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― 臆病なハート -side Sou- ―

 

 1、鍵を開ける。
 2、窓枠を持つ。
 3、右にスライドさせる。
 たったこれだけのアクションを、「オリンピックで金メダルを取るより難しい」と感じているのなんて、多分、世界で自分だけだろう―――なんてことを、第1動作である「鍵を開ける」すら出来ない奏は、しみじみと考えた。

 リカの突然の訪問を受け、咲夜が前後不覚に近い状態で帰ってきた、最悪の夜の、翌朝。
 熟睡とは程遠い眠りの後、奏を襲ったのは、5割の憤りと5割の後悔だった。
 咲夜に腹を立てている一方で、自分にも腹が立つ。同じ自己弁護をするにしても、もっとマシな言い方があったのではないか、自己弁護に終始してしまったのはまずかったのではないか―――じゃあどう言えば良かったのか、と考えても、今ひとついい考えは思い浮かばなかった。
 瑞樹などは、あれほど口数が少ない癖に、たまに口にする短い言葉は、実に的確で無駄がない。彼に比べれば圧倒的に口数が多いのに、いざという時、相手に理解してもらえる言葉を何ひとつ紡げない自分に、ほとほと愛想が尽きるというものだ。
 ―――いや…それよりまず、咲夜に愛想尽かされてる可能性の方が……。
 自分で自分に突っ込みを入れて、これ以上落ちようのなかった気分が、更に数センチ、陥没した。

 昨晩のことを、咲夜がどの程度気にしているかは不明だが、隣の部屋の窓も、いつまで経っても開く気配を見せなかった。
 隣の様子を気にしながらも、奏自身も出かける支度をしていたら、いつも咲夜が出かけるのとほぼ同じ時刻に、隣の部屋のドアが開く音がした。
 会社に行けるということは、とりあえず、体調は良くなったのだろうか。
 …いや、大事な仕事があって、無理をして出かけるのかもしれない。実際に顔を見たら、今にも倒れそうな顔をしてるのかもしれない。
 なのに―――たった数メートル先にあるドアを開けてそれを確かめることすら、今の奏には、とてつもなく難しかった。

***

 幸か不幸か、この日の奏は、かなり忙しかった。
 基本的に予約制を取ってはいる“Studio K.K.”だが、急に大切な集まりに出ることになった、などと言って予約なしで飛び込んでくる常連客も結構多い。そして、この日の午前中は、予約なしの客が連続で2名やってきて、よりによって2人とも、午後から出勤予定の氷室を指名した。
 もしこれが美容院なら、「やっぱり氷室さんでないと」と言ってまた後日の予約を取れば済むことなのだが、メイクはそうはいかない。数時間後にあるイベントのためにメイクを施したいから来たのであって、今メイクしてもらえないと意味がないのだ。
 メイク担当スタッフが極端に少ない日(仏滅は、イベントごとも少ないせいか、普段からメイク客が少ないので、そのようにシフトが組まれているのだ)なのに、予定外の客が連続してしまった結果、残ったメイクスタッフはフル稼働だ。テンはぶつぶつ言っていたが、奏はむしろ、ありがたかった。


 他のスタッフに先に休憩を取ってもらい、奏が昼休みに入れたのは、午後1時半を回ってからだった。
 先に休憩を取った筈のテンがまだ戻って来ていなかったが、ちょうど客の切れている時間なので、ここを逃すと昼抜きになってしまう。「休憩入ります」と残ったスタッフに声をかけ、奏はロッカールームに向かった。
 ―――あー…、さすがに腹減ったなー。
 財布や携帯を取り出し、ロッカーのドアを閉める。そのバタン、という音と同時に、なんだか、ピンと張り詰めていた緊張が緩むのを感じた。
 「……」
 一気に、気が抜けた。
 力尽きたように、奏は、その場にあったスチール椅子に座り込んでしまった。
 両肘を傍にあったテーブルにつき、頭を抱えると、脳裏に浮かんでくるのは昨晩の咲夜の顔ばかりだ。特に、「もういい」と言った時の、あの真意の読めない静かすぎる表情―――その意味を、何度も何度も考えるのに、いまだ奏は、その答えが見つからずにいた。

 『うん。わかったから、大丈夫。…ごめん。私が口出しするべき問題じゃなかったんだよ。もう、言わない』

 …何を「わかった」というのだろう?
 奏に何らやましい部分はない、ということを「わかった」のであれば―――奏が必死に訴えたことが通じたのならば、問題はない。でも…何故だろう? 昨晩、あのセリフを聞いた時、奏はもの凄く嫌な予感がした。なんだか……奏が微塵も考えたことのないようなことを「わかった」と言っている気がして。
 もういい、という言葉も、多分「もうこれ以上の弁解は必要ない」という意味だと思うけれど―――何故か、奏の存在自体を切り捨てられたような気がして……言い訳がましい男なんて嫌いだ、と言って背を向けられたような気がして、不安になってくる。
 我ながら、情けない。
 比較的楽天家でポジティブな方だと、周囲からも言われ、自分でもそう思っていた。深く考えるより、なんとかなるさ、と行動に移す方な筈だった。人の言葉を疑うことなんて滅多にないし、ぶつけられた言葉の裏を考えるなんて面倒なことも苦手だ。「Simple is the best」という言葉は、自分のためにあるようなものだ、と思ってきた。なのに。
 「…オレらしくねー…」
 思わず、声に出して呟いてしまう。
 不安なら、真意を訊けばいい。背を向けられたと思うなら、追いかけて振り向かせればいい。ただそれだけのことが、何故、咲夜に対してだけ出来ない? 一番真意を知りたい、振り向かせたい相手なのに。


