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― Believe ―

 

 「咲夜」
 「…何」
 「それは、落ち込んでるのか、それとも腹が減ってるのか、どっちだ」
 控え室のテーブルに頭を乗せ、両腕をだらんと下げている状態の咲夜を見て、一成が眉をひそめる。
 正解は、どちらでもない、だ。けれど、ぐったりした姿勢のまま咲夜が口にした答えは、正解とは違っていた。
 「……両方」
 「こら。腹空かせて歌ったりするから、伸ばしきれなくて音程が下がったんだな。ちゃんと食っとけよ」
 丸めた楽譜で咲夜の頭をポコン、と叩くと、ヨッシーはそう言って、咲夜の目の前に、買い置きしてあった板チョコを放り出した。
 実際、1回目のライブで歌った『What's New』は、高くも低くもない中間音で伸ばすところが、最後の方はスタミナ不足で音が若干下がり気味になっていた。咲夜の自己採点では、60点といったところだ。
 こんな風にぐったりしている理由は空腹のせいでも落ち込みのせいでもないが、少し空腹だし、落ち込んでもいる。のろのろと頭を上げた咲夜は、ヨッシーが放り出した板チョコに手を伸ばした。
 「全く……木曜は異様にテンション高かったと思ったら、今日はダウナーか。忙しいな、咲夜も」
 ぽりぽりとチョコを食べ始める咲夜を眺めつつ、ヨッシーが苦笑する。
 確かに、木曜は、異様なハイテンションだった。と言っても、咲夜の精神状態が本当にハイだった訳ではない。ごちゃごちゃになった頭やボロボロになった精神状態を、なんとか気合いと空元気で補おうとした結果、見た目にはやたらテンションが高くなっているような状態になっただけだ。
 火曜日に咲夜の身に起きたことを一切知らないヨッシーは、咲夜のそんな態度を「ノッている」と解釈したようだったが、前後不覚寸前になった咲夜を知っている一成は「不審な態度」と解釈したのだろう。結構しつこく「何があったんだ?」と訊ねてきた。勿論、咲夜自身も、そして口止め済みのトールも、真相を口にはしない。「酔っ払った」、「カクテルのレシピを誤った」という2人の言葉に、一成はそれ以上の追及を断念したが、最後まで腑に落ちないという顔のままだった。
 「…まあ、いいじゃん。感情の振り幅広い方が、幅広い感情表現の歌が歌えるんじゃない?」
 「ははは、屁理屈言う元気があるなら、大丈夫だな」
 咲夜の無茶苦茶な理屈に、ヨッシーが楽しげに笑う。一成も何か言うかな、と咲夜は密かに身構えたが、一成は何も言わず、黙々と読みかけの文庫本のページをめくっていた。
 一昨日のしつこいほどの心配の仕方に比べて、やたらあっさりした今日の一成の態度は、ちょっと不思議ではあるけれど―――正直、今の咲夜にとっては、何も訊かないでいてくれる一成の態度はありがたかった。


 ―――ああ…、やっと土曜日かぁ…。
 火曜日からの僅か数日が、とてつもなく長く感じた。たったの2、3日で、もうヘトヘトだ。
 別に、それほど疲れることをやった訳ではない。あの日飲まされた怪しい薬のせいでもなければ、仕事がハードだった訳でもない。全ては、気持ちのせい―――心の問題だ。

 今朝も、奏の顔を見ていない。
 木曜日の朝。出かけようとしたら、奏が突然、部屋から飛び出してきて―――まるで、すがるような目をして、咲夜を抱きしめた。あれが、奏の顔を見た最後。あれから一度も、奏と会っていない。
 奏の部屋を、訪ねようと思った。朝も、いつものように窓を開けてみようか、と思った。何度も、何度も、何度も。けれど……何故か、できなかった。
 土曜まではもう何も言うまい、と決めているのに、また火曜日のような展開になるのが嫌だったのかもしれない。拓海に会ったことを、変に勘繰られるのが嫌だったのかもしれない。理由は、はっきりしているようで、実は曖昧だ。
 でも、土曜日が終わるまでは、むしろ会わない方がいいのかもしれない、とも思った。そして、奏が顔を出さないのも、自分と同じように思っているからなのかもしれない、とも思った。そして……そうやって色々考えるのが嫌になり、とにかく土曜日までは何も考えるのはよそう、と思った。考えすぎると、悪いことばかり考えてしまう。それなら、何も考えない方がいい―――そう、思ったのだ。

 やっと、土曜日。奏が受けているリカの仕事も、今日の撮影で終わりだ。
 今朝も、奏は姿を見せなかった。隣の部屋のドアが開き、奏が出かけていく音を聞きながら、咲夜は、今夜どうやって奏に話そうか、と頭を悩ませていた。
 あまり、奏を傷つけたくない。けれど、傷つけずに真実を話すのは、かなり難しそうだ。いや…それ以前に、話を聞いてもらえるかどうか、甚だ不安だ。奏が咲夜と顔を合わせるのを避けているのは、咲夜に対して腹を立てているからかもしれないのだ。リカの話なんかしたくない、部外者が首を突っ込むな、とピシャリと拒絶されるかもしれない―――そんな想像が頭を掠め、咲夜は余計、頭を痛めた。
 それに―――今日が「最後の仕事」にならない可能性だってある。
 それがどういう気持ちかは別として、リカは奏を気に入っているのだ。リカ本人の口からそんな話が出ているとは聞いていないが、多分、またメイクを担当して欲しい、と頼むのはほぼ間違いないだろう。いや、もう頼んでいるかもしれない。
 一人前のメイクアップアーティストとして独立したい、と考えてる奏にとって、ご贔屓さんは大切な存在だ。それに何より、奏はリカに対して親身になっている。モデルになって間もない頃の自分を重ねて、共感を覚えている。そういうシンパシーは、単純な好き嫌いよりずっと強く、人を結びつける気がする。だから……今の奏なら、リカの依頼なら、スケジュールさえ空けばきっと引き受けるだろう。
 もし、既にリカの頼みを引き受けてしまっていたら―――奏は、あの話を知った後、どうするだろう?
 公私混同せず、仕事は仕事、と割り切って引き受けた仕事を全うするだろうか? それとも、下心のある奴と仕事なんかできるか、と一旦受けた仕事を断ってしまうだろうか?
 それとも―――まさかあのリカがそんな下心を持っている筈はない、とまた言うだろうか。

