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― 臆病なハート -side Saya- ―

 

 目覚めは、最悪だった。

 「……ったあぁ……」
 こめかみを押さえた咲夜は、その姿勢のまま、暫くベッドの上から動けなかった。
 恐る恐る、目を開けてみると、昨晩、抽象絵画みたいにグニャッと歪んで見えていた自分の部屋は、今は正常に目に映っていた。ズキズキという小さな痛みがこめかみの辺りに残ってはいるが、どうやら後遺症はそれだけで済んでいるようだ。
 あの、タクシーに乗ってる間が、ピークだったな―――昨夜の自分を振り返り、そう思う。
 タクシーに乗っている間、咲夜は、いわゆる「ハイ」の状態だった。信号が赤に変わっても笑えるし、ウインカーのカチカチという音がしても可笑しい。僅かに残っていた理性が働いてある程度は噛み殺したが、運転手が咲夜を見る目は、明らかに「異常者を見る目つき」だった。
 その「ハイ」状態も、タクシーを降りる10分前には終わり、後はひたすら、眩暈と頭痛―――もし、あのカクテルを最後まで飲み干していたら、一体どうなっていたのだろう? 想像するだけで背筋が寒くなる。
 体を起こした状態に頭が慣れるまで、暫し待つ。
 ―――あー…、仕事、休んじゃいたいよなー…。
 ため息をついて、一瞬、本気で会社に休みの電話を入れようかと考える。仕事も何もかも放り出して、1日中、ズルズル寝たまま過ごしたい気分だ。

 でも、今日の咲夜に、寝ている暇などない。
 …いや。寝ている暇もないほど―――余計なことなど考えられないほど、忙しくしていなくてはいけない。

 「……」
 チラリと、ベッドをつけた壁に、目を向ける。
 その壁の向こうにいる筈の彼も、きっと今日は、窓を開けることはないのだろう。昨夜、彼が見せた表情の数々を思い出して、また気持ちが乱れそうになる。目を伏せた咲夜は、緩く首を振ると、大きく息を吐き出した。