 「どうかしたん?」
 「!!」
 突如、思いがけない声が間近で聞こえ、奏は驚いてガバッと顔を上げた。
 見れば、財布を握り締めたテンが、奏のすぐ横に立っていた。昼休みから戻ってきたところなのだろう。
 「び、びっくりさせんなよ…。いつの間に帰ってきてたんだよ」
 頭を抱えている姿を見られてしまったことが気恥ずかしくて、つい声が険悪なものになってしまう。そんな奏の声に、テンの表情も面白くなさそうなものになる。
 「フツーに入ってきて、フツーにここに立っただけやのに、幽霊みたいに言われて気ぃ悪いわ」
 「…考え事してたから気づかなかったんだよ」
 気まずそうにそう呟くと、奏はガタガタと音を立てながら、立ち上がった。そのまま昼食を食べに外に行こうと思ったのだが、テンがそれを許してはくれなかった。
 「なあ。いっちゃん、なんかあったやろ」
 「別に。何で」
 「午前中も、ずっと変やったし」
 それは、ちょっと心外だった。奏は、少し目を丸くして、テンを見下ろした。
 「変? オレが?」
 「一瞬でも暇ができると、幽体離脱したみたいにボーッと抜け殻状態になっとったわ。ほぼ毎日見てるから、違いがわかんねん」
 「……」
 「どうせ、咲夜ちゃんと何かあったんやろ」
 少し鼻で笑うような笑い方をして、テンは更に一言、付け加えた。
 「あのお人形さんみたいな顔した自称“お客さん”のことで」
 「―――なんだよ、その言い方」
 さすがに、ムッとした。テンを見下ろす奏の目が、僅かに険しくなる。
 「自称も何も、客だろ、実際に。気持ち悪い言い方するなよ」
 「…そうやって反応してみせるってことは、やっぱり、あの子が原因で揉めてるんや」
 ホラ見たことか、とでも言いたげに、テンが冷ややかな目を向ける。以前から、何故かリカを良く思っていなかったらしいテンからすれば、いずれ咲夜とリカの件で揉めるだろうことは、とうの昔に推測済み、といったところなのだろう。
 「別に、揉めてる訳じゃねーって。一昨日踏み倒した飲み代を、リカが家まで持ってきて―――廊下で金の受け渡ししてハイさようなら、だけのことなのに、咲夜が“あんまり深入りしない方がいい”なんて言うから、反論しただけだよ」
 テンの言い草にムッときているから、口調もぞんざいに、トゲトゲしてしまう。そんなぶっきらぼうな奏の言葉に、テンは少し目を丸くした。
 「深入り? 咲夜ちゃんが、そんなこと言ったん? どうして?」
 「どうしてかなんて、知るかよ。何か誤解してんじゃねーの? オレが呼んだとか個人的な用だとか思われたら嫌だから、きっちり説明したけど」
 「……ふぅん。いっちゃん、理由も聞いてへんの」
 テンの声が、1トーン、低くなる。財布を握ったまま腕組みしたテンは、これ以上ない位、嫌味な笑い方をした。
 「あーっそ。そーなんや。やっぱり思ったとおりや」
 「は?」
 「うん、ええんちゃう? ウチから見ても、いっちゃんには咲夜ちゃんよかあの見た目キレーなお人形さんの方がぴったりや。まー、美男美女同士で、せいぜい楽しくやりや」
 「はぁ!? なんだよ、それ!!」
 「だって、そういうことやろ?」
 気色ばむ奏を、テンはキッ、ときつく睨み上げた。
 「深入りしたらアカン、て咲夜ちゃんが言うたのに、いっちゃん、なんで咲夜ちゃんがそんなこと突然言うたんか、その理由すら確認せんと、深入りなんてしてへん! ってキレたんやろ? それって、聞く耳持たへん、ていう態度やん。咲夜ちゃんが何を思ってそう言ったにしても、自分は正しい、そやからあの子と会うのは辞めへん、ちゅうことやろ?」
 「違…」
 「違っとっても合っとっても、そんなん関係ないねんてっ! そう思われてもしゃあないっちゅうことやろっ!」
 「そんな歪んだ見方する奴、テメーしかいないっつーんだよっ! 咲夜はもっと冷静な奴だ、一緒にすんなっ!」
 「あー、そーや! 咲夜ちゃんはウチよかずーっと冷静で、物事をきちんと見てるわ。変なやきもちも焼かんし、筋の通らん無茶も言わへんわ。その咲夜ちゃんが深入りすな言うたんやで!? なんか事情がある思うのが普通なんちゃうの!?」
 血が上りかけていた奏の頭が、テンのセリフの最後の部分に、凍りつく。ドキン、と、心臓が跳ねた。
 「事、情…?」
 「そうや。叶のお嬢さん時かて、咲夜ちゃんがいっちゃんと距離おいたんには、ちゃんと理由あったんやろ? いっちゃんが知らんかっただけで」
 明日美のことを言われ、ドキンと跳ねた心臓が余計乱れる。
 そう……あの時、咲夜に一方的に距離を置かれ、奏は酷くショックを受けた。まさか明日美が、咲夜と奏の間の友情を羨み、その友情が恋愛感情に発展することを恐れ、その不安を咲夜本人に吐露していたなんて、奏は全然知らなかったし、想像すらしなかった。
 「なのに、咲夜ちゃんの意見も聞かんと、あの子と会うことを正当化ばっかりしとったんやない? 必死に弁解するいっちゃん、想像つくわ。もしもウチがいっちゃんの彼女なら、そんないっちゃん見たら、ああそうなんや、ウチよりあの子を信用しとるんや、本人に自覚がないだけで、こりゃ心変わりしよったな、と思うわ」
 「…っ、おい! ジョークでもそういうこと言うなよっ!」
 もしもテンなら、という前提でも、聞き捨てならない。奏の表情が一気に険しくなった。
 「大体、なんでテンにそこまで言われなきゃいけないんだよ!? テメーに何の関係があるっつーんだよ、え!?」
 「別に関係なんてあらへんわっ! なくても、見ててイライラすんねん! いっちゃんに、下心丸出しで近づいてる女がおるってのに、いっちゃん、まるっきり気づいてないようなフリしてばっかりやし…!」
 「フリじゃねーよっ! つーか、下心丸出しなんて、そんな風に全然みえねーってんだよ!」
 「はあぁ!? それ、マジで言うてんの!? ホンマになーんも気づいてへんのやったら、相当なアホやで!?」
 「悪かったな、どーせアホだよっ! 大体、どういう証拠があるってんだよ!?」
 「ふん、どうせ話したって、いっちゃんはお人形モデルの方を信じるんやろ? なんちゅうても“恋人の忠告より優先した大事な大事な仕事相手”なんやから」
 さすがに、キレた。
 思わず、30センチ以上身長差のあるテンの胸倉を掴む。それでも奏は、平手打ちしそうになる衝動だけは辛うじて抑えこんだ。
 「…テメー、本気で怒るぞ」
 怒りのあまり震えている奏の声に、さすがのテンも、若干青褪める。
 と、その時、奏でもテンでもない第3の手が、2人の間に割って入った。
 「おい、やめろって」
 奏とテンの肩をそれぞれに掴み、ぐい、と引き離す。その手の持ち主は、午後からの出勤予定だった、氷室だった。いつの間にか出勤してきて、この事態に出くわしてしまったらしい。
 氷室が入ったことで、奏の手はテンから離れ、2人はそれぞれに、2歩ほど後ろに下がった。2人の間に立つ氷室は、後ろで結わえた髪がほつれてしまったのが気になるのか、髪を結んでいたゴム紐を解きながら、2人の顔を交互に眺めてため息をついた。
 「…お前ら、ここが店のすぐ裏手だってこと、忘れてるだろ。エキサイトするなら、店の外でやれ。このままじゃ客に言い合いが筒抜けになるぞ」
 「……」
 まだ、怒りに頭が沸騰しそうな状態だったが、確かに氷室の言う通りだ。テンを掴んでいた手を下ろし、奏はその手をぎゅっと握り締めて、怒りを噛み殺した。
 「それに、テン。いくら何でもしつこいし、言いすぎだぞ」
 眼鏡越しに氷室に軽く睨まれ、青褪めていたテンの顔が、気まずそうにうな垂れる。
 けれど、謝る気にはなれないらしく、再び少し顔を上げたテンは、奏からは目を逸らした状態で、ポツリと呟いた。
 「―――初めてこの店で会った時、あの子、ウチのことめっちゃ値踏みするような目で見とった」
 「……」
 「2回目の時も、ウチに対しては、敵意丸出しの目やった。…うちの店では、ウチだけやからやろ、女性スタッフは。ヤマちゃんも気づいて、心配してくれたわ」
 ―――リカが…、テンのことを?
 寝耳に水もいいところだ。少し目を丸くして奏が言葉を失っていると、テンは目を逸らしたまま、更に一言、呟いた。
 「…いっちゃんの“一生懸命”は、時々、その意味がわからへんねん。傍から見てる人間にも、本人にも」
 「は?」
 「いっちゃん」
 逸らしていた目を奏に向け、テンはきっぱりと言い放った。
 「普通の女にとってはただの“親切”も、いっちゃんに気のある女にとっては“期待を持たせる態度”になることも、あんねんで?」
 「……」
 「全く同じ態度がどう目に映るかを決めるんは、いっちゃんの態度やない、相手の女がいっちゃんをどう思ってるか、や。そんでな、女は、そういう気持ちを見抜く勘がめっちゃ鋭いから、あの子がいっちゃんに気があるのも、それにいっちゃんが気づいてへんのもバレバレやねん。ウチでもわかったんや。もっと鋭い咲夜ちゃんが、気づかんなんてこと、あるやろか」
 「……」
 「…少なくともウチには、咲夜ちゃんのためや言うて、ウチらとの約束より咲夜ちゃんのライブを優先して必死にライブハウスにダッシュしてった時のいっちゃんの方が、今のいっちゃんより、咲夜ちゃんを大切にしてるように見えたわ。モテすぎた人生送ってきて、センサー鈍ってるのかもしれへんけど、本気で咲夜ちゃん“だけ”が大事なんやったら、自分に近寄ってくる女の下心の有無位、見抜けるようになってや」
 一気にそう言うと、テンは、はーっ、と息を吐き出し、腹いせのように付け加えた。
 「まあ、もっとも―――半分彼女状態やった叶のお嬢様がいたのに、結局“親友”とくっつきよったいっちゃんのことやからね。咲夜ちゃんがおっても“仕事相手”の方が大事になって、年末にはあの子とくっついてた、なんてオチもあるんちゃうの」
 「……っ!!」
 「奏っ、」
 あまりの暴言に耐えかねて、奏が怒りの形相で1歩踏み出すと同時に、氷室もそれを察して、素早く奏の前に立ちはだかった。下ろしていた握り拳を上げそうになる奏を手で制しつつ、氷室はテンを振り返り、さっきよりきつく睨んだ。
 「いい加減にしろ、テン。今のセリフ、山之内の前でも言えるか?」
 氷室の言葉に、テンはハッとしたように目を見張り、気まずそうに俯いた。
 奏には、何故ここで山之内の名前が出てくるのか、いまいち理解不能だったが―――それでも、テンが自分の言動の理不尽さを理解したらしいとわかり、とりあえず殴りかかるのだけはやめておこう、と、踏み出した足を引き、大きく息を吐き出した。
 テンは、俯いたまま、今度はなかなか顔を上げそうになかった。やれやれ、と息をついた氷室は、奏の腕をポン、と叩き、ゼスチャーで「外に出よう」と奏に言った。確かに、このまま昼休みが終わってしまっては敵わない。頷いた奏は、テンを残し、氷室と共に店の裏手に出た。


