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― 決別 ―

 

 前の夜、少し泣きそうになった。
 …違う。正直に言うと、少し、泣いた。髪を洗いながら、シャンプーが目に入ったからだ、って、誰も居ないのに、誰かに言い訳しながら。
 でも、今日は、大事な日だから。
 約束した、最後の日―――泣いた後の赤い目なんかでカメラの前に立ったら、きっとあの人は、誰が見てようが一切気にせず、盛大に怒鳴りつけるんだろう。「バカヤロウ! 撮影前に泣いて目を腫らすなんて、モデル失格だ! 自覚のない奴ぁ辞めちまえっ!」……なんて。

 「―――…よし」
 口紅を置き、鏡の中の自分と向き合う。
 つくづく、面白くない顔だな―――鏡の中から自分を見つめる、左右対称な顔をしたお人形さんに、知らずため息をつく。綺麗だね、可愛いね、と言われたことはあっても、個性的だとか魅力的だとか味があるなどと言われたことは、生まれてこのかた一度もない。性格だってそうだ。この面白くない顔を褒められたことはあっても、中身を褒められた記憶なんて、ほとんどない。
 …つくづく、つまんない人間だな、と、自分自身にがっかりしてしまう。
 でも、せめて今日は―――今日だけは、いつもの自分よりマシな自分でいたい。あの人に褒めてもらえる自分になりたい。
 そうすれば、今日を「最後」にしなくて済むかもしれない。

 「…頑張らなくちゃ…」
 そう呟いたリカは、きつく唇を引き結び、三面鏡をバタンと閉じた。

***

 「おはようございまーす。今日もよろしくお願いしまぁす」
 いつものように挨拶をすると、控え室のあちこちから、バラバラに挨拶が返って来た。
 聞き慣れたいつもの声の中、リカが唯一、その声音に注意を払っていたのは、当然ながら彼の声―――奏の声だけだった。そして、その声がこれまで聞いてきた挨拶の声とは微妙に異なっていることに、リカは気づいた。
 ―――…一宮、さん?
 その違和感の理由を知りたくて、鏡の前にいる奏を、凝視する。
 ここからこうして見る限り、メイク道具をてきぱきと準備している奏は、普段と何ら変わりない様子に見える。怒った顔でも、緊張した顔でも、悲しそうな顔でもなく、ただ普通に仕事をしている時の顔をして、ただ普通に仕事をしている。
 …気のせい、だったのかな。なんだか、「おはようございます」の一言が、いつもより暗く感じたのは。
 そう、思い直してはみたけれど、やはり何となく気になった。
 「なんだか、今日は随分気合入ってるねー、リカちゃん」
 ヘアメイク担当の中村から、からかうようにそう言われ、奏に意識を持っていかれていたリカは、ハッと我に返った。
 「え…、な、何が??」
 「だってホラ、入り予定の10分も前に到着なんて」
 「…ああ、」
 なんだ、と、拍子抜けする。
 「13時入り」とスケジュール表にあっても、13時ギリギリに到着するのは、この業界に限らず非常識なこと―――ギリギリに入ったり、遅刻をしたりしているいつものリカがおかしいのであって、10分前に入るなんて、極々普通のことだ。なのに、その程度のことで「気合が入っている」扱いされるなんて―――思わず、皮肉な笑みを浮かべてしまいそうになる。
 「あ、リカちゃん。今日はまず着替えが先ね。首元、結構窮屈な服だから」
 そんなリカの一瞬の暗い感情になど微塵も気づかず、スタイリストがそう声をかけ、さっそく衣装を手に取る。奏と中村も、何やら作業の相談らしきものを始めてしまった。
 まだ奏とだけ、まともに言葉を交わしていないことに、やっぱり少しばかり違和感を覚えたけれど―――今は、仕事に集中しなくては。心に浮かんだ疑問と苛立ちを飲み込んだリカは、荷物をマネージャーに預け、控え室の奥へと小走りに駆け寄った。


 今日の撮影は、初めて奏と仕事をした、あのゴシック・ロリータ専門誌の表紙撮影だ。
 以前のリカからすると、一番ラクな仕事であり、一番退屈で面白くない仕事。そして、今のリカからすると……一番、途方に暮れる仕事だ。
 ただの人形にはなりたくない。それが今の、モデルとしてのリカの思いだ。なのに、この雑誌は、リカに「人形そのものであること」を求めてきた。
 クライアントの狙いをよく考えろ、と奏は言ったが、一方で、どんな自分を表現したいかを考えろ、とも言った。生きて動くマネキンとして商品をいかに魅力的にアピールするかも重要だ、とも言った。…では、今日の撮影は、どう臨めばいいのだろう?
 「あ、リカちゃんにピッタリ。よく似合うわ」
 衣装を着せ終え、スタイリストが満足げな声を上げる。
 気が進まないなりに、鏡をチラリと見てみると、そこには等身大の人形が立っていた。いかにもゴスロリ、という黒と白のフリルだらけのワンピースが、嫌になるほど似合っていて、我ながらげんなりする。この仕事以外でもこの手の服はよく着せられるが、リカのプライベートな好みとは全然かけ離れたテイストだ。
 ―――なんにも考えずに、ぼーっとカメラの前に立ってれば、ソレで終わるんだろうけどなぁ…。
 小さくため息をついたリカは、全然答えが出ないまま、奏とヘアメイクの中村が待つ鏡の前へと移動した。

