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「綺麗だったわねぇ、恵美子ちゃんの白無垢姿」
「…そーね」
うっとりしたような母のセリフに、由香理は凄まじいまでの棒読みで応えた。
東京の喧騒とは対極にある、のどかな夜の風景。同じ「町中」なのに、なんでこう聞こえてくる音も目に入る景色も違うんだろう? 車の台数が少ないとか、そもそも人口が少ないとか、そんなことよりまず―――この時間に開いてる店が少ない。その決定的差が、一番の原因かもしれない。
―――まだ、8時前なのにね。
この町では、「夜」の定義が、東京とは異なっているらしい。
父の運転する自家用車の後部座席に、由香理は、不貞腐れた表情で乗っかっていた。
長期休暇でもないのに、由香理が地元に戻ってきた理由は、ただ1つ。従姉妹の結婚式に出席するためだ。
隣に座る母も、前の助手席に座る兄も、そして別の車で帰宅途中の姉家族も、全員参加。「私1人抜けたっていいじゃない」と抵抗した由香理だったが、「増田さんとこの洋子ちゃんも帰ってくるのよ。中国行ってる孝雄君だって戻ってくるし」と他の親族を次々に引き合いに出され、もう反論するのも面倒になった。こんなイベントに金をかけるのもアホらしいので、持っている服の中から適当にフォーマルな服を選び、渋々出席した。
そして、思った。
今時、こんなバブル全盛期みたいな結婚式やる奴、まだいたんだ、と。
―――大体、ドライアイスなんて今時、アイドル歌手だって使わないでしょ!? センス悪ーっ! 相合傘さして『瀬戸の花嫁』で新郎新婦登場って、いつの時代の話よ!? ゴンドラに乗って天井から登場しなかった分まだマシだけど、21世紀にあり得ないわよ、あんな結婚式っ!
もう、突っ込みどころ満載で、笑えるどころか、寒かった。その場で全部ぶちまけてしまいたかったが、他の親戚もすぐ隣にいて綺麗ねぇ、豪華だねぇ、大事な娘さんだからお金を目いっぱいかけたんだねぇ、と感心されてしまい、迂闊なことは口に出せなかった。
よって、今。由香理の中にあるのは、貴重な休日を返せ、という恨みと、文句を飲み込み続けた数時間のうちに溜まった、大量のフラストレーションのみである。
「それで由香理、この前送ったお見合い写真の人、どう思う? 凄くいい人なんだけど」
―――ほら、きた。
うんざり。絶対来るだろうと予想していた母のセリフに、由香理は大きなため息をついた。
「…だから。結婚相手の斡旋は結構です、って何度も言ってるでしょ? 相手は自分で見つけるの。親に押し付けられた相手なんて、上手くいきっこないんだから」
「あら、そう言うけど、うちだってお見合い結婚よ? ねえ、お父さん」
「そうだぞ。34年間、大した問題もなく、仲良くやってきたよなぁ」
運転席の父が満足そうに答える。その横の助手席で、兄が「げえ、熟年のノロケなんて、だせぇ」という顔をしたが、安全運転第一の父と、兄の真後ろに座っている母には、その顔が見えなかったらしい。
「結婚というのは、単なる好き嫌いじゃないからな。親族問題とか生活の問題―――条件、てもんが必ずつきまとう。お前だって、いくら見た目が良くて性格もいい男でも、無職じゃあ結婚はできないだろう?」
「……」
「それに、結婚の意志の有無の問題もある。最近の若い奴は、結婚して妻子に給料搾り取られるなんて嫌だ、稼いだ金は自分のためだけに使いたい、なんて言って、平然と独身宣言するような輩もいるらしいぞ」
「その点、お見合いは確実よねぇ。結婚したいからお見合い相手を探してるんだし、身上書付、紹介者付で、条件も全部オープンになっているもの」
「…なんか、カタログ販売みたい」
両親の言い分にボソリと呟きつつ、暗い嘲笑が胸の中に湧く。そのカタログ販売みたいなことを大っぴらに宣言していたのは、ほかでもない、自分じゃないか、と。
「とにかく、カタログ販売だって、型落ち商品はどんどん売れ残っていくのよ。由香理は型落ち寸前なんですからね。真面目に考えなさい」
母の釘を刺すような言い草に、さすがに由香理の顔が険しくなる。
「失礼ねっ。まだ27になったばっかりなのに、何が型落ちよっ」
「今日結婚した恵美子ちゃんは、25歳よ? 由香理の同級生だって、みんな結婚してるでしょ」
「何言ってるのよ、そんな訳ないじゃないっ。勝手な憶測で物事言わないでよね。同級生で結婚してるのなんて、せいぜい半分止まりよ。詩織だって結婚してないし」
どうせ、じゃあ結婚してない人の名前を挙げてみなさいよ、と言われるだろうと思い、先回りして詩織の名を出す。すると母は、どういう意味合いなのか判断し難いため息をついた。