 今だけは、考えない。
 考える前にやるべきことが、咲夜にはある。今は、そのやるべきことだけを考えなくてはいけなかった。

***

 ランチタイム営業が終わって間もない時間帯。
 目の前に現れた咲夜の顔を見て、店員用通用口から出て来たトールは、一瞬、凍りついたようにその場に固まった。

 「さ…咲夜、さ…」
 「ハロー。頑張ってんね、昼間から」
 にっこり、と笑う咲夜に、トールの顔は逆に引きつる。無理矢理作った笑みは、笑顔を武器とするトールとしては最悪の出来映えな、ぎこちない笑顔だった。
 「ど、どうしたの、こんな時間に? それに、その格好…」
 日頃絶対にしないであろう、チェックのキュロットスカート姿。勿論、咲夜が勤める“カフェストック”の制服だ。
 「外回りの途中。本当は午前中の開店前に来たかったんだけど、まだちょっと運転する自信がなかったんで、昼まで様子見てたんだよね」
 「あ…、そうなんだ。き…っ、昨日って、あれから、大丈夫だった? 相当フラフラしてたっぽいから、心配してたんだけどさ」
 「―――大丈夫な訳、ないじゃん」
 笑顔を1ミリたりとも崩さず、そう言うと、咲夜はおもむろにトールの腕を掴んだ。
 「え……!」
 ギョッとして目を見張るトールを、腕を掴んだまま、壁際へと押しやる。よろけるように後ろに下がったトールは、あっけなく、通用口の横の壁に背中をくっつけてしまった。
 退路を断たれた、と気づいたが、時既に遅し―――眼下にある咲夜の顔から笑みが消えているの見て、トールの顔が僅かに青褪めた。
 「…で? 何、入れた訳、あのカクテルに」
 「あ…、あのっ、いや、お、おれは、」
 「睡眠薬? それ以外のヤバイ薬? あ、ちょっと昔なら、お酒に目薬入れるなんて手口もあったよね」
 「ま、待てって! な、何の証拠があってそんな」
 慌てて咲夜のセリフを遮ったトールは、さっき以上にぎこちない笑みを無理矢理作った。
 「ちょ、ちょっと、材料の配分を間違っただけだって…! 咲夜さん酒強そうだから、多少度数高くしても大丈夫だろうと思って、つい…」
 「…ふーん」
 咲夜の目が、凶悪に細められる。
 「そんじゃあ、行こっか」
 「え?」
 「ケーサツ」
 「え!!?」
 ぐい、とトールの腕を引くと、咲夜は実際に1歩、足を踏み出した。
 「うちの店の看板バーテンダーだから、穏便に済ませようと思ったんだけど、シラを切るつもりじゃしょーがない。こうなったら心を鬼にして警察に突き出すしかないね」
 「う、嘘だろ!?」
 「嘘じゃないよー」
 「証拠はあるのかよ、証拠はっ!」
 「昨日着てた服」
 え、と少し目を丸くするトールに、咲夜はニンマリと笑ってみせた。
 「カクテル、倒したじゃん、一成来て割とすぐに。あの時―――カクテル被った手を、シャツの端っこで拭いたんだよね」
 「……」
 「さすがにもう乾いちゃったけど、それなりの機関に持ち込めば、繊維に残ってる物質を割り出すこと位、簡単にできると思うよ。まー、何も入れてない、って本心から言ってるなら、むしろ調べてもらった方がいいんだろうけどさ」
 「……あ…あ、の…」
 「てな訳で、行きましょうか、ケーサツ」
 「あのっ!!」
 再びぐい、と腕を引かれたトールは、極端に顔色の悪くなった顔を強張らせ、必死に咲夜を引き止めた。
 「ま、待ってくれって!! 勘弁しろよ、おれ、警察沙汰なんて困るって…!」
 「…ま、そうだろうね」
 ピタリと足を止め、トールを見上げる。
 「なら、ホントのこと、言う?」
 「……」
 「目を見ればね、言ってることが嘘かどうか位、簡単に見抜けるよ。…本当のこと、全部話してくれるなら、ひとまず警察に突き出すのだけは辞めておいてあげる。ただし、嘘ついてるな、って感じたら、即、警察だからね」
 「……あああ、もー…」
 大きなため息をついたトールは、すぐ傍の壁に、ぐったりと寄りかかった。どうやら、白旗を揚げたらしい。まだ腕を離す気はないが、ひとまず第一段階クリアを確信し、咲夜はホッと小さく息をついた。
 さて、ここからが問題。
 いかにして真相を余すことなく引き出すか―――トールが相手なら、嘘を見抜くのは比較的簡単だが、曖昧な話で誤魔化されてしまっては意味がない。咲夜が一番知りたいことを、確実に引き出さなくては、訊く意味がない。そのためには―――…。
 「まず、訊くけどさ。…昨日のことって、リカちゃんは、知ってた訳?」
 思い切って、咲夜の方から名前を出してみる。
 すると、参ったなー、という顔で頭を押さえていたトールは、顔を上げ、少し驚いたように目を丸くした。
 「あれ? やっぱ、リカのこと知ってんだ? なんだよー、やっぱそうかよ」
 「知ってるったって、1度話したことがあるだけだよ。トール君の名前なんて聞いたこともないし」
 「え、じゃ、なんでおれとリカが友達だって知ってんの?」
 「…偶然、電話で喋ってるの聞いたから。控え室に忘れ物取りに戻った時に」
 「……」
 記憶を掘り起こそうとするように、トールが眉根を寄せる。そして、覚えのある出来事が頭に浮かんだらしく、その目が更に大きく見開かれた。
 「あー! あの時の電話!?」
 「べらべらと、遠慮なく喋ってたよね。誰が聞いてるかわからない廊下だってのに」
 「うっわ…じゃあ、あの後はずっと、ある程度はバレてた、ってことか。ひでぇ…」
 ―――人を賭け事の道具にした癖に、どっちが酷いっつーの。
 トールの言い分に呆れた咲夜だが、今はそんなことを言っている暇はない。
 「で、実際のとこ、どうなの」
 「え? ああ、昨日のことを、リカが知ってたかどうか、か。いや、知らない筈だよ。計画したのは晴紀だし、晴紀がいちいちリカの了解を取るとも思えないし」
 「…そっか…」
 ―――じゃあ、昨日の直感は、正しかった訳だ。
 昨日、アパートの廊下でリカに会った時、咲夜は一瞬、自分の身に起きた事と今リカが目の前にいる事に、何らかの関連性があるのでは、と疑った。けれど、咲夜の顔を見ても、気まずそうな顔はしても狼狽した様子を全く見せないリカを見て、どうやらリカはこの件とは無関係らしい、と、直感的に思った。だからこそ、何も言わずにリカをあのまま帰したのだ。
 昨日のことは、リカの預かり知らぬところで起きたこと。けれど―――リカと全く無関係に起きた訳でもないだろう。
 「じゃあ、時間もないことだし、さっさと白状してもらおうかな」
 「…えぇー…、こんなとこで、立ち話で?」
 露骨に嫌そうな顔をするトールを、咲夜はちょっと厳しく睨んだ。
 「婦女暴行未遂の告白を喫茶店とかでやりたいんなら、別に止めないよ」
 「…ほんと、手ごわいんだからなぁ…」
 ブツブツ言いつつも、喫茶店でのんびり告白する気には、さすがにならないらしい。ため息をついたトールは、観念したように全てを話し始めた。

 


 トールにその計画が持ち込まれたのは、一昨日の、日付が変わる直前のことだった。
 先日のリカからの電話を受けた時同様に、トールは、控え室前の廊下でその電話を受けた。閉店まで残り1時間ほどで、店内にいる2組の客もオーダーされたカクテルを出し終えたばかりだったが、さすがに店内の様子を気にしながらの電話だった。