 ―――情けないよなぁ…。“IF”にすぎない話で、あれこれ気を揉んで、不安になるなんて。
 信じてないのか、という拓海の言葉が頭をよぎり、咲夜は無意識のうちにため息をついていた。
 「…おい。ほんとに大丈夫か? お前、今年は1回ぶっ倒れてるんだから、無理だけはするなよ?」
 それまで比較的軽い調子だったヨッシーが、さすがに心配げに眉をひそめる。慌てて笑顔を作った咲夜は、パキン、とチョコを折りながら首を振った。
 「大丈夫。ちょっと考え事してただけ。最近、色々悩み事多くてさ。トール君が周りをチョロチョロしてたりとか、岡田さんたちの後釜バンドが決まらなかったりとか」
 「ああ…、まだ決まってないよな、もう9月も3分の2過ぎたのに。でも、岡田さんたちの件は岡田さんと店が決めることだから、咲夜が気に病むことはないぞ。余計なことで神経すり減らすな」
 「ん…、わかってる」
 曖昧に笑いながら、今名前を出してしまった人たちに、心の中で詫びる。勿論、嘘を言った訳ではないが、咲夜の神経をすり減らしているのは、決して彼らではないのだから。
 …本当に、情けない。
 やっと重荷を下ろせる日が来たというのに、咲夜はさっきからずっと、ライブが終わり店を後にする時間になるのを、恐れている。
 今夜、全てを話した後、その話を奏がどう受け取るか―――見えるようで見えないから、怖い。もう隠し事をせずに済む、という開放感の一方で、咲夜はその時間が近づくにつれ、奏の顔を見るのが怖くなってきていた。

 「…さて、そろそろ準備するか」
 時計をチラリと見た一成が、そう言って、読んでいた本を机の上に伏せた。
 本日2回目のステージまで、あと5分少々になっていた。それぞれに席を立つヨッシーや一成を横目に見ながら、咲夜もペットボトルの水を一口飲み、席を立った。
 ロッカーの横に置かれた姿見に自分の姿を映し、鏡の中の自分の顔を睨む。
 ―――ぼーっとした顔してんなぁ…。モロ、精神状態が顔に出るようじゃ、プロ失格だな。
 せめてステージ上では、一切を忘れて、集中しないと―――表情を引き締めた咲夜は、気合いを入れるように、パン、と自らの両頬を軽く叩いた。


 しかし。
 咲夜の集中力は、ステージに上がって僅か1分弱で、ぷっつり途切れることとなる。


 「こんばんは。“Jonny's Club”へようこそ」
 ステージ上で、マイク片手に笑顔でいつものように挨拶しながら、これまたいつものように軽く店内を見渡す。
 そして、その視線が、トールのいるカウンター席に向けられた直後―――咲夜の表情が、凍りついた。

 「―――…」
 全身の血が、一気に引くのを、感じる。
 カウンター席の、ほぼ中央―――カウンターに肘をつき、くわえ煙草でステージを眺めている、奏の姿があったのだ。

***

 「あ、咲夜さん、お疲れ様でーす」
 ライブ終了後、猛ダッシュで帰り支度を済ませ、カウンター席に駆けつけた咲夜を出迎えた第一声は、あろうことか、奏ではなくトールの能天気な挨拶だった。
 でも、トールの声など、咲夜の耳にはほとんど入っていないし、トールどころか他の客やスタッフの顔すら、咲夜の目には入っていなかった。呆然とした顔をした咲夜の目は、不貞腐れたようにこちらを見ず、黙々とパスタを食べている奏の横顔に釘付けになっていた。
 なんで、奏が。
 いや、奏がここに来ること自体は、別に不思議でも何でもない。過去に何度も来たことがあるのだし。でも―――今日のこのタイミングで、しかもこのカウンターだ。偶然だなんて、とても思えなかった。
 それに、奏の顔―――左の頬に、明らかに殴り合いの喧嘩でもしたとわかる、痣がある。木曜日の朝会った時、こんな痣はなかった。一体、いつ、誰に殴られたのか……こんなものを見せられて、動揺するな、と言う方が無茶な話だ。
 「和風きのこリゾット、お待たせしましたー」
 咲夜の茫然自失は、背後から近づいてきた店員の、そんな平和な声で遮られた。
 咲夜の横をすり抜けた店員は、リゾットの入った器を奏の右隣の席に置いた。が、奏の隣の席には、誰も座っていない。空席にポツンと、ウーロン茶が入ったグラスとリゾットだけが置かれている。しかも、和風きのこリゾットは、この店のメニューの中で咲夜が一番好きなフードメニューだ。
 「……」
 「…何、ぼーっと立ってんだよ」
 立ち尽くしている咲夜に焦れたのか、奏がボソリと呟き、目だけを咲夜の方に向けた。その目は、少し怒っているようにも見えるが、圧倒的に「気まずい」という色合いが強かった。
 「晩飯、まだなんだろ」
 「…うん」
 「…だったら、早く食えよ。冷めるだろ」
 「……」
 つまり、そのリゾットは、私の夕飯ですか。
 状況説明をすっ飛ばしている癖に、さっさとしろ、と苛立たれたのでは、どうにも釈然としない。けれど、いきなりの事態にまだ頭がついて来ていないのだろう。奏の隣に座った咲夜は、トールがにこやかに差し出したおしぼりを、無言のまま素直に受け取った。

 はっきり言って、2回目のステージを無事終えることができたのは、奇跡に近いことだった。
 奏の姿を見つけた直後から、咲夜の頭は真っ白けに飛んでしまい、まともに働いてはいなかった。全く予想していなかった事態に、何故、という疑問すら出てこない状態―――なのに、気づけば咲夜は、予定した3曲を当たり前のように歌っていた。勿論、頭で思い出さずとも、口を開けば自然と歌詞が出てくる状態になるまで歌いこみはしてあるので、歌詞がよどみなく出てきたのは当然だ。が―――曲目も曲順も間違えなかったのは、まさに奇跡。ステージを降り、バックステージに戻って30秒後、自分がとんでもない状態でライブを務めたことをようやく自覚し、脚がガクガク震えたほどだ。
 そして、無事ライブを終えてやっと、疑問を持つことができた。
 何故―――どうして、奏があそこにいるのか、と。