「詩織ちゃん、ねぇ…。あの子は特別な才能のある子みたいだから、結婚してなくても、まあ何も言われないんじゃないの? ご両親にも」
「……」
「上手くできてるもんで、結婚できない人には、1人で生きていけるだけの能力が与えられてるもんなのよね。あの子って、言っちゃ悪いけど、その…女性としては、ねぇ?」
「……」
「その点、由香理は見た目にも恵まれて生まれてるんだから」
「それに由香理は、女としての幸せを犠牲にしてまで没頭しなきゃならんような仕事をしてる訳でもないだろう? 普通のOLさんなら、寿退社は花道じゃないか」
母の言葉に付け加え、父がとどめを刺す。
この1分後、まだ駅まで距離があるというのに由香理が車を降りたのは、言うまでもない。
***
「カタログ販売、は、まあ言いすぎだけど」
そう言ってコーヒーを一口飲むと、智恵はカタン、とコーヒーカップを置き、軽く首を傾けた。
「あながち、間違いでもないんじゃない、お父さんの意見も」
「…それは、わかってるわよ」
食欲のない由香理は、まだランチを食べ終えていない。気が乗らない様子で運んだフォークは、レタスを弄ぶばかりで、一向にそれを口に運ぼうとはしない。
「結婚を前提とした交際相手を見つけるなら、お見合いが一番、確実で失敗がない―――反論の余地、ないわよ。恋愛にこだわらなければ、本当のことだもの」
「じゃ、何が不満なの」
「何、って…」
「結婚願望が強い、でも現在相手なし、その上新たな相手を見つける行動も全く起こしていない―――最近の由香理って、こんな感じでしょ? いきなり常識的な女になっちゃって、付き合いやすくはなったけど、観察する醍醐味がなくなっちゃったわよ」
「しっつれーねぇ」
観察だなんて、まるで人を朝顔かメダカのように言う智恵を、軽く睨む。けれど、由香理に睨まれた当人は、まるで涼しい顔だ。
「でも、真面目な話……そろそろ、考えたら? 新しい相手」
「……」
「…まだ、忘れられない訳? 樋口係長のこと」
智恵が口にした名前に、チクン、と胸が痛む。
やっぱり、智恵には話さない方が良かったのかもしれない―――堪えきれず樋口の件を智恵に語ってしまったことを、由香理は少し、後悔していた。
樋口―――たった数ヶ月、由香理の人生に関わっただけの人。
ずっと2階に住んでいたのに、そのことにも気づかず、気づいた後も、プライベートでの関わりなんて一度もなかった。会社で顔を合わせ、時々話しかけられ、その僅かな会話の中で、由香理に多くのことを教えてくれた人―――由香理が、生まれて初めて、本気で好きになった人。
好きになった、と気づいたと同時に、想いを告げる間すらなく散ってしまった、刹那の恋だった。
あれから、4ヶ月以上―――樋口の結婚式は、とうの昔に済んでいる。今頃は地元の会社で新しい仕事を始めているに違いない。由香理の方も、時々樋口の顔をはっきりとは思い出せないことがあり、思わず苦笑する。ああ……私は、あの人の見た目なんて、どうでもよかったんだな。外見じゃなく、中身に―――彼の人間性そのものに、恋をしていたんだな、と。
そんな自分に気づいて、動けなくなる。
キリをつけた筈なのに、顔も忘れかけようとしているのに―――彼にもらった言葉、彼が見せてくれた僅かな笑みの暖かな色……そんなものが、いつまでも心の大半を占めていて、動けなくなる。
「…動き出さないと、いけないとは思うんだけどね」
ついにフォークを置いてしまい、由香理はテーブルに頬杖をついた。
「樋口さん住んでた部屋にも、新しい人がもう住んでるし―――新しい係長も来て、樋口さんが書いた書類を目にすることもなくなって、私の周りから樋口さんに繋がるものなんて、なーんにもなくなっちゃったのに……なんで、こんなに引きずるんだろ。自分でも、よくわかんないのよ」
「まあ…、それだけ、真剣に愛しちゃったってことでしょうよ」
サラリと智恵が言った言葉に、由香理は驚いて、目を見張った。
「う…わ、智恵の口から、“愛”なんて単語が出てくるなんて」
「なーんだって? 失礼はどっちよ、全く。…でも、真剣な話、そこまで引きずるんなら、ちょっと環境変えてみるのも手かもねぇ」
「環境?」
「手っ取り早い手として、引っ越してみるとかさ」
「それはイヤ」
露骨に嫌な顔をして、由香理は智恵の提案を拒否した。ほとんど反射的に。
「へーえ…、しょぼいアパートだ、とか、1階ならもうちょい安くして欲しい、とか、散々文句言ってたのに、一体どういう心境の変化?」
「…色々あるのよ。とにかくイヤ。引越しってお金かかるし、当分ごめんだわ」