 「…許してやってくれ、とは言わないけど―――…」
 通用口のドアが閉まると同時に、氷室がそう言って、奏を振り返った。
 「あんまり、責めないでやってくれよな。テンのこと」
 「…そう言われても……あんまりだろ、あの言い草は」
 テンの言ったこと全てに反発する気はない。けれど、最後の言葉は、絶対に許せるものではない。氷室が止めなかったら、相手が女であっても絶対容赦しなかっただろう。そういう意味では氷室が止めてくれたことに感謝するが、テンに対して感じた怒りは、絶対に不当なものじゃないと断言できる。
 「ああ。確かにあんまりだけど、な。…テンは、あのモデルの子の気持ちもわかるから、自分でもコントロール効かない状態なんだよ」
 「え?」
 「ほら。僕が、テンを振った後。奏がテンの相談に乗ってただろ?」
 「……」
 「失恋のショックを引きずってる時、親身に相談に乗ってくれたから、ちょっと心が動いただけ―――そう、本人も思おうとしてたみたいだけどな。それまで曖昧な返事しかしなかった山之内に交際OKの返事をしたのが、ちょうどお前が咲夜ちゃんと付き合い始めた直後だった、ってことに気づいて、僕にもわかった。案外本気で惚れてたんだな、って」
 ―――マ…、マジっすか。
 そんなの、リカに下心があるなんて事態よりも、更に考えてもみなかった事態だ。奏は、嫌な汗がジワリと滲んでくるのを感じた。
 「あ…、あの、それって、山之内は…」
 「気づいてると思うよ。好きな女の目が誰に向いてるかなんて、特に片想いの間は、男だって敏感に察知するだろ?」
 「……」
 ああ、山之内とも、この先ちょっと気まずいかもしれない―――知りたくなかった、と、奏はガクリとうな垂れた。
 「何があったのか、知らないけど―――…」
 奏のリアクションに苦笑した氷室は、奏の頭をぽんぽん、と叩き、続けた。
 「奏にとって咲夜ちゃんが“特別”だってこと、僕には、よくわかるよ」
 「……」
 「…初めて会った時から、苦しい恋をしてるみたいに見えた。いつも何かに飢えてるみたいで、なんだか、見てて痛々しかったよ、奏は。でも―――新しいアパートに引っ越して、咲夜ちゃんと親しくなってからは、自由に呼吸してるように見えた。…テンは、その辺、あんまり気づいてないんだよ」