 『聞いたぜ、リカから』
 「え? 何を?」
 『お前がリカと賭けをしてる、お前のバイト先の女。なんでも、リカが最近ご執心な男のカノジョなんだってな』
 「ああー、らしいねぇ」
 そう相槌を打ったものの、トールもその辺の事情はよく知らない。聞いていたのは、咲夜が「リカの仕事の関係者の恋人」だということだけだ。トールに咲夜を落とすようけしかけて来た、ということは、多分、咲夜と彼氏の仲をぶち壊したいのだろう、ということは、リカはその男に気があるのだろう―――はっきり聞いたことはないが、トールはそう解釈していた。そして、どうやら晴紀も同じように感じたらしいと察し、やっぱりそういう事情なんだな、と確信を深めた。
 『お前、見たことある? 相手の男』
 「いやぁ? 見たことないよ」
 『俺、さっき会ったぜ、その男』
 「え、マジ!?」
 『酔っ払ったから迎えに来い、ってリカから電話あったから行ってみたら、そいつもいた。一緒に飲んでたみたいだな』
 「で? で? どんな奴だよ」
 『えれぇ美形、てか、ほとんど外人だな。流暢な日本語喋ってたから、ハーフなんじゃねぇ? ラフな格好してたけど、スーツなんか着せたら、マネキンと間違えそうだ』
 「…へえぇ…。リカって、そういう趣味だったのか」
 リカとトールは、中学を卒業して間もない頃からの付き合いだが、リカの恋愛話など一度も聞いた覚えがない。どんな男が好みかなんて想像もつかないのは勿論、もしかして男に興味がないんじゃないか、なんて考えたことすらあった。今ご執心なのが相当見映えの良い男と聞いて、なんだ案外普通の趣味なんだな、と、逆に意外だったほどだ。
 『まあ、あんな男が彼氏なんじゃあ、相手の女も、いくらトールが迫ったところで落ちない筈だよな。どんなラッキーでカノジョの座に収まったのか知らねぇけど、何が何でも死守したくて当然だ』
 「…うーん…」
 そういう感じじゃない気がするんだけど―――と、トールは密かに思ったが、晴紀に逆らうと色々面倒なので、やめておいた。こと、リカが話に絡むと、晴紀という男はちょっと尋常ではなくなる部分があるので。
 『けど、リカも相当本気っぽいよな…。初めてだろ、お前にバカげた賭け持ちかけてまで、誰かに関わろうとするの』
 「ああ…うん、それは、おれも思う」
 『―――なあ、トール』
 突如、晴紀の声音が、微妙に変わる。何かを企んでいる時の声だと、トールにはわかった。
 『俺とお前で、リカの後押し、してやらねぇ?』


 電話じゃ打ち合わせが面倒だから、と言った晴紀は、トールのバイトが終わる時間に合わせて、“Jonny's Club”からほど近い待ち合わせ場所に車でやって来た。
 「これ、やるよ」
 「?」
 車内で晴紀がそう言ってトールに差し出したのは、可愛い色をした小さな錠剤2錠だった。
 「何これ」
 「スペシャルハイになれる薬。ほら、前にエリィと誰だかが、客の男らと異様に盛り上がってたこと、あっただろ」
 「…ああ、」
 半年ほど前だっただろうか、確かにそんなことがあった。周囲にトールたちの目があるというのに、イチャつきまくった挙句に服まで脱ぎそうになったので、「ホテルかどっかにでも行け」と晴紀が店から追い出したのだ。元々男性関係は派手なエリィだが、普段以上の弾けっぷりに、よっぽど飲んだんだな、とトールは思ったのだが、後から晴紀に「ありゃドラッグだよ」と聞かされ、ちょっと驚いてしまったのを覚えている。
 「俺は売り手と買い手の間に入るだけで、実際にやったことはないけどな」
 そう言うと、晴紀は意味深に、ニヤリと笑った。
 「こいつ飲むとさ……見れるらしいぜ、天国が」
 「…お前、まだそんな仲介やってんの?」
 思わず眉をひそめてしまう。
 晴紀には、ちょっと精神的にイカレてしまっている妹がいる。リカの写真を残らずスクラップしている、という偏執的なリカのファンで、リカの写真に埋もれながら、1年中自分の部屋からほとんど出ずに暮らしている。晴紀が妙なドラッグやら睡眠薬やらの売人と繋がりを持ち始めたのも、眠れないという妹に、親には内緒で睡眠薬を渡してやるためだった。
 トールも1度だけ、遊び半分で服用に付き合ったが、楽天家のトールにはあまり必要性のないものだった。違法な薬を扱う連中と付き合うなんてヤバイよな、と晴紀のことが心配ではあったが、晴紀の妹への溺愛ぶりは知っていたので、とにかく自分はやらないようにしよう、とだけ肝に銘じ、何も言わずにおいたのだ。
 「心配するなって。そんなことはいいから―――持っとけよ、これ」
 「…えー…、おれ、あんまり好きじゃないしなぁ、こういうの」
 トールが渋い顔をすると、晴紀はクックッと噛み殺したような笑い声をたてた。
 「バカ、お前が飲むんじゃねぇよ」
 「?」
 「言っただろ? リカの後押しをしてやろうぜ、って。…要するに、邪魔なんだろ、その女。男にベタ惚れで、警戒心も強くて、隠れて他の男と遊ぶこともしない真面目な女なんだよな。だったら―――こいつを飲ませちまえば、話は早い」
 「…いや…でも、それ、犯罪でしょ」
 冗談かと思ったトールは、苦笑混じりにそう突っ込みを入れた。
 だが、晴紀はそれを聞いて、可笑しそうに笑った。
 「何言ってんだよ。眠らせて拉致るとかじゃなく、最高にいい気分にさせて、一緒に楽しもうってだけだろ。下心アリで酒飲ますのと何が違うんだよ。今時、中高生でも買ってる奴いるぜ、こんなもん。古着屋とか雑貨売ってる店に、普通に置いてあるし」
 「…まあ、そりゃ、そうなんだけど」
 トールがよく行く雑貨屋でも、表通りからは目立たない店の奥に、ショーケースに入れられて並んでいる。一見ラムネみたいに見えるが、ラムネに5千円はないだろう。制服姿の男女がそれを買って行くのを見たのだって、1度や2度じゃない。
 「やったことある奴の話だと、泥酔まで行かない酒酔い状態に似てるらしいぜ。だから、酒に混ぜちゃえば、絶対わかんねーよ。ビール1杯で、5、6本飲ませたのと同じ状態になるようなもんだから」
 「…でもさぁ…」
 「なんだよ。お前だって、女に酒飲ませてホテルに連れ込んだこと位あるだろ? ちょっと違うもんも混じってるけど、基本同じだって、それと」
 今になってみれば、違法なものが混じってるんだから全然違うだろ、とわかるのだが―――同じだろ、と繰り返されるにつれ、だんだん「酒飲ますのと何が違うんだろう?」という気がしてきてしまう。
 そして、とどめを刺すように、晴紀から「協力してくれたら、借金返さなくていいぞ」と言われ、とうとうトールは、その薬を受け取ってしまった。
 車を買うために以前から貯金をしていたトールにとって、晴紀に借りていた額が白紙になるのは、魅力的すぎる話だったのだ。