「ま、いいけど…。やっぱり、一番いいのは、新しい真剣な恋愛をすることよねぇ。たまにはコンパとか出てみたら? 最近じゃあれこれ言う奴もいないようだし」
―――確かに、いないわよ。他にターゲットが登場したもんね。
最近、社内のその筋のネタ元は、今年秘書課に入った、したたかなお嬢様が中心となっている。見た目は清楚だが、中身は相当腹黒いらしく、女性陣からは総バッシングだ。由香理も彼女を好きではないが、バッシング仲間になるのも嫌なので、冷めた目で外から見ている。
人間って、つくづく、醜い。
もしかしたら最近の由香理は、ちょっとばかり、人間不信なのかもしれない―――自分自身を含めた「人間」という動物に、由香理は少し疲れていた。
***
呼び鈴を鳴らして暫く待つ間、由香理は、意味もなく落ち着かない気分だった。
「はぁい」
「あ…、隣の、友永ですけど」
ドア1枚隔てた気配が、にわかに慌て出す。ほどなく、ガチャガチャと音がして、ドアが開いた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
顔を出した優也は、ニコリと微笑む由香理に、焦った様子ながら嬉しそうな笑みを見せた。以前のように真っ赤になることは少なくなったが、相変わらず、見ているこっちもくすぐったくなるような反応だ。
「これ、よかったら食べて」
由香理はそう言って、紙袋を優也に渡した。何だろう、という顔をする優也に、由香理はちょっと苦笑を見せた。
「昨日、従姉妹の結婚式に出て、引き出物でもらったの。バウムクーヘン。同じものを実家でも持たせられたから、1つ食べてもらえると助かるのよね」
「あ、そうなんですか…。じゃあ、いただきます」
甘いものが結構好きな優也は、それまでとは微妙に異なった意味合いでの「嬉しそうな笑顔」になり、ぺこりと由香理に頭を下げた。末っ子の由香理には弟も妹もいないが、もしいたらこんな感じなのかな、と、つい笑ってしまう。
が、その笑いも、優也の後ろから顔を覗かせた人物に気づいた途端、引っ込んだ。
何の用事で誰が訪ねてきたんだ、という顔で、ひょいと顔を見せたのは、優也の親友・蓮だった。
「……」
「あ、そうだ。この前友永さんからお裾分けしてもらった佃煮のタッパー、あと一口で空になるんです。ちょうどいいから、ちょっと待っててもらえますか?」
自分を挟んで流れる奇妙な空気にも気づかず、優也はそう言うと、バウムクーヘンの袋を蓮に渡し、キッチンへとぱたぱた走って行った。どうやら、残った一口を食べてしまって、タッパーを洗って返すつもりらしい。せいぜい5分程度だろう、と由香理は大人しく待つことにした。
けれど―――残されたのは、この顔ぶれ。
「…こんばんは」
袋を抱えた蓮の方が、先に軽く頭を下げる。
由香理の方も、幾分の気まずさを抱えつつも、「こんばんは」と返した。
蓮と顔を合わせるのは、そう珍しいことでもない。彼は1階の廊下の端にバイクを置いているので、頻繁に由香理の部屋の前を通る。それに優也の友達だから、一緒にミルクパンの世話をしていたり、優也の部屋を訪れたりして、その姿をチラリと見かけることは時々あった。
でも、こうして1対1、ちゃんとした形で顔を合わせるのは、多分、あれ以来。
夏休み中の、日曜日。優也に煮物のお裾分けを持って行った後、硬い表情で由香理を呼び止めた、蓮の声―――親友の純情を心配し、由香理に思わせぶりな態度はやめろ、と言った蓮は、由香理の本音に触れて、失礼なことを言って悪かった、と頭を下げた。
あの出来事で、由香理はなんとなく、蓮を苦手に思うようになった。といっても、由香理を悪く思い文句を言ってきたから、ではない。
「…前から、言おうと思ってたんだけど、」
優也が戻ってくるまでの間がもたず、由香理は、たまたま目に入った物を話題にすることにした。
「バイク、どっか駐輪場とか借りないの?」
「え?」
「変でしょ、廊下にバイク置いとくって」
「…ああ、」
短く相槌を打った蓮は、場のもたなさを誤魔化すみたいに、うなじの辺りを掻いた。
「近場に信用できそうなとこ、ないんで」
「ふうん…」
「それが、何か」
「別に。ただ、104に人が入ったら、どうするのかと思って」
「…その時はまた、考えますけど」
「…そう」
会話、終了。
―――ああ、なんか、居心地悪い。
再び横たわってしまった沈黙に、由香理の眉が軽くひそめられる。
歓迎会の時の話では、蓮は優也の同期生……ということは、優也より1つ年上なだけ、である。けれど、優也は「男の子」という感じがするのに、蓮は、妙に落ち着いていて、威圧感があって―――なんというか、「男」という感じだ。