 「おおっ、久々に定番ものだなー。よく似合うよ、リカちゃん」
 「…あんまり、嬉しくない」
 中村の愛想笑いにそっけなく答えたリカは、ドサリとスツールに腰を下ろし、鏡越しにちらっと奏の顔を見た。
 そして、さっきはよく見えなかった奏の顔をはっきりと間近に見て、驚きに目を丸くした。
 「……ちょ…っと、い、一宮さん。どうしたのよ、それ!」
 奏の左目の少し下、頬骨から横に逸れた辺りに、小さいけれど痛々しい痣のようなものができていた。4日前の火曜日、奏のアパートを訪ねた際にはなかった傷だ。
 幾分仏頂面気味な奏は、コットンを手に取りながらも、少し気にするように頬の傷に軽く指で触れた。
 「ああ…、別に。ちょっとな」
 「ちょっとな、って……まさか、喧嘩?」
 「…ま、そんなとこ」
 あまり触れたくない話題なのか、奏の答えは酷く愛想が悪く、短い。そんなことより仕事仕事、とばかりに、仏頂面のまま、リカがつけていたメイクをクレンジングを含ませたコットンで丁寧に落とし始めた。
 が。
 「あ、い、痛い痛い痛いっ」
 がしがしとコットンで顔を拭かれて、その勢いに顔の皮膚が悲鳴を上げそうになる。プロにあるまじき乱暴さだ。
 「ちょ、ちょっと、丁寧にやってよっ」
 「悪いけどオレ、今日はちょっと気ぃ立ってるから、いつもより多少乱暴でも我慢しとけ」
 ―――悪いけど我慢しとけ、って……謝っといて命令口調って、何なのよっ。
 もっと文句を言いたかったが、口紅を落としにかかったせいで、口をきくのも無理になる。諦めたリカは、化粧落としの工程が終わるのを大人しく待った。
 やっぱり、第一声でどことなく変だと感じたのは、間違いじゃなかった。一体誰と喧嘩したのか知らないが、迷惑な話だ、とムッとする一方、何があったのか、とちょっと心配にもなる。さくさくと工程を進めていく奏を薄目を開けて確認したリカは、頃合を見て、多少遠慮がちに口を開いた。
 「…ねえ。誰にやられたの、それ」
 「……」
 リカに訊ねられても、奏は淡々とメイクの手順を進めるだけで、一文字に引き結んだ綺麗な形の唇を一切開こうとはしない。機嫌悪いなぁ、とリカが眉をひそめると、背後でリカの髪を整えていた中村が、鏡越しに苦笑し、無理無理、と手を振った。
 「僕も散々訊いたけど、全然答えてくれないから。諦めた方がいいよ、リカちゃん」
 「でもぉ…、一宮さんて、まだモデル引退してないんでしょ? 顔はモデルの商売道具の一部じゃない。そんな顔しちゃって、大丈夫なの?」
 「…この位、メイクで隠せるからな」
 頑なに閉じられていた奏の口が、そうポツリと答える。リカが、単なる興味ではなく仕事の心配をしていることを、一応考慮してくれたのだろう。鏡の中で、リカと目が合うと、小さなため息とともに、更に一言答えてくれた。
 「2、3日で治る傷だし。その間にモデルの仕事の予定もないから、別に問題ないだろ」
 「…ふぅん」
 リカの相槌と同時に、奏はまた手元に視線を落とし、真剣な表情でメイク作業を再開してしまった。その真剣な顔が、なんだか、喧嘩相手ではなくリカに怒っているような気がして、リカは不安げに眉根を寄せた。

 ―――いつもみたいに、話して欲しいんだけどな…。
 2ヶ月前、このスタジオで初めて奏にメイクしてもらった時は、リカが周囲のスタッフに一方的に当り散らすばかりだった。それで奏に怒鳴られて、非常にピリピリしたムードの中でのメイクになってしまった。
 でも、それ以降の撮影現場は、終始和やかだった。奏は、決してリカに愛想がいい訳ではなかったが、いつもどんなメイクにしているのか、好きな色は何なのか、今日のカメラマンとは過去に仕事した経験はあるのか、等々、仕事のヒントになりそうなことをリカに訊ねてくれた。だからリカも、今日の撮影で不安なところや悩んでいるところを、奏に自然に訊ねることができたのだ。
 今日の撮影は、今までで一番、どうしていいかわからずにいるのに……奏がこんな調子では、訊くこともできない。
 いや、そんなことより―――奏が黙ったまま不機嫌な顔をしていると、落ち着かない。なんだか、奏の領域から締め出されたような感じがして、心細い。笑って欲しいとは言わないが、黙っている位なら、まだ怒鳴っていてくれた方がいい。

 「はい、オッケー。リカちゃん、このピン外さないでね。10分経ったら外すから」
 前髪を斜めに取り分け、その片方をピンで留めると、中村は席を立った。とりあえずの作業が終わったらしく、飲み物でも買うのか、財布を手に外に出てしまった。
 メイクの方は、まだチークを入れている段階だ。幸い、他のスタッフやマネージャーは、ここから少し離れた場所にいる。今しかない―――リカは意を決し、鏡の中の奏を見据えた。
 「…ねえ。もしかして、まだ怒ってるの?」
 「え?」
 奏が目を上げ、何が、という感じに怪訝そうに眉をひそめる。鏡越しに目が合ってドキリとしたが、怯まず続けた。
 「この前、酔っ払って、迷惑かけたこと」
 「……ああ、」
 あれか、と、本気で何のことかわからなかったらしい奏が呟く。なんだ、違ってたのか―――あの夜のことが原因でリカに対しても怒っているのかもしれない、と考えて少しドキドキしていたリカは、肩透かしを食ったような気がして、ちょっと気が抜けてしまった。
 「もう謝ってもらったし、金も返してもらっただろ。終わった話だから、もう怒ってない」
 「…ホントに?」
 「ホントに」
 「…でも、リカに対して、何か怒ってるんじゃない?」
 リカの頬の上を動いていたチークブラシが、一瞬、止まった。
 やっぱり、怒ってるんだ―――ほんの一瞬のその反応に、リカの心臓が、軽く乱れる。が、奏は、何事もなかったようにメイクを続け、奏らしくない抑揚のない声で訊き返した。
 「何か、オレに怒られる覚えでもある訳?」
 「……」
 「あってもなくても、撮影前なんだから、余計なこと考えんなよ。カメラの前にプライベート持ち込むと、表情が死ぬぞ」
 ―――余計なこと考えさせるのは、一宮さんじゃない。
 理不尽な、と思う一方、いつもの奏らしい言葉が聞けた気もして、ほんの少しホッとする。気づかれないよう息をついたリカは、やっと本題を切り出すことができた。
 「じゃあ、仕事のこと訊くけど―――今日の撮影、一宮さんはどう思う?」
 「どう、って?」
 「2ヶ月前、一宮さん、言ったじゃない。ここの撮影が終わった後……“正直、サイテーだった”って」

 『あれなら、君そっくりな人形作って椅子に座らせとくのと、大した違いがないだろ』
 『…周りの人間全員が、いいよいいよ、って褒めてくれても、意味がない?』
 『ないよ』
 『どうして』
 『君自身が、それに満足してるとは思えないから』