 


 「―――あんたの新車購入費用のために、私は貞操の危機に晒されてた訳だ?」
 「う…っ、そ、それを言われると…」
 咲夜が両手を腰に当てて片方の眉を冷ややかに上げると、トールはすごすごと体を縮め、恐縮した態度になった。
 「でも、なんていうか…ああいう時って、一種の洗脳状態にあるのか、マジで“大したことない”って思ってたんだよな。でも、咲夜さんがいきなり具合悪くなったの見た瞬間に、一気に頭が冷たくなった。ヤバイ、おれ、とんでもないことやっちゃったかも、って、完全にパニクってさ―――藤堂さん来た時に“助かった”って言ったの、あれ本気だったんだよ」
 「ふーん」
 「いや、ほんとに。だって、あのカクテルに混ぜたのって、1錠だけなんだぜ? 2分の1錠も飲んでないのに、あんな状態になったもんだから、あの後、晴紀に“本当は別のドラッグだったんじゃないか、騙したんじゃないか”って詰め寄っちゃったよ。まあ、晴紀も素で驚いてたから、他の変な薬じゃなかったみたいだけど」
 「…バカ。あの薬自体、変な薬じゃん」
 咲夜が入れた突っ込みに、トールも返す言葉がないらしく、「そりゃ、そうなんだけど」と小さく呟くだけだった。
 まあ、でも―――トールの心理状態は、理解は無理だが、想像はつく。トールは日頃、そうしたドラッグを売り買いしている場面を目にしているし、親しくしている仲間が服用しているのも見ており、1度は自分も使用している。違法なことという認識はあっても、ドラッグに対する抵抗感は、ドラッグとは無縁に生きている咲夜などよりずっと小さいだろう。だから、晴紀に上手いこと言われて、「大したことない」と思い込んでしまった―――けれど、我に返れば「なんてことをしちゃったんだ」と真っ青になれる程度のモラルは持ち合わせているのだ。
 ―――でも、その晴紀って奴は、トールほどのモラルは持ち合わせてなさそうだな…。
 かなり後ろ暗い部分のありそうな晴紀のことを想像し、咲夜は少し眉をひそめた。
 「…それで、その晴紀とかいう奴は、昨日のこと、何て言ってた?」
 「うーん…、いや、別に。計画失敗して面白くなさそうにしてたし、もう同じ手は使えないな、って渋い顔はしてたけど…」
 「…てことは、また何か画策してくる可能性あり、ってことか…」
 「―――晴紀もさ、そんなに悪い奴じゃないんだよ、普段は。ただ、リカに関しては……っていうか、妹に関しては、ちょっと普通じゃないから」
 難しい顔をする咲夜に、トールは、ちょっと遠慮がちながらもそう言った。
 「ガキの頃、晴紀自身が妹を結構苛めてたもんだから、妹がイジメで頭ヘンになってからは、半分は俺の責任だ、っつって妹溺愛レベルが普通じゃなくてさ。あ、その妹、リカと同じ高校でさ。晴紀とリカが親しいってわかったら、イジメ、ぴたっと止まったんだって。リカ、学校イチのアイドルだったから。まあ…そういうこともあって、晴紀の奴、妹を救ってくれたリカのためなら、何やっても構わない、みたいなとこがあって―――」
 「……」
 「…って、咲夜さんに言っても、何の言い訳にもならない、よ、な」
 「…そうだね」
 ふっ、と一瞬笑った咲夜は、しかし、すぐに表情を引き締めた。
 「でも、その晴紀って奴が、リカのためなら違法なことでも平気でやる奴で、本人の中ではそれが“正しいこと”なんだ、ってことは、よくわかった。…厄介な相手だな、つくづく…」
 「…あの…、おれ、どーなる訳? やっぱり、この店、クビになるとか…」
 不安そうに言うトールに、咲夜は大きなため息をつき、暫し考え込んだ。