しかも、このファッション。最初見た時は「こんなのと付き合ったら、優也君がスレちゃうじゃないの」と好ましく思わなかった由香理だが、とんでもない。蓮は、もの凄く礼儀正しい。しつけの行き届いている優也のような礼儀正しさじゃなく、どちらかというと、体育会系な礼儀正しさ―――武道とか剣道とかをやっていそうな、妙に硬派な折り目の正しさを持っている。
そう。外見が一瞬軟派な癖に、中身がもの凄い硬派、なのだ。そこが、話し難い。いっそ中身も軟派であってくれた方が、まだ話しやすいというものだ。
やり難いなぁ、と少し苛立った由香理は、ふと、前回釘を刺されたのが今日と同じ「お裾分け」が原因だったのを思い出し、逸らしていた目を蓮に向けた。
「あの、言っとくけど―――今日のも、深い意味、ないから」
「…え?」
「本当に2本もらったから、お裾分けしただけよ。変な意味がある訳じゃないから、もうお説教はナシね」
一瞬、由香理の言葉にキョトンとした様子だった蓮だが、そこに含まれた意味を理解し、申し訳程度の笑みを口元のみに浮かべた。
「ええ。前回聞いて、納得してますから」
「……」
…ほら。やり難い。
「すみません、待たせちゃって」
そこに、ちょうど優也が、綺麗に洗い上げたタッパーを持ってやって来た。
「何かに入れた方が良かったかな…」
「いいわよ。隣だし、このままで」
まだ僅かに水滴の残るタッパーを優也から受け取った由香理は、じゃあね、と2人に挨拶し、優也の部屋のドアを閉めた。
―――悪い子じゃないのは、わかってるんだけどなぁ…。
たったあれだけの会話に、やたら気を遣ってしまった。はぁ、とため息をついた由香理は、踵を返し、自分の部屋に戻ろうとした。
そして、そこで初めて、階段の下に立ち止まってこちらを見ている人物に気がついた。
「……あ、」
「ああ、なんだ、友永さんか」
仕事帰りらしい奏が、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、無造作にそこに立っていた。
「後姿じゃわかんなかった。優也んとこに女が来てるなんて珍しいー、と思ったけど、友永さんなら納得」
「な…、なによ、納得って」
変な意味合いでもあるんじゃないか、とちょっと身構える由香理に、奏は不思議そうな顔をして、当然のように言った。
「何、って……姉ちゃんが弟の世話焼きたがってるようなもんでしょ」
「……」
「あー、ねむ…。おやすみ」
それ以上の意味は、本当になかったらしい。ひらひらと手を振った奏は、ふああぁ、と盛大にあくびをしながら、2階へと上がっていってしまった。
―――あの人も、見た目と中身のギャップが激しいのよねぇ…。
寒気がするほど整った顔が大口開けてあくびをするのを見て、蓮とはまた別種類のやり難さを感じた由香理は、なんとも複雑な顔をした。
部屋に戻り、ベッドに仰向けに倒れこんだ由香理は、暫しそのまま、ぼんやり天井を見上げた。
静かだ―――音が、何もしない。
隣の部屋では、優也と蓮が一緒にあのバウムクーヘンを食べているのかもしれない。最近、反対隣のマリリンの姿はあまり見かけない。もしかしたら仕事に追われて、季節が夏から秋に変わりつつあるのにも気づいてなかったりして…。斜め上の木戸は、朝、通勤時間が被ることがあり、目が合えばあの大きな声で挨拶をしてくる。今頃は筋トレの真っ最中だろうか。頭上の住人・奏は、さっきの様子だと、帰宅した途端バタンキューかもしれない。いや…もしかしたら、部屋には咲夜も居て、今にも眠りそうな奏に文句を言いつつ、遅い夕飯でも食べているだろうか。
―――…不思議…。
なんだか、こうしていると、ホッとする。
いつからだろう? そう…、多分、詩織と仲直りをした、あの頃からだろう―――樋口の気配など、もうどこにも感じられない筈の、この小さなアパートが、今の由香理にとっては一番安心できる場所になっている。
蓮の歓迎会で、咲夜はここを『Home Sweet Home』と歌ったが……由香理にとっても、そうだ。
理由なんて、ない。
ただ…由香理は、ここを離れられなくなっていた。
***
「ねっ? お願い」
「…はあ…」
目の前で手を合わせる営業補佐を一瞥し、由香理の眉が、僅かに歪む。
「秘書課の女の子が、急病で欠席になっちゃったのよ。あたしの友達だから、あたしが代役を調達してこい、なんて言われたけど、他に頼める人いなくて―――友永さんなら、何度かコンパで一緒してるから、大丈夫かな、って」
「…他のメンツって、どうなってるの?」
「んーと、男性は営業と企画。女性は営業補佐と秘書課と資材からちょっとずつ、って感じ? 友永さん来てくれれば、更に総務1名で、合計14名。まあ、秘書課の引き立て役になっちゃうのは、あたしもわかってるんだけど…」