 ―――…“特別”……。

 そう。咲夜は、特別だ。
 親友だろうが恋人だろうが仕事相手だろうが、呼び方は、なんだっていい。“咲夜だから”、奏は、明日美より親友を優先した。“咲夜だから”、奏は、仲間より親友を優先した。“咲夜だから”、本来恋愛対象外だった筈の咲夜に、惹かれた。どうしても消し去ることのできない人のことを、すっかり忘れてしまうほどに―――咲夜のことしか、考えられなくなった。
 他の女じゃ、同じことは起こらなかった。全ては、“咲夜だから”―――奏にとって、名前のつけられない、特別な存在の女性だったから、起きたことだ。

 はぁっ、と息を吐き出した奏は、少し顔を上げ、バツの悪そうな笑みを氷室に向けた。
 「…サンキュ、氷室さん」
 その言葉を受け、氷室は静かに微笑んだ。同い年の2人だが、先輩後輩という立場のせいか、それとも、こと恋愛に関しては氷室の方がよりディープな修羅場をくぐってきた経験を持つせいか―――今の奏には、氷室のこの微笑が、とても頼もしいものに感じられた。
 「微力ながら、相談に乗ろうか?」
 奏の表情が、よほど心細げに見えたのか、氷室の方からそう申し出てくれる。けれど。
 「いや―――少し、自分1人で考えたいから」
 そう答え、奏は静かに首を振った。

***

 午後からも、奏は、ひたすら仕事に忙殺された。
 テンとの間には、少々気まずい空気が漂ったままだったが、仕事の場となれば、そんな空気を気にしている暇などない。氷室も仲裁に入るような真似はしなかった。閉店までの時間は、ただただ慌しく、それでいて淡々と過ぎていった。
 時折「幽体離脱しているみたいな状態」になっていることは、テンだけじゃなく他のスタッフにもバレていたらしい。しかも体調不良と勘違いされていたようで、帰りの後片付けは完全免除となり、「早く帰れ」と全員に急かされてしまった。結果、奏は、いつもより若干早めに店を後にすることとなった。


 ―――真っ直ぐ帰る気になれねーなー…。
 軽く夕飯を食べて、時計を見ると、午後9時だった。久々にジムにでも行って、思いっきり体を動かすか、という考えも頭を過ぎるが、なんだかそんな気にもなれなかった。
 ぶらぶら歩きながら、その辺に転がっている石を1つ選んで、蹴飛ばしてみた。
 転がっていった石を追って歩き、追いつくとまた蹴飛ばして―――そんな風に歩いていたら。
 「あっ」
 コントロールを誤って、石が、段差を越えて車道に転がって行ってしまった。
 「……」
 ―――飛び込み自殺しろ、ってかよ、オイ。
 ひっきりなしに車が行き交う車道に、コンコン、とスキップしながら転がっていく石を見送り、洒落にならねー、と心の中で笑う。
 笑った後――― 一気に空しくなった。
 大きなため息をついた奏は、近くにあった街灯に寄りかかり、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

 『咲夜ちゃんはウチよかずーっと冷静で、物事をきちんと見てるわ。変なやきもちも焼かんし、筋の通らん無茶も言わへんわ。その咲夜ちゃんが深入りすな言うたんやで!? なんか事情がある思うのが普通なんちゃうの!?』

 『初めてこの店で会った時、あの子、ウチのことめっちゃ値踏みするような目で見とった。2回目の時も、ウチに対しては、敵意丸出しの目やった。…うちの店では、ウチだけやからやろ、女性スタッフは。ヤマちゃんも気づいて、心配してくれたわ』

 テンがぶちまけたセリフの数々は、はっきり言って頭にくるものが多かった。
 が…、その幾つかは、奏の心に冷水を浴びせるものだった。
 咲夜が何故、あんなことを言ったのか―――考えてもみなかった。その理由なんて。咲夜がリカに関して知っていることは、全て自分を通して知った情報だけだ、と思い込んでいたから、その情報を曲解したものと思っていた。そう思っても仕方ないだろう。リカは、ただの仕事相手だ。個人的な知り合いですらないリカが、咲夜と奏以外の接点を持っているなんて、思い至る人間の方が稀だ。
 でも、テンの言う通り……咲夜は、ただの情報の曲解だけであんなことを言うような性格ではない。悔しいが、その点に関しては、完全に奏が迂闊すぎた。
 それに、テンが言っていた、リカがテンに見せた敵意のことも、テンの被害妄想とは思えない。
 リカが突然、奏の撮影を見学に来た時―――佐倉は、あれがリカとの初対面だった筈だ。なのに、あの後佐倉は、奏に対して、リカに親身になり過ぎなのではないか、と、リカと奏の間を心配するようなことを奏に訴えてきた。なんでそんな穿った見方をするんだろう? と奏は不思議に思ったのだが―――テンの時同様、リカが佐倉を“女”として値踏みし、牽制するような目つきをしたのだとしたら……佐倉の苦言の意味も、ちょっとわかる気がする。
 女性たちが鋭すぎる、ということなのか。
 それとも―――自分が鈍感すぎる、ということなのか。
 何故、咲夜が忠告してきた時、リカのことを少しでも疑おうとしなかったのだろう? 一番信頼している、一番信頼して欲しい相手である咲夜の真意は疑っておきながら、大した関係でもないリカを疑わないなんて―――まさか、本当にテンの言う通りなんだろうか? 自覚してはいないが、いつの間にかリカに心変わりしていた、ということなのだろうか?

 「…んな訳ねーじゃん…」
 1つ崩れると、全部テンのセリフが正しかったような錯覚に陥る。駄目だ―――この状態で1人で考えていると、頭が悪い方向に混乱するばかりだ。
 苛立ちに舌打ちしながら、顔を上げる。と、そこで、数メートル先にある物に気づき、奏は僅かに表情を変えた。
 「―――…」
 それは、国際電話専用の、公衆電話だった。
 今、午後9時過ぎ。…奇しくも、イギリスは昼休みの時間帯だ。
 まるで何かに導かれるように、奏は、電話ボックスに向かって歩き出した。


 『ハロー?』
 久々の母の明るい声に、奏の張り詰めた気持ちが、一瞬緩んだ。
 「……ハロー。ごめん、仕事中に」
 努めて、いつも通りの声を装う。上手くいったのかどうか、甚だ怪しいが、返ってきた母の声の調子に、特に変化はなかった。
 『大丈夫よ、昼休み中だから。珍しいわねぇ、約束した日以外に突然電話してくるなんて』
 「ん…、ちょっと、中途半端に時間空いたから、暇つぶし」
 『あらまぁ。母親に暇つぶしの相手をさせるなんて、親不孝な息子だこと』
 「ハハ…、ごめん。……どう、カレンの奴、上手くやってる?」
 弟の累と結婚した元モデル仲間の名を出してみる。
 9月の頭から、累とカレンは、それまで無理矢理2人で住んでいた狭いフラットを引き払い、奏や累の実家に移り住んでいる。つまり、千里や淳也と同居を始めた訳だ。本当は結婚直後からそうしたかったが、下宿人を1人抱えていたため無理だった。8月いっぱいでその下宿人が出て行ったため、晴れて家族4人での生活をスタートさせられた、という訳だ。
 『上手くやってるわよ。あの子、ご両親と死に別れてから、家庭とは無縁で何年も来たでしょ? だから、なんでもない事にいちいち感動して、こっちも新鮮なのよねぇ…。家族の帰りを待ってるとか、家に帰ってくると誰かが待ってるとか、そんなことで涙ぐむの。ね、いいでしょ』
 「うん…、なんか、わかる」
 千里の楽しげな声から、現在のカレンの様子がなんとなく目に浮かぶようで、奏は思わず笑みを浮かべた。