 問答無用で警察に通報する、という手もあるが、全ては晴紀のいない現場で起こったこと―――トールは逃げようがないだろうが、無事晴紀まで警察の手が及ぶかどうか、甚だ怪しい。第一、咲夜が店から安全に退去できている以上、未遂事件として扱われるかどうかすら定かではない。少なくとも昨晩のことで、警察に訴え出ることは、咲夜は考えていない。
 だが、今、晴紀と直接対決するのは、得策じゃない。
 多分、晴紀の方は、このトールのように簡単にはギブアップしないだろう。証拠がある、と言って迫ったら、その証拠を握りつぶすタイプに違いない。下手な行動を取れば、咲夜の方が更なる危険に晒される羽目になる。
 そして何より―――リカのため、という大義名分を振りかざしての行動が、自分ではなく奏に向くのが、一番怖い。
 …駄目だ。今は、晴紀を刺激すべきじゃない。

 「…トール君」
 考えをまとめた咲夜は、目を上げ、不安そうなトールの顔を見上げた。
 「昨日のドラッグ、1錠だけ使った、って言ったよね。…残り1錠、今、持ってる?」
 「え? あ…、ああ、うん」
 「出して」
 有無を言わさぬ強さでそう言って、咲夜が手のひらを差し出す。トールは困惑した表情を浮かべたが、斜め掛けしていたボディバッグの中をごそごそと漁り、小さなビニールの袋に入ったそれを引っ張り出してきて、咲夜の手の上に置いた。
 話にあったとおり、ビニール袋の中身は、まるでラムネみたいな小さな可愛い錠剤だった。こんなもので、大人の女1人が、ああいう状態に陥るのか―――若者にウケがいいよう、おもちゃめいた外見に作られているそれを見て、咲夜は忌々しそうに眉を顰めた。
 「これ、私が預かっておくから」
 「えっ」
 「今後、何か体に異常が出たら、この薬のせいかもしれないじゃん。その時は、この薬を分析してもらう必要もあるかもしれないから」
 「…そ…っか、そうだよな」
 改めて事の重大さを思い知ったのか、トールの顔が、また一段と青褪める。少なくとも、冷静になることさえできれば、比較的まともな頭の持ち主らしい。苦笑した咲夜は、薬の入った袋をポケットに突っ込み、トールを見据えた。
 「さて、トール君。何か私に言うこと、忘れてないかな」
 咲夜に言われ、ハッとしたように目を見張ったトールは、大事な一言をまだ言っていないことに思い至った。慌てて居住まいを正すと、トールは咲夜に向かって、深々と頭を下げた。
 「―――…申し訳、ありませんでした」
 「…ん、よし」
 下げられた頭を、ぽん、と一度軽く叩いた咲夜は、少し腰を屈めて、トールの顔を覗き込んだ。
 「3つ、約束して」
 「……」
 え? という目をして顔を上げたトールに、咲夜は、目の前に人差し指1本を示してみせた。
 「まず1つ。今この瞬間から、リカとの賭けはゲームオーバーにすること。もう誘うのもナシだし、卑怯な手口で落とそうとするのもナシ。2つ目は、もし、晴紀がまた何か仕掛けてきそうな気配があったら、適当な理由つけて、止めて。それが私に対してじゃなく、リカや他の人間に対してでも。そして3つ目―――今日、私と話したことは、晴紀にもリカにも言わないで。少なくとも…今週いっぱいは」
 「え、なんで?」
 「どうしても。強いて言うなら、事を荒立てたくない時期だから、かな。…どう、約束できる?」
 ちょっと不思議そうな顔をしたトールだが、3つ目以外は納得がいったのか、神妙な面持ちでコクリと頷いた。ホッ、と息をついた咲夜は、僅かに表情を緩め、背筋を伸ばした。
 「じゃ、この件はひとまず、これでおしまい」
 「え……っ」
 さすがに意外だったのか、トールの目が丸くなる。
 「い、いいのかよ、それで」
 「こんな危険なバーテンダーは即刻解雇しろ、って店に訴えなくていいのか、って? ハハ…、こんなに簡単に私に弱み握られまくってるんじゃ、ね。トール君のおかげで女性客増えたらしいし、バーテンダーとしても優秀だって話だから、置いといてこき使った方が得策じゃない?」
 「キ、キツイなー」
 泣き笑いのような顔になるトールに、咲夜は、完全に自分がゲームの主導権を握ったことを確信した。

 もう、トールは、脅威でも何でもない。
 そして、確信を持てずにいた事実も、事実と明らかになってしまった今―――残る問題は、ただ1つだ。

 いよいよ、避け続けてきたことと、向き合うしかないのか。
 トールに強気の笑みを返してみせながら、咲夜は、体がずっしりと重くなるのを感じた。


***


 ―――まさに、精も魂も尽き果てるまで、って感じだな。
 もう何曲目かわからない曲を歌い終え、ピアノに手をついて肩で息をしている咲夜を見て、拓海はそう思った。
 「…あんまり、飛ばすなよ、おい」
 一応心配してそう声をかけたが、顔を上げた咲夜は、僅かに口元だけで笑い、首を振った。
 「ううん、まだ、足りない。…次、“I'm a fool to want you”、お願い」
 「…はいはい」
 事情は知らないが、こういう時、本人が納得するまで歌わせた方がいい―――咲夜のこめかみから伝う汗を見なかったフリをして、拓海は再び、鍵盤を叩き始めた。