「…そうねぇ…」
要するに、社内コンパのお誘いである。
ここ半年、頑ななまでにこの手の誘いを断ってきた由香理である。理由は簡単、そこに出席する女性陣の大半が、由香理を元々煙たがっていた連中―――由香理の不幸な噂を耳にして、バカにしてやりたくてウズウズしている連中だからだ。
それ以外にも、まあ…はっきりと言葉にはできないが、なんとなくこういう下心丸出しな集まりに対して、ネガティブなイメージが由香理の中にこびりついている、というのもある。とにかく、由香理はあまり乗り気にはなれなかった。
「ねー、お願いっ。同期のよしみで、協力してよ」
「……」
『やっぱり、一番いいのは、新しい真剣な恋愛をすることよねぇ。たまにはコンパとか出てみたら? 最近じゃあれこれ言う奴もいないようだし』
何日か前の智恵のセリフを思い出す。
―――そう…よね。何も行動を起こさないから、余計に樋口さんから気持ちが離れないのよね。
もう9月も後半―――いい加減、気持ちを切り替えないとまずい。考えた末、由香理は笑顔を作り、彼女の誘いを承諾した。
…ところが。
「はいはい皆さん、ビールは行き渡りましたかー? では、カンパーイ!」
乾杯の掛け声が、あちこちから賑やかに上がる。
そんな中、微妙にテンションの低い人物が、14人中2名。
「……」
ビールの入ったグラスに口をつけ、チラリと目を上げた由香理は、向かいの席に座る男と目が合ってしまい、早くも出席したことを後悔した。
―――聞いてないわよっ。真田さんが出てるなんてっ。
向かいに座る真田にしても、由香理の参加は寝耳に水だろう。店で由香理の姿を見つけた瞬間の、彼のギョッとしたような、思い切り素の表情―――直後、それが苦虫を噛み潰すような渋い表情に変わったが、多分、由香理の方も同じ反応だったと思う。
真田。由香理を弄び、由香理の自尊心をズタズタに傷つけた男。けれど、その天狗の鼻がへし折られる事態に陥り、一時は社内の噂話の格好の餌食にされてしまった男。
女性関係にまつわる嘲笑や無責任な噂は、夏に入った辺りから、次第に影を潜め、やがて消えた。下世話なネタを提供してくれるキャラクターというのは結構いるもので、資材の誰やらと営業補佐の誰やらが不倫関係にあるとかないとか、そんな話題に興味がシフトしてしまったのだ。今では、由香理をあれこれ言う人間がほとんどいないのと同様に、真田のことを噂する人間もほとんどいない。
ただ、仕事に関しては―――彼の横柄な仕事のやり口が災いして、貴重な仕入先を失ってしまったダメージは、部外者の由香理が想像するより大きかったらしい。智恵から聞いた話では、信用回復に努める真田は毎日相当遅くまで残業しているのだが、そういう姿にすら、周囲の営業マンの視線は冷たいという。今更真面目ぶったってなぁ、というのが、彼らの本音らしい。
仕事に没頭しているからなのか、それとも由香理と同じ理由からか、このところ、真田にまつわる華やかな噂は、一切耳にしていない。その代わり、少し前にはあまり聞かなかった話―――ほとぼりが冷めたと見てか、また一部の連中が真田にモーションをかけ始めているらしい、との噂は、ちょくちょく耳にするようになった。
―――で、さっそくコンパに参加、って訳? 新たな餌食を見つけるために。
ぐい、とビールをあおりながら、隣の女性にそつのない笑みを返している真田の横顔を、思わず睨みつける。
もし、真田が本当に、ほとぼりも冷めたようだしそろそろ…、なんて気分で参加したのだとしたら―――幻滅だ。由香理を嘲笑した時に最低レベルに下がった真田に対する由香理の中の評価も、その後彼を襲った不幸の数々や、仕事に対して見せ始めた真摯な態度で、せっかく挽回し始めていたというのに。
「最近ご無沙汰してましたよねー、真田さんも。お仕事忙しいみたいだから仕方ないけど、たまには出てもらわないと、場が盛り上りませんよぉ」
真田の隣の女が、そんなことを言って、真田のグラスに酒を注いでいる。ハハハ、まーね、などと答える真田を見て、由香理はますます気分が悪くなった。
「うわ、友永さん、今日はペース早いねぇ」
何度か社内コンパで顔を見たことのある営業マンが、早くも空になった由香理のグラスを見て、ちょっと驚く。確かにハイペースだ。由香理は、ムカつくとピッチが上がるタイプなのだ。
でも、真田の前でそんな話をすれば、まだあの件を根に持っていると思われてしまい、面倒だ。由香理は、眉間の皺を一瞬で伸ばし、にっこりと隣の男に微笑んだ。
「ええ、まあ。もうすぐ半期決算で忙しくなるから、その前の景気づけに、と思って」