 「はい、お待たせしましたー」
 気まずい中、手を拭いた咲夜がスプーンを手に取るのとほぼ同時に、トールが奏の前にコトン、とカクテルグラスを置いた。
 ブルーハワイより優しい色合いの、水色のグラデーション―――グラスの中身の色合いに気づいた咲夜は、ギョッとして思わず目を見張った。
 「ご注文の“マンハッタン・ナイチンゲール”でーす」
 「あ、サンキュー」
 見間違いじゃなかった。やっぱりあの“マンハッタン・ナイチンゲール”だ。今や、店のオリジナルカクテルの1つとして極普通に注文されているのだが、このカクテルが誕生した経緯を知っているだけに、これを奏が注文したことに、変な焦りがせり上がってくる。
 しかも、そんな咲夜の焦りに拍車をかけるように、奏はサラリと、恐ろしいことを口にした。
 「ふーん、どんな色かと思ったら、水色か…。咲夜をイメージしたんなら、薄紫とかそっち系統の色かと思ってた」
 「……っ!?」
 「へぇ、奏さんの目から見ると、咲夜さんてそういう色合いなんだ。参考にしとこ」
 咲夜の手から、スプーンがポロリと落ちた。
 ―――咲夜をイメージして、って……なんで奏が、それを知ってる訳!? し、しかも“奏さん”って……今日初めて会った客を、バーテンダーがファーストネームで呼ぶって、どーゆーことよ!?
 唖然とする咲夜をよそに、奏は“マンハッタン・ナイチンゲール”の注がれたグラスに口をつけ、一口、飲んだ。うーん、と味を確認するように斜め上に視線を向けていた奏だったが、結構気に入ったらしく、ちょっと感心したような笑顔をトールに向けた。
 「なかなか、いけるじゃん」
 「ほんとっすか。やったー、良かった。咲夜さんが起源なだけに、彼氏にダメ出しされたら、さすがにまずいっしょ」
 「オレ、あんまり酒強くないから、この位の度数が一番飲みやすいんだよな。次からこれ頼もっと」
 「トールくぅーん、こっちにマティーニ2つお願ぁい」
 まるで常連客のような奏とトールの会話に、女性の声が割って入る。咲夜の隣、2つ空席を置いて同じカウンター席に座っている、2人組の女性客だった。恐らくはトール目当てなのだろう、トールにマティーニを注文する声には、アイドルに声援を送るミーハー少女に近い色合いをしていた。
 はいはーい、と機嫌良く返事したトールは、さっそくマティーニを作り始めた。まだ唖然としたままの咲夜の隣で、奏は涼しい顔でカクテルを飲み続けている。が、さっぱり動く気配のない咲夜に気づいたのか、チラリとこちらに目を向けた。
 「…早く食えよ、それ」
 「え、」
 「リゾット。あと10分で、帰るから」
 「……」
 なんだか、一気に、全てがどうでもいい気がしてきた。大きく息をついた咲夜は、諦めたようにリゾットを口に運び始めた。
 板チョコを少しだけ食べていたとはいえ、実際に空腹でもあった。ここ数日、あまり食欲のなかった咲夜だが、あっさり和風味のリゾットは優しく体に馴染む感じがする。一口食べたことでスイッチが入ったみたいに、咲夜はそこそこのハイペースでリゾットを平らげていった。
 そんな咲夜の隣で、奏は一口分だけ残っていたパスタを食べ終え、後は“マンハッタン・ナイチンゲール”を飲み続けていた。やはり、あまり機嫌が良くないらしく、咲夜の方を見ることも、口を開くこともない。冷たくさえ見える奏の横顔を時折確認しては、咲夜は、胸の辺りがチクチクと痛むのを感じた。
 「はい、マティーニ2つ、お待たせしました」
 トールがマティーニのグラスを置くのと同時に、カウンターの反対側の端っこから、女性客のきゃあきゃあというはしゃぎ声が聞こえた。咲夜には到底理解不能だが、ああいう女性客がいるからこそ、ホストという職業も存在する訳だ。完璧な営業スマイルを振りまくトールを一瞥し、よくやるなぁ、と咲夜は内心苦笑した。
 女性客の相手を適当に切り上げたトールは、再び奏と咲夜の前に戻ってくると、客用に用意されていた氷の入ったグラスに水を注ぎ、それを一気飲みした。どうやら、トールはトールなりに、ああした客の対応には神経を遣っているらしい。だれきった顔を見られないよう、さりげなく彼女たちに背中を彼女らに向けたトールは、はー、と安堵したように息を吐き出した。
 「ハッタリかと思ったけど、ほんとにいるんだな、トール目当ての女の客」
 女性客に聞こえないよう配慮してか、奏も多少小さめの声で、そう言ってトールをからかう。するとトールは、空になったグラスを置いて、面白くなさそうな顔を奏に向けた。
 「ハッタリな訳、ないでしょう。これでもホスト時代、本気で貢いでくれてた客が何人もいたんだから」
 「ハハ、物好きの多い店だったんだな、そこ」
 「…奏さんが言うと、イヤミだなぁ、それ。おれがどんだけモテるって主張しても、奏さんには敵いそうにないもん」
 「いや、オレ、あんまりモテないし」
 「えぇー、嘘っぽいなー。どう考えたってモテるでしょうが」
 「嘘じゃないって。日本だと、この外見は“日本語を理解できない外国人”に見えちゃうらしくて、注目はされても、なんとなく遠巻きにされてる感じで。イギリスいた頃の方がモテてたよ」
 ―――…何、この和やかなムード。
 「どうせ国内限定の庶民派ですよ。くそー、悔しいなぁ…。まあ、でも、実物の奏さん見て、あーこりゃ咲夜さんにいくらアプローチかけても無駄だった訳だな、って諦めついたけど」
 「!!!!」
 飲みかけていたウーロン茶が、喉に詰まった。
 「ゲホゲホゲホ……!」
 「うわ、咲夜さん、大丈夫?」
 ―――大丈夫な訳、ないでしょーがっ!!!
 勿論、大丈夫じゃないのは、ウーロン茶のせいじゃなく、トールの言動のせいだ。ゲホゲホとむせながら、咲夜は涙目でトールを睨んだ。
 一方、奏の方は、ウーロン茶にむせる咲夜に一瞬苦笑らしきものを浮かべた。が、その苦笑も、すぐに消えた。
 「…食べ終わったんなら、そろそろ帰るぞ」
 トントン、と咲夜の背中を叩き、奏がどこかそっけない口調でそう言う。
 実際、もうリゾットは食べ終わっていたし、これ以上トールといると何を言われるかわかったものじゃない。まだケホケホと咳き込んでいた咲夜は、涙を指で拭いながら、コクリと小さく頷いた。
 席を立つ奏に倣い、咲夜もカウンター席から立ち上がる。すると、奏の手が、おもむろに咲夜の手首を掴んだ。
 「!」
 「じゃ、トール。後頼む」
 手首を掴む力のあまりの強さにギョッとする咲夜をよそに、奏は涼しい顔でトールにそう言った。何を「頼む」のかと思ったら、どうやら勘定のことらしい。カウンターの上に置かれていた伝票を摘み上げたトールは、にっこりと笑い、それをヒラヒラと振ってみせた。
 「了解です。でも、もっと高いもんでも良かったのに」
 「こんな安いもんで申し訳なかった、って思わせるための作戦だから」
 「あはは、そーですか」
 そこで、トールのふざけた態度が、一瞬にして改まった。
 唐突に姿勢を正したトールは、真面目な顔になり、奏と咲夜に向かって頭を下げた。
 「…ほんとに、すみませんでした」
 「―――…」

 “すみませんでした”。
 咲夜だけじゃなく、奏もいるこの場で、こうして頭を下げる、ってことは―――…。
 ―――…ま…さか…、奏も、もう、火曜日のことを、知ってる……?

