「……」
 奏の目が、咲夜ではなく、蓮に向けられる。
 その視線を感じた蓮は、うろたえるどころか、逆にどことなく非難めいたものを滲ませた目を、奏に向けた。
 多分、こんな時間にリカが自宅に訪ねて来たことを変な風に誤解しているのだろう、と想像はついた。が、今の奏は、その誤解を解くような余裕などなかった。今にも蓮をぶん殴って咲夜を奪い取りたい衝動を必死に抑え、奏はなんとか冷静さを装った。
 「…何が、どうなってんだよ、これ」
 あからさまなほど険悪な奏の低い声に、蓮はちょっとため息をつき、その鋭い切れ長の目を僅かに眇めた。
 「―――バイトから帰ってくる途中で、道端にうずくまってるのを見つけたんです」
 「え?」
 不愉快さ全開だった奏の表情が、一瞬にして驚きの表情に変わる。そのあまりの変化に、蓮はちょっと驚き、続きの言葉に詰まってしまった。
 「ど、どうしたんだよ、一体」
 「……ごめんー…」
 言葉に詰まった蓮に代わり、咲夜が、だるそうに答えた。
 「今日、ちょっと仕事がハードでさ。疲れてるとこに、かなーりキツイ度数のカクテル飲んじゃって…珍しく、足にきたっぽい」
 「…バ…ッカ、お前…!」
 咲夜の腕を掴んだ奏は、その腕をぐい、と引いて、蓮から引き剥がした。その勢いがあまりに強すぎたせいで、咲夜は半ば転ぶようにして奏に抱きとめられる羽目になった。あいたたた、と咲夜が小さく声を上げるのを聞いて、蓮の目が僅かにつり上がった。
 「ちょっと―――乱暴すぎませんか、その扱い。咲夜さんは、」
 「れ、蓮君」
 奏に抗議しようとした蓮を、咲夜がすかさず止めた。
 奏の腕の中で身を捩った咲夜は、蓮を振り返り、グラついているらしい頭をなんとかもたげて、僅かに笑った。
 「いいから。あんまり廊下で話してると、近所迷惑だよ。もう引っ込もうよ、お互いさ」
 「でも…」
 「ありがと、蓮君。すっごい、助かった」
 「……」
 咲夜本人に、そう強く言われてしまえば、蓮も食い下がることはできない。どことなく不服そうな空気を残しつつも、蓮は大人しく引き下がった。
 失礼します、と極々小さい声で呟いた蓮は、奏と咲夜に軽く一礼し、足早に自分の部屋へと向かった。
 そんな蓮を見送り、咲夜は少しホッとしたように力を抜いたのだが―――奏の方は、今、自分が耳にした短い一言に、軽く心がざわつくのを感じていた。