 カレンとは、叔父である時田が偶然知り合い連れてきた時からの付き合いだ。英語も喋れず、僅かな金だけを持って単身イギリスに渡ってきた彼女は、その少し前に父を、それよりもっと前に母を亡くしており、親戚もいないという完全な「ひとりぼっちの身」だった。父親の看病で疲れ果てていたカレンは「死んでくれてせいせいした」などと口では強がりを言っていたが、やはり家族のない身を悲しんでいたのだと思う。極たまに一宮家を訪れた時は、いつも眩しいものでも見るような目で千里や淳也のことを見ていた。
 モデルになりたい、という夢を持っていたカレンに、事務所を紹介したのは、他ならぬ奏だ。以来、モデル仲間として色々相談にも乗り、一緒に仕事をしたりもした。まあ、それ以外にも色々あった間柄だが……総合すると、ちょうど妹みたいな存在、だろうか。まさか後に本当の“妹”になるとは、さすがに予想ができなかったが。
 ―――あ、そうか。
 カレンのことを懐かしく思い出していた奏は、ふと、あることに気づきいた。
 ―――リカって、昔のカレンに、ちょっと似てるんだ。
 寂しがりの癖に粋がって、強がって。モデル業の予備知識ゼロで、理想は高いのに実力は全然で。今でこそ、それなりのモデルとして活動しているが、最初の頃なんて奏から怒鳴られてばかりで、そのたびに喧嘩になっていた。そう……リカは、あの頃のカレンに、なんとなく似ている。
 だから、リカの相談に乗ったり仕事で協力することに、あまり違和感を覚えなかったのかもしれない。なるほど―――思いがけず気づいた事実に、奏は、深く納得した。

 『あ、そうそう』
 奏が、話の内容とは全然違うことが原因で数秒沈黙しているうちに、千里は何を思い出したのか、ちょっと笑いを含んだ声で話を始めた。
 『累たちが引っ越して来るのに合わせて、ちょっと家中の荷物の整理をしてたんだけどね。物置の中から、面白いものが出て来たわよ』
 「面白いもの?」
 『あんたたちが5歳か6歳の時に、郁夫からプレゼントされた、色違いのミニカー。覚えてる?』
 「……ああー! あれか、オレのが赤で、累のが緑のやつ!」
 ミニカー、といっても、全長15センチほどもある立派なもので、多分子供向けではない、大人のコレクション用の車なのだと思う。確か時田からの誕生日プレゼントだったと思うが、奏も累も大変気に入り、15か16の頃まで、ずっと部屋に飾っていた。
 『下宿人置くのを機に片付けちゃったんだけど、物置に入れてたのね。私もすっかり忘れてたわ』
 「うん、オレも忘れてた。へー、ちゃんと取ってあったんだ。懐かしいなぁ」
 『それがねぇ。もう、対照的すぎて、爆笑モノよ。あんたも実際に見たら、絶対笑うわよ』
 「え?」
 『累の車はね、そりゃもうピカピカで、傷ひとつないの。まるで新品。なのに奏の車は、傷だらけでボロボロ。何箇所も修理した跡があってね』
 「…そうだっけ」
 自分の車がボロボロだった記憶は、しっかりある。何故なら、傷をつけたのも、修理をしたのも、奏自身だからだ。でも、累が車をどうしていたか―――そこの部分は、あまり記憶になかった。
 『車に限らずね、むかーしから、あんたたち2人は何でもそうだったのよ』
 「何でも?」
 『そ。累はね、気に入ったものや大事なものは、壊したり傷つけたりしちゃいけないから、って、あまり入れ物から出さずに、飾っておくタイプだったの。たまーに遊んでも、しまう前にちゃんと磨いたりしてね。で、奏は、その逆―――大好きなモノは、使ってこそ意味がある! っていうタイプ。いっつもそれで遊んでて、学校にも持って行って自慢したりするのよ。だから、すぐボロボロになって、壊れたりしちゃう。それでも、修理したり色を塗りなおしたりして、とことん遊び倒すのよね。奏のおもちゃは、ボロボロさ加減が、奏のお気に入り度のバロメーターなのよ』
 「……」
 『お気に入りの絵本も、累のは折り目ひとつなく綺麗なまま、奏のはボロボロでテープで補修した跡がいっぱいだったし―――ああ、女の子に対してもそうだったわね』
 「えっ」
 思いがけない方向に話が流れ、奏の声が、知らずひっくり返る。
 「お、女の子!?」
 『初恋の女の子。覚えてる?』
 「…いや、全然。誰だっけ」
 『4軒向こうに住んでた、黒人の女の子。3歳の時だったかな。仲良くなりたくて、しつこく追い掛け回してたら、嫌がられちゃっておしまい。その反省から、次に好きになったロシア系の女の子には冷たくして嫌われておしまい。その次のブルーアイズの子には、今度は意地悪してたわよ。スカートめくりとか。やっぱり玉砕してたわね。奏はバリエーションが色々あって面白かったわ』
 「……」
 ―――忘れろよ、そういうことは…。
 『累は日本に行ってから、1級上の女の子が好きになったんだけど、声すらかけられずに、ひたすら眺めてため息ついてたのよねぇ…。おもちゃでも本でも女の子でも、気に入れば気に入るほど、大事すぎて触るのが怖くなっちゃうのね、累は』
 「……」