 呆然と、頭を下げるトールを凝視していた咲夜は、奏にぐい、と手を引かれ、我に返った。
 ハッとして奏を見上げると、奏はやっぱり、怒ったような緊張したような、硬い表情をしていた。「行くぞ」と短く告げた奏は、半ば強引に、咲夜を連れて店を出た。


 店を出ると、外は、パラパラとではあるが、雨が降り始めていた。
 外に出てもなお、奏は、咲夜の手首を掴んだままだ。しかも、気が立っているからなのか、歩く速度もいつもより速い。奏に引っ張られるようにして歩く咲夜は、その速さのせいで、ちょっと前のめりの姿勢になってしまう。
 「…ね、ねぇ、奏」
 「……」
 話しかけてみても、奏は、真っ直ぐ前を見たまま、咲夜の方を見もしない。そのくせ、咲夜の手首を握る手の力は、少しも緩めようとはしない。どうしよう―――咲夜は、ますます困惑した。
 その時、咲夜はふと、奏が手ぶらであることに違和感を覚えた。今日の撮影が何時からだったのか、実はよく知らない。が、撮影帰りに店に寄ったのだとしたら、メイク道具を持っている筈だ。
 「…もしかして、家に1回、帰ったの?」
 「……」
 「…あの、今日の撮影」
 「今、」
 咲夜の言葉を遮るように、やっと口を開いた奏が、硬い声で告げた。
 「オレ、かなり怒ってるから―――暫く話しかけんな」
 「……」
 怒ってるって、誰に? という問いは、到底口にはできなかった。
 時折、降り始めた雨が、頬に当たる。その冷たさに身を竦ませたように、咲夜は黙って、奏に腕を引かれて歩き続けた。

***

 奏は、ずっと、黙ったままだった。
 店から駅までの道のりは勿論のこと、電車を待つホームでも、そして電車に乗り込み椅子に座っても、ずっと不機嫌な顔をして、一言も喋ろうとしない。それどころか、咲夜の顔を見ようとすらしなかった。
 落ち着かない―――こんな奏は初めてで、さすがの咲夜も、どうすればいいかわからない。でも、奏が、手首を握る手を決して放そうとはしないことに、戸惑いながらも少しだけ安堵していた。視線も、言葉も、繋がらないけれど―――この1点だけは、繋ぎとめられたままだから。

 そうして、店のある駅から2つ目の駅を、電車が発車して間もなく。
 「……?」
 隣に座る奏の頭の位置が、ズルズルと下がる。
 それまで普通にシートに腰かけていた奏は、その姿勢を維持する力を突然失くしたみたいに、シートに深く沈みこんでしまった。
 「奏…?」
 恐る恐る、奏の顔を覗き込んでみる。
 奏は、まだ憮然とした表情のままだった。が、視線を逸らすことなく、ちゃんと咲夜の目を見返した。
 「…なんか、一気に疲れた」
 ボソリと呟いた奏は、姿勢を正すことなく、鬱陶しそうに額にかかった髪を掻き上げた。憮然とした表情の中に、感情的な奏らしい表情が一瞬覗いたのを見て、咲夜は少しだけホッとした。
 「どうしたの、その傷」
 明るい車内に入った時から、一番気になっていた、奏の頬の痣―――それに、繋いだ手にも、薄くではあるが傷のようなものがある。奏が何故店に来たのか、とか、あのトールとの会話の意味よりも、今は奏の怪我の方が気にかかって仕方なかった。
 すると奏は、忌々しそうに顔を顰め、吐き出すように答えた。
 「晴紀のパンチ、避け損ねた」
 「……」
 ドクン、と、心臓が跳ねた。
 晴紀。いきなり、奏の口から飛び出した名前。本人に会ったことはないが、咲夜はその名前を知っていた。晴紀―――リカの、狂信的なファン。後ろ暗い商売とも繋がりを持つ、不良大学生だ。
 「…な…、なんで、奏が、」
 晴紀のことを、知っているのか。
 疑問の肝心な部分は、声にならなかった。が、奏にも十分、その疑問は伝わったのだろう。沈み込んだ体をほんの少しだけ立て直した奏は、極めて淡々と、話を始めた。
 「―――木曜の朝、廊下で、蓮に会っただろ」
 「蓮……、ああ、蓮君?」
 いきなり呼び捨てなのに、ちょっと驚く。が、そんな驚きは、今直面してる驚きに比べれば微々たるものだ。咲夜は、あえて、奏が蓮を呼び捨てにするようになった経緯を訊くのはやめておいた。
 「あの時、蓮が妙なこと言ったんで……オレ、詳しい話、聞いたんだ」


 『郵便受けの件、俺は、子供にしてはやる事が悪質な気がして。ストーカーとかの類だったら、自宅が割れてるってことだから、ちょっと心配で…。それと―――この前のは、咲夜さんは“酔っ払っただけ”って言ったけど、99パーセント、嘘だと思います。俺、バイト先で酔っ払い客を毎日見てるんで』

 郵便受けの件は、完全に、奏の知らない話だった。が、火曜日のあの咲夜のフラフラの状態を不審に思ったのは、奏も同じだった。どんなに疲れていようが、体調が悪かろうが、ほとんど酒の匂いをさせていない咲夜が、足腰立たないほど酔っ払うなんて、あり得ない。あの時はちょっと冷静じゃなかったので、疑問をそのままスルーしてしまったが、冷静になった今思い返すと、どう考えても納得のいかない状態だった。
 何かが、咲夜の身に、起きている。けれど、何が起きているか、まるで見当がつかない。
 店に出て、表面上はいつものように仕事を続けながら、奏はずっと考え続けた。そして―――1人の人物に、電話をかけた。前の日の夜、奏が咲夜の帰りを待ち続けている間、咲夜が会っていた人物―――そう、拓海だ。