 “蓮君”。
 咲夜が、蓮のことをファーストネームで呼ぶのを、奏はこの時、初めて聞いたのだ。

***

 「ほい、水」
 「うー…、ありがとー…」
 奏がグラスを差し出すと、自分のベッドの上に転がっていた咲夜は、ノロノロと体を起こし、やっとの思いでグラスを受け取った。
 「オレもグラス、借りるぞ」
 「んー、ご自由にどうぞ」
 自分の分の水をグラスに注ぐ奏の背後で、咲夜は水を一気に飲み干し、はあぁ、と大きく息をついた。空になったグラスを置こうにも、ローテーブルまで移動するのが苦しいらしく、咲夜はそのまま、壁に背中を預けて座った。
 「…一体、何だって、酒なんて飲んだんだよ」
 「えー…?」
 「客に誘われたとか? それとも藤堂か」
 普段、咲夜が飲んで来たって、こんなことを訊いたりしない。けれど、自力で歩けないほど酔わされてしまっては、一体誰が何を飲ませたんだ、と気にならない方がおかしいだろう。
 「やだなぁ…お客さんじゃないよ。一成でもないし」
 「じゃあ、誰だよ。1人で飲んでたら、歩けないほど飲む訳ないだろ」
 「…店の人。新作カクテルの試飲を頼まれたから、ちょっと飲んでみただけ」
 「試飲?」
 なんだそりゃ、と、奏は眉をひそめた。
 「咲夜がダウンするようなカクテルを客に出そうとしてんのかよ、あの店は」
 「だから―――もう、いいじゃん。私には合わなかっただけじゃない?」
 少しうるさそうに、咲夜が語調を荒げる。頭が痛いのか、グラスを持っていない方の手で頭を押さえているのを見て、なんだか納得のいかない奏もそれ以上の追及を諦めるしかなかった。
 咲夜の傍に行き、空になったグラスを咲夜の手から抜き取った奏は、咲夜の額に手を当ててみた。大して飲んでいない、という咲夜の言葉通り、あまり酒の匂いのしないことから、実は体調がもの凄く悪いんじゃないか、という心配もしたのだが―――若干、熱い気はするが、高熱が出ている訳ではなさそうだ。
 「…こんな状態で、どうやって帰って来たんだよ」
 「ん…、しょうがないから、一成にタクシー止めてもらった。場所説明するのが面倒だから駅までにしてもらって……駅で降ろしてもらった後は、さっきの話のとおり」
 「…そっか」
 ということは、一成も、さっきの蓮のように咲夜を抱きかかえていたのだろう。自分だって、テンが飲み会で潰れた時は、同じように抱えてタクシーに突っ込んだりした。当然の行動だ。でも……いざ、その場面を想像すると、ズキリと胸が痛む。特に、昨夜、酔っ払ったリカにベタベタとくっつかれたばかりだから、余計に。
 ―――咲夜が、あんな風に、他の男にベタベタするなんて…ない、よな。
 普段の咲夜の様子からそう自分に言い聞かせるものの、前後不覚になってたら可能性はゼロじゃないぞ、ともう1人の自分が余計な口を挟む。うるさい、と軽く頭を振ってもう1人の自分を追い払った奏は、咲夜の頭を、ちょっと乱暴な位に撫でた。
 「あんまり、心配させんなよ」
 「……ごめん」
 小さく、咲夜が呟く。それでようやく少しだけ安堵した奏は、はーっ、と息を吐き出し、ベッドのすぐ傍の床に腰を下ろした。
 空のグラスをテーブルに置き、自分の分の水を一気に半分ほど飲む。そんな奏の様子を黙って見ていた咲夜は、僅かに瞳を揺らした後、おもむろに、ぽつりと訊ねた。
 「…リカちゃん、何の用だったの」
 「え?」
 あまりに咲夜のことに頭が集中していたせいで、一瞬、何を訊かれているのかわからなかった。
 が、一瞬後、何のことか理解して、ああ、その話か、と頷いた。
 「ほら、今朝、咲夜にも話しただろ。昨日、カクテル7杯分の代金、ベロベロに酔っ払って踏み倒しやがった、って」
 「ああ…、うん」
 「その代金を返しに来たんだよ。本人も、酔いが醒めて、さすがにまずいと思ったんじゃない?」
 「…ふぅん…」
 少し眉をひそめて相槌を打った咲夜は、すいっ、と視線を逸らした。
 「…でも、どのみち土曜日に仕事で会うんだから、こんな時間に自宅に押しかける位なら、その時に返せばよかったのにね」
 「……」
 そう言えば―――指摘されて、初めて気づいた。そうだ。昨日の口紅もそうだったが、今日の件だって、別に土曜日で構わなかった筈なのだ。突如自宅に現れる、というあまりの異常事態に、昨日は気づけた矛盾にうっかり気づけなかったらしい。
 「まあ…、慌ててたんだろ、多分。あの子、行動パターンがいまいち理解できない部分あるから、オレにもよく」
 「……あのさ、奏」
 奏の言葉を遮るように、咲夜が、視線を逸らしたまま、切り出した。
 「あんまり……深入り、しない方がいいんじゃない、かな」
 「……え?」
 深入り?
 意味不明な言葉に、奏の目が、キョトンと丸くなる。が、咲夜まだ、僅かに視線を逸らしたまま、奏の顔を見ようとはしなかった。
 「…リカ、ちゃん。あの子とは……あんまり、深く関わらない方がいいと、思う」
 「…なんで?」
 奏が訊くと、咲夜はやっと目を奏に向け、少し困ったような顔をした。
 「なんで、って…」
 「第一、深くなんて関わってないだろ、オレ」
 奏からすれば、当然すぎる言葉。なのに、咲夜の反応は、違っていた。
 「…そうかな」
 「―――なんだよ、そうかな、って」
 「こんな時間に、わざわざ自宅まで女の子がお金返しに来るのって、浅い人間関係かな」
 「そんなの、関係ないだろ?」
 なんだかリカとの間を変に勘繰られたようで、思わず語気が荒くなる。
 「リカの行動が突拍子もないのは、何も今日に限った話じゃないし。飲みに行ったのも、金返しに来たのも、結局は全部仕事絡みで、プライベートで誘い合って飲みに行ったことなんて、1回もないぞ。相談に乗ってるのもモデル業のことだけで、オレはリカのプライベートなんて何も知らない―――知りたくもないし、仕事相手としての興味しかないんだ。それのどこが“深入り”だよ?」
 「…別に…奏が下心持ってるとか、そんなこと勘繰ってないよ」
 「じゃあ、なんだよっ」
 「リカちゃんが、」
 咲夜が、片手でまた頭を押さえ、少し顔を歪める。
 「リカちゃんが、どういうつもりでいるか、奏にだってわかんないでしょ」
 「は?」
 「奏に、仕事頼んだのも…、口紅を、届けに来たのも…、今日、お金、返しに来たのも―――リカちゃんが“何”を考えて、そういう行動をしたか、なんて、奏にもわかんないじゃん…」