「ああ、そうか。総務ってなんでもやるから、大変だよなぁ」
「ふふ…、1つ1つは小さいですけどね。塵も積もれば山となって、結構忙しくて」
「お、今日は謙遜しないんだ。へー、やっぱ雰囲気変わったなぁ、友永さん」
何の気なしに彼の言った言葉に、密かにドキリとする。
あれほど卑下し、あってもなくても関係ない仕事、とまで自分を貶めて相手の仕事を褒めちぎっていた自分―――なのに、今、無意識のうちに答えていた。少しも卑下することなく、自然に。
実際―――ここ最近、他の部署を不必要に羨むようなことは、いつの間にかなくなっていた。それに、こうした集まりに顔を出さなくなったせいで、そもそも他部署と比較する機会そのものが、ほとんどなかった。
―――これも、樋口さんが残してくれたもの……、かな。
不覚にも、樋口を思い出してしまい、胸が微かに痛んだ。その痛みを誤魔化すように、由香理は明るく笑った。
「えー、そうですか? 自分ではそんなに変わったつもり、ないんですけど」
「いやいや、変わったって。なぁ、真田もそう思うだろ?」
あろうことか、真田に同意を求めてしまった隣の彼を、その向こうに座る営業マンが「おいっ」と小声で制する。当然ながら、由香理の顔は、不自然に引きつった。
「あ……っ、い、いや、なんでもないんだ。ハハハハハ」
同僚の指摘を受けて、彼も自分の失態に気づいたらしい。慌てふためいた様子で、自分に目を向けた真田に、誤魔化し笑いを返した。
だが、どうやら由香理と彼のやりとりを聞いてはいたらしい真田は、ふっ、と冷たい笑い方をすると、由香理を流し見、答えた。
「ああー、変わったんじゃない? 前みたいな“尽くします”っぽい優しさがなくなって、性格キツそうな女に」
「……」
おい真田っ、と、話を振ってしまった男が、小声でたしなめる。
だが、時既に遅し。お互い、狐と狸の本性を既に見せ合った間柄だ。由香理は片眉を軽く上げると、高飛車な笑みを口元に浮かべた。
「ありがとう。真田さんは、相変わらず外見“だけ”素敵ね」
「…………」
「あっ、すみません、ここにモスコミュール1つお願いします。ええと、他、追加オーダーの人、います?」
由香理と真田の周囲だけ、不自然に空気が寒い。その空気を無視した由香理の声だけが、妙に明るい。由香理と真田の会話が聞こえなかった範囲から「俺もモスコミュール!」などと声が飛び、由香理はそれらを取りまとめて店員にオーダーした。
―――やっぱり、嫌な奴…っ。
反撃はできたものの、胃の奥のムカムカが、なかなか治まらない。やっぱり出席しなきゃ良かった、と、由香理は後悔した。
***
その後、宴が進むにつれ、最初に座った席は入り乱れ、由香理の両隣の人間も2度ほど変わった。
真正面にいた真田も、意図的なのかどうかは定かではないが、1つずつ席をずれていき、いつの間にかテーブルの端っこに移動していた。長テーブルのほぼ中央に座る由香理は、自分の視界の範囲外に真田が消えてくれたことで、やっと安堵の息をつくことができた。
「おい、河原。チェンジチェンジ」
由香理の隣に座っていた男が、別の女性と話が盛り上ってきたらしく、間に入って邪魔になっていた男に席を替わるよう急かした。
河原、と呼ばれた男は、素直に求めに応じ、彼と入れ替わって、由香理の隣に移動した。さしたる興味もなく、右隣に腰を下ろした男に目を向けた由香理は、その顔を確認するや、ん? と目を少し丸くした。
「……」
―――誰、この人。
「あー、やっと隣に来れた」
男は、腰を下ろすや、大きく息を吐き出しながら、そんなセリフを口にした。キョトンとしている由香理に目を向け、微かに笑ったその顔は……やっぱり、見覚えが全くない顔だった。
「…ええと…」
困ったように眉を寄せる由香理に、彼の方も、その表情の意味を理解したらしい。背広の内ポケットから名刺入れを取り出すと、1枚名刺を抜き取り、由香理に差し出した。
「営業1課の、河原です」
確かに、差し出された名刺には、彼が名乗ったとおりの名前と所属が書かれていた。が、やはりピンと来ない。
「…もしかして、新人さん? ごめんなさい、見覚えが…」
「あー、一応、新人は新人だけど―――転職組だから、歳は友永さんと同じ、かな? 今26? 27?」
「この前、27になったところだけど」
「じゃあ、やっぱり同い年だ」
そう言って、河原は人懐こい笑みを見せた。
―――…あ。今の笑顔、ちょっと優也君に似てる。
フレームのない眼鏡のせいだろうか。河原の笑った顔に、隣人の少年との共通項を見つけ、ふわりと胸が温かくなる。なんだか、親戚とか兄弟と似た人を見つけたみたいで、初対面の緊張感が緩む。