 「え…っ、た、拓海!?」
 思わず、声が裏返る。それと同時に、奏の顔も、更に憮然としたものになった。
 「…“ゆうべ咲夜があんたんとこ行ったみたいだけど、何か相談されなかったか”って訊いたら、あのヤロー、思わせぶりに言葉濁してさ。おかげで、木曜の夜は、麻生拓海と楽しい楽しいディナーだったよ。可愛い姪を泣かすんじゃねぇ、ってぐちぐちぐちぐち文句言われながらで、何食べたかも覚えてねー」
 「うわ……」
 想像しただけで、冷や汗が吹き出してくる。奏としても、あまり思い出したくない話なのか、拓海とのディナーの詳細は、それ以上語らなかった。
 「とにかく、麻生さんの話聞いて初めて―――“Jonny's Club”にリカの仲間がバイトで入ってることや、そいつとリカが“賭け”をやってることを、やっと掴んだ訳だ、オレは」
 そこで言葉を切った奏は、大きなため息をつき、疲れたように咲夜を睨んだ。
 「…麻生さんの前だってのに、思いっきり素でボーゼンとしたぜ、あの時」
 「……」
 「頭ぐちゃぐちゃのまんま、家帰って……一晩中、考えた。郵便受けが悪戯されたのは、熱射病で倒れたオレをリカが家まで送ってくれたすぐ後だったし、フラフラになった件について、咲夜は“店の人間にカクテルの試飲させられて酔っ払った”って言ってた―――でも、確証は持てなくて。だから、昨日の昼間、昼休みをちょっと多めにもらって、藤堂が働いてるCDショップに行ったんだ」
 「え…っ、一成んとこに?」
 「藤堂にタクシー捕まえてもらった、って言ってただろ」
 ああ、そうだった―――ということは、拓海にしても一成にしても、結局は、咲夜自身が真相を手繰り寄せるためのポイントを奏に与えてしまっていた訳だ。案外迂闊な言動をしていた自分に気づき、咲夜はため息とともに、こめかみを押さえた。
 「藤堂から、火曜日にあったこと全部聞いて―――真っ先に思った。カクテルに何か入れられたんじゃないか、って。もしそうなら、迂闊に藤堂には教えられない話だと思ったから、全部の責任はオレが持つから、って掛け合って、藤堂はこの件から手を引いてくれ、って頼んだんだ」
 「…だから、あんなにしつこく事情を聞きたがってた一成が、今日は何も言わなかったの…」
 なるほど、納得だ。それにしても、奏と会ったことなどこれっぽっちも教えてくれないとは、一成もなかなかに人が悪い。


 そこから先は、直接対決だった。

 一成からの情報を受け、昨晩、奏は“Jonny's Club”を訪れた。そして、問題の人物―――トールとの対面を果たし、強引に店の外に連れ出した。
 この時、奏は既にキレる寸前の状態だったが、奏の正体を知った途端大慌てで土下座するトールを見て、一気に拍子抜けした。脅し文句も暴力も、全然必要なかった。トールは、奏が一言訊いただけで、ありとあらゆることを白状してしまった。
 リカとの間に交わされた“賭け”のこと、ここで働き始めてから今日まで、咲夜にどんなアプローチをしてきたか、それに対して、咲夜がどんな反応を見せたか―――真相を見抜いた咲夜が、既にトールを問い詰め、今週いっぱいは事を荒立てないよう口止めをしたことも、トールは奏に語った。どう考えても口止め違反だが、トールは「あんたには話すべきだと思って」と言った。正直に話してくれたことで、奏はトールの後悔を信じることにした。

 奏は、あの日咲夜に何が起きようとしていたのかを、正しく把握した。
 把握して―――完全に、キレた。

 明けて、今朝。奏は、昨晩からオールナイトで晴紀が入り浸っている筈の店へと向かった。絶対に迷惑はかけない、と約束した上で、トールから聞きだした場所だった。
 その時点では、奏は、冷静に話し合いをするつもりでいた。咲夜から証拠物を入手済みだ、とハッタリをかまして、次に何かあれば警察に届け出る、と釘を刺すだけのつもりだった。
 だが、その計画は、僅か数分で粉々になった。


 「―――…あいつ、笑ったんだ」
 電車の床をじっと見つめ、奏は、低くそう呟いた。
 「ただのお遊びじゃん、そんなマジになるなよ―――そう言って、笑ったんだ」
 「……」
 「…本気で、ぶっ殺してやる、って思ったの、生まれて初めてかもしれない」
 隣で聞いている咲夜ですら、ゾクリ、とするほどの、殺気。
 その時の晴紀の言葉、晴紀の表情を、くっきりと思い出したのだろう。奏の目は、暗く陰り、冷たい殺気を帯びていた。
 「気がついたら、あいつのこと、殴り倒してた」
 そう言うと、奏は、怪我をした右手の拳を、左の手のひらでパン! と受けた。
 「向こうも、何しやがる、って反撃してきたけどな。…あいつ、ボクシングやってたって言っても、所詮お坊ちゃま芸にすぎねーの。ボコボコ殴れる勝負しかしたことねーから、打たれ弱い打たれ弱い。2発殴っただけで、反撃ストップ。そのまま警察まで引きずって行こうと思って、実際、5メートルくらい裏路地引きずったら、渋々謝りやがった」
 「……」
 想像して―――背筋が、寒くなった。
 ぶるっ、と咲夜が身震いするのとほぼ同時に、車内アナウンスが、2人が降りる駅の名前を告げた。それを合図にしたみたいに、奏はまた、黙り込んでしまった。

***

 雨は、本格的な降りになっていた。

 「あーあ…、本降りになっちゃったね」
 改札を抜け、既に水を吸って黒くなった地面を更に雨が叩いているのを見た咲夜は、定期券をしまいながら、そう言って大きなため息をついた。
 あいにく、奏も咲夜も、傘を持っていない。アパートまで走って帰るしかないが、この降りだと、ずぶ濡れはほぼ間違いないだろう。
 「ちょっと、雨足見て帰ろっか」
 「…そうだな」
 奏もポツリとそう答え、2人は、駅に隣接したDPEの店の軒下に避難した。
 既に店は閉まってしまっているので、店の軒下を借りても、店に迷惑をかけずに済む。2人は、店のシャッターに背中を預け、雨足が少し弱まるのを待った。