 ―――どういう、意味だよ、それ。
 つまり、奏がリカに下心を持っていないことは信じているが、その代わり、リカに何らかの下心がある、と言いたいのだろうか。ということは、結局のところ、どういう形であれ奏とリカの仲を怪しんでいることに変わりはない、ということなのだろうか。
 なんだか、無性に腹が立った。
 いや―――冷静になってみれば、咲夜の反応は、“彼女”としては自然なものだったのかもしれない。自分の恋人をやたらと慕ってくる美少女を見て、そこに「仕事仲間としての信頼」以外の個人的な感情を疑うのは、恋人としての可愛い嫉妬のうちに入るものなのかもしれない。抱きつかれてもキスをされても「ふーん」とスルーされるよりは、何百倍もマシなことだと、奏だって思えた筈だ。ただし…冷静な時、なら。
 でも、今日の奏は、あまり冷静ではなかった。
 酔っていたとはいえ、一成や蓮にあんな風に抱きかかえられた咲夜が―――いつの間にか、奏が覚えてすらいない蓮のファーストネームを当たり前のように口にした咲夜が、奏を冷静ではいられなくさせていた。
 咲夜が、奏とリカの仲を疑うようなことを言えば言うほど―――咲夜自身が身に覚えがあるから、奏のことも信じられなくなってるんじゃないか、なんて、バカなことが頭を過ぎってしまって。