 2ヶ月前の、奏との会話。リカの苛立ちを見抜いてくれた、最初の言葉だ。
 「…リカも、あんなのサイテー、って思った。でも、担当さんは“最高だった”って言うのよね。求められた自分を演じるのも、商品の魅力を引き出すのも、どっちもモデルの仕事だ、って一宮さん、よく言ってたじゃない? だったら、今日の撮影……リカは、どういうつもりでカメラの前に立てばいいの?」
 「……そうだな」
 ポツリと呟き、黙り込む。
 奏は、ちゃんと考えてくれているようだった。考えながら、リカの瞼にアイシャドーを入れ、唇に紅を差した。
 そして、無言のまま、5分後。
 「―――よし、完成」
 ポン、と背中を叩かれ、伏せがちにしていた目を上げる。
 奏のメイクをまとったリカの顔は、目元を印象的に仕上げた、少しきつめの表情だった。甘いテイストをあえて避け、モーヴやワインレッドといった大人びた色合いを全面に押し出している。下手をすると可愛い路線になりがちなチェリーピンクの口紅も、黒を基調としたゴシックテイストの服装に合わせると、むしろ妖艶なイメージに仕上がっていた。
 「…今回は、お人形テイストって言うより、正統派のゴシック・ロリータだからな。中村さんやカメラマンと相談して、甘さを抑えてこの路線で統一することにしたんだ」
 「…へ…え、ちょっとだけ、カッコいい」
 「だろ。ゴスロリって、ヒラヒラの部分もあるけど、髑髏とか薔薇とか、結構メタルチックなアイテムも多いんだよな。たまにはカッコイイ系統のゴスロリを表紙に持ってくるのもアリだろう、って」
 奏の口元に、微かに笑みが浮かぶ。今にも消えてしまいそうなほどに微かな笑みだが、それでもリカは、やっと見ることができた笑顔に、いつの間にか自分自身の表情まで固まらせていた緊張が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
 「でもリカ、こういうヒラヒラ着て“カッコイイ系統”の写真なんて、撮ったことない。このまま普通に立ったんじゃ、ダメでしょ?」
 「まあ、あのクライアントなら、それで十分満足しそうだけど…」
 少し考え、奏は、鏡越しにリカの目を見据えた。
 「リカ」
 「え?」
 「人形扱いされるのは、二度と嫌か」
 「……」
 訊くまでもないことだ。でも……考えてみたら、この基本的な質問を、まだ訊かれていなかった気がする。神妙な面持ちになったリカは、コクリ、と深く頷いた。
 それを見て、奏は一瞬だけ表情を和らげたが、すぐにまたピンと緊張の糸を張ったような表情に戻った。
 「…オレも、人形扱いだった。ずっと。カメラの前では、無機物になることを要求されてた―――国籍も性別もない、感情どころか呼吸や鼓動さえ感じさせない、そんな完璧に綺麗な“物体”を演じてた。そういう時、必ずやってたのは、心を空っぽにすること―――“何も感じない・考えないこと”、だった。…リカも、そうだろ?」
 「…うん」
 「じゃあ、感じ続けて、考え続ければいい」
 「……」
 感じ続けて―――考え続ける…?
 「人形にはなくて、人間にはあるもの―――それは、考える“頭”と、感じる“心”だろ? カメラの前で、その2つを忘れなければ、嫌でも“人形”から“人間”になれる」
 「…何を感じて、何を考えればいいの?」
 我ながら、バカみたいな質問だ。何から何まで「先生、次どうすればいいんですか?」と訊く子供みたいで、情けなくなる。でも、リカには本当に想像がつかなかった。人間となるためには、何を感じ、何を考えればいいのか。
 すると奏は、ふっ、と笑い、答えた。
 「それは、カメラの前に立てば、もうわかるだろ」
 「……」
 「2ヶ月の間に、オレがリカに言ってきたことを思い出せば、自然とやれる。言うべきことは、もう全部言ったから」
 「…本当?」
 「ああ。大丈夫」
 本当、だろうか。なんだか、不安だ。それに―――…。
 「…でも…お人形さんにOK出してた担当さんが、人間臭くなったリカなんて、認めてくれるかな」
 思わず、不安げな声で、呟いてしまう。
 つまらない人間の自分。人間的に魅力があるとは思えない自分。空っぽの状態の自分を「綺麗だ綺麗だ」と褒めそやす連中に、大した中身も持ち合わせていない「人間・姫川リカ」を見せたところで、果たして認めてもらえるんだろうか? 自信がない―――まだお人形状態で座ってた方が絵になる、と言われてしまいそうだ。
 不安げに眉を寄せるリカに、奏は暫し黙り込み、それから、彼らしからぬ静かな声で告げた。
 「7月に、リカのこと撮ったカメラマン、覚えてる? 成田、っていう」
 「え? あ…、ああ、あの人」
 「昔、オレがあいつに“クライアントが求める自分を演じないんじゃ、撮ってもらう意味なんてあるのか”って訊いた時さ。あいつ、言ってた―――“俺なら、人間を撮ることで、人形を撮ることの無意味さをクライアントにわからせてやる”……って」
 「……」
 「どんな愚かな人間でも、人形より魅力のある被写体だ、ってのが、あいつの持論らしいよ」

 どんな愚かな人間でも―――…。
 じゃあ……リカでも、何も考えないお人形でいるよりは、稚拙でも色々考え、感じながらカメラの前に立った方が、魅力的に映るんだろうか?

 「リカちゃん、お待たせー」
 とその時、10分経ったらしく、中村が戻ってきた。
 それと入れ替わるように、奏はポン、とリカの背中を叩き、その場から離れてしまった。
 「よし、急いで仕上げるから、ちょっとだけ動かないでね」
 コームを持った中村が、そう言ってリカの髪をまたあれこれと弄り始める。もうちょっと奏と話したかったのに、と残念な気持ちのリカは、でも仕方ないか、とため息をつき、諦めたように視線を流した。
 そして、その時になって初めて、あるものに気づき、眉をひそめた。

 鏡の中に、基礎化粧品などを片付けている、奏の姿が映っている。
 メイクしてもらっている間は、気づかなかったけれど―――奏の右手の甲に、顔の痣同様、まだ新しいと思われる擦り傷のようなものがあったのだ。
 「……」
 一体、誰と、何故、喧嘩をしたのだろう?
 まだ傷を負ってからそう時間が経っていないように見える2つの痣。それと…親しげに話している間も、奏がまとっていた張り詰めたような空気に、リカはなんとなく、胸騒ぎを覚えた。

***

 カメラの前に立てば、わかる。
 そう言った奏の言葉の意味を、リカは、実際にカメラの前に立って、やっと理解した。

 「はい、リカちゃーん。こっちに視線、くれるかな」
 カメラマンの指示に従い、少し斜めを向いていたリカは、体を動かすことなく、視線だけをカメラマンの方に向けた。
 カメラマンの方に。
 …いや。違う。
 カメラの向こうにいる、何万人とも知れない“客”の方に、だ。