「でも…4月からいた? 転職も含めて、一応新規採用は紹介された筈なんだけど…」
「あ、いや、7月いっぱいで前の会社辞めて、8月から。イレギュラーだったし、結構急だったから、社内報にも写真なしで載るらしいよ。同じフロア以外の人は、知らなくて当たり前じゃないかなぁ」
「ふぅん…。あ、ごめんなさい。私、友永」
「友永由香理さん、でしょ」
由香理の自己紹介を遮るように、河原が先に言う。え、と不思議そうな顔をする由香理に、河原は、内緒ごとを打ち明けるみたに、ちょっと声をひそめた。
「実はさっき、向こうの席にいた人たちに、教えてもらったんだ。あの人誰? って」
「私のことを? なんで?」
「ほら、さっき。真田さんとなんか険悪そうな言い合いしてたでしょ」
「……やだ、そっちにも聞こえてたの?」
向こうの席、と河原が視線で指し示したのは、今真田がいる辺りの席だ。そんなに大声で話していたつもりはないが、あんな場所まで聞こえてしまっていたのか、と、ちょっと焦る。
「ああ、違う違う。話の内容までは聞こえなかったし、みんな気づいてなかったから、大丈夫。僕はたまたまこっち見てて、うわ、真田さんとやりあってる子がいる、すげー、誰だろう、って注目しただけ」
「す、凄い、って……あれは、ちょっと事情が」
気まずそうに由香理が言いよどむと、河原は、あ、という顔をし、少し焦った様子でフォローを入れた。
「あ…、あー、一応……噂は、この前、別の飲み会の席で、秘書課の子たちから聞いてたよ、うん」
「…あ、そうなの」
―――あの連中、まだ人を酒の肴にしてる訳? 腹たつ…。
「名前聞いて、ああ例の話の子なんだ、って納得したけど―――理由はどうあれ、初めて見たから。真田さんにあんな冷ややかな態度とる子」
そう言うと河原は、持ってきた飲みかけのグラスを口に運びながら、くすっと笑った。
「それに、こういう下心アリアリな席で、ああいう態度取る子も初めて見たから、面白いなー、と思って、話するチャンス待ってたんだ」
「……」
こういう席では、彼女にしたいタイプの女性が注目を集めるものなのに―――絶対タブーの高飛車な態度を取った由香理に注目するとは、また変わった男もいたものだ。
「…もしかして河原君、人数合わせで参加させられたくち?」
「あはは、まあ、そんなとこ。転職したてで、まだバタバタしてるから、恋愛してる場合じゃないし」
「そりゃそうよねぇ」
「友永さんも、頭数合わせ?」
「…まあ、そんなとこ」
顔を見合わせた河原と由香理は、同じような位置づけでこの場にいる自分たちを知り、思わず苦笑いを交わした。
***
それからお開きまでの時間は、結局、河原とずっと話をしていた。
変な計算をしていない同士だからか、河原と話すのは、なんだか凄く楽だった。コンパでこんなに楽しくおしゃべりしたことって、過去にあったかな、と思うほどに。
話した内容は、会社のことがほとんど―――社員食堂のあのメニューがおいしいだの、どこそこに設置されている自販機はいつになったら修理されるのかだの、稟議書のフォーマットが古臭くていけてないだの、そんな他愛もない話ばかり。正味30分も話さないうちにお開きになってしまったので、大した話もできなかったが、こんなに楽に話せるなら、もっと早く河原と隣同士になればよかった、と由香理は思った。
飲み会が終わると、それじゃあカラオケに流れるか、といういつものパターンになった。
「真田さん、行くでしょー?」
両手に花状態で秘書課の子と資材の子に腕を絡められている真田は、甘えたような声での誘いに、苦笑いしつつもOKと答えた。
「しょうがないな。美人に左右から言われたんじゃ、断れない」
「キャー、やったぁ! ね、真田さん、今日は絶対“桜坂”歌ってね」
「真田さんが歌う福山、逸品だもんねー」
―――ああ、確かに上手いわよね、真田さんの『桜坂』。自己陶酔入りまくりで、本物よりプロっぽいくらい。
相変わらずモテモテ状態の真田に、周囲の男性陣もあまり面白くない様子だが、真田にまとわりついている女2人を他の女性陣が面白く思っていないのも同様で、自然、グループ単位でテンションを上げる形になった。
「よっしゃ、じゃあ、お前も行くな? そっちもオッケー?」
「友永さん、どうする?」
由香理を誘った同期の女子社員が、行くよね、というニュアンスを滲ませて由香理に訊ねる。が、真田が参加するのでは、さすがに気が重い。由香理はちょっと済まなそうな笑みとともに、首を振った。
「ごめん。飲みすぎたみたいで、カラオケ行ったら気分悪くなりそう。悪いけど先帰るわ」