 ―――気まずいなぁ…。
 雨音ばかりで、会話がない。
 チラリと見上げた奏の横顔は、さっきムスッと黙っていた時ほど険悪ではないが、やっぱりピリピリしていて、話しかけ難いものがある。晴紀に見せた殺気を引きずってしまっているせいなのか、それとも、咲夜に対してまだ口にしていない怒りがあるからなのか―――訊ねたくても、なんだか訊き難い。
 3分近く、2人は黙ったまま、並んで雨宿りをしていた。が、沈黙に耐えかねて、咲夜がようやく口を開いた。
 「…あの、さ。今日の撮影って―――上手くいったの?」
 「…ああ。上手くいった」
 少し掠れた声で、奏が答える。
 「かなり、むしゃくしゃしてたけど……ギリギリ、冷静さ保って、やり遂げた。リカも、今までで一番いい仕事してたよ。大成するかどうかは怪しいけど―――もう、人形のフリしてカメラの前に立つことは、ないと思う」
 「…そ…っか」
 自然と、咲夜の口元がほころぶ。そんな咲夜の反応を見て、奏は一瞬、複雑な表情を見せた。
 「じゃあ、奏がこの2ヶ月やってきたことは、無駄にならずに済んだんだ。良かったじゃん」
 「…また、メイク担当してくれ、って頼まれた」
 淡々と告げられた一言に、咲夜の顔から、笑みが消えた。
 ふーん、そうなんだ、と軽く受け流すべき話題の筈なのに―――予想していたとはいえ、やっぱり、心を乱されてしまう自分がいる。僅かに瞳を揺らした咲夜は、俯き加減の奏の顔を覗き込み、訊ねた。
 「―――引き受けたの?」
 「…耐えらんなかった」
 「え?」
 「ただ、断るだけにしとこうと思ったのに―――黙ってられなかった」
 「……」
 「全部、話した。リカに。全部話して……二度とリカの依頼は引き受けない、って答えた」
 二度と―――…。
 信頼を裏切られた奏からすれば、それは当然の答えなのかもしれない。けれど…自分がリカなら、これ以上ないほど、ショッキングな言葉だ。
 「ちょ…、ちょっと、二度と、ってのは酷くない? 晴紀の計画、あの子は知らなかった訳だし―――それに、奏の話じゃ、頼れる相談相手も全然いないみたいだったじゃん。あの子が下心オンリーで奏に近づいた訳じゃないこと位、私もわかってるよ? そこの部分は認めてやっても」
 「―――何、リカのフォローしてんだよ」
 苛立ったように咲夜の言葉を遮った奏は、顔を上げ、憤りをあらわにした目を咲夜に向けた。
 「一番の被害者のお前が、リカを庇ったりすんなよ。二度と引き受けるな、って言うならまだしも、同情するってどういうことだよ」
 「…え…、いや、だってさ」
 「あいつの真意なんて、オレには、どうでもいいんだよ」
 シャッターに預けていた背中を起こし、奏は、咲夜に向き直った。
 「下心があろうがなかろうが、そんなこと、どうでもいい。オレに見せた態度のどれが本心でどれが嘘かなんて、もうどうでもいいんだよ。オレにとっては、リカが咲夜に悪意を持ってたって事実と、その悪意を実行に移したってこと、その悪意に加担して咲夜を危険な目に遭わせようとする奴がリカの近くにいる、っていう、それだけで十分だ。どんなに可哀想な境遇だろうが、オレの方が間違った態度取ってようが、構わない―――オレは絶対、あいつらを咲夜に近づかせないって決めた。だから、絶対に同情しないって決めたんだ」
 「…そ…、」
 バン! と、耳の近くで音がして、咲夜はびくっ、と体を強張らせた。それが、奏がシャッターに拳を叩きつけた音だと理解するまで、数秒かかった。
 シャッターに押し付けられた奏の拳は、小刻みに震えていた。いや―――拳だけじゃない。体も、微かに震えているように見える。
 「なのに―――なんでお前が、そんな同情したこと、言うんだよ…っ」
 「……」
 「お前、自分がどんな目に遭うとこだったのか、わかってんのかよ…? あいつは…」
 「……」
 「…あいつ、は……」
 震えが、激しくなる。声は、完全に掠れてしまっていた。
 奏の目には―――涙が、浮かんでいた。
 「…奏…」
 「……っ…」
 「……奏」

 痛々しくて、見ていられない。
 腕を伸ばした咲夜は、奏の背中に両手を回し、緩く抱きとめた。
 腕に、奏の震えが伝わる。それは、憤りの震えだけではない気がする―――まるで、何かに怯えているみたいだ。宥めるように、軽く背中を叩いてやると、それを合図にしたみたいに、奏の方からも咲夜を抱きしめ返してきた。
 …苦しい。
 全部の想いをぶつけるみたいにして、抱きしめてくる、奏の両腕―――苦しくて、息が、できない。でもそれは、腕の強さのせいばかりではなかった。

 「…オレ…知ってるから。ああいう目に遭った時、女が、どれだけ深い傷負うか―――好きな女を傷つけられた男が、どれだけ苦しい思いするか。…知ってる、から。ズタズタに傷つけられて、どん底まで落ちたあいつらを、すぐ傍で、見てたから」
 「……」
 「…良かっ、た」
 掠れた声で、そう言うと、奏は咲夜の耳元に、顔を埋めた。
 「良かった―――咲夜が、無事で…」
 ―――そ…っか…。
 咲夜の脳裏には、奏が「あいつら」と言った、その2人の顔が、はっきりと浮かんだ。かつて、奏自身が傷つけてしまった相手―――傷つけるほどに求めて止まなかった人たちの顔が。
 「…ごめん」
 咲夜が危険な目に遭ったのは、トールとリカの繋がりに気づいた時点で、その事実を奏に話さなかったからでもある。その選択に、今も後悔はしていないけれど……でも、今、奏が震えて泣いているから。
 「…黙ってて、ごめん。ごめんね」
 咲夜は、そう言って奏に謝り、奏の髪を指で梳いた。