 服を“魅せる”、自分を“魅せる”―――奏が一貫して言っていたことは、結局は、「客の視線を意識しろ」ということなのだ、と、今更ながらに気づいた。
 どんなポーズを取ればいいか、どんな服の魅せ方をすればいいか、リカは絶えず考えながら動いた。可愛いと思って欲しい、カッコイイと憧れて欲しい―――誰でもない、この写真を見るであろう、どこかにいる「誰か」に。そう考えたら、思ったより簡単に動くことができた。
 そして、その「誰か」のことを考える時……無意識のうちに、奏のことも、考えていた。
 彼なら、どんなポーズをとるだろう? こんな笑顔を作ったら、彼でも心を動かされるだろうか? この柄の見せ方、彼は褒めてくれるだろうか―――よくやった、前よりずっといい写真が撮れた、と、認めてくれるだろうか。

 認めて欲しい。
 振り向いて欲しい。自分を見つめて欲しい。
 ぼんやりとしている暇なんて、1秒だってなかった。試行錯誤を繰り返すリカは、ライトの熱も手伝い、いつしかうっすら汗ばんですらいた。途中、奏や中村に手直しを2度も頼むほどに、リカは必死で、懸命だった。
 多分、失敗も、たくさんあったと思う。演じることの苦手なリカだから、思うような表情が作れず、顔が強張ったりもした。こんな感じだとカッコイイのにな、と思い描いたポーズや表情が自分では再現できず苛立ったりもした。
 けれど―――カメラマンも、そしてクライアントである雑誌の担当者も、「いつもみたに人形っぽいリカちゃんでやり直してよ」とは、ついに最後まで言わなかった。

 

 「一宮さん―――…!」
 スタジオを飛び出したリカが、奏に追いついたのは、スタジオの出口を出てすぐの場所だった。
 リカの声に立ち止まり、振り向いた奏のその肩には、既にアルミ製のメイクボックスのストラップが掛かっている。完全に帰り支度完了という姿だ。
 やっぱり、このまま帰ろうとしてたんだ―――それを確信し、リカの表情が険しくなる。
 本当はリカは、撮影が終わってすぐ、奏に感想を訊くつもりでいた。だが、奏がカメラマンと何やら話を始めてしまったので、先に帰り支度を済ませてしまおうと、控え室に戻った。着替えを済ませ、メイクも落とし、手抜きの適当なメイクを施してからもう一度スタジオに戻ると、そこには既に奏の姿はなかった―――という訳だ。
 「酷い…っ、何も言わずに帰っちゃうなんてっ」
 慌てていたので、リカの息は、軽く上がってしまっている。肩を上下させつつ文句を言うリカに、奏は僅かに眉を顰め、その非難するような視線を避けるかのように、視線を逸らした。
 「ねぇ…っ、今日の撮影、どうだった?」
 「……」
 「一宮さんが言ったとおり、できた? あの雑誌買うお客さん、先月号のリカより綺麗だ、素敵だ、って思ってくれると思う?」
 視線を逸らしたまま、リカの訴えかけるような質問を聞いていた奏は、一度目を閉じると、静かに息を吐き出した。そして、やっとリカの方に顔を向けてくれた。
 「…オレは、今までのリカの撮影の中で、一番いい出来だったと思う」
 「……」
 「よく、やったよ」
 ほんの少しだけ、奏の顔に、笑みが戻る。
 「成田の言ったとおりだった。カメラの前で、一生懸命、少しでも自分を魅力的に見せられないか、って頑張ってるリカは、7月の撮影の時のリカの何倍も、綺麗だった」
 「……」

 ―――…どうしよう…。
 涙が、出そう。

 実際、泣きそうな表情になっていたのだと思う。奏の表情が、ギョッとしたように、ちょっと固まった。でも、本当に泣くところまではいかずに済んだので、リカは、誤魔化すようにわざと拗ねたような顔をし、ぷい、とそっぽを向いた。
 「な…、なんか、一宮さんに褒められると、ヘンな感じ」
 「…悪かったな、変で」
 「…悪い訳じゃ、ないけど…」
 何を言ってるのか、自分でもよくわからなくなってきた。でも、追いかけてきたのは、何も感想を聞くためだけではない。言いたいことがあって追ってきたのだ。
 言わなくちゃ、と思った時、スタジオスタッフらしき人が、スタジオから出て来た。ちょうど邪魔になってしまう位置に立っていたリカは、慌ててスタッフに道を譲ったが、ここでは落ち着いて話ができないことを悟り、思い切って奏の腕を掴んだ。
 「ちょっと、こっち来て。話が、あるの」
 「……」
 ぐい、と腕を引くリカに逆らうことなく、奏はリカの後について来た。リカは、スタジオの建物内に戻ると、ロビーに面した大きなガラス戸を抜け、テラス付の中庭のような場所に出た。
 大した広さはないが、一応ガーデンテーブルや椅子が置かれていて、ここでも撮影ができるようになっているらしい。一瞬、椅子に座ろうかどうしようか迷ったが、奏が荷物を下ろす気配すら見せないので、立ったままでいることにした。
 「…何、話って」
 少し硬い声で、奏が訊ねる。相変わらず、撮影前からのあのピンと張り詰めたような空気をまとったままの奏に違和感を覚えるが、それでもリカは怖気づいたりはしなかった。
 決めていたから。もし、奏が認めてくれたら―――前より良かった、と言ってもらえたら、無理を承知で絶対に頼もう、と。
 「あの…ね。来月の頭に、リカと、うちの事務所の子があと2人出る撮影があるの」
 「……」
 「もう、メイクさん決まっちゃってるんだけど……梅ちゃんもね、もし一宮さんがいいって言ってくれたら、一宮さんに代わってもらってもいい、って。だから、もし都合がつくなら」
 「…なんで、オレ?」
 リカの言葉を最後まで聞かず、奏が、どことなく冷たい口調で訊ねる。
 さっき労ってくれた時とは似ても似つかない冷たさに、一瞬、言葉に詰まったリカだが、コクン、と唾を飲み込み、答えた。
 「…一宮さんにメイクしてもらうと、なんだか、上手くいく気がして」
 「……」
 「ううん、ほんとに上手くいってるし。それにね、まだ聞いてもらいたい話、いっぱいあるの。聞きたい話、も…」