 大事すぎて―――触るのが、怖くなる。
 …なんだか、累ではなく、今の自分のことを千里に言い当てられた気がして―――ドキリとした。

 その動揺が、電話を通じてでも、千里には伝わってしまったのだろうか。
 『どうかした?』
 少し心配そうな声で、訊ねてくる。情けない―――久々の電話で、こうも簡単に、悟られてしまうなんて。
 「…いや。なんか、今のオレって、昔の累に近いのかもしれないな、と思って」
 『…どういうところが?』
 「うん。…大事すぎて、触るのが怖くなるとこ、とか」
 『……』
 「なんか、最近―――自分で自分が、よくわかんなくて。特別な感情なんて微塵もない相手の言葉は平気で鵜呑みにする癖に、大切で、凄く信頼している奴の言葉を、なんでかわからないけど、疑ったりさ。信用されたい、って思ってるのに、やましいことも何もないのに、いざ疑う素振りが全然ないと何故か腹が立ってきたり、逆に疑うようなことを言われても頭にきたり―――…」
 『…あの、咲夜さん、て人のこと?』
 酷くわかり難い奏の言葉からも、千里には大体、どういう話か想像がついたらしい。少し苦笑を滲ませた声で、ズバリと言い当てられた。
 『疑われるのは心外だけど、焼きもちの一つも焼いてもらえないと不安だし腹が立つ―――典型的よね? そういう話じゃない?』
 「―――お見事」
 さすが、カウンセラー。諸手を上げて降参するしかない。
 『上手くいってないの?』
 「そういう訳じゃ―――ただ…なんか、つい、慎重になっちゃって。オレらしくないな、と思うのに、相手が咲夜だと…」
 『…それは、当然のことよ』
 千里の声が、どことなく、母からカウンセラーに移行する。まるで子守唄でも歌って聞かせるみたいに、千里はゆっくりと、奏に言い聞かせた。
 『誰だってね。好きな人のことは、この世で一番怖いのよ』
 「……」
 『特別な感情を持っていない相手は、怖くも何ともないわ。嫌われようが、誤解されようが、どうってことない―――話を鵜呑みにしちゃうのも、その言葉を疑うほどに、相手と深い関わりがないからよ。本当はああ思ってるんじゃないか、実はこういうつもりなんじゃないか、って、あれこれ真意を推し測ってしまうのは、相手に好かれたい、相手に嫌われたくない、相手の本音が知りたい、って強く願うからよ』
 「…好き、だから、疑う……ってこと?」
 『そう。……いいえ、違うわね』
 「え?」
 『自分が愛されている自信がないから、疑うのよ』
 「―――…」

 核心を、突かれた。
 ずっと―――ずっと目を逸らしていた、自分の中にある一番の本音。認めたくない、一番臆病で意気地なしな自分だ。
 そんなのは関係ない、と言いながら、多分……拓海の存在を一番引きずっているのは、奏自身だろう。咲夜のことを考える時、いつもいつも、うっすらとだが付きまとう、拓海の影―――あれほどまでに咲夜が愛した男だ。意識するな、と言われても、無理な相談だ。
 拓海以上に愛されている自信なんて、ない。
 あの2人が、長い年月の中で培ってきた信頼、愛情、連帯感―――咲夜に応えてもらえた今でも、超えられる自信がない。親友としては、絶対に自分が1番だと自信を持って言えるが、「一番愛されている」という自信なんて……微塵も、ない。
 だから、些細なことで自信が崩れ、咲夜の愛情を疑ってしまう。
 手放したくなくて、絶対に渡したくなくて―――そうなってしまう可能性を見つけるのが、怖くて、怖くて、疑ってしまう。安心しきってしまえば、その隙を突かれて、この手の中から飛び立っていってしまいそうで。

 『奏。あなた、私に、“自分が自分らしくあれる場所を見つけた”って言ったわよね?』
 「…うん」
 『自分らしくない、と思うなら、辞めちゃいなさい』
 「……っ、」
 『何も無理して、自信なさげにウジウジ生きることもないわ。見つけたと思ったのはただの錯覚だったと思って、さっさと別れてしまいなさい。そして、あんたの愛情を100パーセント信じてくれて一生疑うこともない、あんたも愛されてる自信満々で何の不安も感じずにいられるような相手を、今度こそ探しなさい』
 「……」
 『どう? できそう?』
 ―――人が悪いよな、母さんも。
 一瞬、真に受けてしまいそうになった自分に、ちょっと腹が立つ。苦笑した奏は、母には見えないとわかりつつも、首を振った。
 「…そんな相手、宇宙の果てまで探しに行ったって、いる訳ないよ」
 『ん。よくできました』
 電話の向こうの千里の声が、愉快そうになる。
 『誰だってね、大切なものを手に入れてしまうと、それを手放すのが怖くて怖くて、臆病になるの。…臆病になってる自分を、何も恥じることはないわよ、奏。ただ―――臆病になっているのは、何も自分だけじゃない、ってこと、少しは考えてあげて』
 「…うん」

 大切なものを手に入れれば、手放したくなくて、臆病になる―――恋愛に限らず、なんだってそうだ。
 なんだ、そういうことか―――当たり前すぎる、絶対的な真理を見つけて、奏は少しだけ、安堵することができた。

***

 その夜、帰宅した奏は、ベッドに寝転んで、咲夜の帰りを待った。
 ライブのない日だというのに、咲夜はなかなか帰ってこない。一向に物音の聞こえてこない隣の部屋に、時に苛立ち、時に不安を感じながら、奏は、雑誌を眺めたりラジオを聴いたりしながら、ひたすら咲夜を待った。
 そうして、待っているうちに―――うとうとと、眠り込んでしまった。


 夢を見た。

 夢の中で、奏は何故か、ひとりぼっちだった。
 母に電話したせいか、背景は何故か、ロンドンのありふれた街角だった。その街路樹の色づいた木の葉が、ひらひらと、頭上から舞い落ちてくる。1枚、また1枚―――そんな中、奏は、秋の冷たい空気に震えながら、膝を抱えて、誰かを待っていた。
 奏は、誰かに、置いて行かれた身だった。
 もう、ずーっと遠い昔―――誰かに、置いて行かれた。それが誰なのか、夢の中の奏には、わかっていない。でも、ただ強烈に、「裏切られた」という気持ちだけが、ずっしりと重く圧し掛かっていた。裏切られた記憶もないのに―――それは、細胞レベルで刻まれた感情なのかもしれない。あまりに悲しくて、あまりに心細くて、夢の中の奏は、寂しくて寂しくて、今にも死んでしまいそうだった。

 奏が待っているのは、自分を置いて行った誰かではない。
 じゃあ誰を待っているのか、と問われても、それは奏にもわからない。ただ、誰かを待っている。

 早く、会いたい。
 早く会って、抱きしめて欲しい。その体温を感じたい。もう大丈夫だよ、と笑いかけて欲しい。
 そして―――自分もその人を抱きしめて、もう大丈夫だよ、と伝えたい。

 早く……早く、会いたい―――…。


 そして。
 目が、覚めた。

 