 暫し、時が、過ぎた。
 雨足に、あまり変化はないけれど、髪を撫でているうちに、伝わってくる奏の震えは次第に小さくなり、やがて消えた。震えが消えてもなお、奏は、咲夜を抱きしめたままでいた。
 多分、次の電車が到着して、それなりの客が駅から出て来た筈だけれど、2人ともそれに気づく余裕はなかった。駅の出口から多少外れてはいるが、もしかしたら、抱き合っているところを見られたかもしれない―――そんなことにふと気づき、咲夜は、ちょっと顔が熱くなるのを感じた。
 「…咲夜」
 ふいに、頭上から、先ほどまでより落ち着いた奏の声が降ってきた。
 「オレって……お前の、何?」
 不可解な問いかけに、咲夜は、いつの間にか閉じていた目を、パチリと開けた。
 「え……?」
 「…恋人だと思ってんのって、オレだけ?」
 「…私だって、そう思ってるよ?」
 いきなり、何を言い出すのだろう? 顔を上げて、奏がどんな顔をしているのか確かめたかったが、身動きもままならない状態では、無理だった。
 「なんで、そんなこと、訊くの」
 「―――…オレ、この前、お前に“もういい”って言われた時……もうダメかと思った」
 「ダメ…?」
 「…あの“もういい”って言葉が、なんか―――オレと別れてもいい、って、そう言ってるように聞こえて」
 「……」
 「リカに限らず、さ。オレに猛アタックかけてくる女が現れて、オレがちょっとでもその女にいい顔したら……お前、あっさりオレをその女に譲っちゃうんじゃないか、って、なんかそんな気がして……もの凄く、怖かった」
 「…バ…カ、そんな訳、ないじゃん」
 苦笑を滲ませた声を出したつもりだったが、上手くいったかどうか、自信がなかった。
 別れてもいい、なんて、思わなかった。けれど……両想いより片想いの方が楽だ、と思ったのは、事実だ。
 両想いは、難しい。自分の気持ちだけじゃなく、相手の気持ちも、信じ続ける努力が必要だ。裏切られることに臆病な咲夜にとって、相手の気持ちを信じることは、とてつもなく難しい。それがたとえ、自分の気持ちに常に正直な奏が相手であっても。
 「…物わかりのいい女になんて、なるなよ」
 ぎゅ、と、更に腕に力を込め、奏は呻くようにそう言った。
 「理解のある女になんて、なるな」
 「……」
 「オレの周りに女がウロウロしてたら、オレがうんざりする位、嫉妬しろよ。他の女と飲んできた、って言ったら、自分以外とのツーショットなんて許せない、って怒れよ。仕事の都合そっちのけで、わがままも好きなだけ言えよ。勘弁してくれ、ってオレが音を上げる位、オレを振り回せよ」
 「……」
 「オレが、咲夜の気持ちを疑う暇なんてない位―――オレを、がんじがらめに縛れよ。でないとオレ……すぐ、不安になるから」

 ―――…奏…。

 “恋愛に関しては、臆病にならない奴なんていない―――女だけじゃなく、男も”。
 拓海のセリフが、今更ながらに思い出される。あの時は、自分の不安で精一杯だったけれど……今なら、その意味がよくわかる。臆病になっていたのは、自分だけじゃない―――物わかりのいいフリをしていた咲夜の態度が、奏を不安にさせていたのだ、と。
 何か、答えてあげたかった。不安がる必要なんかない、こんなにも自分は、奏を愛しく思っているのだから、と伝えたかった。
 けれど、口に出せばどれも陳腐なセリフになってしまう気がした。だから咲夜は、一番シンプルな言葉を選んだ。

 「…好き…」
 「……」
 「奏が、好き。…信じて」
 「―――…うん」
 奏のその、雨音に掻き消されそうなほど微かな声は、いつ以来だろう、と思うほど、穏やかで安心しきったような色をしていた。

***

 結局、雨が完全に止むことはなかった。
 このままずっと雨宿りするほど、2人とも根気強い方ではない。これならダッシュで行ける、と思える程度に雨足が弱まったところで、2人は見切り発車的に雨の中に飛び出した。

 「ねーっ」
 「んー?」
 「途中でコンビニ寄って傘買う、って手も、あったんじゃないー?」
 実際のところ、駅から徒歩1分圏内に、2軒もコンビニがあったのだ。その位の距離ならほとんど濡れずに済んだだろうに、2人とも何故かその案を口にすることはなかった。
 「まーなぁ。オレんとこ、ビニール傘がもう3本も転がってるし」
 指を折って数えながら、奏が苦笑する。咲夜も、家に転がっているビニール傘を思い出し、同じく苦笑した。
 「そう言えば、うちにも2本あった気がする」
 「…オレたちには、傘より天気予報を聞く習慣が必要だよな」

 多分、雨に濡れて帰りたい気分、だったのだと思う。
 それぞれに、今日まで抱えていた、いろんなこと―――不安、疑問、憤り、もどかしさ、そんな気持ちを思い切り雨で洗い流したかったのかもしれない。
 9月の雨は、夜ということもあって、思いのほか冷たかった。けれど、頬を打つ雨粒も、しっとりと湿気を含んだ服も、なんとなく清々しくて気持ちよかった。そういえば中学生の頃、わざと傘をささずに歩いたりしたことがあったっけ―――大人になって、そんなバカな真似はしなくなるのが普通だろうけれど、たまには……そう、こんな日位は、そういうバカを大人がしたっていいんじゃないか、と咲夜は思った。


 “ベルメゾンみそら”に着くまでの間、幾分弱まっていた雨は、2人がアパートのエントランスに飛び込むのとほぼ時を同じくして、再び強まった。
 「うわー…、危機一髪」
 「結構濡れたけど、思い切って出て正解だったな」
 走っていたせいか、服はそれほど悲惨なことにはなっていないが、髪は、奏も咲夜もかなり雨を含んでしまっていた。急速に体が冷えていくのを感じた2人は、大急ぎで2階に上がり、揃って咲夜の部屋に転がり込んだ。
 「奏、大丈夫?」
 「うー…、オレは、大丈夫。けど、なんか温かいもん飲んだ方がいいよな」
 「温かいものかぁ…。紅茶って体、温まるのかな」
 「なんか、温まる感じじゃないよな、あのイメージは…」
 「ほら、奏、こっち向いて」
 咲夜の言葉に、床に座っていた奏が「ん?」と振り返る。その頭にバサッ、とスポーツタオルを被せた咲夜は、金色に近い明るい髪を、力任せにがしがしと拭き始めた。
 「いくら明日が日曜日って言っても、風邪ひいて寝込んでたんじゃ、もったいないもんね」
 「……っつーか、お前、自分の頭もずぶ濡れだってこと、忘れてんなよ」
 奏の頭をせっせと拭いている癖に、自分自身はまだ雨でぺたんこになった髪のままでいる咲夜の様子に、奏が呆れたように笑う。咲夜が肩に掛けていたタオルを手に取った奏は、世話が焼ける奴め、と言わんばかりに、咲夜の頭を拭き始めた。
 「おい、もっとこっち向けって。拭き難いだろ」
 「もー、動くなってば、届かないじゃん」
 向き合って座り、互いに相手の頭をせっせと拭きながら、上手くいかずに文句を言う。が、そこでふと、あることに気づき―――2人は同時に、手を止めた。