 もっと、いっぱい、話がしたいの。
 …もっと、一緒に、いたいの。

 どのみち、そこまで口にするつもりなどなかったが―――次第に落ちていく奏の視線に気づき、リカの言葉は、飲み込まなくてはいけない言葉に辿り着くはるか前で、途切れてしまった。
 奏は、自分とリカの間にある地面の、ちょうど真ん中辺りを見据えていた。
 リカの知る奏からは考えられないほど、暗い目をして―――まるで何かを堪えているかのように、唇をきつく結んで。
 「―――…悪いけど…、断る」
 視線を落としたまま、奏が低く、答えた。
 半分、覚悟していた答えだ。けれど……実際に耳にすると、やはり、胸がつぶれそうな気持ちになる。
 「…い…忙しい、の? お店の方が」
 「……それも、ある」
 「じゃ…、じゃあ、あの、10月の終わりに」
 もう1つ先の仕事の話を、リカが口にしかけると、奏は唐突に顔を上げ、真っ直ぐにリカを見詰めた。
 その、目に。
 怒りにも似た強い感情を滲ませた、意志に満ちたその目に―――リカの心臓が、ドキン、といって止まった。
 「いつの仕事でも、答えは同じだ」
 「……」
 「もう、リカからの依頼は、二度と引き受けない。今日で最後だ」
 「……」
 頭が、真っ白になった。
 二度と、引き受けない―――リカからの依頼は、たとえいつの仕事でも、受けない。どんな鈍い人間にだって、わかる。これが「拒絶」の言葉だと。
 「ど…して…?」
 やっとの思いで口にした一言は、震えていた。
 「どうして…? リカと仕事するの、そんなに嫌だった? 本当は迷惑だった?」
 「…そうじゃない」
 「さっき褒めてくれたのも、嘘…!? よくやった、って言ってくれたじゃない! それが本心なら、どうして」
 「トールに、」
 リカの感情的な声を、奏の苛立ったような声が、遮った。
 突如、奏の口から飛び出した思わぬ人の名前に、リカの喉が、詰まった。
 「トールって奴に、聞いた」
 「……」
 「…全部、聞いた。リカがあいつに、どんな賭けを持ちかけていたか」
 「―――…」

 凍りついた心臓が、ドクリ、と、脈打つ。
 少しずつ、少しずつ、息を吹き返した鼓動は、奏の言葉の意味を理解するにつれ、次第に速度を速めた。ドクン、ドクン、ドクン―――コントロールを失ったみたいに早鐘を打つ心臓に、リカの瞳はぐらぐらと揺れた。

 「ど…っ、どうして…」
 一体、何故、それを。
 大きく見開いた目で、混乱を目いっぱいぶつけてくるリカに、奏はまだ何かをじっと我慢しているかのような表情で答えた。
 「…偶然。他のことで、気になることがあって……辿っていくうちに、トールにぶつかって、そこで全部吐かせた。あいつが咲夜を落とせたら、借金2万円はなかったことにする―――もう1ヶ月も前からなんだってな」
 「……」
 「口が軽い、って、あいつのこと責めるなよ。咲夜本人に見破られてもう全部話しちまった後だから、オレにも話してくれたんだ」
 「咲夜さんが?」
 リカの声が、上ずる。まさか咲夜が、トールとリカの繋がりを見破っていたなんて―――全然、知らなかった。第一、何故気づけたのだろう? 上手く回らない頭では、いくら考えても、その理由が思いつかない。
 それどころか、混乱した頭が余計なことに気づいてしまい、リカは、話の筋そっちのけで息を呑んだ。
 「い…っ、一宮さんのその怪我、も、もしかしてトールが」
 頬の傷と、拳の傷。それとトールを問い詰めたという事実がリンクして、一気に気持ちが焦る。が、面倒なものを思い出した、とでも言うように頬の痣に触れて顔を歪めた奏は、更にリカが予想だにしなかったことを口にした。
 「これは、トールじゃない。晴紀の方」
 「は……」
 ―――晴、紀?
 何故、ここで晴紀の名前が出てくるのか。
 しかも、何故―――晴紀の名を口にした途端、奏の目が殺気すら帯びたみたいに暗く、険しくなったのか。リカには、まるで想像がつかなかった。
 想像がつかないから、大きく目を見開いたまま、言葉を失って、奏を凝視するしかなかった。
 「なあ」
 暗い目のまま、奏がリカを見据える。
 堪えていた何かが、あと少しで、表面に顔を覗かせようとしている。それを、最後の最後で、なんとか押しとどめている。そんな表情で。
 「どういうつもりで、あいつに賭けなんか持ち出したんだ?」
 「……」
 「トールは、オレと咲夜の仲を裂きたいから、リカがこんな賭けを持ち出したんだと思った、って言ってた。そうなのか?」
 「ち…っ、違う…っ!」
 声が、震える。リカは半ば叫ぶようにして否定した。
 「違う、の…っ! トールたちが言うみたいなんじゃ、ないっ。リカは……リカは、ただ、あの時イライラしてて」
 「イライラ?」
 「一宮さんが、」
 頭が混乱したまま、上手くまとまらない。まとまらないまま、リカは必死に言葉を探した。
 「一宮さんが、心配で、見に行ったら、あの人と―――あの人と、あんまり、幸せそうにしてる、から」
 「……」
 「…あたしも、あんな風に笑える場所、欲しかったから……羨ましくて、頭にきて……」
 あたし、という一人称に、奏の表情が、一瞬、変わる。が、それは本当に一瞬だけのことだった。
 「…深い意味なんて、なかったの。もし、トールにそんな話持ちかけたら、どうなるかな、って…そう、思っただけで」
 「―――そんな程度のことで、咲夜は、あんな目に遭ったのか」
 呻くような奏の一言に、リカの顔色が変わった。
 「あ…んな、目…?」
 どういう意味、という目をするリカに、奏は軽く舌打ちをし、苛立ったように前髪を掻き上げた。
 「な、何か、あったの? 咲夜さんに何か」
 「…その話は、今、したくない。思い出すだけで気がヘンになる。後で晴紀かトールに聞けよ」
 「晴紀? 晴紀がどうして」
 「とにかく!」
 髪を掻き上げていた手を、話をぶった切るように乱暴に下ろす。振り下ろされた手は、そのままぎゅっと握られ、あまりの力の強さに拳が小刻みに震えていた。
 「トールにしろ晴紀にしろ、リカがオレに興味持ってて、オレと親しくなるために咲夜を邪魔に思ってる、って感じてた。リカのためなら何でもする晴紀が、そう思ったらどうするか、晴紀をよく知ってるリカなら、想像つくだろ?」
 「……」
 想像、つかない。具体的には。
 けれど、想像が、つく。リカが、咲夜を邪魔に思っている―――そう感じたら、あの晴紀ならば、咲夜を排除するため、何かとてつもないことを計画し兼ねないことが。
 「し…らない…」
 頭を過ぎった嫌な予感に、リカは、途方に暮れたように首を振った。
 「知らない…! リカは、何も聞いてない…! 嘘でしょ!? リカ、晴紀に訊かれて、ちゃんと違うって言ったもの…! リカは」
 「知らなかったから関係ないって言うのかよ!」
 堪えていたものが、完全に、決壊した。
 激情のあまり、奏の声までもが震える。憤りとも怒りとも悲しみともつかないものに震えながら、奏はリカを見据えた。
 「ああ、リカはそんなこと、望んでなかったかもしれない。酔っ払って晴紀にぶちまけた本音だって、晴紀の解釈の仕方が間違ってたのかもしれない。でもな、リカがそういう風に望むって―――仲間に卑怯な真似させてでも咲夜を痛めつけてオレから引き剥がしたいと望むような女だって、あいつらに誤解させたのは、リカ自身が今まであいつらに取ってきた態度のせいだろ!?」
 「……っ、」
 頭が、冷たくなった。
 リカを誤解させたのは、リカのこれまでの態度のせい―――反論、できない。反論できない心当たりが、リカにはあり過ぎた。
 けれど、奏は、その話でこれ以上リカを詰ることはなかった。気を落ち着かせようとするように、はーっ、と大きく息を吐き出す。怒りのためか、それとも……別の、もののせいか。吐き出したその息も、僅かに震えていた。