 『ごめん、今日……ちょっと、部屋借りてもいいかな』
 夕方、唐突にかかってきた、咲夜からの電話。
 ただのボイストレーニングのために借りたいにしては、電話から聞こえたその声は、やけに深刻そうで、暗かった。これは何かあったな、と直感的に感じた拓海は、マネージャーと飲む約束をしていたのを断り、部屋に戻った。
 案の定、咲夜の目は、すっかり精彩を欠いていた。そう……ちょうど1年ほど前、奏と喧嘩でもしたのか、落ち込んだ様子でこの部屋にやって来た時と、よく似た目をしていた。いや、あの時より、状態は深刻そうに見える。
 何があったにせよ、原因は、奏だろう―――何も言わず、すぐに歌い始めた咲夜の様子に、拓海はそう考えた。
 自惚れでも何でもなく、咲夜をこれほど打ちのめすことができるのは、自分を除いては、この世には2人しかいない。1人は、血を分けた実の父、そしてもう1人は、咲夜にとっては唯一の親友で、今は恋人でもある男―――奏だけだ。拓海の手を離れ、父とも極力関わらないようにしてきた咲夜が、今、何かに追い詰められているのだとしたら…消去法で、原因は奏しかあり得なかった。
 咲夜がリクエストする曲が、どちらかというと悲恋の曲ばかりであることに、一抹の不安を感じるものの―――拓海は、何も訊かずにおいた。
 昔から咲夜は、本音を滅多に見せない。いつだって平然とした顔をキープしているが、その仮面の下で、やるせない気持ちに涙を流したり、不安に震えていたり、焦がれる想いを静かに温めているタイプだ。
 その、隠した本音が、咲夜を歌わせる―――歌って、歌って、精魂尽き果てるまで歌って……そこで、やっと、咲夜を覆う最後の1枚が剥がれ落ちる。言葉や表情として“それ”が表れるのは、感情の全てを、歌で吐き出しきってからだ。
 だったら、歌えばいい。
 体力の続く限り、声の続く限り、歌って歌って、閉じ込めた想いをぶちまければいい。だから―――何も、訊かなかった。

 咲夜が、自分を覆う殻を破るようにして歌う時の歌が、拓海は昔から好きだった。
 それは時に、苦しそうで、決して耳に心地よい歌声ではないことも多かったが、こういう時の咲夜の歌は、自分自身を揺さぶると同時に、聴く者の心も揺さぶる。日頃、自覚することすら忘れているような思いがけない「自分」が揺さぶられるのを感じる。
 白鍵と黒鍵を叩きながら、拓海は何故か、アメリカに渡ったばかりの頃の自分を思い出していた。才能さえあればやっていける国だと思っていた自分が直面した、甘くない現実、厳しすぎる生活―――誰も信じられなくなっていた中、支えとなったのは、同じ思いをしながら音楽を愛する、仲間たちだった。そんな仲間にすら裏切られた時は、もう日本に帰ろうと思ったっけ―――その後、そんなことが何度もあって、いつしか「人間なんてそんなもん」と思うようになったが。


 「Take me back, I love you... Pity me, I need you... I know it's wrong, it must be wrong... But right or wrong, I can't get along without you ―――…」

 悲しすぎる歌詞と音色の『I'm a fool to want you』を歌い終わり、ピアノの最後の音の余韻が消えた。
 ピアノの縁に手を置いた咲夜は、今度はリクエストを口にせず、まるで消えた音に耳を澄ましているみたいに、暫しそのまま俯いていた。十分な時間待って、拓海はやっと、本題に触れた。
 「―――何か、あったのか。一宮君と」
 「……」
 ようやく、咲夜が顔を上げる。
 その顔は、全ての覆いを取り払った―――心細そうな、迷子のような顔だった。

 


 それから咲夜は、ぽつりぽつりと、これまでの経緯をかいつまんで拓海に語った。
 勿論、詳しいことなど、拓海には言えなかった。特に、昨夜あったことについては……大事には至らなかったとはいえ、ドラッグを混入された酒を飲まされたことなど、親友をドラッグで失っている拓海には、絶対に言えない。
 リカの名も、トールの名も出さず、咲夜はただ本質的なことだけを話した。奏をメイク担当として初めて指名してきた女の子がいること。その彼女がどうやら奏を慕っているらしいこと。奏も、後輩モデルとして憎からず思い、色々相談に乗ってやっていること。彼女の友人が咲夜に接近し、奏と咲夜の仲を裂こうとしていたこと。そのことに薄々気づいたが、確証はないし、奏の仕事に影響があっては、と考え、黙っていようと決めたこと。けれど昨日、彼女が借りた金を返す名目でアパートまでやってきたのを見て、さすがに我慢できず、深入りしない方がいい、とだけ忠告したこと。けれど―――最後まで、本当の疑惑については、奏に言えなかったこと。

 「なんで言わないんだ? 言えばいいだろ、その子が裏で何をやってるか」
 咲夜が座るソファの肘掛部分に腰かけた拓海は、ちょっと怪訝そうな顔をした。
 咲夜の悩み事などを聞く時は、拓海は向かいの席には座らず、こんな風に咲夜と並んで座ることが多い。それでも、きちんと隣の席に座らず、肘掛に半分だけ座るようなスタイルになっているのは、彼なりに気を遣っているのかもしれない。
 「…今日、言い寄って来てた奴問い詰めて、ほぼ私の推測通りだった、ってわかったけど―――昨日の時点では、まだ確証はなかったから」
 「それでも、咲夜が妙な奴からモーションかけられ続けてたのも、そいつが彼女の名前を電話で口にしたのも、事実だろ? その事実だけでも話してやりゃあ良かったのに」
 「うん…そうなんだけど…」