 「…お前、よく知りもしない奴のことを、そういう色眼鏡で見たりすんなよ」
 知らず、口調もぞんざいなものになってしまう。あからさまに不愉快な顔をする奏に、咲夜の表情も少しムッとしたようなものになった。
 「何、奏の方は、リカちゃんのこと、そんなによく知ってんの?」
 「人の言葉尻とるなよ! 少なくとも、一緒に仕事して話してる分、お前よりは知ってて当たり前だろ!?」
 「……」
 「リカが仕事依頼したのは、そりゃあ、オレのメイクの腕前に惚れこんでのことじゃないだろうさ。でも、それは、前にも説明しただろ? オレを“先輩モデル”として頼ってきてるからだ、って。口紅の件だって、どうせ事務所の方にオレから連絡があるだろう、って踏んでたのに、さっぱり問い合わせがないから、わざわざ向こうから持ってきてくれたんだし―――金の件だって、自分が失態晒したばっかだから、土曜日でも良かったなんて頭が回らなかったかもしれないだろ? ああ見えて意外と普通なとこもある奴だから、一刻も早く謝らないと、って思っても、別に不思議じゃないさ。なのに、なんでお前が……1回オレの部屋で話しただけのお前が、そういう穿った見方をするんだよ。え!?」
 「……」
 「ったく…ほんと、迷惑だっつーんだよ、こっちは。リカの突拍子もない行動パターンのせいで、痛くもない腹探られて…。初めて指名してくれた大事な客だし、気持ちがわからないでもない部分が結構あるから、こっちも親切で色々相談にも乗ってやってるだけなのに、咲夜にそんな風に言われたら」
 「―――わかった」
 突如、咲夜の声が、感情に任せてぶちまけていた奏を遮った。
 その、あまりに静かな声に―――奏の頭も、一瞬で冷えた。
 いつの間にか、僅かに視線が落ちていた咲夜は、ゆっくりと顔を上げると、奏に向かって、ふ、と微かに笑みを返した。
 「もう、いい」
 「……え……?」
 「もう、いいよ。よくわかったから」
 「……」
 「…うん。もう、いい」
 そう言うと、咲夜は、薄い笑みを浮かべたまま、視線を逸らしてしまった。

 ―――…ちょ…っ、と、待て、おい。
 突然、引いてしまった咲夜に、心臓が嫌な具合にざわめく。
 感情のままにまくしたてていた間は、信用されていない、という苛立ちと誤解されたくない、という必死な思いばかり先行して、冷静に自分の言動を分析できる状態ではなかったが―――自分にはやましい部分なんてないぞ、と言うつもりで……つまり、自分自身を擁護したくて言ったことが、もしかしたら咲夜には、リカを庇っているように聞こえたかもしれない。
 実際、裏を返せば、自分を擁護することはリカをも擁護することになる。そのことに気づいた奏は、さすがに焦りを感じた。

 「…あ…、あの、咲夜?」
 少し前の憤慨した口調が嘘みたいに、遠慮がちな口調になってしまう自分に、なんだか腹が立つ。
 それでも、咲夜が、逸らしていた目をこちらに向けてくれたことに、ほんの少しだけホッとする。冷や汗が滲んでくるのを感じつつ、奏は一度、唾を飲み込んだ。
 「その―――別にオレは、リカを庇ってる訳じゃないからな?」
 「え?」
 「なんか、お前がオレのこと疑ってるみたいで……オレが頭きてんのはその部分で、咲夜がリカのことをどう言ったかなんて、全然関係ないから」
 「……」
 「…っつーか、その……なんか、お前がいきなり穂積のこと名前で呼んでたり、あ…あんな風に抱きかかえられて帰ってきたりしたから、オレもちょっと冷静さ欠いてたっていうか、なんていうか…」
 「…やだな。そんなこと考えてたの」
 奏の言葉に、咲夜はふっ、と呆れたように笑った。が、何故蓮のことを名前で呼んだのか、その理由までは説明してはくれなかった。
 「うん。わかったから、大丈夫。…ごめん。私が口出しするべき問題じゃなかったんだよ。もう、言わない」
 「……」

 ―――本当に、わかってんのかよ?
 いや、そうじゃなくて―――お前、一体「何」を「わかった」って言ってるんだ?