 暫し、沈黙が流れる。
 リカは、何をどう言っていいかわからず、途方に暮れていた。
 晴紀が、リカのため、という大義名分でもって、何か―――多分、咲夜を傷つけるような真似をしたらしい。そして、トールに咲夜を落とすようけしかけたのは、自分。今、はっきりしているのは、それだけ。
 謝らなくちゃ―――当たり前すぎるその結論に、リカがようやく辿り着いた時。

 「―――…オレにも、リカたちみたいだった時期があったよ」
 暗い目で、地面の一点を見つめたまま、奏がポツリと呟いた。
 「仕事でも、恋愛でもさ。どいつもこいつも、オレの中身なんか見ちゃいない、この顔してりゃ、中身なんてどうでもいいんだろ、って自棄になって、何もかもバカらしくなって―――親の目を盗んでは、いい加減な連中と随分バカな真似して遊び歩いてた。酒と煙草を覚えて、女を弄ぶのも当たり前でさ。…サイテーだった、あの頃のオレ。でも、どんだけサイテーな奴に成り下がっても、絶対やらなかったことが、2つだけある」
 「……」
 「…リカ」
 絶対にやらなかったこと2つが、何だったのか。それを説明せず、奏は目を上げ、リカを見据えた。
 リカの背中に、緊張が走る。でも、逃げる訳にはいかなかった。強張った表情で、リカは「何?」と訊ねた。
 「1つだけ、正直に答えて欲しい」
 「…え…?」
 「うちのアパートの、咲夜の郵便受け」
 「……」
 「オレが熱射病で倒れた、翌々日―――咲夜の名前を破ったの、って……リカ、か?」
 リカか、と。
 訊ねた時点で、奏の目は既に、その答えを確信していた。
 郵便受けのことが出た途端、それまでとはまた違った意味で青褪めた、リカの顔。ぐらぐらと揺れた瞳。それで―――言葉で答えるより早く、わかってしまったのだろう。答えが、イエスであることを。
 そう―――答えは、イエス、だ。
 更に言うなら、リカ自身、思い出したくもなかった記憶だ。
 如月と書かれた小さな紙片を、涙を目に滲ませながら、小さく、小さく、文字も読めないほど小さくなるまでズタズタに切り刻んだ、あの記憶―――唯一、リカが咲夜に対する敵意を自覚した出来事。他のどんな行動より、リカの罪悪感を、一番苛んだ記憶だ。
 目元を歪めた奏は、大きなため息をつき、疲れたように額を手で押さえた。やっぱり、そうだったのか―――奏がついたため息が、そう言っていた。
 「ご…めんなさい…」
 考えるより早く、震える声で、そう告げた。リカは、その一言を追うように、1歩、奏に近づいた。
 「ごめんなさい、一宮さん。あ…あた、し…っ」
 「―――オレに、謝るな」
 額を押さえたまま、奏が、低くそう言い放つ。その言葉に、リカはビクッと身を竦ませ、立ち止まった。
 額から手をどけた奏は、もう一度ため息をつき、リカから視線を外したままで、ゆっくりと続けた。
 「…咲夜は…どんな目に遭っても、その裏にリカがいる、ってわかってても、オレに何ひとつ言わなかった。それどころか、トールに口止めまでしてた。自分が見破ってしまったことも何もかも、リカには言うな―――少なくとも今週いっぱいは、絶対に言うな、って」
 ―――…咲夜さん、が?
 何故、と疑問に思った時、奏が、その答えを口にした。
 「今日の、ために」
 「……」
 「リカとの最後の仕事が、無事成功するように―――今日が終わるまでは、自分1人で抱えていよう、って決めたんだと思う。…だからオレも、まだ咲夜には、何も言ってない。あいつの気持ちを無駄にはできない―――どんだけ頭にきてても、どんだけ悔しくても、今日の仕事だけは根性でやり遂げてやる、って」
 そこで言葉を切ると、奏は、ほんの少しだけ、表情を和らげた。
 「…やり遂げて、良かった、と思ってる」
 「…え…、」
 「今日のリカ見て、リカにアドバイスしたのも、リカの仕事を引き受けたのも、間違いじゃなかった―――オレはただ騙されてただけじゃなかったんだ、って、心から信じられたから。…後悔や怒りに負けて今日の仕事を投げ出してたら、オレ、もっとリカを憎んでたと思うし、もっと自分を責めたと思う。だから……今日の仕事、やり遂げて、本当に良かった」
 ――― 一宮さん…。
 では、さっき「よくやった」と言ってくれた言葉は、嘘じゃなかったんだ―――それがわかって、リカの緊張が、僅かに緩む。1から10まで、全てを否定された訳じゃない。それがわかっただけでも、今のリカには救いだ。
 「だから、オレは、いい。大体、昔の自分のこと考えたら、偉そうな口利けないしな」
 どことなく自嘲気味にそう言うと、奏は唇を噛み、顔を上げた。
 「リカが謝るべき相手は、オレじゃない。咲夜だ」
 真っ直ぐに見据えられてそう言われ、リカは、おずおずとだが、小さく頷いた。本当は奏に謝りたいけれど、咲夜にも謝らなくてはいけないこと位、リカでもわかった。
 なのに、下ろしていた拳を再びぎゅっと握り締めると、奏は思いがけないことを言い放った。
 「でも―――咲夜に謝ることは、オレが許さない」
 「……え…?」
 リカの目が、丸くなる。
 咲夜に謝るべきだ、と言うその口で、咲夜に謝ることは許さない、と言う。一体、どういう意味なのか―――困惑するリカに、奏は、感情を殺した声で告げた。
 「…たとえ、ただの名前の書かれた紙切れでも―――咲夜を傷つけた奴を、咲夜には二度と近づかせない」
 「……」