 その続きを口にしようとして―――言葉に、詰まった。
 僅かに瞳を揺らした咲夜は、視線を膝の上に置いた手に落とし、呟くように口を開いた。

 「…もし、事実を話したら、ね。なんだか…奏は、そんな疑いを持たれる彼女より、その事実と彼女を結びつける私を、非難する気がした」
 「え?」
 「昨日もね、奏のことは疑ってない、でも彼女の真意はわからないだろう、って言ったんだけど―――よく知らない人間を、そういう色眼鏡で見るのはどうかと思う、って。自分の下心を疑われたと思ったからこそ、ムキになって“自分たちの付き合いには絶対私情なんて入ってない”って証明しようとしたんだろうけど、でも―――…」
 「…でも?」
 「―――…でも、心のどこかで、あんなにムキになるほど、あの子を庇いたかったのかな、って思ってる自分も、ちょっといる」
 「……」
 「私がどんな事実を突きつけても、奏は彼女を疑ったりはしないのかもしれない。彼女を疑う私を責めて、疑り深い女なんて嫌いだ、って愛想尽かすかもしれない。その位、あの子のことが……大切、なのかもしれない、って」
 それが、恋愛であったにしても、そうではなかったにしても。
 そこに、思いがけず蓮と一緒に帰ってきた咲夜に対する、奏らしい憤りや苛立ちがあったのだとしても。
 「…私より、あの子を必要としてるのかもしれない、って、ほんのちょっとだけ思ったら……言うの、怖くなった」

 膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、咲夜はそのまま、押し黙った。
 拓海は、そんな咲夜を少し驚いたような顔で凝視していたが、やがて、小さく息を吐き出すと、少し咲夜の顔を覗き込むようにして訊ねた。
 「…信じて、ないのか。一宮君を」
 拓海の問いに、咲夜は俯いたまま、小さく首を振った。
 が、その直後、少し顔を上げ、拓海の顔ではないどこか別の場所をじっと見据えた。そして、目を伏せると、今首を振ったことを否定するように、更に大きく首を振った。
 「…信じてる、とは、ちょっと違う」
 「なんだ、そりゃ」
 「…信じなくちゃ、って思う」
 「……」
 「あんなに必死に、想いを伝えてくれたんだもの。信じなくちゃ―――あの時の気持ちが絶対変わらないって、誰よりも私が信じなくちゃ、って思う。奏の周りに、どれだけ魅力的な女の人が現れても、奏がどんなに、別の女の人を褒めちぎっても、私は……私だけは、信じなくちゃ、って」
 そこで言葉を切ると、咲夜は再び、目を上げた。
 拓海の姿が、少し、ぼやけて見える。悔しいが、涙が滲んできていた。驚いたように目を丸くする拓海に、咲夜は一度唇を噛み、絞り出すように続けた。
 「でもね、拓海―――信じるのが、怖いんだ」
 「…怖い?」
 「何ひとつ疑わずに、奏のことを信じきっちゃったら……もし、奏が別の人を好きになった時、私、どうすればいいかわかんないよ」
 「……」
 「あいつ、だって―――お父さんだって、あんなに愛してたお母さんを裏切ったじゃない。お母さんが死んでたった2ヶ月で、おなかの中にいる芽衣に話しかけて、私の目の前で笑ってみせたじゃない。ううん…お父さんだけじゃない、蛍子さんだって、香苗さんだって、私だって、奏だって―――昔は好きだった人をだんだん忘れていって、今は別の人を好きになってる。…人の気持ちは、変わるんだよ。それがいい悪いじゃなくて、そういうものなんだ、人間なんて」
 「……」
 「信じきってしまったら……奏の心が変わった時、きっと私、生きていけないよ」
 瞬きと同時に、涙がこぼれ落ちる。
 「お父さんから、蛍子さんのおなかに芽衣がいる、って話聞いた時の、あの気持ち―――信頼しきってた人に裏切られる辛さをもう1回味わうなんて、絶対、耐えられない」
 「…咲夜…」
 「…だから、いつも、逃げ道を作ってるのかもしれない。何があっても、ほらやっぱりね、こんなこと位予想してたから大丈夫、って自分に言い聞かせられるように、いつもいつも…」

 いつも、そうやって、生きてきた。
 特に、信頼していた友達から、手酷い裏切りを受けてからは余計に―――咲夜は、いつも、心に逃げ道を作りながら生きてきた。誰も友達と呼ばず、深くは関わらず、ただその瞬間を、その場所を、その目標を共有するだけの“仲間”だけを求めてきた。
 拓海に対しても、こと、恋愛感情では、常に逃げ道を作っていた。この想いさえあれば、それでいい―――その言葉を呪文みたいに繰り返しては、拓海の中に見知らぬ女の気配を見つけるたびに感じる悲しさを、苦しさを、ずっと誤魔化し続けていた。
 だから、リカの件に関しても、奏を信じたいと思う一方、疑ってしまう自分がいる。
 奏があんなに庇うのは、奏が自覚してないだけで、本当は奏もリカに惹かれてるからかもしれない。誰が見たって、咲夜よりリカの方が綺麗だし、奏ともつり合っているのだ、奏自身がそう思ったって別に不思議じゃない。信じたくても、信じきっちゃいけない―――そうやって、心にブレーキをかけてしまう自分がいる。
 100パーセント寄りかかってしまえば、支えがなくなった時、立っていられないから。
 そして、立っていられなくなった時のあの痛みを、嫌になるほど、よく覚えているから。