 「―――………」
 見上げた天井は、明るかった。
 つけっぱなしにしていたラジオからは、聞き慣れたCMが流れてきている。そのCMは、いつも、朝起きる頃ではなくもっと遅い時間……そう、ちょうど出かける準備をしている頃に流れるCMだ。
 ―――…って、おい、今、何時だ!?
 一気に、目が覚めた。
 ガバッ! と起き上がった奏は、慌てて枕元の時計に目をやった。そして、ラジオから流れるCMが、いつもと同じ時刻にちゃんと流れているのだ、と理解した。
 つまりこれは、明らかに、寝坊したということ。
 「あああ、何やってんだよ、オレ―――…っ!!!!」
 当然、今日は平日だ。仕事がある。ベッドから飛び降りた奏は、大急ぎで着ていた服を脱ぎ捨てた。

 それにしても――― 一体、いつの間に眠りこけてしまったのだろう?
 最後に時計を見たのは、確か日付も変わって、1時近くになっていたと思う。そろそろ公共交通機関も止まっている時間―――それでも帰ってこない咲夜が気になって気になって、眠いどころか目が冴えてしょうがなかった……筈、だった。
 なのに眠ってしまったのは、多分、ラジオのせい。時間帯が時間帯だったせいか、夜想曲(ノクターン)なんてものが流れてしまい、クラシックに滅法耐性のない奏は、1日の疲れも手伝い、すやすやと眠り込んでしまったのだ。
 ―――ちくしょー…、それで、結局咲夜は帰って来たのかよ? 帰って来なかったのかよ? どっちだ?
 帰って来なかった、という可能性は、想像しただけで心臓が縮むのを感じる。なるべく、そんなことは考えたくないが、慌しく出かける支度をする奏は、今、隣の部屋から咲夜の気配がするかどうか、いまいち判断がつかなかった。
 とにかく着替えを済ませ、顔を洗い、変な寝癖のついてしまった髪と格闘していた奏だったが。
 ガチャッ、という音が廊下から聞こえ、その全ての動作が一瞬、ピタッ、と止まった。

 「―――…!!」
 間違い、ない。隣から―――咲夜の部屋から聞こえた。
 そう、脳が判断を下すより早く、奏は玄関に向かって走り出していた。
 スニーカーにつま先だけ突っ込み、素早く鍵を開け、ドアを思い切り開ける。転がり出るように奏が顔を出すと、201号室のドアノブを握っていた人影が、驚いたように奏に目を向けた。
 人影は、やっぱり、咲夜だった。
 寝不足気味なのがありありとわかる、少し赤い目―――けれど、髪はきちんと整っているし、全体的に朝帰りのヨレヨレのイメージではない。ポーズからはわかり難いが、どうやら、今部屋から出てきたところのようだ。
 「お…、おはよ」
 多分、飛び出してきた奏の勢いに飲まれてしまったのだろう。少しぎこちない笑みで、咲夜が挨拶をする。だが、奏の方は、さすがに平和に挨拶などを返していられる状態ではなかった。
 「……い…、いつ、帰って来たんだよ」
 「え?」
 「昨日の夜。オレ、咲夜が帰ってくるの、部屋でずっと待ってて……でも、ついうたた寝したから、お前帰って来たの、全然気づかなかった。1時過ぎまでは覚えてるんだけど――― 一体、何時に帰って来たんだよ?」
 「…2時過ぎ、かな」
 「…電車、止まってるだろ」
 咲夜の瞳が、僅かに揺れる。
 その一瞬の動揺に、奏が嫌な予感を覚えた直後、迷いを振り切ったように真っ直ぐに奏を見つめた咲夜は、淡々とした口調で答えた。
 「うん、だから、送ってもらった。拓海に」
 「……」

 思い切り、ショックを受けた顔をしてしまったと思う。
 今の奏は、誰の名前を聞いても、きっとそれなりに不安になったり面白くなく思ったりするだろう。けれど…拓海の名前だけは、特別だ。今、一番聞きたくなかった名前、と言ってしまってもいいだろう。
 奏自身の硬い表情を映すかのように、咲夜の表情も少し硬くなる。が、咲夜の目に、動揺はなかった。一切の揺るぎのない目で、真っ直ぐに奏を見上げていた。

 「―――…麻生さん、とこに、行ってたのか」
 やっとの思いで奏が確認すると、咲夜はあっさり頷き、小さく「うん」と答えた。
 「何で、また」
 「…この声、聞けばわかるでしょ。思い切り歌いたかったから」
 実際、そう答える咲夜の声は、ちょうど歌いすぎた時みたいに普段より掠れていた。
 「どうしても歌いたくて―――歌って、歌って、歌いまくったら、疲れてダウンしちゃって。目が覚めたら日付変わっててビックリしたよ。挙句に、セーブしないで歌ったから喉痛いし…。今夜のライブまでに調子戻さないと、一成やヨッシーに怒られるね。ハハ…」
 ―――…咲夜…。
 心の水面に起きた小さな波が、少しずつ、少しずつ、広がる。
 訊きたいことも、話したいことも、いっぱいあった筈なのに―――何ひとつ出てこない。耐えきれず、唇をきつく噛んだ奏は、衝動のままに咲夜の腕を引いた。
 「! そ……、」
 奏、と咲夜が名前を口にする前に、咲夜を腕に閉じ込める。そのまま、奏はただ必死に咲夜を掻き抱いた。

 背後で、たった今まで支えていたドアがバタンと閉まる音がする。が、奏には、その音すらほとんど聞こえていなかった。
 なんだか、夢の続きみたいだ。
 寂しくて、心細くて、会いたくて会いたくて会いたくて―――その渇望を少しでも満たしたくて。伝えたい言葉が上手く出てこないのなら、抱きしめることで伝わってくれればいいのに。…なんて、難しいことを願ってしまう。伝えたくて、感じ取りたくて、よりきつくその体を抱きしめた。

 「…咲夜…」
 髪に頬を押し付け、呟いた声は、少し掠れていた。
 驚いたように身じろぎ一つしない咲夜は、その声に僅かに反応して、奏の腕の中で少しだけ頭を動かした。
 「咲夜…」
 「……うん」
 何を訊ねた訳でもないのに、うん、と答える。その声も、歌いすぎのせいじゃなく、少し掠れていた。
 身動きできないほどきつく抱きしめられている中、なんとか動く腕をゆっくりと持ち上げ、咲夜は、奏の背中を軽く叩いた。まるで、泣きそうになっている子供を宥めるみたいに。その位で、奏の心が凪いでくれる筈もなかったが―――背中に感じた温かい手のひらに、奏はほんの少しだけ、緊張の糸が緩むのを感じた。
 このまま何時間でもこうしていられたいいのに、なんて、一瞬本気で考えた奏だったが。
 廊下の端っこから、ガチャン、という鍵を開ける音が響き、奏だけじゃなく、咲夜の体もビクリと跳ねた。
 「……!」
 反射的に、振り返る。それとほぼ同時に、204号室のドアが開き、少し眠そうな顔をした蓮が出て来た。
 そして―――数メートル先にいる奏と咲夜に気づき、目を大きく見開いて、その場に立ち尽くした。