 頭が、クラリ、と揺れた。
 トン、と、後ろに1歩、よろける。リカの唇は、突きつけられた言葉への衝撃に、小刻みに震えていた。

 呆然とした顔で、目に浮かんだ涙にも気づかずに立ち尽くすリカに、奏は一瞬、憐れむような目をした。けれど、つかの間浮かんだ同情を即座に振り払うと、これが精一杯だと言わんばかりのぎこちない笑みを口元に作った。
 「…あいつらさ。最後まで、リカのせいにしなかったよ」
 「……」
 「リカは何も知らない、自分たちが勝手にやったことだ、って。…リカを本当に好きな人なんて誰もいない、なんて、僻んだこと、もう言うなよ。やり方間違ってるけど、あいつらなりに、リカのこと好きなんだろうから」
 ―――違う…。
 声もなく、緩慢に首を振る。けれど、奏にその真意は伝わらなかった。
 さっき、堪えきれずに怒りをぶつけてきた奏は、もう目の前にはいない。激しい感情を無理矢理ねじ伏せ、大人の顔を作ろうとしている。多分……今、何を言っても、奏には届かない。咲夜には二度と近づかせない、という宣言を境に、目に見えない壁が1枚、奏との間に下ろされてしまったのをリカは感じた。
 「い…一宮…さん」
 続く言葉もないのに、涙声で、すがってしまう。
 けれど奏は、よりはっきりとわかる笑顔を作ることで、その声を振り切った。
 「今日みたいな撮影ができれば、この先、ちゃんとやっていける。オレが保証するよ。だから―――もっと、自信、持てよ」
 「……」
 「…じゃ。頑張れよ、これからも」
 奏の顔から、笑みが消えた。
 下ろした拳が、震えている。その拳を振り上げて、リカを殴りつけることもできた筈だ。けれど、奏はきつく唇を噛むと、踵を返し、リカの前から立ち去った。

 恨み言ひとつ、言わずに。
 謝罪を求めもせず、殴ることも、足蹴にすることもしないで。

 だから、余計に―――リカは、打ちのめされた。


***


 「―――…な…に、それ……」

 信じられない。
 ショックのあまり、全身に、震えが走っていた。リカは口元を手で押さえ、こみ上げてくる吐き気を無理矢理押さえ込んだ。

 いつも仲間が集まる店の、ボックス席。大音量で会話がほとんど掻き消されてしまうのは、今のリカにとっては幸いだった。
 電話1本で簡単に駆けつけてくる晴紀に、真相を問いただすのは、あっけないほどに簡単なことだった。それに、今朝、既に奏から問い詰められていた晴紀は、どうやらリカから呼び出されることもある程度覚悟はしていたらしい。店に姿を現し、リカが腕を掴んで詰問すると、あっさりと全てを白状した。
 全てを。
 思わず吐き気を覚えるほどに―――最悪な話を。

 「ク…クスリで…騙してクスリ飲ませて、咲夜さんをどうにかしようとしてた、ってこと…? ト、トールと2人して、あの人のこと暴行しようと…」
 「…んな、人聞き悪いこと言うなよ。オーバーな…」
 バツが悪そうにそう言って、チューハイのグラスを口に運ぶ晴紀の顔には、まだ殴られて大して経っていないと思しき痣が2箇所、あった。口の端と目の下―――恐らく、奏にやられた痕だろう。
 「暴行じゃなくて、お楽しみだろ。眠らしてヤっちまえ、って計画じゃなくて、いい気分になってもらって一緒に楽しむ予定だったんだから。強姦と一緒にすんなよ」
 「ドラッグやってる人間に、まともな判断力なんてある訳ないでしょ!? 本人の意思がなけりゃ、強姦に決まってるじゃないのっ!」
 「そんなに騒ぐようなシロモンじゃねーって。あの女は特異体質でぶっ倒れたらしいけど、周りの連中なんて、やれ乱交だナンパだっつって、平気で使ってるぜ? 刺激求めて、彼女と使ってる奴だっているし」
 「……」
 「…でも、まあ、悪かったよ。勝手な真似して。ドラッグ使えば、その気にさせんのは簡単だ、って思ったんだよ。男に操立ててるような女なら、酔っ払って行きずりの男とヤっちゃいました、なんてことになったら、罪悪感に駆られて男と別れるんじゃないかと…」
 「…バ…カ…」
 呻くように呟いたリカは、バン! と机を叩いて、立ち上がった。その勢いに驚き、ソファに浅めに腰掛けていた晴紀が、後ろに仰け反った。
 「バカじゃないの!? なんでそんな真似、咲夜さんにしようとしたのよっ!? いつリカがそんなこと頼んだ!?」
 「…だ…、だって、邪魔だったんだろ?」
 幾分戸惑い気味な晴紀の反論に、激昂したリカの顔色が、僅かに変わった。
 「邪、魔…?」
 「もっとあいつと一緒にいたい、でも彼女優先だからリカには勝ち目ない、って、愚痴ってただろ。酔っ払って、俺に迎えに来させた日に。それって、彼女が邪魔だ、ってことだろ」
 「……」
 「前だって、リカに対抗意識燃やして女王様気取りしたバカな女を、リカ、“気に入らない、追い出して”の一言で、あっさりグループから締め出したじゃないか。言い寄ってきた男は俺らでボコボコにしてやったし、リカに悪態ついた女も黙らせた。いつものことだろ? リカにとって邪魔な奴、リカに危害を加える奴を追い出すのは。だから、リカがあいつと親しくなるための障害があの女なら、取り除いてやるのがいつものパターンじゃないか」
 「……」