 「…信じたいのに、信じるのが、怖くて」
 こぼれてきた涙を、手の甲で押さえる。それでも、どうしても涙が止まらなかった。
 「抱きしめて欲しい人は1人しかいない、って言ったのに―――今だって、抱きしめて欲しいって思うのに、毎日……毎日、何かが足りないって思う自分と、ホッとする自分がいるの。だって、」
 「咲夜…、もう、いいから」
 痛々しいものを見るかのように目を眇め、拓海がそう言って、咲夜を制する。が、咲夜自身にも、もう止めることができなかった。
 「だって―――怖いの。奏に抱かれたりしたら、私…きっと、もっと奏のこと好きになって、もっと奏のこと独占したいと思うようになる。そうなるのが怖い―――今より好きになるのが、怖いの」
 「……」
 「親友としてなら、誰にも負けない自信がある。胸張って言えるよ。奏にとってこの世で一番大事な友達は、絶対に私だって。けど、“女”としては……自信が、全然ない。恋人として奏に選ばれ続ける自信なんて、全然―――…」

 そこで、咲夜の言葉は、途切れた。

 頬が、熱い。
 自分の熱が、そこだけ増幅されたみたいに、熱い。その熱さが、頬に添えられた手のひらのせいだと、咲夜には一瞬、理解できなかった。
 そして、唇に触れているのが、拓海の唇だということも、すぐには理解できなかった。
 「…………」
 言葉を失い、目を見開いたまま、咲夜の思考は、刹那、完全にストップした。
 いやに記憶にある感触であることに、頭より唇が先に気づく。ああ、そうか、すっかり忘れていたけど、昔から拓海とは、挨拶代わりにキスをしてたっけ―――そんな場違いなことを、ぼんやり思い出す。けれど、今重ねられている唇が挨拶代わりとは、さすがに思い難かった。

 長いキスの後、やっと唇を離した拓海は、まだ大きく目を見開いている咲夜の目を覗き込み、試すような不敵な笑みを浮かべた。
 「―――だったら、また、戻ってくるか?」
 「……」
 「あいつを好きになる前のお前に戻って、またここで、俺のこと想って歌い続ける毎日でも送るか?」
 質問の意味が、わかるようで、わからない。が、1度ゆっくり瞬きをした咲夜は、拓海の目を見つめたまま、首を横に振った。その反応を見て、拓海ははーっ、と大きなため息とともに苦笑し、咲夜の頬から手を離した。
 「まぁったく―――仮にも一度寝た男の前で、そういう泣き顔、晒すなよ」
 「…え…?」
 「煽るな、ってこと」
 「???」
 「…まあ、とにかく」
 ぽんぽん、と咲夜の頭を軽く叩いた拓海は、おもむろに立ち上がり、ピアノの方へと歩き出した。
 「お前があいつのこと、本気で手放したくないなら―――今俺に言ったこと、全部、あいつ自身に言えばいい」
 「奏に…?」
 「そ。俺じゃなく、一宮君に」
 「…でも…奏が聞いたら、きっと呆れるよ」
 自嘲気味な笑みを口元に浮かべて咲夜が言うと、ピアノの前に座った拓海は、少し体を乗り出して顔を覗かせ、苦笑してみせた。
 「呆れるどころか、喜ぶかもな。日頃、本音見せないお前が、そこまで素で泣きじゃくってみせれば」
 「……」
 「…俺と似てるから、お前が臆病になる気持ちも、嫌になるほどよくわかる。でもな。こと、恋愛に関しちゃ、臆病にならない奴なんていない―――女だけじゃなく、男も、な」
 「……」
 「ま…、気が済むまで、休んで行けよ。幸い酒も飲んでないから、終電逃しても俺が送ってやるから」
 そう言うと、拓海は再びピアノに向き直り、短調の和音を奏でた。
 続いて流れてきたのは、先ほど咲夜の歌に合わせて弾いたのと同じ、『I'm a fool to want you』だった。ピアノソロ用にアレンジしてあるそれを聴きながら、咲夜は静かに息を吐き出し、ソファに深く沈みこんだ。


 ―――何、だったんだろ…。さっきのキスは。
 目を閉じ、ピアノの調べに耳を傾けながら、咲夜はぼんやりと、あのキスの意味を考えた。
 咲夜に同情したから? それとも、もうやめろ、と言っても止まれなかった咲夜を、問答無用で黙らせるため? それとも、女の扱いには慣れている拓海のことだ、泣いてわめき散らす女相手には、これが常套手段なのだろうか。
 でも、その意味が、どんな意味だったにしても。
 拓海に、キスをされた―――その事実だけは、変わることはない。

 目を開けて、そっと、指先で唇に触れてみる。
 今さっき、涙を拭った指先は、まだ微かに涙が残っていた。唇に感じる涙の味に、咲夜は、少し眉をひそめた。

 もし、奏が、このことを知ったら。
 拓海にキスされてしまったと知ったら―――奏は、どう思うだろう…?

 自分からしたキスではないのに、言いようのない罪悪感が、急速に湧いてくる。
 今日、ここに来たのは、間違いだったんだろうか―――ズキリ、と痛む胸に、咲夜はきつく唇を噛んだ。


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