 咲夜が笑みを見せてもなお、胸の奥のざわめきは、大きくなりこそすれ、一向に収まりそうにない。
 突然湧いてきた得体の知れない不安を、少しでもなんとかしたくて、奏は身を乗り出すと、咲夜の頬に手を当てて、その唇に自らの唇を重ねようとした。
 けれど。
 「……っ、」
 びくっ、と、驚いたように体を僅かに跳ねさせた咲夜は、自分の唇に触れる直前で、奏の唇を指先で制した。
 「ま、待って」
 「……」
 「ご……ごめん、まだ、気分悪い、から―――今、そういう気に、なれない。…ごめん…」
 「……」

 ―――正直。
 かなりの、ショック、かもしれない。
 僅か10センチちょっとしか離れていない咲夜が、とてつもなく遠く感じる。あまりに至近距離すぎて、咲夜の表情がわからないから余計―――見えない。咲夜の、気持ちが。

 ショックを受けたまま、凍りついたように動かない奏に、咲夜は困ったように瞳を揺らした。
 そして、さすがに可哀想だと思ったのか、それとも、他の理由があるのか―――ゆっくりと指をどけると、恐る恐るという感じで、奏の唇に微かに触れるだけのキスをした。
 触れた体温に、そのまま、すがりたくなる。けれど、咲夜はすぐに離れてしまい、少し辛そうに息をついて、また壁にもたれかかった。
 「―――…悪いけど、」
 「……」
 「もう、話してるのも、ちょっと、しんどいかも…。ごめん、もう寝ていい?」
 「…じゃあ、オレ、こっちで付き添うから」
 未練がましいな、と自分でもちょっと思いながらも、どうしてもそう言わずにはいられなかった。けれど、咲夜は、また少し困ったような笑みを見せ、緩慢に首を横に振った。
 「ううん…、いい。もう大丈夫だから、奏も部屋、戻って」
 「……」
 ベッドについた片手を、ぎゅっ、と、何かに耐えるように握り締める。
 奏は、必死に自制しながら、もう一度だけ咲夜の唇に触れた。ほんの一瞬の、あまりに儚いキス―――こんなもので、満たされる筈もないけれど。
 「…鍵、大丈夫か」
 奏が訊ねると、咲夜は、その意味を察して微かに笑った。
 「大丈夫。肩だけちょっと貸して」

 奏に肩を借りた咲夜は、さっきよりは幾分マシになった足取りで、奏を見送りに玄関まで歩いて出た。
 「じゃ…。何かあったら、壁蹴るなり携帯鳴らすなりして、呼べよ?」
 「うん、わかった。…じゃ、おやすみ」
 そんな挨拶を交わして、奏は、咲夜の部屋を後にした。


 ―――…本当は…。

 自分の部屋に戻り、ガチャン、と鍵をかけた奏は、玄関のドアに背中を預け、スニーカーに半分突っ込んだだけの自分の足を、うつろに見つめた。

 本当は、あのまま、咲夜の傍にいたかった。
 こんな気持ちを抱えたまま、1人になんて、なりたくなかった。
 でも……あまりに、不安で。あまりに、心がグラグラして、このままじゃどうにかなってしまいそうで。
 あのまま、咲夜の傍にいたら、なんだか、自分が暴走してしまいそうな気がして―――突然離れてしまった距離を無理矢理埋めようと、咲夜をメチャクチャにしてしまいそうな気がして……怖く、なった。
 ずっと、ずっと恐れていた、二度となりたくないと思っていた自分に、またなってしまう気がして……離れたくないのに、もっと触れたいのに、怖くなった。

 ぐしゃっ、と、少し苛立ったように髪を掻き上げた奏は、大きく息をつき、目を上げた。
 大した広さもない自分の部屋が、やたら広く、閑散として見える。弱ってんな、と、自嘲の笑みが口元に浮かんだ。

 なんだかわからないうちに、たった1人で何もないところに放り出されたみたいな心細さに、ゾクリ、と震えがきた。
 こんな時、どうすればいいのか、わからない―――奏は玄関に立ち尽くしたまま、途方に暮れてしまった。


←BACKHome. TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22