 『リカがそういう風に望むって―――仲間に卑怯な真似させてでも咲夜を痛めつけてオレから引き剥がしたいと望むような女だって、あいつらに誤解させたのは、リカ自身が今まであいつらに取ってきた態度のせいだろ!?』

 ……足、が。
 足が、がくがく、する。
 わがまま放題、振舞ってきた。嫌いな人間がいれば、追い出してきた。喧嘩をしても、仲直りしようとなんてしなかった。そうやって、周りの人間をどんどんふるいにかけて、リカにとって無害な人間と、リカのためなら何でもする人間にだけ取り囲まれるようにして、生きてきた。
 奏の、言う通りだ。晴紀にこんなバカな真似をさせたのは、これまでのリカのせい―――リカならば、奏を独り占めするために、咲夜を排除しようとする筈だ、咲夜を奏から引き剥がせば、きっとリカは喜ぶ筈だ―――そう思わせたのは、誰でもない。リカ自身だ。
 でも、リカは。
 本当のリカは―――…。

 ふいに、耳に、歌が蘇ってきた。
 あの日、奏の部屋で聴いた、咲夜が歌う『Amazing Grace』―――まるで上等なバイオリンの音色を思わせる歌声に、あの時、魂が震えた気がした。
 羨ましかった。奏の傍にいられる、咲夜が。
 そして―――まるで母親に甘えるように、安心しきって眠ることができる、奏が。
 欲しかったのは、支え、導いてくれる、奏だけじゃない。本当のリカは―――優しいぬくもりをずっと求めていたリカは、奏をも抱きしめ包み込んでくれた、咲夜のあの天使の歌声も、欲しかった。

 「……っ、え、リカ?」
 ギョッとしたような声をあげた晴紀は、慌てて体を起こし、突如伏せられたリカの顔を覗き込んだ。
 リカは、泣いていた。両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いていた。
 「どうしたんだよ…? まさかあの男、俺がやったことが原因で、リカに文句言ったり怒鳴ったりしたのか? くっそ、あいつ―――今朝殴りこみに来た時、リカは知らない、リカとは関係ない、ってちゃんと言ってやったのに」
 「……」
 「な…なんだよ。泣くなよ。な? もう1回、俺からあいつに話つけてやるよ。大丈夫、リカほどの女が本気で迫れば、落ちない奴なんていないって」
 「…も…う…」
 震える吐息と共に、吐き出す。
 「…もう、構わない、で」
 「―――え?」
 「もう、あたしに、構わないで」
 晴紀が、固まってるのがわかる。
 きっと、晴紀からすれば、信じられない言葉なんだろう。…そう。もしかしたら、晴紀に罪はないのかもしれない。全てはリカのせい―――全部、自業自得なのかもしれない。けれど。
 「…もう、ここには、来ない」
 「リカ…」
 「寂しくても、いい。こんな、どうしようもない自分でいる位なら、1人になる方がいい。だから…もう、放っておいて」
 「…な…なん、だよ、突然。ヘンなこと言うなよ。リカが嫌なら、もうあの男の件には首突っ込まないし、夜遊びに飽きたんなら、別の遊びでもまた考えようぜ。俺たちは、リカが居てくれりゃ、それで」
 「あたしは…っ!」
 おもむろに顔を上げたリカは、涙でメチャクチャになった顔を誤魔化そうともせず、叫んだ。
 「あたしは、あんたたちのマスコットでもなければ、観賞用の綺麗なお人形でもない! 普通の―――何の面白みもない、ただの平凡な“人間”なの…!!」
 「……」
 「…おもちゃを壊したり散らかしたりして駄々を捏ねてる赤ん坊と同じよ。人の関心が惹きたくて、手足をバタつかせてる―――そうやって、周りの人を試してる。叱って欲しくて、何やってるんだって怒鳴って欲しくて―――だから…ダメ、なのよ。いいよいいよ、リカはそれでいいんだよ、って言うような人じゃ―――この顔さえしてれば何でもいい、リカの顔したお人形が、ただ何もせずそこに居るだけで満足するような人たちと、楽しそうなフリし続けるのは、もう無理なの…っ!!」

 勝手な言い分だと、自分でも思う。散々優しくされ、気を遣われてきてこの言い様なんて、晴紀からしたら、きっと心外だろう。でも……どうしても、止まらなかった。
 奏が言ったことは、みんな正しかった、けれど―――1つだけ、間違っている。
 リカを本当に好きな人なんて、やっぱり、誰もいなかった。
 晴紀もそう。トールもそう。一見、リカのためを思い、リカのために何でもしてくれてるように見える。でも…本当は、違う。
 リカという綺麗な「持ち物」を、周りに自慢したいだけ。リカにとっての「特別な存在」になることで、自己満足したいだけ。そこに、リカという人間は存在しない―――あるのは、この左右対称の綺麗な顔をした、物体だけ。
 本当に、好きなら―――真剣にリカのことを好いていてくれるなら、リカを人間として扱ってくれる筈だ。駄々を捏ね、周囲を試し続けるリカを、そんなことは間違っている、と諌め、止めてくれる筈だ。
 そんな人が、欲しくて、欲しくて―――リカはいつも、手足をバタつかせ、待っていた。リカの暴走を止めてくれる「誰か」を。でも…晴紀も、トールも、リカの背中を押してはくれても、止めてはくれなかった。

 「…あ…亜紀ちゃんが、あたしのサイン欲しいって言うなら、何枚でも、何十枚でも書く。晴紀にこれまで色々やらせたことのお礼を何かしろ、って言うなら、お金でも物でも何でもあげる。…あたしが“必要”なら、好きに使っていい。なんでも協力してあげる」
 涙を手のひらで拭うと、リカは、呆気にとられた顔の晴紀を見据え、きっぱりと言い放った。
 「だから―――お願い。もう、あたしに構わないで」

 

 店を飛び出すと、外は、いつの間にか、雨になっていた。
 ネオンやヘッドライトが滲んで見えるのは、雨のせいだけじゃない―――さっきからずっと止まらない、涙のせいだろう。町中に咲いている、たくさんの傘の花を見ながら、リカは、当てもなく歩き出した。

 奏に、会いたい。
 会って、許しが請いたい。
 熱に浮かされたように雨の中を歩くリカは、ただそればかりを、頭の中で繰り返していた。


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