 「―――…」
 なんともいえない空気が、3人の間に漂う。その空気を真っ先に破ったのは、咲夜だった。
 「…あ…っ、お、おはよ」
 少し調子の外れた声で蓮に挨拶した咲夜は、奏の胸に手をつき、軽く押した。奏だって、あえて他人の目の前でラブシーンを展開する気など、毛頭ない。咲夜に胸を押されたのを機に、咲夜の背中に回していた腕を解き、1歩後ろに下がった。
 そんな2人の様子を見ていた蓮も、フリーズが解けたように2、3度瞬きをすると、気まずそうに視線を逸らした。が、お邪魔しました、と部屋に引っ込むのも逆に嫌味だし、かといって2人の存在を無視して行動することもできず、結局はその場に立ち尽くしたままでいた。
 「…っ、と、もう、行かないと」
 チラリと腕時計を確認した咲夜は、いささか唐突にそう言うと、少しバツが悪そうにしている奏を見上げて、微かに笑みを浮かべた。
 「じゃ、私、行くから」
 「え? あ…ああ、うん」
 訊きたいことを、まだ何一つ訊いていないのだが―――奏だって、あまり時間に余裕がない。引き止める訳にもいかず、奏は曖昧な笑みを返した。

 半ば逃げるように、そそくさとその場を後にする咲夜を見送った奏は、はーっ、と大きなため息をつき、寝癖を直している途中だった髪をぐしゃりと掻き混ぜた。
 ―――まあ…、また今晩にでも、改めて訊くか。
 何も訊けなかった自分に対する苛立ちを、そんな言葉でなんとか宥めすかす。さて、出かける支度をさっさと済ませないと―――そう考え、部屋に戻ろうとしたが。
 そこで、蓮の存在を思い出し、足を止めた。
 少々ぎこちなく首を回し、目を向けると、蓮は先ほどの状態から1ミリも動かず、目を逸らした状態でその場にじっと立っていた。斜めに背けられたその横顔は、なんだか、少し怒っているように見える。
 一昨日の夜のことが頭に浮かび、奏はまた落ち着かない気分を覚えた。が……この感情が理不尽な憤りであることも、重々承知している。相手はずっと年下なのだし、一貫して礼儀正しく接してきているのだから、奏も大人気ない態度など取る訳にはいかなかった。
 「…あの…、この前は、ありがとう」
 奏が、ボソリとそう切り出すと、不貞腐れたような顔でそっぽを向いていた蓮は、驚いたような顔で奏の方を見た。
 「…え?」
 「一昨日の夜。咲夜に肩、貸してくれただろ。あの時は、事情がいまいちわかんなくて驚いたけど―――助かった。ほづ……蓮、君が偶然通りかからなかったら、って想像して、さすがに青褪めたよ。ありがとう」
 穂積君、と苗字を呼びそうになったが、咲夜に倣い、名前の方を呼んだ。口にしてみると違和感ありまくりだが、咲夜だけに「蓮君」なんて親しげな呼び方をさせるのは、大人気ないと言われようとも、やっぱり嫌だった。
 蓮の方も、「蓮君」と奏に呼ばれることには、やっぱり戸惑いがあるらしい。「蓮君」の部分で、一瞬微妙な顔をした蓮は、奏からのお礼の言葉に僅かに瞳を揺らし、少し視線を落とした。
 「…いえ、別に、一宮さんにお礼言われるようなことじゃ…」
 「…ま、そりゃ、そうなんだけど」
 「―――あの、一宮さん」
 軽く眉根を寄せた蓮は、目を上げ、数歩奏に歩み寄った。
 じっ、と見据えられると、目つきのきつい蓮なだけに、ちょっと迫力がある。危うく気圧されそうになった奏だが、なんとか踏みとどまった。
 「その…少し、考えた方がいいんじゃないですか」
 「え?」
 考える? 何を?
 キョトンと奏が目を丸くすると、蓮は、上手く言葉が出てこないことに苛立っているみたいに、右側の眉だけをぎゅっと寄せた。そして、結局はいい表現が浮かばなかったのか、実に端的な言葉を奏にぶつけてきた。
 「つまり―――こういう場所で、さっきみたいなことは」
 「……ああ、」
 つまり、廊下でラブシーンなんぞやるな、と、そういうことだろう。曖昧な相槌を打った奏は、気まずさを誤魔化すため、意味もなく前髪を掻き上げた。
 「…悪かったよ。変な場面、見せる羽目になって」
 「……」
 「ちょっと、色々事情あって、あんまり周りに気を配れなかったから…まさか、蓮君が」
 「蓮、でいいです」
 奏の口から「蓮君」と言われるのは、どうしても馴染めないらしい。奏の言葉を遮り、蓮はそう言い放った。そして、その言葉に、更に言葉を繋いだ。
 「それから、まさか、って言われても―――廊下は、共有部分ですから」
 「…だよ、な」
 アパートの住人の共有部分なのだから、住人が自由に行き交うのは至極当然なことだ。誰かが通るなんて思いもしなかった、と言う奏の方が間違っている。ごもっとも、なのだが……改めて指摘されると、なんだかちょっと面白くない。ムッとしそうになる奏だったが、努めてそれを表には出さないようにした。
 「わかった。次からは、気をつけるよ」
 薄く微笑さえ作って、蓮にそう言ってみせる。
 そんな奏に、蓮も僅かに表情を和らげたが。
 「すみません。俺がこんなこと言う立場じゃないとは思うけど―――例の郵便受けの件も、まだ子供の悪戯だと決まった訳じゃないし」
 「……」

 ―――郵便受け?

 意味不明な言葉に、奏が、怪訝そうに眉をひそめる。が、それに気づかない蓮は、更に続けた。
 「一昨日の咲夜さんの様子も、ただの酔っ払いとは、ちょっと思い難かったんで……もしかして、何か危険なことに巻き込まれてるんじゃないかと」
 「…ちょっと、待て」
 蓮を、手で制して。
 え? という顔をする蓮の顔を、奏は、怪訝そうな表情のまま、暫し見つめた。


 …郵便受け……子供の悪戯……。
 一昨日の、咲夜の様子。何か、危険なことに―――…。

 ―――…ちょ…っ、と、待て。
 何が、起きてるんだ、一体。


 何かが。
 何、かは、わからないが、何かが―――奏の知らないところで、起きている。いや、既に起きていた。一昨日じゃなく、もっと前から、ずっと。その可能性に初めて気づき、奏の心臓は、大きく乱れた。

 「―――おい、」
 蓮の方へと歩み寄った奏は、戸惑った顔をした蓮の腕を、おもむろに掴んだ。
 「その話―――詳しく聞かせてくれよ」


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