 「―――…」
 自分で自分の頭を拭けば済む話、なのに。
 何を、やってるんだろう。自分たちは。

 「……っふ…、ふふ、」
 「くっくっく……」
 もの凄く矛盾した、馬鹿げたことをしている自分たちが、なんだか、無性に、可笑しかった。
 奏と咲夜は、こみ上げてくる笑いを堪えきれずに、思わず笑ってしまった。
 可笑しい―――可笑しくて、笑いが、止まらない。
 今までも何度か、こんな風に、奏と2人して大笑いしたことがあった。上手くいかないねぇ、と、お互いのバカさ加減に、何度も苦笑した。奏といると、咲夜は笑いが止まらなくなるし、咲夜といると、奏も笑いが止まらなくなる。2人でいると、可笑しなことが2倍になるみたいだ。
 奏も、咲夜も、いつ以来だろう、という位に、笑って笑って―――笑いくたびれたところで、やっと、笑い以外の声を出すことができた。
 「…バ…バカ、みたいだね、私たち」
 「ホント、バカみたい、だよなぁ…、オレたち」
 苦笑しながら、奏は、手にしていたタオルを放し、頬に貼りついていた咲夜の濡れた髪を、指先ではらった。
 途端―――僅かに残っていた笑いが、ピタリと、止まった。

 「……」
 頬に触れた指先は、冷たかった。
 「…冷たいね」
 雨に濡れて、冷えた指先。
 奏の肩にかかったタオルを握り締めていた手を、放す。咲夜は、頬に触れたまま離れようとしない奏の右手に、自分の手を、そっと重ねた。
 「…お前も、手、冷たい」
 「…そっか」
 一緒に、雨に濡れてきたんだもんね。
 当たり前のことに、一瞬、くすっと笑う。その笑みに誘われたみたいに、頬に触れていた奏の手は、一瞬ほころんだ咲夜の唇に移った。
 ―――冷たい。
 唇に触れた冷たさに、息を呑む。目を見張る咲夜の30センチ先で、今度は唇に触れた奏の顔が微かにほころんだ。
 「…あったかい」
 そう言って微笑む奏の髪から、雨の(しずく)が、1つ、落ちた。
 その、滴に誘われたみたいに、咲夜も、奏の唇に、触れた。
 冷たかった指先に、吐息がかかる。痺れるような熱を感じて、咲夜もまた、笑みを浮かべた。
 「あったかい―――…」
 その、互いの笑みに、誘われたのか。それとも、自分の指先を追ったのか。
 温かかった、その唇に、どちらからともなく、唇を寄せた。

 ―――…止まらない。
 さっき、笑いが止まらなかったみたいに、止まらない。

 唇を重ねながら、雨に濡れた髪を、肩を、頬を、手のひらで確かめる。
 それだけでは足りなくて、焦れたようにシャツの中に滑り込んだ手が、素肌にも触れてくる。直接肌の上を滑る手の冷たさに身を竦ませながら、背中を掻き抱く。もっと、もっと、もっと―――貪欲に、その唇を、その素肌を、確かめる。
 触れたくて―――どうしてこんなに触れたくなるのか、その理由を、唇で、指先で、手のひらで確かめる。いつもなら笑って誤魔化してしまうものを、確かめる。

 抱きしめたいという想いと、抱きしめられたいという想いが重なる、その瞬間を―――体中で、確かめる。


 ……熱い。
 あんなにも冷たかった指先が、今、火傷しそうなほど、熱い。

 狂おしいほどの想いに絡めあった指は、このまま永遠にほどけないんじゃないか、と思えるほどに―――熱かった。


***


 ありがとうございました、という店員の声を背後に聞きながら、優也は、傘立てに置いておいた長傘を引き抜いた。
 パッ、と、傘を開くと、傘に当たった雨粒の音が、バタバタと耳に響いた。
 ―――また、雨足が強くなったなぁ…。
 この分だと、明日も雨なのかもしれない―――ため息をひとつつき、優也は、雨の中歩き出した。

 日中はまだ汗ばむ日もあるとはいえ、もう既に9月も後半―――しかも、この雨。外は、思いのほか寒かった。
 急にコーンスープが飲みたくなった、と言い出したのは蓮だったが、蓮は昨日から風邪気味で、既に鼻をぐずぐずいわせていた。ちょっと買ってくる、と立ち上がる蓮を無理矢理押し戻し、優也が買い出しに出たのだが……その判断は、賢明だったと思う。この寒さの中、蓮を買い出しになど行かせたら、明日の日曜日は丸々ベッドの中で過ごさせる羽目になっていたに違いない。
 かく言う優也も、あまり深く考えずに薄着で出て来てしまったため、下手をすれば風邪をひいてしまいそうだ。ぶるっ、と身震いをした優也は、体を温める意味も兼ねて、それまでより若干歩く速度を速めた。
 既に日付も変わった時刻の住宅街は、雨のせいもあり、通りかかる人の姿は全くなかった。コンビニの袋をガサガサいわせながら、早足でアパートに戻った優也だったが。

 ―――…あれ…?
 アパートのエントランスまで、あと3メートル。
 そこで、あることに気づき―――足を、止めた。

 アパートの前に、誰かが、立っていた。
 つい10分前、アパートを出た時には、そこには誰もいなかったと思う。どうやら、優也がコンビニに行っている間に、ここに来たらしい。
 服装から見て、明らかに女の子―――なのに、彼女は、傘を持っていなかった。ずぶ濡れのまま、アパートのエントランスの前に、俯いて立っていた。

 誰だろう、とか、あんな風に立ってたら風邪ひいちゃうよ、とか、色々思うべきことは、あった筈だ。なのに、優也の頭には、何も浮かんでこなかった。ただ―――突如現れた不可思議な人影を、呆然と眺めていた。
 そんな優也の視線に、気づいたのだろうか。彼女の肩が、ピクリと動いた。
 「……」
 ゆっくりと、振り向いた、その顔は―――まるでお人形のように、綺麗で、愛らしかった。
 ―――こんな綺麗な女の子…見たこと、ない。
 生きて動いているのが不思議なほどの彼女の姿に、優也は、一瞬息をするのも、瞬きをするのも忘れた。
 そして、彼女の頬が濡れているのが、雨のせいばかりではないことに気づき―――心臓が、ドキン、と鳴った。
 「…あ…」
 あの、キミは。
 思わず、声をかけそうになった、その時。優也の方を見ていた彼女の目が、スイ、とあらぬ方向へと逸らされた。
 再びうな垂れた彼女は、一度、手の甲で涙を拭ったようだった。そして、踵を返すと、雨の中を駅の方へと歩き出した。

 ―――…幻…?
 いや、まさか。
 じゃあ、誰だったんだろう―――…?

 雨の中、遠ざかっていく彼女の背中に、優也は、何故か声をかけることができなかった。


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