「ああ、結構ハイペースで飲んでたもんなぁ。1人で大丈夫?」
最初に由香理の隣にいた男が、少し心配そうに訊ねる。勿論、あの一部始終を隣で見ていた彼は、由香理が中座する本当の理由を察しているだろう。由香理が「大丈夫」と答えると、そっか、とあっさり返し、引き止めるような素振りは見せなかった。
と、その時。
「あー、でも念のため、僕が駅まで送るよ」
「えっ」
そう言って名乗りを上げたのは、河原だった。
「友永さん駅まで送ったら、また戻ってくる。幹事さん、店だけ教えといて?」
「えー、いいの? 河原君」
幹事役の女子社員が、そう言いながら、チラリと由香理の方を見る。その視線の中に、やたら険のあるものを感じて、由香理の眉間に知らず皺が寄った。
「いい、いい。さ、友永さん、行こっか」
「あ…、うん。じゃ、みなさんお先に」
河原にポン、と肩を叩かれ、由香理は他のみんなに挨拶をして、その場を離れることにした。
河原と一緒に駅に向かって歩き出す時、なんの気なしに視線を向けたその先に、真田の姿があった。
さっきのことを根に持っているのか、それとも別の理由からか、由香理と河原を見送る真田の目は、幹事の子の目以上に尖っていて、冷たいものだった。由香理は、ぷい、とそっぽを向いて、その冷たい視線を振り切った。
「別に送ってくれなくても良かったのに…。面倒じゃない? 駅行って、また戻るの」
駅に向かって歩きながら、河原の横顔にそう言う。だが、当の河原は、特に浮かれている様子も、仕方なしに送っている様子もなく、ニュートラルな表情で歩いていた。
「うーん、実は僕も、結構飲みすぎちゃったから、少し歩いて酔いが覚ましたかったんだ」
「あら、酔ってたの?」
「最初に隣に座ったのが幹事やってたあの子で、妙に寄りかかってきたりお酌してきたり……なんか、落ち着かなかったんで、つい」
「ああー…」
だから、あの険のある目つきな訳ね―――幹事で河原の隣、ということは、最初からこの飲み会、彼女が河原を狙って計画した部分が多少あったのだろう。河原の様子を見る限り、彼女の色仕掛けは、失敗に終わったようだが。
「営業1課はモテるから、これからも多分、大変よ」
「そうかぁ…。飲み会自体は結構好きなんだけど、ああいう、あからさまなのは勘弁して欲しいよなぁ」
困ったな、とため息をつく河原は、どことなくユーモラスで、同い年というより年下みたいだ。思わず由香理がくすくす笑うと、河原は面白くなさそうな顔で由香理を流し見た。
「笑い事じゃないよ。僕には理解不能。なんで営業1課ってだけでモテるの?」
「なんで、って―――…」
答えようとして。
その答えが、喉の奥に、引っかかった。
―――…それは、営業1課が、うちの会社じゃ一番のエリート部署、だから。
歴代幹部も、みんな1課の人間だった。営業1課、イコール、幹部候補生。結婚相手には最高の相手、だから。
以前の由香理からしたら、実に当たり前のこと。
けれど……今の由香理からしたら、実にバカらしいことだ。
「…まあ、なんていうか、花形部署、っていうのかしら」
本当のことを言うのは、なんだか、かつての自分の醜さを河原の前に曝け出すようで、惨めだった。結局由香理は、花形部署という曖昧な表現で、お茶を濁してしまった。
「花形、ねぇ…。まあ、大企業ならどこでも、それに近い構図はあるんだろうけど、この会社は結構露骨だよね」
由香理の気持ちを知ってか知らずか、河原はため息をつきながらそんなことを言い、それ以上、花形部署については何も触れなかった。その代わり、そう言えば幹事の子がさ、と、飲み会の間にあった笑ってしまう出来事などを、のんびりした口調で由香理に話した。
そうこうしているうちに、駅に着いた。
「電車、すぐ来る?」
「ええと……あ、大丈夫。ちょうどいいタイミングみたい」
「そう。良かった」
由香理が定期券を取り出すのを見届けた河原は、ニコリと、あの優也を彷彿させる笑みを見せた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。ごめんね、送ってもらって」
「だから、いいって。“ごめんね”禁止」
河原のセリフが可笑しくて、由香理は思わず吹き出してしまった。じゃあ、と手を振る河原に手を振り返すと、河原はくるりと踵を返し、今来た道を戻って行った。
―――なんか、変なの。
こんな風に手を振って別れるなんて、高校生以来じゃないかな。
ちょっとした、ノスタルジーだろうか。由香理は、くすぐったいような不思議な感覚を覚えながら、駅の改札を抜けた。
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